第9回講義(2002.1.15)
悪夢のような2001年が過ぎました。今年はよい年でありますように。
第一章 命題的指示と発語内的指示
第二章 クワインの「指示の不確定性」テーゼの検討
第三章 固有名をめぐる論争の検討
第四章 指示と相互顕在性
§14 指示の前提
1、言葉で対象を指示する三つの仕方
2、指さし、鏡像理解、誤信念の理解
3、指さしの分析
4、再説:指さしの分析
5、続編:指さしの分析
6 閑話休題:復習をかねて、指示をめぐる問題の整理
言葉による指示は
確定記述
指標詞
固有名
によって行われる。
ラッセル・クワインの記述説は、固有名と指標詞を確定記述に還元する。しかも、確定記述による<指示>を否定し、それを<記述>の省略表現であると見なした(記述理論)。ラッセル・クワインの主張を機軸にして、指示をめぐる問題を次のように整理できるでしよう。
a 記述理論についての論争
・サールは、ラッセルの記述理論を批判していた。記述は、発語内行為であるが、指示は、命題行為であるので、指示を記述に還元することはできない、というのが、その理由である。(サールへの批判は、講義の中で行いましたが、記述理論についての最終結論は、留保したままです。)
b1 固有名を確定記述に還元できるかの論争
・クリプキの固有名の因果説は、固有名を確定記述に還元できないと主張する。
・クリプキ対クワインの論争があるはずである。
クリプキは、たとえば、固有名「ニクソン」は固定指示子であるが、確定記述「1970年のアメリカ大統領」は非固定指示子である。ゆえに、固有名を確定記述に還元できないと主張する。これに対して、クワインは、クリプキの可能世界意味論を認めない。
クワインによる「指示の不可測性」テーゼの主張は、固定指示子として固有名を認めることとは矛盾する。クリプキは、固有名について「指示の不可測性」を認めないだろう。
(この論争を吟味するには、様相論理について勉強しておく必要がありますが、現在のところその用意がないので、今後の課題とします。)
(ここから、クリプキが、固有名や自然種名の対象の存在を主張し、存在論的相対主義をとらないことになるのかどうかは、不明です。私は必ずしもそうならないだろうとおもいます。なぜなら、何を固定指示子とするかは、規約の問題であるとクリプキは考えているからです。)
b2 指標詞を確定記述に還元できるかの論争
(これについては、来年度前期に検討します。)
c、問題「上の3つのどのような言語表現によるのであれ、そもそも言語によって対象を指示するとはどういうことか。」
(これが、今年度の本来の課題でした。しかし、上のような議論の整理がみえてきたところで、この問題への本格的な取り組みの時間が残り少なくなってしまいましたが、来年度前期に積み残しそうです。)
7、復習と多少の展開:共有知についての再説
<共有知の説明>
対象についての知が、知であると自覚されていないとき、つまり、見えているのが、対象そのものであると思っているとき、それはまた、他者にも見えているはずだと思われている。対象についての知が、共有されているという意識はない。しかし、この知は、第三者から見れば、当事者は自分の知がみんなに共有されていると思っているように見えるのであり、この知を「共有知」と呼ぶことができる。日常生活は、このような共有知によって、円滑に行われている。
<共有知における知の知>
机の上のコップがみんなに見えているように、私がそれを見ていることもみんなに見えているのである。なぜなら、私がそれを見ていることは、心的な事柄でなく、現実的な出来事だからである。なぜなら、もし見ることが心的な事柄であるとすれば、見られている対象は、心的な表象であろう。しかし、日常生活では、見られているのは対象自体、あるいは事柄自体である。たとえば、見られていることが、<机の上にコップがある>という事である。そうだとすれば、それを見る行為もまた、現実の出来事である。
会話において、相手がp「机の上にコップがある」と発言したとしよう。この発言は、事実である。<机の上にコップがある>という事実と同じように、<相手がpを発言した>という事実であり、日常的には知としては意識されていない。したがって、発話行為は共有されていると考えられている。それは共有知になっている。
