論文1    ヘーゲルの「エレメント」概念と『精神現象学』の方法

                            (『哲学論叢』第6号、大阪大学文学部哲学哲学史第二講座発行、1980年3月)




はじめに

 弁証法 (Dialektik)の原義は、周知のように問答.対語(Dialog)であり、ヘーゲル弁証法の場合----フォイェルバッハが危倶するごとく、究極の所、絶対精神の独語(Monolog)でしかない虞れはあるものの一さしあたり、存在と思惟、実体と主体、無限と有限、普遍と個別の対語であるといい得るだろう。われわれが、今から考察する『精神現象学』は、その性格上具体的には、真理とそれを求める意識との対話である。これだけからすると、哲学は全て弁証法であることになり、とりたてて弁証法をいう必要はないだろう。しかし、実際にはそうではない。ヘーゲル弁証法が拒否する二つの立場がある。直観主義と論弁的思惟と彼が呼ぶものが、それであり、これらの拒否から、弁証法の性格は、ある程度規定されてくる。ヘーゲルは『精神現象学』の序文で、この二つを批判している。この序文での有名なシェリング批判は、直観主義の批判である。その主たる理由は、直観・確信・直接知・断言等は、他の対立するそれらと、同じ権利しか持ち得ないという点にある。しかし、知が最初に生じる時には、量初であるゆえに直接知という形態をもつ。この直接知を真理へ高めるために、へ-ゲルは、まず他の 対立する直接知の立場をとり、その矛盾のためにこの直接知へ還帰するという方法をとる(vgl.S.177f.)。このことは、精神現象学の諸々の段階においても行なわれるが、精神現象学全体が、このような構造をもっている。なぜなら、ヘーゲルによれば、「学が登場する時、学自身が現象である。……しかし、学は、この仮象から自己を解放しなければならない。そして、それ(学)は、このことを、それ(学)がそれ(仮象)に向かうことによってのみ成し得る](S.66 括弧内引用者付記、以下の引用でも同様)そこで、学に対立するものとしての現象知が叙述の対象になり、それからの学べの還帰の叙述が精神現象学となる。そこで周知のように精神現象学は、「自然的意識が、真の知へ押し進む道程」(ω.雪)の叙述になるのである。「この学べの道程自身は、(進行の)必然性によって既に学である。」(S.74)。
 従って、ヘーゲルが序文でシェリングの直観主義批判を特に強調した理由の一つは、精神現象学の存在理由が、直観主義批判に基づくからであるといえよう。学への導入にして、かつ一つの学であるような学、精神現象学は、弁証法をとる哲学にとって、その直観主義批判に由来する、必須のものである。
 ヘーゲルが、『精神現象学』の序文で、また批判している「論弁的思惟(das raesonnierende Denken)」(S.48)ないし「形式的思惟」(S.48)と呼ばれているものは、内容に対して外面的な認識であり、ある命題を提示し、その根拠を示すという仕方(die Manier)をとる思惟のことである(vgl.S.40)。これを否定する理由は、それが根拠の根拠を求めて、無限遡行に陥る点にある。へ-ゲルが、これに対して主張する「概念把握する思惟(das begreifende Denken)では、否定的なもの(反省ないし思惟)は、.内容自身に属し、その内在的運動と規定である」(S.49)。精神現象学を叙述するのは、「我々」と呼ばれているところの、既に絶対知(学)に到達した意識である。しかし、「我々」が現象知の展開を方向づけるのではなく、つまり「我々」が外面的に現象知を叙述するのではなく、叙述は、現象知の自己吟味によって導かれる、つまり対象の「内在的運動と規定」に導かれるのである。
 従って叙述は「我々」の立場からの叙述と現象知の立場での叙述の二重構造になる。換言すれば、即自面の叙述と対自面の叙述の二重構造になる。このことは、論弁的思惟の批判から結果する弁証法一般の性格と言えるだろう。
 このように、他の立場の否定から、弁証法の重要な性格が浮かび上がってくるが、まだわれわれには、弁証法は明らかではない。直観主義が本質的には自我の認識を志向して括り、論弁的思惟が本質的には自我とかかわりのない対象の認識を志向しているのに対して、弁証法は、自我と対象の関係の場(エレメント)の認識を志向しているのではないか、というのが現在の私の予想である。そこで、この論文では、ヘーゲル『精神現象学』での弁証法における「エレメント」概念の役割を考察し、ヘーゲル弁証法理解の一助としたい。
 エレメント(Element)といえば、哲学史上では、ひとは直ぐに、ギリシャ哲学の四大エレメント(地・水・風・火)を想起する。この場合、エレメントとは、元素a易83の意味である。一般には、この元素の意味からの転義で、構成要素(Bestandteil)の意味で使われることが多いと思う。エレメントには、これらの周知の意味の他に、本来のないし固有の活動領域という意味がある。この意味のエレメントの説明でよく例に挙げられるのは、魚のエレメントは水である、鳥のエレメントは空気である等、また悪例を挙げるならば、女のエレメントは家庭であるというものもある。『精神現象学』ではほとんどこの後者の意味で用いられる。われわれは、この論文では、意識と対象が存立している場、ないし
