メタコミュニケーションのパラドクス Ⅱ   (『大阪樟蔭女子大学論集』第31号、1994年3月発行)
                                          入江幸男



      第4章 相互知識とメタコミュニケーション
 前号の終わりに、メタコミュニケーションのパラドクスに注目しつつ、発話の誠実性、コミュニケーションにおける権力関係、などを論じると予告したが、その準備の過程で、<相互知識>という問題に出くわした。
 誠実な話し合いが成立するためには、互いに誠実に話すだけでなく、互いに相手が誠実に話していることの知が必要であり、さらにその知についての知が必要である。たとえば、自分の発話の誠実性を相手が知っていることを知っていることが必要である。なぜならば、もし、そのような知がなければ、相手が自分の発話を誠実なものとして理解しているかどうか解らないことになるからである。また、相手の発話の誠実性を自分が知っていることを相手が知っていることを知っていることも必要である。なぜならば、もしそのような知がなければ、相手の発話を誠実なものとして理解してそれに応じようとしていることを相手が知って話しているのかどうかが解らないことになるからである。このような議論は、更に続けることも出来るだろう。誠実な話し合いが成立するためには、誠実性についての<相互知識>が必要である。
 このことは、発話における人間関係についても言える。医者と患者、男と女、など互いの関係を二人が理解するのみならず、相手もまた理解していることを互いに理解していなければならない。さらに、そのことについても、互いに理解していなければならない。さらに、・・・。このことは、様々な権力関係についてもいえる。たとえば、イスラエルとPLOの相互承認が成立するためには、両方が相手の存在を承認することだけでは不十分であり、そのことを両者が知っていなければならない。つまり、「両者が、相互に互いを承認するものとして、互いを承認する」(ヘーゲル)のでなければならない。
 逆にいえば、社会的排除というのは、コードを知らない者に対して行われるだけではなく、コードを知ってはいるが、コードについての<相互知識>があることを知らない者(みんながコードを知っており、かつ、みんなが、みんながコードを知っていること、を知っている、ということを知らない者)に対しても行われる。このことは、中根千枝にならって、資格(コード)の共有が集団の構成原理になっているヨコ社会と、場の共有が集団の構成原理になっているタテ社会の区別をするとき、タテ社会に顕著な排除の構造となる。この排除に特有の厳しさは、何が<相互知識>であるかを知っているのは、内部の者だけであり、それを尋ねる者は、尋ねることによって、外部のものであることを自ら示すことになる、という点にある。
 さらに、重要な例をあげておくと、お金が通用するためには、人々がお金が通用すると思っているだけではなく、人々が、人々がお金が通用すると思っている、と思っていなければならない。これは、さらに反復する必要があるかもしれない。ようするに、お金が通用するには、そのことについての<相互知識>が成立していなければならないのである。また、約束が拘束力を持つためには、人々が約束が拘束力を持つと考えるだけでなく、人々が、人々が約束が拘束力をもつと考える、と考えることが必要であり、さらにこれを反復する必要があるかもしれない。要するに、約束が拘束力を持つためには、それについての<相互知識>がなければならないのである。
 これらの例から解るように、<相互知識>はコミュニケーションのほとんど全ての局面でたいへん重要な働きをしている。これらの様々な論点を明らかにするためにも、今回は、基礎的なレベルで、<相互知識>とメタコミュニケーションの関係を押さえておきたい。コミュニケーションにおける「相互知識」の重要性は、グライスの意味論の批判的展開のなかで、シファーによって指摘されている。まず、グライスの意味論、ストローソンによる批判、シファーの「相互知識」論を検討し、その後、「相互知識」と前号で論じたメタコミュニケーションの諸問題との関連を論じたい。

