第八回講義  §3 前期Wittgenstein(続き)


(3)写像理論の説明

 以下では、宿題にしていた写像理論の説明を行うために、それに焦点を当てて、『論考』の1から3.2の要約をしたい。

      <1 世界とは実情であることがらのすべてである。>

 1では、ウィトゲンシュタインは、「世界」について説明している。
 世界とは、「実情(Fall)であることのすべて」(1)であり、「事実(Tatsache)の総計」(1.1)であり、「諸事実によって規定されている」(1.11)。したがって、また「世界は諸事実に分解する(zerfallt)。」(1.2)

 ここで理解が難しいのは、次の文章である。
 「 論理空間における諸事実が世界である。」(1.13)
この「論理空間」とは何だろうか。「物理空間」との対比で「論理空間」といわれているのだろうか。「事実」のなかには心的な事実も含まれるので、「物理空間」ではないということだろうか。そうではないようだ。では、それが「論理空間」であるとはどういうことか?論理空間に存在するもの同士の関係は、論理的な関係であるだろう。では、論理的関係とはどのような関係だろうか。これは、つぎの箇所で示唆されているように思われる。
「他のすべてのことには変化のないままで、あること(Eines)が実情であるのも可能であり、実情でないのもまた可能である」(1.21)
物理的な関係ならば、あることが実情であったり無かったりすることは、他のことが実情であったり無かったりすることと一定の関係をもつ(この一定の関係が、自然法則である)。そうではないということ、つまり、それぞれの存立が独立している、ということは、これが論理的な関係であるということなのだろう。

      <2 実情であること、即ち事実とは、諸事態の存立である。>

 2は、2.0以下の部分と2.1以下の部分に、分けることが出来る。

 2.0以下の部分では、「事実(Tatsache)」「事態(Sacheverhalt)」「対象(Gegenstand)」の関係が説明される。まず「事実とは、諸事態の存立である」(2)、そして「事態とは諸対象(事物、もの)の結合である。」(2.01)対象が与えら得ると、その結合の可能性もあたえられるので、次のように言われることになる。
「全ての対象が与えられるならば、これとともに全ての可能な事態もまた与えられている。」(2.0124)

 「対象」は、「単純であり」(2.02)「合成されていない」(2.021)といわれれる。ここで、「諸対象が、世界の実体を形成する」(2.021)といわれているが、「世界の実体」とはなにだろうか? 「仮に世界が実体を持たないとすれば、ある命題が意義を持つかいなかは、他の命題が真か否かに、依存することとなろう」(2.0211)。 ここでは、「実体」とは「客観的実在性」のことのように読める。それがなければ、真理の対応説をとることはできず、整合説をとることになる、ということであろう。「この場合、(真であれ偽であれ)世界の像を立案することが不可能になるだろう。」(2.0212)(ここが「像」と言う語の初出である)といわれる。しかし、これだけではもちろん、世界が実体を持つことの証明にはなっていない。(その証明は、この後にも見られないようにおもわれる。)
 
