第7回講義 2001年11月27日
第一章 命題的指示と発語内的指示
第二章 クワインの「指示の不確定性」テーゼの検討
第三章 固有名をめぐる論争の検討
第4章 指示と相互顕在性
§14 指示の前提
1、言葉で対象を指示する三つの仕方
2、指さし、鏡像理解、誤信念の理解
3、指さしの分析
4、再説:指さしの分析(前回の3を撤回し、再説します)
<チンパンジーと提示>
チンパンジーは、人間に何かを見てもらいたいとおもって、ヒトとその対象をを交互に見たり、手を引っ張ってヒトをそこへ連れてゆこうとする。
チンパンジーがそれに成功したとき、
(1)チンパンジーは、Xを見ている
(2)チンパンジーは、相手がXを見ることを知る
上の二つが成立していると、先週のべた。
しかし、(2)はその解釈によっては、成立していないといわなければならない。なぜなら、チンパンジーが誤信念を理解しないとすれば、チンパンジーは、<相手の視覚像の中には、xが存在する>という意味で<相手がxを見ている>を理解することは出来ないからである。チンパンジーは、<相手がxに触っている>のと同じような意味で、<相手がxに向かって行動している>ことを理解するという意味で、<相手がxを見ている>ということを理解しているということならば、いえるだろう。ここでは、<xを見る>は、<xに対するある種の身体的行動>なのであって、決して何らかの心的な作用なのではない。
<チンパンジーと相互覚知>
ベイトソンは、「相互覚知」をつぎのように説明していた。
「相手がこちらを知覚していることをこちらが知っており、相手もこちらが知覚している事実をわきまえている」(ベイトソン&ロイシュ『コミュニケーション』思索社、原書1951年、訳p.224)
これを整理すれば、つぎのようになるだろう。
(1) 私は、相手を知覚している。
(2) 相手は、私を知覚している。
(3) 私は、相手が私を知覚していることに気づく。
(4) 相手は、私が相手を知覚していることに気づく。
チンパンジーには、これらは、成立する。しかし、つぎの(5)は成立しないだろう。
(5) 私は、私が相手を知覚していることを知っている。
チンパンジーには、たしかに鏡像理解のような自己の理解はある。しかし、これは、自己の身体の理解である。(5)は自分がもつ意識を意識することである。これは、表象することを表象するというメタ表象であって、(単なる一次表象ではないかもしれないが)<身体の理解>とは異質である。
先週、このように述べた。しかし、(5)だけでなく、(3)もまた成立しないだろう。上の<チンパンジーと提示>で述べたように、<相手が私を知覚する>が<相手の知覚世界の中に私が存在する>という意味であれば、これに気づくことはチンパンジーには不可能である。<相手が私を見ている>を、<相手が私に向かって近づこうとしていること>などに似た行動として理解できるならば、チンパンジーもまたそれに気づくことはできるだろう。互いに見つめ合うことを、互いに触れ合うことのように、行動の一種と考えるならば、(1)−(4)は可能であろう。しかし、ベイトソンの「相手もこちらが知覚している事実をわきまえている」という表現は、チンパンジーにはふさわしくない。
相互覚知を行動のレベルで理解しなければならない。
<指さしと一次表象>
<自分がxを意識していることの意識>という意味での自己意識は、二次表象である。二次表象の獲得は、誤信念の理解によって確認できることである(他に確認の方法があるかもしれない。)しかし、指さしの段階では、二次表象はまだ成立していない。では、幼児が指差すとき、何が成立しているのだろうか。
幼児が、ある対象を指さして「アー」と声をあげて、母親がそれを見ることをもとめる。母親がそれを見て反応すると、幼児は満足する。ここでは、次のことが成立していると先週のべた。
(1)幼児が、対象xを指差す。
(2)母親は、幼児が対象xを指差すのを見る。
(3) 母親が、対象xを見る。
(4)幼児は、母親が対象xを見るのを確認する。
しかし、今週、われわれは(4)もまた、解釈によっては成立していない、といわなければならない。つまり、幼児はまだ<母親の意識内容について知る>ということはできないのだから、上のチンパンジーの場合と同じで、(4)もまた、行動のレベルで理解しなければならない。<母親が対象xを見るのを確認する>ということが、たとえば、<母親が対象xに目を向けるのを確認する>ということならば、(4)もまた成立するだろう。
では、次の(5)はどうだろうか。
(5) 幼児は、自分が対象をXを指さしていることに、母親が注意を向けたことに、きづく。
ここで<母親が注意を向けた>ということは、行為のレベルで理解されなければならない。たとえば、<母親が、幼児の指と対象とに交互に目を向けた>ことに気づくということならば、可能かもしれない。しかし、これが成立しているかどうかは、実験で確認するひつようがあるだろう。
