第10回講義


<<レポートについて>>
テーマ:指示に関する問題を取り上げ、自由に題名をつけてください。
    もし可能ならば次のような形式にしてください。
      形式1:問題
          問題の説明
          解答
      形式2:テーゼ
          テーゼの説明
          証明
分量:4000字程度
用紙:A4(ワープロの場合には、40字30行で印刷)
締め切り:9月末日
提出場所:文学部4階「哲学助手室」前のレポートボックス


<宿題になっていた学生の質問>
 「幼児が指差しをするのが9ヶ月くらいからであるとして、幼児が他の人の指差しを理解するのはいつからか?」
 答え:やまだようこ『ことばの前のことば』新曜社によれば、幼児が他の人の指差しを理解するのは、自分で指差しをするようになったあとの事である。この本の「ゆう」のばあい、最初の指差しらしきものは、9ヶ月19日であり、指差しの最初の理解らしきものは、10ヶ月12日である。
 「指差しは、周りの人間が指差しを教えるから模倣によってできるようになるという説があるが、発達過程はそれほど単純なものではない。指差しの形を模倣することはできるかもしれない。そして後に示すように、指差しの場合に、道具としての指の「型」はかなり重要である。しかし、指差しの意味を教えるのは誌なんである。なぜならば、指差しの理解は自発的にする指差しよりも難しいからである。
 この点で指差しと言葉は決定的に違っている。一般的に、言葉の場合には表出の前に理解があるが、指差しでは、理解の前に表出がある。」(前掲書105)
 「「おすわり」という言葉で犬を座らせることは簡単だが、指差して、指ではなくその先にある別のものを指示していることを犬に訓練して教えることが至難であることを考えていてもよい。」108
 犬は、言葉を話せないが、「おすわり」という言葉を理解(?)することを考えても、言葉の場合には、話すよりも理解(理解しているかのような行動?)が先行することがわかる。


第2章 クワインの「指示の不確定性」テーゼの検討
§7「指示の不確定性」テーゼと「存在論的相対性」テーゼへの批判の試み
   2、根底的翻訳に関する疑問点


(1) 問答の同定をめぐる問題(先週のつづき)
<語や文や発話者への指示>
 クワインの言う指示の不可測性は、文の確定性と対比して、主張されていた。
この対比は、観察文については、刺激意味や、刺激同義性が確定できる、ということに基づいている。これが可能であるとすれば、どのような発話が文を構成するのかが、確定できるということである。これは、どのようにして可能なのだろうか。
 先週も述べたように、野外言語学者が現地人の言語の文を確定するためには、つまり、発話を文へと分析するためには、発話と発話者への指示が不可欠である。たとえこの指示もまた「不可測」であるとしても。
 これもまた先週のべたように、論文「なにがあるのか」において、クワインは、次のように述べている。
 「存在論における意見の相違は、概念図式における根本的相違を巻き込んでいる。それでも、マックスと私は、こうした根本にある相違にもかかわらず、我々の概念図式が、より上位の部分では、お互いに歩み寄りを示していることにきづく。その結果、政治や,天候や,とりわけこれが大事であるが、言語といった話題について、我々の間で意思の疎通が可能となる。存在論についての根本的な論争が、語とそれを使ってなされる事柄についての意味論上の論争というより高い次元に翻訳できる限り、論争が前提先取に陥ることを先送りにすることができよう。」23
 存在論についての論争が、意味論上の論争になるとき、そこでは語や文そのものが指示されている。しかし、この語や文の指示に関してもまた、「指示の不可測性」が成立するであろう。

<クワイン批判1:答える立場からの批判>
 クワインによる「指示の不可測性」は、<刺激によってテストできるのは、文であって、語ではない>という主張に基づいていた。他者の言語を理解するときには、その理解の最終的な根拠は、クワインの言うような刺激による文のテストであろう。
 では、自分の言語を理解するときにはどうだろうか。たとえばある文を自分がどのように理解しているのかを反省して明確にしようとすれば、我々はそれを構成している語の意味を反省し、語の意味から文の意味を再構成するだろう。このように考えるとき、自分の言語の場合には、文の理解は、語の理解に基づいているように思われる。
 たとえば、他者に「sはpですか」という形式の質問を受けて、自分がそれに答えようとするとき、答えるためには、主語が何を指示しているのかを確認し、次に、その対象について述語が何を述定しているのかを確認するだろう。

<予想される答弁1>
 これについてクワインならば、つぎのように答えるだろう。「指示の不可測性」は自分自身の言語にも妥当する。たしかに、「sはpですか」と問われたときに、我々は「s」が何を指示しているのか、そしてその対象についてpを述定できるかどうか、を自問するだろう。しかしこの作業をさらに分析してみる必要がある。以前に、観察文ではなくて、より複雑な文章を構成したり理解したりするには、分析仮説が必要であると述べた。つまり、文を語に区別し、それらの語の意味を確定する必要がある。その分析仮説が一応完成すると、出発点にした観察文の分析も可能になっているだろう。たとえば、「Sはpですか」と問われたとき、分析仮説をもちいて「s」と「p」を語とみなし、つぎに(「s」の文中の位置などから)分析仮説をもちいて「s」が対象を指示しているとみなし、次に「s」が何を指示しているのか、を特定し、さらに「p」がsについて述定していると考えることになるだろう。語による指示や述定は、文の感覚刺激によるテストによって、また分析仮説によって、はじめて可能になるより高度な事柄であり、文のテストに先行するより基礎的な事柄なのではない。

