論文17   問答の意味論と基礎付け問題


                                序 問題提起
 「なぜ、なぜ」と問い続けると、誰もがいつか答えられなくなり、懐疑主義が生まれる。この事情を明確に表現したのが、H.アルバートの名付けた「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」である。我々が、ある命題の根拠づけを行おうとして、根拠の根拠を求め続けるとき、その過程は次の3つのどれかになる。
   (1)無限遡及
   (2)演繹における循環論法
   (3)特定の一時点での作業中断
ところで、このいずれの場合にも「確実な基礎には至り得ない」。ゆえに、最終的に根拠づけられた絶対に確実な知を手に入れることは不可能である。ちなみに、古代懐疑主義者のエンペイリコスが懐疑の二方式と呼ぶものにおいて、ほとんど同じ内容の主張が為されている。
 我々は、このトリレンマにもう一つの角をつけくわえて「ミュンヒハウゼンのテトラレンマ」と修正することができる。それは、こうである。
  (4)根拠の遡及における前提数の無限大化
ある命題が他の命題の基づくとすれば、その前提は一つである(直接推理)か、二つ以上である(間接推理)。ゆえに、ある命題を基礎付ける命題を遡行すると、上の3つの角以外に、遡るたびに前提の数が増えて行き、無限大になるという場合が考えられる。たとえば、規約主義のパラドックスがその典型的な例である。しかし、このように修正しても、後の議論には影響しないので、この修正はここではそれほど重大なものではない。
 このような事態に対する態度としては、「懐疑主義」をとるか、決断によってある基礎的な命題を真と見なす「決断主義」をとるか、あるいは、基礎的な命題を真とみなすことは規約だと考える「規約主義」をとるか、ミュンヒハウゼンのトリレンマを克服して知を基礎付ける「基礎付け主義」をとるか、などがある。しかし、従来のこれらのすべての立場では、基礎となる命題にだけ注意が払われて、問答関係にはほとんど注意が払われてこなかったように思われる。もし命題の意味の成立にとって問答関係が不可欠であり、「すべての発話は、それを答えとする問いとの関係においてのみ意味をもつ」というテーゼが正しいとすれば、基礎付けをめぐるこれらの議論はそのままでは維持できないだろう。そこで、本論では、まず第1、2章でこのテーゼの証明を試みる。そして、それを踏まえて、第3章では、基礎付け問題の前進のために、まず「なぜ」質問の分析をおこない、次に従来の基礎付け主義、決断主義、規約主義などを批判的に考察したい。

   第1章 焦点論による証明の試み

 言語学での「焦点」という概念に注目することによって、次のテーゼ1の証明を試みたい。
   テーゼ1「すべての発話は、それを答とする問いとの関係においてのみ意味をもつ」
これを証明するために二つのテーゼを証明したい。
   テーゼ2「焦点は、すべての発話の意味の本質的構成要素である」
   テーゼ3「焦点は、問答関係によってのみ確定可能である。」
このテーゼ2と3が証明できれば、それからテーゼ1を導出することができるだろう。

   §1 焦点の説明
(1)焦点(focus)とは何か
 文は、一語文以外は、複数の語の連結によって構成されている。この関係は、シンタグム(syntagme、統合)と呼ばれる。他方、文を構成してる名詞や動詞などは、同類の語からなる関係の中で一定の意味を得ている。この関係は、パラディグム(paradigme、系列)の関係と呼ばれる。我々が、文を構成するときに、同類の語の中からある語を選択するときには、「他でもなくこれを」というように選択しているはずである。「sはpである」という文において、sもpも同類の語の中から「他でもなくこれを」と選択されたものであるが、しかし我々は、文を構成するすべての語について、その選択性を意識しているのではない。非常に特殊な場合を除いて、一つの語についてだけ選択性を意識している。その理由のひとつは、二語以上について選択性を意識することは、非常に複雑な思考を必要とするということであり、もう一つは、二つの語の選択性を意識するときにも、順序が必要であるということである。たとえば、「リンゴが、赤い」という文において、「リンゴ」は、「モモでも、ミカンでも、ナシでもなく、リンゴが」と選択されており、「青でも、黄色でも、緑でもなく、赤い」と選択さ れているとしよう。このとき、我々は、この二つの選択を同時に行う事はできない。なぜなら、主語に「リンゴ」を選択して、はじめて「他でもなく、赤い」と述語を選択できるのであり、もし「ミカン」を選択すれば、「黄色い」を述語に選択しなければならないだろう。また「赤い」という述語を先に選択したならば、「他でもなく、リンゴが」と主語が選択できるのであり、「黄色い」という述語を先に選択したならば、「ミカン」を選択しなければならい。つまり、主語の選択が先に行われて、はじめて述語の選択が可能になり、あるいは逆に、述語の選択が先に行われて、はじめて主語の選択が可能になる。同時に選択することは不可能である。つまり、先に行われる選択を前提した上で、次に行われる選択に注意が向かうことになる。言語学では、これを通常、「焦点」と呼んでいる。この「焦点」は、上に述べたような理由のために、究極的には、文中の一ヶ所にあることになる。たとえば、"s is p"という文は、sに焦点がきて「(他でもなく)sが、pである」という意味になる場合と、pに焦点がきて「sは、(他でもなく)pである」という意味になる場合がある。