場の規定性の意味で用いる。へiゲルの『精神現象学』をエレメントの展開として解釈できることを示すのが、この論文の意図であるが、ヘーゲルの著作・ノートの中で、叙述がエレメントの展開としてもっとも明瞭に叙述されているのは、イエナ期『実在哲学1』(1803/4)の「精神哲学」である。それは、一、記憶と言語の第一ポテンツ、二、道具の第二ポテンツ、三、占有と家族の第三ポテンツ、四、民族精神、という四部構成になっており、その各々一5一一6一?一は、一、言語というエレメント(比喩的には「空気というエレメント」)■二、無差別的普遍性というエレメント、三、個別性というエレメント(比喩的には「地というエレメント」) 四、絶対的普遍的エレメント(比喩的には「エーテルというエレメント」=民族精神)、というエレメントに於いて叙述されている。こうして諸々の「規定されたエレメント」(最初の三つのエレメント)から「絶対的エレメント」(エーテル)への展開として、精神哲学は叙述されている。『実在哲学 Ⅱ』(1805/6)や『精神現象学』(1807)になると、叙述はエレメントの展開としてこれぼど明瞭には示されていない。しかし叙述の要所要所でエレメントが語られている。『精神現象学』以後も、『論理学』『エンチクロペディー』『法法学』で、エレメントという用語は使われているものの、同義と思われる「領域(Spaere)」という用語にとって代られるようになると思われる。このようにへーゲル弁証法の形成期から、晩年に至るまで、エレメントないし領域の概念が一貫して用いられているとすれば、我々が、この概念を弁証法に本質的な概念の一つではないかと考えるのも自然なことだろう。このことは、体系を構成している各々の学(論理学、自然哲学、精神哲学、或いはまた法哲学、等)が、エレメントないし領域の展開として叙述されている点のみならず、これらの諸学が、異なる研究対象に携わるのではなく、精神という同一の対象に携わっており、精神が存在するエレメントの違いによって、区別されているという点にも指摘される。「(精神の一直接的定在というエレメントは、それによって、学のこの部分一精神現象学一が、他の部分から区別されるところの規定性である。」(S.31 傍点部分は原文でイタリック)そして、「このエレメントに於いて精神は自己を展開し、その諸契機を開陳する」(S.32)。また、「それら一精神の諸契機)の運動が、このエレメント(知というエレメント)に於いて、全体へ組織化されると、論理学ないし思弁哲学である」(S.53 傍点部分は原文でイタリック)。『エンチクロペディー』では、「思惟は、学のこれら諸部分の中で、常にくりかえし登場する。というのは、これら諸部分は、エレメントと対立の形式によってのみ、異なっており、思惟は、諸対立が、,その真理へ戻ってゆくこととして、その内へ戻ってゆくところの同一の中心だからである」(傍点は引用者付記)とはっきり述べられている。ここでは、学の諸部分が携わる同一の対象は、思惟であるとされているが、この場合、この思惟は前述の精神と同じものである。

  二、「エレメント」概念と『精神現象学』の方法     
 『精神現象学』をエレメントの展開として解釈し得ることを示すために、われわれは、『精神現象学』の方法が書かれている「緒論(Einleitung)」に注目したい。前に触れたように、『精神現象学』は川「真の知へ押し進む自然的意識の道程」の「我々」(絶対知に到達した者)による叙述である。この叙述は、その道程の必然性ゆえに、それ自身学であるといわれる(vgl. S.74)。この際、「我々」がその道程を尊びくと、結論(真の知=絶対知)を前提にした叙述になってしまうので、「我々」はあくまでも「純粋傍観」(S.72)に留まらねばならない。従って、叙述は、自然的意識が自分の知を自ら吟味することによって進まなければならない。しかし、何故、この道程は必然的であるのか。如何にして、自然的意識の自己吟味は可能であるのか。何故、「我々」が叙述しなければならないのか。われわれは、「緒論」を解釈しながら、これらの問いを明らかにしたい。
 
    A 吟味の尺度としてのエレメント