   第一節 グライスの意味論の検討

 グライスは、有名な論文「意味」(1948)において、まず、最初に「自然的意味」と「非自然的意味」を区別する。前者の例は、「それらの斑点は、風疹を意味している」「最近の予算案は、我々が厳しい年を迎えること、を意味している。」であり、後者の例は、「バスのベルが3度鳴るのは、バスが満員であることを意味している」である。前者は、因果性にもとづいた意味であるが、後者の意味は、因果性に基づいていない。この区別は大変重要な指摘であるが、この論文の主題は、後者の「非自然的意味」が成立するための必要十分条件を明らかにすることである。
 グライスによる最初の提案は、次の通りである(以下、第三の最終提案まで順次検討する)。
  「”xが何かを非自然的に意味した”が真であるのは、xが、xの発話者に   よって、ある”聞き手”にある信念を生じさせるように意図されていたと   きである」(1)
(この引用からも、グライスが、xの非自然的意味を、発話者の立場でとらえようとしていることが解るが、それは次に述べる第二、第三の提案で、さらに明確になる。後の論文「発話者の意味と意図」では、このような観点での意味を、「発話者の意味」と呼び、そのことを明示しているのだが、この論文では、その点が曖昧で、そのために議論が曖昧になっているところがあるように思われる。)
 この第一提案の欠点をしめすために、グライスは次の例を挙げている。私が、B氏が殺人者であるという信念を刑事に生じさせるために、B氏のハンカチを殺人現場の近くに残す場合に、我々は、私が、そのハンカチを残すことによって、B氏が殺人者であることを意味した、とは言わないだろう、とグライスは言う。(グライスはこれを自明と考えたのか、なにも説明していないが)我々は次のように説明できるだろう。刑事がそのハンカチを見て、B氏が殺人者だと考えたとすると、そのときそのハンカチは、刑事にとって、B氏が殺人者であることを「自然的に」意味しているといえるが、「非自然的に」意味しているのではない。さらに、この場合の私は、刑事にとって、そのハンカチが「B氏が殺人者である」ことを「自然的に」意味することを、意図している。それゆえに、私は、その行為によって、何かを「非自然的に」意味しているとは言えない。
 このようなケースを除外するために、グライスの考えた第二の提案は、次の通りである。
  「xが何かを非自然的に意味したというためには、xがある信念を生じさせ  るという意図をもって”発話”されるだけでなく、発話者が発話の背後の   意図を、”聞き手”が認知することを意図したのではければならない。」(2)
これを成立すると次の二条件になる。
  条件1「発話者が、聞き手にある信念を生じさせようと意図して発話する。」
  条件2「発話者が、発話者が聞き手にある信念を生じさせようと意図してい      ることを、聞き手が認知することを意図する。」
 上のハンカチの例で「非自然的意味」が成立しないのは、条件1は充たされているが、条件2が充たされていないからである。その例では、条件2と矛盾する条件2!が充たされている。
  条件2!「発話者が、発話者が聞き手にある信念を生じさせようと意図して       いることを、聞き手が認知しないように意図する。」
ところで、相手を欺こうとする上のような例を除外するには、条件2!が成立しないこと、つまり次の条件で十分なのではないか。
  条件2#「発話者が、発話者が聞き手にある信念を生じさせようと意図して       いることを、聞き手が認知しないことを意図していない」
 我々はグライスの条件2の指摘をすばらしい卓見だと思うが、しかしそれは、それだけグライスの条件2が我々にとって意外な指摘だったということである。つまり、ふつう我々は条件1のみを意識し、条件2をほとんど意識していないのではないかと思われる。条件2は本当に必要なのだろうか。
 条件1と条件2#を充たしている発話者が、聞き手に「あなたは私にある信念を生じさせようと意図しているのですか」と質問されるばあい、「はい、そうです」と答えるだろう。なぜなら、彼は条件1「発話者が、聞き手にある信念を生じさせようと意図する」を充たしているからである。そして、「はい」と答えることは、彼が聞き手にある信念を生じさせようと意図していることを認知させることになる。つまり条件2を実現することになる。
 もう一つの可能性がある。そして、実際には、これが最も多いかもしれない。それは、つぎの条件が充たされる場合である。
  条件2##「発話者が、発話者が聞き手にある信念を生じさせようと意図し        ていることを、聞き手が認知することも、しないことも意図し        ていない」
この場合にも、条件2#の場合と同じで、「あなたは私にある信念を生じさせようと意図しているのですか」と質問されたならば、「はい」と答えるだろう。そして、その返答によって、条件2を実現することになるだろう。
 しかし、条件1と条件2!を充たしている発話者、つまり相手を騙そうとしている発話者の場合には、同じ質問をされても、「いいえ」と答えて、シラを切ろうとするだろう。彼は、ある信念を聞き手に生じさせようと意図していることを聞き手が認知しないことを意図しているからである。
 まとめておこう。発話者は、もし、条件1を充たしており、また騙そうとしてないのならば、顕在的ないし潜在的に条件2を充たしている(潜在的に条件2を充たしているというのは、条件2#や条件2##である)。したがって、我々は、グライスのいう条件2が、少なくとも潜在的に充たされることが必要であると言えるだろう。グライスが条件2を必要と考えるのも、おそらくこのような意味においてであろうと思われる。
 条件2の必要性は、聞き手の側から考察するときには、もっと明きらかである。我々が、相手のある行為を発話として理解するのは、彼がその行為によって何らかの信念を生じさせようと意図していることを我々が認知する場合であろり、かつその場合に限る。相手の行為の意図をそのように認知しないにも関わらず、相手の行為を発話として理解することはありえないだろうからである。それゆえに、もし発話者が条件2を(はっきりと自覚して)充たしていなくても、聞き手が、ある行為を、発話として理解するとすれば、聞き手は、発話者がその発話によってある信念を生じさせようと意図していることを認知しているはずである。言い換えると、そのとき、聞き手は、発話者に関して条件2が成立していると考えているはずである。<聞き手Aにとって、Sが、行為xによって、何かを非自然的に意味する>ための条件は、グライスの2つの条件であることは明きらかである。
ただし、<話し手Sにとって、Sが、行為xによって、何かを非自然的に意味する>ための条件(グライスがこの論文で考察しようとしているのは、おそらくこの条件であると思われる)もまた、上に見たようにグライスの2つの条件(ただし条件2は潜在的充足でよい)であるといえる。
さて、グライスは、第二の提案にもまだ欠点があることを、次の例で示す。ヘロデは、洗礼者ヨハネの頭をお盆に載せてサロメにプレゼントした。この場合、ヘロデは、ヨハネが死んだことをサロメに信じさせようと意図しており、かつ、そのように意図していることをサロメに認知させようと、意図している。しかし、この場合、ヘロデが、洗礼者ヨハネの頭をお盆に載せてサロメにプレゼントすることによって、ヨハネが死んだことを意味していた、とはグライスは考えない。
 なぜだろうか。サロメは、ヨハネが死んだことをサロメに信じさせようとヘロデが意図しているのを認知するだろう。しかし、サロメが、ヨハネが死んだことを信じるのは、目の前のお盆の上の首がヨハネの死を「自然的に」意味しているからである。グライスは、この例は、「何かを思わせること」ではあっても「何かを告げること」ではない、という。そして、「非自然的意味」とは「何かを告げること」なのだという。(3)
 この区別を示すために、グライスは、次の二つのケースを比較せよと言う。(1)私は、X氏に、X夫人との不謹慎な親しさを示しているY氏の写真を見せ   る。
(2)私は、そのような振舞のY氏の絵を描いて、それをX氏に見せる。
 (1)の場合には、私が彼に彼の妻とY氏の関係を信じさせようとしているという私の意図をX氏が認知しなくても、X氏は妻とY氏の関係を信じることがある。たとえば、私がその写真を彼の部屋に忘れて置くばあいである。つまり、私は、X氏に彼の妻とY氏の関係を信じさせようと意図1していることを、X氏に認知させようと意図2しなくても、意図1を実現することができる。つまり、ここでは、二つの意図が独立している。意図2から独立に意図1が成立するのは、その写真が、X氏の妻とY氏の関係を「自然的に」意味しているからである。もちろん、この場合には、最初のハンカチの例のように、聞き手が意図1を認知することが、意図1の実現を無効にすることにはならない。
 (2)の場合には、私が彼に彼の妻とY氏の関係を信じさせようとしているという私の意図1をX氏が認知しなくても、X氏は妻とY氏の関係を信じることがあるだろうか。たとえば、私がその絵を彼の部屋に忘れて置くばあいに、(問題が微妙になるので、それが私の描いたものであることをX氏が理解しないとすると)X氏は、その絵をみて妻とY氏の関係を信じることがあるだろうか。確かに、あるかもしれないが、その場合には、その絵が写真のように、自然的意味をもつことによってではなく、誰かが、その絵で、誰かに(あるいはX氏に)、妻とY氏の関係を伝えようと意図1したのだと考えるからである。この場合にも、私ではないが、誰かの意図1をX氏が認知するときにのみ、絵はX氏に妻とY氏の関係を信じさせることができるのである。私がX氏の前で絵を描いて見せる場合にも、私の絵がX氏に妻とY氏の親しい関係を信じさせることになるのは、私がX氏にそのことを信じさせようと意図1していることを彼が認知することによってである。つまり、二つの意図(意図1と意図2)は独立しておらず、意図1の実現は意図2の実現に依存している。
 そこで、グライスが最終的に提案するのは、次の規定である。
  「”A氏が、xによって何かを非自然的に意味した”ということは、”A氏  が、ある信念を生じさせるという意図の認知を介して、その信念を生じさせ  るという意図をもって、xを発話した”ということとおおよそ等値である。」  (4)
さらに、発話には、ある信念を生じさせるものだけでなく、聞き手にある行為をさせるものもあるので、グライスとストローソンにならって、より一般的に、「聞き手にある反応rを生じさせる」と言い替えて、整理すると次のようになる。 <S(speaker)が、行為xによって、何かを非自然的に意味する>ための条件は、次の3つである。
  条件1、Sが、行為xによって、A(addressee)にある反応rを生じさせよう と意図1している。
  条件2、Sは、AがSの意図1を認知することを意図2する。
  条件3、Sは、Aによる意図1の認知にもとづいて、Aにある反応rが生じる      ことを意図3する。