(2)類似の概念との異同
 ここでは、「焦点」概念をより明確にするために、意味論における類似の概念との異同を確認しておきたい。
(ア)主題部と叙述部の区別(プラハ学派)
 <主題部>(theme)とは、<叙述部>(rheme)に対する概念で、文頭に置かれた
文構成単位のことである。(注4)
     首相は、衆議院を解散した。
   <主題部> <叙述部>
   衆議院は、首相によって解散された。
    <主題部> <叙述部>
(イ)新情報と既知情報の区別
 文の内容は、文脈上、既知情報と新情報に分かれる。
   「誰が、asa400のフィルムを買いましたか」
   「彼が、asa400のフィルムを買いました」
この文の内容は、つぎのような既知情報と新情報に分かれる。
   「彼が、 asa400のフィルムを買いました」
  <新情報>   <既知情報>
 先の主題部と叙述部の区別と、新情報と既知情報の区別は異なる。新情報は、主題部にも叙述部にも登場するからである。次のような問答では、叙述部の方が新情報となる。
   「彼は、何を買いましたか」
   「彼は、  asa400のフィルムを買いました」
  既知情報 <新情報> 既知情報
 ちなみに、新情報と既知情報に分かれる文は、主張文にかぎらない。約束や命令の発話文も、問いに対する答であるときには、このようにわけることができる。
   「何をおもとめですか」 
   「asa400のフィルムをください」
  <新情報> <既知情報>
 ところで、チョムスキーは、既知情報と新情報の区別を、「前提」presuppositionと「焦点」focus と呼ぶ。
   Is it JOHN who writes poetry?
   It isn't JOHN who writes poetry?
   No, it is BILL who writes poetry.
 チョムスキーによれば、焦点は、英語の普通のイントネーションでは、ピッチ曲線の最大抑揚点となることによって示されるそうである。上の例では、JOHN,BILLが「焦点」であり、その文は、誰かが詩を書くことを「前提」としている、と言えるだろう。チョムスキーは焦点の区別を次のように説明している。
Bill likes JOHN.
  BILL likes John.
これらの文の焦点の違いは、次のような言い換えによって説明されている。
    the x such that Bill likes x -- is John
(ビルがxを好きであるようなxは、ジョンだ)
the x such that x likes John -- is Bill
(xがジョンを好きであるようなxは、ビルだ)
この二つは、次の日本語の表現に、近いと思われる。
   「ビルが好きなのは、他でもなくジョンだ」
   「他でもなくビルが、ジョンを好きである」
それゆえに、チョムスキーの焦点もまた、発話の中で我々がパラディグム関係に注目する箇所のことであると思われる。
 ところで、チョムスキーがいうように、新情報と旧情報とは、焦点と前提の箇所と一致すると思われるのだが、しかし、これら両概念は、厳密には区別されるべきものであろう。なぜなら、新情報と旧情報とは、コンテクストに依存した語用論上の概念であり、後者は一つの発話の意味の内部構造に関する、意味論上の概念であるからである。

   §2 「は」と「が」の用法
 「は」と「が」の使い分けは、幼児でもできるのだが、しかしその使い分けの規則については、いまだに定説といえるものがないようである。以下では、蛇足になることをおそれつつも、焦点との関係に注目して、一つの仮説を提案してみたい。
 「が」は未知の語を承け、「は」は既知の語を承ける、という説がある。ここでいう、未知の語と既知の語は、先の新情報と既知情報の区別と同じものであろう。
   「sが、pである」
  新情報 既知情報
この文の「s」が新情報であるならば、「pである」は既知情報である。
   「sは、pである」
既知情報 新情報
この文の「s」が既知情報ならば、「pである」が新情報になるであろう。
 ところで、この説の欠点は、山田みどりによれば、次の二点である。
 1、「が」は既知のものをも承ける場合がある。
例えば、「今泣いたカラスが、もう笑った」において、「今泣いたカラス」は、話し   手も聞き手も承知している人物であると言えよう。
2、既知と未知の区別のみでは、従属節中に「は」を使えない節があることの説明がつか   ない。主語節・連体修飾語節中では、「が」のみが使われる。
   例えば、「海が一番穏やかなのは七月でしょう」
   「私が出かけようとする時に彼がやってきた」
 1の批判に関しては、久野?によるanaphoricityと新情報との区別についての次の指摘よって反論できるだろう。「与えられた構成要素が、その文の中で新しいインフォメーションを表すか、古いインフォメーションを表すかという概念は、その構成要素が指す事物がすでに話題にのぼったことがあるか否かという概念(anaphoricity)とは別のものである。」
 しかし、この説では、2の批判に答えることはできない。そこで、私は次のような修正を提案したい。新情報と既知情報の区別と、焦点と前提の区別は、前者が語用論上の区別であり、後者が意味論上の区別であり、異種のものであるが、新情報と焦点の位置が一致することが指摘されている。文を発話する時の意図は、新情報を伝えようとすることにあるといえるだろうから、当然そこに焦点がくるのである。そうすると、上の未知/既知説は、つぎのように言い換える事ができるだろう。「が」は焦点を表示し、「は」は前提を表示する。しかし、このままでは、やはり従属節中では、「は」がほとんど使用されないことを説明できないので、これをさらに次のように修正して、焦点説と呼ぶことにしたい。
  焦点説:「は」は、文(ないし節)の後続部分のどこかに焦点があることを示し、
      「が」は、文(ないし節)の後続部分のどこにも焦点がないことを示す。
 これによって、2の批判に関しては、次のように答えることができるのではないだろうか。「は」は、後に続く部分に焦点があたることを表示するものであり、複文中の従属節には、焦点があたらないので、「は」をもちいることができないのである。「が」は、その前の部分に焦点があることを表示するのではなくて、むしろ後続部分に焦点がないことを表示するのだとすれば、従属節中に「が」が用いられることをうまく説明できる。
 従属節の中に焦点がおかれることがないということは、次のように説明できるだろう。その理由は、もし従属節中の一部に複文全体の焦点を起きたいのならば、そのことは、本来的には従属節ではなくて、主文として語られるべきである、ということであろう。もし、従属節中の一部に焦点が置かれても不自然にならないのだとすれば、それは「従属度の低い従属節」の場合に限られるだろう。そして、この予測は、「従属度の低い従属節の場合」には、「は」も「が」も使われることがある、という指摘と一致する。そのような従属節としては、引用節の「・・・と」、接続節の「・・・けれど」「・・・が」など、理由節の「・・・から」「・・・ので」「・・・のに」など、の例が指摘されている。
 「雨がふっている」という文の場合には、「雨が」の後続部分に、焦点がないのだから、「雨」に焦点があることになる。「ぼくは、花子が好きだ」という文では、「ぼくは」の後続部分に、焦点があって、しかも、「花子が」の後続部分に焦点がないのだから、「花子」に焦点があることになる。
 「彼は逮捕されませんでした」とは言えるが、「彼が逮捕されませんでした」ということは不自然な感じがする。なぜだろうか。おそらくは、否定文の場合には、焦点は否定にあることが多いために、「彼が」とすると、それに続く部分には焦点がないことを示すことになり、矛盾するように感じられるのである。
 つぎのような例も、「は」は後続部分に焦点があることを示している、という仮説と一致するのではないだろうか。「そこへハいくな」「寒くハない」「行くことハ行く」「うかうかハできない」「中学生としてハ立派」。

