第6回講義 2001年11月20日


第一章 命題的指示と発語内的指示

第二章 クワインの「指示の不確定性」テーゼの検討

第三章 固有名をめぐる論争の検討

§8 サールの記述理論批判の検討

§9 サールの固有名論

§10 クリプキの固有名論

§11 クリプキによる「アプリオリ」と「必然的」の区別

§12 サールのクリプキ批判


§13 固有名をめぐる議論のまとめ

 

1、記述説の欠点

 記述説には、次の三通りが考えられるだろう。

(1)記述句(ないし記述群)が固有名の意味を定義すると考える、記述説

(2)記述句(ないし記述群)が固有名の指示対象を定義すると考える、記述説

(3)記述句(ないし記述群)が固有名の指示対象の特定に寄与すると考える、記述説

 

(1)と(2)は、記述が変化すると、固有名の指示対象をかえなければならない、という不都合が生じる。

(3)は、指示対象の特定に寄与するとしても、記述だけで指示対象を特定できないのだとすると、「固有名は、どのようにして対象を指示するのか」という問いへの十分な答えにはならない。

 

2、因果説の欠点

(1)命名儀式における説明が、因果説にはなっていない。

(2)固有名の伝達の説明が不十分である。

 

(1)と(2)はいずれもサールの指摘があたっている。

 

3、現在の私の結論

記述説は、固有名に関する問いに答えられていないので、不十分である。

因果説は、サールが指摘するように、あるいはクリプキが認めるように、まだ身と取り図(picture)にしかなっておらず、細部が詰められていない。しかし、「固有名がどのようにして対象を指示するのか」といえば、その答えは、

A「最初の命名儀式で確立した特定対象への指示関係が、次の使用者に伝達されるので、固有名は、特定の対象を指示することができるのである」

という答えが正しいように思われる。

もちろん、<命名儀式には、記述が不可欠である>、また<伝達する際にも、記述が不欠である>などの可能性が残されている。

しかし、これらのことが仮に証明されたとしても、それは、記述説批判と両立するにちがいない。なぜなら、記述説は、上にのべた理由で、維持しがたいからである。

 さらに言えば、上の答えAを因果説と呼ぶことが適切であるかどうかは、細部のpictureを詰めたときに考えたいと思う。

 

 

 第4章 指示と相互顕在性

 

§14 指示の前提

クワインは、ラッセルの記述理論を徹底して、すべての指示表現を、記述に置き換えることを主張した。それは、<何が指示可能であるか>つまり<何が存在するか>の答えは、世界を記述する言語に相対的であるという立場をとることでもあった。

 一方、固有名を認めることは、その指示対象が存在すると考えることである。しかし、何に対して固有名を命名するかは、規約の問題であるから、固有名をみとめること、あるじは固有名の因果説を認めることが、直ちに一定の存在論と結びつくわけではない。

 しかし、<何が指示可能であるか><何が存在するか>は本当に単に規約の問題であろうか。たとえば、「わたし」という指標詞による指示が、単に規約の問題であるといえるだろうか。あるいは、もし、指示そのものが一定の世界を前提することによってのみ可能になるのだとすれば、何らかの<指示>を認めるとき、つねに一定の世界を認めることになるだろう。それは、規約の問題ではないということになるだろう。では、その世界は、どのような世界であろうか。

 

1、言葉で対象を指示する三つの仕方

言葉である対象一つの対象を指示する仕方には、次の三つがある。

(1)単称確定表示句

(2)固有名

(3)指標詞

(1)の単称確定表示句は、次のように区分できるだろう。

(a)指標詞を用いないもの:たとえば

「もっとも小さい自然数」

「世界でもっとも早く走る人」

「世界でもっとも有名なテロリスト」

(b)指標詞を用いるもの

 (b1)指標詞で直接に対象を特定するもの

       「この本」「この人」

 (b2)指標詞で間接に対象を特定するもの

       「この人の妻」「その本の隣にある鉛筆」

普通には、(1)は、(b)を含ないのかもしれない。あるいは、少なくとも(b1)を含まないのかもしれない。しかし、(b1)も(b2)も、単なる指標詞ではないので、上の分類では、(1)のなかに含めざるを得ないだろう。勿論、固有名を用いた単称確定表示句「ヒラリーの夫」「ナポレオンの帽子」(このような帽子が一つだとしよう)なども、(a)に含まれることになる。

 

ところで、最初に学習される指示は、これらのうちのどれだろうか。指標詞だけの「これ」「あれ」や「この本」「あの木」などであろうか。否むしろ、単に「本」「電気」「机」などの言葉で、対象を指示するだろう。それは指さしや目線をむけることが伴っているに違いない。そして、さらにその前は、指さしながら「あっ」というような言葉(?)になる。