  第二節 ストローソンによるグライス批判

 ストローソンは、グライスの3つの条件を充たしているが、それだけでは、Sが何かを非自然的に意味しているとは言えないような反例を示す。(5)
 住宅販売人Sは、顧客Aが買おうと思っている家がネズミに荒らされていることをAに信じさせようとしている。Sは、Aを家のなかにつれて行き、自分がわざと放った大きなネズミを見せることによって、Aにこの信念を生じさせようと、決めた。しかも、Sは、Sがネズミを放つのをAが見ていることを知っており、かつ、Aに見られていることにSが気づいていないとAが思っていること、を知っている。
ここでSが意図しているのは、Aが次のように考えることである。「こっそりネズミを放す行為によって、Sは、<私(A)が家に到着し、ネズミを見て、ネズミを本当に住んでいるものとみなし、そこから、その家はネズミに荒らされていると推論すること>を意図しているのだろう。しかし、Sには、その家がネズミに荒らされていると私が信じるように企む理由がない(むしろ、それは彼の利益に反することだ)。きっと、その家は本当にネズミに荒らされており、Sはそのことを私に信じさせようと意図しているのだ。その家は、ネズミに荒らされているのだ。」
 ここで上のグライスの3条件は、次のように充たされている。
1、Sが、ネズミを放つ行為によって、「その家がネズミに荒らされている」こ  とをAに信じさせようと意図1している。
2、Sは、(ネズミを放つ行為をAが見ることによって)AがSの意図1を認知す  ることを意図2する。
3、Sは、Aによる意図1の認知が、Aの信念pの理由ないし理由の一部として、  機能することを、意図3する。
 しかし、ストローソンによれば、これはグライスが説明しようとしてるコミュニケーションのケースではない。SはAに何かを気づかせようとしているが、知らせようとしているとは言えない、とストローソンはいう。(特にこれについての説明はないが)次のように考えれば明きらかだろう。
 もし、Aは、Sがネズミを放つ行為から、「この家はネズミに荒らされている」ということを理解するのであるから、Aにとっては、その行為は、「この家はネズミに荒らされている」を「非自然的に」意味しているのである。しかし、Aは、<Aがネズミを見てそこから「この家はネズミに荒らされている」という「自然的意味」を引き出すこと>をSが意図している、と理解しているのであるから、AはSから「非自然的意味」をもつメッセージを受け取ったとは考えていない。したがって、SがAに何かを知らせようとしているとは言えない。
 そこで、このような事例を排除するために、ストローソンは、グライスの3つの条件に次の条件を加えることを提案する。
  条件4、Sは、Aに反応rが生じるようにSが意図1していることをAが認知      することをSが意図2していることをAが認知することを意図4する。

   第三節 シファーの相互知識

 じつはストローソンは、この条件4をつけ加えてもまだ不十分で、さらにメタレベルの意図の認知の意図を条件としてつけ加えなければならないような場合があるかも知れないと述べている。シファーは、それを受けて、条件5「Sが、Aが意図3を認知すること、を意図5する」を加えなければならないような事例を示して見せる。(6)
 原理的にはどんなに意図の認知の意図の認知の意図の・・という繰り返しの条件をつけ加えても、不十分なケースが有り得るので、シファーは、このような意図の系列の反復とは別の仕方で、このようなケースを排除しようとする。そこに登場するのが、「相互知識」(mutual knowledge)である。
 シファーは、まず「相互知識*」を次のように定義する。(7)
  「K*SAp」=df.「SとAが、pを相互に知っている*」
とすると、次のように言うことが出来る。
   K*SAp iff
   KSp [Sがpを知っている]
   KAp
   KSKAp
   KAKSp
   KSKAKSp
   KAKSKAp
   KSKAKSKAp
   KAKSKAKSp