<注:指さしの理解>
ところで、逆の場合を考えよう
(1)母親が、対象xを指差す。
(2)幼児は、母親が対象xを指差すのを見る。
(3)幼児は、対象xを見る。
(4)母親は、幼児が対象xを見るのを確認する。
このとき、つぎの(5)は成立するだろうか。
(5)幼児は、自分が対象xを見ていることを母親が気づいていることを気づく。
成立の可能性があるのは、<自分が対象xを見ていること>というのが、<自分がそちらに視線を向けている>というような身体運動だと考える場合である。しかし<自分が対象xに視線を向けていることに、母親が気づくことに気づく>ということはありえない。幼児はまだ、母親の意識内容についてのメタ表象をもたないからである。これもまた行動レベルでりかいされなければならない。
たとえば、<自分が対象xに視線を向けていることに、母親が注意を向けていることに、気づく>ということならば、可能かもしれない。
この(5)は、自分が指差す場合の(5)よりも難しそうである。このことは、指さしについては、理解よりも実行が先行するということの原因であるのかもしれない。
(参照、前期第10回講義、冒頭から再度引用する。
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やまだようこ『ことばの前のことば』新曜社によれば、幼児が他の人の指さしを理解するのは、自分で指さしをするようになったあとの事である。この本の「ゆう」のばあい、最初の指さしらしきものは、9ヶ月19日であり、指さしの最初の理解らしきものは、10ヶ月12日である。
「指さしは、周りの人間が指さしを教えるから模倣によってできるようになるという説があるが、発達過程はそれほど単純なものではない。指さしの形を模倣することはできるかもしれない。そして後に示すように、指さしの場合に、道具としての指の「型」はかなり重要である。しかし、指さしの意味を教えるのは至難である。なぜならば、指さしの理解は自発的にする指さしよりも難しいからである。
この点で指さしと言葉は決定的に違っている。一般的に、言葉の場合には表出の前に理解があるが、指さしでは、理解の前に表出がある。」(前掲書105)
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)
{先週述べたことの、再説・修正は、ここまでです。}
<指さしと共有知>
幼児が指さしをするとき、しばしば母親の方を振り返って、母親が同じものを見ているかどうかを、確認する。
指さしが成功するとき、幼児も母親も、相手(その指や眼差し)と対象とを交互に見ている。
ここで生じていることは、つぎのように箇条書きできる。
(1)幼児は、xを指差す。
(2)母親は、幼児がxを指差すのを見る。
(3)母親は、xを見て、
幼児がxに注意を向けるのを見る
(4)幼児は、xを見て、
母親がxに注意を向けるのを見る
指示は、共同注意といわれることがある。ここでは、二人は、同じことをしている。しかし、単に同形の行為をしているのではなく、同形の行為をしていることを理解している。つまり、次の(5)が成立している。
(5)幼児は、自分と母親が同じようにxに注意をむけていることを知っている。
(6)母親は、自分と幼児が同じようにxに注意をむけていることを知っている。
このとき、(5)や(6)自体をさらに、幼児が知っている、ということはありえない。なぜなら、それはメタ表象を必要とするからである。しかし、幼児にとって、自分が知っていることは、他者もまた知っているということが成立するのならば、つぎのことが成立するはずである。
(7)幼児は、自分と母親が同じようにxに注意をむけていることを母親も知っていると考える。
しかし、これがメタ表象を含んでいてはいけない。つまり<自分と母親が同じようにxに注意をむけていること>は、幼児にとっては、自分の知ではなくて、
事実なのである。それは、xが存在するという事実とおなじく、誰でも気づく事柄なのである。この事実は、ここにある事柄なので、母親と共有されている。
前期第六回番外編で述べたことを引用しよう。
―――――――――――――― 引用ここから
1、実在知と共有知
(1)実在知
猫が、魚を見つけて、それを食べようとする。このとき、猫は、魚を知覚している。猫に与えられているのは魚の知覚像にすぎないが、猫は魚そのものを見ているとおもっているのだろう。
我々も猫と同じく、日常生活でたとえば魚を食べるときに、魚そのものを見ており、見えている魚そのものを食べるのだと思っている。見えているのは、魚の知覚像であるとは考えていない。ここには、知覚(知)と対象の区別はない。このような知を、かりに「実在知」と呼ぶことにしよう。
