第三回講義    §1 分析哲学の創始者 Frege (つづき)


 以上のような議論だけで、思想の実在を主張するとすれば、あまり説得力がないかもしれない。

次ぎに、彼は、当然予想される観念論者からの批判に答えようとする。

<観念論からの批判について>

「しかしながら、奇妙な反論が聞こえるように思う。私が見るのと同じ物をまた他の人々も見ることが出来る、と私は何度か仮定した。だが、もしすべてが夢にすぎないとしたら、どうであろうか。・・・これらすべてが、私の意識という舞台の上で演じられた芝居に過ぎないとしたら、およそ外的世界のものが存在するかどうかは疑わしくなるであろう。」117

<互いの反転>

 フレーゲは、実在論と観念論が「互いに正反対のものに転換してしまう有様」119を述べる

・実在論→観念論

 まず、実在論者としえの感覚生理学者の存在が想定される。まず、彼は目の前の木が実在し江いると考える。それに反射した光が、視神経を刺激して、気が見えるのだと考える。しかし、重要なのは、視神経の刺激であって、それが何によって引き起こされても同じことであることにきづく。しかし「我々はさらに、一歩先へすすむことができる」120.つまり、視神経の刺激は、一つの仮説に過ぎず、「我々は本来の、表象のみを体験するのであった、その原因は体験しないのである」120「彼がそこから出発した光線、神経繊維それに神経節細胞でさえ表象に解消されるのである。かくして、彼はついには自分自身の構築物の土台を掘り崩すのである。すべては表象であろうか。すべてのものは、それなくしては存続し得ないような担い手が必要なのであろうか。私は自分自身を私の表象の担い手と見なしたことがある。だが、私は、自分自身、表象ではないのだろうか。」120

 こうして、実在論者であった感覚生理学者は、観念論者になるのである(もっとも、フレーゲは、ここで、「観念論」という言葉を使ってはいない)。

・観念論→実在論

 しかし、次ぎに見るように、すべてが表象だと考えると、逆に、実在論に戻ってしまうのである。

「もしすべてが表象であるなら、表象の担い手は存在しない。こうして私は、今や再び対立が正反対のものに転換してしまうのを体験する。表象の担い手が存在しないならば、表象も存在しない。なぜなら、表象は担い手を必要とするし、担い手が存在しなければ表象は存立し得ないからである。」121「その場合には、私が表象と名づけたものは、独立した対象である。私が私と名づけるあの対象に特別の位置を与えることには、何の根拠もないのである。」121

 表象の担い手というものがなく、すべてが表象だとすると、私も机や木などの表象のひとつであることになる。

・表象の担い手は存在する

 しかし、こんなことが可能だろうか。「体験する者がいなくて、体験と言うことがありうるだろうか。観客のいないこの芝居全体は一体なんであろうか。痛みを持つ者がいなくて、痛みというものがありうるだろうか。痛みというものには、感覚されるということが必ずついてまわるし、そして感覚されるということには、再び、感覚する者がついてまわるのである。」122

 このようにして、フレーゲは、私は私の表象ではないという。

 「私は私自身の表象ではない。そして、私が自分について何かを述べるなら、たとえば、今は痛みは感じていない、と述べるなら、私の判断は、私の意識内容でないもの、私の表象でないもの、私の表象でないもの、つまり私自身、にかかわっているのである。」122

 私の表象ではない私、表象の担い手いてとしての私とは、自然的存在者であろう。なぜなら、これは表象でも思想でもなく、残るのは自然的存在者だけだからである。

 そして、ここに他者の存在もまたその可能性を獲得するのである。

 「今や、他の人間をも表象の独立した担い手として承認し得るための道筋が開かれた。」122

 「一方、外的世界で遠足を行う際に、疑いが我々からけっして完全に消え去るわけではない。それでもやはり、蓋然性はこの際にも、おおくの場合、殆ど確実性から区別できないので、我々はあえて外的世界に実在するものについて、判断することができるのである。そしてもしはるかに大きな危険に陥ることを欲しないならば、我々は危険を犯してまでもそれを行わねばならないのである。」124

 フレーゲは、他者の存在と外的世界の実在について、その可能性が確認されたならば、それを認めることの方が、確実性が高いとかんがえ、また危険がすくない、と考える。彼は、こうして、他者と外的世界の実在を承認する。これは、厳密な基礎付けにはなっていないが、それを承認することの正当化にはなっているのかもしれない

「思想を把握するということは、把握する者や思考する者を前提している。このとき、彼は、思考の担い手ではあるが、しかし思想の担い手ではない。思想は思考する者の意識内容に属さないが、それにもかかわらず、意識における何かが思想をほのめかすにちがいない。しかし、これは思想そのものと混同されてはならない。だからアルゴル自身もまた、だれかがアルゴルについてもつ表象とはことなるのである。」126

 アルゴルの表象とアルゴル自身の関係と、思想の把握と、思想自身の関係と、同じもだといわれている。つまり、対象とその知覚の関係が、思想とその把握の関係と類似しているといわれる。

(ちなみに、アルゴルは、ペルセウス座のベーター星のこと)

 

・非感覚的なもの

 二人の人間が同じ木をみるとき、「我々がもつ視覚印象は、同じでないばかりか、相互に著しくことなったものである。しかもなお、われわれは同じ外的世界の中を動き回る。視覚印象をもつことは、なるほどものを見るためには、必要であるが、しかし充分ではない。さらに付け加えられなければならないものは、感覚的なものではない。しかも、これこそがまさに、我々のために外的世界を開示してくれるものなのである。なぜなら、この非感覚的なものがなければ、各人は自己の存在の内的世界に閉じ込められたままになるであろうから。」127