<クワイン批判2:分析仮説の学習>
 しかし、我々は分析仮説をも他者から学習するのではないのか。(野外言語学者の場合にも妥当すると思われるが)少なくとも幼児が母語を学習するとき、母親は、文の真偽だけでなく、文をどのように語に区別し、また語をどのように結合して文を作るかをも教えるように思われる。野外言語学者は、仮に分析仮説を自分で作るのだとしても、幼児はそれを自分で作るのではなくて、大人から教わるのではないだろうか。そして、我々は成長してからは、分析仮説について互いに確認のための会話をすることができる。

<予想される答弁2>
 クワインは、次のように答えるだろう。このような教育や会話はたしかに可能であであろう。しかし、これもまた文を使って行なわれるのである。文を語に分ける分け方について、子供は母親から学ぶだろうが、それは文のやりとりによって、学ぶのである。分析仮説の学習や確認そのものが、ひとつの分析仮説に基づいてのみ可能なのである。

<批判3:文の不確定性>
 上のような答弁は、何が文であるかは、自明であり、「場面文と刺激意味は、普遍的に通用する通貨であり、名辞と指示対象は、我々の概念枠に特有なものである」(『ことばと対象』訳84)という主張に基づいている。しかし、はたしてそうだろうか。
  「これは、チョークです。これは黄色です。」
  「これは、チョークであり、かつ、これは黄色です」
この二つの発話は、同じ内容を主張している。しかし、@は、二つの文の発話であり、Aは一つの文の発話である。では、つぎはどうだろうか。
  「これはチョーク これは黄色」
  「チョーク きいろ」
  「これはチョーク そして黄色です」
  「あれ チョーク」
発話をいくつの文に分けるかは、微妙な問題であり、母語に限っても、それが曖昧な場合がある。発話をいくつの文に分けるかは、分析仮説にもとづく。そして、発話をいくつの文に分けるかは、文の構造をどのように理解するかと結びついている。つまり、発話を文にわける分析仮説と、文を語に分ける分析仮説は別の次元にあるのではなく、それらは結合して一つの分析仮説を構成する。

<提案:文の発話の定義>
 「文とは何か。」日本語の場合、これについての構文論的な定義を与えることは可能であろう。これについての意味論的な定義が、ここで問題になっている事柄である。
 あるいは、次のように定義できるのかもしれない。(次の定義は語用論的な定義なのかもしれない。)

テーゼ:<ある発話が文の発話であるための必要十分条件は、それが問いの答えの発話と
     なりうるということである。>
 語の意味は文の意味への寄与であり、(一語文を含めて)語は文の構成要素である。これにならって、次のように言えるのではないか。文の意味は、問いに対する答としての寄与であり、文は、問答の構成要素である。
 もし、このように言えるとすれば、語による対象の指示は、文を構成するものであるが、しかしそれは同時に問いの答えを構成するものである。つまり、語による対象の指示を、問いに対する答えへの寄与として理解することが可能になるだろう。この見地から、固有名ないし表示句による対象の指示を、記述に翻訳する記述理論を再吟味する必要があるだろう。(これは、夏休み明けのお楽しみ)


注1、<記述理論について疑問> (以下の疑問は、未熟な理解の故かもしれません)
 Fx=「xはフランス王である」、Gx=「xは禿頭である」とするとき、「フランス王は禿頭である」はつぎのようになる。(以下では、フランス王が一人であるということの表現は、省いた。)
   ∃x(Fx・Gx)
   =「xがフランス王でありかつxが禿頭であるようなxが存在する」(文1)
   =「フランス王でありかつ禿頭であるようなものが存在する」(文2)

(1)文1を理解するには、
   xが何かを指示すること、
   そして3つのxが同一の対象を指示すること
を理解しなければならない。
 この場合には、「x」による対象の指示を認めていると言ってよいのか?

(2)文2を理解するには、「フランス王でありかつ禿頭であるようなもの」という表示句が何かを指示していると考えなければならない。
 この場合には、表示句を、分解して記述に変えたのではなくて、むしろすべての記述を表示句の中に組み入れたということができるのではないだろうか?

(3)文1を上のようにではなくて、つぎのように理解すべきだろうか。
 ここでは、<xが実体であり、それが様々な性質を持つ>と考えるのではなくて、<さまざまな性質があり、それらが共存している>と考えるべきなのであろうか。(『意味と真理の探求』「第6章、固有名」からすると、このように理解すべきであろう。)
 そうすると、この場合には、「フランス王」という性質がそこにあることの知が成立していることになる。「フランス王」という性質は、見知りによる知ではなくて、記述による知である。それはさらにいくつかの性質に分析され、最終的に見知りによる知になるのだろう。そして、それらの性質の見知りと「禿げている」という性質の見知りに加えて、これらの諸性質の共存関係が見知りにならなければならないだろう。なぜなら、これらの共存関係は、見知りから論理的推論され得ないからである。
 (私は、おそらく(3)の理解が正しいだろうと推測していますが、確信がもてないでいます。)この場合、感覚与件であれ普遍であれ、様々な性質が見知りにおいて<指示>されており、また共存関係が見知りにおいて<指示>されているといえるのだろうか?もしそうだとすれば、これらの性質や共存関係は、一般名でなくて、固有名なのではないか?


 Have a nice vacation!