「指示と問答(2)」第三回講義 2001年10月30日

§番外編 「ボランティアに関する哲学的な問題」

    (この文書は、ある出版予定原稿の後半部分の下書きなので、

出版た時点で撤去するかもしれません)

 

1 はじめに

 

ボランティア活動の側から、哲学に解決を求める問題があるだろうか。あるいは、哲学の側から、ボランティアについて考えて見なければならない問題があるだろうか。

ボランティア活動の側から、哲学にその解決が求められている第一の問題は、「もし宗教に依拠するのでなけば、自分たちがやっているボランティア活動は何を思想的な基盤とすればよいのか」という問いであろう。

哲学の側からボランティアについて考えて見なければならない問題があるとすれば、ボランティア活動を社会の中にどのように位置づけるか、という社会哲学の問題になるだろう。それは、社会をどのように構想するかという問題でもある。この問題は、人間ないし自我をどのように理解するかという問題とつねに結びついているので、実は、「ボランティア活動は何を思想的な基盤とすればよいのか」という問題とも結びついているのである。

ここでは、これらの問題を、近年の三つ論考をもとに考えたい。

 

2、金子郁容のボランティア論

 

金子郁容の『ボランティア もうひとつの情報社会』(岩波新書、1992年)は、ボランティアの楽しさを今までになく非常に的確に表現してくれた書物である。彼は、ボランティアの魅力を次のよう捉える。「ボランティアは「助ける」ことと「助けられる」ことが融合し、誰が与え誰が受け取っているのか区別することが重要ではないと思えるような、不思議な魅力にあふれた関係発見のプロセスである」(6頁)これが、ひとがボランティア活動するときの思想的な基盤である。

 そして、このようなボランティア活動につぎのような社会的な期待をかけるのである。「私は、ボランティアを個人がひっそりとやる、大勢に影響のない「小さな美しいこと」と捉える従来の考え方はとらず、ボランティアをもっとひろく深い可能性をもったものとしてみる。私は、ボランティアの提示する関係性、つまり、個人や社会への「かかわり方」と「つながりのつけ方」は、社会を多様で豊かなものにする、あたらしいものの見方と、新しい価値を発見するためのひとびとの行動原理を提示するものであり、社会の閉塞状況を打破するためのひとつの「窓」になるのではないかと思っているのだ」(69-70頁)

 

 以上の主張をもう少し詳しくみよう。

金子は個と全体に関するあたらしい考え方として、次ぎのように社会について論じる。

「近代以前の社会、とくに、市場経済が発達する以前の社会においては、個と個は生活共同体の中で互いに依存する関係にあり、個は全体に従属していた。近代においては個と個の相互依存度は低まり、また、個は全体からの従属から解き放たれ、独立性を獲得したかに見える。しかし、それは厳しい条件付の独立――経済や社会を運営・管理する「官僚システム」によって規定される行動様式にしたがっている限りにおいての独立――にすぎない。獲得したとみえた独立は、個の孤立と、巨大全体システムへのいっそう深いレベルでの従属との引き換えに得られたものであったというわけだ。

「宇宙船地球号」的発想は、個と全体に関する新たな考え方――新しい価値観――といってもいいだろう。――をもたらしているのではないだろうか。つまり、従来のように独立と従属を対立させるのではなく、個と個は互いに依存しながら全体を構成しているという社会の捉え方だ。」(87頁)

伝統的な共同体でもなく、また近代的な自由主義でもない、個人と社会の第三のあり方を探求するというのは、実は社会哲学の領域では、ヘーゲル以来延々ト続いている課題であり、現代の自由主義とコミュニタリアニズムの論争でもこれが問題になっている。この取り組み自体は、とりわけ新しいわけではない。金子を含めた最近のボランティア論の新しさは、その第三のあり方(金子は、「「宇宙船地球号」の発想」とか「相互依存のタペストリー」と名づける)の現実を、ボランティア活動にもとめる点である。

「「ボランティアのかかわり方」が基礎をおく個人と社会の見方は、「宇宙船地球号」の発想と基本的には同じものである。ボランティアは、困難を抱えている人に遭遇したとき、その人と自分の間に経済的な、またその他の直接的な関係がなくとも、また、その人がかならずしも自分と同じグループに属さなくとも、つまり、自分と人種、国籍、境遇などを共有しなくとも、その人と自分が相互依存性のタペストリーによって結びついているという状況へのかかわり方をするのである。」(87頁)

