第十回講義    §5 クワイン



<参考文献>
1、 クワイン『論理的観点から』けい草書房
2、 クワイン『言葉と対象』けい草書房
3、 冨田恭彦『クワインと現代アメリカ哲学』世界思想社
4、 冨田恭彦『アメリカ言語哲学の視点』世界思想社



Willard Van Quine(1908-2000)
1908年オハイオ州アクロンに生まれる。
1926年オバーリン・カレッジに入学
1930年オーバリン・カレッジを卒業。ハーヴァード大学大学院哲学科に入学
1932年に"The Logic of Sequences: A Generalization of Principia Mathematica"によって学位を得る。
1932年秋、奨学金を得て渡欧、プラハでカルナップの『言語の論理的構文論』の講義を聞
   き、ワルシャワでタルスキその他のポーランドの論理学者を尋ねた。
1936年「規約による真理」
1937年『数理論理学の新基礎』
1940年『数理論理学』
1941年助教授になる。
戦争中は、海軍大尉として情報部に勤務。
1948年教授になる。
1953年『論理的観点から』
1960年『言葉と対象』
1963年『集合論とその論理』
1992年『真理を追って』
2000.12.25日、ボストンにて死去。



          1 論文「規約による真理」(1936)

A キャロルの批判(参照:ホフスタッター『ゲーデル・エッシャー・バッハ』)
 普通は、次の(2)(3)の命題を認める者は、そこから(1)の命題を結論するだろう。
    (3) AならばBである
    (2) Aである
(1) Bである。
しかし、もし(3)と(2)を認めるにも拘らず、(1)を認めない者に出会ったときには、その者に次の命題を認めてもらえばよい。
    (4) (2)と(3)を前提するならば、(1)が結果する
普通は、この(4)と(3)と(2)を認める者は、そこから(1)の命題を結論するだろう。しかし、もし(4)と(3)と(2)を認めるにも拘らず、(1)を認めない者に出会ったときには、その者に次の命題を認めてもらえばよい。
    (5) (2)と(3)と(4)を前提するならば、(1)が結果する
普通は、この(5)と(4)と(3)と(2)を認める者は、そこから(1)の命題を結論するだろう。しかし、もし(5)と(4)と(3)と(2)を認めるにも拘らず、(1)を認めない者に出会ったときには、その者に次の命題を認めてもらえばよい。
    (6) (2)と(3)と(4)と(5)を前提するならば、(1)が結果する
以下、同様に無限に続く。

B クワインによる規約主義批判
(飯田隆『言語哲学大全U』けい草書房 第一部、第二章「規約による真理」より引用)
 クワインの「規約による真理」(1936)に基づく。
"Truth by Convention" in "The Way of Pradox and Other Essays"

いま、次のような公理と推論規則を真の文ないし正しい推論として約定しよう。
(公理T)「Aか、あるいは、Aでない」という形の文はすべて、真である。
(推論規則T)
    AならばB
    A
故に、B
  という形の推論はすべて、正しい推論である。
(推論規則U)
    すべてFである
    故に、aはFである
  という形の推論はすべて、正しい推論である。

(ア)一般的規約から個別的規約を引き出す場合のパラドックス
    (1) 太郎の所持金は5千円以上であるか、あるいは、太郎の所持金は5       千円以上ではない。
(1)の証明を試みよう。証明されなければならないことは、次の事である。
    (2) (1)は真である。
(2)の根拠は当然、公理T「『Aか、あるいは、Aでない』という形の文はすべて、真である」に求められるべきであろう。だが、この規約を適用して、(2)に至るには、次のような推論を行わなければならない。まず、
    (3) (1)は、「Aか、あるいは、Aでない」という形の文である。
が確立される必要がある。これは、(1)を検討することで、正しいと認められるとしよう(これについては、あとで検討する)。そうすると、公理Tと(3)から、(2)を次の推論によって得ることができる。
(%)(公理T)「Aか、あるいは、Aでない」という形の文はすべて、真である。
    (3)  (1)は、「Aか、あるいは、Aでない」という形の文である。
 故に、(2)  (1)は真である。

