第六回講義 §3 前期Wittgenstein


<学生からの質問>

1、「「私」が固有名ではないとは、どいうことか?」

2「「私」も「これ」も固有名でないとすれば、どうなるのか?」
 これについては、クワインについて話すときに取り上げます。

3、「他人は直知できるのでしょうか?」
 いいえ。他人(他の精神、他の肉体)は、記述によって知られるものであって、直知されません。

4、「「関係の直知」がよくわかりません。関係には、反省的な思惟が働いているのではないでしょうか?」
 机の上にパソコンがある、という上下関係を、ラッセルは知覚できると考えます。

5、「概念を直知できるのであれば、記述の理論は、不要ではないか?」
 直知されるものは、対象として存在します。ということは、概念は、対象として存在することになります。
 「黄色は、青ではない」は、「どれかをxとすると、xが黄色であって、かつ青ではない、というようなxが存在する」(ここでの「黄色」「青」は普遍概念(名詞)であって、形容詞ではない)
 記述に使用される普通名詞は、普遍概念を指示しているのではないということになるはずです。では、それはどのようなものでしょうか。
これについては、宿題にさせてください。

(次のような発言は、後には、普遍概念を直知の対象とはみなさなくなるのだとも、読めるよう思われます。
「普遍者は、知覚されるものが現れるような種類の仕方で、心の前に単一の対象として現れることはけっしてない。普遍は世界の構造の1部分であるが、しかしそれらは推論された部分であって、我々のデータの1部分ではない。」(『心の分析』276)
 「推論された部分」であるということは、「記述による知」であると読めるように思われます。)

6、「発話者が、「あれ」と発話したとしても、聞き手が考えている対象と発話者が指示する対象が別の場合もあるのではないのか。?」
 そうです。しかし、ラッセルは、コミュニケーションの成功、不成功以前の問題として、話し手が、語で対象を指示するのは、どういう場合であるかを考察しているのだとおもいます。

7、「センスデータ」について説明してください。」
 これについては、カルナップについて話すときに取り上げます。
8、「どうしたら哲学が好きになれるのでしょうか。」
 まず、理解することではないでしょうか。
9、「私は悪という概念に興味を持っているので、中立的一元論に興味があります。」
 残念ながら、物的なものと心的なものの二種類の存在者があるのではなくて、感覚がそれらの両者に共通の中立的な素材である、という主張です。

  


        §3 前期ウィトゲンシュタイン

参考文献(未完)
  『ウィトゲンシュタイン全集』大修館書店
  山本信・黒崎宏編『ウィトゲンシュタイン小辞典』大修館書店
  グレリング『ウィトゲンシュタイン』講談社選書メチエ
  エイヤー『ウィトゲンシュタイン』みすず書房

1、年譜(『ウィトゲンシュタイン小辞典』より)
1889.4.26 ウィーンに生まれ、カトリックの洗礼を受ける
1902、兄ハンスがキューバで自殺する
1903、国立高等実科学校で学ぶ
1904 兄ルーディがベルリンで自殺する
1905 ベルリンの工科大学で機械工学を学ぶ
1910-11マンチェスター大学工学研究所の研究生
1911 フレーゲがラッセルのもとで研究するように進める
10月18日にケンブリッジのラッセルにあう。
聴講生となる
1913  父が死去、巨大な財産を相続する。
1914  第一時大戦がはじまり、義勇兵として志願。
1918 手書きの『原・論考』と3組の『論考』のタイプ原稿を事実上完成する。
兄クルトが前線でピストル自殺する。
1921 『自然哲学年報』(14巻3/4号)にラッセルの序文をつけて『論考』が出版される。
1926 母死亡。
   『辞書』が出版される。
1928  ブラウワーの講演を聞く
1930  講義を始める
1933 『論考』第2版出版
1936 『哲学的探求』を書き始め§1-188を書く
1944 秋、『探求』の§189-421を書く
1951.4.29死去。

 ウィトゲンシュタインの二大主著と言われるのは、『論理哲学論考』(1921出版)と『哲学的探求』(1953出版)である。それぞれ、前期と後期の代表作と言われる。ブラウワーの講演を聴いて、再び哲学の研究を始めてから、『探求』に取りかかるまでが、過渡期(ないし中期)と呼ばれる。



