2000年度後期講義(科目名)「哲学史講義」 


           

§1 分析哲学の創始者 Frege (つづき

 前回の「意義と意味について」の論文では、直接話法、間説話法、以外の副文の考察が詳細に行われている。これは後の言語行為論の分析につながる興味深い箇所ですが、ここでは時間の都合上省略する。

(3)意義と思想の超越論的実在論

 ここでは、「思想」という論文から引用しつつ、説明する。

(『フレーゲ哲学論集』岩波書店、から引用し、その頁数を示す)

 この論文は、第5期の彼が、論理学を執筆し様と計画して、その最初三つの章に対応するものとして書いた三つの論文の内の最初のものである。ここでは、彼の最も基本的な存在論がしめされている。

 まず最初に、論理学の位置付けために、それが思考の法則をあつかう心理学ではないことを明確にする(論理学の心理主義批判)。

<真理の法則と思考の法則の区別>

 「真理を発見することは全ての科学の任務である。しかし、真理の法則を認識することは、論理学に属する。」99

 「真理の法則から、あることを真と見なし、考え、判断し、推論するための規則が生じる。だから、人はおそらくまた思考の法則なるものを話題にするであろう。だが、ここには、異なったものを混合する危険がある。人々はもしかすると、「思考の法則」という語を「自然法則と同じようなものと理解し、そしてその際、心的出来事としての思考の持つ一般的な特徴を念頭におくかもしれない。この意味での思考の法則は、心理学の法則であろう。」99

 「心理学と論理学の境界をあいまいにしないために私が論理学に割り当てる任務は、真とみなすこと、あるいは考えること、の法則を発見することではなく、真理の法則を発見することである。「真」という語の意味は、真理の法則の中で説明される。」100

<「真」という語の意味>

<1、真理の対応説への批判>

 「人は、真理は絵と描かれたものとの一致にある、と推測するかもしれない。一致は関係である。だが、これは「真」という語の用法に矛盾する。この語は関係語ではないし、また、あるものが別のあるものと一致するはずの、当の別のものへの示唆も含んでいない。」101

 「一致が実際に完全なものでありうるのは、一致すべきものが相等しいとき、かくして、少しも異なったものでないときに限るのである。」101

 「表象と事物を重ね合わせることは、この事物がまた表象でもあるときに可能であるに過ぎない。」101

 「何らかの点において一致が生じるなら真理は成り立つ、と定めることはできないであろうか。だが、どの点においてか。またその場合には、なにかあることが真であるかどうかを決定するためには、我々は何をしなければならないのであろうか。定められた点において――例えば表象と実在が―― 一致しているということが「真」であるかどうか、我々は調べなければならないであろう。そしてそれにより、我々は再び同じ種類の問題に直面するであろうし、ゲームが新たに始まるかもしれない。こうして、真理は一致である、と説明しようとするこの試みは失敗する。」102


<2、あらゆる定義の失敗>

「それゆえ、真理を定義しようとする他のあらゆる試みもまた失敗する。なぜなら、定義においては、幾つかの徴表が特定されようし、そして定義を特殊な場合へ適用するにあたり、これらの徴表が当てはまっているというのが、“真”であるかどうか、が常に問題になりうるからである。こうして我々は円の中をグルグル廻っているのである。したがって、「真」という語の内容はまったく独特であり、定義不可能であるように思われる。」

<文の意義=思想の分析へ>

「およそ真理が問われるものは、文の意義であることが明らかになる。では、文の意義は表象であろうか。いずれにせよ、真理は、文の意義と他の何かとの一致にあるわけではない。なんとなれば、さもないと真理への問が無限に繰り返されるであろうから。」103

「これを定義にするつもりはないが、私が思想と呼ぶものは、およそ真理が問題になりうるもののことである。だから、偽なるものも、真なるものと同様に、わたしは思想と見なす。思想は文の意義である、ただし、それと共に、あらゆる文の意義が思想であると主張するつもりはない。それ自身では、知覚できるものではない思想は、文という知覚できる衣装を身にまとい、それによってわれわれに把握できるものとなるのである。我々は言う、文は思想を表現する、と。」103

 

<文の種類の区別>

「命令文に対し、我々は意義を認めないわけではない。だが、この意義は、それについて真理が問題にしうるような種類のものではない。それゆえ、私は命令文の意義を思想とは呼ばないであろう。どうようにして、願望文、嘆願文も除くことにする。」104

「文疑問では事情は異なる。我々は「しかり」あるいは「否」という答が聞かれるものと期待する。「しかり」という答は、断定文と同じことを意味する。なぜならば、疑問文にすでに完全に含まれている思想が、この答を通して、真であると言明されるからである。それゆえわれわれは、あらゆる断定文に対し、文疑問を構成することができる。感嘆表現は、それに対応する文疑問を構成することができないので、情報の伝達と見なすことはできない。」

