シラバス:「意識哲学から言語哲学への転回によって現代哲学が始まると考えて、主として哲学的意味論の流れを概説します。フレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタイン、クワイン、デイヴィドソン、ダメットなどを取り上げる予定です。哲学的意味論は、現代において第一哲学の位置をしめており、それにもとづいて存在論や科学論が規定されうることになります。」
参考文献
現代哲学を近代哲学からわけるメルクマールは、「言語論的転回」(linguistic turn)(グスターヴ・バーグマン)であるといわれる。それは、意識哲学から言語哲学への転回、認識論から哲学的意味論への転回ということができる。
この転回の始まりとなったのが、Fregeの仕事であった。
参考文献 12、フレーゲ『フレーゲ哲学論集』岩波書店
13、野本和幸『フレーゲの言語哲学』勁草書房
14、ダメット「フレーゲの哲学」(『真理という謎』勁草書房、所収)
「デカルトの時代からごく最近まで、哲学の第一の問は、我々が何を知ることができ、われわれが知り得たという権利要求をいかにして正当化しうるか、ということであった。そして哲学の根本問題とは、懐疑主義がどこまで論ぱく可能か、またどこまでそれが承認されねばならないか、ということであった。フレーゲは。デカルト以降、この構図を全面的に拒否した最初の哲学者であった。・・・フレーゲにとっては、論理学が哲学の起点であった。・・・他方、認識論はと言えば、それは哲学の他のどの分野にも先立ちはしない。われわれは、まず初めに認識論的研究を企てるなどということをしなくても、数学の哲学、科学哲学、形而上学、あるいはその他われわれの関心をひくいかなることでも、やってゆけるのである。」(14-47)
Gottlob Frege 1848-1925
1848.11.8Wismarヴィスマールに生まれる。父は高等女学校の校長。
1874年イエナ大学で数学の教授資格を獲得
1879年イエナ大学の員外教授となる。
1896年イエナ大学の嘱託教授となる
1917年引退
1925年7月26日、Bad Kleinen で死亡。
第一期//////////////////////////////
第1期は、『概念記法』の出版とそれを解説するために書かれた若干の短い論文をおおっている。論理体系を考案したフレーゲの意図は、数学の証明の完全な形式化にあった。
第二期//////////////////////////////
第2期は、『算術の基礎』(1884)で終わる。
「全ての算術的概念は、論理学一般に必要とされる概念によって定義でき、またすべての算術の法則は、同じく論理学一般に必要とされる原理から証明できるであろう、と。これが、後により弱められたかたちでラッセルによって支持されることになった、有名な論理主義のテーゼである。
しかし、注意しなければならないのは、フレーゲがこのテーゼを数学の全体に対して抱いたことは一度もない、ということである。かれはそれを初等算術にも解析学(実数論)にもあてはめたが、幾何学に関しては、論理学に換言することのできないア・プリオリな綜合真理にもとづく、とするカント的な見解を、抱き続けた。」(14-49)
第三期/////////////////////////////
1891 'Funktion und Begriff' 『関数と概念』
1892 ' ber Begriff und Gegenstand' 「概念と対象」
' ber Sinn und Bedeutung' 「意味と意義」
1902、6、16、第2巻の印刷中に、 ラッセル(1872-1970)はフレーゲへの手紙で「ラッセルのパラドックス」を述べる。「フレーゲは、大急ぎで包括公理を弱める工夫をこらし、それを付録におさめた。フレーゲルの死後、スタニスワ・レシニェフスキが、その修正された公理からでも矛盾が出てくることを証明した。」(14-52)
1903 Ibid. Bd.2,
第四期//////////////////////////////
「1904-1917年はまったく非創造的な期間であった」(ダメット)
第五期//////////////////////////////
1918-19 'Der Gedanke' 「思想」
'Die Verneinung' 「否定」
1923-6 'Logische Untersuchungen, dritter Teil: Gedankengef ge'
「複合思想」
「1923年、かれは、算術の基礎を論理学におくという全計画が誤りであり、クラス理論がその誤謬の核心である、と確信するようになった。集合論こそ、彼や他の人達を道に迷わせたところの知的逸脱だった、というのである。数学は、依然統一される必要があったから、幾何学が基本的な数学理論とされねばならず、解析学やさらに数論さえ、幾何学から導出されねばならないのであった。こうしてすべての数学的真理はアプリオリな綜合的真理となった。」(14-53)
(竹尾氏は、上の4期と5期を合わせて、4期としている(1-19)。)
フレーゲの『概念記法』(1879)によって、現代の記号論理学ないし数学的論理学が誕生した。「論理記号としては条件法と否定とによる命題計算の定式化、条件法の真理関数的定義、命題計算の六個の公理と分離規則、これから導かれる命題計算の定理、述語計算の記号の説明、述語計算の規則への言及、述語計算の公理」(1-18))などからなる一階述語論理の公理体系の発明である。