 シファーは、これを用いてグライスの分析を次のように修正する。グライスの3条件をもう一度あげて説明しよう。
条件1、Sが、行為xによって、Aにある反応rを生じさせようと意図1して いる。
条件2、Sは、AがSの意図1を認知することを意図2する。
  条件3、Sは、Aによる意図1の認知にもとづいて、Aにある反応rが生じる      ことを意図3する。
 もしここで意図1が相互知識になれば、Aは意図1を認知するのだから、意図2が実現することになり、条件2は不要になる。さらに、ストローソンの挙げた条件4「Sは、Aにpを考えるにようにSが意図1していることをAが認知することをSが意図2していることをAが認知することを意図4する」の意図4も実現する。また意図4の認知の意図も実現する。以下同様。また、もしここで意図3が相互知識になれば、シファーの挙げた条件5での意図5も実現するし、意図5の認知の意図も実現する。以下同様。従って、グライスの条件1と3が相互知識になれば、意図の認知の意図の・・・という条件の無限系列は、不必要になる。そこで、シファーは、グライスの条件1と3と、それらが相互知識になることを意図するという条件を、提案するのである。従って、こうなる。
 <Sが、xの発話によって、何かを非自然的に意味する>のは、次の3条件充たされる場合である。
  (1)Sが、Aの中に反応rを生み出すことを意図する。
  (2)Sが、意図をAが認知することを介して、意図を実現することを意      図する。
  (3)Sが、(1)と(2)が相互知識になることを意図する。
 ただし、シファーは、相互知識が成立するための条件を、彼なりに非常に厳密に検討する結果、最終的な提案は、これよりもかなり複雑なものになる。

 第四節 ベイトソンのメタコミュニケーション論による「相互知識」の拡張

 シファーは、相互知識を導入することによって、グライスの条件2を消去したが、これに関して、我々は先に行ったグライスの条件2の考察をもう一度とりあげておこう。先には、条件2は潜在的に充たされていればよいと考えた。その理由は、条件2#ないし条件2##が充たされていれば、Aが「あなたは、わたしに・・・を伝えようと意図しているのですか」と質問し、それにSが「はい」と答えるという、Sの発話についてのメタコミュニケーションによって、条件1についての相互知識を確認して、その確認によって、条件2が顕在的に充たされることになると考えたからである。つまり、我々が先に、条件2#や条件2##でも条件2が潜在的に充たされていると考えたことと、シファーが条件1が相互知識になることを意図するという条件を導入することによって、条件2を消去したのとは、同じことである。
 条件1についてのメタコミュニケーションによって、条件2が成立する。しかし、多くの場合には、相手の発話についてこのように質問しない。それは、聞き手が、話し手の意図を認知しているからであり、言い換えると、聞き手が、メッセージを理解すると同時に、「これはあなたに・・・を伝えようと意図しています」ということを伝えるメタコミュニケーション機能を理解しているということである。前号で、全てのメッセージは、メタコミュニケーション機能をもつと述べたが、その理由をここでは、グライスによって明らかにすることができる。つまり、その理由は、メタコミュニケーション機能を同時にもつのでなければ、メッセージは「非自然的意味」をもちえない、ということである。ところで、全てのメッセージが、メタコミュニケーション機能を持つことになる理由は、ベイトソンに倣っていうならば「相互覚知」に基づくということであり、シファーならば「相互知識」に基づくというだろう。したがって、メッセージが「非自然的意味」をもつためには、「相互覚知」ないし「相互知識」が必要である。
 ベイトソンは、人間は、「相手がこちらを知覚していることをこちらが知っており、相手もこちらが相手を知覚している事実をわきまえている」というの事実の重要性に注目し、それを「相互知覚の相互覚知」と名付けた。シファーもまた、二人がテーブルに向かい合って座り、二人の間に蝋燭がある場合に、蝋燭があることについての相互知識があることを、「相互知識」の典型的な例として挙げている。この「相互覚知」と「相互知識」はほぼ同じものであると思われ、また、シファーの「相互知識」の方がよく知られているようなので、ベイトソンの議論に即するとき以外は、「相互知識」という語を用いることにする。
 さて、前号で述べたように、ベイトソンは、このような相互覚知がコミュニケーションにおいて生じるとき、つまり「コミュニケーションについての相互覚知」を「メタコミュニケーション」と呼んだ。そして、メタコミュニケーション機能を、二つに分けた。コード化に関するメタコミュニケーションと、参加者の関係についてのメタコミュニケーションである。この二つの側面は、グライスの「非自然的意味」の理解とどう関係するだろうか。
 上述の条件2に関わる「私はあなたに・・・を伝えようと意図している」を伝えるメタコミュニケーション機能は、参加者の関係についてのメタコミュニケーションである。ベイトソンは、全てのコミュニケーションは同時に、コード化についてのメタコミュニケーション機能をもつと考える。例えば「『猫がいる』というとき、"猫"という言葉は、私がみたものを表す、という命題を暗に確認している」という。つまり、xを発話して、pという信念を生じさせようとしているときには、「xはpを意味する」というコードについての確認をしている。つまり、xが「非自然的意味」を持つならば、そこには必ずコード化があるはずであり、その確認が行われいるといえるだろう。
 じつは、サールが、コードについての考慮がないとグライスの論文「意味」を批判している。(8)この批判を受けて、グライスは、行為xと反応rを結合するコード(行為の特徴と反応のタイプの相関関係のモード)を明確にする規定するという修正を行っている。(9)(ただし、議論が煩雑になるので、グライスはその他の議論ではその修正案を用いていない。)
 我々は、コミュニケーションが成立するための相互知識の内容を、シファーよりも拡張して、コードについての相互知識も条件に入れるべきだろう。例えば、頭を撫でる行為によって、相手を誉めようとしていても、そのようなコードの相互知識があると相手が想定していなければ、それは「非自然的意味」をもちえないし、頭を撫でる行為が、相手を馬鹿にすることを意味するコードを相手が理解し、また相手が、私と相手にとってそのコードが相互知識になっていると考えているならば、それは反対の「非自然的意味」をもち、相手は怒り出すだろう。聞き手が、xの発話を理解するためには、聞き手が話し手がxをどのようにコード化しているのかを理解し、かつそれが相互知識になっていると想定するのでなければならない。逆に言えば、<話し手Sが、行為xによって、何かを非自然的に意味する>ためには、「話し手Sが、聞き手Aがxのコードを理解すること、かつ、Aがそのことが相互知識になっていると想定すること、を意図する」という条件(もう少し精密に定式化する必要があるが)も加える必要があるだろう(ただし、議論が煩雑になりすぎるために、以下の議論では、この点の考慮 を省略する)。
 では、コミュニケーションが成立するためは、そもそも何について相互知識が必要なのだろうか。ベイトソンによれば、大きく分けて、コード化と参加者の人間関係についての相互知識が必要である。その各々の詳細は、前号で試みたメタコミュニケーションの分類項目になるだろう。逆にいえば、コミュニケーションの成立のための相互知識として、その分類項目に抜けているものがあるとすれば、それはコミュニケーションにおいてメタコミュニケーションで確認することが必要になる可能性のある事柄であるから、メタコミュニケーションの新しい項目として付け加えねばならない。