   §3 焦点は、すべての発話の意味の本質的構成要素である
   (1)焦点の区別は、付帯的な意味の区別ではない
 さて、前述のように新情報と既知情報の区別は、なぜ文のある部分に焦点があたるのかについての理由の説明に用いることができるだろう。話し手は、新情報だから、そこに焦点を当てて発話し、聞き手は、新情報に焦点を当てて発話を理解する。ところで、新情報と既知情報の区別は、コンテクストに依存しているので、発話の意味に付帯的につけ加わる区別であって、発話の意味の構成にとって本質的なものではないと言えそうである。そこで、その区別と実質的に一致する焦点と前提の区別もまた、発話の意味にとって付帯的なものである、という反論があるかもしれない。しかし、そうではないとおもわれる。それを以下に証明したい。
 焦点の区別は、"s is p" の意味が確定した後に、コンテクストの中で付与される付帯的な意味ではない。なぜなら、我々がs is pを考えるときには、常にs is p、s is p のどちらかを考えており、そのどちらかしか考えることができないからである。それは、ゲシュタルトの知覚において、例えば、ルービンの図をみるとき、杯として見るか、対面する二つの横顔として見るか、のどちらかしかないのと同じであろう。これを証明するには、自分が発話する際の内面を反省することを各自に求めるしかないのだろうか。しかし、焦点の区別は、心理的なものというよりも、むしろ論理的なものであるようにおもわれる。そのことを以下に示したい。
   (2)焦点の区別は、意味の論理的な区別である。
 焦点の区別が、意味の論理的な区別であることを示せば、そのことは、焦点の区別が発話の意味にとって、付帯的なものではなく、本質的なものであることの証左になるであろう。 「sがpである」と「sはpである」の焦点の区別は、従来の論理学では無視されてきた。これはおそらく情緒的なニュアンスの差異の一部と考えられてきたためであろう。しかし、これは情緒的な意味ではなく、論理的な意味の区別である。たとえば、次のような三段論法を考えてみよう。
        mはpである (大前提)
        sはmである (小前提)
    ゆえに、sはpである。(結論)
これらの文の焦点を示せばどうなるだろうか。このままでは、どのようにでも焦点をつけられるように思える。ところが、この推論が、次のような問いに対して答えるためのプロセスであると考えるときには、焦点は明確になる。たとえば、次のようになるだろう。
    「sは何か?」
        sは(他でもなく)mである (小前提)
        mは(他でもなく)pである (大前提)
    ゆえに、sは(他でもなく)pである。
 「sは何か?」という問いの焦点は、「何か」の部分にある。そして、その答えが何であれ、答えの発話でも、「何」にあたる部分、つまり述語の部分に焦点があたるだろう。そこで、結論「sはpである」では「pである」に焦点があたることになる。「sは何か」と問われて、まず「sはmである」と考えたとすると、ここでは、sは既知情報なので、新情報である「m」に焦点があたる。これに続いて、次に「mは、pである」と考えたとすると、ここでは「m」は既知情報になっており、「p」が新情報なので、「p」に焦点があたることになる。そして、次に結論が導出されることになるだろう。ここで、大前提と小前提の順序が逆になることはないと思われる。なぜなら、「sは何か」と問われて、次に「s」が登場しない「mはpである」が思い浮かぶということは、不自然だからである。これに対して、次の問いに対して三段論法が行われるときには、焦点と前提の順序は変化するだろう。
      「何がpか?」
        (他でもなく)mがpである (大前提)
        (他でもなく)sがmである (小前提)
    ゆえに、(他でもなく)sがpである
 この問答では、問いの「何が」に焦点があり、それゆえに、答えである結論では、「s」に焦点がなければならない。「何がpか」と問われて、「mがpである」と思いつくときには、新情報である「m」に焦点があたる。つぎに「sがmである」と考えるときには、「m」は旧情報になっており、新情報である「s」に焦点があたることになる。そして次に結論が導出されることになるだろう。
このようにして、焦点の区別を考慮して、はじめて推論プロセスが明確になること(少なくともそのような場合が存在すること)がわかる。したがって、推論を構成してるこれらの文の焦点は、情緒的な意味をもつのではなくて、論理的な意味を持つ、といえるだろう。

