2008年一学期講義 科目名 学部「哲学講義」大学院「現代哲学講義」    入江幸男

講義題目「アプリオリな知識と共有知」


 

第8回講義 (2008年6月24日)


 

<学生からの批判やコメント>

 

§7 DavidsonTriangulation

 

この§7と次の§8では、D. Davidoson(1917-2003)が、私的言語批判、および自分についての知識の特権性を批判する際に、言語ないし思考の成立のために必要であると指摘しているTriangulation(三角測量?)を紹介し、検討したい。ここでの私の最終的な目標は、Triangulationが成立するためには、共有知が必要であるということの証明である。

 

参考にするのは、次の文献である。

Donald Davidson, Subjective, Intersubjective, Objective, Clarendon Press, Oxford, 2001 8 The Second Person (1992) pp.107-121(ドナルド・デイヴィドソン『主観的、間主観的、客観的』清塚邦彦、柏端達也、篠原成彦訳、春秋社、の第八章「第二人称」pp.175-198

 

 

              第八章「第二人称」の要約

 

<テーマ>

「ある人がある言語を話したり理解したりしているといえるためには、その言語に熟達した話し手がどれだけの数存在していなければならないのか」邦訳175

 

デイヴィドソンの答えは、

「それは、少なくとも二人の話し手-解釈者の相互行為に依存する。」邦訳194

 

<規則を共有することは困難である>

「ある話し手の現実の発話すべてと両立していながら、「その話し手が話している言語」とは言えないような言語が、数限りなく存在することになる」邦訳180

 

クワインの「翻訳の不確定性」、「指示の不可測性」によって、他者の言語の規則を解釈する方法は無限に存在し、それゆえに、どれが正しい解釈なのかを決定することが出来ない。「翻訳の不確定性原理」(principle of indeterminacy of translation)とは、「ある言語を別の言語に翻訳するための手引きには、種々のことなる手引きが可能であり、いずれの手引きも言語性向全体とは両立しうるものの、それら手引き同士は互いに両立し得ないということがありうる。」(『ことばと対象』邦訳42)「指示の不可測性(inscrutability)、不確定性(indeterminacy)」とは、名辞(or表示句)の指示対象を、一つに確定することが不可能であるということである。

 

「話し手がある特定の言語を話しているという解釈が見かけ上の成功を収めている期間が長ければ永いほど、話し手がその言語を話している――つまり、話し手は今後もその言語を話す人として解釈可能だろう――という正当な自信もそれだけ大きくなる。」邦訳180

 

<グライスの路線への言及>

「もしわれわれが、グライスとともに、《何ごとかを意味するためには話し手は特定の一人または複数の聞き手に一定の効果をおよぼそうと意図しているのでなければならない》と確信しているなら、言語は少なくとも二人の人物の存在を要求するという意味では、すでにその社会性が明らかにされたことになる。・・・以下ではこの直接的かつ魅力的な路線は取らない。」邦訳182

 

<クリプキの提案への批判>

クリプキは、規則に従うという考えに議論を集中させる。この考えによれば、言語を話すとは規則に従うということである。規則は「同じ仕方で」行動する(たとえばある言葉を使う)とはどういうことであるかを特定する。とはいえ、規則を「把握」したりそれに「従」ったりするという内的な心的行為・過程は存在しないから、話し手の内部にある事柄をどれほど研究し知ったとしても、その人が何か一群の規則に従っているのかどうかは明らかにならない。解釈者はただ話し手が解釈者と同様の振る舞いをする場合に、話し手が自分(解釈者)と同じ規則に従っていると判定するまでである。」邦訳183

 

規則に従うということに関する通常の概念が、果たして、ある言語を話すということのうちに含まれている事柄を記述するのにふさわしい概念なのかどうか、――この点は問題視されてしかるべきである」邦訳183

「加法の場合には、答えに到達するための明示的な手続きが存在する。・・・話すときにはわれわれはふつういかなる手続きにも従っていない。日常的な言語使用の中には加法における和の産出に対応するものはなにもない。・・・たとえ《言語使用のためには社会的舞台設定が必要だ》という点には同意するとしても、はたして、《何ごとかを意味するためには規約や慣習や制度が必要だ》という考え方を文句なしに受け入れてよいのかどうか、という点である。」邦訳184