 普通、日常的な意識が、自分の知を吟味するということは、日常生活にわいて次々に出会う対象や状況に応じて、知を修正したり、確認してゆく過程を意味しているだろう。この場合、新たに出会う対象や状況と、その時に持っている和との間には、何ら必然的関係は成立していない。楽観論者が、偶然の不幸な事件で、悲観論者になったり、ジャズ嫌いが、ジャズファンの友人によってジャズ好きになったりする。ヘーゲルが叙述する自然的意識の知の自己吟味は、こういうものではなく、必然的なものである。つまり、そこでは、新たに出会う対象や状況と和との間に、また、前の知と後の和との間に、必然的関係があるといわれる。その必然性は、一体何に基づくのか。それは、知の吟味の尺度が、偶然に出会う対象や状況といった外的なものにではなく、意識自身の内にあるとされることに由来する。そこでまず、「意識は、自分の尺度を自分自身において与える」(S.71)という命題を考察しよう。
 ここでへ-ゲルに従って、知と真理のさしあたりの抽象的な規定を挙げておく。知とは、対象の意識に対する存在(das Sein fuer das Bewusstsein)であり、真理とは、意識との関係の外にあるものとしての存在、即自存在(das Ansichsein)である(vgl. S.70)。「この二契機、(知と真理)概念と対象、相互に対する存在と即自存在が、我々(絶対知に到達し、意識の道程を叙述している者一の探求している知(真の知に到達していない現象知、さしあたり自然的意識)自身の内に帰する・・・・・ことを、探求全体に渉って論定しておくことが、本質的なことである」(S.71)とへ-ゲルは言う。但し、この論定をするのは、「我々」であって、自然的意識ではない。ここで、意識との関係の外にあるものとしての即自存在が、何故意識の内に属するのだろうか。ヘーゲルはこう考える。「意識が、およそ対象について知るという正にそのことに於いて、既に区別が生じている。それは、意識にとって即自は何ものか(etwas)であり、知、つまり対象の意識に対する存在は、(即自とは)別の契機であるという区別である」(S.72)換言すれば、知と真理の区別は、正に対象を知ることに於いて、意識によって立てられているのである。こうなる原因は、「意識が、一面では対象の意識(前述の「知」)であり、他面では自分自身(この「知」)の意識である」(S.72)ことにあると解釈できるだろう。というのは、知の意識であるとは、知を対象についての 知として対象化することであって、正にそのことによって、同時に、知がそれについてのものであるところの対象自体、知の背後に意識との関係を離れて存在している対象の「即自存在」を想定することになるからである。つまり、前述の「真理」・「即自存在」は、意識の思考物(das Gedankending)にすぎないのだが、意識自身は、そのことに気づいていないのである。なぜなら、知の意識自身は、更に意識されてはいないからである。R.アッシェンベルクは、この知と真理を、.「意識の主題的知(das thematische Wissen des Bewusstseins)」と「意識の前主題的知(das praethematische Wissen des Bewusstseins)として適切に解釈している。しかし、単に、後者は前者と共に措定されている(mitgesetzt ist)というだけで、なぜ共に措定されることになるのかについては、何も説明していない。我々は、かかる知の二重性が、前に引用した意識の二重性に由来すると言い得るだろう。「主題的知」(対象の意識)を主題的にしているのは、「自分自身(対象の意識)の意識」である。この意識が、知を知として主題化する限りにおいて、知がそれについてのものであるところの対象の即自存在を共に措定するのである。しかし、この意識は、更に意識されてはいないから、この即自の知は、前主題的知に止まっているのである。この前主題的知を、意識ないし主題化しているのは、「我々」である。従って「我々」からみれば、知の真理(知の妥当性のことではなく、真の有りようのこと)のみならず、対象の真理(即自存在)も、両者がそこに於いて成立している知るこという意識の運動である。この知ることは、知と対象のエレメントを成していると言えよう。或るものが、エレメントに於いて成立するということは、それがエレメントに於いて自己同一を保っているということであろう。エレメントは、そこに有るものを成立させるものとして、つまりそこに有るものの自己同一を保証するものとして、そこに有る ものの内で自己同一を保っている契機を規定し、その規定性を含んでいなければならないだろう。知と対象の区別化は、前述の二重の意識の内の後者、知の意識によって行なわれる。しかし、この後者は前者なしには成立せず、この二重性は意識の存在構造であるから、この後者のみが、知と対象のエレメントを成しているのではなく、意識の運動全体が、知と対象のエレメントを成している。但し、知と対象の区別化を規定し、従って両者の関係と存在仕方を規定し、両者の内の自己同一的契機を規定しているのは、後者、つまり知の意識の方である。この意識が、前主題的に規定している、知と対象との関係、換言すれば、思惟と存在、主体と実体の関係が、エレメントの規定性を成している。この意味で、エレメントとは、意識が前主題的に了解している一つの世界観ないし存在論とも解釈できるのではないだろうか。