第七回講義


<§5の訂正>
「理論の不十分性」と「翻訳の不確定性」の関係について
 この両者は、互いに一方から他方を証明できる
<学生の質問>
幼児が指差しをするのが9ヶ月くらいからであるとして、幼児が他の人の指差しを理解するのはいつからか?


        第二章 クワインの「指示の不確定性」テーゼの検討
         §6 「指示の不確定性」と「存在論的相対性」

 ここでは、「指示の不確定性」から「存在論的相対性」テーゼが主張されていることを説明し、補足説明として彼の存在論を解説する。

1、私的言語批判と「存在論的相対性」のテーゼの説明
 クワインの論文'Ontological Relativity'(”Ontological Raltivity & other essays" Columbia UP. 1969, pp.26-68. )は、IとUからなり、Iで指示の不可測性を論じ、Uで存在論的相対性を論じている。

・ まずクワインは、根底的翻訳における指示の不可測性の問題が、母国語(home language)にもあてはまるという(46)。
「隣人の英語を、我々自身の口で同じ音の連なりと同等視しなければならない。たしかにある時には、それを同等視できないことがある。隣人のある言葉、たとえば"cool" or "squate" or "hopefully" などは、我々の個人言語 idiolect での別の音の連なりに翻訳しなければならない。翻訳の規則は、homophonic oneであるが、しかし、我々はNeil Wilson が言う"principle of charity" によって、加減する用意がある。」46

・ さらにクワインは驚くべきことに、指示の不可測性が、自分自身の言葉にも適用できると言う。否、それどころか、自分自身の言葉についての方がより適切(closer)であるというのである。"the inscrutability of reference can be brought even closer to home than the neighbor's case; we can apply it to ourselves."47
「我々は、指示の不可測性を我々自身に適用することができる。もしウサギについて指示しているのであって、ウサギの状態を指示しているのではないと自分自身について言うことが意味があるのならば、他の誰かについてそう言うことも意味があるだろう。結局、デューイが強調したように、私的言語は成立しないのである。」47

・指示は、枠組みに相対的である。
「名辞や述語や補助表現のネットワークは、我々の指示の枠組みないし指示の整合的な体系である。この指示の枠組みに対して相対的に、我々は、ウサギとその部分、数と式、について有意味に区別して語ることができる。」48
「我々は、これらの表示の雄大で巧妙な置き換えpermutationが…すべての存在する発話性向を収容するであろうことを、理解しはじめる。このことが、我々自身に適用された,指示の不可測性ということであった。このことが、指示の無意味さを作り出している。十分公正にかんがえて、指示は、整合的な体系に対して相対的に考えられるのでなければ、無意味である。」48
 つまり、語が指示するのは、語と対象の一対一の写像関係に基づくのではないということである、もしそうならば、私的な指示も可能になり、私的な言語も可能になるだろう。しかし、そうではない。指示は、「指示の枠組み」「整合的な体系」「背景言語」に相対的にのみ確定するのである。それゆえに、私的な指示は不可能になるのである。なぜなら、私的な「指示の枠組み」や「整合的な体系」は可能であるとしても、それらが有意味であるのは、さらにその「背景言語」に対して相対的にのみであり、このような背景言語の背進は、社会的な母語home languageに行き着くからである。(クワインは、このように詳説しているわけではないが、このように解釈できるだろう。)

「我々の名辞「ウサギ」「ウサギの部分」「数」などが実際にそれぞれ、ある巧妙に置きかえられた表示を指示するのではなくて、ウサギ、ウサギの部分、数などを指示しているかどうかを尋ねることは、意味がない(meaningless)。このことを絶対的に尋ねることは意味がない。我々は、ある背景言語に対して相対的にのみ、それを有意味に尋ねることができる」48
「もし我々が、『「ウサギ」は本当にウサギを指示しているのか』と尋ねるとき、ひとは、「「ウサギ」のどのような意味で、ウサギを指示しているのか」という質問を返すことができる。かくして、後退が始まる。我々は、さかのぼるべき背景言語を必要とする。背景言語は、単に相対的な意味でならば、質問の意味を提供する。意味は、今度は、これの背景言語に対して相対的である。何らかのさらに絶対的な仕方で、指示を問うことは、絶対的な位置や絶対的速度を尋ねることに似ているだろう。」49
「もちろん、実際には、我々は指差しのような何かによって、整合的な体系の背進をやめることができる。そして実際に、我々は、指示の議論において、我々の母語の習得とその言葉を額面どおりに受け取ることによって、背景言語の背進をやめるのである。」49

<指示の相対性から、存在の相対性へ>
・指示が背景言語に相対的にのみ成立するのだとすると、重要なのは語が何を指示するかではなくて、その指示が背景言語にどのように翻訳されるかであることになる。
「意味があるのは、理論の対象が何であるかを語ることではなくて、対象についてのある理論が、どのようにして他の理論に解釈可能ないし再解釈可能であるか、を語ることである。」50
「我々は、完全に解釈された理論を要求することはできない。もし何かが理論とみなされるのならば、それは相対的な意味においてだけである。」51
「理論の特定化においては、我々は、もちろん、我々自身の言葉で、完全に特定化しなければならない、つまり、どのような文が理論を包括できるのか、またどのような事物が変項の値として取られるのか、また、どのような事物が述定された文字を充足するものとみなされるのか、などが完全に特定されねばならない。その限りで我々は理論を完全に解釈するのである、ただし、我々自身の言葉に対して相対的に、また、この言葉の背後にあるわれわれの全体的な固有の理論(our overall home theory)に対して相対的にである。しかし、このことは、記述された理論の対象を、固有の理論の言葉に対して相対的にのみ、確定するのである。望むならば、今度はこれらの言葉を問うことができる。」51

