第10回講義 (2002年1月22日)

  <期末レポートについて>

テーマ:指示に関係するテーマを自由に設定すること

分量:4000字程度

用紙:A4の原稿用紙、ワープロ印刷の場合には40字30行でA4用紙に印刷のこと。(縦書きでも、横書きでもよい)

締切り:卒論・修論提出者は、2月7日(木)正午、

来年度在学予定者は、2月26日(火)正午。

提出場所:一階ロビーの入江のメイルボックス

 

第四章 指示と相互顕在性

§14 指示の前提

9、再説:グライス意味論の検討

(先週の「8、グライスの意味論の検討」には、間違いがありましたので、論じなおすことにします。)

 

 グライスによると、<S(speaker)が、行為xによって、何かを非自然的に意味する>ための条件は、次の3つである。

  条件1、Sが、行為xによって、A(addressee)にある反応rを生じさせようと意図1している。

  条件2、Sは、AがSの意図1を認知することを意図2する。

  条件3、Sは、Aによる意図1の認知にもとづいて、Aにある反応rが生じることを意図3する。

 

 当然のことであるが、

心の中で意図すること

意図を表現すること

意図が実現すること

この3つは、別の事柄である。では、上記の三つの意図については、何が求められているのだろうか。これを考察する上で問題になるのは、「意図を表現するとはどういうことか」という問題である。そこで、まずこの問題に答えておこう。

 

<意図を表現するとはどういうことか>

食事をしているときに、「塩を取ってくれる?」と言う代わりに、黙って塩の容器を指さすとしよう。このとき、この人は、「塩を取ってほしい」という意図を表現したといえるのだろうか。もちろんこの場合には、つぎのような可能性もある。その塩の容器が新しいもので、それに始めて気づいたので、「塩の容器が新しくなったんだね」といおうとして指さししたのかもしれない。しかし、その容器が特に新しくなく、その状況では、それをとってほしいという意図を表現する以外には指さし行為を理解する仕方を思いつかない場合には、相手は、指さし行為ので、塩の容器を取ってほしいと言っているのだと推論することになるだろう。

さて、コード理論で説明するならば、<意図を表現するとは、それをエンコードしてメッセージをつくり、相手にそのメッセージを伝えることである>。したがってこの立場では、上の指さし行為は、塩の容器に注目してほしいという意図を表現しているだけであり、その意図から、それを取ってほしいという意図を推論するのであり、後者の意図は、表現されているのではなく、表現された意図から推論されたものであるということになるだろう。

しかし、コード理論には、つぎのような問題がある。「塩をとってくれる?」という発話が、テーブルの上の塩の容器を取ってほしいということを表現しているとは言えないからである。もし、聞き手が、テーブルの上には塩の容器がないと思っていて、台所から塩をとってきてほしいのだと理解することもありえる。こういうことが可能だということは、「塩をとってくれる」という発話を、「テーブルにある塩の容器を取ってほしい」という意図の表現であると理解するときにも、推論が働いているということである。つまり「塩をとってくれる?」という発話は、意図を表現していないことになる。たとえば、相手が「それをとってくれる」と発話したのだとしよう。我々が日本語のコードでこの発話をデコードするだけでは、「それ」が何を指示しているのかを理解することはできない。「それ」が何を指示しているのかを理解するには、状況の理解をもとに、推論する必要がある。つまり、この発話の意図を理解することはできない。つまり、コード理論によるならば、「それをとってくれる」という発話は、意図を表現していないことになる。

われわれは、スペルベル&ウィルソンが主張する推論モデルで理解した方がよいだろう。すると、つぎのようになる。

<意図を表現するとは、相手が自分の意図を正しく推論できるような手がかりを提供することである>

これによると、上の「それを取ってくれる」という発話は、「それ」の指示対象が推論することができるので、推論された指示対象を取ってほしいという意図を表現していることになる。

とりあえず、意図を表現することを推論モデルで理解することにして、グライスの条件を検討してみよう。

 

<条件1について>

グライスの条件1の意図1が実現される必要は無い。なぜなら、意図1が実現するとは、発語媒介行為が実現することであるが、これが実現しなくとも発語内行為は実現するからである。「非自然的に意味する」といえるために必要なのは、発語内行為の実現である。

