第5回講義 2001年11月13日

 

第三章 固有名をめぐる論争の検討

§8 サールの記述理論批判の検討

§9 サールの固有名論

§10 クリプキの固有名論

§11 クリプキによる「アプリオリ」と「必然的」の区別

 

§12 サールのクリプキ批判

 サールは、“Intentionality”,Cambridge UP.,1983,’Proper Names and Intentionality‘の中でクリプキの固有名論を批判している。今週は、これを紹介する。

以下の引用は、坂本百大監訳『志向性』誠心書房、「第九章 固有名と志向性」(富田恭彦訳)からの引用である。

 

1、問題の所在

「固有名には意味があるか」(323

   yes:記述説:名前が意味を持つのは、記述――おそらくは記述群――と結び付

けられることによってである。

   no:因果説:「名前が指示を行うのは、名前の発語を、名前の所有者――あるいは

すくなくとも名前の所有者に名前を与えた命名の儀式――とつなぎあわせる

「因果連鎖」によってである。」

因果説は、「コミュニケーションの外在的因果連鎖説」

記述説は、「志向説」あるいは「内在説」とした方がよい(Cf.324)。

 

<争点>

「争点は、単につぎのことでしかない。つまり、固有名が指示を行うのは、これまで私が提示してきた志向性の一般的説明と整合するようなしかたで内在的充足条件を設定することによってなのか、それともある外在的因果関係によってなのか、ということである。」325

 

記述論者の見解:

「固有名がどのようにして対象を指示するかを説明するためには、話し手の心の中で名前と結びつけられている「記述的」志向内容を、対象がどのように充足するか――言いかえれば、対象がそうした志向内容にどのように適合するか――を示す必要がある」325

「話し手が対象を指示するのは、名前と結び付けられている志向内容を対象が充足するからであり、それ以外に理由はない。」326

 

因果論者の見解:

「そのような志向説的分析は全く役にたたず、名前の発語と指示される対象との間に成り立つ指示の成功という関係を説明するには、名前の発語とその対象との間のある種の因果結合を示す必要がある」325f

「話し手が対象を指示するのは、話し手の発語を対象と繋ぎ合わせるような――あるいは少なくともそれを対象の命名儀式と繋ぎ合わせるようなコミュニケーションの因果連鎖が存在するからであり、れ以外に理由はない。」326

 

「どちらの説も「話し手が名前の発語によって対象の指示に成功するのはどうしてか」という問いに答えようとする試みである。」326

 

2、クリプキの因果説への批判

 

クリプキ曰く

「説をざっとのべれば、次のようになろう。最初の命名儀式がとり行われる。ここでは、対象は直示(ostention)によって命名されるかもしれないし、名前の指示は記述(description)によって行われるかもしれない。[そして]名前が「環(link)から環へと受け渡される」ときには、思うに、名前を受け取る者は、人からそれを聞かされる際、その人の場合と同じ指示を行うようそれを用いることを、意図しなければならない。」(pp.326-27)(これは『名指しと必然性』邦訳115、原文、p.96

 

<第一の特徴:命名は、記述説で説明される>

「命名儀式での名前の導入に関する説明は、まったく記述説的である。命名儀式は、言語的形態の志向内容・・・・・・を我々にあたえるか、・・・・・・対象が直示的に命名される場合のように、知覚の志向内容を与えるか、のいずれかである。」327

・直示に関して

「知覚の場合には、なるほど因果結合が存在する。しかし、それは、志向的因果関係(Intentinaal causationであって、知覚内容に内在するものであるから、名前と対象との関係について外在的因果的説明を与えようと努力する因果論者にとっては役に立たない。もちろん、そのような場合に、神経系に対する対象の刺激という観点から、外在的因果的説明を行うことは、できるであろう。しかし、外在的因果現象は、それ自体では、名前の直示的定義を与えないであろう。」327

 

・クリプキの説明の第一の特徴

「クリプキ型の因果説は、次のようのな奇妙な特徴をもっていることになる。すなわち、外在的因果連鎖は、実際には対象にまで到達せず、ただ対象の命名儀式に到達するだけであり、そこからさきでは対象の固定はある志向内容によってなされる、という特徴である。」327

