2006年度 2学期、火曜3時間目 2単位
授業科目 学部「哲学史講義」大学院「西洋哲学史講義」
授業題目「ドイツ観念論における自己意識論と自由論の展開」
シラバス
「カント、フィヒテ、ヘーゲルの自己意識論と自由論を検討します。
1、カントの自由論に関するさまざまなアポリア(ここでは、個人主義、あるいは自由主義の「自由」概念そのものに内在するさまざまなアポリアを検討します)
2、フィヒテの自己意識論の展開(ここでは、「どのようにして自己意識が可能になるのか」という問題を考えます。自己意識が自由の意識として可能になる事、自己意識が他者からの促しによって可能になる事、普遍的な知と自己意識の関係、を検討します。)
3、ヘーゲルの相互承認論(ヘーゲルは、カントとフィヒテを批判し、共同体的な知、共同体的な自由、というものを相互承認論として展開しました。この相互承認論を、共有知、相互知識の概念を用いて分析します。)
4、USAにおける最近の”analytic turn toward Hegel”の紹介検討。
到達目標:カント、フィヒテ、ヘーゲルの自由論、自己意識論についての基本的な理解と、その問題点の理解を最小限の目標とする。
テキストなし。資料を配布。参考文献:入江幸男『ドイツ観念の実践哲学研究』(弘文堂)
採点方法:数回のミニ・レポートと最終レポート。」
第一回講義(2006年10月18日)
序論
1、「ドイツ観念論」とは何か?
■C.L. Michelet, "Geschihite der letzten Systeme der Philosophie in Deut schland von Kant bis Hegel" 1837-38. のなかに、この時期の哲学を指す言葉として登場するらしい。
(Vgl."Historisches W rterbuch der
Philosophie" Bd.4, S.35.)
これが、最初の用例かもしれない。
■Wilhelm Dilthey, "Die Jugendgeschichte
Hegels" 1906公刊、1905発表
『ヘーゲルの青年時代』以文社、p.71に「ドイツ観念論」という語がある。
■ R.Kroner,"Von Kant bis Hege", 1921, T
bingen.
(これの2.Aufl.1961しか手元にないが・・・初版で確認すべし)
ここでは、ドイツ観念論とは、カントを含む。これの冒頭には、「カントからヘーゲルへのドイツ観念論の発展は、本質的に、1781年から1821年にいたる期間を包括している」とある。目次はこうなっている。
第一章 カント
第二章 Jacobi, Reinhold, Maimon,
第三章 フィヒテ
第四、五、六章、シェリング
第七、八章 ヘーゲル
この目次からすると、ドイツ観念論にカントが含まれるだけでなく、ヤコービ、ラインホルト、マイモンなど、カントとフィヒテの間で活躍した当時の哲学者たちも含まれる。
1931年の邦訳のための序論では、
「もしドイツ観念論の全発展を一本の樹木の成長に比較してよいならば、私はカントを根、フィヒテを幹、シェリングを花、しかしてヘーゲルを実とよばねばならぬであろう。」(『クローナー『ヘーゲルの哲学』岩崎勉、大江精志郎訳、理想社、1931年)
■コプルストン
Frederick Copleston, A History of Philosophy, 9 vol 1946-1974.
