2001年度 二学期 言語哲学講義

                            

この講義は、シラバスにあるように、前期の続きです。

前期に受講していなかった学生は、前期の講義ノートを読んでおいてください。

"http://bun72.let.osaka-u.ac.jp/irie/"

 

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言語哲学講義   指示と問答(1)  前期  (学部・大学院共通)

 

 分析哲学の初期のパラダイムは、ラッセルの「記述の理論」でした。前期ウィトゲンシュタインも論理実証主義もこのパラダイムを整備しようとする仕事だったと見なせると思います。しかし、このパラダイムは様々な難点にさらされ崩壊しました。難点とは、論理の規約主義への批判、指示の不透明性、私的言語の不可能性、固有名についての記述説の批判、などです。これらの難点は、すべて「指示」の理解に関連しています。この講義では、問答関係に注目しながら、指示するとはどういうことか、どのようにして指示が成立するのか、を考えたいとおもいます。相互知識の成立という問題と絡めて分析する予定です。

 

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言語哲学講義   指示と問答(2)  後期  (学部・大学院共通)

 

 前期につづいて、指示を問答関係に注目して、また相互知識にも関連付けて考察します。前期での指示の分析が順調に進めば、後期にはそれを踏まえて、「反実在論」の可能性を探りたいとおもいます。ここでは反実在論を証明するというよりも、そもそも反実在論がどのような立場になるのかを、出来るだけ明確に規定することを目標にしたいとおもいます。

 

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第三章 固有名をめぐる論争の検討

§11 クリプキによる「アプリオリ」と「必然的」の区別

 

1、「アプリオリ」と「必然的」の区別

クリプキによると、「アプリオリ」は認識論の概念であり、「必然的」は形而上学の概念である。

 

<アプリオリとは?>

「アプリオリな真理とは、いかなる経験にも依存することなく知ることができるものである」38

「「アプリオリに知られうる」は「アプリオリに知られねばならない」を意味しはしないのである。」40 たとえば、ある数が素数であることは、アプリオリに知りうることである。しかし、そのことを計算機をつかって知るとき、「我々が、もしこの数が素数だと信じるならば、物理学法則やその機械の構造などの知識にもとづいて、それを信じるのである」つまり、経験的な証拠に基づいて知るのである(Cf.40)

 

<必然的とは?>

物理的必然性と論理的必然性

{カントならば、カテゴリーとしての必然性が物理的必然性であり、アプリオリと同じ意味で用いられる必然性が、論理的必然性である。}

 

「2より大きな偶数は二つの素数の和でなければならない、というのがゴールドバッハの推測である。もしこれが真ならば、おそらくそれは必然的であろうし、もし偽であれば、おそらく必然的に偽であろう。ここで、われわれは、数学の伝統的見解をとって、その推測は数学的実在の中で真か偽かのいずれかである、と仮定する。」41

 

 ゴールドバッハの予想について「われわれは、それが真が否かをアプリオリに知ることが原理的にはできる、とおそらく主張されるであろう。確かに、できるかもしれない。もちろん、全ての数を調べることの出来る無限の知性ならばできる。またはできうるだろう。だが、有限の知性にできる、または出来うるかどうかをわたしは知らない。」42

 

つまり、<「コールドバッハの予測は真である」という命題が、真であれ偽であれ、それは必然的に真、ないし必然的に偽である>と言えるのだが、<「コールドバッハの予測は真である」という命題が、真であれ偽であれ、それはアプリオリに真である、ないしアプリオリに偽である>とはいえない。

 

結論:「したがって、言明に適用された「必然的」および「アプリオリ」という述語は、明白な同義語ではない。」

 

2、アポステリオリな必然的真理とアプリオリな偶然的真理が存在する。

「アポステリオリな必然的真理とそしておそらくは、アプリオリな偶然的真理とが共に存在することを、私は以下で主張するつもりである。」43

 

表にするとつぎのようになる。

   

 

アプリオリ

アポステリオリ

必然的

偶然的

 

○は、従来から認められている。

◎は、従来は認められていなかったがクリプキがはじめてその存在を主張した。 

 

<二つが同義と考えられた理由>

理由1:従来は<必然的に真な命題は、アプリオリに知られる>と考えられていた。

「第一に、もし何かが現実世界でたまたま真であるのみならず、全ての可能世界でも真であるとしたら、頭の中で全ての可能世界を通覧することだけによって、われわれはしかるべき努力の末に、もちろん必然的な言明は必然的であると知り、したがってアプリオリであると知ることができるはずだ、という考えである。」43f

 

理由2:従来は<アプリオリに真と知られる命題は、必然的に真である>と考えられていた。

「第二の理由は、もし何かがアプリオリに知られるならば、それは世界を探索することなしに知られたのだから必然的でなければならない、という逆の考えから来るものと私は思う。もし、それが現実世界の偶然的な特徴に基づいているとしたら、探査することもせずにどうしてそれを知ることが出来るのだろう。現実世界は、それが偽であるような可能性世界の一つであるかもしれないではないか。このことは、探査もしないで現実世界について知る方法があれば、それは同じことを全ての可能世界についても知る方法に他ならない、というテーゼに基づいている。」44

 

 