この仕事は、論理学の歴史に画期をもたらすだけでなく、「ラッセル、ホワイトヘッド、ヒルベルト、ブラウワ、タルスキ、ゲーデルといった巨人たちを輩出するにいたる数学基礎論という新しい分野を形成し、他方応用面では今日の人工知能をはじめとするコンピュータ・サイエンスの基礎を用意するものに他ならなかった。」(11-1)
しかし、「フレーゲは、算術を基礎づけるに足る新しい論理学を自ら構築しなければならなかったが、他方、論理体系の構築にあたり、いわば準備・予備学として、論理、言語、認識についての哲学的考察にも踏み込まざるをえなかったのである。」(11-1)
そして、この哲学的意味論が、哲学に「言語論的転回」をもたらしたのである。
野本和幸は、11でも12でも、次ぎの4点をフレーゲの意味論の特徴としてあげている。
(1)関数論的解釈意味論
(2)実在論的傾向:意義、思想の超越的実在論
(3)文脈主義的アプローチ:「文脈原理」
(4)意味と意義の区別
以下では、この4点について説明したい。
論文「意義と意味について」1892 の抜粋コメント
(引用は『フレーゲ哲学論集』岩波書店から)
<固有名の意義と意味の区別>
「相当性(同一性Gleichheit)は、対象の間の関係か、それとも、対象を表す名前あるいは記号の間の関係であるか? 私は、『概念記法』では、後者をとった。」33
その理由は、a=aとa=bの認識価値の差異である。
もし、対象の間の関係だとすると、a=aとa=bの間には差異がないことになる。
三角形の中線の交点が一致することをの例。
「今や明白なことであるが、記号には、記号によって指示されるもの・・これは記号の意味Bedeutungと呼ぶことが出来る・・のほかに、なお私が記号の意義Sinnと名付けようと思っているもの・・ここにはものの与えられ方が含まれている・・が結びついていると考えられる。・・・「宵の明星」と「明けの明星」の意味は同じであるが、意義は同じではない。」34
記号の意味Bedeutung =記号によって指示されるものdas Bezeichnete
記号の意義Sinn =ものの与えられ方が含まれているもの34
das, worin die Art des Gegebenseins enthalten ist.
たとえば、2+2と2*2は、意味(基数の4)は同じだが、意義(与えられ方)は異なる。上の中点のばあいも、明星の場合も同様である。
「脈絡から明らかなことであるが、私がここで「記号」とか「名前」とか言っているのは、固有名の代わりをする何らかの表示のことであり、かくしてその意味は特定の対象(この語は最も広い範囲にとる)であるが、決して概念や関係ではない。」35
「固有名の意義は、その固有名が属する言語あるいは表示法の全体に十分に精通しているあらゆるひとによって把握される。」35
「固有名Eigenname(語Wort 記号Zeichen・記号結合Zeichenverbindung・表現 Ausdruck)は、その意義を表現しausdrücken、その意味を意味するbedeuten、あるいは指示するbezeichnen。」39
<意義と表象の区別:意味の心像説批判>
「記号の意味および意義は、記号に結び付けられる表象とは区別されなければならない。・・・記号の意義は多くの人々の共有財産となり得るものであり、したがって個々の人間の心の部分でもなければ様態でもない。なぜなら、われわれはおそらく次のことを否定できないからである。人類には一つの世代から他の世代へと伝えられる思想の共通な蓄えがある。」37
「固有名(語・記号・記号結合・表現)は、その意義を表現し、その意味を意味する、あるいは指示する。」39
<断定文の意味と意義の区別>
「今度は断定文全体に関して、意義と意味を調べてみる。そのような文は思想を含んでいる。」40
「原注6、私が思想と言うのは、考えるという主観的な行為ではなく、多くの人々の共通の財産になり得るその客観的な内容のことである。」(62)
問題「この思想は文の意義と見なさるべきであるか、それとも意味とみなされるべきであるか」40
「まず我々は、文は意味を持つものと仮定しよう。いま文において、一つの語を、意義は異なるが同じ意味を持つ別の語で置き換えたとき、このことは文の意味に影響を与えはしない。だが、その場合に思想が代わることは分かる。なぜなら、例えば、「明けの明星は太陽によって照らし出される天体である」という文の思想は、「宵の明星は太陽によって照らし出される天体である」という文の思想とは異なるからである。・・・ だから、思想は文の意味ではありえない。それどころか、我々は思想を意義として把握しなければならないであろう。」40
「では意味についてはどうであろうか。そもそも我々は意味を問うことが出来るのであろうか。もしかすると文は全体として一つの意義を持つに過ぎず、意味は持たないのではあるまいか。」
・少なくとも意味を持たない文が存在する
「いずれにせよ、意義はもつが意味をもたない文成分が存在するのと全く同様に、そのような文が存在することは予期できるであろう。」40
「そして、意味をもたない固有名を含んでいる文が、この種の文であろう。「オデュッセウスはぐっすり眠っている間にイタケーの海岸に打ち寄せられた」という文は明らかに意義を持っている。しかし、この文の中にある「オデュッセウス」という名前が意味をもっているかどうかは疑わしいので、文全体が意味を持つかどうかも、それと共にまた疑わしい。」41
