第五回講義


        第二章 クワインの「指示の不確定性」テーゼの検討
       §5 「指示の不確定性」と「翻訳の不確定性」の証明



1、 根源的翻訳における「指示の不確定性」の母国語への拡張
 「翻訳の不確定性」について、クワインは、根底的翻訳の場合だけでなく、同一言語を話す人間の間にも、同じ不確定性があることを指摘している。これは、「指示の不確定性」についても、妥当するだろう。
 クワインは、母国語の習得や使用においては、「同音翻訳法」(93)が最小されているという。つまり他者の話す「いす」を自分の話す「いす」に翻訳するということである。
 「同国人を扱って我々が有利であるのは、自動的もしくは同音的な翻訳仮説が要件を満たしていてほとんど逸脱を見せないという点である。もし我々がへそまがりであってしかも才能に恵まれていたら、その仮説を軽蔑し、新たに、可能な刺激のすべてに対するある同国人の言語的反応の性向にことごとく一致しながら、それでいて思いもよらなかった見解を彼に帰属させるような分析仮説を考案することもできよう。」122
 「異国語の根底的翻訳を通して考えてみたおかげで、様々な要因が生き生きとなったが、それらから引き出されねばならない主な教訓は、我々自身の信念が経験としっかり結びついていないということに関係している。というのは、我々自身が有している見解は、現実にはありそうもない(想像上の)冗談に登場する同国人に帰せられるような見解へと改められることも可能であろうからである。後者の見解においても、我々の現在の良識的見解にも伴うような経験との対立は別として、経験とのいかなる対立も決して結果し得ないであろう。文の根底的翻訳が言語行動の性向の全体によっては充分には決定され得ないのと同程度に、我々自身の理論も信念も、一般に、可能な感覚的証拠によって永遠に充分には決定されえないのである。」(『ことばと対象』訳122)
 (この後者の引用は、後に述べる「不充分決定性」テーゼによる「不確定性」テーゼの証明と同じ内容であると読むことができる。)



2、Putnamによる「指示の不確定性」の証明
Hilary Putnam, Reason, Truth and History, Cambridge UP., 1981
パットナム『理性・真理・歴史』野元和幸、中川大、三上勝生、金子洋之訳、法政大学出版局
 ここでは、「第二章 指示に関する一問題」からの引用によって証明の例解を説明したいと思う。
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「私は、従来の(指示の)「不確定性」の結果を、極めて強い仕方で拡張したい。どういう性質の制約であるかはさておき、ある言語のあらゆる文の真理値を、あらゆる可能世界において確定するような制約を、我々がたとえもっているとしても、やはり個々の名辞の指示は不確定なままである、と主張したいのである。」49
「文全体の真理値しか固定しない如何なる見解も、指示を固定し得ない。たとえ、その見解によって、あらゆる可能世界で文の真理値が定まるとしても、指示は固定されないのである。」49

「ここで与えるのは、証明の方法の例解だけであって、詳しい証明ではない。
 次の文について考えよう。

(1) 猫がマットの上にいる(ここで「の上にいる」とうい語は無時制である。つまり、「の上にいるか,いたか、いることになるだろうかである」という意味である。)。」49f

「ここでのアイデアは、文(1)に、
  (a)猫*がマット*の上にいる
を意味するような新しい解釈を与える、ということである。
猫*であるという性質(および、マット*であるという性質)の定義は、場合に分けて与えられ、次の三つの場合がある。
(a) ある猫があるマットの上にいて、かつ、あるカラスがある木の上にいる。
(b) ある猫があるマットの上にいて、かつ、どのカラスもどの木の上にもいない。
(c) 右のどちらでもない。
二つの性質の定義は、次のようになる。

 「猫*」の定義
 xが猫*であるのは、次の三つのいずれかであるときであり、かつそのときにかぎる。場合(a)が成り立ち、かつxはカラスである。あるいは、場合(b)が成り立ち、かつxは猫である。あるいは、場合(c)が成り立ち、かつxはカラスである。

