2009年度第1学期                       入江幸男
学部:哲学講義「観念論を徹底するとどうなるか」
大学院:現代哲学講義「観念論を徹底するとどうなるか」
 
              第三回講義(2009年4月24日)
 
■先週のまとめと補足
 
問題:「意識が存在するとは、どういうことか?」
 
@知覚の因果説
我々の知覚が存在するのは、外的対象からの因果的な作用の結果である。
 
批判1:対象の知覚の背後にその原因としての物自体が存在することを、証明することは出来ない。なぜなら、我々が知ることの出来る因果関係は、我々が知ることが出来る対象ないし現象ないし出来事の間の関係であって、我々の知覚を越えた対象と我々の知覚の間の関係ではないからである。
 
批判1への反論:我々が出来事の間の因果関係を考えるときに考えていることは、単に知覚と知覚の間の継起関係ではない。客観的な出来事と出来事の間に因果関係があって、それを、それらの出来事の知覚の関係を介して理解しているのである。
 
反論への批判:因果関係が知覚と知覚の関係でなく、客観的な出来事と出来事の関係であるとしよう。たとえそのような因果関係をみとめるとしても、客観的な出来事から知覚への因果関係があることの証拠にはならない。
 
批判2:外的な対象からの因果的な作用は、ある脳状態の成立を説明出来るだろう。しかし、そこから知覚が成立することを証明することは出来ない。
 
A意識が存在するとは、ある実体の作用ないし属性として存在するということである。
 
批判1:意識が何らかの精神的実体の作用ないし属性だとしよう。(なぜなら、意識が物体の作用ないし属性であるということは、うまく説明できないからである。)外的な物体の存在の主張は、知覚との因果関係の想定に依存していた。精神的実体の存在の主張は、それと知覚との実体属性関係の想定に依存している。しかし、上の議論と同様に、通常の実体属性関係は、客観的な物的対象とその対象がもつ属性の関係として考えられているが、ここではその属性は知覚である。客観的な精神的実体と主観的な知覚との間にも実体属性関係があることの証明にはならない。
 
批判2:バークリやヒュームは、実体というのは、知覚の束であると見なしていた。そうるすると、実体と属性の関係は、知覚の束とその要素である知覚の関係になる。しかしこれとどうように考えるならば、すでにヒュームが述べていたように、精神的実体とは、知覚の束にすぎない。意識をその作用ないし属性とするような実体は、認められない。
 
B現象論の答え:壁の意識が存在するためには、壁の意識についての別の意識がある必要はない。
 
 
C現象学の答え:壁の意識が存在するためには、壁の意識についての前反省的意識があればよい。これは、通常の意識とはことなり、意識されなくても存在する。
 問題点:なぜ通常の意識は意識されないと存在しないのに、前反省的意識は意識されなくても存在するのか?
 
Dフィヒテの答え:壁の意識が存在するためには、壁の意識についての別の意識が存在しなければならない。そうすると、無限に反復することになり、説明出来なくなる。そこで、フィヒテは、出発点には、意識するものとされるものが同一であるような意識、主観でありかつ客観でもあるような意識が存在しなければならない。それをフィヒテは、知的直観と呼んだ。
 問題点1:知的直観における主観と客観が同一であるならば、知的直観は、どのようにしてその他の意識を意識することが出来るのか?
 
            §3 現代認識論における議論
 
1、DAVID M. ROSENTHAL,
(‘TWO CONCEPTS OF CONSCIOUSNESS,’ in Philosophical Studies, 94 (1986), pp. 329-59からの引用)
 
(1)mental states conscious states の区別
 
●「心的状態」とは?
ローゼンタールは、「心的状態」とは、思考的性質か現象的性質(the intentional and phenomenal properties
 