 

では、意図1の表現についてはどうだろうか。グライスの条件1の意図1は、表現されなければ、何も伝えることはできないのだから、心の中で意図したとしても、それだけで十分ではなく、意図を表現することが必要である。

もし、行為xを手がかりにして、聞き手が反応rをおこすという意図1を推論することができるのならば、行為xによって、意図1は表現されているといえる。もし、そのような推論ができないならば、Sは行為xによって、何かを非自然的に意味したとはいえないだろうから、この推論ができることは必要条件である。つまり、意図1が表現されていることが必要条件であるといえる

 

では、意図1は心の中で意図されていることが必要だろうか。意図1は、表現されているならば、心の中で意図する必要はないかもしれない。たとえば、脱獄犯が家の中に侵入してきて、ヒロインが捕まったとしよう。その家に警官がやってきて、「脱獄囚が、このあたりに逃げたらしいのですが、何か異常はありませんか」とインターホーン越しに尋ねたとしよう。そのとき、ヒロインはピストルで脅されながら、「いいえ何も変わったことはありません」と答えたとしよう。このとき、ヒロインは、警官がこの発話を信じることを意図していない。しかしこの場合でも、ヒロインは、警官に主張型発話を行ったといえるだろう。それゆえに、意図1を心の中で意図することは不要である。

もし上のケースが、嘘を強制されるという例外的なケースであって、別途考えるべきものだとするならば、つぎのようなケースはどうであろうか。

「お茶のむ?」と問われて、別のことを考えていたために、よく考えずについ「ああ」と答えてしまったが、しかしお茶を飲みたくはなかったという場合、「お茶を飲む」という意思を相手に伝えたいという意図1はなかったが、「ああ」という発話行為によって、意図1を表現してしまっている。

これらの事例から、心の中で意図することは必要ないといえるのではないだろうか。(これはまだ予想であって、証明できているとはいえません)

 

結論:意図1は、表現されていればよい。

 

<条件2について>

 条件2の意図2は、実現していることが必要だろうか。意図2が心の中で意図され、かつ表現されているが、しかし実現されていないというとき、発語内行為は成立しているといえるだろうか。

たとえば、聞き手が外国人でその言葉を聞き手が理解しないのだが、話し手は、聞き手を日本人だとおもって、日本語で話しかけたとき、意図1は、表現されている。また、話し手は、意図2を心の中で意図し、かつそれを表現しているとしよう。しかし、意図1を聞き手が認知することはできないので、意図2は実現しない。このとき、話し手は、行為xによって相手に話したことになるのではないだろうか。

たとえば、電話が遠くて聞き手が聞き取れなかった場合にはどうだろうか。この場合にも、話し手は、行為xによって話したことになるのではないか。

もしそうだとすると、意図2は、実現されていなくてもよいことになる

 

意図2は、表現されている必要があるだろうか。たとえば、私が「いま印鑑をもっていますか?」といったとき、私は意図1を表現したといえるだろう。では、このとき、意図2もまた表現されているといえるだろうか。聞き手は意図1を認知することはできるだろう。聞き手が意図1を認知したならば、そこから意図2を推論することは可能である。それゆえに、その発話行為によって、意図2を表現しているといえそうである

もし、聞き手が日本語が分からないとすると、聞き手は意図1を認知できない。このとき、聞き手は意図2を推論することができないだろうか。前に並んでいた人物が同じようなことを言われたときに、印鑑を渡していたことから意図1を推論して、意図2を推論することができるかもしれない。

 かりに外国人の聞き手が、意図2を推論できなかったとしても、話し手は、発話行為によって、話したことになるだろう。そして、このときには、意図2は表現されているということになるのではないか。

 

 意図2は、心の中で意図されている必要があるだろうか。われわれは、話すときに、意図1を意識しているだろうが、意図2を意識しているということはほとんどない、といってよいだろう。そもそもグライスが指摘するまで、このような意図を考えたことのある人は、ほとんどいなかったに違いない。では、意図2は、心の中で意図されている必要はないといえそうである。ただし、もし話している人に、「あなたは意図1を聞き手に認知してもらいたいのですか」と尋ねたならば、その人は「はい、そうです」と答えるだろう。もし、そのひとが「いいえ」と答えたとするならば、それは発話行為そのものに(どこかで)矛盾するように思われるのである。意図2は、潜在的なものである(注1)。

