第13回講義 2001年9月25日

    第三章 固有名をめぐる論争の検討
     §10 クリプキの固有名論

 ここでは、Saul Kripke, "Naming and Necessity" Basil Blachwell, 1972,1980.(クリプキ著『名指しと必然性』八木沢敬、野家啓一訳、産業図書、1985)をもとに、クリプキの固有名論を紹介する。(その検討は、時間的に出来ませんので、後期に行います。)この著作は、第一講義(1970.1.20)第二講義(1970.1.22)第三講義(1970.1.29)からなる。。

<固有名についての二つの見解>
1、ミル
ミルは『論理学研究』で、「名前には外示(denotation)はあるが、内示(connotation)はない」(28、以下の引用ページ数は、邦訳のものである)
2、フレーゲ−ラッセル(記述説)
フレーゲとラッセルはともに、ミルが間違っていると考え、「正しく使われた固有名は、実は短縮または偽装された確定記述にほかならない」30と考えた。

<固有名の記述説の検討>
記述説の論拠
1、 固有名の指示対象を説明するとき記述を使うということ
2、 「ヘスペラスはフォスフォラスである」が単なる同一性命題でないとすれば、これらの固有名が記述であるとかんがえることになる。
  固有名が、Bedeutung(denotation)のみをもち、Sinn(connotation)を持たないとするとすると、これが、単なる同一命題であることになる。
3、 アリストテレスが存在したかどうかを問うときには、名前と結び付けている諸性質をもつものがあるかどうかを問うているということ。

記述説への反論1:「アリストテレス」を「プラトンの弟子で、アレクサンダー大王の教師」と言う人と、「アレクサンダー大王のスタゲイラ人教師」という人では、別の意味を持つことになる。

記述説への反論2:「もし「アリストテレス」が、アレクサンダー大王を教えた男という意味であるとしたら、「アリストテレスは、アレクサンダー大王の教師だった」ということは、単なるトートロジーとなるであろう。」34

反論への批判1:「群概念理論」33、35
「名前を特定の記述で置き換えることができないのは、実際は日常言語の弱点ではない。それは別にかまわない。我々が名前に実際上結びついているのは記述の集団なのだ」34
「サールの固有名についての論文がその標準的典拠である」35

・ウィトゲンシュタインに関心のある人のために
群概念理論の「好例は『哲学探求』のなかにある。それは、家族的類似性の考えが導入され、大きな力を振るう個所である」34
「次の例を考察せよ。人が「モーセは存在しなかった」と言えば、これは様々なことを意味しうる。イスラエル人たちがエジプトから脱出する際のリーダーはただ一人ではなかった、といういみかもしれないし――あるいは、彼らのリーダーはモーセとは呼ばれていなかった――あるいは、聖書がモーセについて述べていることをすべて成就した者などいたはずはない――という意味かもしれない。・・・・・・だが、わたしがモーセについての述べるとき、わたしは常にそれらの記述のうちのどれか一つを「モーセ」と置き換える用意があるだろうか。「モーセ」とは、聖書がモーセについて述べていること、またはともかくその大部分を行った男のことだ、とおそらくわたしは言うだろう。だが、大部分とはどれくらいのことなのか。わたしの命題を偽として放棄するためには、そのうちのどれだけが偽だと証明されねばならないのか、わたしはきめているだろうか。「モーセ」という名前には、わたしが全ての可能な場合に適用できる、固定した曖昧でない用法があるのだろうか。」35
(『哲学探究』§79)

ちなみに、サールは、『言語行為』のなかで、ウィトゲンシュタインは、ミルと同じ考えであり、「名前は指示対象を持つが意味を持たない」と考えていると述べている(第7章の注7を参照)。「ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の中にも見出される。「名は対象を意味する。対象が名の意味である」(3.203)」(訳290)


<群概念理論の二つの解釈>
「群概念理論に関しては、あるいは単一の記述を要求する理論に関してさえも、二通りの見方がある」35

強い解釈:第一の見方(「サール」71)
「群または単一の記述は実際に名前の意味を与えるのであり、誰かが「ウォルター・スコット」と言うときは、彼はかくかくしかじかであるような男をいみしている、というのが一つの見方である」