第7巻 "Fichte to Nietzsche" の前半部分が『ドイツ観念論の哲学』後半部分が、『ヘーゲル以後の哲学』という題名で邦訳されている。この『ドイツ観念論の哲学』をみると、コプルストンは「ドイツ観念論」として、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルの三人の哲学を考えている。この著作では、シェリングとヘーゲルの間で、シュライエルマッハーが論じられているが、シュライエルマッハーについては、ドイツ観念論とは呼ばれていない。
■日本でも、カントからヘーゲルまでをドイツ観念論とするか、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルをドイツ観念論とするか、二つの用法がある。
『講座 ドイツ観念論』弘文堂では、カントが含まれている。
『叢書 ドイツ観念論との対話』ミネルヴァ書房では、カントは含まれていない。
里見軍之編『ドイツ観念論とディアレクティク』法律文化社では、カントを含む。
2、「意志の自由」の思想史:
<アーレント『精神の生活』「第二部 意志」邦訳、岩波書店、から>
アーレントの指摘によれば、「意志」「意志の自由」は
「意志の能力は、古代ギリシア人には知られていなかったし、紀元1世紀までは殆ど耳にすることもない経験の結果として発見されたものだったからである。その後の数世紀にわたっての問題は、この意志の能力とギリシア哲学の主要な狭義とをどう調停させるかということであった。」5
「私はライルはじめ多くの人々とともに、この現象とこの現象に結びついている一切の問題が古代ギリシアでは知られていなかったという点に賛成する。だからこそ、私は、ライルが拒否することをうけいれなけれならない。すなわち、意志の能力が実際に、「発見され」たのであって、時代を特定できるものであるということである。」8
「自由という言葉は、最初は、奴隷とはことなる自由な市民といった政治的身分や、麻痺しておらず精神に従うことのできる肉体をもった健康な人の状態といった肉体的事実を表していたが、あとには、内面の心的状況をしめす言葉へと変化していったのである。これがあれば、たとえ実際には奴隷であったり、自らの四肢を動かすことができなくても自由だと感じることができたのである。」{これは、ルサンチマンだ}
「ともかく、事実の問題として、キリスト教の興隆以前には、我々はいかなるところでも、自由の「観念」に照応する精神的能力の概念を見いだすことはできないのである。」8
「アリストテレスは、意志の実在について認識する必要がなかった。つまり、ギリシア人は、「行為の原動力」だと我々が考えていることについての「言葉さえ持ってはいない」(通常は「望む」「欲する」と解されるテレイン(thelein)は「何かに対して用意ができている、準備ができている」ということを意味する。同じ様な意味に解されるブーレスタイ(boulesthai)は、「何らかのことをより望ましいと見ることである」。そしてアリストテレス自身が新たに創り出した言葉は、プロアイレシス(pro-airesis)であり、これは、行為に先行するはずの何らかの精神的状態に関する我々の考えに、上記の言葉よりも近いが、2つの可能態の内での「選択」あるいはむしろ、AではなくてBという行為を我々が選ぶ際の選好である。)」19
「パウロが、はじめて意志を発見し、未来がいかに複雑であっても意志が必然的に自由であることを発見したのである。」23
「意志が、人間の最高の精神的能力として、理性にとって代わり始めたのは、ようやく近代の最終段階にいたってのことなのである。このカントの意志の自由は、・・選択する能力とは区別されていた。」24
「カント以後直ちに、意志の働きと存在との等置が、流行となったのである。」24
シラー、ショーペンハウアー、シェリング、ヘーゲルがそうである。25
ヤスパースもハイデガーも自分の哲学では意志を人間能力の中心に置かなかった26
意識の能力への批判は、「意識という近代的概念を手がかりに提起されている」「この意識という概念は、意志の概念と同じく古代哲学ではまったく知られていなかったのである。」30
デカルトは、自由意志の吟味を、「意図的に拒否した最初の人」であった。「こうした事柄は、だれもが、推理によって納得すべきものというより、むしろ、自らの内において経験すべきものだからである」という。(40)
(ヘーゲル曰く)「意志の自由は、人間がそれによって人間となるところのものであり、だから、精神の根本的な原理なのである」「実をいえば、世界のできごとの中での世界精神の展開の究極的な目標が、自由でなくてはならないということの唯一の保証・・・は、意志に内在する自由の内にある。「だから、哲学が到達すべき洞察は、現実の世界があるべきように存在している、ということなのである」」57
注1:カント年譜
1724年 4月22日生まれ。東プロイセンの首都ケーニヒスベルク(現在ロ シア共和国内カリーニングラード)で生まれる。
父は、馬の革具職人、三人の妹は、職人と結婚。一人の弟は、牧師。
1737年、母死亡。
1740年、ケーニヒスベルク大学入学
1746年、父死亡。
1747年、『活力測定考』を出版。学生生活をおえ、これより1754年まで 家庭教師時代。
1755年、ケーニヒスベルク大学私講師。
1764年、『美と崇高の感情に関する観察』
1766年、『視霊者の夢』
1768年、『空間の方位区別の第一根拠について』
1770年、ケーニヒスベルク大学の論理学・形而上学の正教授に任命。就任論 文『可感界と可想界の形式と原理』
1781年、『純粋理性批判』初版
1783年、『プロレゴメナ』
1784年、『世界市民的見地での一般歴史考』
1785年、『道徳形而上学の基礎』
1786年、『自然科学の形而上学的原理』
1787年、『純粋理性批判』第二版
1788年、『実践理性批判』(1787末に公刊)
1790年、『判断力批判』
1793年、『単なる理性の限界内における宗教』
1795年、『永久平和論』
1797年、『法論の形而上学原理』
1797年、『徳論の形而上学的原理』
1799年、「フィヒテに関する声明」
1804年2月12日、老衰により死亡