「疑問文と断定文は、同じ思想を含む。しかし、断定文はなおそれ以上のもの、つまり、まさしく断定を含む。疑問文もまた、それ以上のもの、つまり要求を含む。それゆえ、断定文においては二つのことが区別されねばならない。すなわち、断定文がそれに対応する文疑問と共有している内容、と断定、の二つである。

  1 ある思想を把握すること・・考えること

  2 ある思想を真と認めること・・判断すること

  3 この判断を表明すること・・断定すること

文疑問を構成するときには、我々はすでに第一の行為を遂行したのである。」105

(これにつづいて、虚構文、時制、「私」についての分析があるが、省略する)

以上は、いずれも文の意義=思想をより明確にして、その存在性格を分析するための、準備作業であった。次ぎのテーマが本論である。

<思想と内的世界と外的世界の区別>

「まだ哲学の影響を受けていない人は、自分が眼で見、手で触れることのできるもの、要するに、木や石や家のような、感官で知覚できるようなものを、まず第一に知る。そして彼は、自分自身が眼で見、手で触れるのと同じ木、同じ石を他人も同様に眼で見、手で触れることが出来ると確信している。思想がこのようなものに属さないことはあきらかである。ところで思想は、それにもかかわらず,人々に対し、木のように、同じものとしてたち現れることがありうるのだろうか。」112

「哲学的でない人でさえ、外的世界とは異なる内的世界を承認することの必要であることがまもなく分かる。内的世界というのは、感官印象の世界、自己の構想力を想像する世界、感覚の世界、感情と気分の世界、性向・願望および決断の世界である。表現を簡単にするために、決断を除いて、私はこれらを「表象」という語で包括しようと思う。112

「さて、思想はこの内的世界に属するのであろうか。思想は表象であるか。思想が決断でないことは明らかである。」

<1、表象と外的世界の区別>

「表象は外的世界の事物とどこで異なっているのであろうか。

(1)表象は眼でみることも手で触れることもできない。また、その匂いを嗅ぐことも、味わうことも、更に音を聞くこともできない。

(2)表象は我々が所有する何かである。我々は感覚・感情・気分・性向・願望を持つ。あるひとが所有する表象は、その人の意識の内容に属する。

 草原や草原にいる蛙、これらを照らす太陽などは、私がそれらを眺めているといないとにかかわらず、そこに存在している。だが、私が抱く緑についての感官印象は、私によって存立するに過ぎない。私はそれの担い手である。

(3)表象は担い手を必要とする。外的世界はこれに比べると、独立している。

 私の伴と私は、我々二人が同じ草原を見ていることを確信している。だが、我々の各々は、緑について別個の感官印象を持つ。」113

 「他人の表象をわれわれ自身の表象と比較することは、いずれにせよ、我々人間にとっては不可能である。」114

「(4)あらゆる表象は一人の担い手を持つに過ぎない。二人の人間は同じ表象をもたない。」114

(先走り過ぎだが、フレーゲは、「共感」を認めないということになるだろう。)

<思想と表象の区別>

 「さて私は、思想は表象であるか、という問に立ち返る。」115

「私がピタゴラスの定理において表現する思想が、私と同様、他の人々にとっても真と認めることができるものであるならば、その思想は私の意識の内容に属さないし、私はその意識の担い手ではない。そして、それにもかかわらず、私はその思想を真と認めることが出来るのである。」115

「しかしながら、私がピタゴラスの定理と見なすものと、誰かあるひとがピタゴラスの定理と見なすものが全く同じ思想でないならば、本当は「ピタゴラスの定理」といってはならず、むしろ「私のピタゴラスの定理」「彼のピタゴラスの定理」と言わなければならないのであり、そして、これらは異なったものであろう。なぜならば、意義は必然的に文に属するものだからである。」115

「思想は外的世界のものでもなければ表象でもない。第三の領域が承認されねばならない。」117

「思想は、それが真であるならば、今日或いは明日真であるのみならず、時間を超えて真である。」128

「思想はいかなる仕方で作用するのであろうか。把握され、かつ真と見なされることによってである。これは思考する者の内的世界における出来事であるが、この出来事は意志の領域を侵害しながら、そのほかに外的世界においても目につくほどの結果をこの内的世界において持つことがある。」129

「思想は、把握されることにより、さしあたり、把握する者の内的世界に変化を引き起こすに過ぎない。思想自体は何と言っても、その本質の核においては、このことによっては依然として手つかずである。」130