(以下は、ローゼンタールによる説明ではなく、これらの用語のサールによる説明
 
志向性Intentionality とは、何かについての(=Aboutness) には、二種類在る。
@言語的な志向性 or 命題的態度
 I believe that p.
 I think that p
 I hope that p.
 I fear that p.
などの言明を行うことである。これらの動詞が表す態度は、命題的態度propositional attitude と呼ばれる。
 
A非言語的な志向性 or 対象に向かう志向性
 I want x.  I love x. I hate x などの言明で表現できるが、言明を行うことではない。非言語的な対象に向かう態度であってもよい。
 
*志向性の対象は、アスペクトをもっている。知覚もアスペクトをもつものとして考えられているならば、志向性に属する。
 
感覚とは?
感覚にはアスペクトがない。  )
 
●「意識的状態」とは
 
ローゼンタールは、心的状態の意識は、非推論的で、非感覚的な知識である、と言う。
「ある状態が意識的であるのは、その状態にいる者が、推論にでもなく、感覚的な入力によるのでもない仕方で、或る程度その状態にいることに気付いている場合である。」(p.334)
「意識状態とは、それに対して我々が非推論的かつ非感覚的なアクセスをもつ状態である。」(p. 334)
 
(非推論的な知識は、直接的な知識であろう。また非感覚的な知識は、知性的な知識と言ってよいだろう。すると、心的状態の知識は、直接的な知性的な知識であることになる。ドイツ観念論はこのような知識を「知的直観」と呼んできた。)
 
 
(2)高次の思想」による心的状態の意識化とその問題【この節に間違いがあり、次回講義で訂正しました。】
 
@意識的な心的状態と意識的でない心的状態が在る。
A心的状態を意識的状態にするものは、高次の思想である。
Bこの高次の思想も意識的である必要がある。
C高次の思想を意識的状態にするものは、さらに高次の思想である。
Dここに、無限の反復が生じる。
 
ここでは、<意識的状態は、心的状態と別の心的状態との関係によって成立する>と考えられている。この論証で説明が必要なのは、Bである。
 
もしこのBを認めなければ、無限反復は生じなくなる。
 
これを避ける一つの方法は、デカルトのようにつぎのように考えることである。
 
Eすべての心的状態が、意識的である(デカルトの主張)
F意識性は、すべての心的状態に内在的な性質である。
 
Fのように考えるには、Eが前提として必要である。
 
(3)問題の解決【この節に間違いがあり、次回講義で訂正しました。】
 
One especially notable feature of our presystematic view of consciousness which the Cartesian conception seems to capture perspicuously is the close connection between being in a conscious state and being conscious of oneself. An account in terms of higher-order thoughts has no trouble here. If a mental state's being conscious consists of having a higher-order thought that one is in that mental state, being in a conscious state will imply having a thought about oneself. But being conscious of oneself is simply having a higher-order thought about oneself. So being in a conscious mental state is automatically sufficient for one to be conscious of oneself.“ (p.344)
 
「・・・高次の思想という用語による議論は、ここでは問題を起こさない。しかし心的状態を意識することが、「ひとが心的状態にいる」という高次の思考をもつことであるなら、意識的であることは、自己についての思想をもつことを含意するだろう。しかし、自己を意識していることは、単に、自己についての高次の思想をもつことである。意識的心的状態の中にいることは、ひとが自己を意識するのに、自動的に充分である。」
 
 
問題1「自己の意識を考えるときに、高次の思想にさかのぼるという問題は、本当にかいけつするのでしょうか」
 
あるいは、
 
問題2「もし心的状態が、意識的であることを、本質的な性質としてもっているのだとすると、そのときに、複数の意識状態が存在することにあるだろうとおもいます。それは、どこに在るのでしょうか。それらの関係はどのようにして知られるのでしょうか。」
 
Rosentalの議論には続きがあるので、次回に取り上げたいと思います。)
 
2、Laurence Bonjourの「組み込まれた気づき」
 
(ローレンス・バンジョー&アーネスト・ソウザ『認識的正当化』(原著2003)上枝美典訳、産業図書2006)「第一部、内在主義的基礎付け主義を描き出す」「第4章、基礎付け主義に戻る」「4.1 意識的思考そして内容を構成する気づき」より引用)
 
