第4回講義 2001年11月6

 

第三章 固有名をめぐる論争の検討

§11 クリプキによる「アプリオリ」と「必然的」の区別

1、「アプリオリ」と「必然的」の区別

2、アポステリオリな必然的真理とアプリオリな偶然的真理が存在する

3、自然種名(terms for natural kinds)について

4、同一性命題の分類

 先週は番外編にて、失礼しました。おかげで無事論文を提出しましたので、心置きなく本論に復帰します。

 

5、より確実な理解のために

(1)前々回の私の疑問点

問題「「金は原子番号79の元素である」は、なぜアポステリオリで偶然的な命題ではなくて、アポステリオリで必然的であるのか。」

 

以下再録です。

<しかし>

上の「金」の記述と同じように、<「金の原子番号が79である」は、科学者の研究によって知られることであるので、アポステリオリである。これが間違いであることが将来発見されることはありうる>とクリプキは考える。

しかし次のように言うのである。

 

「金が実際に原子番号79をもつのだと仮定すると、原子番号79でないものが金でありうるだろうか。(Given that gold does have the atomic number 79, could something be gold without having the atomic number 79?)・・・・・金がこの元素であると仮定すると、ほかのどんな物質も、たとえそれが金にそっくりであり、実際に金が見い出される当の場所で発見されるとしても、金ではないであろう。・・・・・・

それゆえ、以上の考察が正しければ、そのことは、この素材が何であるかに関する科学的発見を表す言明は偶然的真理ではなく、可能な限り厳密な意味で必然的真理である、ということを示すのに役立つ。」(147)(下線部は、原文でイタリック、訳文変更)

 

「とりわけ現在の科学理論では、原子番号79の元素であることは、われわれが理解する限りで金の本性の一部なのである。それゆえ金が原子番号79の元素であることは、必然的であって偶然的ではないということになろう。」(148)

 

「猫は動物である」も同様(148)。

 

つまり、「金は原子番号79である」「金は黄色い」「猫は動物である」などは、アポステリオリな真理であるが、必然的な真理である、という。

 

{疑問点:たしかに、金が原子番号79であると仮定すると、そのことは、必然的であろう。しかし、そのときには、「金が原子番号79である」が将来間違いであることが発見される可能性は、排除されている。これで、説得力のある証明になっているのだろうか?}

 

―――――――――――――――― 再録ここまで

(a)この疑問点に対する一応の答え。

・<「金が原子番号79の元素である」は必然的である>の意味

「金が原子番号79の元素である」は、そうではない可能世界、たとえば、原子番号79の元素が存在せず、金が発見されている山では、黄鉄鉱が発見されているという世界があったとしても、それについて「この可能世界ではそれはやはり金なのだ、などというべきではない。それは何か別の素材、何か別の物質であろう。(もう一度いえば、人々がそれを反事実的に「金」と呼んだかどうかは問題ではない。[現在の現実の世界にいる]われわれは、それを金として記述しはしないのである。)」147([]内、引用者の付加)

・このことは、<我々の現実の世界で、「金が原子番号79の元素である」が間違っていたことが将来発見されるという可能性を認めること>、とは矛盾しない。

 我々の世界で、現在のところ、「金が原子番号79の元素である」が正しいと認められているのだとすると、現在のところ、「原子番号79の元素であること」は金の本質的性質であると認められているということであり、それは「金が原子番号79の元素である」が必然的であるということを意味する。

 このことは、将来、この命題が訂正される可能性を認めることと両立するのである。

・したがって、「金が原子番号79の元素である」はアポステリオリで必然的な命題である。

「そのような性質は、たとえ「金」の意味の一部ではなく、またアプリオリな確実さで知られなかったことは疑いないとしても、金の原子構造から帰結するものである限り、それらは金の必然的性質なのである。」148

 

・訳文は適切でした。

このように理解するとき、先に引用した箇所の訳文は、訳書の元のままの方がよいかもしれません。それは次のとおりです。

「金の原子番号が実際に79であると認められたとすれば、原子番号79でないものが金でありうるだろうか。・・・・・金がこの元素であると認められている以上、ほかのどんな物質も、たとえそれが金にそっくりであり、実際に金が見言い出される当の場所で発見されるとしても、金ではないであろう。・・・・・・

それゆえ、以上の考察が正しければ、そのことは、この素材が何であるかに関する科学的発見を表す言明は偶然的真理ではなく、可能な限り厳密な意味で必然的真理である、ということを示すのに役立つ。」147

 