 「両方の領域(物の世界と思想の世界)を承認するためには、我われは非感覚的なものが必要である。しかし、物を感官によって知覚する際には、それに加えてやはり感官印象が必要であろう。」

<思想は時間を超越している>

「思想は変化するであろうか、それとも時間を超越しているであろうか」128

「この木は緑の葉をつけている」という思想は、現在は、真であるかもしれないが,半年後には、偽になる、というのは間違いである。なぜなら「発話の時間も思想の表現に含まれるからである。」128

・相互作用がない

「自然的な出来事のいたるところで我々が見かけるもの、すなわち相互作用が、ここには欠けているのである。思想は必ずしも非現実的なのではないが、その現実性はものそのものとは全く異質なものである。」

 時間がなければ、相互作用にかぎらず、いかなる作用もないだろう。思想の我々に対する作用と見えるものも、我々の作用であって、思想の作用ではないはずである。

「思想は、把握されることにより、さしあたり、把握する者の内的世界に変化を引き起こすに過ぎない。思想自体は何と言っても、その本質の核においては、このことによっては依然として手つかずである。」130

 問題点1(入江):このような議論は「2000年のサッカーアジアカップで、日本は優勝する」という思想の真理値は、すでに決まっている、ということになるだろうか。

 思想は変化しないが、真理値が変化することはありうると考える可能性も或るように思われる。つまり、未来の事柄についての文の真理値は、そのときがくるまでは、未規定であって、そのときになって初めて、真理値が与えられると考えることができる。

 しかし、フレーゲは、そのようには考えないだろう。なぜなら、意義(思想)は、意味(真理値)の与えられ方だからである。それとも真理値の与えられ方は、すでに決定していても、真理値は与えられていない、という場合をみとめるのだろうか? おそらく、そんなことはないだろう。

 

(4) 文脈原理と、概念と対象の区別

 

 <『基礎』における意味論>

『基礎』の三原則(序文 GLA X

(T)心理主義批判。

 心理的なものと論理的なもの、主観的なものと客観的なものとを鋭く区別すべきこと。

(U)文脈原理

 「語の意味 die Bedeutung der W rter は、文脈において im Satz-zusammenhange 問われるべきであって、 孤立してin ihrer Vereinzelung 問われてはならない。」

(V)概念 Begriff と対象 Gegenstand の区別。

<文脈原理は、心理主義批判の一つの論拠になる>

 「全体としての文が、一つの意義Sinnをもつならば、それで十分である。そのことによってまた、その諸部分もその内容を受け取るのである。」(GLA §60,71)2-43

 概念は、意味も意義も持たないが、文の意味と意義に貢献する。

 「第二原則をなおざりにすると、個々人の内的心象や行為を語の意味Bedeutungと解して、そのことにより、また第1の原則と衝突せざるをえなくなるのである。」

13-43

 「一つの語の内容が、表象不可能であるということは、その語からあらゆる意味を剥奪したり、その語の使用を締め出したりすることへの何の根拠にもならない。それが反論らしく見えるのは、我々が語を孤立させて考察し、その意味を問い、それから表象を意味と解することにより生まれるのである。それで対応する内的心象が、それに欠けていると、その語は何も内容を持っていないように見えるのである。しかしひとは、常に全文を視野の内にとらえていなければならない。文の中に置いてのみ語は、元来一つの意味Bedeutungをもつのである。その際、我々になんとなく思い浮かぶ内的心象が、判断の論理的構成要素に対応する必要はない。」(GLA §60,71)13-43


<入江:コメント1:なぜ真理値を文の意味Bedeutungだとみなすのか?>

理由1:文の意味が、事態であると見なすことは、真理の対応説をとることになるだろう。

    しかし、対応説には、フレーゲが批判するような問題点がある。

理由2:<数学は、無限を扱うが、しかし現実には無限は存在しないかもしれない。しかし、現実

    に無限なものが存在しなくても、数学は無限をあつかう数学は真である。>

    このように考えるならば、文の意味が事態であると考えることは出来ない。

問題1:真理値が、文の意味であるとするとき、真理値は、固有名の意義や、文の意義=思想、  

    と同じように、第3の領域に実在するものなのだろうか。

例えば、「彼は、明日は雨だ、といった」という間接話法の文の「明日は雨だ」の部分は、「明日は雨だ」という思想を意味bedeutenしている。つまり、第3の領域の存在者が、意味されることがありうるのである。

問題2:数学の対象2+2の対象である基数としての4もまた、第3の領域に実在するものなのだろう。

 

<入江:コメント2:思想の実在性について>

(1)普遍的共通理解を説明するために、客観的存在を主張するとすれば、そこには、知られた思想と知られていない思想の区別が生じる。すると、客観的思想と知られた主観的思想の区別が生じる。物の認識のばあいと同様の、二元論になる。もし、客観的思想とそれが知られたものが同じだとすると、イデアの分有と同じことになる。それら両方の思想が同一であることを認識するためにさらに「第三の思想」を想定することになり、「第三人間」論とおなじアポリアに陥る。

(2)思想の普遍的共通理解についての相互知識を確認することはできない。

(3)近代哲学では、思想の普遍的共通理解は、意識や理性の同形性から説明された。これは、当初は神によって同じものが与えられたと説明されただろうが、19世紀には心理主義になる。たとえば、17世紀の合理論者たちは、「本有概念」を神から与えられたものと考えたのではないだろうか。