2006年度1学期後期

第一回講義 April. 11. 2006

§1 導入

 

1、ミュンヒハウゼンのトリレンマ

現代では「究極的に根拠付けられた知がある」という立場は「基礎づけ主義(foundationalism)」と呼ばれています。基礎づけ主義を批判するときに、よく用いられるのが、H・アルバートの命名した「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」です。よく似た議論は、すでに古代懐疑主義のテクストの中にあります。

我々が、ある命題pの根拠について「なぜpなのか」と問うことを繰り返すと、論理的に、つぎの3つのいずれかになります。

(1)無限に根拠を遡る

(2)根拠がすでに言及された根拠に回帰する。

(3)その根拠を示すことができない命題で停止する。

このいずれの場合にも、当初の命題pが究極的に根拠付けられた、とはいえません。(ここで質問です。「なぜ、この3つしか選択肢がないのでしょうか。」「この3つしか選択肢がないことを証明してください」)

 このミュンヒハウゼンの議論については、<この議論は論理法則の正しさを前提している>という反論があります。しかしこれに対しては、<論理法則の正しさを前提すると、論理法則の正しさを究極的に根拠付けることができなくなるのだから、そこから帰結するのは、論理法則の正しさを前提することができないということである>と答えることができるでしょう。

 

 

2、ここから帰結する態度とコミュニケーションの不可避性

 知の究極的な基礎付けが不可能であるということからは、つぎのような態度が帰結するでしょう。

   (ア)懐疑主義(skepticism)

   (イ)決断主義(decisionism)

   (ウ)規約主義(conventionalism) (a)約束主義

                            (b)慣習主義

などがあります。

 

(ア)の懐疑主義については、<「すべての主張は疑わしい」という懐疑主義の主張は、自己論駁的である>という批判が伝統的になされてきました。(相対主義や可謬主義についても、同様の批判がなされてきました。このような批判に対する可謬主義の立場からの再批判ついては、2003年2学期の第2回講義を参照してください。)仮に、懐疑主義が、論理的には自己論駁的でないとしても、現実に懐疑主義を採用して生きることは、困難であると思われます。(もちろん、ここでいう、懐疑主義を採用して生きるとは、古代の懐疑主義の生き方のことではありません。)

この問題についてのとりあえずの私の立場については、拙論「問答論的矛盾」を参照してください。これは、「問答論的矛盾」という概念を用いて、知と規範についての超越論的な正当化を試みたものです。

 

(イ)の決断主義は、(ウ)の規約主義に還元されるのではないかと思われます。なぜなら、我々が決断するのは、そのように迫られて決断が不可避になるときだからです。決断は、自発的な能動的な能力によって成立するというよりも、ある状況の中で不可避に成立してしまうものであるように思われます。そして、そのように決断を不可避に迫る状況の大半は、他者との関係です。つまり、多くの場合、決断は、他者との関係において決断したことになってしまうという仕方で成立するのです。つまり、それは約束の一種であるように思われます。

約束は、申し込みとその受諾によって成立する。申し込みも、受諾も、個人の決断によって成立する。しかし、個人が決断できるというだけでは、約束は成立しない、約束が成立するためには、約束が成立したということについての、相互知識が不可欠である。

さらにいえば、我々は何の必要もないときに決断しません。我々が決断するのは、常にそれが必要なときであり、さらにいえば決断を迫れるときであり、さらにいえば、決断が不可避であるときです。我々は時間や他者に迫られて決断せざるを得なくなるのです。そこでは、躊躇することもすでに一つの選択になってしまうのです。そして、その原因ないし理由は、規約にあります。

そして、約束や規約一般もまた、コミュニケーションの不可避性の中で成立するのです。このコミュニケーションの不可避性が発生する条件は、共有知ないし相互知識が成立しているということでした。我々のコミュニケーションは、共有知や相互知識によって可能になるとともに、不可避なものになるのです。たとえば、語による対象の指示が、そのようなものでした。

 

4、問答の不可避性について

このような決断の不可避性、あるいはコミュニケーションの不可避性は、問答の不可避性として記述することもできます。問いに対してどのように答えるか、またどのような問いを立てるかは、個人の選択であるかもしれません。どのような問いを立てるかが、個人の選択であるのは、立てるべき問いの選択が問われているときです。

 しかし、一旦問いが立てられたならば、上に述べたような理由で、答えることは不可避になります。また同様に、問うことも不可避です。では、答えの不可避性は問われたことによって成立しますが、問うことの不可避性は、どこから由来するのでしょうか。一般的に、問いは意図と現実の矛盾から生じるといえますが、意図と現実の矛盾は、おそらく我々の生活の中に非常に沢山あるでしょう。我々は、それらの矛盾全てを問題にするわけではありません。そこにでは、選択ないし順位付けが行われています。この選択ないし順位付けはどのように行われているのでしょうか。(これは、この講義のテーマではないので、今後の検討課題とします。)

 

5、確実そうな3つの知

ところで、ミュンヒハウゼンのトリレンマにもかかわらず、確実であるよう見える知として候補に挙がるもの、あるいは、「そんなものを疑うなんて、愚かだ(ナンセンスだ)」と人々に思われそうなものがあります。それは、つぎの三つです。

(1)論理学・数学の命題

(2)「私は存在する」という命題

(3)感覚を報告する命題

これらは、いずれも、<その他の経験的な知が成立するための前提となる知>であるように思われます。

 

<論理学・数学はスキルである>

この3つの知のなかで、論理学・数学は、規約主義のパラドクスからもわかるように、知というよりもスキルではないか、とも思われます。(あるいは、むしろその両方、というべきかもしれません)。(論理学・数学の知識が、スキルである、ということは戸田山和久氏がある研究会で指摘したことです。また、飯田隆氏が『ウィトゲンシュタイン』(講談社、p.275)の中で紹介している、数学とは「雑多な技法の寄せ集め」(『数学の基礎』第三部四六節)というウィトゲンシュタインの主張でもあります。)

そして、「では、それはどのようなスキルなのか」と問われたならば、それは、<問いに対して答えるためのスキル>であるということができます。つまり、問われたときに、推論を行って、答を導出するときの、推論のスキルです。

 

<問いに答える3つのスキル> 

このように考えるとき、上述の3つの知はすべて、ある種のスキルによって成立するということができるかもしれません。

(1)いわゆる推論によって、前提から結論を導出する(推論)

(2)いわゆるセンスデータから、答をつくる。(観察)

    「これは何色?」「赤です」

(3)いわゆる反省によって、実践的知識としての答をつくる。(内省)

       「何をしているの?」「目玉焼きをつくっているんだ」 

これは、この後の講義のなかで考えることになるでしょう。