以上で、われわれは、「意識は、自分の尺度一対象の即自存在一を自分自身において与える」ことの意味を明瞭に理解し得たかに見える。知の吟味は、知と対象の即自存在を比較し、両者が対応しないならば、知を対象に合わせて変更することである(vgl. S.72)。しかし、ここに困難な問題が生じる。対象の即自存在が、知の意識によって、知に対応するものとして考え出された思想物だとするならば、それは知と必然的に対応するのではないか。しかし他方、精神現象学の具体的叙述は、両者の矛盾ゆえに知を幾度も訂正してゆく過程の叙述である。しかも、なるほど「緒論」では、両者が、「対応しないならば…」(S.72)という条件文で書かれているが、両者が対応しないことは、必然なのである。精神現象学が展開されるエレメント「精神の直接的定在」に於いては、常に両者は対応せず、叙述は、必然的に絶対知っまり「精神の本来的な学」(S.75)である論理学が展開される「絶対他在における純粋自己認識、エーテル」(S.24)というエレメントヘ進んでゆくことになっている。とすれば、「精神の直接的定在」というエレメントにおいては、必然的に知と対象が対応しないということになる。ヘーゲル自身、「序論」では、「精神の直接的定在、意識は、知と知に否定的な対象性という二つの契機を持っている。精神が、このエレメント(意識)に於いて、自己展開し、その諸契機(これは、このエレメントでは、意識の諸形態になるのだが vgl. S.75)を開陳するときには、その諸契機に、これら(知と対象性)の対立が生じる」(S.32)という。何故、この精神の直接的定在というエレメントに於いては、知と対象が、必然的に対応しないのだろうか。「精神現象学においては、各契機は、知と真理の区別及びその区別の止揚される運動である。これに対して、(本来の)学は、この区別とその止揚を含んでおらず、寧ろ契機が概念という形式をもつゆえに、各契機は、真理と知る自己との対象的形式を直接的統一に拾いて合一させている」(S.56)。つまり、本来の学のエレメントである概念に於いては、知と対象の区別がないが、精神現象学のエレメントである意識に於いては、知と対象の区別があるということである。従って、このエレメントに於いて、必然的に知と対象が対応しないならば、知と対象の区別そのものから、必然的に両者の不対応が生じると推測できる。
 知と対象は、さしあたり、互いに無関心な(gleichgueltig)なもので、独立のものである。このような区別は、ヘーゲルの論理学では、差異性(Verschiedenheit)と呼ばれている。彼によれば、「それ(外面的区別=差異性)は、比較において、比較するものに帰属している否定性である。比較するものは……両者の否定的統一である。」そして、「その互いに無関心な側面が、またそのまま全くただ一つの否定的統一の契機にすぎないような差異性は、対立である。」更に、「区別一般は、すでに即自的な矛盾である。というのは、区別は、一つのものでない限りでのみ存在する(二つの一ものの統一であると共に、またその同じ関係において分離されたものとしてのみ存在するそのような(二つの)ものの分離でもあるからである。」そして、この「矛盾は、あらゆる運動と生命性の根本(dei Wurzel)である。」おそらく、このような論理が、知と対象の区別から、必然的に両者の不対応が結果することの背後に考えられているのだろう。それ故に、次のように語られる。「意識の内で、自我とその対象である実体との間に生じる不等性は、それら(両者)の区別であり、否定的なもの一般である。この否定的なものは、両者の欠陥と見なされうるが、しかし、それらの魂ないしそれらを動かすものである。」(S.32 傍点引用者)ところで、精神現象学での具体的な吟味の過程を読めば、各段階の始めには、知と、それに対応して前主題的に措定されている対象の即自との間に、くい違いが生じるのは、知の変化によってであるといえよう。知の変化は、知の積み重ねともいうべき経験によって生じている。例えば、誤解を虞れず非常に大まかにいえば、感性的確信の対象「このもの」の即自存在つまり真理を、意識は、「個別的なもの」と前主題的に私念している(meinen 思い込んでいる)。しかし、どれもこれも「このもの」として捉えられるという感性的確信の積み重ねとしての経験と、「このもの」が「個別的なもの」であるということとは、矛盾する。そこで、意識は、対象の即自存在、真理を「普遍的なもの」として前主題的に措定し直すことになる。と同時に、意識の形態は、感性的確信から知覚へ変わり、対象の意識に対する存在つまり知の内容も、「このもの」から「物」へ変わる、と叙述される。このことから、われわれは、知が、経験を通して変化し、知が変化すると対象の真理もそれに応じて変化する、といいうるだろう。知は、対象の真理を尺度にして訂正されているのではなく、実は、経験を尺度として訂正されているのである。経験を本質的に規定しているのは、経験の中に現われる知と対象の関係、ないし存在の仕方である。これは、換言すれば、知と対象の現われる場面・エレメントである。ゆえに、知が経験を尺度にして訂正されるということは、知が、知と対象が現われる場面・エレメントを尺度にして訂正されるということである。因みに、ハイデガーは、こう解釈している。知の「現われ出る舞台としての現出の場面(die Staette des Erscheinens)は、現出にo