弱い解釈:第二の見方(「『意味論的分析』のポール・ズィフ」36)
「記述は、ある意味で名前の意味はあたえないけれども、その指示を決定するものであり、「ウォルター・スコット」という句は「かくかく然々であるような男」と、またおそらく一団の記述とさえ同義ではないにしても、その一段または単一の記述は、彼が「ウォルター・スコット」と言ったときに誰を指しているのかを決定するために使われる。」36

<サール批判>
ここでクリプキは強い解釈の例としてサールを挙げている。
サールからの引用「私は、アリストテレスが通常彼に帰される諸性質の論理和、すなわち両立的選言を持っていることは必然的事実である、と提案しているのである」71(孫引き)

「(このようなサールの)提案は、もし「必然的」がこの講義で私が使ってきたように使われているのならば、明らかに偽でなければならない。・・・アリストテレスに通常帰されている事柄の大部分はアリストテレスが全く行わなかったかもしれないことである。」
「これらの業績の各々を個別にもつことも、またこれらの性質全体の選言を所有することも、アリストテレスについての偶然的な事実にすぎない。したがって、アリストテレスはこれらの性質の選言を持っていた、という言明は偶然的真理なのである。」72
「これらの事柄のうちの一つをなした当の男として実際に「アリストテレス」の指示を固定するものならば、それをある意味でアプリオリに知っているかもしれない。それでもなお、それは彼にとって必然的真理とはならないだろう。それゆえ、もし名前の記述例論が正しかったとしても、この種の例はアプリオリ性が必ずしも必然性を含意しないという例になるだろう。」72

この最後の引用を理解するには、クリプキによる「アプリオリ」と「必然性」を理解する必要があるが、この説明は後期に回したい
しかし、われわれは最後の引用を理解できなくても、上の議論は、サール批判としては、外れている、ことがわかる。
サールは、記述群が固有名の意味ではないと言うので、「強い解釈」ではなくて、むしろ「弱い解釈」を主張しているようにおもわれるのだが、しかし、サールは、記述の選言が、「アリストテレス」について妥当することを真と考えるとき、それは「アリストテレス」という語の意味に記述の選言が含まれている、ということを主張することになる。つまり、<記述群は固有名の意味の一部をなす>ということを主張しているといえるだろう。サール自身も「固有名に意味があるということは可能ではある」(『言語行為』訳303)と述べていたのである。この意味ではクリプキの理解は正しい。
しかし、サールは、<アリストテレスは、d1vd2vd3vd4vd5・・・である>が、「分析的」(『言語行為』訳300)に真であることをみとめるが、この選言命題によって、対象が一つに確定できるとは考えていない。したがって、サールの言う強い解釈でも弱い解釈にも当てはまらないのである。


<名前の郡概念理論のテーゼ>
話し手をAとしよう。
(1) あらゆる名前または指示表現「X」にたいして一群の諸性質、すなわちAが「ψX」であると信ずるような性質ψの集団が対応する。
(2) それらの諸性質のうちの一つが、あるいはいくつかが結合して、ある個体をただ一つだけ選び出す、とAは信じている。
(3) もしψのほとんど、あるいは重要なψのほとんどが、唯一の対象yによって満足されるならば、yは「X」の指示対象である。74
(4) もし投票が唯一の対象をもたらさないならば、「X」は指示を行なわない。    {ここで「投票」というのは、何がXの本質的な性質であるかについての投票である。}

(5) 「もしXが存在すれば、Xはψのほとんどをもつ」という言明は、話し手によってアプリオリに知られている。
(6) 「もしXが存在すれば、Xはψのほとんどをもつ」という言明は、(話しての個人言語において)必然的真理を表している。
(C)いかなる理論も成功したものであるためには、その説明は循環的であってはならない。投票に使われる諸性質は、それら自身、究極的に消去不可能な仕方で指示の概念を含んでいてはならない。」84

{注:先週見たように、サールは、(2)(3)(4)を主張しない。ゆえに、サールは、クリプキが考える「記述群理論」を採用していない。}

上の条件の(6)以外を認めるのが、弱い解釈であり、(6)を含めてすべて認めるのが、強い解釈である。その違いを説明するには、「アプリオリ」と「必然的」の区別を理解する必要があるので、これは、後期に行いたい。
 しかし、次に見るように、(2)(3)(4)への批判が成り立てば、記述群理論の二つの解釈はどちらも批判されることになる。次にクリプキによるこれらの批判を確認しよう。