 さて、世界が実体をもつことと同様に、次のことも独断的に断言されている。「現実の世界とはたとえどんなに異なった思考上の世界にしても、現実の世界となにものかを、すなわち形式を、共有せねばならないことは明らかである。」(2.022)
 「世界の実体は、形式のみを決定できるのであって、実質的な性質を決定することはできない。なぜなら、実質的な性質は、諸命題によって初めて描出されるのであり、すなわち、諸対象の配置によって初めて形作られるものだからである。」(2.0231)
 (ここで、「世界の実体」とは、<世界の客観的な論理形式>であることがわかる。)
 対象が与えられても、対象の結合の仕方には多くの可能性がある。それゆえに、対象が与えられても、「対象のある結合」であるある「事態」が成立するかどうかは、決定されていない。このことが、上に言う「実質的な性質を決定することは出来ない」の意味であろう。しかし、事態の諸可能性は、与えられているだろう。この可能性を「形式」であるといえる。なぜなら、つぎのように言われているからである。「諸対象が事態において連関する様式が、事態の構造である。」(2.032)「構造の可能性が形式である。」(2.033)。
 ところで「存立する事態の総計が世界である」(2.04)が「存立する事態の総計は、どの事態が存立しないかをも決定する」(2.05) 事態の存立は、「相互に独立」(2.061)であり、「ある事態の存立ないし非存立から、他の事態の存立ないし非存立は、推論されえない」という。なぜなら、上に見たようにこれは、論理空間だからである。ところで、現実の世界では、一定の存立する事態の総計である。そこで存立する事態の間には、一定の規則を見つけることが出来だろう。それが、自然法則となるが、しかし、それは論理法則ではない。論理的には、それらの事態の成立は、独立しているのである。したがって、自然法則は、論理空間においては、偶然的なものである。
 彼は、具体的には、「空間、時間、そして色(有色性)、これらが諸対象の形式である。」(2.0251)という。つまり、諸対象は、一定の空間、時間、色をもつが、どのような値をとるかは、論理的には決定されないということであろう。(しかし、空間、時間、色、などは、すでに一定の自然法則を前提するのではないのだろうか?)

 2.1では、「事実の像」(2.1)について説明する。
 「我々が、事実の像をつくる」(2.1)と言われている。これは、どういうことだろうか。
(「我々」とは、誰のことだろうか。言葉を話す人間一般と言うことだろうか。犬もまた世界を認識するが、それは彼が事実の像を作っていると言うことになるのだろうか。)

 「像」とは、「現実のモデル」(2.12)であるといわれ、「現実」とは「事態の存立非存立」(2.06)といわれる。ゆえに像は「事態の存立非存立を表出する(vorstellen)」(2.11)ものである。「像の要素」が「対象に対応」(2.13)し、「対象を代表する(vertreten)」(2.131)。
 「像は、その要素が特定の様式で、相互にかかわり合うことにおいて、存立する」(2.14)「対象の結合」(2.01)が「事態」であったのだから、「像の要素」もまた一つの対象だとすると、像の要素の結合である「像」もまた、一つの事態であることになるだろう。それゆえに、「像は一つの事実である」(2.141)と言われる。
 (要素命題の要素は、対象に対応するだろうが、複合命題の要素は、要素命題であるから、それは事態に対応すると考えるべきであろう。つまり、像の要素は、対象であるとは限らず、事態である場合もあるということになるはずである。)
 「像の諸要素のこの連関を像の構造と称し、構造の可能性を像の写像(Abblidung)の形式と称することにしよう。」(2.15)「写像の関係(abbildende Beziehung)は、像の諸要素と諸事物(Sache)の並列(Zuordnungen)からなる。」(2.1514)
「事実は、それが像であるためには、写像されるものと何かを共有せね ばならない。」(2.16)
たとえば、空間や色という「形式」を共有すれば、写像できるのである。「空間的な像は、すべての空間的なものを写像できる、有色な像は、すべての有色なものを写像できる」(2.171)ところで、どんな像であれ、現実と必然的に共有するものがある。それは「論理形式である」(2.18) 「写像の形式が、論理形式ならば、当の像は、論理像(das logische Bild)と称される」(2.181)それゆえに、どんな像もまた「論理像でもある」(2.182)。
  「像は、論理空間における可能的状態を描出する」(2.202)
  「像が描出する(darstellen)ことが、像の意義(Sinn)であり」(2.221)
  「像の真偽は、像の意義と現実との一致不一致に存する」(2.222)
  「像の真偽を認識するためには、我々は像を現実と比較せねばならない。」(2.223)

(ここでまた、先に像を作るとされた「我々」が登場する。この我々は世界ないし論理空間の外に存在するのである。)
 ここで、彼は奇妙なことをいう。「ア・プリオリに真な像は存在しない」(2.225) どうしてだろうか。たとえば分析的な命題「pならばpである」はアプリオリに真な像ではないのだろうか?この答えは、あとで明らかにが、論理法則は、像の論理形式であって、像の内容にはならないということである。これとの関係で後で問題になる重要なことが、ここで語られている。
「像の写像形式を像は写像できない。像は写像形式を提示する(aufweisen)」(2.172)
「像は、自らの描出の形式の外側に立つことはできない」(2.174)