 

・そもそも、「抽象的存在者」については、原理的に対象に到達し得ない。

「抽象的存在者の固有名が数多く存在する――たとえば数詞は数の名前である――

が、抽象的存在者は物理的因果連鎖の起点となることはできないのである。」328

(これは、<命名儀式において外在的因果性が必要条件である>という主張に対する反論になるだろう。)

 

<第二の特徴:因果連鎖に意図が混入している>
クリプキの説明の第二の特徴

「因果連鎖がいわば純粋ではない。それは因果関係および命名儀式に加えて、ある志向説的要素を、こっそり入り込ませている。つまり、どの話し手も、彼に名前を教示した人が指示しようとしているのと同じ対象を指示するよう、意図しなければならないのである。」328

 

 

<クリプキへの反証>

クリプキの見取り図が十分条件であることのへの反証例

「クリプキらの唱えるような因果説は、固有名を使用した場合の指示の成功の十分条件を我々に与えるであろうか。」330

ギャレス・エヴァンズの例:「「マダガスカル」は、もともとアフリカ大陸の一地方の名前であった。マルコポーロは、「彼に名前を聞かせた人」の場合と同じ指示を行うようその名前を用いることを意図するというクリプキの条件を、おそらく満たしたであろう。にもかかわらず、彼はアフリカの沖合いにある島を指示し、その島が、今日我々が「マダガスカル」という名前で言おうとしえいるものなのである。それゆえ、「マダガスカル」という名前の使用は、それをアフリカ大陸とつなぎ合わせる因果的条件を満たしはするものの、そのことだけでは、その名前にアフリカ大陸の指示を可能なら占めるに十分ではない。」pp.330-331

 

たしかに、因果連鎖と意図があってもそれだけでは、指示の成功には不十分であるということだ。しかし、クリプキは、指示の成功の条件を述べようとしたのだろうか?。

 

クリプキの見取り図が必要条件であることへの反証例

 

カプランの挙げる記述説への反証例:「ラムセセス八世」について『コンサイス伝記辞典』には、「古代ファラオの一人。彼に関しては何も知られていない。」とある。しかし、「かの名前を使用するための記述説を我々が満たさなくても、われわれは彼を指示することが出来る、というわけである。」331

 

サールによる反論:「ラムセス八世」については、われわれは完全な同定記述を有している。「ラムセス八世は、「ラムセス七世」と命名されたファラオの後にエジプトを統治した、「ラムセス」という名のファラオである。」

「このケースにおいてわれわれが手にしているのは、ネットワークが効力を発揮する例である。このケースでは、ネットワーク中の過去に関する知識を含む部分が、効力を発揮するのである。」332

「そうすると、我々から古代エジプトへと遡って伸びる様々な因果連鎖がラムセス八世のところまで到達しない場合でも、われわれはラムセス七世と九世との間に来るラムセスを指示するのに、ためらうことなく「ラムセス八世」という名前を用いることが出来るであろう。」332

 

つまり、因果連鎖は、必要条件ではないということ。

 

・ついでに、志向的因果性すら必要条件ではないという主張

「志向的因果性であれ、外在的因果結合であれ、名前の発語の指示される対象との間にともかく因果結合がない場合にさえ、固有名を用いて指示に成功するための諸条件を満たすことは可能である。」

  

ワシントンのM通りを指示する例333

この例で、推論を用いて指示を理解している。

 

 

3、サールの記述説

 

<フレーゲへの評価>

その利点は「固有名は、指示をなしうるどのような語句の場合とも同じく、指示を可能ならしめるある志向内容を常に伴っていなければならない、ということを認めることにある」340

その欠点「意味論的内容は、つねに言葉によって、とくに確定記述によって表され、その記述は名前の定義ないし意味を与える、と考えていたように見えることである。」340

 

もう一つの利点「同一言明や存在言明や志向的状態に関する内包的言明の中に固有名が現れる場合に生じる、ある厄介な問題に答えることがそれによって可能になる、ということである。」340