   §4、焦点は、問答関係によってのみ可能である
 次に、テーゼ3「焦点は、問答関係によってのみ可能である」の証明を試みたい。焦点の位置が、最もはっきりするのは、つぎのような問答関係においてである。
   「何がpか」 「(他でもなく)sが、pである」
   「sは何か」  「sは、(他でもなく)pである」
 焦点の位置や意味は、その命題がどのような補足疑問文(wh疑問文)の答えであるかを知ることによって、明確にすることができる。このことは、主張型発話が返答となる問答に限らない。行為指示型(命令、依頼など)の発話の焦点もまた、次のように問答において明確になる。
   「どれを捨てるのですか」「(それではなくて)これを捨てなさい」
   「これをどうするのですか」「これを(しまっておくのではなくて)捨てなさい」
行為拘束型(約束)の発話の焦点も、つぎのように問答において明確になる。
   「誰か走ってくれますか」「私が走ります」
   「あなたは何をしてくれますか」「私は走ります」
 したがって、我々は、「ある発話がどのような補足疑問に対する答えであるかを理解できるならば、その発話の焦点を理解でき、また逆に、ある発話の焦点を理解できるときには、それを答とする補足疑問を立てることができる」と主張することはできるだろう。しかし、これだけでは、まだ「焦点は、問答関係によって<のみ>確定可能である」ということの証明にはならない。
 この<のみ>を証明するにはどうすればよいだろうか。焦点は、文のある構成要素のパラダイム関係に注目することである。いいかえれば、焦点は、文のシンタクスを構成するある構成要素の値が、「他でもなく、これである」ということに注目するのであり、そのような構成要素の値への注目を促すのは、それを尋ねる補足疑問を問うことに他ならないと言えれば、上の<のみ>を証明できたことになるだろう。
 スペルベル&ウィルソンは、「陳述は関連性のある疑問を呼び起こすことがよくある。例えば、もし私があなたに私は不幸せだと言えば、ほとんど確実にどうしてなんだろうという疑問をあなたにおこさせるであろう」と指摘し、これと同様に、発話の理解の途中において、聞き手には関連性のある疑問が生じて、それに答えるというやり方で、発話の理解が進むのかもしれない、と述べている。
 彼らが挙げている例を少し簡略にして紹介しよう。
   Jenniferr confessed to STEALING.(ジェニファーは盗みを認めた)
という発話において、聞き手は"Jennifer"を聞き、名詞句(NP)という統語範?を付与するとすぐに動詞句(VP)がづづくと考えつぎにような予想仮説を立てる。
   Jennifer did somthing.(ジェニファーは何かをした)
これは、聞き手に次のような疑問を起こさせる。
   What did Jennifer do?(ジェニファーは何をしたんだろう)
次に聞き手が"admitted"を聞くと、名詞句(NP)が続くと考え、次のような予想仮説を立てる。
   Jennifer confessed something.(ジェニファーは、何かを白状した)
これは、聞き手に次のような疑問を起こさせる。
   What did Jennifer confess to?(ジェニファーは、何を白状したんだろう)
そうして、これに対する答えとして盗みに焦点のあたった発話の理解が成立する。
   Jennifer confessed to STEALING.(ジェニファーは、盗みを認めた)
 もちろん、このような問答は、実際に行われているとしても、おそらく0.1秒以下の短い時間で行われることになり、意識されないだろう。ただし、スペルベル&ウィルソンは、発話の理解がこのようなプロセスで成立する、可能性を指摘しているだけであり、つねにこのようなプロセスが生じていると証明しているのではない。しかし、我々はつぎのように考えることができるだろう。
 ある焦点を理解することは、ある値をパラダイム関係の中からの選択の結果として意識することなのである。ところで、このような選択は、「なに」や「どれ」への答えとして「他もでなく、これを」というように返答することとして<のみ>可能なのではないだろうか。(今のところ、私には他の可能性が思いつかない。)もし選択がこのようにしてしか行われないのだとすると、焦点の理解は、問答関係によってのみ可能である、と言えるだろ。

   第2章 我々は如何にして発話の意味を理解するか
   §1 コンテクストとデフォールト推論
 発話の意味を論じるときに、焦点だけを論じるのでは、たとえそれが発話にとって本質的な意味であるとしても、断片的な印象を免れないので、ここでは別の角度から証明を試みたい。「発話の意味は、コンテクストの中でのみ理解可能である」ということは、一般に認められていると見なしてよいだろう。ところで、コンテクストから発話の意味を理解する(発話の意味を確定する)場合に、我々は、コンテクストを前提として、そこから発話の意味を推論している。つまり、「コンテクスト(前提)から発話の理解(結論)が導出されるときには、推論が行われている」と考えてよいだろう。さらに、その際に、その推論は、古典的な演繹推論ではなくて、デフォールト推論である。このことを次の例で説明しよう。
   (1)「ジョンは、タイムズを買った」
この発話は、少なくとも次の二つの意味をもちうる。
   (2)「ジョンは、タイムズ紙を買った」
   (3)「ジョンは、タイムズ社を買った」
ふつうは我々は、このいずれであるかは、コンテクストから簡単に決定できる。
   (4)「ジョンは、今朝駅のキオスクに立ち寄った。そして、ジョンはタイムズを買った」
(4)のコンテクストでは、ジョンはタイムズの朝刊を買ったという意味になるだろう。
   (5)「ジョンは、今朝証券会社に電話した。そして、ジョンはタイムズを買った」
(5)のコンテクストでは、ジョンはタイムズ社の株をかったという意味になるだろう。(1)の発話は、それだけでは多義的であるが、コンテクストの中では、意味は簡単に一義的に決まるように見える。前述のように、コンテクストが前提となって、発話の意味(結論)が導出されている。一見したところこの場合には、一定のコンテクスト(前提)から無数の結論を導出することが可能であるようにはみえない。しかし、そうではない。
   (6)「ジョンは、今朝駅のキオスクに立ち寄った。そして、ジョンはタイムズを買った。     いつも彼は、キオスクの電話で株を買うのだ。」
(6)の場合には、ジョンがタイムズ社の株を買ったという意味になるかもしれない。       (7)「ジョンは、今朝駅のキオスクに立ち寄った。そして、ジョンはタイムズをかった。     いつも彼は、キオスクの電話で株を買うのだ。しかし、今日は株式覧を見ただけ     で買うのをやめた。」
(7)の場合には、タイムズの朝刊を買ったという意味になるだろう。このように、(5)の発話にさらに別の発話がつけ加わることによって、(1)の発話の意味は変化する。もちろん、(5)と(6)と(7)とでは、コンテクスト(前提)が違っているのであり、そのために発話の意味(結論)が変化したのだといえる。しかし、(5)においてコンテクスト(前提)を構成していた発話そのものが変化したからではなくて、別の前提が加わったために、別の結論が生じたのである。今仮に
   (8) p ├ x (p、q、xは命題記号とする)
(8)という推論が成り立っているとしよう。
それに別の前提が加わるとこうなったのである。
   (9) p,q ├ 〜x
(8)と(9)がともに成り立つということは、古典論理学では普通はありえない。論理的にこれを説明するには、ここに別の暗黙の前提Dnが働いているのだと見なければならない。
   (10) p,D1 ├ x   (D1、D2は、命題の集合を示す記号)
   (11) p,q,D2├ 〜x
コンテクストが、常にひらかれており、別の発話がつけ加わることによる変更の可能性がつねに残るのだとすれば、それは、コンテクスから発話の意味を推論するときには、つねに上のようなDnが残るということである。
 我々は、たとえば、(10)のD1を反省熟考によって明言することはできないだろう。なぜなら、D1を明言できたとすればそのときには、それにどのような発話がつけ加わっても、結論はもはや変化しないことになるからである。そのようなことは、どのような発言も、別の発言がつけ加わる事によって変更の可能性があるということに矛盾するのである。
 すくなくとも、実際には、D1を言明しようともしていないし、その存在を意識すらしていないにもかかわらず、(10)のような推論をしているのだとすると、その推論は、演繹推論ではない。この推論では、結論は一義的には決まらない。つまり、同じコンテクスト(前提)から、反対の結論を導出することが可能なのである。たしかに、例えば(4)のコンテクストでは、ジョンはタイムズの朝刊を買ったという意味に理解するのが普通だろう。しかし、ジョンはタイムズ社を買ったという意味にとることが、論理的に不可能であるわけでない。