 仮に、上の「脱獄囚とヒロイン」の例を認めると、意図2は心の中で意図されている必要はない

 

 結論:意図2は、表現されていればよい。

 

<条件3について>

条件3の意図3は実現していなくてもよい。なぜなら、それが実現しないということは、発語媒介行為が実現しないということであり、かりに実現しなくても、発語内行為が実現していることは可能であるので、意図3が実現することは必要条件ではないからである。

 

意図3は、表現されている必要があるだろうか。意図3は、普通に考えると、会話において表現されているとはいえないだろう。そもそもそのようなことを思ってみたこともない人が大半である。しかし、話し手の発話行為を手がかりにして、意図1を推論した後で、それにもとづいて、意図3を推論することは可能である。したがって、意図3は普通の会話において表現されているといえなくはない。そして、少なくとも意図3を推論することが可能であることは、行為xで非自然的に意味した、といえるために必要であるから、意図3は、表現されている必要があると言えそうである

 

 意図3は、心の中で意図されていなければならないだろうか。普通の会話において、意図3を心の中で意図していることは皆無に近いだろう。それゆえに、意図3を心の中で意図していることは必要ないと言えるのではないだろうか

仮に、上の「脱獄囚とヒロイン」の場合をみとめるとすると、ヒロインは、意図1を持っていなかった、そして意図3も持っていなかったといえるだろう。しかし、警察官は、ヒロインの「いいえ、何も変わったことはありません」という発話の意図1を認知し、それにもとづいて、「何も変わったことはないのだ」と信じたとしよう。このときもヒロインは主張型発話を行ったといえるのだとすると、意図3は、意図1と同じく心の中で意図されている必要はない。

 

結論:意図3は、表現されていればよい。

 

<条件3の分析>

・条件3の事例分析

yがxにxの妻の浮気を信じさせようとして、浮気場面の絵を書いて見せたとしよう。xがyの書いた絵をみて、妻の浮気を信じるとするならば、xは、yの意図1を認知することによって、そう信じたのである。このとき、yがもしそれを真だと考えていなければ、そのようなことをするはずがいない、とxは考える。そして、yがそれを真だと考えているのだとすれば、それはおそらくは真なのである、とxは考えるのである。

 

・条件3の一般的分析

 条件3は、聞き手が次のように推論することを、条件として主張するものである。

Sはpを信じさせようと意図している。(意図1の認知)

Sがpを真であると思っていなければ、Sはpを信じさせようと意図しないだろう。(Sは誠実である)

ゆえに、Sはpを真であると思っている。

ところで、Sがpを真であると思っているのならば、pはおそらく真であろう。(Sの判断は正しい)

ゆえに、pはおそらく真であろう。            

        

我々が、Sの主張にもかかわらず、pを信じないときには、

   Sの誠実性への信頼

   Sの判断力への信頼

このうちの一つないし両方が欠けているのである。つまり、条件3をより精確に表現すれば次のようになるだろう。

 

・条件3の改良案

 条件3a:Sは、Aによる意図1の認知と、AがSの誠実性と判断力にたいする信頼に基づく推論によって、Aにある反応rが生じることを意図3aする。

 

この条件3aをつぎの条件3bに置き換えることはできない。

 

   条件3b:Sは、ASの誠実性と判断力を信頼することを意図3bする。

 

条件3や条件3aを条件3bに置き換えることはできない。なぜなら、条件3bの意図3bが、心の中で意図されているのか、表現されているのか、実現されていることなのか、を検討する必要があるだろうが、しかし、実はその結果の如何に関わらず、この条件3bは、弱すぎる。

 この条件3bが仮に満たされたとしよう。しかも、意図3bが心の中で意図されれており、かつ何らかの仕方で表現されており、かつそれが実現しているとしよう。しかし、このとき、条件1と2が実現されたとしても、相手に何かを非自然的に意味したことにはならないケースがある。

たとえば、yがxに、xの妻の浮気現場の写真を見せることによって、妻の浮気を信じさせようとするときである。このとき、条件1と2と3bが満たされることは可能である。しかし、xは写真を見て、妻の浮気を信じるのだとすれば、yはxに何かを非自然的に意味したことにはならないのである。

