第十一回講義 §5 クワイン(続き)


          2 論文「経験論の二つのドグマ」
('Two Dogmas of Empiricism')1951
          (この部分は、来週プリントを作りなおします。)
(クワイン『論理学的観点から』飯田隆訳、けい草書房 から引用)
冒頭のパラグラフ
 「現代の経験主義empiricismは、二つのドグマによって大いに条件づけられてきた。その一つは、分析的なanalytic真理、すなわち事実問題とは無関係に意味に基づく真理と、総合的なsynthetic真理、すなわち事実に基づく真理との間に、ある根本的分裂があるという信念である。もう一つのドグマは、還元主義reductionism、すなわち、有意味な言明はどれも、直接的経験を指示する名辞からの論理的構成物と同値であるという信念である。どちらのドグマにも根拠がないと私は論ずる。これらのドグマを捨て去ることの一つの結果は、あとで見るように、思弁的形而上学と自然科学とのあいだにあると考えられてきた境界がぼやけてくることである。もう一つの結果は、プラグマティズムpragmatismへの方向転換である。」(邦訳31)

 このような目論見のもとに、クワインは、まず分析的言明と綜合的言明を最初に区別したカントから出発します。
         1、分析性の背景
 「カントは、分析的言明を、その主語の属性をあらわす語が概念上すでに主語のうちに含まれているに過ぎない言明、と考えた。この定式化は2つの短所をもっている。その一つは、比喩的レベルにとどまる包含containment という概念に訴えていることである。しかし、カントの意図は、分析性を彼がどう定義したかよりも、この概念をどのように用いたか、ということから見る方がはっきりする。・・・すなわち、ある言明は、事実から独立に、意味によって真であるとき分析的である。この方向を追求しながら、前提されている意味という概念を検討して行こう。」(32)
 カントの分析的言明の定義は曖昧な部分を残しているので、「事実から独立に、意味によって真であるとき分析的である」という方向を明確にするために、まず「意味という概念」の検討に向かう。

 まず、意味と名指しの区別をつぎのように明確にします。
 「意味(meaning)は名指し(neming)と同一視されてはならないことを思い出そう。「宵の明星」と「明けの明星」というフレーゲの例、「スコット」と「『ウェーヴァーレー』の著者」というラッセルの例は、名辞が同一のものを名指しながらその意味を異にしうることを示している。意味と名指しの区別は、抽象名辞のレベルでも同様に重要である。「9」と「惑星の数」という名辞は、同一の抽象的存在者を名指しているが、意味を異にすると見なされるべきであろう。」(33)

具体的単称名辞:異なる意味と同一の名指し
        「宵の明星」と「明けの明星」 
抽象的単称名辞:異なる意味と同一の名指し
        「9」と「惑星の数」     
一般名辞:異なる内包(intention)と同一の外延(extention)
     異なる内示(connotation)と同一の表示(denotation)
    「心臓を持つ動物」と「腎臓をもつ動物」 

 このように意味の理論と指示の理論をはっきりと区別すると、意味論において、「意味」というものを想定する必要は無いことが解るといいます。
 「一旦意味の理論が指示の理論からはっきりと区別されるならば、意味の理論の主要課題が言語的形式の同義性と言明の分析性の二つだけであることは容易に気づかれる。正体不明の中間的存在者としての意味そのものは捨てられてよい。」(34)
 つまり、二つの語や文の同義性と分析性を「意味」に依拠せずに定義できれば、「意味」なるものを想定する必要はない。

 さて、そうすると「分析的言明」の考察は、「意味によって真である」を理解するために、「意味」の考察に向かい、さらにそのために、「同義性」と「分析性」の考察に向かわなければならないことになる。こうして一旦振り出しにもどることになる。
 
 さて、次にクワインは、「分析的言明」をまず次の二つの区別する。
分析的言明の二つのクラス
(1)「論理的に真である言明」(35)
   「論理的真理とは、真であり、かつ、論理的小辞以外の構成要素をどのように再     
    解釈しようとも真でありつづける言明」(35)
      「結婚していない男は、だれも結婚していない」
(2)同義語(synonym)を代入することによって、論理的真理に変えることができる言明
      「独身男はだれも結婚していない」