   §2 デフォールト推論と問答
 さて、「コンテクストにおける発話の意味の理解は、デフォールト推論によって行われている」とすれば、テーゼ1を証明するためには、我々は、次のテーゼを証明すればよいだろう。
  テーゼ4「デフォールト推論は、その結論を答えとするとする問いとの関係によっての      み可能になる」
 演繹推論でも、ましてやデフォールト推論ではなおのこと、どのような一定の前提からも論理的に導出可能な結論は、無数にある。自明のことかもしれないが、一応説明しよう。演繹推論において、与えられた一定の前提から結論を導出するときには、論理的には、無数の結論の導出が可能である。三段論法での例を挙げれば、「sはmである」「mはpである」という二つの前提からは、「sは〜mでない」「あるmはsである」「ある〜sは、〜mである」などが導出でき(これらは「sはmである」だけから直接推理できる結論)、また、「mは〜pでない」「あるpはmである」「ある〜mは〜pでない」などが導出でき(これらは「mはpである」だけから直接推理できる結論)、また、「sはpである」「sは〜pでない」「あるpはsである」「ある〜sは〜pである」などが導出できる。さらに、例えば、これらの一つ「sは〜mでない」からは、「〜m」にそれに属する種概念や個体概念をいれるとほとんど無数の命題を作ることができるだろう。「〜s」「〜p」についても同じことがいえる。このように演繹推論でも、一定の前提から論理的に導出できる命題は非常に多数あるのだから 、デフォールト推論の場合には、それ以上に多くの命題を結論とすることが可能である。
 このように前提から論理的に導出できる結論が一つに確定しないにも拘らず、一つの結論が導出されるということは、前提がその結論の導出を促すのではなくて、結論の導出を促すものが他にあるということである。では、発話の理解について、結論を出すように促すメカニズムとはどのようなものだろうか。もし、問いが与えられていて、デフォールト推論がその問いに答えるために行われているのだとすれば、結論の多様な可能性の中からの選択は、その問いに対する答えとしてもっとも適切なものの選択として、行われるのだといえる。あるいは、問いが前提されていなくても、一定の結論を出すように迫られた時点で、最も適切な問答関係を同時に想定するという仕方で、発話の意味の理解が行われると考えることもできる。しかし、以上のことから言えるのは、デフォールト推論は、その結論を答えとする問いとの関係によって成立する<場合がある>、ということであって、そのような関係によって<のみ>成立する、ということの証明としては不十分である、という反論があるかもしれない。以下で、この反論に答えたい。

