第9回講義

第2章 クワインの「指示の不確定性」テーゼの検討
§7「指示の不確定性」テーゼと「存在論的相対性」テーゼへの批判の試み
1、 論理的固有名の批判:記述理論の徹底化(つづき)


 クワインはラッセルの記述理論を支持しているように思われる。(『ことばと対象』第7章p.435では、ラッセルの記述理論を、解明explicatonの例として肯定的に語っている。)
 ただし、クワインは、表示句を記述に還元するというやり方を徹底し、すべての表示句と単称名辞を以下のように一掃する。
 「「ペガサス」のような単独の語からなる名前もしくは仮に名前と考えられる表現を、こうした仕方で、ラッセルの記述の理論に取り込むためには、もちろん、まず、その語が記述に翻訳できるのでなければならない。しかし、これは何ら制限とはならない。もしペガサスという概念がきわめて曖昧であるか、基本的であるかして、記述句への適当な翻訳がすぐには見つからないようであるとしても、人工的であってトリビアルであると見える次のような手段に訴えることができる。つまり、ペガサスであることという、初めから仮定により分析不可能で還元不可能な属性に訴え、その属性を表現するものとして、「ペガサスである is-Pegasus」とか「ペガサスる pegasize」といった動詞を採用すればよい。「ペガサス」という名詞そのものは、派生的なものであり、結局のところ、「ペガサスであるもの」とか「ペガサスるもの」という記述と同じであるとされる。」(『論理学的観点から』の第一論文「何があるのかについて」邦訳、p.11)
 「我々の議論はいまやきわめて一般的なものである。マックスとワイマンは「これこれのものはない」という形の言明で、「これこれのもの」に単純な単称名詞あるいは記述的単称名詞を代入したものは、これこれのものがないかぎり、有意味な仕方で肯定することはできないと想定した。いまやこの想定がきわめて一般的に根拠を欠いていることが明らかとなった。なぜならば、問題となっている単称名詞は、トリビアルな仕方であれそうでない仕方であれ、つねに単称記述に直すことができ、そのうえでラッセル流の分析によって消去できるからである。」(前掲邦訳p.13)
 「…固有名をトリビアルなしかたで記述にしてしまうことである。こうすることの理論的利点は圧倒的である。こうすることによって、すくなくとも理論上は、単称名辞というカテゴリー全体が一掃される――なぜなら、われわれは記述名を除去する仕方を知っているからである。単称名辞というカテゴリーを除去することによって、我々は、理論的混乱の主要な源の一つを除去することになる。」(前掲邦訳pp.263-264)


注1:ラッセルによる論理的固有名とその解消
 ラッセルによる論理的固有名の批判は、つぎのようである。
 ラッセルは、「すべての自己中心語は「これ」を用いて定義することができる」(『意味と真偽性』訳116)という。たとえば、「「私」は「これの属する生活史」を意味し、「ここ」は「これの場所」そして「今」は「これの時」などという具合になる。」(116)
 (ところで、「「これ」の代わりに「今の私」(I-now)を用いることができるが、これにあたる日常語はない。」116 という。つまり、すべての自己中心語を「今の私」を用いる定義することもできるという。しかし、すべての自己中心語を「これ」に還元しても、「今の私」に還元しても、それらはさらに記述に還元されることになる。)
 ところで、この最後にのこる「これ」は、「この時間」や「この場所」を座標で記述することによってなしですませることができる。
 「私は、私の位置をグリニッジとの関係において一意的に決定する三つの座標を決定することができるが、同様な観察によってグリニッジそのものも定義することができる。我々は簡潔にするために場所の座標を性質として扱うことができる。そうすれば<その地点はその座標である>と定義することができる。従って2つの地点が同じ座標をもつことはないということは論理的に明らかである。」106
 {たとえば、グリニッジについては、クワインのやり方にならって「グリニッジ性」という述語を導入して、グリニッジ性をもっている場所、というように定義することもできるかもしれない。入江}
 それゆえに、「物理学の用いる言語には自己中心的特定体(egosentiric particular)が現れない。」116「物理学的世界と心理学的世界のいずれを問わず、それを記述するためには、この種の語が少しも必要でないことがわかるとおもう」124