いて、またこの現出自身によって形成される。」「『意識は、自己自身にとって、その概念一尺度一である』という一へ-ゲルの)命題の中で、本来のアクセントは『である』にある。それは、次のような意味である。意識は、自己現出(Sicherscheinen)を自ら成し遂げ、しかもその際、それは、自己現出において、現出の場面を自己に向って形成するのである。」ここで、現出というのは、ほぼ経験の意味であり、それによって形成される現出の場面とは、われわれの考えてきたエレメントにあたるものだろう。この現出の場面を、ハイデガーは、意識(知)の概念(尺度)と考えている。問題は、経験を本質的に規定しているものとしての、換言すれば、経験をもっとも基本的に分節化しているものとしてのエレメントと知の間に、何故くい違いが生じるのか、ということである。これを、先の論理で解釈すれば、次のようになるだろう。知と対象は、単に異なるもの(die Verschiedenen)ではなく、両者が、「自分自身の意識」という両者を比較するものの契機である限り、対立したものである。また、対象の即自は、意識との関係の外にありかつ思考物としては意識の契機であり、対象の知は、意識であり、かつ「自分自身の意識」にとっては対象である、という矛盾を、この意識全体は孕んでいる。これらの、対立・矛盾は、意識の前述の二重性に基づくように思える。対象の意識とその意識という二つの意識は、並立した独立の異なるものであるが、これらもまた、先の論理に従えば、一つの意識の二契機である以上、対立することになる。ここに、主題的な知と、「自分自身の意識」によって前主題的に措定されているエレメントとの間に、くい違いが生じる、と解釈できないだろうか。このような矛盾は、意識が、その二重性という存在構造ゆえに持つ本質的矛盾といえるだろうし、意識の存在論的な「不幸」として、へーゲルの「不幸な意識」論へつないで解釈することも可能だろう。
   B 知の自己吟味とエレメントの展開
 次に、意識が自ら自分の知を吟味することが、どうして可能なのかを考えよう。知の尺度は経験であるから、知の吟味は、知と経験との比較を意味する。両者が不一致の時には、知を経験に合わせて変更しなければならない。こうして生じた新しい知は、経験についての知であり、「それ(新しい対象)は、それ(以前の対象)についてなされた経験である」(S.73)。例えば、感性的確信の経験が、知覚の対象一物一であるといわれる。ヘーゲルは、かかる対象を「単純なものとしての運動」(S.89)とか「静的な統一としての知」(S.133)と考えている。このような論理は、経験の物象化とも呼ぶべきものであろう。知覚や悟性の対象である物や力や自然法則について、それらが、経験の物象化されたものであることを証明することは、あるいは可能かもしれないが、さしあたり奇妙に思えると言わざるをえない。しかし、実践的な意識の場合には、それは、有効な興味深い論理である。例えば、「理性的自己意識の自己自身による実現」という章の「快楽と必然性」と名づけられた節では、個人は、快楽を追求することによって、社会の掟に捲き込まれてしまうという経験をするのだが、次の「心胸の法則と自 負の錯乱」と題する節では、この経験が物象化されて、暴力的秩序とその下で苦しむ人類となって括り、これが、この節で個人が向ってゆくところの対象である(vgl. S.267,274)。このようにして、行為のレベルが高まってゆくのである。このように、知の対象が、以前の段階の経験である時、意識が行なう経験は、当然以前の経験とは異なったものになり、エレメントも変化する。従って意識が変化すると、その尺度も変化することになる。そこで、知の吟味は尺度の吟味でもあるといわれる(vgl. S.73)。意識の諸形態の必然的展開は、そのエレメントの必然的展開でもある。エレメントが、具体的にどのように展開するかは、『精神現象学』の方法の考察である本論文では扱わず、別の機会に譲りたい。ところで、一般に、比較するには、比較されるものを対象化していなければならないだろう。従って知と経験を比較するには、知と経験を対象化していなければならない。自然的意識は、知を対象化している。つまり「意識は、一面では、対象の意識であり、他面では、自分自身の意識である」(傍点引用者)。しかし、自然的意識は、経験を対象化してはいない。経験を対象化するとは、経験の内に生きておりながら、同時に、その外に出て経験を見ているということ、換言すれば、経験を「内面化」しているのでなければならない。