第4回講義  §2 ラッセル


Bertrand Russel(1872-1970)

<年譜(邦訳『心の分析』の竹尾氏の解説による)>
1872.5.18生まれ。祖父の初代ラッセル伯爵は、2度首相を務めた自由党の有名な政治家。学校に行かずに、家庭教師に教えられる。
1874年母と姉が死亡
1890年ケンブリッジにゆく。

////////第1期(1893-1899)////////
  (こ時期は、ドイツ観念論の影響下にあった)
1895-1901年、トリニティ・カレッジの特別研究生となる。
1897年『幾何学の基礎』
1900年『ライプニッツ哲学の批判的解説』

////////第2期(1900-1910)////////
  (この時期は、数学基礎論、数理論理学の仕事に没頭)
1900年7月パリの国際哲学会議でイタリアの論理学者ペアノに出会う。
1902年、「ラッセルのパラドクス」の発見
1903年『数学の原理』(The Principles of Mathematics)出版
1905年「指示について」
1908年「タイプの理論に基づく数理論理学」
1910年ムーアとの共著『数学原理』(Principicia Matthematica)第1巻
    (第2巻、1912年、第3巻、1913年)
////////第3期(1911-1918)////////
   (この時期は、論理学の仕事から、分析および綜合の方法を取りだし、
    それによって彼の知識の理論、ならびにそれと結びついた形而上学を
    発展させる仕事にとりかかる。)
1912年 この年、ウィトゲンシュタインと出会う
    『哲学の諸問題』(The problems of Philosophy)(訳『哲学入門』) 
1913年、『知識の理論』を書くが、ウィトゲンシュタイの批判にあい、出版せ
     ず。{入江:批判の一つは、私の直知だと思われる}
1914年、「外部世界はいかにして知られうるか」
     これは、『数学原理』の論理学が哲学の問題に適用できることを具体
     的に示した最初の業績であり、カルナップに影響を与える。
     センスデータへの還元主義が放棄された。
1918年「論理的原子論の哲学」『神秘主義と論理』『数理哲学序説』

////////第4期(1919-1927)////////

1921年『心の分析』
    物理学に適用された現象主義を、心理学に拡張しようとした。
    心についても、センスデータにかわって、「感覚やイメージだけからな
    る要素」が心的でも、物的でもないものとされ、それから物質や心が
    構成される。「中性的一元論」が主張される。
1924年「論理的原子論」
1927年『物質の分析』

////////第5期(1928-1959)////////
1940年『意味と真理の探求』(邦訳『言語哲学的研究』)
1948年『人間の知識』
1960年『私の哲学の発展』



<参考文献:邦訳>
『プリンキピア・マテマティカ序論』、岡本賢吾、戸田山和久、加地大介訳、哲学書房、1988年
「外部世界はいかにして知られうるか」石本新訳(『世界の名著
 ラッセル、ウィトゲンシュタイン、ホワイトヘッド』中央公論社
、1971年)
『哲学入門』生松敬三訳、角川文庫、1965年
『神秘主義と論理』江森巳之助訳、みすず書房、1995年
『数理哲学序説』平野智治訳、岩波文庫、1954年
『心の分析』竹尾治一郎訳、けいそう書房、1993年
「論理的原子論」黒崎宏訳、(『論理思想の革命』東海大学出版会、1972年)
『西洋哲学史』市井三郎訳、みすず書房、1969年
『言語哲学的研究 意味と真偽性』毛利可信訳、文化評論出版、1973年
『人間の知識』鎮目恭夫訳、みすず書房、1987年
『私の哲学の発展』野田又夫訳、みすず書房、1979年
『ラッセル自叙伝』理想社、1968-73年
エイヤー『ラッセル』吉田夏彦訳、岩波書店、1980年



       1 記述の理論:論文「表示について」をもとに

(「指示について」清水義夫訳(参考文献8に所収)からの引用抜粋)
(訳文中のdenotationを「表示」と直しました。)

「表示句」(denouting phrase)
a man, some man, any man, every man, all men, the present king of England, the present king of France,
二十世紀最初の瞬時における太陽系の質料中心、太陽をまわる地球の回転,地球を廻る太陽の回転、

