第8回講義 2001年12月4日

第一章 命題的指示と発語内的指示

第二章 クワインの「指示の不確定性」テーゼの検討

第三章 固有名をめぐる論争の検討

第四章 指示と相互顕在性

§14 指示の前提

1、言葉で対象を指示する三つの仕方

2、指さし、鏡像理解、誤信念の理解

3、指さしの分析

4、再説:指さしの分析

 

5、続編:指さしの分析

ここでの当初の問題はこうでした。

「指さしで、一つの対象を指示することはどのようにして可能になるのか」

 

(1)指さしとはどのようなことか。

<定義の試み>

定義:<指さしとは、ある対象xに向けて腕と人差し指を伸ばし、その他の指は丸めるという動作によって、他者の注意を対象xに向けようとすること、(あるいは、さらに、対象xへの注意を他者と共有しようとすること)>

 

<提示と指さしの違い>

(差異1):提示は、要求的態度であり、指さしは、認知的態度である。

提示では、自己の要求に合わせて、対象を変化させようとする。

指さしでは、対象に合わせて自分の行為を調整しようとする。

(差異2):提示は、相補的関係であり、指さしは対称的関係である。

提示では、<相手が対象を幼児に与え、幼児は対象を相手から受け取る>という相補的な関係が目標になっている。

指さしでは、自分も相手も同じように、対象に合わせて自分の行為を調整しようとする。

(差異3):提示も指さしも、他者の注意をある対象に向けようとする行為である。しかし、指さしは、他者への表現行為であるが、提示は表現行為ではない。

提示は、意図に基づく行為であるが、その意図を他者に表現しようとする好意ではない。

 

<注:提示と指さしの区別の仕方>

(区別1):提示は、対象に直接に触って、他者の注意を対象xに、向けようとすることである。それに対して、指さしは、直接に触らずに、指さし動作によって、それを行おうとする。

(区別2):提示は、それを採ってもらうとか、それで遊んでもらう、などの要求のために行われる行為であるが、指さしは、要求的態度ではなくて、認知的態度である。

 この二つの区別の境界線が、実質的に一致するのかどうか、そして一致するとすれば、それは偶然なのか、必然なのか。

 

 

<犬が棒をよけることと指さしの違い>

犬が歩くときぶつからない様に棒をよける。それもまた対象に合わせて自分の行為を調整しようとすることである。指さしは、これとどう違うのだろうか。

(差異1):犬が棒をよけるときには、なにかの欲求を満たすために何処かへ向かうためである。棒をよけることは、目標を実現するための手段である。これにたいして、指さしは、何か別の目的を実現するための手段ではない。幼児にとっては、それはそれ自体が目的の行為である。

(差異2):犬が棒をよけることは、他者に対する表現行為ではないが、指さしは、対象に合わせ自分の行為を調整すると同時に、表現行為ではない。

 

 

<指さしと共同注意>

指さしは、しばしば「視覚的共同注意」(joint visual attention)と同じような意味で用いられる。「共同注意」とは何をさすのだろうか。

 

(定義1):バターワースの定義:バターワースは、視覚的共同注意を「他者が見ているところ、もしくは指示しているところを見ること」(Butterworth & Jarrett,1991)と定義する。(板倉、前掲書、135)この定義を採用すると、「共同注意」は「指さし」とは別のものである。この「共同注意」はサルや類人猿にも可能である。

 

(定義2):バロン-コーエンの定義:彼らは、次の三つが含まれていることと定義する(Baraon-Cohen,1995)。(板倉、136

(1)人の視線を理解することが出来る。

(2)指さしの理解と産出が可能となる。

(3)物を人に示すことができる

この定義をとると、「共同注意」は「指さし」と同じである。

 

(定義1の共同注意:視線の理解について)

・板倉は、オランウータンが、人の視線を理解したと言えそうな出来事を報告している。(板倉、132)

・「ヒト乳児における視覚的共同注意の発達を最初に実験的に検討したのは、スケーフ(M.Scaife)とブルーナー(J.S.Bruner)である。(Scaife & Bruner, 1975)。きわめてシンプルで、興味深い彼らの論文は、『ネイチャー』に掲載された。彼らは、生後二ヶ月から十四ヶ月の乳児を対象として、お母さんが、視線を送る側の対象物を見ることが出来るかどうかを調べた。具体的な手続きは、次のとおりであった。

 ・・・・実験者は、赤ちゃんと十分なアイコンタクト(視線の交錯)をとり、ゆっくりと右または左側を見た。そして、そのときの赤ちゃんの行動が観察された。そして、生後わずか二ヶ月の赤ちゃんでも、実験者が見たほうへ視線を向けることができる者がいることを発見した。また、十四ヶ月になるとほぼ百パーセントの赤ちゃんが、実験者の見た方向をみることができた。