   §3 行為の意図の理解は、デフォールト推論である
 我々は、ここからしばらく行為の意図がどのように理解されるのかを吟味して、それを経由して発話の意味の問題に戻りたいと思う。
 一般に、行為を理解するためには、行為の意図を理解することが必要である。なぜなら、行為の意図は、行為の不可欠の構成要素であるからだ。ところで、発話もまた、行為の一種である。したがって、会話においても、発話の意図は、発話の不可欠の構成要素であって、発話を理解するためには、発話の意図を理解することが必要であろう。実際に、話し手は、ある意図を伝えようとして発話するのだろうし、聞き手が発話の意味を理解しようとするときには、話し手の意図を理解しようとするだろう。そこで、とりあえず、「発話を理解することは、発話の意図を理解することである」と仮定してみたい。そうすると、コンテクストにおける発話の意図の理解は、デフォールト推論であることになる。問題は、このデフォールト推論がどのように行われるか、の解明であるが、まず、それに先だって、「行為一般における意図の理解はデフォールト推論によって成立している」ということ、しかも、「そのデフォールト推論は、問答関係によってのみ成立する」ということを、明らかにしたい。
 たとえば、次の意図を考えてみよう。  
   「明日映画を見にゆこう」
このとき、ふつうは次のような、諸々の条件をつけ加えることができる。
   「明日早朝に逮捕されなければ」
   「今晩、交通事故にあわなければ」
   「今晩、大地震が起きなければ」
これらのことが、明日映画を見に行こうと意図するための条件となることは、自明であるように思われるが、しかし、普通は、このように断らない。その理由の一つは、これらの条件を全て網羅することは不可能であるということであり、もう一つの理由は、普通はこのように特に断らないのに、敢えて断るとすれば、例えば、敢えて「あす早朝に逮捕されなければ、明日映画に行こう」と言うとすれば、「あす早朝に逮捕される可能性がある」と考えていると、相手に思わせることになってしまうということである。
 「意図の言明のほとんどは省略形であり、これから自分たちが実際には何をするのかという疑いによってはじめてそれは元の形に戻される、と言う見解がある。しかし、その省略形の言明が代わりを努めているはずのより正確な言明を提供する、満足すべき一般的方法が存在しないことをしるならば、この見解にはどこかおかしいところがある、ということを認めるべきである。その理由は明白である。すなわち、意図していることを行うのに、妨げとなるかもしれないもの、あるいは我々の実行を押しとどめるかもしれない状況、そういったものの枚挙にはいとまがないということである。・・・我々は、自分たちが何をしようとおもっているのかを、その細部や不測の事態については不明なままに、明確にすることができる。」デイヴィドソンがここで言うように、意図を言明するときに、意図の条件を明確に表現することは不可能である。そうすると、意図の内容は、意図の言明だけからでは理解できないことになる。
 たとえば、上の「明日映画に行こう」という意図では、それが成立するための暗黙の条件の総体をD1とすると、つぎのようになる。
   「(D1ならば)明日映画を見にゆこう」
この暗黙の前提D1を完全に網羅することは不可能である。しかし、意図を理解するには、このD1を理解する必要があるだろう。なぜなら、このような条件を知らないときに、意図を明確に理解していると言えないからだ。我々は、このD1を暗黙に前提することによって、「明日映画を見に行こう」という意図(の発話)を理解しているのである。それゆえに、行為の意図の理解は、デフォールト推論によって成立しているといえる。
 では、このデフォールト推論において、暗黙の前提を全て明示的に言明できないにも拘らず、したがってまた、それらの前提から導出可能な結論が複数にあるにも拘らず、明確に意図を理解できるのは何故なのか、つまり、一つの結論を導出できるのはなぜだろうか。意図している者が、自分の意図を完全に明示的に言明できないにもかかわらず、意図を明確に理解できているのはなぜだろうか。それは、彼が意図の理由(「なぜ、そう意図するのか」という問に対する答)を知っているからである。そして、これの証拠として、われわれは、「なぜそうするの」と問われるとき、即座に答える事が出来る、という事実を挙げることができる。これに答えられないときには、自分がいったい何をしようと意図していたのか、自分でもわからなくなるだろう。「意図を理解するには、その理由を理解しなければならない」ということを以下で証明したい。
 ここで、次のように仮定しよう。私はaを意図する。aを意図する理由はbであり、bを意図する理由はcである。aは、bのための手段であり、bは、cのための手段である。この場合、私はcを意図し、その実現のためにbを意図し、その実現のためにaを意図する。この例において、aの意図を理解するためにはbを理解しなければならないといえるだろう。その理由はこうである。このような条件下では、もし
     a,x ├ 〜b
となるような、xが生じたならば、aは行わないだろうということが、自明であるが、それを理解するためには、bを理解しなければならないからである。つまり、bを実現するために、aをなそうと意図しているときには、上のようなxが生じれば、aを行わないだろう。このxのような事態をすべて網羅することはできないが、しかしbを知っていれば、それを知ることになるのである。
 ところで、このように考えると、ある意図aを明確に理解するには、より上位の意図bを理解しなければならないということになる。しかし、この意図bを明確に理解するためには、さらにより上位の意図cを理解しなければならないだろう。そうすると、aを明確に理解するには、cも理解しなければならないのだろうか。
 おそらくそうではないだろう。aを明確に理解するには、bについての一応の理解があれば必要充分であって、その明確な理解を必要とするわけではない。なぜなら、aを明確に理解するとは、aを意図する際の暗黙の条件D1を理解できるということであって、そのためにはbを理解すれば必要充分であって、bを意図する際の暗黙の条件D2までも理解する必要はないからである。たしかに、D2が充たされていないときには、bを実現してもcを実現できなくなるので、意図bは消滅する。そうするとそのための手段であった、意図aも消滅するだろう。その限りでは、D2もまた、aを意図する際の暗黙の条件であるといえそうである。
   a,〜D1 ├ 〜b
   b,〜D2 ├ 〜c
しかし、もし暗黙の条件であるD1やD2の中には、外的な状況の記述だけ含めて、行為者の意図についての記述を含めないことにすれば、つまりcを含めないことにすれば、〜D2だけが生じても、aと〜D2だけでは、〜bは帰結しない。もちろん、暗黙の条件であるD1の中に、行為者の意図の記述を含めることにしてもよいのだが、その時には、cのより上位の意図の記述も、またそのより上位の意図の記述も、・・・というように意図の全系列の記述がそこに含まれる事になるだろう。しかし、我々が、普通にある意図aを理解するというときに、理解している暗黙の条件とは、このようなものではなく、外的な状況の記述だけを含むものだと思われる。
 たとえば、講義に出るために、電車に乗ろうとし、電車に乗るために、駅まで走っているとしよう。ところが、途中で、友人に会って「今日は休講だよ」と聞いたとき、電車にのる必要はなくなり、したがって駅まで走る必要もなくなる。「駅まで走ろう」という意図は、目的の電車に乗るためなのか、友達と競争するためなのか、健康のためなのか、によって意味が違ってくるように思われるのだが、しかし電車に乗るのが、講義にでるためなのか、映画にゆくためなのか、デイトに行くためなのか、によって、「駅まで走ろう」という意図の意味が変化するようには感じられない。つまり、何のために駅まで走ろうとするのかを理解できなければ、駅まで走ろうという意図の理解は、曖昧なものになるように思われるが、それが電車にのるためであると解れば、何のために電車にのるかを知っても知らなくても、「駅まで走ろう」という意図の意味が変わるようには思われない。つまり、我々は、意図の意味を理解するときの暗黙の条件として、外的な状況だけを考えているように思われる。従って、我々は、意図aを明確に理解するには、より上位の意図bについての一応の理解があれば充分であって、 意図bの明確な理解、つまりそのより上位の意図cの理解までも必要とするわけではない、と言えるだろう。
 かくして「意図を理解するには、その理由を理解しなければならない」といえる。ところで、私がaを意図する理由がより上位の意図bである、という場合に、bを実現しようという意図があるということは、当然のことながら、bが実現されていないという現実があることを伴立している。正確にいえば、ここで私は、より上位の意図bと現実の矛盾という問題状況に陥っている。(ここで「意図bと現実の矛盾」というのは、正確には、意図が目指している状態を記述した文と、現実の状態を記述した文が両立不可能というべきかもしれない。)
このような問題状況において、aを意図することは、この問題状況(より上位の意図と現実との矛盾)を解決しようとする行為である。つまり、「意図を理解するためには、その理由を理解しなければならない」ということは、「意図を理解するためには、それを問題状況にたいする答として理解しなければならない」ということなのであり、我々は、「行為の意図を理解するためのデフォールト推論は、問答関係によってのみ成立する」と主張できる。