        <3 事実の論理像が思想である。>

 3.0以下において、彼は、「思想」について語る。
 まず「事実の論理像が思想である」(3)と言われる。ところで、事実の写像は、どのような写像であれ論理像であった。ということは、すべての写像が、思想であることになる。(つまり、言葉だけでなく、音楽の写像である楽譜は思想であり、おなじく音楽の写像であるレコードの溝は思想である。それでよいのだろうか?)
 ところで、「事実の総計」(1.1)が世界であったので、「真なる思想の総計は、世界の像である」(3.01)

3.1において、彼は「命題」について語る。
 「命題において、思想は感性的に知覚可能に表現される(ausdrucken)」(3.1) 言いかえると「命題」とは<思想の知覚可能な表現>である(楽譜もまたあんた思想の知覚可能な表現であるから、厳密には、<思想の知覚可能な表現の一種>であるだろう)。「思想を表現する記号(Zeichen)」を「命題記号(Satzzeichen)」と名づける(3.12)。「命題」とは「世界と射影関係にある命題記号」(3.12)である。
 まとめると次のようになる。
「命題」は「思想」を「表現(ausdrucken)」する
「思想」は「世界」を「写像(abbilden)」する
「命題」は「世界」を「射影(projezieren)」する


 3.2では、「命題」を分析し、「名」について説明する。
 命題は、「命題記号の諸要素」からなる。この要素を「単純記号」(3.201)ないし「名」(3.202)とよぶ。名は、対象を「意味する(bedeuten)」(3.203)あるいは「名指す(nennen)」(3.221)あるいは「代表する(vertreten)」(3.221)。対象が「名の意味(Bedeutung)」(3.203)である。

 ここでは、フレーゲの「意味(Bedeutung)」と「意義(Sinn)」とよくにた意味でこれらの語が使用されている。しかし、ウィトゲンシュタインは、名には、意味だけをみとめ意義を認めない(「命題のみが意義をもつ。命題という関連のなかでのみ、名は意味を持つ」(3.3))。また命題には、意義だけみとめ意味をみとめない、ようにおもわれる(「状態は記述できるものの、名指すことはできない」(3.144))。ウィトゲンシュタインは、「フレーゲが命題を合成された名と呼んだ」(3.143)ことを批判して、「状態は記述できるものの、名指すことはできない」(3.144)と述べている。したがって、またフレーゲが命題の意味を真理値と考えたことを批判する(4.431)。(この批判の理由が良くわからないが、しかし命題が真理値を指示するとすれば、同語反復や矛盾の命題もまた真理値を指示するだろう。そうすると、論理法則と経験的な命題の間に質的な区別がないことになる。そうすると、ウィトゲンシュタインの『論考』の理論枠組みは崩壊するだろう。)

 名の関係が、対象の関係に対応している(「命題記号における単純記号の配置に対して、状態においての諸対象の配置が対応している。」(3.21))
 複合物についての命題は、その構成要素についての命題からなる。
「複合物(Komplex)は記述によってのみ与えられる、そして記述は正しいか正しくないかのいずれかとなる。複合物について論じている命題は、当の複合物が存在しない場合、無意義(unsinnig)とはならずに、ただ偽となるのである。」(3.24)
 この文章は、複合物については、ラッセルの記述理論に従って考えていることを示している(「現在のフランス王は禿である」は無意義ではなくて、偽であった)。