 つまり、言語による指示が成立するためには、指さしが成立していなければならないのである。そこで、われわれはまず、「指さしで、一つの対象を指示することはどのようにして可能になるのか」を問うことにしよう。

 

2、指さし、鏡像理解、誤信念の理解

 

<指さしの発生>

「9ヶ月から12ヶ月をすぎるころになると、・・・赤ちゃんは、ただ物にのみ意識があるのではなく、大人の注意がどこにあるかに対しても意識があるのである。これは、通常、共同注意と呼ばれる、また特殊なケースとして、大人の注意が赤ちゃん自身にむくことがあるかもしれないが、赤ちゃんは、その注意が自分自身に向かっていることに気づいている。つまり、彼らの共同注意の対象が自分(me)であることを知っているのである。こうしたことは、自分に対する他者の注意をモニターすることのはじまりであり、そしてそれこそが真の自己概念の始まりだと、トマセロは主張する。」(板倉昭二『自己の起源――比較認知科学からのアプローチ』金子書房p.30

 

<自己意識の発生?>

・赤ちゃんが鏡を見たら

「まず最初は、鏡に映った自分の像を「他者」だとみる時期である。生後6ヶ月から11ヶ月に最もよく見られる反応で、鏡の像に対して、笑いかけたり、手で触れたあり、声反応がみられるようになるい、次の段階に移行する。

 次の段階は、鏡を避ける反応が見られる時期で、15ヶ月から24月例にかけてピークとなる。この時期には、鏡像に対してしり込みしたり、泣き出したりする そのつぎの段階は21月齢から24か月齢にはじまる。いわゆる「自己認知」の時期である。これまでが、他者に対する社会的な反応であったのにたいして、この時期にはそのような社会的反応は消えて、恥ずかしそうに鏡を見たり、当惑したような表情を見せたり、おどけた顔をしてみせたりとったような反応がみられる。また、口紅のつけられた部分をよくみようとしたり、手で触れたりする反応も見られるようになる。」(板倉p.45

これをルージュテストという。なお、これが直ちに、いわゆる自己意識の成立を意味するかどうかについては、板倉は慎重である。

 

・大型類人猿の場合

オランウータン、チンパンジー、ゴリラは、自分の像だと分かるようだ。マーカーテストによる。しかし、テナガザルは自己認知テストには失敗した。

「ニホンザルでも、訓練しだいでは、「鏡による自己の認識」が可能になる、ということだろうか。」(板倉p.70

板倉は、自らニホンザルに訓練することによって、自己認知が出来ているといえるかもしれない事例を示している。

 

<固有名と一人称の使用>

「幼児は、いつから自分の名前を理解したり、使用したりするのか。」

「幼児は、いつから一人称代名詞を使用するのか」

 

マクニールの『ことばの獲得』(大修館書店)の発話例では、二歳児は、すでに「わたし」を使用している。「二歳児では、自称のために固有名と一人称代名詞と三人称単数代名詞とを混同することがある。」(村田孝次『幼稚園期の言語発達』培風館37

 

 

<自己意識と言語の関係>

自己意識は、心理学では、鏡像段階(6ヶ月―18ヶ月)に成立すると言われている。しかし、鏡の中の像が、自己だと理解するのは、板倉昭二によれば、21−24ヶ月らしい。これは、言語の出現(24ヶ月)の時期と重なる。言語の獲得と、自己意識の成立は、同じころである。このころを自分のことをAちゃんとよぶようになるのだろうか。

 しかし、幼児が言葉を話せるようになっても、知と対象、自己と他者の区別を明確に行っているのではない。

 

 幼児は、物の名前を物の性質だと考える。それと同じく人の名前も人の性質だと考える。ゆえに、ある人の名前は、ある人をみればわかると考える。

それゆえに、自分の名前も自分の属性だと考えているに違いない。だから、他人は、自分を見れば自分の名前がわかるのだと考えているだろう。

 これは、誤信念を理解できない段階であろう。

つまり、4歳くらいになると、自分が知っている名前を他人が対象をみても分からないということがわかるようになるのではないか。

 

(どうやら、チンパンジーの「アイ」は板倉によると、人称代名詞を使用することが出来る。しかし、指さしはしない。鏡の中の像を自己像として理解できる。)

 

<「誤信念」理解、あるいは「心の理論」>

参考文献:金沢創『他者の心は存在するか』金子書房

     板倉昭二『自己の起源――比較認知科学からのアプローチ』金子書房

     バロン・コーエン、ヘレン・ターガー・フラスバーグ、ドナルド・J・コーンエン『心の理論』上下、八千代出版

 