 

金子は、ボランティアを次のように定義する。

「ボランティアとは、困難な状況に立たされた人に遭遇したとき、自分とその人の問題を切り離して考えるのではなく、相互依存性のタペストリーを通じて、自分自身も広い意味ではその問題の一部として存在しているのだという、相手へのかかわり方を自ら選択する人である。表現をかえるなら、相互依存のタペストリーのなかで、「他人の問題」を切り取らない、傍観者でいない、ということである。」111

 このようなボランティアは、「自発性パラドックス」に巻き込まれるという。ボランティアは、いわばやらなくてもよいことをやるのだから、そこには何の後ろ盾もない。「人が自発性に基づいて行動するとき、なにを、どのように、どこまでするか、原則としてすべて自分にかかってくる。自分で決めたことであるから、その妥当性を、上司の命令、組織の規則、社会の通念、契約上のとりきめといった、「外にある権威」によって正当化することは出来ないからである。」(106) そこで、自分が自発的に行為の結果、自分が苦しい立場においこまれることになる。これを金子は、「自発性パラドックス」と名づけた。

「「ボランティアとしてのかかわり方」を選択するということは、自発性パラドクスの渦中に自分自身を投げ込むこと、つまり、自分自身をひ弱い立場に立たせることを意味する。」この「ひ弱い」、「他からの攻撃を受けやすい」ないし「傷つきやすい」状態を、金子は、「バルネラブル(vulnerable)」と表現する。「ボランティアは、ボランティアとして相手や事態にかかわることで自らをバルネラブルにする」(112頁)のである。

では、人はどうしてボランティアをするのか、言い替えると、どうしてあえて自分をバルネラブルにするのだろうか。金子は、「それは、問題を自分から切り離さないことで「窓」が開かれ、頬に風が感じられ、・・・意外な展開や、不思議な魅力のある関係性がプレゼントされることを、ボランティアは経験的に知っているからだ」(112頁)と答える。

 「相互性を前提としたものごとの成立は、コントロールできないし、結果を保証できないので、ひ弱いと見られることが多い。」103しかし逆に金子は、「相互依存性の「ひ弱さ」が、実はボランティアの魅力と、力の可能性の源である」103ことを示そうとするのである。

 

金子は、「他人の問題」を自分の問題と切り離して捉えるか、自分の問題の一部として捉えるかは、選択の問題であり、ボランティアは後者を選択するが、しかし、人は後者を選択すべきであるとは言わない。ボランティアが、後者を選択する理由については上に述べたとおりである。では、金子が、後者を選択すべきであると考えない理由はなにだろうか。金子は次のように述べている。

「すべての問題を自分につながっているものとして考え、その解決に向けて行動するなどということは、現実に出来るわけはない。したがって、どんな人であっても、どの問題に関してどの程度切実な結びつきを認めるかという選択をすることになる。その選択は、その人が、自分の経験と関心と好奇心と直観によって決めるものであり、他から強要されるべきものではない。したがって、ボランティアをしている人が、していない人を非難するということは、適当ではないし、逆効果にもなりかねない。ボランティアは脅迫してやらせるものではない。できるのは、何か楽しいことが起こるかもしれないよと「誘う」だけである。」110f

 多くのボランティアは、「他人の問題」が自分の問題でもあり、それゆえにその問題に取り組む責務があると考えているのではないであろうか。このような態度は、「他人の問題」について詳しく事情を認識すれば、実はそれが自分の問題でもあり、その解決について自分にも責務があることがわかる。そのことは客観的な事実であり、そのような事実の認識に基づいてボランティア活動をするという態度である。このような立場からすると、ボランティア活動は、(人間としての道徳的責務であれ、市民としての政治的責務であれ)責務であるということになる。確かに、我々は南の国の貧しい人々や難民のことを知れば知るほど、彼らを助けることは我々の責務であると感じるのである。しかし、貧しい人々も難民も、また政府による不当な人権侵害を受けていている人々も世界には非常に沢山いて、それら全てに関わることは不可能である。具体的な支援活動としては、これらの幾つかに関わることが出来るだけである。このとき、その他の圧倒的に多くの人々に対しては、責務を果たしていないことになる。責務だと考えてボランティアをしている人も、結局責務を果たしてはいないのである。

