第11回講義 2001年9月12日


<<レポートについて>>
テーマ:指示に関する問題を取り上げ、自由に題名をつけてください。
    もし可能ならば次のような形式にしてください。
      形式1:問題
          問題の説明
          解答
      形式2:テーゼ
          テーゼの説明
          証明
分量:4000字程度
用紙:A4(ワープロの場合には、40字30行で印刷)
締め切り:9月末日
提出場所:文学部4階「哲学助手室」前のレポートボックス


        第三章 固有名をめぐる論争の検討
        
§8 サールの記述理論批判の検討

1、これまでを振り返って

 第一章では、命題的指示と発語内的指示を区別した。
 第二章では、クワインの「指示の不可測性」のテーゼを紹介し、検討した。その結果は、このテーゼを批判するというよりも、クワインの主張以上に言語の不可測性の主張を強いものにしなければならない、と言うことであった。(我々のクワイン批判の中心は、根源的翻訳において、文という単位の理解が、語という単位の理解とおなじく、分析仮説でしかない、ということである。クワインが、観察文の刺激意味や刺激同義性とのべたことは、観察発話の刺激意味や刺激同義性というべきであろう。)
 もう一つ確認できたことは、クワインがラッセルの記述理論を認めているということである。これは、クワインの存在論的相対性という主張と結びついている。これは、どのような存在論をとるかは、どのような言語を採用するかに依存しているということである。
(これは、パトナムのように、存在論の上での反実在論にコミットするということになるのではないかと思われるが、その検討は後期に行いたい。)

前回の最後に次のように述べました。
テーゼ:<ある発話が文の発話であるための必要十分条件は、それが問答にお
ける、問いの発話ないし答えの発話となりうる、ということである。>
文脈原理と呼ばれる一般的な考えでは、語の意味は文の意味への寄与であり、(一語文を含めて)語は文の構成要素である。これにならって、次のように言えるのではないか。文の意味は、問いに対する答としての寄与であり、文は、問答の構成要素である。もし、このように言えるとすれば、語による対象の指示は、文を構成するものであるが、しかしそれは同時に問いの答えを構成するものである。つまり、語による対象の指示を、問いに対する答えへの寄与として理解することが可能になるだろう。この見地から、固有名ないし表示句による対象の指示を、記述に翻訳する記述理論を再吟味する必要があるだろう。(これは、夏休み明けのお楽しみ)これに今から取り組もう。

2、サールによる記述理論への批判

 サールは、『言語行為』(Speech Akt)「第七章 指示をめぐる諸問題」の「1 記述理論」(訳278-287)において、記述理論を批判している。

・記述理論の定義
「ラッセルは、"the f is g"という形式の文(ただし、'the f'という表現が「第一次的」な生起をもつばあい)は、
   (Ex)(fx・(y)(fy→y=x)・gx)
と言う形式の文に翻訳あるいは分析が可能であると述べている。今後、私が記述理論という名を使うときには、私はこのテーゼを論ずることになる。」278

・根本的な反論、
「記述理論によれば、確定記述(さらに、ラッセルの場合は、通常の固有名までも含んだもの)を使用して遂行される確定的な指示という命題行為は、対象の唯一存在を内容とする命題を主張するという発語内行為と等価のものであるとされることになるゆえに、そのような奇妙な理論を発語内行為に関する理論へ編入して統合することが不可能であるという反論である。」282
「そもそも、いかなる条件においても、命題行為は主張という発語内行為と同一ではない。なぜならば、命題行為という行為は、何らかの発語内行為の部分として生ずるものである以上、それのみが自立することはないのに対して、他方では、主張するという行為は、完結した発語内行為であるからである。」282

・より具体的な反論
「一定の型の行為がある種の条件下でのみ遂行可能であるという事実から、その型の行為を遂行することそれ自身がそのような条件を主張すると言う論点は、みちびかれない。」284ゆえに、
「'the f is g' という形式の文は 'the f' という表現が指示する対象が存在しない限り真なる主張として述べることが不可能であると言う事実は、実は、全く記述理論を支持するものではない。」284
サールは<対象を指示することは、対象が存在することを前提する>を認めるが、そこから<対象を指示することは、対象の存在を主張することでもある>をみとめない。

・さらに具体的な反論
「記述理論に基づいて、質問や命令などの分析を試みるならば、直ちに次のような二律背反に直面することになる。すなわち、一方においては、確定記述を含む発語内行為のそれぞれを、実は二つの言語行為として解釈せざるを得なくなり、存在命題の主張プラス存在すると主張した対象に関する何らかの質問、命令として解釈しなければならなくなるか、あるいは、他方において翻訳以前の文を使用して遂行された言語行為の型が翻訳された文の存在命題も含む全体を覆っていると解釈しなければならなくなるかのいずれかとなる。」285
「たとえば、「フランス王はハゲか」という質問を、
一方で、「フランス王がただ一人いるが、ところでそれはハゲか」と言う質問として解釈するか、
他方で「フランス王がただ一人いて、それがハゲであるか」と解するか
のいずれかを選ばねばならないのである。」285

この前者と後者は、次のように表現される。
1 ├[(∃x)(fx・(y)(fy→y=x))]・?[gx]
     2 ?[(∃x)(fx・(y)(fy→y=x)・gx)]

(サールによる注(5)「1は、量化記号が、場合によっては発語内的力の表示形式を超えて影響を超えて影響を及ぼすということを想定している。この想定は、自然言語に代名詞が実際そのように機能していることを考慮するなば、妥当なものであるように思われる。」308とあるが、これを認めることはできない。入江)

後者の解釈の矛盾
「「これをフランス王へもっていけ」という発言で、フランス王の存在を命令していると考えることは、誰にとっても不可能であろう。」
「「『ウェーヴァリー』のその著者が『ウェーヴァリー』を書かなかったとしてみよ」という通常の言語使用において有意味な仮定のために発せられる表現は、この解釈に従うならば、「『ウェーヴァリー』を書いたものがただひとつ存在して、それが『ウェーヴァリー』を書かなかったということがあったとしてみよ」という形に翻訳される。しかし、この翻訳は・・・矛盾である」286
前者の解釈の矛盾
「イギリスの女王にこれを持っていけ」という命令に応じて、「あなたあのおっしゃるとおり、イギリスの女王が存在します」とこたえることは、われわれにとっては全く想像を絶する。また、逆にこの命令に反抗することも同時に納得できないことになる。」287

結論
「いずれの解釈も機能していないことが判明した。したがって、記述理論は廃棄されるべきである。」287