問題の分類 (「待兼山論叢」第28号、1994年12月大阪大学文学部発行)
入江幸男
第一節 問題とは何か
小論のテーマは、「問題」の成立機序を明らかにして、諸「問題」の分類を試みて、「問い」や「問題」をめぐる錯綜した概念を少しでも整理することにある。ひとの人生も社会も様々な問題に満ちており、我々はほとんど問題の連鎖の中に生きている。そしてすべての問題、あるいはほとんどの問題は、諸問題の連鎖の中で発生する。我々が問題に出会うというのは、思い通りにゆかない困った状態になることだといえるかもしれない。そこで、意図と現実の矛盾した状態を、「問題状況」と呼ぶことにしよう。ここで「意図と現実の矛盾」というのは、正確には、意図が目指している状態を記述した文と、現実の状態を記述した文が両立不可能ということである。
このような問題状況に出会ったときに、我々は当然その矛盾を解消しようとするのだが、解消の仕方には次の二通りある。
(1)現実を変えて意図と一致させる (現実変革問題)
(2)当初の意図を放棄・修正して、現実と妥協する(妥協調整問題)
同じ問題状況であっても、現実を変えて意図を実現することによって矛盾を解消するという「現実変革問題」として、あるいは、現実の変革を諦めて、意図を修正したり大きく変更したりして、現実との矛盾を解消するという「妥協調整問題」として問題設定が行われる場合がある。
ところで、問題解決に取り組むことは、それ自体も意図をもった行為である。問題を解決しようとするこの意図は、問題状況を構成している当初の意図、つまり現実と矛盾している意図とは別のものである。この二つの意図の関係は次のようになるだろう。
(1)では、問題解決の意図は、当初の意図を実現しようとする。
(2)では、問題解決の意図は、当初の意図を修正しようとする。
ここで曖昧なのは、(1)の場合の問題解決の意図と当初の意図の関係である。ある意図と、その意図を実現しようとする意図は、意図している主体が同一であるならば、普通は同一の意図であると考えられる。しかし他方で、問題解決の意図は、問いが生じる原因となる意図とは別のものであるはずだ。なぜなら、当初の意図は、問題を解決しようとする意図ではないからである。この場合の問題解決の意図は、内容的には当初の意図と同じだが、当初の意図が困難にであったときに、現実との矛盾を解決するために上の二つのどの戦略を採るかを検討したのちに、当初の意図を否定したり修正したりせず、それを固持し実現しようと再度確認されたものである。問題解決の意図は、当初の意図の継続を再確認したものなのである。たとえば、会社で実際にやっている仕事と自分のやりたい仕事が余りに違うので、悩んでいる者が、ある仕事をしたいという意図の固持を再確認して、現実の仕事を変えようと意図するときには、この問題解決の意図は当初の意図を再確認したものである。どの問題状況でも、まず最初に、上の二つのどの解決方法をとるかを決定し、その際に意図の再決定(再確認か変更か)
が行われていることになる。この点に付いては、あとで再考することとする。
ここで、希望や欲求や欲望などと意図を区別しておきたい。意図が、希望や欲求や欲望などと決定的に違うのは、次の点である。我々は様々な希望(あるいは欲求や欲望)を持っており、それらはしばしば両立せず矛盾しあうものである。このような矛盾があっても、我々は、それらの希望をそのまま持ちづづけることに何の困難も支障もない。これに対して、意図の場合には、そのような矛盾はあってはならない。もし、私が二つの意図をもっていて、それが矛盾することが解ったときには、我々はそれらを調整してその矛盾を解消する必要がある。例えば、私が敵の将軍を殺そうと意図しており、他方で、父の恩人に恩返しようと意図しているとき、敵の将軍と、父の恩人が同一人物であることが解ったときには、二つの意図は両立しないので、意図を変更して矛盾を解消しなければならない。ところで、この場合には、意図と現実の矛盾ではなく、二つの意図の矛盾が問題状況を構成しているのだろうか。問題状況の定義を変更すべきなのだろうか。たしかに、それも理論的選択肢の一つであるが、私は理論は可能な限り単純化した方がよいと思うので、この場合も意図と現実が矛盾しているのだと、見
ることにする。つまり、二つの意図が矛盾しているというよりも、二つの意図と現実が矛盾しているのである。なぜなら、もし現実の世界が、父の恩人と敵の将軍が異なる人物であるという世界であったならば、この二つの意図は互いに矛盾せず、実現できたはずだからである。二つの意図が矛盾するということは、それを実現できないということであり、二つの意図と現実が矛盾しているのだと見ることもできるのである。ただし、この問題状況を解消するには、もちろん現実の方を変えることはできないので、意図を修正するという妥協調整問題を設定することになる。