<共有知とそうでない知の区別の登場>
重要なのは、誤信念問題を解けるようになったあと、つまり限定された人との間でいわゆる<相互に顕在的な知>がどのようにして可能になるのかを説明することである。(なぜなら、一旦、現実と知が区別されると、自分の知と他者の知は、単に一致する二つの知、共通の知であり、共有知ではなくなるようにおもえるからである。)
・「誤信念課題」の説明(再説)
「マキシは、チョコレートを緑のタンスの中に入れる。次に、マキシが見ていないところで、他の人間が、そのチョコレートを青のタンスに移してしまう。そこにマキシが戻ってくる。このような「お話」を被験者の子どもに聞かせたあと、被験者の子どもにこう質問する。「マキシはどちらの色のタンスにチョコレートをとりに行くかな?」この実験結果によると、正しく「緑のタンス」と答えた割合は、3−4歳の子どもでは0%、4−5歳では、57%、6−9歳では86%であった。つまり、4歳以下の子どもでは、マキシという他者の知識の世界を正しく推測できなかったことになる。」(金沢、70)
3−4歳の子供は、マキシが自分と同じように考えると思っている。それは、自分の知っていることとマキシの知っていることの区別がつかないということである。つまり、この段階の子供は、自分の知っていることを、他の人も知っていると考えている。彼の知は、第三者からみると共有知なのである。
ここで、二人で、マキシのお話の舞台を見ていた子供xとyのうちのxは、<マキシは、緑のタンスにチョコレートがあると考え、一緒に見ていた子供yは、青のタンスにチョコレートがあると考える>と考えるとしよう。このとき、<青のタンスの中にチョコレートがあること>は、彼に取っての事実であり、一緒に見ていた子供もそれを知っていると考えることだろう(我々大人も、日常生活では、そのように考えるだろう)。これは、<目の前に舞台があること>が、彼にとっては事実であり、一緒にいた子供も当然それを知っている、と考えるのと同じようなことである。
このとき、<マキシは青のタンスの中にチョコレートがあることを知らない>ということとの対比によって、<二人が青のたんすの中にチョコレートがあることを知っていること>ことにx(およびy)は気づくのだろうか。マキシが誤った信念を持っていることとの対比で、自分が正しい信念を持っていること、自分がただしい知を持っていることに気づくのだろうか。
おそらくそうではないだろう。マキシの偽信念に気づいても、おそらくxとyは、<チョコレートが青のタンスにあること>は事実であり、事実として共有されていると考えているが、それを共有知としては意識していないのである。
つまり、間違っている知は、間違っていることに気づかれた後で、そのことによって、知として意識されるが、しかし、正しい知は、正しいことを意識した後でも、そのことよって知として意識されるということはない。むしろ、我々が自分の知を知として意識するのは、間違いの可能性があることを意識するときなのではないだろうか。
なぜなら、知においては、事柄そのものに注意が向かっており、知には注意が向いていないからである。正しい知であるとき、我々が知っていることは事実であり、知と事実は区別されておらず、したがって、その知は、事実として共有されている。
<テーゼ「偽信念は共有知にはならない」>
たとえば、xとyの二人が一緒にチョコレートを緑のタンスに入れ、その後、第三者がチョコレートを青のタンスに入れ替えたとしよう。その後やってきた、xとyは、緑のタンスにチョコレートが入っている、と信じており、それが事実であり、そのことが彼らの共有知になっている。しかし、彼らが緑のタンスを開けるとそこには何も入っていない。そのとき、彼らは、「緑のタンスにチョコレートがない」ということを知る。それは彼らにとって事実であり、共有知である。<緑のタンスにチョコレートが入っていたこと>は事実であるが、しかし「緑のタンスにチョコレートが入っている」というのは、間違っていた。xとyの共通の信念は偽であった。