この第2のクラスの「分析的言明」を説明するためには、この「同義性」の概念を説明しなければならない。
                 2、 定義
・同義性を定義によって説明できないだろうか。
 「第二クラスの分析的言明は、定義という手段によって第一のクラスの分析的言明、つまり論理的真理に還元されると言えばよいと考えるひとびともいる。たとえば、「独身男」は「結婚していない男」と定義されるというのである。」(37)
 「しかし、観察された同義性の辞書編纂者による報告である<定義>を、同義性の根拠とできないことは、たしかである。」(38)
 
・定義はむしろ同義性の関係に依存している。
「形式的な分野でも非形式的な分野でも、定義――新しい記法を規約によって明示的に導入するという極端な場合を除けば――がそれに先立つ同義性の関係に依存していることがわかる。定義という概念が、同義性と分析性への鍵を提供するわけではないことがわかった以上、われわれは、同義性についてもっと詳しく検討することにし、定義については、これ以上触れないことにしよう。」(42)
       
              3、交換可能性
・同義性を交換可能性によって説明できないだろうか?
 「詳細な検討に値するひとつの自然な提案は、ふたつの言語形式の同義性とは、それらがすべての文脈で真理値を変化させることなしに交換可能であること――ライブニッツの用語でいう、真理値を変えることなき交換可能性(interchagebility salva veritate)-
にすぎないというものである。」42

・ 真理値を変えること無き「交換可能性」という概念で説明できるだろうか。
「真理値を変えることなき交換可能性(単語の内部での出現は別として)が同義性の条件として十分に強いかどうか、あるいは反対に、同義でない表現の中にもこのような仕方で交換可能なものがありうるのではないか、という問題が残っている。」43

(「我々が問題にしているのは、認知的同義性(cognitive synonymy)とでもよびうるものだけである。これが正確のところ何であるかは、現在の探求が成功裡におわったときにしか言うことができない。」43
「必要とされた種類の同義性は、同義語を同義語で置き換えたときに分析的言明が論理的真理に変わるということが成り立ちさすればよいものであった。立場を変えて、分析性を前提するならば、認知的同義性は、次のように説明されよう。「独身男」と「結婚していない男」が認知的に同義であるというのは、言明
(3) 独身男のすべて、かつ、独身男だけが、結婚していない男である。
が分析的であるということにほかならない。」44  )

・外延的言語での問題
「外延的言語においては、真理値を変えることなき交換可能性は、求められているタイプの認知的同義性を保証しない。」47
「「独身男」と「結婚していない男」の間の外延的一致が意味に基づくものであって、「心臓を持つ動物」と「腎臓をもつ動物」のあいだの外延的一致のように、単に偶然的な事実によるものではないという保証は、ここには何もないのである。」47

 「独身男が結婚していない男である」は、意味に基づいて真であり、「心臓をもつ動物が腎臓をもつ動物である」は偶然的に真である。「真理値を変えることなき交換」という概念では、この両者の区別が出来ない。
 この区別を説明するには、「意味に基づいて真」を説明しなければならず、これは「分析性」の説明を必要とする。認知的同義性の説明は、分析性(analyticity)の説明と循環する。

・同義性の説明から分析性を説明することをあきらめる。
「同義性の問題には背を向けて、もう一度分析性の問題に取り組むことにしよう」49

         4 意味論規則 Semantical Rules
・人工言語における分析性の定義を考えよう。
「日常言語において分析的言明を綜合的言明から区別することがむずかしいのは、日常言語が曖昧であることからくるのであって、明示的な<意味論的規則>を備えた精確な人工言語ではこの区別は明確であるとしばしば言われる。しかし、ここには混乱があることを、私は以下で示そう。」49

「分析性の概念は、言明と言語とのあいだの関係として考えられたものである。言明Sは、言語Lにおいて分析的であると言われ、問題は、この関係を一般的な仕方で、すなわち変項「S」と「L」にたいして、意味あるものとすることである。」50
「「S」と「L」を変項としたときの「SはLにおいて分析的である」という句に意味を与えるという問題が手に負えないことは、変項「L」の変域を人工言語に限ったとしてもかわらない。このことを明らかにしたい。」50

 「L0言明から成るK、M、Nといったクラスは、どんな目的のためであれ、また、別に目的がなくとも、いくらでも特定できる。MやNではなくて、Kが、L0における<分析的>言明のクラスであると言うことはには、何の意味があるのだろう。」51
 カルナップにとって、これは規約であった。論理法則そのものが規約であるとすると、論理法則とそれ以外の命題の区別も規約であるということになる。それは、特定の人工言語L0の内部でのみ可能になる区別である。
 「どの言明がL0において分析的であるかをいうことによって説明されるのは「L0において分析的」であって、「分析的」や「において分析的」ではない」。
  