第二節 問題状況の分類
つぎに問題状況の分類であるが、意図と現実の矛盾という問題状況は、その現実を変革して問題を解決しようとする場合に、その現実変革を、行為によって行う場合と、認識によって行う場合と、決定によって行う場合、の三つに分類できるように思われる。
(1)実践問題状況
現実の困った状況を行為によって変えなければならない問題状況を「実践問題状況」と呼ぶことにしよう。そしてこの問題状況に対して現実変革によって取り組もうとするときに、その問題を「実践問題」と呼ぶことにしよう。この実践問題の解決は、行為によって達成される。たとえば、夏の暑い日に突然自動車のクーラーが故障したような場合である。「車内を涼しくしよう」とする私の意図と「車内はサウナのようだ」という現実が矛盾している状況である。この現実を変えるには、とりあえずは、窓をあけ、上着を脱がなければならないが、最終的には車を修理に出さなければならない。
しかし、現実にはこのような簡単な問題ばかりではない。「現実を変革するにしても、一体どのような状態に変えればよいのか」や「現実をある状態へ変革するにしても、一体どんな方法で変えればよいのか」が解らないときには、行為に取りかかる前に、まずこれらの問題に答えなければならない。実践問題に限らず、後述の他の問題の場合も同様であるが、ある問題を解決するために、別の問題を解かねばならないという場合がしばしばある。そして、そのような場合において二つの問題が同種類の問題になるとは限らない。ちなみに上の例の問題は、実践問題ではなく、次に述べる認識問題である。
ところで、実践問題状況での現実変革がかなり困難である場合、あるいは試みたが旨くゆかなかった場合には、当初の意図を修正して可能な範囲での現実変革で満足し妥協するか、あるいは、さらに当初の意図を撤回するかしかないだろう。もちろん、このような当初の意図の否定は、現実変革が可能である場合に行われる場合もある。仏教での煩悩の否定の教えは、そのような問題解決方法である。また、戒律の厳しさのために煩悩を否定しきれない場合には、ある程度の否定で妥協する場合もあるだろう。当初の意図を修正した後では、すでに、煩悩を否定しようとする意図と煩悩の存在という現実の矛盾という新たな問題状況に入っている。このように、実践問題状況において、意図と現実の矛盾の解決という課題を妥協調整問題として設定するときには、この問題は、行為によって解決されるのではなく、新たな意図決定によって解決されるものなので、後にのべる決定問題になる。
(2)認識問題状況
数学者が、ある定理を証明しようと試みているとしよう。彼の意図はその定理を証明することである。その意図に矛盾するのは、その証明方法が解らないという現実である。上の例で、クーラーを自分で修理しようとして、悪いところを探しているときには、悪いところを見つけようという意図と悪いところが解らないという現実が矛盾しているのであり、その現実を認識によって変えようとしていることになる。このように認識に関する困った状況を認識によって解消しなければならない問題状況を「認識問題状況」と呼ぶことにしよう。そして、この問題状況に対して現実変革によって取り組もうとするとき、その問題を「認識問題」と呼ぶことにしよう。
科学研究などにおいて、予想と実験結果が矛盾したり、理論と観察命題が矛盾したりする場合に、認識問題が設定されることになるだろう。そこには一般的にいって、二つの事実命題の矛盾という現実がある。しかし、このような矛盾があるだけでは、それが問題になるというには不十分である。それとともに、斉合的な認識を得たいという意図が研究者になければならない。その証拠に、金言や格言には矛盾したものが沢山あるが、人々はそれらの矛盾をふつう問題にしない。つまり、矛盾する命題があるというだけで直ちに問題状況になるわけではない。この場合にもまた、事実命題の矛盾という現実と斉合的な認識を得えたいという意図の矛盾が、問題状況を構成しているのである。
認識問題において、意図と矛盾する現実とは、(1)どちらも正しいと思われる二つの命題(事実命題あるいは価値命題)が矛盾している場合、(2)知の証明・基礎付けができず、不確実ないし無根拠なままにとどまる場合、(3)ある事柄について無知の場合、などである。これらは、(1)斉合的な認識(事実認識あるいは価値認識)を得ようとする意図、(2)確実で真なる認識を得ようとする意図、(3)ある事柄について知ろうとする意図、などと矛盾する。ちなみに、小説家がプロットを考えるとき、画家が構図を考えるときなども、どういうプロットないし構図がよいか解らないという認識状況の解決がもとめれらているのだから、認識問題状況の一種である。また当然、認識問題でも、その解決の手段として別の問題の解決が必要になる場合がある。