別の視点でいえば、「自分自身の意識」を更に意識するということであろう。しかし、かかる意識を、われわれは、もはや自然的意識とは呼び得ないだろう。では、精神現象学で叙述される意識は、単なる自然的意識ではないのだろうか。否、この意識が、もし意識的に知と経験を比較吟味しているのであれば、当然、新しい知は、この経験についての和として意識に現 われるはずであるが、そうは叙述されていない。また、それは精神現象学のもっとも根本的な構造、自然的意識の真の知への道程であることの否定である。では如何にして、自然的意識が、自ら知を吟味することが出来るのだろうか。自然的意識は、果たして知を吟味しようとするのだろうか。一般に、自然的意識とか常識と言われるものの、本質的性格は、その内容のいわゆる平凡さにあるのではない。このことは、異なる社会のそれらを較べれば、直ぐに削る。それらの本質的な性格は、その内容の真偽を吟味したり、根拠付けたりしようとしない点にこそある。自己吟味が可能な理由として、ヘーゲルは次のように述べている。「というのは、意識は、一面では対象の意識であり、他面では自分自身の意識であるから」と。何故これが理由になるのだろうか。自然的意識は、対象の知を意識・主題化することによって、知をもって経験に臨むことになる。従って、知と経験が一致しない時には「不安静」(S.67)に陥り(もし知を意識していなければ、「不安静」にはならないだろう)、その知を捨て、次に意識にとっては別のものである対象の知をもって、経験に臨むことになる。「その(自然的意識の)不安静 が、怠慢を妨げる」(S.69)のであり、「自然的意識は、この道程で、自分の真理を失う」(S.67)。自然的意識にとって、この道程は、「絶望の道程」(S.67)である。従って、自然的意識が知を吟味し訂正するのは、「我々」から見てのことであって、自然的意識が意識しているのは、経験との不一致によって自分の知を失ってゆくことだけである。「自然的意識は、それ(真実でない意識のその不真理性における叙述)について、かかる一面的な見地を持っている」(S.68)にすぎない。知のみ意識して、そのエレメントを意識していないことによって、意識は、知の吟味の否定面、つまり知の喪失しか自覚していない。吟味の肯定面、つまり前の知の真理として新しい知が生じること、新しい対象が以前の対象についてなされた経験であること、知の吟味が同時に尺度であるエレメントの吟味であることを自覚できない。 因に、意識が行なう知の吟味には、無意識的なものであれ、後に自然的意識ではなくなってから行なう意識的吟味であれ、二種類ある。理論的吟味と実践的吟味、或いは認識による吟味と行為による吟味の二種である。これらは各々、認識ないし行為という経験を尺度にした吟味である。尺度と なる経験がこういう異質なものになる原因は、吟味される知の異質性にある。理論的に吟味される知は、知の対象が、知に無関係に存在しているものの知である。通常の知は、大抵このような知である。これに対し、実践的に吟味される知は、知の対象が、知自身であるような知である。このような知は、必然的に確信という形態をもつ。前者の知は、確信という形態をとることもあるが、その形態は、その知の内容と必然的関係をもたない。後者の、対象と同一である確信においては、対象と知を区別し、成立させる知ることというエレメントもまた知と同一であるように見える。この確信は自己内に閉じているように見える。比較による吟味は、比較するものが区別されて成立する。従って確信に留まる限り、吟味は不可能である。しかし、意識は、かかる確信に留まり得ない。なぜなら、人間は、時間の内に生きているからであり、また、確信が、他のものを残して自己内に還帰している時、その確信は、エレメントと一つになっていないからである。「それ(意識)は、生の内へ突進する」(S.262)。意識は、確信の実現のために、自己の外化(Entaeusserung)という行為へ向う。これによって、行為の経験と 確信との比較吟味が、行われることになる。

   C 「我々」による叙述の必要性
「意識にとっては、この生起するもの(新しい対象)は、対象としてのみ存在し、我々にとっては、同時に運動と生成として存在する」(S.74)。つまり、意識にとって対象は媒介されたものとしてではなく、直接的なものとして現われる。前の段階の経験ないしエレメントである対象は、意識にとっては、直接性つまり存在という形式をもつことになる。このことを我々は前に経験の物象化と呼んだ。新しい知は、自然的意識にとっては、別の直接的な和として現われ、前の知と妥当性の権利において同列である。しかし「我々」にとっては、これは媒介された知であって、後の知は、前の知の真理(真実態)である。従って自然的意識の無意識的に行っている吟味を「我々」が叙述する必要がある。ところで、意識が発展して意識的に知を吟味するようになった時にも、「我々」による叙述が必要である。