メタコミュニケーションのパラドクス (1) (『大阪樟蔭女子大学論集』第30号、1993年3月発行)
入江幸男
コミュニケーションを行うとき、それをうまくするために、コミュニケーション自体についてコミュニケーションを行うことは、我々が日常生活の中でもしばしば気づいていることである。このコミュニケーションについてのコミュニケーションを、メタコミュニケーションと呼ぶことがある。小論では、まずメタコミュニケーションとは何かを検討し、次にメタコミュニケーションに特有のパラドクスを分析して、最後にそれらのパラドクスがコミュニケーションの成立にとって重要な働きをしていることを指摘したい。
第1章 メタコミュニケーションとは何か。
第1節 メタコミュニケーションの広がりと重要性
我々がコミュニケーションを行うときには、コミュニケーションの進め方についての合意がなければうまくゆかないし、コミュニケーションの進行の中で今どのような場面にいるのかについての相互の了解がなければうまくゆかない。それが解らなければ、我々は発言の順番や量についてさえ適切な判断ができないだろう。したがって、それが不明であったり、不確実であるときには、確認する必要があるし、状況が変化した場合にはそれを変更する必要がある。その際、我々はコミュニケーションの確認・調整のためのコミュニケーションをするのである。
例えば、対話の中に入ってきた第三者は、「何を話してるの」と尋ねることによって、コミュニケーションに入ろうとする意図を伝えると共に、入り方についての指示を求めている。これを迎え入れる者達は、それを機会にコミュニケーションの進め方を変更し、発言の順番や量などを再調整することになる。例えば、その第三者が目上の者であれば、発言の順番を変更して裁定を仰いだり、自分達の発言量を少なくしたり、議論の当事者としての発言を中止して、それまでの議論についての客観的な報告をしたりするのである。
コミュニケーションへの参加者が多数の場合には、このような調整の為のメタコミュニケーションは、何らかの制度化を必要とするようになる。その典型は、司会者の存在である。司会者は、コミュニケーションの開始・中断・終了の合図、発言順序の指示、一定のテーマについての発言や沈黙の要求、などを行う。そのような司会者の発言は全てメタコミュニケーションである。それゆえに、彼が議論に加わりふつうのコミュニケーションをする際には、「司会者から発言するのもなんですが、・・・」などと特に断る必要がでてくる。
また、コミュニケーションの参加者が少なくても、電話やモールス信号の通信など、口調、表情、身振、姿勢などによるコミュニケーションが欠けている場合には、メタコミュニケーションが多くなるし、またメタコミュニケーションが定式化されている場合がおおい。例えば、電話の「もしもし」や「はい、○○です」と初めに名のることなどは、定式化されたメタコミュニケーションである。これまでにないほど多数の人間が、<抽象的な信号>だけを送り合うパソコンネットワークでは、メタコミュニケーションの定式化が最も明確かつ広範囲におこなわれているといえるだろう。また、メタコミュニケーションは会話に限らない。「手紙」や「書類」の日付や署名もまた、定式化されたメタコミュニケーションの一種であるし、本の前書きや後書きで、その本の内容や成立事情について述べるのは、メタコミュニケーションであるといえる。
また、メタコミュニケーションは、ふつうのコミュニケーションがある程度できるようになって始めて可能になるようなかなり高度なコミュニケーションであるというのではない。子供が、言葉を習得して行く段階では、子どもも親も、子どもの発話について確認したり訂正したりするために、メタコミュニケーションを盛んにおこなう。(1)一見矛盾して聞こえるかも知れないが、我々は言葉を使って、言葉を学習して行くので、メタコミュニケーションの習得なしにはコミュニケーションの習得は不可能である。
第2節 メタコミュニケーションの定義と下位区分
このような広がりと重要性をもつメタコミュニケーションについて考察するために、まずはその定義とそれの下位区分を試みたい。
1、ベイトソンの「メタコミュニケーション」概念
生物学から人類学にわたる広い範囲の事象をシステム論的コミュニケーション論の立場で分析したG・ベイトソンは、「メタコミュニケーション」を「コミュニケーションのコミュニケーション」と定義している。(2)ただし、彼のいうコミュニケーションとは相互作用や相互知覚であって、言語によるものに限らない。そしてこのようなコミュニケーションについてのコミュニケーションとは、「相互知覚の相互覚知
mutual awareness」つまり、「相手がこちらを知覚していることをこちらが知っており、相手もこちらが知覚している事実をわきまえている」(3)ということである。つまり、「メタコミュニケーション」とは「コミュニケーションについての相互覚知」である。「この相互覚知は、参加者二人のすべての行為と相互行為の決定因となるのである」(4)という。
ベイトソンは、このようなメタコミュニケーションを、さらに二つに区分している。つまり、(A)コード化(彼のいうコード化とは、言語のコードにかぎらず、世界の分節化一般である)についてのコミュニケーションと、(B)参加者の関係についてのコミュニケーションである。ただし「コードについてのおおかたの命題は直接・間接の差はあっても関係についての命題であると仮定してよいだろう(逆も同じ)。だからの二種類のメタコミュニケーションをはっきり区別はできない。」(5)
相互覚知が成立している場合には、すべてのコミュニケーションは同時に、メタコミュニケーション機能をはたすことになる。(A)コード化に関して言えば、「コード化された言明はこのコード化を潜在的に確認するものであり、その故に、メタのレベルに属するものであるから、(『猫がいる』という時、”猫”という言葉は私が見たものを表す、という命題を暗に確認している)」(6)というように、すべての言明は、相互覚知によって、同時にそこで使用しているコードを確認するというメタコミュニケーション機能をはたすことになる。また、(B)参加者の関係に関して言えば、すべてのコミュニケーションは相互覚知により、メタコミュニケーション機能をもつ。「AがBと話す場合のコミュニケーション行為は、”コミュニケーションをしている”との意味も伝えており、そうしてこれこそが最も重要な、送り出され、そして受け取られるメッセージなのである。思春期の子供たちが交わす冗談や成人の常套的科白は客観的情報の交換を目的とはしない。余暇時の会話もお互いの絆を確かめるためのものだ。」(7)