ところで、認識問題状況においても、現実変革が困難である場合、また試みたが旨くゆかなかった場合に、当初の意図を修正することがあるだろう。そして認識問題状況での妥協調整問題もまた、次に述べる決定問題である。
(3)決定問題状況
ある学生が二つの会社のうちのどちらに就職するか迷っているとしよう。彼の困難は、満足できる人生をおくるために適切な選択をしたいという意図と、どちらに就職するのががよいか迷っているという現実の矛盾から生じる。決定が問題になるのは、よい決定をしたいという意図と、決定していない、あるいは決定ができないという現実の矛盾がある場合である。このような状況を「決定問題状況」と呼ぶことにしよう。このような問題状況において現実変革問題を設定し、ある決定を下すことによって解決しようとするとき、その問題を「決定問題」と呼ぶことにしよう。
決定問題は、次の様な場合には、認識問題だと誤解されるかもしれない。つまり決定が問題になるケースの中には、選択肢の各々に付いての利害得失を計算して、どれを選択するのがよいかを決めようとする場合が多くある。この場合、利害得失の計算や比較は、認識問題になる。しかし、このような認識問題の答にもとづいて決定が行われる場合でも、この認識問題の解決は、決定問題の解決のための手段であり、決定問題が認識問題と同じものになっているわけではない。決定問題は、認識問題とは別種の問題である。
決定問題に合理的な答が見つからないとき、それはより困難な問題になる。合理的な答が見つからない場合とは、(1)各選択肢の利害得失の計算値が同じになるとき、(2)計算の為の尺度が見つからず計算できないとき、(3)計算の為の尺度が複数あってどの尺度を採用すべきかを決定できないとき、などである。このような場合には、我々は決断によって決定しなければならない。なぜなら、全ての決定問題において、たとえどう決定したらよいのかわからないとしても、我々はとにかく何らかの決定をすることは避けられないからである。その理由を次に説明しよう。
たとえば、デパートでネクタイを選んでいるとき、とにかくネクタイがもう一つ必要だし、改めて出直してくるのは面倒だから、いま買っておいた方がよい、と思っているとしよう。この場合には、どのネクタイを買うかを決定した方がよいのだが、必ず決定しなければならないということはない。迷った挙げ句に結局ネクタイを買わないで帰るということもあるだろう。その場合には、たしかにどのネクタイを買うかの決定はしなかったのだが、買わないという決定を行っている。買わないということをも、その際の選択肢に含めて考えると、このような選択・決定に際しては、何の決定もしないで済ますことは不可能である。このような意味では、あらゆる決定において、我々が何かを決定する必要がある場合には、つねに何らかの決定が不可避である。
では、決定が必要である、あるいは、決定を迫られるというのは、どのような場合かといえば、それは、選択の余地があるときである。そして、我々はほとんどの場合何らかの選択の余地をもっている。こうして我々はほとんどの場合、何らかの選択をおこなっており、しかもそれは不可避である。ところで、なぜ我々には選択の余地があるのかといえば、それは我々が複数の可能性を考えることができるからである。たとえば自分の行為に付いて複数の可能性を考えることができなければ、自分の行為を選択・決定することはできない。もっとも、日常生活での多くの選択は、他の可能性をほとんど意識することなく習慣的に行われている。
以上見てきたように、我々は常に何かを選択・決定している。ここに、決定問題状況と実践問題状況や認識問題状況との違いがある。つまり、決定問題状況では、意図の撤回や修正が不可能であるということだ。決定に迷い、決定しない状態を続けること自体が、現実の状況の中では一定の決定を選択することと同じことになってしまうとすれば、我々は決定を回避できない。それは、決定しようとする意図を撤回しようがないということである。実践問題状況と認識問題状況では、現実変革と妥協調整の二つの解決方法があったが、決定問題状況では、現実変革問題として問題を設定するしかないということであり、また意図の再確認も不必要である。