いかに述べる「誤信念」を理解するとき、「心の理論」をもつ、といわれる。

・チンパンジーの場合

Premack and Woodruff 「チンパンジーは心の理論を持っているのか」(1978)は、チンパンジー、サラが、人間の意図を理解し、行為を予測することが出来ると論じた。

これに対して、Dennettが「疑信念」(false belief)を理解していることを確かめる思考実験を考えた。

「まず、一人目の実験者(ヒト)が、バナナの入ったロッカーの鍵を赤い箱にいれ、部屋を出て行く。つぎに、別の実験者(ヒト)が部屋に入ってきて、鍵を緑の箱にうつしてしまう。これらの場面をチンパンジーは観察しているとする。このとき、一人目の実験者が部屋に戻ってきて、このチンパンジーに バナナをあげようとする。するともしチンパンジーが適切にヒトの心の状態を推論できるとすれば、チンパンジーは この戻ってきた実験者が赤い箱の方へ行くだろうと予測するはずである、果たして、そのようによそくするであろうか。」(金沢68

 

この実験は実際には行われなかったが、Povinelliとその共同研究者は、若いチンパンジーについての実験の結果、「偽信念」を理解していないことを証明した(1990)。そして、ポヴィネリは、同じ実験を人間におこなったなった結果、3歳児は、課題に失敗し、4歳児は成功することを確認した(1992)。(板倉、pp.175-178)

現在のところ、チンパンジーが誤信念を理解したという報告はなさそうである。

 

・健常児の場合

Wimmer and Perner(1983)は、「マキシとチョコレート」と呼ばれる実験をおこなった。

「この課題では、マキシが部屋を出ている間に、品物(チョコレート)がおもいがけず、別の場所に移される。その後、子供にマキシはチョコレートがどこにあると考えているとおもうか、または、マキシはチョコレートを見つけるためにどこを探そうとおもうか、といった質問をする。この課題での主な発見、――この発見は、その後何度も追試されているのだが、――は、3歳またはそれ以上の子供しか、この課題を通過しないということである。」(『心の理論』上、p.7)

 

<まとめ>

 共同注意、指さし 9−11ヶ月

   自己意識     2124ヶ月

   誤信念の理解   3−4歳

 

 

<自閉症児の研究における、誤信念テストと指さしの関係>

・誤信念テスト

この誤信念のテストを自閉症研究に最初に適用したのが、Baron-Cohen et al.(1985)である。「サリーとアン」のテストと呼ばれる。4歳児で正答率は、20数パーセントであるらしい。これに答えられる自閉症児も、さらにメタレベルの誤信念になると答えられないようである。

 

・自閉症児は、指さしをあまりしない。

「自閉症児には、原叙述(protodeclaratives)がほとんど欠如することが見出されている。これら指さしによる身振りは、ジョイント・アテンション行動にも含まれるものである。」上204

 

「自閉症児は、接触的身振り(contact gesture)を発達させる傾向にある。ここでの接触的身振りとはあ人々と接触しようとするものであり、たとえば、手首や手をつかんで自分の行きたい場所や欲しいものがあるところにヒトを引いていくといった、よく知られた行動も含まれている。直接ものに手を伸ばしたり、ものを与えるという行動は自閉症児においても記述されるが、健常児において典型的身振りである指差しは、自閉症児においてはほとんど見られない。」下188

「自閉症児のコミュニケーションは贔屓目にみても要求的であるにすぎない。すなわち自閉症児のコミュニケーションは、「原命令」のみであり、「原叙述」はほとんどない。指差しやジョイント・アテンション行動をしめすことができる自閉症児においてさえ、対象物や行為を要求するためにのみ、これら指差しやジョイント・アテンション行動をとっているように思われる。」下188

 {「ジョイント・アテンション」は「共同注意」と訳されるときがある。ここでは、ゴリラもジョイント・アテンションをおこなう(198)と書かれているが、その意味は不明である。}

 

「ものを指差す、ものを見せる」という二つのカテゴリーがこのゴリラのレパートリーのなかには、見られない。」下192 {ここで「ものを見せる」というのは、提示(showing)ではなさそうである。}

 

・「心の理論の先行指標としての原叙述」仮説

原叙述的身振りは「メタ表象」を必要とする、と考えられがちであった。それは、以下のようなかんがえになる。

「原叙述的身振りをする乳児の目標は、他者と「ある事態の経験を共有する」ことであり、「世界の中の対象物や事象についての興味を共有する」ことである。これは、他者の精神状態を表象する能力、――すくなくとも、他者が何かを知覚したり、何かに興味をもっていると表象できる能力――を意味している。要約すれば、要求は、身近な物理的事象の単純な表象であるのに対して、原叙述はより複雑な表象形式――二次的表象または他者の精神的経験の表象――を必要とする。」下195