(b)新たな疑問

 たしかに、<我々の世界で、現在のところ、「金が原子番号79の元素である」が正しいと認められているのだとすると、現在のところ、「原子番号79の元素であること」は金の本質的性質であると認められているということであり、それは「金が原子番号79の元素である」が必然的であるということを意味する。>。たしかに、われわれはこの命題を正しいものとして学校で習う。また科学者もそれを正しいと認めている。しかし、科学者もまたそれがいつか訂正される可能性があると考えるだろう。たしかに、おそらくそんなことはまずないだろう、と思っているだろうが、決してありえないとは思っていないだろうし、また訂正不可能であることを証明できるとは思っていないだろう。

そうだとすれば、「「「金が原子番号79の元素である」は必然的真である」は、必然的ではない(偶然的である)」というべきではないだろうか。

(これは、今の段階では、私には判断が付きません。もうすこし勉強すれば、すっきりと説明できるでしょう。)

 

(2)理解を確実なものにするためのしつこい説明

(a)「熱」を例に

クリプキは「熱」について次のように述べている。

熱の偶然的な性質、すなわち、我々の内部にしかじかの感覚を引き起こすことが出来るという性質によって、我々が実在世界とすべての可能世界に対して固定した特定の指示対象が存在する。・・・・ やがてこの現象はじつは分子運動であることが偶々発見されたのである。このことを発見したとき、われわれはこの現象の本質的性質を与えるような同一性を発見したのである。われわれは、すべての可能世界で分子運動であるような現象を発見した――その現象が分子運動でないことはありえないだろう。というのも、それはその現象が何であるかを表しているからである。他方、我々が最初に熱を同定するために使った性質、すなわち我々の内にしかじかの感覚を引き起こすという性質は、必然的性質ではなく、偶然的性質である。さまにこの現象が存在していたいとしても、われわれの神経構造の違い等によって、熱として感じられないこともありえたであろう。」157

 

クリプキは次のように考える(その説明をしつこく繰り返す必要はないだろう)。

a「熱は、我々の内にしかじかの感覚を引き起こすという性質である」

これは、アプリオリな偶然的真理である。

 b「熱は、分子運動である」

これは、アポステリオリな必然的真理である。

 

ここで、aは成り立っているのだが、bが偽となる可能世界を考えることが出来る。そこでは、熱素説の正しさが科学的に証明されているのである。クリプキならば、<そのような可能世界で人が「熱」と呼ぶものは、この世界にいる我々が「熱」と呼ぶものではない。それは「熱」ではない>というだろう。

 ところで、bは成り立つのだが、aが偽となる可能世界も考えることが出来る。そこでは、熱は皮膚には何の間隔も齎さず、特殊な明かりを視覚に感じるのである。このとき、クリプキならば、<そのような可能世界で人がそれを「熱」と呼ばなくても、この世界にいるわれわれはそれを「熱」と呼ぶのである。>   

 

(b)「プルトニウムは、原子番号94の元素である」という命題でプルトニウムという語を学習した者にとって、この命題が「プルトニウム」の語の指示を固定するために使用されるのだとすれば、この命題は「アプリオリ」である。そして、この命題は「金は原子番号79の元素である」と同じく、必然的である。そうすると、この命題は、アアプリオリでかつ必然的なのであろうか。

 そうではないだろう。つまり、これは自然種名ではないのだ。つまり、自然種名とは、科学が教える、その本質的(必然的)な性質を知る前に、直示によってその名の指示の固定の仕方を学習するような語なのであろう。

 

(c)「猫は動物である」

a「猫は動物である」

これは「金は原子番号79の元素である」と同じ理由で、アポステリオリで必然的な真理である、といわれている。ところで、金が「金とは、あそこにある品々、または、ともかくそれらのほとんどすべてによって例示される物質である」(160)と定義されたように、


   b「猫は、あそこにいる動物、または、ともかくそれらのほとんどすべてによって例示される動物である」

と定義されるだろう。そして、この定義は、アプリオリで偶然的な真理であるといわれるはずである。

このとき、bの命題から、われわれはb′「猫は、動物である」をアプリオリに導出することが出来る。クリプキが、この指摘を認めることは、次の注からいえる。


58「ギーチは、ここで検討されているタイプの本質的性質とは異なる「名目的本質」の概念を擁護した。ギーチによれば、指差すという行為は、およそ曖昧なので、指差すことによって対象を命名する者は、その指示を明確化し、通時的な同一性の正しい規準を確保するために、種的性質を適用しなければならない―――