ところで、先に述べたように、問題状況が生じたとき、我々は、現在の意図を固持してそれを実現するように努力する現実変革問題を設定するか、それとも現在の意図の実現を諦めて、実現できる程度に修正したり他の意図に変更する妥協調整問題を設定するかを決定しなければならない。実はこのこと自体が、決定問題状況であり、決定問題である。つまり、実践問題状況と認識問題状況に出会ったときには、まず我々は問題設定の決定問題を解かねばならないのである。ただし、決定問題状況では、意図の修正変更という選択肢はないので、問題設定の決定をする必要はない。もしこれが必要だとすると、決定問題の無限反復が生じることになってしまうだろう。問題設定の決定問題について、次にもう少し詳しく考察しておこう。
第三節 問題状況とダブルバインド
実践問題状況ないし認識問題状況に出会ったときに、ひとはまず、問題設定の決定をおこなう。もちろん、その問題状況が何度も出会っている馴染みのものである場合には、その問題設定の選択もほぼ習慣的におこなわれることだろう。それ以外の場合には、問題状況に出会った者は、上の決定をどのように行うのだろうか。現実の変革ができそうなときには、それを試みるだろう。また、それが到底できそうにないとき、あるいは試みた結果旨くゆかないとき、ひとは意図の修正、変更を考えるだろう。しかし、すぐにこのような判断ができないときにはどうなるのだろうか。
そのような場合、ひとは矛盾した二つの要求(「現実を受け入れよ」と「意図を実現せよ」)に板挟みになる。当初の意図の実現を選択すれば、困難な現実に立ち向かわねばならない。他方、妥協して現実を受け入れれば、当初の意図を修正しなければならない。(これも避けたいことである。なぜなら、当初の意図は、別の問いの答として最善の選択肢として選ばれたものであり、それを修正することは、最善の選択肢以外の選択肢を選び直すことになるからである。)こうしてどちらを選んでも困難を引き受けなければならない。しかも、この決定を延ばすことはできない。なぜなら、決定を延ばすことは、現実変革にとりかからないことであり、結果としては現実との妥協を選択するのと同じことであって、しかもそのような結果が予想できるのだから、決定を延ばすことは、妥協を選択していることになるからである。これは、いわゆるダブルバインドである。我々は、全ての問題状況においてこのようなダブルバインドに掛かっている。
ところで、ほとんどの決定問題は、問題解決手段の選択という決定問題として見ることもできる。これは実践問題や認識問題の解決手段が複数あるときの選択という問題である。例えば、前述の二つの会社のどちらに就職するかを選択するという決定問題は、より幸せな人生をおくりたいという意図を行為によって実現するという実践問題があって、その複数の解決手段から一つを選択するという決定問題である、と見ることもできる。
問題設定の決定問題もまた、その問題設定がより上位の意図の実現のための手段である場合には、問題解決手段の決定であることになる。しかし、ここから、すべての問題設定の決定問題は、問題解決手段の決定問題である、とみなすことは現実的ではないし、また論理的に不可能である。なぜなら、その場合には、我々のかかえる全ての問題が、最高次の問題の解決の為の手段の系列をなすと考えなければならないが、それは現実的ではないし、また論理的にも、その最高次の問題の設定という決定問題は、もはや他の問題の解決方法の決定問題ではありえないからである。
ちなみに、意図の妥協調整問題の場合にも、それによって新しく決定される意図が、より高次の意図の実現のための手段として選択された場合には、問題解決手段の決定であるとみることもできる。しかし、ここから、すべての妥協調整問題を問題解決手段の決定問題であるとみなすことは現実的ではないし、また論理的に不可能である。なぜなら、その場合には、我々のかかえる全ての問題が、最高次の意図の実現という問題の解決の為の手段の系列をなすと考えなければならないが、それは現実的ではないし、また論理的にも、その最高次の意図の決定問題は、もはや他の問題の解決方法の決定問題ではありえないからである。
第四節 問題と問いの区別
「問題」と「問い」はしばしば同じ意味で用いられる。二つの語がともに多義的であるので、同じ意味で用いられても差し支えない場合もあるのだが、しかし意味がまったく重なっているわけではないので、そこからしばしば議論の混乱が生じる。ここでは、次のように区別したい。意図と現実が矛盾した状況が「問題状況」である。この問題状況の解消の仕方には2通りあるが、どちらにしろ、問題状況の解消、あるいは意図と現実の矛盾の解消という課題を「問題」と呼ぶことにする。「社会問題」「人生問題」「恋愛問題」「お金の問題」「環境問題」などの用法は、これにあたる。これに対して、「問い」とは、疑問文によって表現されるものである(といっても、疑問文と独立に存在するものではない)としておきたい。もちろん、上の「問題」が疑問文で表現されるときもあるが、すべての問題が疑問文で表現されるとはかぎらない。
