第12回講義 2001年9月18日



   第三章 固有名をめぐる論争の検討
   §8 サールの記述理論批判の検討(続き)

3、サールによる記述理論批判の検討

(1)記述理論を主張以外の発語内行為に適用するときの不都合
(a)「1の解釈」は成り立たない。
サールは、"Is the f is g?" という文の質問は、記述理論では、次のいずれかの解釈になるという。
     1 ├[(∃x)(fx・(y)(fy→y=x))]・?[gx]
     2 ?[(∃x)(fx・(y)(fy→y=x)・gx)]
             
しかし、1では、├[(∃x)(fx・(y)(fy→y=x))]に登場するxと、
?[gx]に登場するxが同じ個体を支持することにはならない。もしサールが注(5)でいうように、gxのxが代名詞のようなものであるとすれば、たとえば、the x というようなものであるとすれば、?[gx]は、?[The f is g]という最初の疑問の発話に他ならない。したがって、1の解釈は間違いである。そうすると、我々には2の解釈しか残らない。

(b)「2の解釈」の検討
 「2の解釈」はおかしいだろうか。サールは、質問の場合には、はっきりとおかしいとは述べていない。彼はつぎのようにいうだけである。
「確定記述を使用して質問する人が、すべて確定記述の指示の存在について質問していると考えることははたして妥当であろうか。しかし、質問という行為が最大の困難を生じさせるのではない。」286

 彼が決定的な批判と考えるのは、命令の場合である。
「命令の場合には、もはや解釈不可能となってしまう。"Take this to the king of France"(「これをフランス王へもって行け」)という発言で、フランス王の存在を命令していると考えることはだれにとっても不可能であろう。」286
この指摘は正しのだろうか。今仮につぎのような記号を仮定しよう。
   fx=x is the king of France
a=this (ラッセルはthisを論理的固有名として認められているので)
   Bxy=bring x to y
上の命令は、2の解釈では次のように表現される。
(ア)![(∃x)(fx・(y)(fy→y=x)・Bax)]
これは、次の命令と同じではない。
   (イ)![(∃x)(fx・(y)(fy→y=x))]・![Bax]
(イ)ならば、「フランス王の存在を命令している」と言えるだろうが、(ア)については、そのようにはいえない。したがって、サールの上の指摘は間違いである。

 サールは、もう一つ反証例を挙げている。
 「「『ウェーヴァリー』のその著者が『ウェーヴァリー』を書かなかったとしてみよ」という通常の言語使用において有意味な仮定のために発せられる表現は、この解釈に従うならば、「『ウェーヴァリー』を書いたものがただひとつ存在して、それが『ウェーヴァリー』を書かなかったということがあったとしてみよ」という形に翻訳される。しかし、この翻訳は・・・矛盾である」286
 ここでAを「想定する」という発語内行為を表示し、fx=xは『ウェーヴァリー』の著者である、としよう。このときサールは、「『ウェーヴァリー』のその著者が『ウェーヴァリー』を書かなかったとしてみよ」を次の(ウ)のように理解しているのではないだろうか。
(ウ)A[(∃x)(fx・(y)(fy→y=x))・−f(the x)]
しかし、これは、論理的に正しい表現ではない。むしろ、記述理論によれば、次の(エ)のような表現になるのではないだろうか。
   (エ)A [(∃x)((y)(fy→y=x))・−fx)]
この式には、とりあえず、矛盾がないのではないだろうか。

(サールの固有名に関する記述群理論を応用すれば、おそらく次のような理解になるのだろう。
 『ウェーヴァリー』の著者については、その他の記述の束が可能である。たとえば
    「『スコット』という名前である」
    「イギリス人である」
    「歴史小説家である」
「『ウェーヴァリー』の著者に関する記述群のほとんどは真のままで、「『ウェーヴァリー』の著者」という記述が偽となる場合を想定せよ」という意味の文であると理解するのだと思われる。この理解は、記述理論と矛盾しないのではないだろうか。)


(2)指示という命題行為を発語内行為に置き換えることへの批判
サールによる記述理論批判の根本はつぎのものであった。
「記述理論によれば、確定記述(さらに、ラッセルの場合は、通常の固有名までも含んだもの)を使用して遂行される確定的な指示という命題行為は、対象の唯一存在を内容とする命題を主張するという発語内行為と等価のものであるとされることになるゆえに、そのような奇妙な理論を発語内行為に関する理論へ編入して統合することが不可能であるという反論である。」282

この批判は、次の二つの主張からなっている。
 (1)記述理論は、指示という命題行為を、発語内行為と等価のものと見なす
 (2)指示は命題行為であって、発語内行為と等価のものと見なすことは出来ない。