「自分がある信念をもっている、ということを経験する、そういう経験は、統覚的(apperceptive)な経験と呼ばれる。私は、一階の信念を対象とする高階の気づきの状態にはいることで、その信念に気づくことが出来る。この高階の気づきは、形而上学的に、対象となる信念から分離し区別される。」
「私はsはpであると信じている」と言う形になり、「一階の信念を対象とするメタ信念の内容と等しい」(77)
 
「私は、次のような考えは根本的に間違っていると思う。つまり、現に生じている自分の信念や思考、そして、その内容についての主要な意識的気づきがこの種の塔核的なものであり、さらに、そのような気づきの存在は、本質的に心の中に第二の状態が存在することに依存する、という考えである。」(78
 
「私が考えるに、現に生じているどんな信念でも、信念をもつということに本質的なことは、その信念の内容について、次の相互に関連する二つのことに意識的に気づいていることである。一つは、命題的内容であり、[・・・]。もう一つは、自分のこの命題内容の抱き方が、「問題にする」とか「疑う」とかでなく、「主張する」だ、というような、その内容の抱き方である。これら二つの気づき(より正しくは、一つの気づきの二つの側面)は、決して統覚的でも反省的でもない、と私は考える。これらの気づきは、当の信念を私が持っているという一階の信念を、現に生じている他の信念や、その他のまったく異なる状態とは異なる、まさにその信念にするという点で、その一階の信念や思考それ自体を(少なくとも部分的に)構成する。ここでの要点は、現に生じている信念や思考が、結局のところ、それ自体が意識状態であり、単に第二の独立した状態を通して意識されるような状態ではないという点、そしてまた、人がどのような信念を持つときに第一に意識するのは、その命題的、主張的内容だという点である。」(78)
 
「ある信念状態が生じているという判断内容を持つ二階の統覚的で反省的な気づきでなく、かつまた、信念とその内容についての何の気づきも含まない純粋に非認知的な気づきでもないという点である。むしろ基本的なのは、その、信念の命題的、主張的内容を構成する内的な気づきである。その気づきは、命題的内容の気づきであるが、そのような命題が信じられていることという主張的な二階の気づきではない。」(79
 
「このような、非統覚的で内容を構成する気づきは、基礎付け主義が伝統的に主張してきたような意味で(しかし、ほとんどの人がとうに放棄した意味で)、厳密に不可謬だといえる。ある信念が、他の内容や他の状態とは区別されて、ほかならぬその内容の信念であるのは、内容を構成する「組み込まれた」気付きによる。したがって、この気付きは誤りようがない――その気付きがそれについて誤るような独立した事実や状況が存在しないのだから。」79
 
 
Bonjourは、以上のような「構成的な気づき」を感覚的経験についても主張する。
 
 
(以下「4.3感覚的経験についての信念の正当化」からの引用)
 
「私が思うに、現に生じている信念や思考の説明と平行するかたちで、その経験が、本質的に、それ自身の判然とした内容、すなわち感覚内容を構成する「組み込まれた」非統覚的な意識を含んでいる、ということではないか。そして、同じく平行する形で、そのような感覚内容を構成する気付きは、正当化を必要とせず、それに関する誤りが存在しないと言う意味で、不可謬である。」(86
 
 
「組み込まれた感覚内容の意識は、すでに議論された場合と同じように、基礎的信念を本当に正当化するのに役立つように思える。したがって、たとえば、私が、「現在の私の視覚経験が、視野のほぼ中央に赤く四角い断片を含んである」という信念を持ち、そして、私の現実的で意識的な視覚経験の内容を構成する組み込まれた気付きが、そのような要素についての気付きを含んでいるならば、この後者の気付きは、その信念が真であると考える明らかで強力な理由を提供するのではないか。」(86