注2:ラッセルとクワインの比較
 ラッセルとクワインの違いとして、最も重要なのは、「見知り」についての議論であろう。ラッセルは知を、見知りによる知と記述による知に区別する。

<直知(見知り)の定義>
「私が、ある対象に関して、直接の認識関係(cognitive relation)を持っているとき、言いかえるならば、私がその対象自体を意識しているとき、私はその対象を直知しているというのであります。」(『神秘主義と論理』江森巳之助訳、みすず書房、242)
「sがoを直知している、ということは、oがsに表象されている、ということと本質的に同じであります」242

 このような「直知」(今日では「見知り」と訳されることが多いようだ)の定義からするならば、「見知り」の対象は、存在者であるといえる。このような「私」と「対象」の「直接の認識関係」を考えることを、クワインならば批判するだろう。それが「私」と「対象」そのもの関係であれ、「語」と「知覚像」の関係であれ、そのような直接的な認識関係をクワインは認めないからである。

<「直知(見知り)」の対象の種類>
  (1)「感覚与件」色、音、など
「色を見、あるいは音を聞くとき、私はその色、あるいはその音を直接に直知しているのであります。」243感覚与件は通例「複合的」である。243
見知りの対象としては、他には次のものがある。
(2)「直知」ないし「Aを直知している自我」という複合体
(3)「普遍」=「概念」
(4)「関係」

 ここでは、直知の対象は、感覚与件である。ここでいう「感覚与件」とはなにだろうか。
これは、単なる知覚や感覚と、どのように異なるのだろうか。ラッセルは、後の『心の分析』において、「センスデータ」を批判して、使用しなくなるが、さらに後には、それを再び使用するようになる(『外部世界はいかにして知られるか』訳p.159の訳注参照)。
 クワインは、『ことばと対象』第一章第一節で「センスデータ言語」を批判している。センスデータについて語る言語は、センスデータを指示するのでなければならないが、指示は不可測だから、センスデータ言語を想定することはできない。クワインは、センスデータの見知りだけでなく、そのほかの「私」や「普遍」や「関係」の見知りも認めないだろう。なぜなら、それらは直接知の対象への指示が可能であるということに基づいているからである。クワインの「指示の不可測性」テーゼは、ラッセルの「見知り」概念とは両立しない。

<「記述による知識」の対象の種類>
(1) 物的対象
(2) 他人の精神
「物的諸対象や他人の諸精神」は「記述による知識」によってしられる(247)。
 
 ところで、「これは、机である」の「机」は普遍概念であろう。そして、ここでの「これ」は感覚与件であろう。なぜなら、「これ」が物的対象だとすると、それが指示できることになるが、物的対象は、記述によって知られるものだからである。}

<記述による知>
「記述」=「あるしかじかのもの」(a so-and-so)あるいは「そのしかじかの
      もの」(the so-and-so)という形式の任意の句(247)
「不定的」(ambiguous)記述=「あるしかじかのもの」(a so-and-so)という
               形式の句(247)
「確定的」記述=「そのしかじかのもの」(the so-and-so)という形式の句247

「我々が、ある対象は「そのしかじかのもの」である、ということを知っている時、すなわち、ある特定の属性を持っている対象がひとつあってそれ以上はない、というを知っているとき、その対象は「記述によって知られている」ということにしましょう。そしてこの場合一般に、我々はその同じ対象を直知によっては知っていない、ということが含意されているといたします。」248

<直知(見知り)の原理>
「ある特殊に適用できることが知られている記述は、…… 我々が直知しているところのある特殊への引照を、何らかの仕方で含んでいなければならない、とおもわれるのであります。」251
「諸記述を含む諸命題を分析する際の基本的な認識論的原理は次のとおりであります。――《われわれの理解し得る命題は、いずれも我々が直知している諸要素からのみ構成されていなければならない》」253

 この原理は、「直知の原理」と呼ばれる(エイヤー、前掲書)。この原理は、固有名を消去することとは矛盾しない。固有名を記述に還元して、その記述を見知りへと分析するのである。
――――――――― 注、終わり


2、 根底的翻訳に関する疑問点

 論理的固有名なしに、つまり「これ」や「私」による指示なしに、言語を構成できるという立場は、根底的翻訳を出発点にして(つまり会話の分析を出発点にして)言語を考えるという立場と矛盾するのではないか。