確かに、このようにすべての発話は、相互覚知によってメタコミュニケーション機能を同時に果たしてしまうのであるが、私は以下では、コミュニケーションについて言及しているコミュニケーション、つまり相互覚知を言明しているコミュニケーションだけを「メタコミュニケーション」と呼び、すべてのコミュニケーションがもつ「メタコミュニケーション機能」と「メタコミュニケーション」を区別することにする。
2、スタッブズの「メタコミュニケーション」概念
談話分析の研究でもメタコミュニケーションの重要性が認められている。スタッブズは、ヤコブソンの指摘する有名な言語の6つの機能にもとづいてメタコミュニケーションを定義している。ヤコブソンは、あらゆる言語的伝達における6つの構成因子と、これらによって決定される6つの異なった機能を指摘する。(8)
1、<送り手>に焦点をあわせる<主情的、表出的機能>
2、<受け手>に焦点をあわせる<動能的機能>
3、<場面>に焦点をあわせる<指示的機能>
4、<接触>に焦点をあわせる<交話的機能>
5、<メッセージ>に焦点をあわせる<詩的機能>
6、<コード>に焦点をあわせる<メタ言語的機能>
このうちの4、5、6の機能をまとめたものを、スタッブズはメタコミュニケーションと定義している。この3つの共通点は「これらはすべて伝達についての伝達である」ということである。他方でスタッブズは、メタコミュニケーションを「発話場面を言葉によって調整すること」とも定義しているので、それらをまとめると、メタコミュニケーションとは<発話場面を言葉によって調整するために、伝達について伝達すること>である、ということになるだろう。(9)
スタッブズは、メタコミュニケーションを「詩的」「接触的(交話的)」「メタ言語的」の3つに下位区分するのだが、詩的機能についてはほとんど述べていないので、実質は、ベイトソンの挙げた二つの下位区分とほぼ同じものになっている。ヤコブソンの区別によれば、会話の参加者が同じコードを使っているかどうかを、確認するための言語の機能が「メタ言語的(metalingual)機能」であり、メッセージそのものに焦点をあわせるのが「詩的機能」である。前者の例としては、「どういう意味ですか」「私のいうことがおわかりですか」などがあり、後者の例としては、「どうしていつもジョーンとマージョリーって言って、マージョリーとジョーンっていわないの」「『アイクを愛す(I
like Ike)』はごろがいいね」などがある。ただし我々は、この二つの機能をあわせて、言語に言及する機能とみなし、言語に言及するコミュニケーションを「メタ言語的メタコミュニケーション」と呼ぶことにしたい。
そこで、我々は、「メタコミュニケーション」を<コミュニケーションを調整するために、コミュニケーションについて言及しているコミュニケーション>と定義し、それを二つに、つまり、参加者の関係に言及する<接触的メタコミュニケーション>と、言語に言及する<メタ言語的メタコミュニケーション>に、下位区分することにする。ただし、ベイトソンも指摘していたように、この二つを厳密に区別することは難しい。
第3節 メタコミュニケーションの具体例
接触的メタコミュニケーションとメタ言語的メタコミュニケーションの具体例を述べるにあたり、多くの事例を全く無秩序に挙げるわけにもゆかないので、ベイトソン、ヤコブソン、スタッブズ、ガーヴェイなどの指摘を参考にしつつ、とえあえず次のように整理してみたが、とうてい網羅性を主張するものではない。
1、接触的メタコミュニケーション
(1)伝達の開始/継続/終了の合図
(開始)「もしもし、聞こえますか」
(継続)「エー」「そのぉー」「それでー」
(終了)「どうぞ」「了解。交信終わり」
(2)絡路が通じていることの確認
「もしもし聞こえていますか」
「はいよく聞こえます」
「少し電話が遠いようです」
「応答せよ」
(3)聞き手の注意を喚起/聞き手の注意の継続を確認/聞き手が自分の注意の 継続を合図
「エヘン」「ちょっと耳を貸せ」
「もしもし、聞いていますか」
「はいはい」「なるほど」
(4)伝達をスムーズに進行させる働きをするメッセージ
発言量の決定
「この点で何か言うことがありますか」「静かにして下さい」 話題の特定化
「それは重要な問題です」「この件はこれで終わりします」
話し手が話すのをやめる合図
「了解。交信おわり。」「以上」
相手の話しに割り込むことを知らせる合図
「質問してもいいですか」
発言を求める合図
「これについてどうお考えですか」
「何か質問はありませんか」
2、メタ言語的メタコミュニケーション
サールによる言語行為(speach act)の区別を援用して次のように分けてみた。(10)
(1)発話行為(utterance act)に関するもの
a、音声行為phonetic act(声を出す行為)
「もっとゆっくり話して下さい」
b、音韻行為phonemic act(a/i/u/e/oなどの音韻体系に基づく音声行為)
「聞き取りにくかったので、もう一度おねがいします」
c、形態素行為morphemic act (単語や文を発話する行為)
「それはどこの言葉ですか」
(2)命題行為(propositional act)(指示と述定の遂行)に関するもの
「私の言うことが解りますか」
「それは、どういう意味でしょうか」
「それは誰のことですか」「ナンセンス!」
「よくもそんな口がきけるね」
「なんだとはなんだ」
(3)発語内行為(illocutionary act)(主張、質問、命令、約束など)に関する もの
「ご冗談でしょう」