 第五節 相互知識のアポリアあるいはメタコミュニケーションのパラドクス

 「相互知識」概念をめぐっては、すでにいくつかの批判と反論の応酬が行われている。(10)ここでは、相互知識に関するアポリアのなかで、とくにメタコミュニケーションと関連すること、つまり、相互知識が仮に成立しているとしても、それをメタコミュニケーションで確認できないというアポリアを指摘し、その解決策を模索したい。
 次に示すように、相互知識が成立していることをメタコミュニケーションで確認することはできない。たとえば、絡路が通じていることについての相互知識をメタコミュニケーションで確認しようとする場合、
  A「私の声が聞こえますか」
  B「はい、聞こえます。」
 これで、一方の声を相手が聞いていることについては、相互知識が確認された、と普通は考える。しかし、厳密にいえば、BがAの声が聞こえていることをAが理解したかどうかを確認する必要がある。
  A「私の声が聞こえますか」
  B「はい、聞こえます。この返事が聞こえますか」
  A「はい聞こえます」
これで、Aの声がBに聞こえていることだけでなく、互いに互いの声が聞こえていることについて、互いに解っており、そのことがまた互いに解っており、そのことがまた互いに・・・という相互知識が成立している、と普通は考える。しかし、その相互知識の成立が実際に確認されているわけではない。その確認の為には、つぎのような問答が必要である。
  A1「私のこの声A1が聞こえますか」
  B1「はい、聞こえます。私のこの返事B1が解りましたか(聞いてかつ理解       しましたか)。」
  A2「はい、解りました。私のこの返事A2が解りましたか。」
  B2「はい、解りました。私のこの返事B2が解りましたか。」
  A3「はい、解りました。私のこの返事A3が解りましたか。」
  B3「はい、解りました。私のこの返事B3が解りましたか。」
     ・
        ・
 なぜ、このように無限反復しなければならないのだろうか。これは、自己意識の無限反復のアポリアと似ている。我々は、自己を意識しようとすると、自己を意識している自己を意識している自己を意識している・・・という無限反復に追い立てられることになる。なぜなら、自己を意識することによって、意識する自己は既に意識される自己とは別のものになってしまい、それゆえに、自己を意識しようとする者は、その違いを克服すべく、自己の意識を無限に反復しなければならないからである。相互知識を確認しようとするメタコミュニケーションも、これと同じ理由で無限反復に陥る。相互知識を確認しようとする発言自体が、新たに確認すべき発言を生み出す、つまりコミュニケーション状況を変えてしまうのである。前号で述べたメタコミュニケーションのパラドクスの発生理由もまた、メタコミュニケーションの発話自体が、コミュニケーション状況を変化させてしまうということである。
 発言の理解、発言への同意、発言の誠実性など、メタコミュニケーションによる全ての確認は、同様の無限反復に陥る。しかし、我々は、メタコミュニケーションによる確認をこのように繰り返すことはしない。その理由としては、(1)無限に繰り返すことが不可能だと解っていること、(2)数回繰り返せばあとは機械的な繰り返しになり、より多く繰り返したからといって確認の確実性は大きくならないこと、が考えられるが、より重要な理由は次のことである。(3)先に述べたように、我々は普通はそのように繰り返して確認しようとはしないが、それにも関わらず、メタコミュニケーションで確認しようとすると、それは相互知識を単に確認しようとしているのではなく、それ以外の意味をもった発話として誤解される可能性が高い。例えば、単に絡路の確認をしてしているのではなく、相手の理解力を疑っている発言と誤解されたり、冗談を言って馬鹿にしているのだと誤解されたり、不信感の表明として誤解されたりするだろう。普通しないような厳密さで相互知識を確認しようとすると、それは、他の意味の発話として誤解されてしまうので、そのような確認はできない。それは、逆にコミュニケー ションを混乱させるだろう。厳密なコミュニケーションを求めすぎることは、コミュニケーションの確実性を妨げる。
 では、相互知識の確認が出来ないにも拘らず、コミュニケーションができるのは何故なのか。それはおそらく、相互知識の成立が、相互知識が成立するだろうという予測に依存するからである。つまり、相互知識が成立するだろうという予測によって、はじめてその予測の正しさが確証されるのである。
   第六節 相互知識の期待の自己成就