(2)共有知
さらにいえば日常生活では、私は食卓の魚そのものを見ているのであり、向かいに座っている人間にもその魚そのものが見えている、と私は思っている。つまり、対象そのものが他者に見えている。つまり、私の知は、みんなの知である。この観点からいうならば、「実在知」は「共有知」でもある。日常生活では、それが「共有」されているとは思っているが、それが「知」であるとも、ましてや「共有知」であるとも思っていない。
――――――――――――――― 引用終わり
食卓の上の魚のような対象だけでなく、猫の運動も、また私の運動、などについても、知と対象の区別はなく「実在知」は「共有知」でもある。日常生活では、それが「共有」されているとは思っているが、それが「知」であるとも、ましてや「共有知」であるとも思っていない。
では、「共有」されているとは、どういうことだろうか。
<共有知は相互知識ではない>
これは、相互知識ではない。
P「食卓に魚がある」
K*asP =df KaP
・KsP
・KaKsP
・KsKaP
・・・・
この二回の知を幼児はもてない。それゆえに、ここに成立しているのは、相互知識ではない。
(むしろ、コミュニケーションの前提に置かれる相互知識の定式化の困難を回避するためには、ここにある「共有」を定式化して、「相互知識」概念を廃棄する方がよいような気がする。)
<共有は相互顕在性でもない>
「関連性理論」では、「相互知識」概念を批判して次の「相互顕在性」概念を使用する。
・ある事実が個人にとって<顕在的>であるとは
「ある事実がある時点で一個人にとって顕在的であるのは、その時点でその人がそれを心的に表示し、真、または蓋然的真としてその表示を受け容れることが出来る場合、そしてその場合のみである。」(スペルベル&ウィルソン『関連性理論』内田聖二他訳、研究社出版、46)
・<認知環境>とは
「一個人の認知環境は当人にとって顕在的である事実の集合体である。」(46)
・<相互顕在性>とは
「だれがそれを共有するかということが顕在的である共有された認知環境は、すべて相互認知環境と呼ぶことにする。相互認知環境では、顕在的な想定すべてに関して、この環境を共有する人間にそれが顕在的であるという事実自体が顕在的である。いいかえれば、相互認知環境では、顕在的な想定はすべて我々が相互に顕在的である(mutually manifet)と呼ぶものである。」(49)
上の「共有」は、この相互顕在性に近いといえるかもしれない。しかし、より近いのは、この「相互顕在性」の定義の中で使用されている表現「だれがそれを共有するかということが顕在的である共有された認知環境」の中の、「共有する」である。「相互顕在性」の定義自体が、たとえば、机の上に魚があることが「共有」されていると語ることを前提している。
したがって、「共有」をこの概念で分析することは出来ない。
<指さし対象は、客観的に存在する>
先週紹介した、『心の理論』第18章での議論は、提示も指示もともに、一次表象のレベルにとどまるとすれば何が違うのか、という問題を立て、暫定的な答としてとして、「動機の違い」であるという。
「現叙述的行動で表明される興味は、以前記述したように、表現行動固有の興味、――すなわち表現が伝達するものや表現に付随したものへの興味ではなく、表現それ自体への興味――である。」(『心の理論』下、211)
たしかに、幼児は、指示そのものを楽しんでいるようにおもわれる。要求では、自分にあうように世界を変えようとしている。それに対して、指示では、世界に合わせて行動しようとしている。ここには、サールの言う「適合の方向」(direction of fit)の転換がある。また、この方向転換によって、自己中心に対象に関わるのではなくて、対象を中心にして自己がそれに関わるということが生じる。
対象を中心にして自己を対象に合わせる行為(たとえば、それに注目する行為)では、自分にとっての対象と、他者にとっての対象は、同じものである。(対象が、自分の欲求の対象であるときには、自分にとっての対象と他者にとっての対象は、同じものではない。)ここに、客観的な対象が成立する。そしてその客観的な対象に対する自分と他人との関係は同じであり、そこに対象の「共有」が成立する。要求的な態度の場合には、自分と他人は対象とに対して異なった関係にあるので、その対象を同じように「共有」するという関係は成立しないのである。
対象xを第三項とする二人の同形の関係、対称的な関係が成立している。置き換え可能な同形の対照的な関係が、「共有知」を成立させるのではないだろうか。
以上は、単なる想像、思弁である。しかし、指さしを分析する実験方法を考え出すためにも、もうすこし思弁を試みよう。