 この結果は、ヒトの赤ちゃんは、かなり早い時期から、他者の視線の変化に気づいて、自分の視線の方向を変えることが出来ることを示すものである。」(板倉、138

「バターワースとジャレットは、前述したスケーフとブルーナーのパラダイムを用いて、さらに綿密な分析を行い、生後六ヶ月から十八ヶ月の視覚的共同注意の発達に、三つの段階のあることを報告した。」(板倉、138)

 (1)お母さんの見ている一般的な方向(乳児の視野内にある右か左か)を

見ることが出来る生後六ヶ月の時期

(2)視野内にある特定の刺激を見ることができる12ヶ月の時期

(3)乳児の視野の外にある刺激、たとえば乳児の後方にある刺激を振り返

ってみることができる十八ヶ月以降の時期

 

「他者が見ているところを見ること、もしくは指示しているところを見ること」は、サルや類人猿にも可能であるらしい。(参照、板倉、144)バターワースのいうように、これを共同注意というならば、サルや類人猿にも共同注意が可能である。

 たしかに、ここでは相手の注意(注意の対象)によって、自分の注意(注意の対象)が結合している(joint)といえる。しかし、結合していることを意識していないし、また結合が共有知になっているわけでもない。

 しかし、指さしの場合には、注意の結合そのものにも注意が向けられており、結合が共有知になっている。

指さしでは、対象への注意の一致が目的になっており、それのことにも注意が向けられ、注意の一致が実現したとき、それが共有知になっている。

 

<まとめ> 

以上の比較から、指さしに最低限必要な事柄として次の三つをあげることができる。

  (1)相手の視線がどの対象に向けられているかを理解すること

     自分が指さすときにも、それが成功したことを確認するためには、これが必要である。

  (2)相手の注意をある対象に向けようと意図すること

  (3)この意図を相手に伝達しようと意図すること

 

この(2)と(3)は、関連性理論のいう「情報意図」と「伝達意図」に対応するので、これを確認し、検討しよう。

 

(2)指さしにおける「情報意図」と「伝達意図」

<グライスへの批判への批判>

 スペルベルとウィルソンは、グライスの意味論を次のように批判する。

まず、グライスの意味論を次のように紹介する。

「発話xによって何かを意味するためには、個人Sは次のことを意図しなければならない。
       (a)Sの発話xがある特定の聞き手Aにある特定の反応rを起こすこと。

    (b)ASの意図(a)を認識すること
    (c)ASの意図(a)を認識することが、Aが反応rを起こす理由の少なくとも一部になること」
                              (『関連性理論』邦訳、
33

 

「さて、意図(b)がひとたび達成されると、意図(a)と(c)が達成されようと達成されまいと、伝達者が意味することの伝達に成功したということは容易に理解できる。」34

例えば、メアリーが「私はクリスマスイブにのどが痛かった」とピーターにいうとき、「メアリーの意図(a)とは、前年のクリスマス・イブにのどが痛かったということをピーターに信じさせることである。ピーターは、メアリーのこの意図を認識するが、メアリーの言うことを信じないとする。そうすると、メアリーの意図のうち(b)だけが達成され、意図(a)と(c)は達成されない。それでも、メアリーはピーターを納得させることには失敗したが意味したことの伝達には成功したのである。

 意図(a)が達成されなくとも伝達は成功する可能性があるので、意図(a)は伝達しようとする意図ではまったくないことになる。したがって、意図(a)は、情報を知らせようとする意図、またはここで使うように情報意図と呼ぶほうが適切である。真の伝達意図とは、意図(b)で、すなわち話しての情報意図を認識させようとする意図である。」34

つまり、発話は、発話媒介行為の実現を意図している。しかし、それが成功しなくても発話内行為は実現されうる、ということである。ただし、話し手が意図(a)を持たないとすると、意図(b)ももち得ないので、意図()は、必要である。

 

「意図(c)はどうであろうか。これは聞き手が話し手の意図(a)を認識することが、聞き手が意図(a)を達成する理由の少なくとも一部になるという内容をもつものである。定義上、意図(c)は意図(a)が達成されていなければ、達成されるはずがない。(a)を達成することは、伝達の成功には必要ではないので、意図(c)を達成することも必要であるはずがない。」34

 

(関連性理論への批判1)この指摘はまちがっている。「定義上、意図(c)は意図(a)が達成されていなければ、達成されるはずがない」というのが、間違いである。なぜなら、意図(c)は相手が意図(a)を認知することを前提するだけであり、その意図(a)の達成を前提するわけではないからである。

 

 ところで、スペルベルとウィルソンは、このような批判から、二つの意図だけで十分であるという。意図(a)を「情報意図」、意図(b)を「伝達意図」とよび、次のように定義する。

 