 マートンの「予言の自己成就」という概念が、ここで重要になってくる。「自己成就的予言とは、最初の誤った状況の規定が新しい行動を呼び起こし、その行動が当初の誤った考えを真実なものとすることである。」(11) マートンは、銀行が破産するという予言が、取付騒ぎをおこして、予言の自己成就になる、という例を挙げている。その他の例もそうなのだが、マートンが論じているのは、なぜか自己成就的予言が悪い結果を生み出す事例ばかりである。彼の上の定義で「誤った状況規定」を真実のものにしてしまうという言い方にも、それを否定的に捉える見方が現れている。しかし、自己成就的予言は、よい結果を生み出す場合もあるだろう。上の定義の二箇所の「誤った」という形容詞は取り去るべきではないか。たとえば、普通は銀行の取付騒ぎが起こらないとすれば、普通は銀行は破産しないという予言によって、取付騒ぎがおこらず、銀行が破産しないという予言の自己成就が成立しているといえるのではないか。一般に、ある予言の自己成就がないときには、別の予言の自己成就が成り立っているのだといえるだろう。
 マートンはこの予言の自己成就のメカニズムを次のように説明する。「この寓話がわれわれに教えるところは、世間の人々の状況規定(予言または予測)がその状況の構成部分となり、かくしてその後における状況の発展に影響を与えるということである。これは、人間界特有のことで、人間の手の加わらない自然界ではみられない。」(12)人々の行為は、状況についての一定の予期(予言)に基づいて決定されるので、その状況認識の予期が、行為を介して、将来の実際の状況に影響するのである。
 では、コミュニケーションの相互知識の場合には、どうなるだろうか。相互知識が成立するだろう、という状況認識が、一定の行動を生みだし、その行動が互いの相互知識の想定に対する証左を与える、というメカニズムが働くように思われる。逆に、相互知識は成立しないだろうという予測は、それに基づく行為が互いの相互知識の想定を覆す結果となり、相互知識の成立を妨げることになる。たとえば、相互知識が成立しないだろうと考えるときには、上のように、「私の声が聞こえますか」と問いかけることすらしないだろう。問いかけるのは、聞こえている可能性があり、また、問いかけを理解する可能性がある、と考えるからである。我々は、ふつうは、ネズミやゴキブリに問いかけたりしない。また、あるひとが相互知識の成立に懐疑的に行動すれば、おそらく相互知識は成立しないだろう。懐疑がもっとも強い場合には、上のようにメタコミュニケーションの無限反復を行わなければならない。それほど懐疑が強くないときにも、何度かメタコミュニケーションで確認しようとするだろうが、そのような執ようなメタコミュニケーションはたとえ相手が相互知識の成立を予期している人であった としても、逆に相手の疑心暗鬼を生み出すことになるだろうからである。
 マートンは、差別を例にたいへん興味深い論点を示している。「隙のない、手のこんだ偏見のために、人種的、民族的な外集団は進退両難に陥っている。外集団のメンバーは、大体何をしようとそれにはかかわりなしに、徹頭徹尾非難される。」(13)「それは民族的、人種的諸関係における『すればするで非難され』『しなければしないで非難される』過程であるといっても差し支えないだろう。」(14)差別の自己成就的予言は、ベイトソンのいうダブルバインド状況を作り出しているといえる。さらに言えば、人種的偏見を持っている人には、どのような反証例も偏見を反証することはできないということであり、これは、科学研究における理論の反証不可能性の議論と同形である。ある種の予言は、このように反証にたいして免疫をもつことによって、つねに確証されることになる。
 コミュニケーションにおける相互知識の予期もまた、同様のメカニズムでしばしば非常に安定したものになる。相互知識を予期し合っている人同士の会話では、その予期が裏切られることは非常にすくなく、それ故にまたそれが議論の食い違いの認知を遅らせることがある。ここではコミュニケーションができてしまうことが、逆にコミュニケーションの妨げになるのである。このメカニズムは、異なるパラダイム間の議論を可能にすると共に不可能にするという現象すら生み出す。しばしば人がペットやぬいぐるみとさえ会話できるのも、予期のこの機能による。
 ところで、相互知識が成立しているかもしれないという推定はなぜ生じるのだろうか。<意図の認知の予期>が意図表明へのダブルバインドをかけるということを前号で指摘したが、そのダブルバインドが、相互知識の予期を促すのだと考えられる。それを以下に見たい。