(1)問答の同定をめぐる問題
 クワインのいう根底的翻訳の基礎は、ある状況で現地人に"Gavagtai?"と尋ねて、それにたいして同意するかしないかを確認するということに基づいていた。
 これを説明するときに、相手が同意しているのか不同意なのかがどうしてわかるのか、ということについて、クワインは、相手の同意の言葉、不同意の言葉については、現地人の発話行為を観察することによって理解できるだろう想定している。
 このとき、質問であるつもりの“Gavagai?"という発話が、相手に質問だと理解される保証はない。語尾を上げる発話が、質問の発話になる保証はない。たとえば、語尾を上げることによって否定の発話になることもありうるだろう。質問するときにどのようにするのかについても、我々は現地人の発話行為を観察することによって確認できるかもしれが、そのための必要条件を検討するならば、根底的翻訳に関するクワインの議論を修正することが必要になる。

<修正1:発語内行為の分析仮説>
 刺激意味や刺激同義性を確定するには、問答が確定しなければならない。ところで、語尾を上げて“Gavagai"ということが、質問の発話になることは、どのようにすれば確認できるのだろうか。ある発話が、質問か主張か命令か約束かなどは、感覚刺激から独立してている。主張、質問、願望、命令、約束などの区別は、一定の分析仮説に基づくことになる。
 つまり、ある発話を質問や主張として理解することは、一定の分析仮説に基づいている。たとえば「ある文の語尾を上げて発話すると、その文が真か偽かを尋ねる質問になる」というのは、分析仮説であろう。それゆえに、質問とそれへの答えにもとづく、観察文の刺激意味や刺激同義性の確定は、すでに一定の分析仮説に基づいていることになる。
 (これによって、おそくらく我々は、言語についての行動主義を否定しなければならないだろう。)

<修正2:発話の分析仮説>
 クワインのいう分析仮説は、観察文の刺激意味や刺激同義性にもとづいて、観察文を分析する仕方である。しかし、このためには、文と文ではないものの区別が、可能になっていなければならない。しかし、それはどうやって可能になるのだろうか。
 我々は,部分発話をすることもあれば、二つ以上の文を発話するときもある。したがって、発話が与えられても、それが一つの文の発話であるのか、あるいはさらに続くべき文の一部分の発話であるのか、あるいは二つ以上の文の発話であるのか。これらを分析する必要がある。つまり、クワインのいう分析仮説は、発話を文に分析するための分析仮説を前提する必要がある。(行動主義的な言語観察が可能であるとして、その最初の単位になるのは、文ではなく、発話である。)

<発話と発話者の確定>
 では、発話のある連続を一つの文とする基準は何だろうか。(その基準がどのようなものであるにせよ)ある基準に基づいて、発話を文に整理するとき、野外言語学者は、現地人の会話をまず観察し、その際にそこでの様々な発話をまず、発話者ごとに、そして時間順序で整理するだろう。この作業の中で、一連の発話を一人の発話者に帰属させることが不可欠である。この作業において、言語学者には、発話と発話者の確定が不可欠である。
 我々が会話するときにも、発話と発話者を確定することは不可欠である。



注3:<問答の不可測性>
  “Gavagai?" ”Gavagai"
という問答を、「ウサギがいますか」「ウサギがいます」と翻訳することもできるし、「ウサギの一部が見えますか」「ウサギの一部がみえます」と翻訳することもできる。というのが、「翻訳の不確定性」テーゼからの帰結である。しかし、これを、「ウサギがいますか」「ウサギの一部がみえます」とか、「ウサギの一部が見えますか」「ウサギがいます」と翻訳することはできない。
 しかし、問うものと答えるものが別の人間である以上は、後者の二つのような問答が行なわれている可能性がある。このとき、二人の人間が、その翻訳の間違いを確認できないとすれば、それは指示の不可測性のためであって、理解の間違いなのではない、ということになる。このような問答の食い違いの可能性を、問答の不可測性と呼ぶことができるだろう。(もちろん、指示の不可測性がコミュニケーションの成立を妨げないのと同じで、問答の不可測性も、コミュニケーションを妨げない。)