 「名は定義によってそれ以上分解されない。名は原子記号(Urzeichen)である」(3.26)とあるが、ラッセルによるとこのような「名」としては、(ラッセルの言う「論理的固有名」である)「これ」や「あれ」だけでなく、たとえば「これは黄色である」と定義されるとき、の「黄色」も名であろう。「黄色」が名だとすると、名は対象を意味するのであるから、「黄色」に対応する対象、つまり普遍が存在すると言うことことになるが、ウィトゲンシュタインは、このような普遍を「対象」とかんがえるのであろうか。ウィトゲンシュタインは、「名」やそれを含む「要素命題」について、具体的に述べていない。それは、彼にとっては、まだどのようなものになるのか、判らなかったのだとおもわれる。後年の「論理形式について」(1929)という論文でも、「語やシンボルから原子命題がいかに構成されているかを理解することが、知識に関する理論の課題である。この課題は非常に困難であり、哲学はいくつかの地点でこれに取り組み始めたばかりにすぎない」(邦訳『ウィトゲンシュタイン全集』第一巻、363)とのべている。
(ウィトゲンシュタインは、「原子記号の意味は、解明(Erlauterung)によって説明されうる。解明とは原子記号を含む命題である。」(3.263)つまり、「名」の意味は、命題によって「解明」されるということである。ラッセルならば、「解明」でなく、「定義」というところであるが、なぜ「定義」といわないのだろうか?)


 写像理論の詳しい説明のためには、つぎのような諸命題の詳しい説明が必要だと思いますが、ここでは省略します。

3.5 適用され、思考された命題記号が、思想である。
4. 思想とは有意義な(sinnvoll)命題である。)
4.06 命題は、それが現実の像であることによってのみ、真か偽でありうる
 (これによると、命題が偽であるときにも、現実の像であるということになる。これは、どういうことだろうか。偽な命題も有意義であるだろう。有意義な命題は、思想を表現する。像の意義が、事態の存立非存立と一致したり,しなかったりするとき、真や偽であるのだから、命題の中の名が対象を代表しているとき、その命題は有意義なのであり、またそれは偽であっても、現実の像なのであろう。)
4.1 命題は事態の存立非存立を描写する。
4.2 命題と意義とは、命題の諸事態の存立非存立の諸可能性との一致不一致である。
4.21 最も単純な命題、要素命題は、一つの事態の存立を主張する。
4.3 要素命題の真理可能性は、事態の存立非存立の可能性を意味している。
4.4 命題とは、要素諸命題の真理可能性との一致不一致の表現である。
(4.442では、p→qという命題の真理表が示され、この真理表が「命題記号」であるといわれる。)
5 命題は要素命題の真理関数である。

以上で、写像理論の説明とします。




(4)『論考』の大枠について

<論理定項について>
「命題の可能性は、記号による対象の代表、という原理によっている。私の根本思想は、論理定項は代表機能をもたない、事実の論理は、代表され得ない、というものである。」
(4.0312)
 論理定項が何かを代表しないのは、代表されるのは、対象だけであり、論理定項に対応する対象は存在しないということであろう。(ちなみに、像の要素は、対象を代表するが、像は事実を代表するのではなくて写像する。命題の要素であるが名は、対象を代表するが、命題は事実を(代表するのではなくて)射影する。)
(「「論理的対象」は存在しない。」(4.441)

<論理の命題について>
  「論理の命題は何も語らない。(それらは分析的命題である。)」(6.11)
 論理の命題に内容があると考えることは、論理の命題を「自然科学の命題の特性」(6.111)をもつものと考えることである。
「論理の命題は、可能的経験によって反駁されうるものであってはならないだけでなく、可能的経験によって確証されうるものであってもならないのである。」(6.1222)

「命題は、それが語ることを示す。同語反復(Tautologie)と矛盾(Kontradiktion)は、それが何も語らない、ということを示す。・・・同語反復と矛盾は、意義を欠いている(sinnlos)。」(4.461)
 意義とは、思想あるいは事実の像であるから、同語反復と矛盾とは、事実を射影しないということである。
  「しかし、同語反復と矛盾とは、無意義(unsinnig)ではない」(4.4611)