  第七節 相互知識の想定を促すダブルバインド

 相手の行為と自分の行為が相互に関係している場合、つまり相互行為においては、相手の行為の予期にもとづいて、私は自分の行為を決定するが、相手も同様に、私の行為の予期にもとづいて、自分の行為を決定するだろう。そこで、私は、私の行為についての相手の予期を予期して行為しなければならなくなる。ここに<行為の予期の予期>が成立し、さらには同様にして<行為の予期の予期の予期>が行われ、さらに<行為の予期の予期の予期の予期の・・・>という繰り返しが、必要になる状況も考えられる。
 以上は、前回述べたルーマンの予期理論である。ここで、行為を発話行為に限定すると、この予期理論は、グライスの意味論と見事に重なる。グライスによれば、<Sが、行為Xによって、何かを非自然的に意味する>ためには、次の3つの条件が充たされねばならなかった。
  条件1、Sが、行為xによって、Aにある反応rを生じさせようと意図1して      いる。
  条件2、Sは、AがSの意図1を認知することを意図2する。
  条件3、Sは、Aによる意図1の認知にもとづいて、Aにある反応rが生じる      ことを意図3する。
 我々は、ここでの「意図」を「予期」に置き換えることができる。もちろん、「意図」と「予期」には、意味の違いがある。何かを意図することは、ふつうはそれの実現を期待し、その為に努力している、ということである。何かを予期するとは、単にそれが実現するだろうと予想することであり、その実現を期待しているとは限らないし、また期待している場合にも、そのために努力しているとは限らない。「意図」よりも「予期」の方が意味が広い。したがって、グライスの条件の「意図」を「予期」にかえる事によって、条件は緩くなり、グライスの条件を充たさなかった事例も加えることができる。
 例えば、SがAの講演を聞いていて、欠伸をしたくなったとしよう。もしSがAに隠すようにしながら欠伸をすると、Aは、Sの欠伸は、Aの講義が退屈だということを「自然的に」意味していると考えるかもしれない。しかし、もしSがあまりにもはっきりとAに見えるように欠伸してしまったとしよう。
  (1)Sは、欠伸によって、Aに信念p「Sには講義が退屈だ」を生じさせ     ようと意図1してはいないが、生じることになることを予期1している。
さらに、
  (2)Sは、Aに信念pが生じることをSが予期1していることをAが予期      (認知的予期)することを予期2する。
Sがこの予期2をもちつつ欠伸をするとすれば、そのとき、Sにとってその行為は、Aに信念pが生じることを(単に予期1するのではなく)意図1しつつ、欠伸するのと同じことである。なぜなら、そのときには、Aが、Aに信念p「Sにとって講義は退屈だ」が生じるだろうという予期1をしつつSが欠伸したと認知することによって、Aに信念pが生じるだろうからである。
つまり、
  (3)Sは、Sの予期1のAの予期に基づいて、Aに「Sには講義が退屈だ」     という信念が生じることを予期3する。
 以上の3条件でも、<Sは、欠伸をすることによって、何かを非自然的に意味した>と言えるのではないだろうか。この例では、Sは最初からそのことを意図したわけでなく、行為の後で何かを非自然的に意味することになったのである。しかし、ある行為の前に予め、特に意図してはいないが、その行為が何かを非自然的に意味することになることを予期するという場合もあるだろう。いずれにしても、このような場合を「非自然的意味」に含めるとすれば、我々はグライスの3条件を次のように変更すべきだろう。(グライスに対するサールやストローソンやシファーの批判は、グライスの条件が緩すぎるという批判であったが、ここでの批判は、グライスの条件が強すぎるという批判である。)
 <Sが、行為Xによって、何かを非自然的に意味する>とは、次の3条件が充たされることである。
  (1)Sは、行為xによって、Aにある反応rが生じることを予期1している     (意図1しているとはかぎらない)。
  (2)Sは、AがSの意図1を予期(認知的予期)することを予期2する(意     図2しているとは限らない)。
  (3)Sは、Sの意図1のAの予期に基づいて、Aにある反応rが生じること     を予期3する(意図3しているとはかぎらない)。
 ここからの重要な帰結は、話し手が意図していなくても(上の意図1は実際には無くてもよいから)、何かを発話したことになってしまうということ、そして、そのメカニズムは、予期理論によって説明できるということである。
 ところで、グライスの条件が緩すぎたのでシファーは「相互知識」概念の導入によって、修正したのであるが、それにならって、上の条件を修正するとすれば、次のようになるだろう。
 <Sが、行為xによって、何かを非自然的に意味する>とは、次の3条件が充たされることである。
  (1)Sは、行為xによって、Aにある反応rが生じることを予期1している     (意図1しているとはかぎらない)。
  (2)Sは、Sの予期1のAの予期に基づいて、Aにある反応rが生じること     を予期2する(意図2しているとはかぎらない)。
  (3)Sが、(1)と(2)が相互知識になることを予期3すること。
 前号では、互いに行為の意図の予期(の予期の予期・・・)を予期し合っている関係においては、各人はつねに何らかの意図表明の決断を迫られることになると述べた。なぜなら、このような状況は、一定の意図表明への決断を迫るダブルバインド状況を構成するからである。前号でのダブルバインドの説明を整理すれば次のようになる。
  (1)いくつかの行為(意図表明)のどれを選択しても、コミュニケーショ     ンがうまく行われず意図に反して認知される可能性がある(また意図     通りに認知されてもそれが適切な選択ではない可能性もある)。
  (2)行為(意図表明)を避けようとしても、それ自体が一定の意図の表明     になってしまう(また、それが適切な選択ではない可能性がある)。
  (3)このようなダブルバインドから逃れることができない。
このようなダブルバインド状況では、望まなくても、何らかの意図を表明をしたことになるのだから、一定の意図表明を決断せざるをえなくなる。ここでは、今回の考察を踏まえて、(1)と(2)を、以下のようにもう少し詳しく分析する事が出来る。
 (1)私Sが、行為xによって、聞き手Aに反応rを生じさせようと意図1した    としても、AがSの意図1を認知することをSが意図2できるのは、この    Sの意図2をAが予期(認知的予期)することをSが予期できる(現実に    予期していなくても、そのように予期しているかを問われたときに、予    期していると答えられる)時にかぎる。(つまり、ストローソンやシフ    ァーの分析によって明らかになったように、少なくとも潜在的には、予    期(ないし意図)の予期(認知的予期)の予期(ないし意図)の・・・    という無限反復が可能でなければならない。)つまり、私Sが、行為x    によって、聞き手Aに反応rを生じさせようと意図1するためには、意図    1についての相互知識がなければならない。ところが、相互知識の確認は    不可能なので、したがって、Sは意図1の相互知識があること予期(想定)    することしかできない。そこで、Sは少なくとも、意図1の相互知識があ    ることをAが予期していることを予期できなければならない。しかし、    これはやはり私Sの予期に過ぎないので、確実なもの にはなりえない。    そこで、行為xは、意図1に反する反応をAに生じさせる危険性が残る。
誤解される危険性を完全になくすことはできない。(また、仮に意図1の    通りの反応rがAに生じ、相互知識の想定が反証されなかったとしても、
    その意図表明がその状況で不適切な選択になる危険性も常に残る。)
(2)Sは、何もしないでおこうとしても、何らかの行為xをせざるをえない。   そして、Sが、行為xによって、Aに何の反応も生じないように意図した   としても、Sが行為xによってにAに反応rが生じることを予期している   (あるいは意図1している)ことが相互知識になっているとAが予期するか   もしれない。Aによるそのような相互知識の予期を、Sが予期しつつ行為   xを行うとすれば、それは、Sが、Aに反応rが生じることを意図1しつつ   行為xを行い、かつ意図1をAが認知することを意図することと同じことで   ある。つまり、Sは、行為xによって、Aに何かを非自然的に意味するこ   とになる。
 重要なのは、聞き手Aが相互知識を予期していると私が予期することによって、私が一定の意図表明の決断を促すダブルバインド状況に陥るということである。前回は、聞き手が話し手の一定の意図表明を予期していることを話し手が予期すること、あるいは更に、そのことを聞き手が予期していることを話し手が予期すること、から意図表明を迫れられると述べたが、より正確には、この予期の反復は、(ストローソンやシファーが指摘したように)潜在的には無限に繰り返し可能でなければ何かを伝達することにならない。従って、単なる話し手の意図の予期の繰り返しだけでなく、話し手の意図の相互知識を聞き手が予期していることを話し手が予期するということによって、意図表明を迫るダブルバインドが可能になると考えるべきであろう。
 ところで、相手が一定の相互知識を予期していると私が予期するときには、その相互知識を私も相互知識として予期(期待)するか、あるいはそれを訂正するしかない。ただし、その訂正もまた(それが成功するためには)、相手が成立を予期していると私が予期する別の相互知識(別の知についての相互知識)を、私も相互知識として予期(期待)することによってしか行えない。つまり、相手が相互知識を予期していると予期するときには、我々もつねに何等かの相互知識を予期せざるを得ないのである。
 まとめておこう。我々は、相手が一定の相互知識を予期しているという予期によって、ダブルバインド状況に陥り、そのダブルバインドによって意思表明を迫られるが、その際同時に一定の相互知識を予期することを迫られるのである。