このように責務を感じる者が、逆に責務を果たせないで苦しむことになるということもまた、金子の言う「自発性パラドックス」である。金子はおそらく、責務を認めることも自発的な選択の中に含めて考えているのである。責務を認めた後に、ボランティア活動に向かうのではなくて、責務を認める選択をすることがすでにボランティア活動なのである。

 

注 相互承認

金子によれば、ボランティア活動は、次の三つのステップをもつ。

<3つの行動ステップ>pp.118-121

ステップ1「まず、自分から動く」――勇気をもって

ステップ2「評価を相手に委ねる」――ゆったりと

ステップ3「相手が動いたら、タイミングよく対応する」――恥ずかしがらずに

実はボランティア活動を受ける相手もまたおなじように、この3ステップを踏むことになる。

自らをバルネラブルにするのは、何のルールも後ろ盾もないところで、ひとりの個人として行動するからである。そこには、自由もあるが、リスクもある。そのようなリスクを犯して、互いに出会うところに、人間としての対等の関係があり、人間としての尊厳があり、相互承認が成立する。

 

なお、この3ステップの「「動く」とか「反応する」ということを「情報を出す」と置き換えれば、この繋がりをつけるプロセス」とは、実は、動的情報を発生するプロセス、つまり、ネットワーク、であることがわかる。つまり、ボランティアとは、ネットワークを作る人、ネットワーカーなのである。」124

 

3、中野敏男のボランティア批判

 中野敏男は「ボランティア動員型市民社会論の陥穽」(『現代思想』青土社、1999.5)で、ボランティア活動の危険性について実に鋭い指摘をしている.

 中野は、現代の国家について、しばしば言われるように国家の機能が単純に相対化されているというよりも、むしろ国家の機能が変化しており、「国家の機能上の重心を「社会福祉」から政治−軍事的、経済的な「システム危機」への対応にぐっと移行させた「システム危機管理型国家」」(73)であるという。そして、このような国家にたいして対案まで用意して問題解決をめざす「ボランタリーな活動というのは、国家システムを超えるというよりは、むしろ国家システムにとって、コストも安上がりで実効性も高いまことに巧妙な一つの動員のかたちでありうるのである」76と指摘する。

 ボランティアは国家を超えた市民社会を支えるものだ、という論調に対しては、中野は、「普遍性」を志向するからといって、直ちに「ナショナリズム」を超えられるとは限らないのだと批判する。なぜなら、「ナショナリズム」と「国家から自立した普遍性」というものは、異質なものではなくて、「帝国主義的なナショナリズム」は、異民族を文化統合するために、なんらかの普遍主義を標榜してきたからである。中野は、ボランティア市民社会が、国家システムへの動員から自由であるという、論理的な根拠はいえないとし、「自由だと本当に言えるのか」ということを吟味する。

 中野は、メルッチにならって現代社会における個人のあり様を、「個人化のポテンシャル」として、とらえる。つまり、個人は、高度情報化によって社会集団の拘束力が弱まることによって、社会的諸権力に全面的にさらされることなる。そのとき一方では、社会的諸権力の交錯から、現状が「別様でもあり得る」という可能性を知覚し、自省的−再帰的な<選択の自由>を知覚する可能性が生まれるが、しかし他方では、そうした社会的諸権力に全面的に制御され支配される可能性も生じる。このような状況下でボランティアの自発性が強調されるならば、個人は「現状を離れて抽象的に意志するボランティア主体」になるという。そして「この主体=自発性は、抽象的であるがゆえにかえって、「公益性」をリードする支配的な言説状況にどうしても親和的にならざるをえない」88と批判するのである。

 私は、中野のこのような批判も危惧も正しいと考える。ボランティアはその危険性を忘れてはならないだろう。確かに、ボランティア活動は国家に都合よく利用される可能性がある。そして、その主たる原因は、中野が鋭くしてきたように、ボランティアが依拠する抽象的な自発性が、無内容であって何とでも結びつく可能性があり、支配的な言説によって方向付けられる安いということにあるだろう。

とこで、中野のいう「現状を離れて抽象的に意志するボランティア主体」は、自由主義が想定する自我であろう。これは自由主義と共同体論の論争において「負荷なき自我」と批判される自我である。前にも述べたように、全くの自由主義でもなく、また伝統的な共同体にかえるのでもなく、第三の自我論や社会論の探求は、社会哲学の領域ではヘーゲル以来延々と続いている課題である。