「私はそれを主張します。」
「それは命令でしょうか」
「いいえ、お約束はできません」
第2章 メタコミュニケーションのパラドクス
このようなメタコミュニケーションの発話の中には、我々がすでに日常的にも気づいているようなパラドックスがある。まずは、そのパラドクスの事例を確認して、次にその分析を試みよう。
第1節 メタコミュニケーションのパラドクスの事例
メタコミュニケーションの下位区分に準じて、メタコミュニケーションのパラドクスの事例を挙げてみよう。(後論のために予め、表示しておくのだが、発話例の後に「・・・」(p)とあるのは、それが語用論的パラドクスであること、「・・・」(s)とあるのは、それが意味論的パラドクスであること、「・・・」(d)とあるのは、それが談話論的矛盾であることを示す。これらの用語の説明は、第2節でのメタコミュニケーションのパラドクスの分析でおこなう。)
1、接触的メタコミュニケーションのパラドクス
(1)伝達の開始/継続/終了の合図
*「もしもし、聞こえますか」(p)この問にたいしては、返事が無いか、あるいは返事のある時には、必ず「はい、聞こえます」という肯定の返事になるだろう。なぜなら、「いいえ、聞こえません」(d)というような否定の返事は、矛盾しているからである。(この矛盾の分析は、後述する。)そうすると、この問は、肯定の答しか期待していないという大変奇妙な問である。これとよく似たものに次のようなものがある。「今日は。どなたかいませんか。」(p)
(2)絡路が通じていることの確認
*「もしもし、聞こえていますか」(p)この問にたいしても、「もしもし、聞こえますか」という問の場合と同様の矛盾が生じる。
(3)相手の注意の喚起/相手の注意の継続の確認/自分の注意の継続の合図
*「ちゃんと聞いてますか」(p)この問にたいしても、「もしもし、聞こえますか」という問の場合と同様の矛盾が生じる。
(4)伝達をスムーズに進行させる働きをするメッセージ
*「ちょっとお話したいのですが、よろしいでしょうか」(p)この質問が、議論への介入の許可を求めるとき、すでに介入してしまっていることと矛盾している。したがって、我々は、このように議論に介入してもよいかどうか質問すること自体を、躊躇する。つまり、もし議論への介入が拒否されるならば、このような質問自体が拒否されるのであり、敵対的な行為であることになる。そのことが質問を予め自粛させるのである。それゆえに、ふつうこの申し出は、おそらく話してもよいだろうという推測をした場合におこなわれる。(メタコミュニケーションと権力の関係は別の機会に論じたい。)
*「何か話してくれませんか」この問に「いいえ、私は何も話しません」(p)と返答することは矛盾している。もし「いいえ」とこたえると、それは既に相手の依頼の受諾になるので、「はい」と答えても「いいえ」と答えても相手の依頼を受諾することになるという、ダブルバインドである。「応答せよ」「返事をしなさい」などの命令についても、同様に「いいえ、何も言いません」(p)「いいえ、返事しません」(p)と拒否することが、すでに命令に従ったことになる。このようなダブルバインドは、システム論的家族療法でよく利用されているものである。その他にも、後に述べる「勝手にしろ」(p)など、システム論的家族療法で議論される有名なダブルバインド(11)は、ほとんどすべてがメタコミュニケーションのパラドクスを構成するものである。
*「この事件についてどうお考えですか」という質問に対して、どこかの国の首相が「ノーコメント」(p)と答えるのは、矛盾している。なぜなら、「ノーコメント」という発言は、彼がそれに付いて「遺憾です」といえば、ある人たちに敵対し、「大したことじゃない」といえば国民の反感を買うという彼の板挟みの立場を表明しているからである。それは、すでに一定のコメントなのである。
2、メタ言語的メタコミュニケーション
(1)発話行為に関するもの
*「日本語が分かりますか」(p)この質問に、「いいえ、分かりません」(d)と答えることは、相手の日本語の質問を理解していることと矛盾する。
(2)命題行為に関するもの
*「私の言うことが分かりますか」(p)この質問が自己言及的であるとすると、これに対して「いいえ、分かりません」(d)と返事することは、矛盾する。
*「私のいうことを鵜呑みにしないで下さい」(s)という発言は、「私は嘘つきです」(s)と同様の矛盾である。
(3)発語内行為に関するもの
*「勝手にしろ」(p)これは、有名なダブルバインドの命令であり、これ自体が語用論的矛盾であるが、これに対して「いやだ」(d)と答えることは、命令に従うことになり矛盾する。
*「あなたは嘘つきですか」これに対する肯定の返答「はい、私は嘘つきです」(s)は矛盾している。これは有名な意味論的パラドクスであるが、しかし、質問は、相手の発話の誠実性を確認するためのメタコミュニケーションであり、返答も自分の発話の真/偽ではなくて誠実性に焦点をあわせて言及していると考えれば、語用論的パラドクスに分類することもできるのではないか。ただし、そのためには誠実性について詳しく分析する必要があるだろう。(これについては、次回に譲る。)
第2節 メタコミュニケーションのパラドクスの分析
(1)語用論的パラドクスと意味論的パラドクス
上の事例を見て気付くことは、その中には従来、語用論的パラドクスと呼ばれているものが多いということである。そこで、まずは語用論的パラドクスの分析から始めよう。語用論的パラドクスとは、発話行為あるいは発語内行為と命題との矛盾である、と定義してみよう。(12)サールの先にも用いた言語行為の区別を援用すると、語用論的パラドクスを次のように区別できるだろう。
(A)発話行為と命題の矛盾
a、音声行為
「ここでは小さな声で話して下さい」(と大声でいうとき)
b、音韻行為
「正しい発音をしてくらはい」(と不正確な発音をするとき)
c、形態素行為
「私は日本語を話せません」
「私は文を話したり、書いたり、できない」
(B)発語内行為と命題の矛盾
「私は存在しない」
「お前はもう死んでいる」
「私は絶対に何も主張しない」