 

これに対して、この本では、つぎのような解釈が提案されている。

 

・一次的表象行動としての原叙述

「何らかの対象物を人に提示する乳児の目標は、精神的経験をその人に引き起こすことにあるのではなく、情動的・注意的反応を引き起こすことにあるというものである。乳児は、人々がものに注意をむけたとき、人々の経験の知的側面に興味があるのではなく、この経験に伴って現れる人々の表現に興味をもっているのである。」(pp.201-202)

 

3、指さしの分析

(以下に示すように、前期第6回講義(2001.05.29)§番外編 予備考察(相互知識への諸段階)を大幅に訂正する必要があるようです。)

 

<チンパンジーとアイコンタクト>

 チンパンジーが、人間に何かを見てもらいたいとおもって、ヒトとものを交互に見たり、ヒトをそこへ連れてゆこうとする。

 チンパンジーがそれに成功したとき、

    チンパンジーは、Xを見ている

チンパンジーは、相手がXを見ることを知る

しかしおそらく、チンパンジーは、自分がXを見ていることを知らないだろう。そのためには、メタ表象が必要である。

アイコンタクトの場合を考えよう。

チンパンジーは、相手を見る。

    チンパンジーは、相手が自分を見ていることを知る。

しかしおそらく、チンパンジーは、自分が相手を見ていることを知らないだろう。そのためには、メタ表象が必要である。

 

 ベイトソンは、「相互覚知」をつぎのように説明していた。

「相手がこちらを知覚していることをこちらが知っており、相手もこちらが知覚している事実をわきまえている」(ベイトソン&ロイシュ『コミュニケーション』思索社、原書1951年、訳p.224)

これを整理すれば、つぎのようになるだろう。

  (1) 私は、相手を知覚している。

  (2) 相手は、私を知覚している。

  (3) 私は、相手が私を知覚していることに気づく。

  (4) 相手は、私が相手を知覚していることに気づく。

チンパンジーには、これらは、成立する。しかし、つぎの(5)は成立しないだろう。

(5) 私は、私が相手を知覚していることを知っている。

 

チンパンジーには、たしかに鏡像理解のような自己の理解はある。しかし、これは、自己の身体の理解である。(5)は自分がもつ意識を意識することである。これは、表象することを表象するというメタ表象であって、(単なる一次表象ではないかもしれないが)<身体の理解>とは異質である。

 

 

<指さしと一次表象>

自己意識は、二次表象である。

二次表象の獲得は、誤信念の理解によって確認できることである(他に確認の方法がありそうだが)。

 指さしの段階では、二次表象は成立していない。

 

幼児が、ある対象を指差して「アー」と声をあげて、母親がそれを見ることをもとめる。母親がそれを見て反応すると、幼児は満足する。ここでは、次のことが成立していると前期第六回講義で書いた。

(1)幼児が、対象xを指差す。

(2)母親は、幼児が対象xを指差すのを見る。

(3) 母親が、対象xを見る。

(4)幼児は、母親が対象xを見るのを確認する。

(5)幼児は、<母親が、幼児が対象xを指差したから、対象xを見た>ことを知っている。

しかし、(5)が成立しているかどうかは、よく分からない。

 

ところで、逆の場合を考えよう

(1)母親が、対象xを指差す。

(2)幼児は、母親が対象xを指差すのを見る。

(3)幼児は、対象xを見る。

(4)母親は、幼児が対象xを見るのを確認する。

このとき、つぎの(5)は成立するだろうか。

   (5)幼児は、自分が対象xを見ていることを母親が気づいていることを気づく。

もちろん、<自分が対象xをみているという自分の意識状態に母親が気づく、ということに幼児が気づく>ということはありえないだろう。なぜなら、まだメタ表象を獲得していないからである。

つまり可能性があるのは、<自分が対象xを見ていること>というのが、<自分がそちらに手を挙げている>というような身体運動だと考える場合である、たとえば、自分が手を挙げていることに母親が気づくことに気づくだろうか。そのためには、自分の身体を理解していなければならない。それもまた、まだであろうから、このような気づきはないだろうと思われる。

 

 しかし、ここには、提示とはべつのことが起こっているはずであり、また自分の身体の理解が生じても、生じるとはかぎらないことが起こっているはずである。それはなにだろうか。それは、関連性理論がいう「相互に顕在的」(mutual manifest)ということではないだろうか。