 結 び
 最後に「相互知識」に注目することが、従来のコミュニケーション論とどのように関係するかを確認しておきたい。ハーバマスはある論文でコミュニケーションについての「意図論的捉え方」と「間主観性論的捉え方」を対比させている。意図論的捉え方は、発話行為を、話し手が意図を聞き手に伝達することとして捉える立場であり、グライスが代表者である。これに対して、間主観性論的な捉え方とは、発話行為を、意図や観念の伝達ではなく、事象についての話し手と聞き手の合意の達成として捉える立場であり、ハーバマス自身のものである。ところで、ハーバマスは、シファーの相互知識論も意図論的捉え方に属するとして、次のように批判している。「目的活動的主体の相互行為は、観察・記号の戦略的投入・推論だけによって媒介されているものであって、たしかに命題的態度と命題内容との再帰的な交互帰属に達することはできるが、厳密な意味での間主観的な知識といったものには到達しえない。」(15)この批判は、我々が上に見たように、相互知識の成立を厳密には確認できないとすれば、当たっている。これに対して、
「間主観性論的な捉え方」は、「間主観的な知識」の成立の説明を諦め、それを前提する。「間主観性論者の前提とは、慣習的に生み出される表現の意味を確定する言語的規則体系である」(16)しかし、確かにシファーの理論では言語的規則体系の成立を説明できないだろう(そもそもそれはシファーの意図ではない)が、第四節で述べたように、コードが機能する為には、それが存在し、人々に知られているだけではなく、そのことが相互知識になっていなければならないとすれば、言語的規則体系を前提しても、その前提が機能していることを説明するためには、相互知識論が必要になるのではないか。我々はむしろ、「相互知識」論を、「意図論的捉え方」を内在的に批判して「間主観性論的捉え方」に歩み寄るものとして、あるいは第三の捉え方として考えてゆきたい。

 注
(1) Paul Grice, Meaning (1948), in Studies in the Way of Words, 1989, Harvard U.P., p.217.
(2) Ibid.
(3) Ibid., p.218.
(4) Ibid., p.219.
(5) P.F. Strawson, Intention and Convention in Speech Acts, in Philosophical Review, vol.73, 1964, pp.439-460.
(6) S.R. Schiffer, Meaning, Clarendon Press, Oxford, 1972, pp.17-26.
(7) Ibid., pp.30-31. シファーは、"mutual knowledge*" "know* mutually" など常に know に * をつけ加えて、大変注意深く普通の know との異質性に注意している。しかし一般的には(シファーの「相互知識*」についての論じる場合を含めて)単に「相互知識」(mutual know)という表記が通用しているので、この論文ではそれに準じることにする。
(8) J.R. Seal, Speech Acts, Cambridge U.P., 1969, pp.42-50. 邦訳『言語行為』坂本百大、土屋俊訳、草書房、pp.75-87。
(9) Paul Grice, Utterer's Meaning and Intentions, in Studies in the Way of Words, 1989, Harvard U.P., pp.100-104.
(10) 批判の一つは、相互知識を上のように定義すると、無限の量の知識を想定する事になるが、それは不可能であるということである。これに対しては、相互知識は、上の定義にあるような知の無限の反復を顕在的に行っている必要はなく、そのような無限の反復を行うに十分でありさえすればよい。あるいは、そのような無限の反復の可能性が推定できればよい。さらにいえば、そのような無限の反復の可能性を自覚している必要もない、などの反論がなされている。Cf. H.H.Clark, and C.R.Marshall, Definite reference and mutual knowledge, in A.K. Joshi, I.Sag and B.Webber (eds), Elements of Discourse Understanding, Cambridge U.P., 1981, H.H.Clark and T.B.Carlson, Speech Acts and Hearers'Beliefs, in N.V.Smith (ed) Mutual Knowledge, Academic Press, 1982, pp.4-9. もう一つの批判は、そのような相互知識は、仮に可能だとしても、コミュニケーションにおいて必ずしも必要ではない、という批判である。これは、関連性理論からの批判で、聞き手がメッセージを理解する上で、相互知識は必要条件でも十分条件でもないという批判である。しかし、シファーは、聞き手のメッセージ理解を説明する必要条件として相互知識を挙げているのではなく、話し手の発話が意味をもち得るための条件として、話し手がある種の相互知識の成立を意図する、という条件を挙げているのだから、関連性理論からの批判は当たらないと思われる。また、関連性理論が主張する「相互明白性」は、少なくともシファーやクラークらの主張する相互知識と内容的同じものになると思われる。Cf.D.Sperber and D.Wilson, Mutual Knowledge and Relevance in Theories of Comprehension, in N.V.Smith (ed), Mutual Knowledge, Academic Press, 1982, pp.62-70, D.Sperber and D. Wilson, Relevance, Basil Blackwell, 1986, pp.15-20,38-46, R.W.Gibbs,Jr., Mutual Knowledge and The Psychology of Conversational Inference, in Journal of Pragmatics 11, 1987, pp.561-588.
 このようなことは、シファーが「相互知識」概念を導入するときに、すでに注意深く考慮していたことでもある。これらの議論を押さえつつ、「相互知識」とはどのような知なのか、を別稿で論じたいと思う。
(11) R.K.マートン『社会理論と社会構造』森東吾、森好夫、金沢実、中島竜太郎訳、みすず書房、pp.384-385。
(12) 同書、p.384。 ちなみに、予言は、つねに自己成就的に機能するとは限らず、自己否定的に機能する場合もある(参照、同書、p,385)。
(13) 同書、p.389。
(14) 同書、p.387。
(15) J.Habermas, Nachmetaphysiches Denken, Suhrkamp, 1988, S.115, 邦訳『ポスト形而上学の思想』藤沢賢一郎、忽那敬三訳、岩波書店、p.142-143。
(16) Ibid.,S.137, 同訳、p.169。
                               (終わり)   
付記 連載を続ける予定でしたが、事情により今回で終結とします。予告したいくつかの問題については、今後も取り組む予定です。