「私の命令に従うな」
これら語用論的パラドクスの例から気づくことは、すべての語用論的パラドクスは、それがコミュニケーションの中で発話される場合には、メタコミュニケーションのパラドクスに属する、ということである。語用論的パラドクスが、命題と発話行為ないし発語内行為との矛盾だとすると、その命題は発話行為や発語内行為(およびその前提要件)に言及しているはずである。そして、そのような命題の発話は、メタコミュニケーションに属するはずである。
ところで、メタコミュニケーションのパラドクスの中には、「私は嘘つきではありません」など意味論的パラドクスも含まれている。すべての意味論的パラドクス(これの定義も非常に難しいのだが)は、とりあえず少なくとも、意味論的な概念を述語にもつ自己言及的な命題に属すると言えるだろうから、それがコミュニケーションの中で発話されるときには、メタ言語的メタコミュニケーションのパラドクスに属することになるだろう。
しかし、上にみたような語用論的パラドクスと意味論的パラドクスが、メタコミュニケーションのパラドクスの全てではない。次に、それを検討しよう。
(2)談話論的矛盾の定義
上にみた語用論的パラドクスや意味論的パラドクスは、一つの発話のもつ矛盾である。これに対して、メタコミュニケーションのパラドクスの中には、その発話だけをとるとなんら矛盾していないが、会話の中で他の発話との関係において(特に直前の相手の発話との関係において)矛盾することになるものがある。
例えば、「日本語が分かりますか」という質問に、「いいえ、分かりません」と答えることは、相手の日本語の質問を理解していることと矛盾する。この日本語の返事「いいえ、私は日本語が分かりません」という発話は、返答として矛盾しているだけでなく、問答から独立にそれだけとっても語用論的パラドクスである。ただし、この返答が英語によって行われたすると、もはやそれは語用論的パラドクスにはならない。しかしそれでも、その返答が、上の日本語の質問に対する答であるとするならば、矛盾している。(上の質問が英語によって行われたとすると、その英語の返答は矛盾しない。)この矛盾は、意味論的パラドクスでも従来の語用論的パラドクスでもない。この発話が矛盾するのは、質問が日本語で行われているからである。
他の例を挙げると、「あなたの声が聞こえません」という発話は、それ自体では、なんら矛盾していないが、「私の声が聞こえますか」という質問に対する返答であれば、矛盾しているといえる。
我々は、このような矛盾つまり談話のコンテクストの中での矛盾を、「談話論的矛盾」と呼ぶことにしよう。この中には、次のような意味論的なものがある。意味論的なパラドクスには、一つの文では矛盾していないが、二つの文の関係で矛盾が生じるもの、いわゆる間接的な自己言及のパラドクスがあることは既によく知られている。たとえば、次のようなものである。
「右の文は真である」「左の文は偽である」
このパラドクスは、例えば、AとBの会話で次のように現れる。
A「おまえの言うことは間違っている。」
B「ごもっともです(あなたのおっしゃることは本当です)。」
このように談話のコンテクストの中で現れる意味論的なパラドクスを、「意味論的談話論的矛盾」と呼ぶことにしよう。これは、上のものとは異質である。そこで、上に見たような談話論的矛盾を「語用論的談話論的矛盾」と呼ぶことにしよう。以上をまとめて、メタコミュニケーションのパラドクスをつぎのように分類することもできるだろう。
┌────┬──────────┬───────────────┐
│ │ 一つの発話の矛盾 │談話のコンテクストの中での矛盾│
├────┼──────────┼───────────────┤
│語用論的│語用論的なパラドクス│ 語用論的談話論的パラドクス │
├────┼──────────┼───────────────┤
│意味論的│意味論的なパラドクス│ 意味論的談話論的パラドクス │
└────┴──────────┴───────────────┘
第3章 メタコミュニケーションのパラドクスの力
第1節 対他者関係のダブルバインド
自然の複雑性・偶発性は、我々に決定の計算不可能性と必要性をもたらす。複雑性・偶発性ゆえに、我々がある状況でどの行為を選択しても、つねに失敗の危険が伴う。しかし、時々刻々と状況が変化するなかでは、選択を回避することもできない。というのも、選択に迷い続けていること自体が、その状況での一定の選択になってしまうからである。何もしないわけには行かないということ、しかもそのことを自覚しているとき、我々はダブルバインドにさらされているといえるのである。自然の複雑性・偶発性と時間性が我々に決断をせまるとすれば、それらが我々にダブルバインドをかけているといえる。
ところで、対他者関係では、これとは異質な複雑性・偶発性、いわゆるダブルコンティンジェンシー(13)に直面する。ダブルコンティンジェンシーというのは、自然の反応は、我々の行為に影響を受けないのに、他者の反応は我々の行為の影響を受けるので、より偶然性をますというだけのことではない。それだけならば、森の中でクマに出会ったときも、人間に出会ったときも同じである。パーソンズのいう「ダブルコンティンジェンシー」というのは、互いに相手の行動を予期して行動を決定するという状況である。そこでは、私が相手の行動を予期するには、相手が私の行動をどのように予期して行動するかを予期しなければならないのである。そこから、ルーマンのいう「予期の予期」が必要になるのであり、場合によっては「予期の予期の予期」さらに「予期の予期の予期の予期・・・」が必要になる。このようなダブルコンティンジェンシーは、先にみた自然の複雑性・偶発性と同様に、我々に行動の決断をせまるダブルバインド状況を作り出すが、それだけにはとどまらない。重要なのは、ダブルコンティンジェンシーが、先にみたのとは別種のダブルバインド状況を作り出すということで
ある。それは、行動の決断を迫るダブルバインドではなく、意思表明の決断を迫るダブルバインドである。