 

<「クリプキ説は、記述説の一形態に過ぎない341

「クリプキ説でもドネラン説でも、外在的因果連鎖は、いかなる説明的役割もはたさない。「連鎖として重要なのは、ある表現を使用する話し手の心の中の記述的説的志向内容によって指示が確定される場合につねに存する、その表現のひとつの使用から次の使用へとなされる志向内容の移動だけである。」341

「「コミュニケーションの因果連鎖」は単に寄生的なケースを外在的視点から見た場合にそれが有していると認められる特徴であるに過ぎないということである」340

 

<記述説の反証例に答える>

 

「記述説に対する反例は、一般に反例になっていない。なぜなら、反例を提示した人々は話し手が言うであろうことだけに目を向けていて、話し手の頭のなかにある志向内容全体を見ていないからであり、しかもネットワークとバックグラウンドの役割を無視しているからである。」350

 

例1 ゲーデル/シュミットの例(クリプキ)

ゲーデルを「不完全性の証明を行った人」としてだけ知っている人が、「本当はゲーデルがその定理を証明したのではない、それはもともとシュミットによって証明されたのだ」と聞いたとき、彼はどうするだろうか。

「私が「ゲーデル」といっているのは、実際にその人がなんと呼ばれていようと、ともかく不完全性を証明した人である。もしそれがシュミットならば、私は「ゲーデル」でシュミットを意味しているのだ」と答えるだろうか。(証明の17行目がまちがっていることを証明しようとしているとき)

「私は、その人が算術の不完全性を証明したかどうかはどうでもよく、ともかく「クルト・ゲーデル」と呼ばれていたひとを指示していたのだ」と答えるだろうか。

 

サールは、次のように言う。

「どちらの場合も、指示を決定するのは、話し手の志向内容である。話し手が特定の問いに答えてなんというかを見るだけでは充分ではない。名前と結びついているバックグラウンド能力もふくめ、彼の志向内容全体を見、もしその内容の異なる部分が異なる対象によって充足されることが分かったら、彼はなんと言うか、を見なければならない。この例には記述論者を悩ませるものは何もないように私は思う。」352

<サールの立場>

「話し手が固有名に結びつける一群の志向内容は、定義よりもはるかに弱いある関係によって、名前と関係している。そしてこのアプローチは、フレーゲの説明の長所を維持する一方で、そのばかげた帰結をさけることを私は主張した。」357

 

「私は、固有名は通常の意味での定義を有していないこと、しかし指示が確定されるのは、[固有名に]結び付けられた志向内容によってであることを、示そうと試みる。したがって、クリプキの言い方をすれば、私は指示の理論を与えようとしているのであって、意味の理論を与えようとしているのではない。」358

 

<固定指示子論法への批判>

・厳格指示子(固定指示子)論法

「(1)固有名は厳格指示子である

(2)確定記述は厳格指示子ではない。そして、それからの類推により、思考内容は厳格指示子ではない。

したがって、

(3)固有名は、意味(meaning)ないし意味(sense)ないし機能において、いかなる種類の確定記述や志向内容とも等価ではない。」

 

・サールによる批判

「そもそも確定記述なら、どのようなものであろうと、現実世界にたいして、それを指定することにより、それを厳格指示子として扱うことができる」360

 ゆえに、この論証はなりたたない。

 

サールが具体例を述べていないので、推測するしかないのだが、おそらく「二重焦点レンズの発明者」を「この世界で二重焦点レンズを発明した人物」というような確定記述に書き換えるのだろう。

(もっとも、仮に(3)が証明されたとしても、サールが主張する記述説とは両立するのではないかと思われる。)

 

<説明できていない論点:「志向的内容」とは何か>

 実は、9章の冒頭でサールは次のように述べていた。

「言語的指示は、常に、バックグラウンドとネットワークとを含む志向内容によるのであるから、固有名はあるしかたで志向内容に依存しなければならない。この依存のしかた――これにはいくつかのものがあろう――を十分明確にすべきときに、いまや我々は立ち至っている。」323

 

来週は、おそらく、これについて解説します。