 「マット*」の定義
 xがマット*であるのは、次の三つのいずれかであるときであり、かつそのときにかぎる。場合(a)が成り立ち、かつxは木である。あるいは、場合(b)が成り立ち、かつxはマットである。あるいは、場合(c)が成り立ち、かつxはクォークである。」51

 このとき、(a)(b)の場合には、「猫がマットの上にいる」も「猫*がマット*の上にいる」も真であり、(c)の場合には、どちらも偽である。
「あらゆる可能世界において、猫がマットの上にいるのは、猫がマットの上にいるときであり、かつそのときに限ることがわかる。」52

「次のことが帰結する。すなわち、すべての可能世界において文に「正しい」真理値を――その「正しい」真理値がどのように指定されるかにかかわりなく――割り当てるような、一つの言語の述語に対する無数の異なった解釈が、常に存在する,ということが帰結する。」52
「クワインは、『ことばと対象』で類似の結論を支持する議論をしている。…・クワインの主張しているのは、いま私の主張した点、すなわち、文全体の真理条件では指示を確定するに足りないということである。」53

<反論1>
これに対して次のような反論があるかもしれない。「猫*」や「マット*」は、「いかがわしい」性質であり、「我々の名辞は、「わけのわかる」性質に対応しているのであって、このような「おかしな」性質に対応しているのではない。猫*がおかしな性質であることを説明するために、ものを「検査」してそれが猫であるか、どうか「見分け」る「機械を組み立てる」ことはできる(人間はそのような機械である)けれども、何かが猫*であるかをどうかを見分ける機械を組み立てることはできないということを指摘する人がいるかもしれない。」53-54
<応答>
しかし「残念ながら、「見る」を(たとえば見る*と)再解釈して、
(3) ジョン(誰でもいいが)猫を見る
(4) ジョンが猫*を見る*
という二つの文があらゆる可能世界で同じ真理値をもつようにすることができる。」54

<反論2>
「猫*」「マット*」は「対象の非本来的性質」を指し示している。カラスは、猫*であるが、「しかし、もしどのカラスもどの木の上にもいなかったとしたら、たとえその本来的性質が正確に同じであっても、カラスは猫*ではない。対照的に、あるものが猫であるかどうかは、その本来的性質にのみ依存している」55

<応答>
「たとえば、「カラス*」と「木*」を定義するのに、場合(a)にあてはまる可能性かいでは、カラス*は猫であり、かつ木*はマットであるように、場合(b)にあてはまる可能世界では、カラス*はカラスであり、かつ木*は木であるように、そして、場合(c)にあてはまる可能世界では、カラス*は猫であり、かつ木*は光子であるようにすると想定せよ。そのとき、われわれは、「猫」と「マット」を「*--用語」によって次のように定義することができる。三つの場合がある。
  (a)* ある猫*があるマット*の上にいて、かつ、あるカラス*がある木*の上に
     いる。
(b)* ある猫*があるマット*の上にいて、かつ、どのカラス*もどの木*の上に
   もいない。
(c)* 右のどちらでもない。

実に奇妙なことには、これらの場合は、前の(a)、(b)、(c)を新しい記述で書いたものにすぎない。さて、定義はつぎのようになる。

 「猫」の定義
 xが猫であるのは、次の三つのいずれかであるときであり、かつそのときにかぎる。場合(a)*が成り立ち、かつxはカラス*である。あるいは、場合(b)*が成り立ち、かつxは猫*である。あるいは、場合(c)*が成り立ち、かつxはカラス*である。

 「マット」の定義
 xがマットであるのは、次の三つのいずれかであるときであり、かつそのときにかぎる。場合(a)*が成り立ち、かつxは木*である。あるいは、場合(b)*が成り立ち、かつxはマット*である。あるいは、場合(c)が成り立ち、かつxはクォーク*である。((c)*タイプの場合にクォーク*がマットとなるようにクォーク*の定義を仮定するとすれば、三つの場合すべてで、マットはマットであるということになるのに注意)。」57