<(1)の吟味>
 記述理論は、指示という命題行為を、存在の主張や存在の命令などの発語内行為と等価のものと見なしているのではなく、述定という命題行為と等価なものとみなしているのではないだろうか。
<(2)の吟味>
 これについては、第一章で批判した。

以上からの入江の結論は、サールの記述理論批判は、正しくない、ということである。
(我々が、記述理論を最終的に支持できるかどうかは、まだ留保しておきたい。)


           §9 サールの固有名論

問題1「固有名は意味をもつか」288
問題2「固有名は記述の省略形であるのだろうか」288

<ミルの答え:固有名に意味はない>
「固有名は無意味は符号にすぎない。ディノテイションはあるがコノテイションはない(ミル)」
「我々が固有名を使用する目的は、対象を指示するためであり、対象の記述を行うためではない。固有名はいかなる主語に対しても述語にならない。それゆえに、固有名は意味(sense)を持たない。」289

<ミルへの三つの反論>
反論1
「1、われわれは実際に、固有名を存在命題の中で使用している。たとえば"There is such a place as Africa" "Cerberus does not exist"などなど。ここで、固有名が対象を指示していると述べることは不可能である。なぜならば、存在の陳述におけるそのような主語は、対象を指示し得ないからである。すなわち、対象を指示し得たならば、その陳述が肯定文のときは真理値を持つための前提条件によってすでにその陳述が真であるとされ、否定文のときは偽とされるからである。」291
否定文のときに不都合が生じることは、ラッセルの指摘したとおりであるが、肯定文のときに、不都合が生じるのは、その文が、必然的に真である命題ということになるからであろう。

反論2
「2、固有名を含む文を使用して、言語的な情報のみではなく事実に関する情報を伝える同一性陳述を行うことが可能である。」292
「エベレストはチョモランマである」が「エベレストはエベレストである」とは別の意味をもつのだとすれば、固有名には記述的な内容、すなわち意味がなければならないように思われる。これは、フレーゲの指摘していた論点であった。

反論3
「3、同定の原則は、確定記述の発話の場合と全く同様に、固有名の発話もまた、指示の完結のためになんらかの記述を伝達することを要請している。」292

まとめ
「以上三つの反論は同一の結論、すなわち、固有名は確定記述の省略形であるという結論を示唆している。しかし、この結論もまた正しいものではありえないようにおもわれる。」293

<記述説への反論>
反論1
「すべての固有名のそれぞれにたいして、それと定義上等価な記述を発見することが可能でなければならないが、一般には、固有名に対して定義は存在しない。」293
反論2
「その名前を主語としてその対象について何事かをかたる陳述は、真であればすべて分析的であることになり、また偽であれば、すべて自己矛盾的ということになるであろう。」293
反論3
「その名前の意味は、(そしておそらくその対象の同一性も)対象において少しでも変化が生ずるならばそのたびに変化するということにもなるであおる。また、一つの名前がもつ意味がその前を使う人とともに変化するということまでもおきるであろう。」293

<アンチノミーの解決のために>

問3「主語が固有名であり、述語が記述表現であるという形の分析的命題は存在するか」
問3の弱い解釈「そのよな命題の中にともかく分析的なるものがあるか」
問3の強い解釈「主語が固有名であり、述語が同定記述であるという形の分析的命題は存在するか」

<弱い解釈に対する答えは、yesである>
「「ド・ゴール」という名前には何らかの一般名辞ないし一定範囲の一般名辞が分析的に結びついているのである。」296
「少なくともこの意味においては、固有名は「コノテイション」をたしかに持っている。」296

<強い解釈にたいする答えは、「半ば肯定的」である>
強い解釈への反論1
「フレーゲによれば、固有名の意味とされるものの中には「対象のあたえられ方」(mode of representaion)が含まれ、それが指示を同定するとされる。しかし、当然、単一の記述的述語は、我々に対して対象のあたえられ方を提供することがない。すなわちそれは、同定記述をあたえないのである。」296
「ソクラテスが人間であることは、分析的に真であるかもしれないが、「人間」という述語はソクラテスを同定する記述ではない。」296
反論2
「一人の人物が一つの固有名に替えて使用する準備が出来ている記述は、別の人物
が準備している記述と異なりうる」297
反論3
「自分の使用する同定記述が、当該の対象に妥当しないことを発見したあともその
名前の使用をつづけるという可能性がある。」298
 アリストテレスがスタゲエイラ生まれでないことがわかったあとでも、「アリストテレ
ス」を使い続ける。