このときこの偽信念は、共有知ではない。共有されているのは、<xとyがともに間違って「緑のタンスに今もチョコレートが入っている」と思っていたということ>である。このことは、両者にとっての事実であり、(知として意識されていない)共有知である。
今度は、xだけが引き返して、xがチョコレートを緑のタンスから青のタンスに移したとしよう。そこにyが戻ってくる。xは、<yは、緑のタンスの中にチョコレートがある、と思っている>ことを知っている。しかも、<yはxも同じように思っていると思っている>とxは思っている。
xは、「緑のタンスにチョコレートがある」という知(事実)をyと共有している振りをすることはできる。しかし、xは、自分が偽であると思っている信念をyと共有することはできない(なぜだろうか?)。
我々は、偽の信念を信念として持つことができないのと同様に、偽の信念を共有知として持つことはできない。我々の知の基底には、真なる知があり、それは知として意識されていない。我々の意識の規定には、真なる意識があり、その内容は意識として意識されておらず、事実なのである。(ここに、相互知識や自己意識の無限反復の成立根拠がある。)
たとえば、ある自然科学の理論が絶対に真ではなくて、将来別の理論に取って代わられる可能性をほとんどの人が認めているとしよう。このとき、その科学理論は、実在そのものではなく、実在と区別された知である。このとき、その科学理論は、実在知ではない。では、科学理論は、共有されていないのだろうか。科学理論は、共有されている。しかし、共有されているのは、科学理論を知っているということであって、科学理論をみんなが知っていることが事実であり(つまりこれが実在知であり)、それゆえにみんなに共有されていると考えられているということである。
<p>が共有知になっていることと<みんなが「p」を知っていること>が共有知になっていることは、同じ事ではない。なぜなら<p>が共有知になっているとき、pは知ではなくて、事実として理解されているのである。知として理解されたときには、<「p」はみんなに知られている>ということが共有知になっており、それは事実として理解されている。
会話において、sがhに「p」を発話したとき、<sがhに「p」を発話したこと>は共有知になるが、<p>が共有知になるとはかぎらない。もしSとhが「p」を信じるならば、<p>は両者の共有知である。
xとyの二人が机をはさんで座っており、机の上に蝋燭があるとしよう。xとyは、机の上に蝋燭があることを知っている。たとえばxにとって、<机の上に蝋燭があること>は事実であり、<yが蝋燭があることを知っていること>もまた事実である。ただし、xが反省すれば、<机の上に蝋燭があること>はxの知であり、事実そのものではないと考えるかもしれない。それと同じく、<yが蝋燭があることを知っている>についても、xが反省すれば、それはxの推測であって、事実ではないかもしれないと考えるだろう。<yが蝋燭があることを知っていること>がxにとって事実であるならば、xはそれを知っている。xにとっての事実は、xにとっての知である。
(残念ながら、私は、言いたいことをうまく言えません。)
<共有知と相互知識の違い>
相互知識は、知の知という知のメタ構造をもつが、共有知は、メタ構造を持たない。そこでは、すべての知が事実であり、一階の知でしかない。
指さしのできないものは、言葉による指示も出来ないだろう。そして、指さしも、言葉による指示も、このような共有知を前提している。(十分明晰な証明を与えられたとは思わないが、次に言葉による指示が何を前提するかの考察に移りたい。)
8、グライス意味論の検討:意図すること、意図を表現すること、意図を実現すること
グライスによると、<S(speaker)が、行為xによって、何かを非自然的に意味する>ための条件は、次の3つである。
条件1、Sが、行為xによって、A(addressee)にある反応rを生じさせよう
と意図1している。
条件2、Sは、AがSの意図1を認知することを意図2する。
条件3、Sは、Aによる意図1の認知にもとづいて、Aにある反応rが生じる
ことを意図3する。
当然のことであるが、
心の中で意図すること
意図を表現すること
意図が実現すること
この3つは、別の事柄である。