「情報意図:聞き手に何かを知らせること

伝達意図:聞き手に情報意図を知らせること」(35

後の箇所では、より詳しく次のように定義している。

「情報意図:聞き手に対し想定集合{I}を顕在的もしくはより顕在的にす

ること」52

「伝達意図:伝達者がこの情報意図をもっていることを、聞き手と伝達者

にとって相互に顕在化すること」72

 

(関連性理論への批判2)意図(a)は、相手に何かを知らせるだけでなく、相手に命令したり、約束することを含むので、グライスの定義では、「反応rを起こすこと」とされていた点が、この情報意図の定義では、記述を言明の中心的な機能と考える「記述主義的誤謬」に戻ってしまっている。

 

<指さしへの適用>

幼児が、指さし動作で、指さしを行っているといえる条件(成立条件)は、以下のようになるだろう。

 (1)相手の注意を対象xに向けようと意図1する

 (2)相手に意図1を伝達しようと意図2する。

 

では、この指さしが成功するための条件(成功条件)は、なにだろうか。

 (1)意図1が実現する

 (2)意図2が実現する

 (3)意図1の認知(意図2の実現)によって、意図1が実現すること

 

意図1が実現するだけでは不十分である。子供が時計を指さしたから母親が時計をみたのではなく、別の理由で母親が時計をみたとき、指さしが成功したとはいえない。つまり、意図1の認知によって、意図と1が実現したのでなければならないだろう。

 

しかし、幼児は、メタ表象を持たないので、この(3)のような複雑な事柄を意図することはできないだろう。それゆえに、(3)を意図することを成立条件には挙げられないかもしれない。

 

(以下、想像、思弁です。)

ところで、幼児は意図1と意図2をもつことができるのだろうか。

もし、幼児にとって知と現実が不可分であるとすると、自分の対象xへの注意は、一つの事実として、みんなに知られていると考えるだろう。そうすると、幼児は、それを母親と共有しようとするだろうか。ここでの意図1は、自分の知をつたえることではなくて、相手にある行為を求めることである。そのような意図ならば、幼児はもつことができるだろう。

では、幼児は、この段階で、自分の意図1と現実の区別、意図1と意図2の区別を明確にしているということだろうか。(そこで、われわれは次のように想像することもできる。)

幼児は、対象xに注目し、母親にもそれに注目してもらいたいと思って、それを指さすのではないだろう。幼児は、対象xを指さすことによって、対象xに注目するのではないだろうか。幼児にとっては、おそらく指さすことは考えるための動作なのである。その注目を他者が共有することによって、その注目はより確実なものになる。それによって、対象は客観的なものとなる。つまり、意図1と意図2は未分化の状態で渾然一体となっている。意図1は、指さし行為の前に、成立しているのではないように思われる。

この意図1と現実の区別、意図1と意図2の区別が明確におこなわれるようになるには、意図と現実、主観と客観が明確に区別されるようにならなければならない。

 

(3)指さしと共有知

<共有知の説明>

対象についての知が、知であると自覚されていないとき、つまり、見えているのが、対象そのものであると思っているとき、それはまた、他者にも見えているはずだと思われている。対象についての知が、共有されているという意識はない。しかし、この知は、第三者から見れば、当事者は自分の知がみんなに共有されていると思っているように見えるのであり、この知を「共有知」と呼ぶことができる。日常生活は、このような共有知によって、円滑に行われている。

(もし、対象についての知が、対象と区別されて知として意識されていれば、それが他者の対象についての知と一致していると考えられているとしても、それは別個の知である。つまり、それらは類似の知、ないし共通の知であって、共有知ではない。

 ただし、対象と分離していない実在知が、知として意識され、対象と知が区別されるとき、まず最初には、その知は個人的な知としてではなくて、人々に共有された知として理解されるのではないだろうか。<知が知として意識されるのは、対象との区別においてである>それゆえに、<まず知は対象と区別され、次に、自己の知と他者の知が区別される>と言えるとすれば、最初の知は、共有知となる。)

 

<共有知における知の知>

机の上のコップがみんなに見えているように、私がそれを見ていることもみんなに見えているのである。なぜなら、私がそれを見ていることは、心的な事柄でなく、現実的な出来事だからである。なぜなら、見られていること<机の上にコップがある>ということは、心的な事柄でなく、現実の事実だからである。

「机の上にコップがある」という<こと>(共有知a)を、コップと同じように「それ」と指示して、「それが、問題だ」「それを変えなくてはならない」と考えるとき、これは<こと>に言及する知ではない。これもまた、<こと>(現実)の一局面をなす<こと>である。

現実=知であるとき、ある現実1=知1についての現実2=知2は、現実1の中のある部分や局面や関係などである。

 会話において、相手がp「机の上にコップがある」と発言したとしよう。この発言は、事実である。<机の上にコップがある>という事実と同じように、「相手がpを発言した」ことは事実であり、日常的には、それは私の知だとは意識されていない、したがって、それは共有されていると考えられている。それは共有知である。