「「アリストテレス」という名前を使用する人に対して、その人がアリストテレスに関して本質的であり、かつ疑う余地のない事実としていかなるものを考えているかということについて表明するように要求したとしてみよう。そこで得られる解答は、一群の同定記述であろう。そしてわたしは、ここで、たとえそのような記述に一つとしてアリストテレスと分析的に結びつくものがないという場合ですら、そのような幾つかの記述からなる選言は、アリストテレスと分析的に結びついているということを論証したい。」299

「ある一つの対象を同定する独立の手段が存在するとき、その対象について「これがアリストテレスだ」と陳述し得るために必要な条件はいかなるものであろうか。私は、このような形の疑問に対する解答として、その陳述のための必要条件、すなわちその陳述の記述能力は、十分ではあるがしかしまだ特定されていない数の陳述(あるいは、記述)がその対象について真であるというものであると主張したい」299

「ある対象の名前を使用する人がその対象に妥当すると考えているいかなる同定記述もその記述と独立に特定された対象に妥当しないということが判明したならば、その対象は、その名前を与えられた対象と同一ではありえないのである。すなわち、これらの記述のうちにその対象に適合している記述が少なくとも一つ存在しているということが、その対象がアリストテレスであるための必要条件である。この主張は、記述の選言が「アリストテレス」という名前に分析的に結びついているということを言い替えたものである。」300

・サールがここで主張していることは、次のとおりである。アリストテレスについての次のような記述群があるとしよう。
  d1「スタゲイラで生まれた哲学者」
  d2「アレキサンダーの家庭教師」
  d3「プラトンの弟子」
  d4「『形而上学』の著者」
  d5・・・・
   ・・・・・
これらの記述のどれか一つが、「アリストテレス」と分析的に結びついていなくてもよい。つまり、「アリストテレス」という固有名が意味をもち、その意味の中にこれらのうちのどれか一つが、含まれていなくてもよい。しかし、これらの選言(d1vd2vd3vd4vd5v・・・)は、「アリストテレス」と分析的に結びついている、つまり、アリストテレスという固有名の意味から論理的に導出できる。しかし、これは、記述の選言が、「アリストテレス」の意味であるというのではない。なぜなら、記述の選言を満たす対象は、非常にたくさんあるだろうからである。記述の選言は、一つの対象に指示を限定できない。
ある対象がアリストテレスであるためには、記述のどれか一つが、その対象に適合することが必要である、とサールは言う。これを、言い換えると、<記述の少なくとも一つが「アリストテレス」と総合的に結びついている、ということが「アリストテレス」と分析的に結びついている>ということになる。

・結論
「固有名に意味はあるか」という疑問に対する私の解答は、当然、――もしこの疑問において、固有名の使用は対象の特徴を記述したり、特定したりするためのものであるか否かということが問題であるならば、――「否」というものである。しかし、固有名とそれが指示する対象の特徴とが論理的に結びついているか否かということを問題にする限りにおいて、わたしの解答は、「しかり。ただし、あるゆるい仕方(loose sort of way)において」というものである。」300

「固有名に意味があるということは可能ではあるが、その意味は不正確(imprecise)なものにとどまる。」303
ちなみに、これは、クワインの言う指示の不可測性とは、別の事柄です。固有名の指示が不可測でなく、確定しているとしても、その意味は不正確でありえるからです。

「固有名の使用に関する規準があらゆる場合において、厳格かつ特定的なものであるならば、固有名自体は、それらの規準を与える記述の省略形以上の物ではない。・・・しかし、我々の言語において固有名が備えている特異性と実用上の便宜性が可能となるのは、まさに、いかなる記述的特徴が対象の同一性を厳密に構成しているかという点に関する問題都度提起し合意を得るという過程を経ることを強いられることなしに、我々が公共的にその対象を指示し得ているという事実である。固有名は、記述として機能するのではなく、むしろ、記述を引っ掛けるためのくぎ(peg)として機能するといえる。このように、固有名の規準がゆるい(loose)ということは、言語の記述的な機能から指示的な機能を区別するための必要条件なのである。」305

サールは、記述理論を批判する。ゆえに、単称確定表示句だけでなく、固有名についてもそれを、記述に還元するということを批判する。固有名が記述によって定義できるような意味を持つということを認めない。仮に固有名の意味を認めるとしても、それは記述によって定義できるものではない。
しかし、固有名は、一定の記述群とゆるい論理的な結合関係を持つ。つまり記述の選言が、固有名の意味と分析的に結合している(記述の選言は、固有名の意味そのものではない)。
しかし、サールのこのような理解では、固有名がどのようにして特定の対象を指示できるのかを説明することは出来ないのではないだろうか。