経験の対象化によって可能になる知の自覚的吟味は、「理性」という段階から始まると思われる(vgl. S.183)。そこでは、意識は、自覚的に知と経験とを比較吟味する。従って、この意識にとっては、後の知は、前の知より真実である。しかし、まだ尺度である経験が、知と対象のエレメントであることを自覚していない。従って後の知の対象が、前の知のエレメントであることを知らない。換言すれば、「意識の転倒」(S.74)によって、新しい対象が生じること、またそれが知と対象のエレメントの展開でもあることを知らない。進行のかかる必然性を叙述しうるのは「我々」のみである。従って意識的吟味が始まっても猶「我々」による叙述が必要である。進行の必然性、つまりわれわれがAとBで考察したことの概念把握は、自然的意識が絶対知に到達した時に、意識に生じる。もし自然的意識の自己叙述がなされたとすると、おそらく、精神現象学の叙述の一面即ち意識にとっての側面の叙述のみがまずなされ、次に現在われわれに与えられているところの精神現象学の叙述が行なわれるだろう。しかし、前半部分は、経過の必然性を欠いた単なる記述であって、学にはなっていないので、精神現象学の中に含めることは出来ない。従って精神現象学は、自然的意識から真の知へ到達した意識「我々」による 、その道程の概念把握としての「内面化(Erinnerung)」の叙述である。しかし「我々」がこのように意識の即自面を叙述することによって、結論が前提されることにならないだろうか。Aで述べたこと、意識が自己の内に尺度を持つことは、精神現象学を可能にする前提である。しかしこの前提は、絶対知の内容を含んでいる。知と対象が意識の契機であることが、それである。先に引用したように、このことを「探求全体に渉って論定しておくことが、本質的なことである」。そして、この論定をするのは「我々」である。これは、最初には、「理性」という段階で、意識に直接的確信として生じる。それから、この確信は意識によって概念把握されることになっている。精神現象学の前提、知と対象が意識の契機であることを、意識は自己吟味の道程を通して概念把握する。ゆえに、たとえ最初には直接的な確信として意識にとって現われる確信の出現の必然性が「我々」によって叙述されているにしても、もし意識によるその確信の概念把握が完全であるならば、循環論法にはならないだろう。ヘーゲルはこう考えているのだと思う。しかし、もし意識による概念把握が充分なものでなく、それが、確信の出 現に依存しているとすれば、循環論法である。この点についての現在の私見を述べるならば、意識による概念把握は不充分なものであり、叙述は循環論法であり、独語(Monolog)にすぎない。意識による概念把握は、おそらく感性的確信の真理性の証明で行なわれているのと同じ「消極的証明(ein negativer Beweis)」(S.398)にすぎない。これは、他の全ての立場の空無性を示すことによって証明する方法であって、いわば一種の背理法である。とすれば、確信の積極的な証明は、その出現の必然性に依存していることになるだろう。しかし、ここで注意すべきことは、絶対知は確信である(vgl. S.556)が、実体=主体、存在=思惟、対象=意識といったその内容ゆえに本質的に確信という形態しかとれず、その確信は外に何も残さず、全体であるゆえに、何らかの尺度との比較による吟味の不可能な確信であって、これについては、右の「消極的証明」しかあり得ないように思えるということである。しかしそれにも関わらず、意識による確信の概念把握が確信の出現の必然性に依存しているとすれば、その必然性が「我々」が最初に「論定」しておいた前提に基づいて「我々」によって叙述されているのだから、叙述は循環論法・独語(Monolog)である。

   三、結びにかえて
 以上で、われわれは、最初に提出した三つの問いの答えを得たことになる。その過程で、精神現象学を意識のエレメントの展開として解釈しうることも示し得たように思う。「エレメント」や「領域」概念をこのようにヘーゲル弁証法の方法概念として解釈することは、従来行なわれて来なかったように思われる。へーゲル弁証法のこのような解釈が、現代的意義を持つか否か決定するには、もっと研究が積まれねばならないが、このようなへーゲル解釈が、現代の諸哲学と多くの点で関連してくるということは言えそうである。我々は、エレメントの意味とその展開の論理をもっと明確にする必要があるが、それは、この概念と、止揚・否定の否定・無限判断・推論等々の弁証法の基本的論理との関係を規定すること、ヘーゲルの他者承認論、疎外論、言語論においてエレメントないし領域の概念を考察すること、『精神現象学』『論理学』『法哲学』などをより具体的にエレメントの展開として解釈することを通して可能になるだろう。


(1)本文での引用の頁数は全て Hegel, Phaenomenologie des Geistes, hrsg. von J. Hofmeister, Hamburg, 1952 のものである。