 必要なのは、条件3aにある「推論」なのである。

 

<「意図を表現すること」についての疑問点>

 

実は、上の議論には疑問点が含まれている。われわれは、意図を表現することを、コミュニケーションの推論モデルを採用して、次のように定義した。

 

<意図を表現するとは、相手が自分の意図を正しく推論できるような手がかりを提供することである>

 

この定義は問題点を含んでいる。例を挙げて説明しよう。前期第三回講義で、つぎのようなケースを考えた。

 

ヒロインが、いすに縛られて猿轡をされており、そこにヒーローが助けにやってくる。ヒロインは、「ウーウー」と言いながら、目とあごの動きで、壁にある時限爆弾のスイッチを示そうとする。ヒーローは、彼女が何を言っているのかわからないが、何かを知らせ様としていることを理解し、周りを見渡す。そして、彼は、時限爆弾のスイッチを発見し、すぐにそれを切る。めでたしめでたし、かくして、ヒロインはヒーローに助けられました。

 

このヒロインの例で言うと、彼女は、「時限爆弾のスイッチを早く切ってほしい」という意図を、ことばで表現することはできなかったが、<身振りで意図を表現した>といえるだろうか。たしかに、ヒーローは、彼女の振る舞いから、「彼女は何かを知らせようとしている」と推論し、探求を経て、「彼女はこの時限爆弾のスイッチを早く切ってほしいと言いたかったのだ」と推論することができた。しかし、ヒーローは探求に失敗したかもしれない。時限爆弾を見たことがなくて、それのスイッチを早く切ってほしいと思っていることを理解しなかったかもしれない。

 もう一つの例を挙げよう。話し手が興奮していて、文法的におかしな文章を話すということがある。このとき、複数の聞き手の中の一人だけが、話し手の言いたいことを理解したとしよう。このとき、文法的にでたらめなのだから、理解できなくてもしかたがないのだが、その一人だけは話し手についての他の情報から、言いたいことを推論できたとしよう。このとき、話し手は、意図を表現したことになるのだろうか。

 

これらの事例からいえることは、提供された手がかりから、推論できる意図には多様な広がりがあり、それらのすべての意図を表現していると言うことはできそうにない、ということである。意図を推論するといっても、その推論には限りがないので、何らかの条件を設定する必要があるだろう。

では、その条件とは何か。

 

 

注1:意図2が潜在的なものであることについては、拙論『メタコミュニケーションのパラドクス U』の次の引用箇所を参照のこと。

―――――――――――――― ここから

 グライスによる最初の提案は、次の通りである(以下、第三の最終提案まで順次検討する)。

「”xが何かを非自然的に意味した”が真であるのは、xが、xの発話者によって、ある”聞き手”にある信念を生じさせるように意図されていたときである」(1)

(この引用からも、グライスが、xの非自然的意味を、発話者の立場でとらえようとしていることが解るが、それは次に述べる第二、第三の提案で、さらに明確になる。後の論文「発話者の意味と意図」では、このような観点での意味を、「発話者の意味」と呼び、そのことを明示しているのだが、この論文では、その点が曖昧で、そのために議論が曖昧になっているところがあるように思われる。)

 この第一提案の欠点をしめすために、グライスは次の例を挙げている。私が、B氏が殺人者であるという信念を刑事に生じさせるために、B氏のハンカチを殺人現場の近くに残す場合に、我々は、私が、そのハンカチを残すことによって、B氏が殺人者であることを意味した、とは言わないだろう、とグライスは言う。(グライスはこれを自明と考えたのか、なにも説明していないが)我々は次のように説明できるだろう。刑事がそのハンカチを見て、B氏が殺人者だと考えたとすると、そのときそのハンカチは、刑事にとって、B氏が殺人者であることを「自然的に」意味しているといえるが、「非自然的に」意味しているのではない。さらに、この場合の私は、刑事にとって、そのハンカチが「B氏が殺人者である」ことを「自然的に」意味することを、意図している。それゆえに、私は、その行為によって、何かを「非自然的に」意味しているとは言えない。