「しかしいったい何故われわれは、あらゆる固有名が意義のみならず、意味をも有することを欲するのであろうか。何故我々は思想で満足しないのか。それは真理値が我々にとって問題だからであり、またその範囲内でのことである。」41
「真理を問うときには、われわれは芸術の享受を放棄して学問的考察に取り組むのである。詩を芸術作品として受け入れる限り、たとえば「オデゥッセウス」という名前が意味を持つかいなかは我々にとってまたどうでもよいことなのである。」41
「我々は次のことを見てきた。文の構成要素の意味が問題になるときには、常に文に関して意味を求めることが出来る。そしてこれは常に、我々が真理値を問うとき、かつそのときに限って成り立つことである。
このようにしてわれわれは、文の真理値を文の意味として承認することを余儀なくされるのである。私が文の真理値というのは、文が真である状況、あるいは偽である状況 (den Umstand, das er wahr oder das er falsch ist) のことである。他に真理値はない。簡潔のために、私は一方を真、他方を偽と名付ける。」42
「真理値」は、「文が真(偽)となる状況」ではなくて、「文が真(偽)である、という状況」である。ゆえに、文は、客観的な事態(Sachverhalt)を指すのではない。
「こうして、文中の語の意味が問題になるような断定文はいずれも固有名として把握されるべきであり、しかもその意味が存在するときは、それは真か偽かのいずれかである。」42
「あらゆる判断においては、既に思想の段階から意味(客観的なもの)の段階への移行が行われているのである。」42「原注7:判断とは、私にとっては、単に思想を把握することではなく、その思想の真であることの承認である。」62
<直接話法と間接話法の意味と意義>
「文の真理値が文の意味であるという推測を詳しく検討しよう。文中の一つの表現をそれと同じ意味を持つ一つの表現によって置き換えたとき、その文の真理値は影響を受けないということを見た。しかしその際、置き換えられるべき表現自体が文であるケースは、我々はまだ考察していない。」44
「我々の見解が正しいならば、他の文を部分として含む文の真理値は、その部分文を、真理値を同じくする他の文で置き換えたとき、依然として変わらないに違いない。
これに対する例外は、文全体あるいは部分文が直接話法であるかまたは間接話法であるときに予期できる。」44
たとえばa「ガリレイは、c『それでも地球は廻っている』といった」
b「ガリレイは、d『地球は青い』といった」
cとdは同じ真理値(真)をもつ。しかし、aは真であり、bは偽である。
「なぜなら、すでに見たように、語の意味はそのような場合には通常の意味ではないからである。直接話法においては、文はまたもや一つの文を意味し、間接話法においては思想を意味する。」44
直接話法では、文は、一つの文を 意味する(指示し)
間接話法では、文は、 思想を 意味する(指示する)
「文法学者は、副文を文成分の代理物とみなし、文成分に応じて副文を名詞文、形容詞文、副詞文に分類する。この事から我々は、副文の意味は真理値ではなく、名詞や形容詞あるいは副詞の意味、要するに文成分の意味、と同種類の者であり、文成分は、意義として思想をもつのではなく、思想の部分のみをもつのである。」45
「間接話法の場合には、副文は、意味として思想を持つのであって、真理値をもつのではない。また、この副文は意義として思想をもつのではなく、「・・・という思想」という語の意義――これは複合文全体の思想の部分にすぎない――をその意義として持つのである。」45
「例えば、次の二つは真である。
「惑星の軌道は円である、とコペルニクスは信じた」
「太陽の見かけの運動は地球の自転によって引き起こされるもの
である、とコペルニクスは信じた」
しかし、第一の文の副文は偽であり、第二の文の副文は真である。
文全体が真だからと言って、副文が真であると言うことにもならないし、また偽であるということにもならない。」46
<フレーゲは、なぜ文の意味を真理値とかんがえたのか>
(野本氏の解釈)
野本氏によれば、フレーゲが、主張文の意味を真理値にもとめた理由は次の2点である。
(1)文の真理値が問題の場合、かつその場合にのみ我々は文の構成要素の意味の有無を問題にするのであり、従って文の真理値が問われる場合にのみ、我々は文の思想や意義の圏域を超えて、文の意味の圏域へ踏み込むと考えられる。したがって、フレーゲは、文の意味は真理値だと推定する。
(2)文中の語を、意義は異なるが、意味を同じくする表現で置換しても、文全体の真理値は不変である。かくて、文成分の意味の同一性に関する代入則に関連するのは、真理値であるから、真理値が文の意味であるとの推定は、代入則の検証に耐えている。13-102野本によれば、代入則を充たしている意味論値の可能的候補は、真理値以外にも複数ある。
(ダメットの解釈)
ダメットは、フレーゲが、文を関数としてとらえる立場から、文が意味をもつことを想定し、代入則をみたす唯一のものとしての真理値を文の意味として想定した、という解釈をとっている(14-1,3)。
この点で、野本の解釈とダメットの解釈は対立している。
では、われわれはどう考えるべきだろうか。なぜフレーゲは、文が、事態を指示する、と考えなかったのであろうか。(これは、宿題にします)