(2)ヘーゲルは大抵 Manier(仕方ないし手法)を悪い意味で、Methode(方法)を良い意味で使うようだ。
(3)「我々」が、絶対知に到達している意識であることは、学が仮象たる現象知に向かわなければならないといわれ、かつ「現象知が、我々の対象である」(S.70)といわれていることから明らかである。それゆえに、現象知の即自(das Ansich)と「我々にとって」(fuer uns)の存在は、同一になる(S.71)。
(4)この予想の根拠は次のようなものである。直観を、その内容ないし対象が直観すること自体と同一であるような直観と、直観することないし直観するものとは異なった他のものを内容ないし対象にする直観に分けた場合、直観主義の直観は前者であろう。とすれば、それは、自我ないし意識の認識へ向かうという本来的傾向を持っているのではなかろうか。また論弁的思惟ないし形式的思惟(悟性主義と呼ぶこともできよう)は、認識するものとは異なる他のものを対象にしている。たとえ、自我の場が対象になるにしても、真実の自我の場は、それとは異なるものになっている。形式的思惟は、認識することとは無関係のものとして対象を扱う本来的傾向を持つのではなかろうか。このことに留まるがゆえに、悟性主義に留まりうるのではないか。しかし、哲学は、自我だけや、自己とは区別された対象の認識に留まることは出来ない。それは、本来的に自我と対象の場の認識へ向かうのではなかろうか。なぜなら、哲学する理由は、自我のみにも、対象のみにもなく、両者の関係つまり両者の場にあるだろうから。
(5)Hegel, Jenenser Realphilosopie I, hrsg. von J. Hoffmeister, Leibzig, 1932, S. 212.
(6)Ebd. S.211.
(7)Ebd. S.218.
(8)Ebd. S. 217.
(9)Ebd. S.217.
(10)Ebd. S.232.
(11)Ebd. S.232.
(12)Ebd. S.204.
(13)Ebd. S.204.
(14)Hegel, Enzyklopaedie 1830, hrsg. von F. Nicolin und O. Poeggeler, Hamburg, 1969, §467, S.379.
(15)Reinhold Aschenberg, Der Wahrheitsbegriff in Hegels ".Phaenomenologie des Geistes" , in Die ontologische Option, hrsg, von Klaus Hartmann, Berlin, 1976, S.233.
(16)Eugen Fink, Hegel, Frankfurt, 1977, S.56. ここでフィンクは、知の吟味の過程を存在概念(Seinsbegriff)の吟味の過程と解釈している。
(17)Hegel, Wissenschaft der Logik, hrsg von G.Lasson, Hamburg, 1969, Bd. II. S.37.
(18)Ebd. S.38.
(19)Ebd. S .40.
(20)Ebd. S .58.
(21)Martin Heidegger, Holzwege, Frankfurt, 1972, S. 134.
(22)Ebd. S .148.
(23)このように確信が二種に分かれることについては、「意識」の章での確信と、「自己意識」の章での確信の区別として述べられている(vgl. S.133)。
(24)後で触れるが、絶対知は、確信という形態をもつ。そして、絶対知から感性的確信へ戻って円環をなすが、他方では、絶対知である以上、その確信に留まるという性格をもつ。このことは、絶対知に於いて「それ(精神)がその時間形式を止揚する」(S.558)ことに対応している。精神現象学での時間概念については、vgl. Herbert Marcuse, Hegels Ontologie, Frankfurt, 1975, S.343ff.
(25)ハイデガーが適確に説明しているように、ヘーゲルのいう「存在」は「直接的表象にわいて意識に対象的になるもの」である「存在者」を意味している。Vgl. Martin Heidegger, ebd. S. 141.
(26)フリードリッヒ・フルダは、エレメントによって、精現象学を区分しており、この概念の重要性を認識していると思われる。しかし、彼は、「諸形態が、内容をそこに於いてもっところのエレメント」としか説明せず、単に区分の原理にしているだけであって、それをヘーゲル哲学の一つの方法概念として考えてはいない。Vgl. Hans Friedrich Fulda, Zur Logik der Phaenomenologie, in Hegel-Studien, Beiheft 3, 1966, S. 97ff.
(博士課程学生)