   §4 行為論の発話行為論への転用
 ところで、発話行為についても、その意図を理解するには、その理由を理解しなければならないと言えるだろうか。
 行為拘束型(約束)や行為指示型(依頼や命令)などの、意図を表明する発話については、上の議論がそのまま妥当すると思われるので、特に問題になりそうな主張型発話について考えてみよう。
    「フランスは6角形である」
「フランスは6角形ではない」
上の発言のいずれも、適切な条件下では、真の主張となる。前者は、たとえば「簡単な図形に例えるならば」という条件下では真であり、後者は、たとえば「厳密さを求めるならば」という条件下では真となるだろう。また、これらの条件を逆にすれば、偽となる。つまり、主張型発話にも、デフォールトな条件が存在しているということである。そして、このデフォールトな条件を全て網羅することはできず、それにも関わらず、主張型発話の真理値を判定するためには、行為の意図の報告と同様に、なぜそう主張するのかという理由(より上位の意図)を知ることが必要だろう。ちなみに、これらが異なる問に対する答であるかぎり、どちらも正しく、矛盾しない。これらが矛盾するのは、同一の問に対する答としてだけである。また、表現型発話や宣言型発話についても、同様の指摘ができるだろう。
 次に、発話行為の意図について、もう少し詳しく分析しておこう。