 

「より重要な疑問は、次のような考え方に関わるものである。すなわち、《言語的コミュニケーションのためには話し手が他人と同じ仕方で話を続ける必要がある》という考え方、つまり、話すことで何ごとかを意味するためには同じ語で他人と同じことを意味するのでなければならないという考え方である。」邦訳184

 

デイヴィドソンは、次の思考実験で、この考え方を否定する。

 

「いまあなたと私だけがこの世の話し手だとしよう。そして、あなたはシェルパ語を話すが私は英語を話すのだとしよう。その場合、二人はそれぞれ異なる「規則」(規則性)にしたがっているが、それでも我々は理解しあえるようになるだろう。もちろん、重要なのは、われわれが相手に言語として理解可能な何かを提供し逢うことである。話し手はそれを意図していなければならない。しかし、この意図を実現する作業は、相手から見てある程度整合的である必要があるが、そこには共有された規則や規約の遵守は含まれていない。音声コードがことなるために、二人が同じ音を発することが出来ず、だから同じ言語を話せないことさえありうる。そのような状況においてコミュニケーションが成立しないことを示す論証を私は知らない。それゆえ、言語を話すためには解釈者の存在が必要だが、そのことからは、複数の人物が同じ言語を話さなければならないという帰結は出てこない。これは幸いなことである。なぜなら、言語とは何かを厳密に考えるなら、実際にはどの二人も同じ言語を話してはいない公算が高いからである。それゆえ、言語を話すことに関するクリプキの規準は正しいものではありえないという結論になる。言語を話すことが他人(あるいは多くの他人)と同じ仕方で話すことに依存しているはずはない。」185

 

言語を話すことは、複数の話し手が同じ仕方で話すことを必要としない、と我々はいまや主張する。ある言語を話すために必要なのはただ、話し手が意図的に自分自身を他人から解釈可能ならしめることだけである(話し手は、おおむね他人の期待に沿って、あるいはすくなくとも、他人が解釈しうる仕方で「ふるまう」のでなければならない)。」邦訳185

 

「問題は、話し手の唯一の言語、あるいは第一言語が、私的言語でありえないのはなぜか、という点にあった。」(邦訳186)

 

「私の理解では、私的言語は、ただ一人の人が話す言語という意味ではなく、ただ一人の人しか理解できない言語という意味である。いまや問題は、ただ一人の人しか理解できない言語がなぜ存在し得ないのか、である。本稿の冒頭に揚げた一節[「・・・何ごとかを意味することは、誰かのところに出かけていくことに似ている」(『哲学探究』457節)] でウィトゲンシュタインが与えているように見える回答は、こうである。すなわち、解釈者がいなければ、話し手が間違えた――同じ仕方でふるまわなかった――という主張にはいかなる実質も与えることが出来ない。」邦訳186

 

「もしも他人の言語行動が話し手にとっての規範になるのでなかったら、話し手にとっての規範となるものなどありうるのだろうか。答えて言えば、一定の仕方で解釈されたいとい話し手の意図が「規範」を提供するのである。話し手は、彼の意図のとおりに理解されるような仕方で話さなければ、意図を実現できない。」邦訳187

 

「クリプキの説明では、話し手が何ごとかを意味しているかどうかのテストは、話し手が他人と同じ振る舞いをしているかどうかに依存しているが、しかし、自分が何ごとかを意味していると思うことと、実際に何ごとかを意味していることとのあいだのそれと同じ区別は、一定の仕方で解釈されたいという話し手の意図の成功という観点からも、立てることが出来るからである。どちらの仕方で区別を立てる場合にも社会的舞台設定(social setting)が必要になるが、第二の区別は話し手に関して〔第一の区別とは〕異なる要求をたてるものである。」邦訳188

 

<クリプキの提案が正しいと仮定しても、私的言語批判は不十分>

いまや私的言語が存在しえない理由がしめされただろうか。もちろんそうではない。クリプキの提案が正しいと仮定すれば、自分が何ごとかを意味していると思うことと、実際にそれを意味していることとの間に、区別を立てる一つの方法は、たしかに、言語が公共的であることを要求する。しかし、その区別を立てる方法(場合によっては社会的環境にさえ依存しない方法)が他にはありえないという点については、何も確定的なことは言われていない。」邦訳188