 

<「相互顕在性」概念の吟味>

「相互顕在性」とは

「だれがそれを共有するかということが顕在的である共有された認知環境は、すべて相互認知環境と呼ぶことにする。相互認知環境では、顕在的な想定すべてに関して、この環境を共有する人間にそれが顕在的であるという事実自体が顕在的である。いいかえれば、相互認知環境では、顕在的な想定はすべて我々が相互に顕在的である(mutually manifest)と呼ぶものである。」(49

 

先週紹介した、「相互顕在性」概念を吟味しよう。

「だれがそれを共有するかということが顕在的である共有された認知環境は、すべて相互認知環境と呼ぶことにする。」

これは、具体的にはどういうことだろうか。今部屋の中に私を含めた3人がいるとしよう。私は、<その部屋の中に机があること>を知っている。私にとって、そのことは事実であって、私の知であるとは、普通は意識していない。それゆえに、他の二人も、そのことを当然知っていると、私は思っている。

私が、部屋の壁の時計を指さすことによって、他の人に時計があることを知らせたとする。他の人が時計を見たのを確認すると、私は<時計があることをみんなが知っている>と考える。<時計があることをみんなが知っていること>は、私の知ではなくて、日常的な私にとっては、時計の存在と同じように、事実なのである。

母親に時計を指さす幼児は、母親が時計を見たことを理解して、母親と自分が一緒に時計に注目していることを知る。そして、<母親と自分が一緒に時計に注目したこと>は、彼にとっての事実であって、それは他の事実と同様に、みんな知っていることなのである。そこには、当然、母親も含まれる。

幼児にとっては、すべての知がすべての人と共有されているので、すべての知が相互に顕在的である。

 

<相互に顕在的である知とそうでない知の区別の登場>

そうではないことに気づくのは、誤信念課題を解けるようになってからである。そして、重要なのは、誤信念問題を解けるようになったあと、つまり限定された人との間で相互に顕在的な知がどのようにして可能になるのかを説明することである。(なぜなら、一旦、現実と知が区別されると、自分の知と他者の知は、単に一致する二つの知、共通の知であり、共有知ではなくなるようにおもえるからである。)

 

・「誤信念課題」の説明

「マキシは、チョコレートを緑のタンスの中に入れる。次に、マキシが見ていないところで、他の人間が、そのチョコレートを青のタンスに移してしまう。そこにマキシが戻ってくる。このような「お話」を被験者の子どもに聞かせたあと、被験者の子どもにこう質問する。「マキシはどちらの色のタンスにチョコレートをとりに行くかな?」この実験結果によると、正しく「緑のタンス」と答えた割合は、3−4歳の子どもでは0%、4−5歳では、57%、6−9歳では86%であった。つまり、4歳以下の子どもでは、マキシという他者の知識の世界を正しく推測できなかったことになる。」(金沢、70

 

3−4歳の子供は、マキシが自分と同じように考えると思っている。

それは、自分の知っていることとマキシの知っていることの区別がつかないということである。つまり、この段階の子供は、自分の知っていることを、他の人も知っていると考えている。彼の知は、第三者からみると共有知なのである。

 

たとえば、二人で、マキシのお話の舞台を見ていた子供xとyのうちのxは、<マキシは、緑のタンスにチョコレートがあると考え、一緒に見ていた子供yは、青のタンスにチョコレートがあると考える>と考えるとしよう。このとき、<青のタンスの中にチョコレートがあること>は、彼に取っての事実であり、一緒に見ていた子供もそれを知っていると考えることだろう(我々大人も、日常生活では、そのように考えるだろう)。これは、<舞台があること>が、彼にとっては事実であり、一緒にいた子供も当然それを知っている、と考えるのとおなじである。

このとき、<マキシは青のタンスの中にチョコレートがあることを知らない>ということとの対比によって、<二人が青のたんすの中にチョコレートがあることを知っていること>ことにxはきづくだろう。

つまり、相互顕在性における顕在的知の共有は、自分の知と他者の知が同一であろうという推論によって、成立するのではなく、共有知を限定してゆく中で成立する。

そして、相手がある知をもたないことに気づくことによって、われわれは自分の知に気づくのであり、知の知が生じるのである。

指示の伝達の意図もまた、共有知を限定するなかで、明確になるだろう。

 

 

{結局のところ、指さしにおける伝達意図がどのようにして発生し、それが何を前提しており、なぜ類人猿にはそれができないのかを、明らかにすることはできませんでした。それは、おそらくこの時期に同時に始まる、他者とのものの受け渡しの発生と、密接に関係しており、問答の発生とも関係しているだろうと思うのですが、うまく議論を詰められませんでした。}

 

21世紀の最初の年も終わりに近づいています。