「結局、「猫*」や「マット*」等などを原初的な性質とみなす言語に視点をおいてみれば、「猫」や「マット」こそが「非本来的」性質、その定義がx以外の対象に言及する性質を指示しているのである。」57
「「本来的」であるか「非本来的」であるかは、どの性質を基本的なものとするかという選択に相対的なのである。」57


 このとき、(a)(b)の場合には、「猫がマットの上にいる」も「猫*がマット*の上にいる」も真であり、(c)の場合には、どちらも偽である。
「あらゆる可能世界において、猫がマットの上にいるのは、猫がマットの上にいるときであり、かつそのときに限ることがわかる。」52

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<入れ替え関数による証明>
パットナムが「第二章、付録」で述べる証明は、「入れ替え関数」を用いた証明である。
デイヴィドソンによれば、「入れ替え関数」(permutation)による証明を最初に述べたのは、ジェフリーである(R.Jeffrey,Review of Logic, Methodology, and the Philosophy of Science)。(デイヴィドソン『真理と解釈』「指示の不可測性」訳p.242)

<レーベンハイム=スコーレムの定理による証明>
 クワインは、レーベンハイム=スコーレムの定理によって指示の不確定性を証明する。
 クワイン曰く「この言語の文の真であるものは、述語の無数の再解釈と、変項の値の領域の無数の改訂のもとで、真であり続ける。実際、同じサイズのどの領域であっても、述語を相応に再解釈すれば、間に合うようにされうる。値の領域が無限であれば、任意の無限の領域が間に合うようにされうるのである。これがスコーレム=レーヴェンハイムの定理である。真である文は、そのような全ての変更のもとで真のままである。そこでおそらく、我々の主要な関心は、名辞の指示よりも、むしろ文の真理と真理条件とにあることになろう」(クワインの論文からの孫引き)(パットナム、前掲書訳、62)


3、クワインによる「翻訳の不確定性」の証明について
(1)「理論の不十分決定性(underdetermination)」テーゼ
 クワインは、科学理論の検証可能性を批判するが、それは、可能なすべての観察の全体を手に入れることができないという批判にとどまるのではない。クワインは、我々が仮に、可能なすべての観察の全体を手にしたとしても、そこから正しい科学理論が確定できないと主張するのである。これは、クワインの「自然についてのすべての理論の不十分決定性のテーゼ」と呼ばれている。シュテークミュラーは、このテーゼを次のように定式化している。
「物理学理論(あるいは一般に、自然についての理論)は、論理的に両立することがなく、それにもかかわらず経験的に同値であり、そればかりかそれらの理論のすべてが経験的に正しい、ということがありうる。」(シュテークミュラー『現代哲学の主潮流 3』邦訳312)

クワインがこれを述べているは、次の個所であるとおもわれる。(『ことばと対象』の「第一章 言語と真理」はこのテーゼの証明を意図していたと言える)
「物理学者がなにか神託でも受けて、日常的事物に関する常識的な用語で語りうるすべての真理をたちどころにそれと認めることができたとしても、分子についてのどの言明を真とし、また偽とするかの判定は、大部分決定できぬままに残されるであろう。」(『ことばと対象』邦訳、34)
「物理学者は、漠然とではあるが科学的方法と称せられている方法によって、すなわち、日常的事物と分子とを共に扱う理論の単純性を考慮することによって、部分的にはこの判定を下す、と想像することができる。しかし、分子についての真理は、日常的事物に関する常識的な用語で語りうるすべての真理に、科学的方法といういかなる理想的研究方法を加えてみても、部分的にしか決定されないとおもわれる。というのは、一般的に、ある目的に適うもっとも単純な理論は、ただ一つとは限らないからである。」(同書、34)
「未来永遠までもの人間の感官面刺激が与えられれば、他のすべての可能な体系化以上に科学的に選りすぐれた(あるいはより単純な)なにか一個の体系化を認めることができる、ということを想定する根拠は何もないからである。むしろ対称性や双対性という理由だけからでも、無数の理論が等しく最良のものとなりそうである。科学的方法は真理への手段ではなるが、真理の唯一の定義を原理的にさえ与えるものではない。真理のいわゆるプラグマティックな定義は、どれも同様に失敗する運命にある。」(同書、37)