グライスの条件1の意図1は、表現されなければ、何も伝えることはできないのだから、心の中で意図することではなくて、意図を表現するということである。ここでの条件は、意図が表現されることであって、それが実現される必要は無い。なぜなら、発語媒介行為が実現されなくても、発後内行為は実現するからである。
条件2の意図2は、表現されていなければならないだろうか。それはたとえ表現されていなくても、実現されていればよいのではないか。また仮に表現されていても、実現されなければ何かを非自然的に意味したことにならないだろう。
では条件3の意図3はどうだろうか。条件3の意図は、普通は表現されていない。また、それが実現しないということは、発語媒介行為が実現しないということであり、かりに実現しなくても、発語内行為が実現していることは可能であるので、意図3が実現することは必要条件ではない。そうすると、意図3は、心の中で意図されていればよいということになるのだろうか。今仮に、Sが意図3を心の中で意図していないとしても、実際にAがSの意図1の認知に基づいて、反応rをおこなったのならば、そのときには、Sは、行為xによって何かを非自然的に意味したといえるだろう。実際、会話において、意識して意図3を持っていることは、まれであろう。
では、条件3を次のように訂正すればよいのだろうか。
条件3、AがSの意図1を認知することに基づいて、反応rをおこなう。
この場合、この条件が満たされるということは、発語媒介行為が実現する、ということである。これが条件だとすると、相手に何かを伝えても相手がそれを信じないような場合には、Sは非自然的に意味したのではないことになる。これでは、条件が強すぎる。
では、条件3をどのように訂正すればよいのだろうか。条件3を詳しく分析しよう。
<条件3の事例分析>
yがxにxの妻の浮気を信じさせようとして、浮気場面の絵を書いて見せたとしよう。xがyの書いた絵をみて、妻の浮気を信じるとするならば、xは、yの意図1を認知することによって、そう信じたのである。このとき、yがもしそれを真だと考えていなければ、そのようなことをするはずがいない、とxは考える。そして、yがそれを真だと考えているのだとすれば、それはおそらくは真なのである、とxは考えるのである。
<条件3の一般的説明>
条件3は、聞き手が次のように推論することを、条件として主張するものである。
Sはpを信じさせようと意図している。(意図1の認知)
Sがpを真であると思っていなければ、Sはpを信じさせようと意図しないだろう。(Sは誠実である)
ゆえに、Sはpを真であると思っている。
ところで、Sがpを真であると思っているのならば、pはおそらく真であろう。(Sの判断は正しい)
ゆえに、pはおそらく真であろう。
我々が、Sの主張にもかかわらず、pを信じないときには、
Sの誠実性への信頼
Sの判断力への信頼
このうちの一つないし両方が欠けているのである。
つまり、条件3をより精確に表現すれば次のようになるだろう。
条件3a:Sは、Aによる意図1の認知と、AがSの誠実性と判断力にたいする信頼に基づいて、Aにある反応rが生じることを意図3する。
<条件3の改定案>
ところで、上のように言い替えたとしても、前に検討したように、この意図3は、実現しなくてもよいし、表現されていなくてもよいし、心の中で意図されていなくてもよい。したがって、条件3は次のようにすべきであろう。
条件3b:Sは、AがSの誠実性と判断力を信頼することを意図3する。
この意図3は、心の中で意図されている必要がある。この意図は表現されていなくてもよい。<AがSの判断力を信頼することの意図>は実現していなくてもよい。なぜなら、発語媒介行為が実現していなくてもよいからである。しかし、発語内行為は実現しなくてはならない。ところで、そのためには<AがSの誠実性を信頼することの意図>が実現していなくてはならないだろうか。これもまた、不必要であろう。仮に聞き手が話し手の誠実性を疑っていても、話し手が主張や約束などの発語内行為を行ったということはできるからである。つまり、この意図は、心の中で意図されていれば十分であり、表現されていることも、実現していることも、必要ないと言える。