・背景理論に固有の存在論
「背景理論の内部で我々は、ある下位の理論(これの宇宙は背景宇宙のある部分である)がどのようにして、再解釈によって、別の下位の理論(これの宇宙はより小さい部分である)に還元されうるのかを、示すことができる。下位の理論とその存在論についてこのように語ることは、有意味である。しかし背景理論へ関係してのみ有意味である。背景理論は、素朴に受け入れられ究極的には不可測な存在論をともなっている。」51

<存在論の循環の問題>
「存在論の問題を絶対的に理解するときに、それを無意味なものにするのは、普遍性ではなくて、循環性である。「Fは何か」という形式の質問は、「FはGである」という別の名辞に頼ることによってしかこたえられない。答えは、相対的な意味のみをもつ。「G」を無批判に受け入れることと相対的な意味をもつ。」53

<存在論の二重の相対性>
「存在論は、二重に相対的である。理論の世界を特定することは、背景理論に対して相対的にのみ、またある理論の他の理論への翻訳マニュアルの選択に対して相対的にのみ、意味がある。もちろんふつうは、背景理論は単純に包括的な理論であり、この場合には翻訳マニュアルの問題は生じない。しかし、これは、翻訳の規則が同音的であるというケース、翻訳の退化したケースである。」54-55
 ある理論の採用が、どのような存在論を採用することになるのかは、(1)その理論をどのような背景理論(これは固有の存在論を持つ)と関係付けるかに相対的であり、(2)その理論を背景理論に翻訳するときにどのような翻訳マニュアルを選択するかに相対的であある。



2、クワインの存在論「あるということは、変更の値であることである」
 クワインは、論文「なにがあるのか」(『論理学的観点から』飯田隆訳)において「あるということは、変更の値であることである」というテーゼが主張されている。

「理論がコミットしている存在者とは、その理論の中で肯定される言明が真であるためには、その理論の束縛変更によって指示されることができなくてはならない存在者のことである」20
 この発想は、ラッセルの記述理論から直ちに帰結するのではないが、それを継承するものだと言えるだろう。ラッセルは『表示について』で、論理的固有名として「これ」と「私」を残した(後には、すくなくとも自然科学では、論理的固有名なしに表現が可能であると考えた。)
 クワインもまた、ここで「単称名詞は、トリビアルな仕方であれ、そうでない仕方であれ、つねに単称記述に直すことができ、そのうえでラッセル流の分析によって消去できる」12と考えている。論理的な固有名が存在しないことによって、存在するものは変項の値であるということが可能になる(必ずそうなるわけではなくて、述語記号の値である普遍が存在するということも考えられる。この立場の批判は別途考えなければならない)。そうすると、何が存在するか(何が変項のあたいになるか)は、言語ないし概念図式をどのように考えるかに依存することになる。つまり、言語的に必然的に存在すると考えなくてはならないような存在者はない、ということである。そうすると、何が存在すると考えるかは、論理的ないし言語的には自由であり、それは経験の問題になる。

・意味論的上昇(ただし、これは『ことばと対象』での表現)
「存在論との関連で束縛変更に注目するのは、何があるかを知るためではなく、ある主張や説が、我々のものであれ、他人のものであれ、なにがあると言っているのかをしるためである。」22
「存在論における意見の相違は、概念図式における根本的相違を巻き込んでいる。それでも、マックスと私は、こうした根本にある相違にもかかわらず、我々の概念図式が、より上位の部分では、お互いに歩み寄りを示していることにきづく。その結果、政治や,天候や,とりわけこれが大事であるが、言語といった話題について、我々の間で意思の疎通が可能となる。存在論についての根本的な論争が、語とそれを使ってなされる事柄についての意味論上の論争というより高い次元に翻訳できる限り、論争が前提先取に陥ることを先送りにすることができよう。」23
「よって、存在論上の論争が言語についての論争になる傾向があるということは驚くにあたらない。しかし、何があるかは語に依存するのだという結論に飛びついてはならない。ある問題が、意味論的表現に翻訳可能であることは、もとの問題が言語的なものであることを少しもいみしない。」24

・存在論の選択方法
「私の考えでは、ある存在論を我々が受け入れるということは、ある科学理論、たとえば物理学の体系を我々が受け入れることと、原理的に同様である。少なくとも合理的な考慮に従っている限り、我々は、なまの経験の無秩序な断片をはめ込み配置できる最も単純な概念図式を採用する。最も広い意味での科学を抱擁する全体的概念図式が確定したならば、我々の存在論は決定される。」24
 これは、認識論を経験科学(心理学の一分野)とみなす「自然化された認識論」の主張につながる。