 

<デイヴィドソンの私的言語批判>

言語が本質的に公共的だという点を確立したければ、これとはまったく別の種類の論証が必要である。本稿の残りの部分では、そのような論証を提案する。」邦訳188

 

「片言を話す子供は、明らかにテーブルが現前している場面で「テーブル」に似た音をはっすれば、ご褒美をもらえる。このプロセスは繰り返され、やがて子どもはテーブルを前にすると「テーブル」というようになる。このプロセスの中では、一般化や類似性の知覚という現象が本質的な役割を演じる。」邦訳188-189

 

「われわれの見取り図には、今や2つではなく3つの類似性パターンが含まれている。子どもの目には、テーブルはどれも類似している。われわれの目には、テーブルはどれも類似している。そして、われわれの目には、テーブルを前にした子供の反応はどれも類似している。いまや、子供の反応を、テーブルに対する反応とよぶことに、意味が与えら得る。これら三つの反応パターンが与えられれば、我々は子供の反応を引き出す刺激に、場所を割り当てることが出来る。問題の刺激とは、われわれが自然に互いに類似していると見なすような対象や出来事(テーブル)であり、また、われわれが互いに類似していると見なす子供の一連の反応と相関関係を持っているような、対象や出来事である。これは一種の三角測量(triangulationである。一つの線は子供からテーブルに向かい、もう一つはわれわれからテーブルに向かい、第三の線は、われわれから子供に向かう。子供からテーブルへの線と、われわれからテーブルへの線とが交差する点に、「刺激」が位置づけられる。世界と子供に関するわれわれの見方を前提とすれば、われわれは子供の反応の「原因」を選出できる。それはわれわれの反応と子供の反応の共通の原因である。」邦訳191

 

重要なのは、第一の生物に反応する第二の生物が存在しない限り、目下の設問〔生物がどの対象が出来事に反応しているか〕への答えがありえないことである。そしてもちろん、この設問への答えが存在しなければ、生物がどの言語を話しているかという問題も答えをもたない。なぜなら、ある言語を《話されている言語》と見なすためには、発話が世界内の対象や出来事(それは一般には体表の出来事ではない)と対応付けられる必要があるからである。」邦訳192

 

「ある言語を話せるためには、事前に、話し手と相互行為している他の生物が存在しなければならない、と。もちろん、これだけで十分なはずはない。なぜなら、ただ相互行為が成り立っているというだけでは、その相互行為が当の生物にとってどんな意義をもつかということまでは、明らかではないからである。問題の生物たちがその相互行為に反応しているのだと言えるのでないかぎり、当の生物たちは《その生物たちは特定の事物に反応している》というわれわれの考えに内容を与えている三角関係を、認知に役立てることが出来ない。」邦訳192

 

「三角形の第二の頂点――第二の生物ないし人物――が自分自身と同じ対象に反応していることを知る唯一の方法は、他人が同じ対象を念頭においているのを知ることである。だがそうすると、第二の人物もまた、第一の人物が、第二の人物が一つの頂点を占めているのと同じ三角形の一つの頂点を形成していることを、知っているのでなければならない。二人の人物が、おたがいに関して、自分たちが右のような関係をもち、また自分たちの思考が右のような関係を持っていることを知るためには、二人がコミュニケーションを行なっていることが必要である。彼らはどちらも、他方に話しかけ、他方から理解されるのでなければならない。すでに述べたように、二人は同じ言葉で同じことを意味する必要はないが、しかし互いに相手の解釈者でなければならない。」邦訳194

 

<結論>

「クリプキは話し手が共有しうる手続きを体現した第二の人物あるいは共同体をよりどころとしている。対照的に、私が略述した論証には、共有された手続きは不要である(もちろん許容はするが)。しかし、それは、少なくとも二人の話し手-解釈者の相互行為に依存する。なぜなら、私が正しければ、第二の人物との相互行為がなければ、話し手が何について話したり考えたりしているかを見分ける方法は存在しないし、話し手が対象を客観的な時空の中に位置づけうるという主張の基礎も存在しないからである。」邦訳194