 複数の理論が両立不可能になる可能性を持つ、ということについては、『ことばと対象』の第一章には、明確に述べられていない。それとも、二つの異なる理論があるということは、二つの両立不可能な理論があるということと、同じことになるのだろうか。(そうだ、と言えそうに思えますが、今のところ確信が持てません。)
 このテーゼについて、クワインはとくに論証を試みているようにはみえない、このテーゼの説明で、すでに証明になっている、あるいは、とりたてて証明するまでもなく、同意が得られると考えるのだと思われる。シュテークミュラーによると、クワインは「自分のテーゼには万人が賛成してくれるものと期待している。彼によれば、意見がわかれるかもしれないとおもわれるのは、経験的データが理論に許容する自由な解釈の余地がどの程度大きいか,ということについてだけである。」(シュテークミュラー『現代哲学の主潮流 3』邦訳313)

(2)「理論の不十分決定性」テーゼによる「翻訳の不確定性」テーゼの証明
 シュテークミュラーは、「不確定性テーゼは、不十分性テーゼの上位に立つ。」(同書、356)とのべているが、それは、不確定性テーゼに基づいて、不十分性テーゼを証明できる、という主張であると思われる。
 つまり、次のようにして、不確定性テーゼにもとづいて、不十分性テーゼを証明できるのである。

「私たちの言語L'に翻訳したいと考えている外国語をLとしよう。BwをLにおける真な観察文の集合、またf(Bw)をL'におけるその正しい翻訳としよう。仮定により、LにおいてすべてのデータBwと両立する、互いに両立しない理論T1、T2、…・、Ti、…があり、またL'においてデータf(Bw)と両立する理論T1'、T2'、…・、Ti'、…がある。すると、翻訳の不確定性とは、次のことを意味する。すなわち、私たちは、一方ではLの内部で理論Tiの一個を、また他方ではL'の内部で理論Ti'の一個を、選ぶことができるが、ただそれだけではなく、その上さらに(第一のクラスの理論から選ばれた)任意のTiのおのおのを(第二のクラスの理論の)任意のTi'のおのおのに翻訳することができる、といことである。」(同書、356)

 もちろん、クワインは、「理論の不十分決定性」を『ことばと対象』の第一章で、「翻訳の不確定性」のテーゼを使用することなく証明している(すくなくとも、それを証明しようとしている)。また第二章での「翻訳の不確定性」テーゼの証明にあたっても、第一章での「理論の不十分性」のテーゼを使用しようとはしていない。この二つは、独立に証明可能であると考えられている。しかし、この二つは、上にみたように、密接な関係にある。
われわれは、シュテークミュラーの指摘とは逆方向の関係、つまり、「理論の不十分性」のテーゼに基づいて、「翻訳の不確定性」を証明することもできるかもしれない。つまり、一つの翻訳マニュアルによって、T1、T2、T3の翻訳T1’、T2’、T3’を作ったとするとき、それらの翻訳をすべてT1の翻訳であるとみなすことができるとすれば(これができそうにおもえるのだが、明確な証明が今すぐには思い付かない)、翻訳の不確定性を証明できるのである。

 ところで、シュテークミュラーによれば、クワインは「翻訳の不確定性」テーゼを証明しておらず、そえを経験的仮説として理解している、ということである(参照、同書、349)。