たとえば、ニクソンを指すことによって「ニクソン」に指示対象をあてがう者は、「私は『ニクソン』を、あの男の名前として使う」といわねばならず、・・・その種的性質は、ある意味でその名前の意味の一部なのである。記述理論や記述群理論における意義のように、指示を決定するほど完全なものではないかもしれないが、結局名前は(部分的)意義を持つことになる。私がギーチを正しく理解しているとすれば、彼の名目的本質は、必然性ではなく、アプリオリ性によって理解されるべきであり、それゆえここで擁護されている種類の本質とは、全く異なっている(彼は自分は「実在的」本質ではなく「名目的」本質を扱っているのだというときに意味していることの一部は、おそらくこのことである)。したがって、「ニクソンは人間である」「ドビンは馬である」などは、アプリオリな真理であろう。」

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 これにならうならば、「ニクソンは人間である」と同じく、「猫は動物である」はアプリオリな真理である。この点は、我々の上の指摘と同じである。そして、この場合の「動物」とは「名目的本質」であることになるだろう。

 

そうすると、ここに次の二つの命題が成立する。

a「猫は動物である」(これはアポステリオリで必然的である)

 b「猫は動物である」(これはアプリオリで偶然的である)

この二つをともに認めることは、矛盾しないのだろうか。我々は、「事象様相 modality de re」と「言表様相 modality de dicto」の区別が与えられている。aの必然性が、事象様相の必然性であることは間違いないだろう。bはどうだろうか。当初は、猫が動物であることは、この世界での偶然的なこととみなさっれていたということだろう。それが科学者の研究によって、猫の本質的(必然的)性質であることが、アポステリオリにわかったということだろう。もし、このように考えるならば、b′が偶然的で、aが必然的であることは矛盾しない。


 しかし、<「猫は動物である」はアプリオリで必然的である>ことにはならないだろう(もしこのように認めると、「金は、黄色の金属である」を分析判断(つまり、アプリオリで必然的な判断)と見なした、カントと同じ立場になる。しかし、そうではない。)

<a「猫は動物である」(これはアポステリオリで必然的である)>をより性格に表現すれば、<「猫は必然的に動物である」はアポステリオリに認識される>ということである。

<b「猫は動物である」(これはアプリオリで偶然的である)>をより正確に表現すれば、<「猫は、(この世界では偶々)動物である」は、アプリオリに認識される>ということである。

 

(2)木村君の質問に答える。

@

A「指標詞『私』は固定指示子ではない」という見解について

 

この質問に答えるには、事象様相と言表様相の区別が必要になると思います。

クリプキが、可能世界についてかたるとき、それは事象様相の可能性だとおもいます。しかし木村君が問題にする「私」は言表様相で指示?できるようなものだと思います。

 

B「アプリオリで必然的な真理」と「アプリオリだが偶然的な真理」の区別について

 

メートル原器の例は、最初の命名儀式の例となるべきものであり、むしろ、「1メートルは、この1メートル定規の長さである」と教師が生徒に教える例を挙げるべきである。このときには、すでに「1メートル」の語の命名儀式は終わっている。命名の発話は、真でも偽でもない、というべきであろう。

「このような金属を、金と名づけます」という命名の発話は、真でも偽でもない。つまり、アプリオリで偶然的な真理でもない。しかし、その後、「金は、このような金属である」というときには、それはアプリオリで偶然的な真理である。

 

ここで問題になるのは、種々の「可能世界」を想定することにおいて、どこまでの想定が「可能」なのか、ということです。

 

 

C「必然的に真であるがアポステリオリな真理」(たとえば「2つの固有名間の同一性命題」)と「必然的に真でありアプリオリな(アプリオリに知られ得る)真理であるが、アプリオリに知られねばならないわけではないもの」(たとえば、「ある数がそすうであること」を数があまりに巨大なので、計算機を用いてしか知れない場合)との違いが、いま一つよく分かりません。

 

 

これを区別する適切な定義が、シュテークミュラーによって、あたえられています。

「ある知識を経験なしに手に入れることが可能であるということによって、その知識をアプリオリであると積極的に定義づけようとする試みもまた不十分である。なぜならば、この場合ただちにさらに「誰にとって可能なのか」、神にとってか、他の惑星の住人にとってか、それとも、精神の状態が私たちのそれと類似している存在にとってなのかととわれるに相違ないからである。こうしたの類似の困難を回避しうるのは、あるひとが何ごとかをア・プリオリに知るのは、その際経験的データに依存することなしに、あることを知る限りにおいてである」(シュテークミュラー『現代哲学の主潮流3』法政大学出版会、373

 二つの固有名詞間の同一性命題は、「経験的データに依存することなしに」知ることは出来ません。