しかし、これを説明するためには、<行為>とそれの<予期>という概念だけでなく、行為の<意図>とその<認知>という概念を導入しなければならない。我々が、他者の行為を予期するとき、(その他者が人間であるならば)その行為をある意図をもったものとして予期するのである。行為の予期の予期とは、より詳しく言えば、<自分のある行為をある意図をもったものとして相手が予期するだろうという予期>のことである。行為の予期は、当たるか外れるかするが、その際に、その行為はある意図をもったものとして、あるいは別の意図をもったものとして<認知>されることになる。つまり、<自分がこれから行うある行為をある意図をもったものとして相手が予期するだろうという予期>は、同時に<自分がこれから行う、あるいはすでに行った行為をある意図をもったものとして相手が認知するだろうという予期>を生じさせる。<行為の予期の予期>が行われている場合には、同時に、<行為の意図の認知の予期>が行われているのである。相互にこのような予期を行い、かつそのこと自体を互いに予期している状況、これは、ベイトソンのいうコミュニケーションについての相互覚知が成
立している状況である。(14)このような状況では、どのような行為を決断しても(あるいは決断をのばしても)、それが一定の意図をもったものとして受け取られ、しかもそのことを互いに予期していることを互いに予期しているのである。このような状況では、各自は、つねに一定の意思表明への決断を迫るダブルバインド状況におかれることになる。なぜならば、まず、彼がいくつかの意図表明のどれを選択しても、コミュニケーションがうまく行われず意図に反して認知される可能性があり、また意図通りに認知されてもそれが適切な選択ではない可能性があること、次に、意図表明を避けようとしても、それ自体が一定の意図の表明になってしまうが、それが適切な選択ではない可能性があること、そして、このようなダブルバインドから逃れることができないということ。我々はつねに、このようなダブルバインド状況にいるのである。
第2節 談話論的矛盾の力 メッセージへの構えの成立
「○○さん」とか「ちょっと、すいません」などと話しかけられたときには、ほとんどの人は、たいていの場合、すぐにそちらを向いて、誰が何の用事で呼びかけてきたのかを確認しようとするだろう。当然のことである。しかし、それはなぜだろうか。我々はなぜ、話しかけられたときに返答しようとするのだろうか、しかもたいていの場合、直ちに返答しようとするのはなぜか。電話のベルがなったときに、我々が多少ともあわてるのは、呼びかけられたときに、普通はたいてい直ちに返答しているという習慣があるためだろう。
ここでは、人間は他者とのコミュニケーションを求める社交性を本性とする、というような説明方法ではなくて、我々のコミュニケーションが持たざるを得ない構造から、もっといえばある種のメタコミュニケーションのパラドクスから説明したいと思う。
どのような内容の発話になるのであれ、会話の開始の合図のメタコミュニケーションには、「聞こえますか」というような回路の接続の確認と、「話して下さい」という発話の依頼(要求)が含まれている。
「聞こえますか」と尋ねられて、聞こえていないときには、「いいえ、聞こえません」と返事をすることはできない。また、それが聞こえたときには、ふつうは「はい」と返事するだろう。それが聞こえて「いいえ、聞こえません」と返事することは、返事の内容と返事をするということとが矛盾している。したがって、この質問に対しては、ふつうは否定の返事はありえない。ところで、「聞こえますか」と尋ねられて返事をしない場合に、相手は、自分が本当に聞こえないのだと理解するかもしれないし、聞こえているけれども無視しているのだと理解するかもしれない。もし後者ならば、黙っていることは、相手に対する敵対的な態度と解釈され、相手の敵対的な態度を呼び起こすであろう。それを避けるためには、呼びかけが聞こえたときにはなるべくはやく返答しなければならない。そして、そのためには、いつも呼びかけに対しては直ちに応じる用意をしておかねばならないのである。もし上にみた談話論的矛盾が生じないとすれば、我々は「聞こえますか」と問われて、聞こえない場合に、「いいえ聞こえません」と答えることができる(もちろんこんなことはありえない)。それならば、聞こえ
ないことと、聞こえているけれども無視していることを混同されるおそれはなくるから、我々は、常にメッセージを聞き取ろうと構えることはなくなるだろう(もちろんこれはたいへん奇妙な想定である)。したがって、我々がつねにメッセージを聞き取ろうと構えているのは、談話論的矛盾のせいなのである。(もちろん、談話論的な矛盾を犯して「いいえ聞こえません」という返事をすることは可能である。しかし、その際には、「いいえ聞こえません」という返答は、「あなたとは、話したくありません」という発話と同じ意味の、敵対的な態度の表明になるだろう。)
また、「何か言って下さい」と依頼(要求)されて、「いいえ、何も言いません」と返事することは、既に一定の返事をすることであって、矛盾している。つまり、この返事は冗談として受け取られるか、あるいは真面目な拒否の返事として受け取られる場合があったとしても、無言でいることよりは、弱い拒否の意図を表明することになるだろう。この依頼に対してしては、無言であることが、最も強い真正の拒否の返答であり、それは一定の意図の表明として互いに認知されるだろう。したがって、それを避けようとするならば、我々は相手の申し出に対して直ちに返答する必要があり、そのためには常に話しかけを聞き取る用意をしていなければならないのである。もし、上に述べた「いいえ、何も言いません」が語用論的パラドクスでないとすれば(もちろん、これは奇妙な想定であるが)、それが真正の最も敵対的な返答になり、無言でいることによる拒否の返答はいわば間接的なより弱い拒否の表明になるだろう。