2、『論理哲学論考』の概要
(邦訳『ウィトゲンシュタイン全集』第1巻、奥雅博訳)から引用。

序文
1 世界Weltとは実情Fallであることがらのすべてである。
1.1  世界は事実Tatsacheの総計Gesamtheitであって、ものDingeの総計ではない。
  1.2 世界は諸事実に分解する。
2 実情であること、即ち事実とは、諸事態の存立である。
  2.1 我々は事実の像を作る。
  2.2 像は写像の論理形式を写像されるものと共有している。
3 事実の論理像が思想である。
  3.1 命題において思想は感性的に知覚可能に表現される。
  3.2 思想の諸対象に命題記号の諸要素が対応するような具合に、思想は命題において表現可能である。
  3.3 命題のみが意義をもつ。命題という連関のなかでのみ、名は意味をもつ。
  3.4 命題は論理空間における場所を決定する。この論理的な場所の存在は、専らその構成要素の存在によって、即ち有意義な命題の存在によって、保証されている。
  3.5 適用され、思考された命題記号が、思想である。
4 思想とは有意義な命題である。
  4.1 命題は事態の存立非存立を描写する。
  4.2 命題の意義とは、命題の諸事態の存立非存立の諸可能性との一致不一致である。
  4.3 要素命題の真理可能性は、事態の存立非存立の可能性を意味している。
  4.4 命題とは、要素諸命題の真理可能性との一致不一致の表現である。
  4.5 最も一般的な命題形式を陳述することはいまや可能と思われる。即ち、何らかの記号言語による諸命題の記述を与え、その結果、名の意味が適切に選ばれるならば、可能な意義はいずれも記述に適合するシンボルで表現でき、他方記述に適合するシンボルはいずれも意義を表現できる、とすることは可能であろう。
5 命題は要素命題の真理関数である。
  5.1 真理関数は系列をなすように順序づけられる。
    このことが確率論の基礎をなす。
  5.2 諸命題の構造は相互に内的な関係にある。
  5.3 全ての命題は要素命題への真理操作の結果である。
      真理操作は、要素命題から真理関数が生じる様式・方法である。
  5.4 (フレーゲやラッセルの意味での)「論理的対象」「論理定項」は存在しないことが、ここにおいて示される。
  5.5 真理関数はいずれも要素諸命題に対しての
         (...W)(ξ,.....)
      という操作の継続的適用の結果である。
  5.6 私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。
6 真理関数の一般的形式は[   ]である。
   これは命題の一般的形式である。
  6.1 論理の命題は同語反復である。
  6.2 数学は論理的方法である。
  6.3 論理の探求は全ての合法則性の探求を意味する。そして論理の外では全てが偶然である。
  6.4 全ての命題は等価値である。
  6.5 表明できない解答に対しては、その問も表明することができない。
      謎は存在しない。
      いやしくも問を立てることができるのなら、その問に答えることもできるのである。
7 話しをするのが不可能なことについては、人は沈黙せねばならない。



(1) 写像理論

世界=諸事実の総計
   事実=諸事態の存立
      事態=諸対象の結合

言語=命題の総計
   命題=思想の表現 (事実の論理像=思想)
     =事態の存立非存立を描写する 
     =現実の像である(4.021)
     =事態の記述である(4.023)
     =状態の像である(4.032)

言語Sprache         世界 Welt
命題Satz            事実 Tatsache
要素命題Elementarsatz  事態 Sachverhalt
名Name            対象 Gegestand


「真なる命題の総体が、言語である。」(4.001)
「真なる命題の総体が、自然科学全体である。」(4.11)
「自然科学の命題以外には、・・・なにもかたってはならない。」(6.53)


(2) 真理表の提案の射程(飯田隆『言語哲学大全U』を参照)
 真理表の提案の目的は、論理定項なしにすませることである。それによって可能になることは、論理定項をみとめることは、それに対応する存在者をみとめることになるが、そのような存在者を想定しないですませることである。これによって可能になるのは、論理学および数学をトートロジーだと見なすことである。
 意味の検証理論を採用すると、論理学や数学の命題は、無意味な命題になるのであるが、それらをトートロジーだと見なすことで、それを回避するのである。