<「固定指示子」の定義>

「「諸可能世界にまたがる同一性」と呼ばれる概念が必要である。

「ある言葉があらゆる可能世界において同じ対象を指示するならば、それを固定指示子(rigid designator)と呼ぼう。そうでない場合は、非固定(nonrigid)または偶然的指示子(accidental designator)と呼ぼう。もちろんわれわれは、対象がすべての可能世界に存在することを要求しない。・・・ある性質がある対象に本質的であると考えるとき、われわれは普通、その対象が存在したであろうどんな場合においても、その性質はその対象について真となる、といっているのである。必然的存在者を指す固定指示子は、強い意味で固定的と呼ぶことが出来る。」55

 

<固有名は固定指示子である>

「この講義で私が主張しようとする直観的なテーゼの一つは、名前は固定指示子であるというものである。」55

 

「たとえば「1970年のアメリカ大統領」はある特定の男、ニクソンを指示する。しかし、ニクソンではなく、他の誰か(たとえばハンフリー)が、1970年の大統領だったかもしれない。それゆえ、この指示子は固定的ではない。」

 

単称確定表示句は、固定指示子ではない。

「これ」「私」などの指標子も、固定指示子ではない。

 

「フレーゲ−ラッセルの見解は、名前の意味の理論とも(フレーゲとラッセルはそうとったようである)、あるいは単に名前の指示の理論とも、どちらにもとることが出来る。これを説明するために、「固有名」と普通呼ばれているような言葉を含まない例を挙げよう。」62

 

<メートル原器の例>

「1メートルはSの長さであるとする、ただしSはパリにある一定の棒である」62「棒Sはt0において、1メートルの長さである」という言明はアプリオリである。なぜなら、「1メートル」の定義だからであり、これの正しさを知るために、経験を必要としないからである。これは、認識論的にはアプリオリである。

 「1メートル」が固定指示子であるとすれば、この言明は、形而上学的には、偶然的言明である。(「水は海水面では、摂氏100度で沸騰する」という言明も同様である。)これは、「偶然的でアプリオリな真理65の例である。

 

「「一メートル」が固定指示子と見なされるならば、「Sは一メートルの長さである」の形而上学的地位は、偶然的言明のそれであろう。適当な圧力とひずみ、加熱や冷却の元では、St0においてさえ一メートル以外の長さであったかもしれない。それゆえ、この意味において、偶然的でアプリオリな真理が存在するのである。」65

しかし、より重要なことは、「これが指示を固定する「定義」と同義性を与える「定義」との間の区別を具体的に示しているということである。」65

 

<指示を固定する定義と同義性を与える定義>

 次の例で説明しよう。

・「1メートルは、棒Sのt0における長さである」

「1メートル」は固定指示子である。「棒Sのt0における長さ」は非固定指示子である。一メートルが、これと一致することは偶然的である。ゆえに、「1メートルは、棒Sのt0における長さである」は、アプリオリで偶然的な真理である。指示を固定する定義である。

 

・「πは円周率である」

πは、ある実数の名前として使われており、しかもその実数は必然的に円周率なのである。「ここでは、「π」と「円周の直径に対する比」は両方とも固定指示子なのであり、それゆえメートルの場合になされた議論はあてはまらないことに注意ししよう」69

「π」も「円周率」も固定指示子である。ゆえに、「πは円周率である」は同義性を与える定義である。これは、アプリオリで必然的な真理である。

 

・これを固有名に応用すると次のようになる。

「ニクソンは、1970年のアメリカ大統領である」

「ニクソン」は固定指示子である。「1970年のアメリカ大統領」は非固定指示子である。ゆえに、上の命題は、アプリオリで偶然的な命題である。

しかし、上の命題が、「ニクソン」の同義性をあたえる定義、つまり「ニクソン」の意味は、「1970年のアメリカ大統領」であるという定義であるとするならば、上の命題は、アプリオリで必然的な真であることになる。そのとき「ニクソン」は非固定指示子である。

 

「フレーゲは、「意義(sense)」という術語を、二つの意味で使ったかどで批判されるべきである。というのも、彼は指示子の意義をその意味(meaning)ととりながら、同時にその指示が決定される仕方ともとっているからである。両者を同一視することによって、彼は両方とも確定記述によって与えられるものと考えている。最終的に、私はこの第二の考え方も拒否するつもりでいる。しかし、たとえそれが正しいとしても、私は第一の考え方は拒否する。記述は指示子と同義的に使われることもあれば、指示対象を決定するために使われることもある。そうしたフレーゲ流の「意義」の二つの意味は、日常会話における「定義」の二つの意味に対応している。それらは、注意深く区別されるべきなのである。」

 

 

<同一性言明について>

「同一性言明は必然的か、それとも偶然的か」116

 

(1)二つの記述句の同一性

「二重焦点眼鏡を発明した男がアメリカの初代郵政長官であった」は、偶然的に真である。116

 二つの非固定指示子の同一性は、偶然的である。上に見たように、固定指示子と非固定指示子の同一性も、偶然的である。

 

(2)二つの固有名の同一性

「ヘスペラスは、フォスフォラスである」「キケロはタリーである」などは、二つの固定指示子の同一性であるから、必然的である。

 

・クワイン−マーカス論争

マーカスは、名前の間の同一性は、必然的であるという。

クワインは、偶然的であるという。

「クワインがいうように、おなじ惑星に二度名札をつけたことを発見したとき、我々の発見は経験的であった。」119

クリプキは、「エベレストはゴーリサンカーである」は経験的でありアポテリオリな真理であるが、名前は固定指示子であるので、必然的な真理である、という。つまり、アポステリオリで必然的な真理である。