したがって、我々が、全ての人に対していかなる用件にたいしても拒否しようと予め態度を決定しているのではない限り、我々は話しかけられたときには、誰が何を言おうとしているのかを確認しようとする。しかも直ちにそれをおこなわなければならない。なぜなら、返答しないでいること自体が一定の意図の表明として認知されてしまうおそれがあるからである。そして、相手とのコミュニケーションを拒否しようとするのではない限り、直ちに返答する必要がある。そして、そこから重要な帰結が生じる。それは、我々が、メッセージを聞き取ろうとつねに構えているようになるということである。
あるいは、以上の議論に対しては、次のような反論があるかもしれない。黙っていることが、敵意の表明になる社会が多いであろうことは認めるが、しかしそのことは論理的に必然的なことではない。もしかすると、相手に話しかけられて、それが聞こえていても黙っていることが、相手に対する敵意の表明にはならない社会があるかもしれないではないか。この反論に対してはつぎのように答えよう。たしかに、論理的には、そのような社会はありうる。しかし、それは極めてありそうもないことである。なぜなら、そのような社会では、「私と話してください」という依頼が行われたにも関わらず、それが拒否された場合の関係が、最初からそのような依頼のなかった場合の関係と、まったく同じままであるということになるからである。そのような社会は、人間の社会にはおそらく存在しないだろう。(15)
まとめておこう。我々は、つねに一定の意図の表明への決断を迫るダブルバインドと、「聞こえますか」や「何か話して下さい」というような会話の開始の合図をおこなうメタコミュニケーションが引き起こすパラドクスのために、つねにメッセージを聞こうと構えるようになるのである。つぎには、このようなメッセージへの構えが、コミュニケーションの成立にとって重要な働きをしていることを検討したい。
第3節、メタメッセージのアポリアの解決
ホフスタッターはメッセージについて次のような3つの層を指摘している。(16)
(1)フレームメッセージ
フレームメッセージを理解するとは、解読メカニズムの必要を認識すると いうことである。これは「私はメッセージです。もし可能なら、私を解 読して下さい。」というメッセージ。
(2)外部メッセージ(記号論でいう「コード」とほぼ同じもの)
外部メッセージを理解するとは、内部メッセージに対する正しい解読メ カニズムを作ること、或は作り方を知ることである。
(3)内部メッセージ
内部メッセージを理解することは、送り手の意図した意味を抽出するこ とである。
そこでホフスタッターは、外部メッセージについて次のように述べている。「この外部レベルは、それが理解されることを送り手が保証できないという意味で、いやおうなく陰伏的メッセージにならざるをえない。外部メッセージの解読の仕方を与える指令を送ろうとしても無駄である。なぜなら、その様な指令は必然的に内部メッセージの一部になり、解読メカニズムが見いだされなければ理解しようがないからである。」(17)ホフスタッターによれば、このような「外部メッセージ」の理論は、つぎのようなアポリアに陥る。つまり、あるメッセージを理解するには、外部メッセージを理解しなければならず、更にそれを理解するにはメタ外部メッセージを理解しなければならず、これの無限の反復のためにどんなメッセージも理解できなくなってしまうのである。
じつはフレームメッセージについても同様のアポリアが生じる。フレームメッセージに関してホフスタッターは、次のように述べている。「これはどの情報担い手の場合でも、その総体的な構造的外見によって陰伏的に伝えられる。」(18)この場合にも、メッセージであることを陰伏的に伝える構造的外見というフレームメッセージ自体が、やはり一つのメッセージであり、それがメッセージであることを伝えるメタフレームメッセージが必要であろう。そして、これは無限に反復する。一般的にいえば、こうなるだろう。「どんなメッセージを理解するにもそのメッセージをどう理解するかを教えるメッセージがなければならないという考え、いいかえるとメッセージのレベルには無限の階層があり、そのためにどんなメッセージも理解できなくなってしまう。」(19)
ホフスタッター自身は、このアポリアの解決方法を次のように考える。「物理的実体であるために、我々の脳は働き方を教わることなく働く。・・・メッセージのパラドクスは、脳が入ってくるデータをメッセージと解釈するレベルで破綻する。脳は、ある種の事物をメッセージと認識するための、そしてそれらのメッセージを解読するための『ハードウェア』を備えて生じてくるらしい。」(20)これは、我々の思考を自然法則から説明しようとするものであり、論理学に関する心理主義について指摘されているのと同様の問題点を持つことになるだろう。(21)
このパラドクスについては、少なくとも、つぎの解決方法の方がより説得力をもつのではないだろうか。まず、フレームメッセージのパラドクスについて言えば、我々は、先に述べたように、メタコミュニケーションのパラドクスのために、なにかメッセージが送られてくるのではないかと、つねに構えているので、ある音や図柄が与えられたときには、それをメッセージとして理解してみようとするのである。したがって、ホフスタッターのいうフレームメッセージは、メッセージの理解のために不可欠のものではない。我々が、つねにメッセージを待ちかまえていることは、しばしば、物音を人の声と勘違いしたり、誰も声をあげていないのに、ふと自分が呼ばれたような気がする、というような現象からも明らかである。このような現象は、メッセージを送るときにフレームメッセージを添える必要がないことの証拠になるだろう。
外部メッセージについても同様であり、外部メッセージについてのメタ外部メッセージが与えられていなくても、我々は、自分に可能な、しかもその状況で可能性の高いコードを当てはめて解釈を試みる。したがって、ここでも、メタ外部メッセージは、メッセージを理解するために不可欠のものではないといえる。
このようにメッセージを理解するためにはメタメッセージの理解が必要であるということから生じる無限反復のアポリアは、我々が常にメッセージを聞いたり読んだりしようと構えているということによって解決する。このことは、次に述べるメタメッセージについても妥当するだろう。