「こうした句は、もっぱらその形式によって表示をしている」

表示句を3つに区別できる。
(1) いかなる対象も表示していない。「現在のフランス王」
(2) 一個の定まった対象を表示する。「現在のイギリス王」
(3) 不特定に表示する。「あるひとりのひと」

「表示についての問題は、論理学や数学においてばかりでなく、知識論においてもきわめて重要である。」

「見知り」(acquaintance)=「我々が直接表象するもの」
              例えば、「知覚の対象」
「についての知識」(knowledge about)=「表示句によって我々が到達するにすぎないもの」48
              例えば「他人の心」

<ラッセルの記述理論>
「表示句は、それ自身だけではけっしていかなる意味ももたず、それらを言語表現の一部として含んでいる命題の各々が意味をもつ、ということこそ私が主張したいと思っている表示の理論の原理である。」50

(1) 不確定記述句
 量化によって不確定記述句の説明がおこなわれる。
「all men がCである」は、「「もしxが人間であるなら、xがCであるは真である」つねに真である」
「no men がCである」は、「もしxが人間であるなら、xがCであるは偽である」つねに真である」
「a man がCである」は、「「xがCであり、かつxは人間である」は常に偽であるということは、偽である。

(2)定冠詞を含む句の解釈
「チャールズ二世の父は処刑された」は次のようになる
「xはチャールズ二世を子としてもうけたということ、およびxは処刑されたということ、そして、さらに「もしyがチャールズ二世を子としてもうけたなら、yはxと同一である」がyに関してつねに真であるということは、xに関してはつねに偽ではない。」54

「以上のべたことは、表示句を含むような命題のすべてを、そうした句を含まない形式のものへ還元することを可能にする。」

<理由>
このように考える理由は、「もし表示句がそれを言語表現の一部として含む命題の正真正銘の構成要素を表すとみなされるならば、避けられないと思われるいくつかの困難が生じてしまう」55からである。

(1)マイノングの理論への批判
 このような間違った理論の一つが、マイノングの理論である。彼は、「文法的に正しい任意の指示句は、ある対象をあらわしている」55と考える。ゆえに「現在のフランス王」「円い四角」なども対象と仮定される。これは、矛盾律に反する。フランス王は存在しかつ存在しない、ことになり、丸い四角は四角でありかつ四角でない、ことになるからである。

(2)フレーゲの理論への批判
 上の矛盾は、「フレーゲの理論によって避けられる」56フレーゲは、内包的意味(意義Sinn)と外延(意味Bedeutung)(denotation)を区別する。しかし、外延が存在しない場合がある。たとえば、「フランス王は、はげ頭である」である。 しかし、ラッセルは、この文は、無意味なのではなくて「はっきりと偽である」という。そして、「はっきりと偽である以上は、それは無意味ではない」という。
 フレーゲの解決は「フランス王」はゼロクラスを指示すると考えることである。「しかし、このような処置は、実際の論理的な誤謬に導くことはないかもしれがいが、人為的で、事態の精確な分析を与えていない」58(「ゼロクラスは、いかなる成員をもふくまないクラスであって、その成員としてすべての非実在的な個体を含むようなクラスではない。」72)
 {こような解決の問題点は、「現在のドイツ王」と「現在のフランス王」がともに、ゼロクラスを指示することになる、ということ、そうするとたとえば、「現在のドイツ王は、現在のフランス王である」という同一命題が真である、ということになってしまう、という点にあるのではないか。:入江}

(3)第一次的現れと第二次的現れの区別
「指示の二次的な現れ方は、考察されている命題の単なる構成要素となっているに過ぎない命題Pにおいてその句が現れるような現れかたとして定義され得る」68
 これに対して、「第一次的な現れ方」とは、「フランス王」がフランス王という対象を指示している語句として現れることである。

・「現在のフランス王」の場合
「「フランス王は禿頭ではない」は「フランス王」の現れ方が第一次的であれば、偽であり、それが第二次的であれば真である」70

  「現在のフランス王」の現れ方    第一次的現れ   第二次的現れ
 「現在のフランス王は禿頭である」    偽         偽
 「現在のフランス王は禿頭でない」    偽         真