 このようなケースを除外するために、グライスの考えた第二の提案は、次の通りである。

「xが何かを非自然的に意味したというためには、xがある信念を生じさせるという意図をもって”発話”されるだけでなく、発話者が発話の背後の意図を、”聞き手”が認知することを意図したのではければならない。」(2)

これを整理すると次の二条件になる。

条件1「発話者が、聞き手にある信念を生じさせようと意図して発話する。」

条件2「発話者が、発話者が聞き手にある信念を生じさせようと意図していることを、聞き手が認知することを意図する。」

 上のハンカチの例で「非自然的意味」が成立しないのは、条件1は充たされているが、条件2が充たされていないからである。その例では、条件2と矛盾する条件2!が充たされている。

条件2!「発話者が、発話者が聞き手にある信念を生じさせようと意図していることを、聞き手が認知しないように意図する。」

 ところで、相手を欺こうとする上のような例を除外するには、条件2!が成立しないこと、つまり次の条件で十分なのではないか。

条件2#「発話者が、発話者が聞き手にある信念を生じさせようと意図していることを、聞き手が認知しないことを意図していない」

 我々はグライスの条件2の指摘をすばらしい卓見だと思うが、しかしそれは、それだけグライスの条件2が我々にとって意外な指摘だったということである。つまり、ふつう我々は条件1のみを意識し、条件2をほとんど意識していないのではないかと思われる。条件2は本当に必要なのだろうか。

 条件1と条件2#を充たしている発話者が、聞き手に「あなたは私にある信念を生じさせようと意図しているのですか」と質問されるばあい、「はい、そうです」と答えるだろう。なぜなら、彼は条件1「発話者が、聞き手にある信念を生じさせようと意図する」を充たしているからである。そして、「はい」と答えることは、彼が聞き手にある信念を生じさせようと意図していることを認知させることになる。つまり条件2を実現することになる。

 もう一つの可能性がある。そして、実際には、これが最も多いかもしれない。それは、つぎの条件が充たされる場合である。

条件2##「発話者が、発話者が聞き手にある信念を生じさせようと意図していることを、聞き手が認知することも、しないことも意図していない」

この場合にも、条件2#の場合と同じで、「あなたは私にある信念を生じさせようと意図しているのですか」と質問されたならば、「はい」と答えるだろう。そして、その返答によって、条件2を実現することになるだろう。

 しかし、条件1と条件2!を充たしている発話者、つまり相手を騙そうとしている発話者の場合には、同じ質問をされても、「いいえ」と答えて、シラを切ろうとするだろう。彼は、ある信念を聞き手に生じさせようと意図していることを聞き手が認知しないことを意図しているからである。

 まとめておこう。発話者は、もし、条件1を充たしており、また騙そうとしてないのならば、顕在的ないし潜在的に条件2を充たしている(潜在的に条件2を充たしているというのは、条件2#や条件2##である)。したがって、我々は、グライスのいう条件2が、少なくとも潜在的に充たされることが必要であると言えるだろう。グライスが条件2を必要と考えるのも、おそらくこのような意味においてであろうと思われる。

 条件2の必要性は、聞き手の側から考察するときには、もっと明きらかである。我々が、相手のある行為を発話として理解するのは、彼がその行為によって何らかの信念を生じさせようと意図していることを我々が認知する場合であろり、かつその場合に限る。相手の行為の意図をそのように認知しないにも関わらず、相手の行為を発話として理解することはありえないだろうからである。それゆえに、もし発話者が条件2を(はっきりと自覚して)充たしていなくても、聞き手が、ある行為を、発話として理解するとすれば、聞き手は、発話者がその発話によってある信念を生じさせようと意図していることを認知しているはずである。言い換えると、そのとき、聞き手は、発話者に関して条件2が成立していると考えているはずである。<聞き手Aにとって、Sが、行為xによって、何かを非自然的に意味する>ための条件は、グライスの2つの条件であることは明きらかである。

ただし、<話し手Sにとって、Sが、行為xによって、何かを非自然的に意味する>ための条件(グライスがこの論文で考察しようとしているのは、おそらくこの条件であると思われる)もまた、上に見たようにグライスの2つの条件(ただし条件2は潜在的充足でよい)であるといえる。

――――――――――――――ここまで