テーゼ(1)
テーゼ(1)は「正しい。なぜなら、ただの定義だからである。・・・しかしながら、後のテーゼはすべて偽であると、私は考える。」74

「一般に最初の命名儀式のような一群のまれな事例においてのみ、(2)〜(5)はすべて真となる。」94 しかし、それ以外では、(2)〜(5)は成り立たない。
テーゼ(2)
反証例1「ほとんどの人はキケロのことを考えるとき、一人の有名なローマの演説家のことを考えるだけ」96である。
 反証例2「ファインマンは有名な物理学者であると言い、他に何もファインマンについて述べなければ、テーゼ(2)が満足されないことは日をみるよりも明らかである。」97
 反証例3「アインシュタインは「相対性理論を発見した男」であると言えば、それは確かに誰かを一人だけ選びだす。しかし、(もし相対性理論を説明するのに、アインシュタインの理論、と言うことしか出来ないならば)非循環条件を満足するような仕方では、彼を選び出せないだろう。」97
 これらの反証例により「テーゼ(2)は偽である」98

テーゼ(3)
テーゼ(3)はテーゼ(2)よりも強い条件である。つまり、ある性質から一つの対象が特定されるだけでなく、その一つの対象が、固有名で指示されている対象であるというのが、テーゼの(3)だからである。ゆえに、テーゼ(2)が偽ならば、テーゼ(3)は偽である。ゆえに、次の反証例による議論は、追加の証明である。

反証例1「ペアノについて、知っていることは、「ペアノの公理」の発見者だということであろう。・・・これらの公理はペアノではなく、デデキントによって最初に発見されたのだ、と私は聞いている。」101
反証例2「アインシュタインのもっとも有名な業績は原子爆弾の発明だ、と言われるのを私はよく耳にした。」

「それゆえ、もしψのほとんどが唯一の対象yによって満足されるならばyは其の名前の指示対象である、ということが成り立つとはおもわれない。それは、端的に誤りだと思われる。」102

テーゼ(4)
反証例1「第一にキケロやファインマンの事例でみたように、投票は唯一の対象をもたらさないことがある。」
反証例2「第二に其の投票がいかなる対象をももたらさない、すなわちψのほとんどあるいはかなりの数すら満足するものがない、と仮定しよう。其のことは、其の名前が指示を行わないと言うことを意味するのか。なりはしない。ある人について、現実には、別の誰かに当てはまるかもしれない誤った信念をもつことがありうるのと同様に、全く誰にも当てはまらないような誤った信念をもつこともありうる。」102
例えば「ゲーデルについての例を変えて、算術の不完全性を発見したものはいなかった――たぶんその証明は、原子のでたらめな拡散によって一枚の紙切れの上に現れたに過ぎない――そしてゲーデルという男は、このありそうにない出来事が起こったときに幸運にもそこに居合わせた、と仮定しよう。」103


テーゼ(5)
「(3)と(4)がたまたま真であるような場合でさえ、この理論が要求するように、典型的な話し手は、それらが真であるとアプリオリに知ることはほとんどない、ということに注意しよう。」104

反証例1「私は、自分のゲーデルに関する信念は実際に正しいものであり、「シュミット」物語はただの空想にすぎない、と考えている。しかし、この信念はとてもアプリオリな知識を構成するものではない。」104
修正案「私は「算術の不完全性を証明したとほとんどの人が考えている男」を意味することにしよう。」こう考えれば、様々な反証を回避できるだろうか。残念ながらそうではない。
修正案への反証「ペアノの事例で、話し手には知られていないが、数論の公理は、彼に帰されるべきでないとほとんどの人が完全にわかっているとしよう。」105 しかし、話し手だけは、「ペアノは、算術の完全性を証明したとほとんどの人が考えている男である」と考えている場合を考えてみよ。
修正案への反論「いっそう重要なことに、そのような規準は、非循環条件を犯しているのである。」105

ストローソンいわく
「同定的な記述は、問題の個体への話し手自身の指示への指示を含んではならないが、その個体への別の人の指示なら含んでもよい。・・・それゆえ、一つの指示は、純粋に同定的な指示としての信任を、別の指示から借りることが出来、それはさらに別の指示から借りることができる。だがこの背進は無限ではない。」107