・「円い四角」の場合」
「「円い四角は、円い」は「円くしかも四角であるようなただ一つのあるものxが存在し、しかもそのあるものは円い」を意味するのであり、それはマイノングが主張するように真なる命題ではなく、偽なる命題である。」71

・「最も完全な存在者」の場合
「「最も完全な存在者は、すべての完全性を持つ。存在することは、完全性である。それゆえ、最も完全な存在者は、存在する」は、つぎのようになる。
 「最も完全であるようなただ一つのあるものxが存在する。そのあるものはすべての完全性をもっている。存在することは完全性である。それゆえそのあるものは存在する」証明としては、これは、「最も完全であるようなただ一つのものxが存在する」という前提の証明を欠いており、失敗している。」71
 ちなみに、ラッセルは、神の存在の存在論的証明については、この記述理論によって批判が完成すると考えていた(参照『西洋哲学史』「カント」の章)。


<フレーゲとの比較>
入江:フレーゲの理論では、「現在のフランス王」という句は、「第一次的現れ」でのみ考察されており、「第2次的現れ」についは、考察されていない。そして、「第一次的現れ」の場合には、意味のない語句を部分に含む文は意味(真理値)をもたない(ラッセルは、偽だと考えたが)、ということになるだろう。「現在のフランス王は禿頭である」は、意味(Bedeutung)をもたない文となる。そして、フレーゲはおそらく、意味を持たない文は意義も持たない、と考えるだろうと思われる。なぜなら、意味を持たない文は、意味の与えられ方である意味をもたないだろうから。
 語句についていえば、Bedeutungをもたない語句とは、フレーゲ理論では、「関数」である。「関数」は、意義ももたず、意義を持つ文のその意義の一部を構成するだけである。おそらくは、語句とおなじように、意味をもたない文は、意義を持たないのである。なぜなら、意義とは意味(真理値)の与えられ方だからである。}

飯田氏の整理(参照2-T-187-193):
 言葉の意味が指示対象であるとすれば、次の二つは同じ文であることになる。
  「スコットは、ウィエバリーの著者である」
  「スコットは、スコットである」
フレーゲは、この二つの区別を可能にするために、意味と意義を区別した。ラッセルは、これを解決するために、「ウェイバリーの著者」は指示対象を持つ語句(フレーゲのいう「固有名」)ではないとみなした。しかし、ラッセルの理論では、次のように二つの語がどちらも固有名であるときには、この二つの文の意味を区別できなくなる。
  「ヘスペラスはフォスフォラスである」
  「ヘスペラスはヘスペラスである」
そこからラッセルは、論理的固有名の探求を始めた。その結果、普通に固有名と言われているものは、記述の省略形であるとみなされるようになった。

<今週の大問題>
死亡した人について、「xさんは、いい人だった」という文の主語は、何かを指示するのか。後のラッセルは、通常の固有名も、記述だと考える。だから、「x」=「人物であり、かつ・・・であるもの」という定義を使うと、「人物であり、かつ・・・であり、かついい人であるものが存在した」という文になるだろう。
では、そうすると、「xさんは、まだ若くてこれからというときなのに、さぞ悔しいことだろう」「xさんも、こういう死に方ができて、本望だろう」などの現在形の文の意味は,どうなるのでしょうか。後者を例に説明すると,「人物であり、かつ・・・であり、かつ、こういう死に方が出来、かつ本望であるものが存在する」となるが、そのようなものが現在存在しない以上は、この文は偽となる。我々は、このような文の意味について、どのようにかんがえるべきだろうか。「私は、xさんに申し訳ない」という文は、xさんが存在しないとき、無意味であるのか? 有意味だとすると、我々は、この文の意味をどのように考えるべきか。
<先週の大問題について>
フレーゲのいう文の意義(思想)は、意味(真理値)の与えられ方である。これは、「真理条件」とも言われる(この立場は、後に「真理条件意味論」とよばれる)。ある文(「原油は今後も値上がりする」)の意味(真理条件)を理解しても、真であるか偽であるかを知ることにはならない。したがって、文の意義(思想)(真理条件)が超時間的であるとしても、そのことは、真理値が超時間的であるということを帰結しない。このように考えられる可能性はあります。