第4節 発話の真面目性/冗談性についてのメタメッセージ
真面目な発話と冗談の発話の違いは、何の違いなのだろうか。ひとがある発話を真面目なものとして理解するとは、その発話によって主張や約束や依頼などを行おうとしている意図が、真面目なものであると理解することである。逆に、冗談の発話において、冗談だとされるのは、主張や約束や依頼などの発語内行為、あるいは発語内行為を行おうとしている意図である。真面目な発話を「真面目型」発話とよび、冗談の発話を「冗談型」発話と呼ぶことにすれば、真面目型/冗談型の区別は、主張型や行為拘束型などの発語内行為の区別よりも基礎的である。
ところで、発語内行為が成立するには、話し手の意図が聞き手に伝えられなければならないと指摘されているが、他方、冗談に関しても、冗談が成立するときには、同時に、冗談をいうという意図が伝えられなければならないだろう。これは真面目な発話についても同様だろう。そこで、いま仮にメッセージが真面目なものか冗談であるかを伝えるメタメッセージがあるとする。この場合、メタメッセージ「このメッセージは真面目なものである」が真面目なものならば問題ないが、そのメタメッセージ自体が冗談ならば、元のメッセージは真面目なものではないことになるだろう。したがって、真面目な発話が成立するためには、メタメッセージは真面目でなければならない。また、メタメッセージ「このメッセージは冗談である」についても、これが真面目なものならば問題ないが、もしそのメタメッセージ自体が冗談ならば、元のメッセージは冗談ではない(真面目なものである)ことになるかもしれない。この場合、相手はその冗談を安心して冗談とは受け取れなくなり、冗談の発話もうまく成立しない、と思われる。例えば、会話の最中にうっかり相手を傷つけることを言ってしまったあとで、「冗
談ですよ」と言っても、そのメタメッセージは余り信用されないだろう。また、もう少し親しい関係でならば、「冗談、冗談」というメタメッセージが行われるかも知れないが、その場合には、このメタメッセージ自体が冗談であって(そのメタメタメッセージは、発話の口調や身振りで伝えられる)、元のメッセージは半ば真面目なもの、あるいは全く真面目なものと理解されるだろう。つまり、我々は、冗談を言うときにも「これは冗談ですよ」というメタメッセージを真面目に言わなければならないのである。
とにかく、発話の真面目性/冗談性に関するメタメッセージ(場合によっては、メタメタメッセージ)が、真面目なものでなければ、コミュニケーションは混乱しうまくいかないだろう。ところで、もし、このメタメッセージが真面目なものであることを知らせるために、さらにメタメタメッセージが必要だとすると、無限反復のアポリアが生じることになる。
このアポリアも、おそらくは先のアポリアと同様にして解決されるだろう。聞き手は、真面目性/冗談性に関するメタメッセージが与えられていない場合に、おそらくはそのコンテクストの中で可能性の大きい方の発話として、例えば真面目な発話として理解して見るのである。それで何か不都合を感じれば、それを冗談の発話として理解してみることだろう。しかし、実はその「不都合」こそは、その発話が冗談であるということのメタメッセージなのである。真面目性/冗談性のメタメッセージは、コンテクススト、口調、身振りなど様々な手段を用いて伝えられる。だから、真面目性/冗談性に関するメタメッセージが与えられていない場合というのは、実はそれを真面目な発話と理解することも、冗談と理解することも、どちらも可能である。例えば、いわゆる皮肉屋と話しているときには、しばしば相手の発言を皮肉ととるべきなのか、それとも言葉通りにとるべきなのかが、解らなくなるときがある。皮肉屋には、相手の戸惑いを楽しみながら話している場合もある。そのような場合には、我々は、それを仮に真面目な発話(あるいは、冗談の発話)として理解しておく、あるいはこちらも曖昧な返
答で応じることができるだろう。このように真面目性/冗談性に関してもメタメッセージの無限反復は不必要である。
小結
このように、我々がつねにメッセージを待って構えているということから、コミュニケーションに対する別の見方がでてくるように思われる。コミュニケーション論では、「コミュニケーションはいかにして可能か」という観点で問が立てられ、その考察を通して様々の論理的なアポリアが示される、という議論がしばしば見られる。しかし、日常生活で我々がコミュニケーションに悩むのは、むしろ意図していないにも関わらず、必要以上に様々の意味が伝わってしまうということなのではないだろうか。たとえば、夕飯に魚の切り身を焼いた嫁が、魚のどの部分を姑の席に置くかで悩むのは、それが必要以上の意味をもってしまうからである。コミュニケーションするときの我々の多くの努力は、いかにして誤解を避けるか、いかにしてある種の意味の伝達を避けるか、ということに注がれているようにおもわれる。それゆえにこそ、コミュニケーションについてのメタコミュニケーションが日常的に頻繁に行われているのである。メタコミュニケーションのパラドクスが、コミュニケーションの存立にどのように機能しているか、を明らかにすることが小論の課題であるが、今回は本来の課題に入っただ
けで紙数が尽きたので、次回に発話の誠実性、反射的意図、発語内行為、権力(これはコミュニケーションのあり方と不可分である)などのテーマを取りあげて、メタコミュニケーションのパラドクスと関係づけて検討したい。
注
(1)言語心理学者のガーヴェイはコミュニケーションの内容を確認・修正するメタコミュニケーションを「修復」と名づけているが、彼によると、生後25ヶ月、28ヶ月、30ヶ月の3人の子供が、友達と母親との会話で行う全質問の40%から65%が修復要求であるという。ガーヴェイ著『子どもの会話』柏木恵子、日笠摩子訳、サイエンス社、58頁、参照。この本は、メタコミュニケーションを考える上でもたいへん刺激的である。
(2)G.Bateson & J. Ruesch, Communication, New York, 1951, p.209.