「つまるところ、我々は、自分たちがその人物を同定するために使う性質のうち、どれが正しいのかを実際に知っているわけではない。」108
「ある人が一人きりで部屋にいる。他の話し手たちの集団やその他一切のものは消えてもかまわない。そして「『ゲーデル』によって、私は、誰であろうと算術の不完全性を証明した男を意味することにする」と言うことによって、自分自身のために指示対象を決定する。・・・もしそうするのならば、シュミットが算術の不完全性を発見したとすれば、「ゲーデルはしかじかのことをした」というとき、実はシュミットを指示していることになる。
 だが、我々のほとんどは、そんなことはしていない。」108

テーゼ(6)について
「もし、記述群は名前の意味の一部であると考えない者がいるとすれば、(6)はこの理論のテーゼである必要はない。彼が「アリストテレス」の指示を、ψのほとんどを持つ男として決定するにしても、彼はなお、アリストテレスがψのほとんどをもたなかったような可能的状況は確かにある。」75
記述群が名前の意味の一部であるならば、「もしXが存在すれば、Xはψのほとんどをもつ」は、分析的な命題である。<分析的な命題は、アプリオリで且必然的である>とクリプキは考えるので、これは、必然的真理を意味することになる。
記述群が名前の意味でないとすると、これは分析的な命題ではないことになる。ゆえに、それはアプリオリではあっても必然的ではないことになる。(これについては、後期に説明します。)


<クリプキの見取り図:指示の因果説>
「誰か、たとえば一人の赤ん坊が生まれたとしよう。その両親は彼をある特定の名前で呼ぶ。両親は、彼のことを友人たちに話す。他の人々が彼に会う。様々な種類の会話を通じて、其の名前は次から次へとあたかも鎖のように広がっていく。この連鎖の末端にいて、市場かどこかでたとえば、リチャード・ファインマンのことを聞いた話し手は、たとえ最初に誰からファインマンのことをきいたのか、あるいは一体誰からファインマンのことを着たいのかさえ思い出せないとしても、リチャード・ファインマンを指示することができるだろう。彼は、ファインマンが著名な物理学者であることを知っている。」108


・ストローソンとの違い
 「この見解は、ひとつの同定的な指示は、其の信任を別の同定的な指示から借りることも出来る、という先に述べたストローソンの提案とどこがちがうのか。」109
  差異1:ストローソンは、記述理論を擁護している。
  差異2:ストローソンは、「話し手は自分の指示を誰から得たのかをしっていなければならない」109と考える。
  差異3:「ストローソンは、伝達連鎖の見解を記述理論に適合させようとして、話し手が自分の指示の源泉だと考えるものに頼っているのである。もし話し手が自分の源泉を忘れてしまえば、ストローソンの使う記述を彼はりようできないことになる。もし彼の記憶が間違っていれば、ストローソンの範例は間違った結果をうむこともありうる。我々の見解では、大事なことは話し手がいかにしてその指示を手に入れたとかんがえているかではなくて、伝達の現実の連鎖なのである。」111


「一つの理論としては、概略次のようにいえるかもしれない。最初の「命名儀式(baptism)」が起こる。ここでは、対象は直示によって命名してかまわないし、また名前の指示は記述によって固定してかまわない。名前が「次から次へと受け渡される」時、名前の受け手は、私の考えでは、其の名前を学ぶにあたって、それを伝えてくれた人と同じ指示でそれを使うことを意図せねばならない。もし、「ナポレオン」という名前を耳にして、自分のペットのツチブタに格好の名前だと決めるならば、私はこの条件を満たしていない。」115
「以上の概略は、指示の概念を消去するわけではない、ということに注意しよう。逆にそれは、おなじ指示を使うことを意図するという概念を、既定の事実と見なしている。また最初の命名儀式にも訴えているが、それは記述による指示の固定かあるいは直示(もち直示が他のカテゴリーにふくまれないならば)のどちらかによって説明されるのである。」115




 前期の講義は、これで終わりです。
 クリプキの固有名論の説明の途中で切れることになり、申し訳ありません。
 しかし、サールによる記述説批判とクリプキによる記述説批判は、紹介できたので、一つの区切りにはなるとおもいます。

 後期の講義は、クリプキによる「アプリオリ」と「必然性」の区別を紹介し、検討することから始めたいとおもいます。