問題状況を現実変革によって解決する方法には、行為と認識と決定の三つあるが、実践問題の解決、つまり行為による解決は、ふつうに謂う問いの解決ではない。どのように行為すればある問題を解決できるか、という問いに答えようとするときには、問う者は、認識問題に取り組んでいるといえるが、その答えに従って実際に行為によって実践問題を解決することは、問いに答えることではない。つまり、問題とその解決が、問いとその答えという関係になるのは、認識問題と決定問題の場合だけである。認識問題と決定問題の場合には、疑問文でそれらの問題を表現することができる。実践問題の場合には、その問題状況を直接に疑問文で表現することはできない。なぜなら、疑問文で表現される問いは、認識を求めるか、決定を求めるものだからである。この点について、もう少し詳しくみよう。
「問い」にもまた多様な意味があり、多様な区別の仕方が可能であるが、まずとりあえず、「問い」の分類の仕方の中から次の二つを区別すべきだろう。
(1)問いの文の分類、つまり疑問文の分類
(2)問いの文の発話の分類、つまり質問型発話の分類
ここで重要なのは、後者の分類である。談話における問答でも、独りでする自問自答でも、問うことは、問いを立て、その問いの答を求めることである。その際には、問いの文の発話(内語となる場合も含む)が行われ、答もまた発話として生じる。発話については、発語内行為に注目したいろいろな分類が試みられているが、ここでは、オースティンによる最初の分類、事実確認型発話と行為遂行型発話の区別に注目したい。前者は、事実についての主張を行う発話であり、その発話の真偽を問題にすることができる。これ対して後者は、命令や約束や宣言などの発話であり、これは、ある行為を遂行するという意図を表明することによって同時にその行為が遂行されることになるという発話である。この発話では真偽ではなく適切性が問題となる。ところで、返答の発話が事実確認型であるような質問は、事実や価値についての認識を求める問いの発話であり、また、返答の発話が行為遂行型であるような質問は、意図決定を求める問いの発話である、といえるだろう。このようにして、質問型発話を、その返答が事実確認型発話であるものと、その返答が行為遂行型であるものに分けることができる。そし
て、このように区別した質問型発話は、認識問題の問いの発話と、決定問題の問いの発話に対応するのである。
すべての問いは認識問題ないし決定問題の問いであり、従ってすべての問いは意図と現実の矛盾から生じるといえるが、この矛盾はより厳密には、現実の記述と意図の表現の矛盾である。ところで、我々にとって重要な問いにおいては、我々はそれをつねに自覚的に設定しており、したがってその問いの原因となる現実の記述と意図の表現は、自覚的な吟味を経ているであろう。よく吟味されて述べられた現実の記述と意図の表現とは、それぞれ、別の問いに対する答えとして確認され獲得されたものであろう。現実の記述を答とする問いは、認識を求める問いであり、意図の表現を答とする問いは、意図決定を求める問いである。そうすると、すべての重要な問いは、認識を求める問いの答えと決定を求める問いの答えの矛盾から発生する、ということになる。自覚的な問いは、つねにすでにある別の問いから生じるのである。別の問いの答えから生じたり、別の問いを解くために立てられたり、別の問いを修正する為に立てられたり、するのである。したがって、自覚的な問いは、単独に設定されることはなく、つねに問いの連鎖の中で設定されるのである。
小論は、「問題」についての分析の単なる出発点であり、「問い」との関係についても、分析しなければならない論点がまだ多く残っているのだが、「問題状況」や「問題」の分類と、それらと「問い」の区別をふまえた上ので分析は、今後の課題としたい。
注
(1)願望などと意図の区別については、Donald Davidson, Essays on
Actions and Events, Clarendon Press, 1980, デイヴィドソン「意 図すること」(『行為と出来事』服部祐幸、柴田正良訳、勁草書房、 1990年)を参照。
(2)疑問文の分類については拙論「問の構造について」(『待兼山論叢』 20号、1986年)で論じた。
(3)発語内行為の分類および質問型発話については拙論「発話内的否定 と質問」(『大阪樟蔭女子大学論集』第29号、1992年)で論 じた。
(大阪大学文学部助教授)