ベイトソン、ロイシュ著『コミュニケーション』佐藤悦子、R・ホズバーグ訳、思索社、225頁。
(3)Ibid.,p.208. 同書、224頁。
(4)Ibid. 同所。
(5)Ibid.,p209. 同書、225頁。
(6)Ibid.,p214. 同書、231頁。
(7)Ibid.,p213. 同書、230頁。
(8)これについては、論文「言語学の問題としてのメタ言語」(ヤコブソン著『言語とメタ言語』池上嘉彦、山中桂一訳、草書房、所収)と、「言語学と詩学」(ヤコブソン著『一般言語学』川本茂雄監修、みすず書房、所収)を参照。
(9)参照、スタッブズ著『談話分析』南出康世、内田聖二訳、研究社、58頁。
(10)Cf. John R.Searle, Speach Acts, Cambridge U.P., Chap.2, 1969. サール著『言語行為』坂本百大、土屋俊訳、草書房、第二章。
(11)ダブルバインドについては、ベイトソン著『精神の生態学』上、下巻、佐伯泰樹、佐藤良明、高橋和久訳、思索社、ワツラウィック著『変化の言語』築島謙三訳、法政大学出版局、一九八九年、を参照
(12)この定義は、エバーソウルの定義「語用論的パラドクスは、それを提示する発話によってか、あるいはその発話において表現されている命題的態度によって反証される命題を提示する文である」を改定したものである。Cf.
Frank B.Ebersole,The Definition of 'Pragmatic Paradox', in Mind, vol.62,
1953.このエバーソウルの定義は、語用論的パラドクスの定義をめぐる論争の一応の結論といえるものである。この論争については以下を参照。D.J.O'Connor,
Pragma- tic Paradoxes, in Mind, vol.57, 1948; Jonathan Cohen, Mr. O'Connor's
"Pragmatic Paradoxes", in Mind, vol.59, 1950; D.J. O'Connor,Pragmatic
Paradox and Fugitive Propositions, in Mind, vol.60, 1951.
(13)ダブルコンティンジェンシーについては、パーソンズーシルズ編著『行為の綜合理論をめざして』(永井道雄、作田啓一、橋本真訳、日本評論社)の「行動心理学の諸原則」の章、およびルーマン『法社会学』(村上淳一、六本佳平訳、岩波書店)の第2章を参照。
(14)ベイトソンの「相互覚知」、パーソンズの「ダブルコンティンジェンシー」それを精密にしたルーマンの「予期の予期」、グライスのいわゆる「反射的意図」の意味論、そこから生まれる意図の反射の無限反復を避けるためにシファーの提案する「相互知識」、これらは互いに無関係に異なる分野で登場した概念であるが、ほぼ同じ事柄を、少しずつ見方が異なるが、同じ様な論理で明らかにしようとしたものとして、興味深い関係にある。Cf.
Paul Grice, Meaning(1948), in Studies in The Way of Words, Harvard U.P.,
1989; Stephen R.Schiffer, Meaning, Oxford, 1972.
(15)ただし、特殊な状況では、聞こえていても返事をしないことが、何らかの返事をすることよりも、より敵対的であるということにはならない場合がある。たとえば、会話の特殊な状況では、ダブルバインドをかけられて、何を言っても関係をますます悪化させるので、それを避けるためには、話しかけられても黙っていることが適切であるという場合もありうるだろう。しかし、その場合でも、聞こえないフリをしている時と、黙っていることが適切だと考えて黙っているときとでは、おそらく態度が違うだろう。
(16)参照、ホフスタッター著『ゲーデル、エッシャー、バッハ』野崎昭弘、はやし・はじめ、柳瀬尚紀訳、白揚社、178頁。
(17)同書、179頁。
(18)同所。
(19)同書、183頁。
(20)同所。
(21)ホフスタッターは、論理学の規約主義のアポリアについても、おなじ解決方法を採用している。論理学の心理学主義に対する古典的な批判としては、フッサール『論理学研究』(立松弘孝訳、みすず書房)第一巻を、認知科学における批判は、ジョンソン=レアード『メンタルモデル』(海保博之監修、AIUEO訳、産業図書)の第二章を参照。
(未完)