・かくして、人工言語でも「分析性」の説明は困難である。
 「このような(分析的言明と綜合的言明との)境界線をひくことのできるこのような区別がある、ということは、経験主義の非経験的なドグマであり、形而上学的信条なのである。」55

          5 検証理論と還元主義
 以上、1で意味の概念について、2と3で認知的同義性について、3で人工言語の分析性について考察したが、これから「分析的言明」についての明確な説明を取り出すことはできなかった。さいごに検証理論が使えないかどうかをみてみよう。

・検証理論による同義性の定義
「検証理論がいうことは、二つの言明が同義であるのは、それらが経験的確証(confirmation)あるいは反証(infirmation)に関して同様であるとき、かつ、そのときに限られると言うことである。」56

「言明を単位として考える根元的還元主義は、ひとつのセンスデータ言語を特定して、その言語に属さない有意な叙述を、言明ごとにこのセンスデータ言語に翻訳する仕方を示すという課題を立てる。カルナップは、『世界の論理的構築』において、この企てに着手した。」59
 カルナップは、根元的還元主義をのちに捨てるが還元主義のドグマをもちつづける。
「還元主義のドグマは、それぞれの言明が、その仲間の諸言明から切り離してとらえられとき、とにかく験証ないしは反証が可能である、という考えの中にいきのこっている。私の反対提案は、本質的には、『世界の論理的構築』における物理世界についてのカルナップの説に由来するものであるが、次のものである。外的世界についてのわれわれの言明は、個々独立にではなく、一つの団体(a corporate body)として、感覚的経験の裁きに直面するのである。」(61)

「還元主義のドグマは、・・・もうひとつのドグマ――分析的言明と綜合的言明との間には、分裂があるというドグマ――と密接に関連している。・・・つまり、言明の確証と反証について語ることが一般に有意味であると考えられている限り、間の抜けた形で(vacuously)確証される、つまり、事実上何が起ころうとも確証されるといった極限的な種類の言明について語ることも、有意味であるようにおもわれる。そして、こうした言明が分析的なのである。」(61)
「この二つのドグマは、実際、その根においては同一である」62
「経験的有意性の単位は、科学の全体なのである。」63

          6 ドグマのない経験主義
 「地理や歴史のごくありふれた事柄から、原子物理学、さらには純粋数学や論理学に属するきわめて深遠な法則にいたるまで、われわれのいわゆる知識や信念の総体は、周縁に添ってのみ経験と接触する人工の構築物である。あるいは、別の比喩を用いれば、科学全体は、その境界条件が経験であるような力の場のようなものである。周縁部での経験との衝突は、場の内部での再調整を引き起こす。いくつかの言明に対して真理値が再配分されねばならない。ある言明の再評価は、言明間の論理的相互関連のゆえに、他の言明の再評価を伴う――論理法則は、それ自身、同じ体系のなかのもうひとうの言明、同じ場のなかのもうひとつの要素にすぎない。一つの言明が再評価されたならば、他の言明も再評価されねばならない。そうした他の言明は、はじめの言明と論理的に連関している言明であるかもしれない。だが、場全体は、その境界条件、すなわち経験によっては、きわめて不充分にしか決定されないので、対立する経験が一つでも生じたときに、どの言明を再評価すべきかについては広い選択の幅がある。どんな特定の経験も、場の内部の特定の言明と結び付けられているということはない。特定の 経験は、場全体の均衡についての考慮を介して、間接的な仕方でのみ、特定の言明と結びつくのである。」63

「私自身は、素人の物理学者として、物理的対象の存在を信じ、ホメーロスの神々の存在を信じない。また、それとは逆の信じ方をするのは、科学的に誤りであると考える。しかし、認識論的身分の点では、物理的対象と神々のあいだには程度の差があるだけであって、両者は種類を異にするのではない。」66



            3 その後のクワイン
『ことばと対象』(1960)において、クワインは、二つのテーゼを主張する。
 「翻訳の不確定性」(indeterminancy of translation)
 「指示の不可測性」(inscrutability of reference)
  (「指示の不確定性」 (indereminacy of reference))
これらは、分析と綜合の区別の批判、還元主義批判(意味の全体論)と結びついて、
ラッセルの記述理論と論理的原子論によって作られた分析哲学の初期のパラダイム(論理実証主義は、これの科学基礎論への拡張であった)を破壊する作業であったといえるのではないだろうか。