<哲学について>
 「哲学的な事柄についてこれまで書かれた大抵の命題や問いは、偽なのではなく無意義(unsinnig)なのである。」(4.003)ここで例としてあがっているのは「善と美とは多少とも同一であるか否か」という問である。なぜこれは、無意義なのだろうか。なぜなら、形而上学的なことを語ろうとするときには、「命題の記号になんの意味(Bedeutung)も与えていない」(6.53)からである。
 「すべての哲学は「言語批判」である。」(4.0031) この文の意味するところは、<哲学は教説ではなくて、言語批判という活動である>ということである。なぜなら、有意義な命題はすべて、自然科学に属するからである。

<「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。」(5.6)>
「唯我論が考えている(言わんとする)ことは全く正しい。ただそのことは語られる(sagen)ことが出来ず、自らを示す(zeigen)のである。世界が私の世界であることは、唯一の言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに示されている。」(5.62)
「思考し表象する主体は存在しない」(5.631)
「主体は世界には属さない。それは世界の限界である。」(5.632)

<倫理学について>
 世界のなかにある物は、すべて「偶然的」であるので、「世界の中には、価値は存在しない」(6.41)と言われる。「価値」は必然的なものであるという主張がここで前提されている。そこで、「倫理学の命題も存在し得ない」(6.42)ということになる。もしあるとすれば、「世界の意義は、世界の外になければならない」(6.41)ということになる。(このような主張は、論理実証主義とは、はっきりと異なる点である。)
 「神秘的なのは世界がいかにあるかではなく、世界があるということなのである。」(6.44)
「神秘的なもの」は、語り得ず示されるだけである(6.522)とあるので、世界が存在することもまた示されるだけなのであろう。そうだとすれば、世界の限界としての主体の存在も示されるだけなのであろう。
 「表明できない解答にたいしては、その問いも表明することが出来ない」(6.5)「生の問題の解決を人が認めるは、この問題が消え去ることによってである。(このことが、永い懐疑の末に生の意義がある人々に明かとなったときに、彼らがこの意義をどの点に存するかを語り得なかったことの理由ではないのか)」(6.52)

<最後のなぞ>
 論考全体を理解する上で、最後から二つ目の文章が論考全体を封印する謎のようである。
「私の諸命題は、私を理解する人がそれを通り、それの上に立ち、それを乗り越えていくときに、最後にそれが無意義(unsinnig)であると認識することによって、解明の役割を果たすのである。(彼は梯子を乗り越えてしまったあとには、それをいわば投げ捨てねばならない。)」(6.54)

 この文章を解釈するときに重要になるのは、ここでいう「私の諸命題」が何を指しているのかである。これは、この文6.54の前にあるすべての文(1から6.53まで)をさすのであろうか。(おそらく、この文そのものを含んでいないとおもわれる。また序文を含んでいないとおもわれる。)
 さて、ここまでの議論をふまえるとき、彼がここまで述べてきた命題そのものが、「無意義」であると認識されるべきだろうか。
 たとえば「世界は事実の総計である」は、彼の言う有意義な命題であろうか。
「我々が事実の像をつくる」(2.1)「命題は、事実の存立非存立を描写する」という命題は、事実の存立非存立を描写しているのだろうか。
「同語反復と矛盾は意義を欠いている」(4.461)という命題は、有意義ではないだろう。なぜなら、これは事実についての命題ではないからである。しかし、意義を欠いているというべきかもしれない。
 語り得ないことについて語る命題は、無意義なのだろうか。では、「・・・は語り得ない」と語る命題は、無意義ではなく、意義を欠いていると言うべきではないだろうか。

 この最後の文6.54と序文の「この書物で伝達される思想が真理であることは不可侵で決定的である」と矛盾するといわれることがあるが、しかし、そうではない。なぜなら、「「文xは無意義である」という文は真である」と主張することは、矛盾したことではないからである。

<もう一つの謎>
「話しをするのが不可能なことについては、人は沈黙せねばならない。」(7)
 なぜ、人は無意義なことを話してはいけないだろうか。これは、倫理的な命題になっていないだろうか。