そのような試みの一つとしての金子郁容のボランティア論があった。したがって、そこでの自我は、自由主義の「負荷なき自我」ではない。確かにその自我は、自ら「保護の外套」をぬぎ、自らをバルネラブルにすることによって、尊厳を獲得するのである。それは、自らが「負荷なき自我」であることを示すことによって、尊厳を獲得することである。しかし、この自我がそうするのは、新しい関係や動的情報がプレゼントされることを期待しているからである。尊厳の獲得もまた、そのような中でプレゼントされる関係の一つなのである。おそらく、金子の考える自我は、自らをバルネラブルにするということをも含めたネットワーク・プロセスそのものなのである。「負荷なき自我」という何か静的な実体的なものではないのである。

では、このような金子の自我論を採用するならば、中野の批判や危惧は解消されるだろうか。残念ながらそうではない。なぜなら、仮に自我がネットワーク・プロセスであるととしても、ただそれだけでは、それはどのような言説や行動とも結びつきうるからである。

では、われわれはどうすればよいのだろうか。ボランティアをやめればよいのだろうか。抽象的な主体ではなく、様々の中間団体のメンバーとしてその利害を背負って活動するのがよいのだろうか。しかし、そのような様々な中間団体がうまく機能しないことが、ボランティアを必要たらしめたのではなかったのか。

 その問題を考えるまえに、長年開発NGOの専従として活動してきた本物の活動家が、どのように考えているのかを見てみよう。

 

4、中田豊一のボランティア論

中田豊一は、シャプラニール=市民による海外協力の会のダッカ駐在員としてバングラデシュの農村開発に取り組んだ経験をもつ、開発援助のエキスパートである。『ボランティア未来論』(コモンズ発売、2000年)は、その中田が「一度立ち止まって、ボランティアとして他者や社会の問題に関わることの意味、意義を追い求め」ようとした記録である。それは、バングラデシュの村人から受けた次の質問への答えを探るということであった。「なぜあなたたちは、遠いところから来て、縁もゆかりもない私たちを助けてくれるのか。そんなことをしてあなたたちにどんな利益があるのか」(6頁)

 この問いの答えを探求するプロセスを物語形式で叙述したのがこの書物である。(中田の前作『援助原論』(学陽書房、1994年)もまた、物語形式をとって開発援助についての思索を展開している。どちらもいわば教養小説仕立てになっていて大変面白い。)

現在様々な分野で参加型学習の一つの方法として、ワークショップが行われている。そのなかでも、ソーシャルワーカーやボランティアなどを対象おこなわる「社会派ワークショップ」や開発教育でおこなわれるワークショップを、中田は「気づきのワークショップ」と呼ぶ。その種のワークショップでは、自分の思い込みなどを一枚一枚剥いでいく作業をおこなう。中田は、そのようなワークショップで感じた違和感をたどって、それがキリスト教をバックボーンにしていることに行きあたる。「深層心理学の応用としての体験的気づきの手法で解体した自己を、キリスト教的な神の愛という世界観で再統合するのが、私がであった主要な社会派気づきのワークショップの基本構造である」169(本論の論旨とは逸れるが、このような「気づきのワークショップ」をその基礎となっている哲学的な人間観にまでさかのぼって考察するということは、今までなかったのではないだろうか。しかし、これは重要な問題提起である。)しかし、キリスト教は排他性と普遍性のジレンマをことさら強くもつということから、中田はそれに代わるものを求める。そして、彼は仏教に出会う。

「私が私のものであると思っている性格も、嗜好も、考え方も、価値観も、すべては、過去のあるひとときににおいて私の中で機能したものではあるが、今現在においてそれらがすべてそのまま当てはまるわけではない。そして、私が私であると信じている私は、そうしたものの寄せ集めにすぎない。これこそ私だ、といえるような確固たるものはどこにもない。すなわち、私というものに固定的な実体はない。本当の自分というものもない。あるいは、今ここにあって、感じ、考え、行動している自分という<結ぼれ>の状態だけだ。・・・・・・気づきのワークショップにおいて、気づきが可能になるのも、そのような存在と意識の構造があることによる。」192

「仏教哲学が解き明かしているように、自己とは、経験したことや思考したことや知覚したことなどを要素として形成されたものであって、固定的な実体はない。・・・・・・私とは、私を構成する諸要素や私という現象を取り巻く諸要素との関係の総称にすぎない。