だが、この推論の正しさは、次の推論に基づいている。
(#) FはすべてGである
    aはFである
    故に、aはGである
  という形の推論はすべて正しい。

推論(%)が推論(#)に合致しているからから、正しい推論であると言うためには、「から」が示すように、ある推論が隠されている。それには、まず次の文が前提されている。
   (4) 推論(%)は(#)という形の推論である
これは、いま正しいとしよう(これについても、あとで検討する)。
明示的に書けば、次のような推論である。
(%%)       (#)という形の推論は全て正しい。
       (4)   推論(%)は(#)という形の推論である
       結論   故に、推論(%)は正しい
では、この推論(%%)が正しいことは何によるのか。それは、結局(%%)が(#)の形の推論であるから、ということである。そして、ここにも、さっきと同様の推論、すなわち、
(%%%) (#)という形の推論は全て正しい
      推論(%%)は(#)という形の推論である
   故に、推論(%%)は正しい
が隠されている。そして、今度は、この(%%%)について、まったく同様の問題が生じ、以下、無限に続く。

 この無限背進は、決して、無害なものではない。(1)が真であることは、規約によって明示的に述べられていることではないのであるから、そのこと(=(2))は、明示的に述べられた規約から導き出されなければならない。それは、(2)を結論として持つ推論(%)によるものである。だが、この推論(%)が正しいこともまた規約によって明示的に述べられていることではない。(それは、この場合は、(%)が個別的な推論であることから、明らかである−−規約として明示的に採用されているものは、個別的推論に関するものではなく、ある共通の形をもつ推論一般に適用されるべきものである)。従って、推論(%)の正しさを明示的に述べられている規約から導き出す必要がある。よって、「推論(%)が正しい」を結論とする別の推論(%%)が必要となる。ところが、この推論(%%)も、一段階前の推論(%)と同じく、その正しさが規約によって明示的に登録されているわけではない。こうして、次には「推論(%%)が正しい」を結論とする、また別の推論(%%%)が必要となるが、ここまで来れば、どのようにしても、明示的に登録されている規約に行き着くことが不可能であること は明らかである。
 すなわち、ここに生じた無限背進が示すことは、個別的規約は一般的規約からの帰結であるといわれても、個別的規約が一般的規約からの帰結であることを我々が認知することは不可能である、ということである。

(イ)一般的規約から別の一般的規約を引き出す場合のパラドックス
 このパラドックスは、小数の公理と推論規則から論理的真理の全体を引き出すという、論理の体系化にとって本質的である。
 例えば、
(#) FはすべてGである
    aはFである
    故に、aはGである
という形の推論の妥当性の証明を試みよう。普通は次のようにして証明される。

  1 (1) FはすべてGである 仮定
  1 (2) aがFであるならば、aはGである (1)推論規則U
  3 (3) aはFである             仮定
 1,3 (4)、aはGである             (2)(3)推論規則T

 ここで(1)から(2)を導出するときに推論規則Uを適用しているが、ここでもこの適用につい先に述べたのと同じ無限背進がしょうじる。ゆえに、一般的規約から別の一般的規約を導き出す場合にも、同様の無限背進におちいる。このような事態から引き出される教訓は何だろうか。クワインは次のように言う。
 「一言で言えば、困難はこうである。論理が規約を介して進行するものであるとすれば、規約から論理を引き出すために論理が必要となるのである。」(164)

全ての必然性を規約によって説明することは、その説明が、(1)明示的に立てられる一般的規約と、そのような規約からの帰結という仕方での分類を含み、(2)規約からの帰結は規約から必然的に帰結する、と認める限り、不可能である。

 以上が、飯田隆によるクワインの議論の整理である。