 したがって、人生には、あらかじめ設定された目標はない。出会うべき本当の自分もなければ、実現すべき固定的な自己もない。その場その時にふさわしい自然な<結ぼれ>があるだけだ。」254

そしてここから、あの村人に対する次のような答えにたどりつくのである。

「あなたも知っているように、私たちの間には、もともと何の関係もありません。私があなたを援助する義務もありませんでしたし、援助するためのこれといった理由も思いつきません。私は私の問題を解決するために努力する。あなたはあなたの問題を解決するために努力する。それだけのことです。その一方、私だけの問題は存在しないし、あなただけの問題も存在しないことも確かです。私は自分だけで自分の問題に気づくことは出来ないし、あなたもそれは同じことです。私というものには、固定的な実体はなく、自己とは他者との関係においてのみ成立するものだからです。だから私は、この場この時を共有しているあなたと私との関係について、あなたと語り合ってみたいのです。あなたに本当に援助が必要なのか、私たちが真になすべきことは援助なのか、私たちの関係の奥に潜むそれぞれの問題は何なのかを、あなたといまここで共に問うてみたいのです。あなたはどうですか。」204

 この自我観は、金子の自我論と非常によく似ている。また、援助の手を差し伸べる理由もよく似ている。このような出会いは、金子の言う「「助ける」ことと「助けられる」ことが融合し、誰が与え誰が受け取っているのか区別することが重要ではないと思えるような、不思議な魅力にあふれた関係発見のプロセス」(6頁)である。奇しくも、仏教者の立場でボランティア活動を行っているシャンティ国際ボランティア会の有馬実成もまた、金子のボランティアの定義を取上げて、それが仏教の立場と重なることを指摘している。(有馬実成著「戦後の仏教界におけるボランティア」、池田英俊、芹川博通、長谷川匡俊編『日本仏教福祉概論』雄山閣出版、1999年、所収)中田も金子も哲学研究者ではないが、「ボランティア活動は何を思想的な基盤とすればよいのか」と問われたときに、現代の哲学研究者にもこれ以上の答えを提供することはできないだろう。

 さてしかし、たとえ仏教的な自我論を採用したとしても、前述の中野の批判ないし危惧に答えることにはならなないだろう。金子のネットワーク・プロセスの場合と同様に、ただ無我とか<結ぼれ>というだけでは、やはりどのような内容とも結びつく可能性があり、支配的言説に取り込まれる危険性にさらされているからである。

現に、仏教思想家の吉田久一は、仏教福祉思想の「寛容」「共生」の思想を、西洋の福祉思想に欠けてものとして高く評価しつつも、仏教思想には次の三つの問題点があることを指摘している。

「(1)仏教福祉に「歴史的社会的」視点の、薄弱さが挙げられる。・・・仏教は反福祉的な社会にも、その抑止力や批判力になり得なかった。

(2)仏教福祉は、感性的実践には優れていたが、社会的普遍性や論理性に弱かった。・・・・・・

(3)仏教福祉の「縁起相関」や「共存性」が現在特に重要であるが、近代人は「自立」が特色で、ケースワークその他もそれを生命としている。仏教福祉にとっては「共存」のグランドの上に、「人権」「人格」「自立」性をいかに吸収していくかが、課せられた現代的テーマである。」(吉田久一・長谷川匡俊著『日本仏教福祉思想史』宝蔵館、2001年、19頁)

前述の中野の批判は、この(1)に相当する。

 

5、ボランティア論の課題

 ボランティアに将来の社会の可能性を見ようとするものは、中野の批判にどのように答えればよいのだろうか。我々は、ボランティアが、公共性の担い手となり、「公益性」をリードする支配的言説を形成するという可能性に期待する。中野は、ボランティアの活動と「公益性」に関する言説状況というものを、無関係であるかのように論じている。その点に、彼の批判の欠点があるだろう。確かにハーバーマスがみとめたように、自由で理性的な討議という社会空間(公共性)は、衰退しているかもしれない。しかし、ボランティアの活動は、それを新しい形で再生できる可能性をもっている。これは拙論「ボランティアと公共性」(『ボランティア研究』国際ボランティア学会発行、創刊号、2000年)に述べたことであるが、より詳しくは出版されるものをお読みください。さらに詳しくは、今後の研究を待ってください。