   §5 発話行為と理由
行為については、先に見たように、行為xの理由aの理由bの理由c・・という系列が存在する。発話については、どうなるのだろうか。ここでサールに従って、言語行為を次のようにわけることにしよう。
  (a)発話行為(utterance act)=語(形態素、文)を発話すること
  (b)命題行為(propositional act)=指示と述定を遂行すること
  (c)発語内行為=陳述、質疑、命令、約束、などを遂行すること
  (d)発語媒介行為=発語内行為という概念に関係を持つものとして、発語                 内行為が聞き手の行動、思考、信念などに対して帰結(conse-
quence)または結果(effect)を及ぼすこと
これらの行為の意図の系列は次のようになるだろう。(念のために申し添えるが、(a)の発話行為は、私が他の場所で「発話行為」(speach act)と呼んでいるものとは異なる。)
   発話行為 → 命題行為 → 発語内行為 → 発語媒介行為
これらは、もちろん時間的に区別される別の行動なのではなくて、同一の振る舞いのことなる記述である。これは、電灯をつけるためにスイッチを入れる場合における、スイッチを入れる行為と電灯を付ける行為の関係と同じだと言える。
(1)命題行為と発語内行為の関係
 我々は、「命題行為の意図(例えば、指示の意図や、述定の意図)を理解しようとすれば、そのより上位の意図である発語内行為の意図を理解しなければならない」といえるだろうか。。少なくとも、命題行為の理解のために、発語内行為を理解することが必要である場合があることは、確実である。たとえば、話し手と彼の上司と彼の部下がいる部屋で、次の二つの発話のいずれかが行われるとしよう。
   「そのボールペンを貸していただけますか」
   「そのボールペンを貸しなさい」
このとき、発話の発語内行為の違いによって、つまり依頼と命令の違いによって、発話の受け手と「そのボールペン」の指示対象は、別のものになる。したがって、この場合には、命題行為、特に指示を理解するために、発語内行為を理解することが必要である。
 では、<常に>必要だといえるだろうか。次のように語るサールならば、常に必要だと認めるかも知れない。「命題行為は、それのみで生ずるということは、有り得ない。すなわち、主張、質疑、その他の発語内行為を遂行することなしに、単に指示と述定を行うのみであるということは、ありえない。この論点を言語表現に関して考えるならば、ものごとを述べるために使われるのは文であって語ではないということになる。そしてさらに、この論点は、フレーゲが「語は文の脈絡においてのみ意味をもつ」と語ったときに意味していたことでもある。このことを私の用語で述べるならば、次のようになる。指示は発語内行為の遂行の一部としてのみ行われるのである。」このように考えるならば、上の例では、偶然に指示や述定の理解と発語内行為を理解が結合しているのではなく、上の例に限らず、つねにこの二つは結合していることになる。もちろん、ある発話の指示と述定の意味が、発語内行為の理解の変化に応じて変化しない、という場合も多いだろう。しかし、このような場合にも、指示と述定の意味は、発語内行為の理解との調整によってはじめて確定するのだといえる。
(2)発語内行為と発語媒介行為の関係
 では次に、「発語内行為の意図を理解しようとすれば、発語媒介行為の意図を理解しなければならない」といえるだろうか。我々は、発語内行為を行うことに「よって」、発語媒介行為を行う。しかし、発語内行為を遂行すると、規約によって、発語媒介行為を遂行したことになるのではない。しかし、また自然的因果性によって、発語媒介行為を遂行したことになるのでもない。グライスが言うように、話し手の発語内行為の認知に基づいて、聞き手にある効果が生じることが必要である。発語媒介行為は、聞き手にあることをさせる。しかも、聞き手に自発的意図的にそれをさせるのである。オースティンは、この関係を一定の反応や後続事件を「誘発する」と述べている。
(ア)間接的発語内行為の理解と発語媒介行為の理解の関係について
 間接的発語内行為は、確かに直接的発語内行為と、目的と手段の関係にあるのだが、その際にも、話し手は、間接的発語内行為を手段として発語媒介行為を行うことを、目的として意図している。
   直接的発語内行為 → 間接的発語内行為 → 発語媒介行為
 聞き手が、ある発語内行為がどのような間接的発語内行為を行っているか、を理解するためには、彼は発語媒介行為を知る必要があるだろう。ある発語内行為が、どのような発語媒介行為を目指しているかを推測して、その推測にうまく合致するように、間接的発語内行為を想定するのだと思われる。
 たとえば、「ここは暑いですね。そのブラインド、降ろせますか」と問う場合、普通は、「ブラインドを降ろしてください」という間接的発語内行為が遂行されている。ただし、引っ越しのための家探しで、中古住宅を見に行ったときに、「そのブラインド、降ろせますか」と尋ねるときには、文字どおりの質問であり、間接的発語内行為は遂行されていない。また、道を歩いているときに、自動車が横に止まって、「この近くにガソリンスタンドがありますか」と問われたときには、話し手はガソリンスタンドに行きたくて、それがどこにあるのかを教えてもらいたいのだ、と考えるのが普通である。したがって、上の質問に「はい、あります」と答えるだけでは、その質問を理解しているとはいえない。
 間接的発語内行為をもつか否か、どのような間接的発語内行為をもつかは、その発話で話し手が何を意図しているか、つまりどんな発語媒介行為を意図しているかの推定にもとづいて、推定される。
(イ)発語内行為の理解と発語媒介行為の理解の関係
 発語内行為の理解にも、発語媒介行為の理解が必要だと言えるだろうか。少なくとも、発語内行為の理解には、発語媒介行為の理解が必要である場合が存在する。例えば、「私は嘘は申しません」という命題の発話は、私が現在語っていることは、嘘ではないという事実を主張する場合と、私は今後嘘をつきませんと約束する場合と、二通り考えられる。そのいずれであるかは、話し手がどのような発語媒介行為を意図しているかを、コンテクストの中でどのように想定するかによって、決まってくるだろう。(現実の発話では、その両方ということもありうる。)また例えば、ある疑問文の発話が、質問であるか、反語であるかの判断は、話し手が返答を求めているか求めていないかの判断、つまりどんな発語媒介行為を意図しているかの判断に基づいて行われる。(ただし、反語は、間接的発語内行為というべきかもしれない。だとすれば、これは、発語媒介行為によって、発語内行為が変化するという証拠にはならない。)
 では、発語内行為を理解するには、<常に>発語媒介行為を理解する必要があると、言えるだろうか。グライスの意味論が正しいとすれば、そう言えるだろう。例えば、彼によれば、主張という発語内行為は、聞き手にpを事実であると信じさせる、という発語媒介行為を意図していることだけでなく、しかも、そのように意図していることを相手が認知することを意図するということが、必要条件である。つまり、主張という発語内行為は、発語媒介行為を為すという意図を表明することによって、成立することになる。それならば、我々はそこから「発語内行為を理解するには、発語媒介行為の意図を理解しなければならない」と言えるだろう。このことは、主張以外の、約束や命令などの他の発語内行為についても同様である。
 さて、以上議論をまとめておこう。命題行為(指示と述定)を理解するには、発語内行為を理解しなければならず、発語内行為を理解するには、発語媒介行為を理解しなければならないということが解った。もし普通に発話の理解と呼ばれているものが、命題行為と発語内行為の理解を指すのだとすれば、我々は「発話の意図を理解するには、より上位の意図(発語媒介行為の意図)を理解しなければならない」と言える。そして、より上位の意図と現実との矛盾が問題状況を構成しており、発話がその解決として行われているのだとすると、「発話の意図は、それがどのような問題状況への答であるかによってのみ確定する」と言えるだろう。ところで、すべての発話には、それが妥当であるためのデフォールトな条件が隠されているので、発話の理解は、デフォールト推論によって行われていた。そこで、今や、このデフォールト推論は、より上位の意図(発語媒介行為の意図)の理解によって可能になっていることが解る。このことは、発話の意味のデフォールト推論は、発話を問題状況への答えとして理解することによって可能になるということに他ならない。我々は、話し手としては、発話の意味を 一定の問いへの答えとして理解している。聞き手としては、話し手が当の発話をどのような問いへの答えとして理解しているのか、を理解することによって、当の発話の意味を理解しているのである。聞き手は、話し手の想定している問答を推測しなければならないのであるが、これがさらにデフォールト推論になっているのであるから、聞き手による発話の理解は、「二重のデフォールト推論」であるだろう。

   第3章 基礎付け問題
 さて本論冒頭に述べた基礎付け問題にもどろう。我々がミュンヒハウゼンのトリレンマに陥るのは、「なぜ、なぜ」と問い続けるためであるので、まず「なぜ」という問いの分析を行い、それを踏まえて、決断主義や討議倫理学の基礎付け主義のへの批判的な検討を行いたい。

   §1 「なぜ」質問の分類
「なぜsはpなのか」という質問は、次の3つに区別できるだろう。
   (1)「sがpである」という事実や出来事の<原因>を問うもの。
   (2)「sがpする」という行為の<理由>を問うもの。
   (3)「sがpである」という発話行為の<根拠>を問うもの。
 (2)の場合の主語には、自然人格(人間)だけでなく、国家や会社や団体などの人為人格も含まれるし、また、動物の行動に意図を想定するばあいには、動物が主語になる場合もありうるだろう。ちなみに、人間の行為についても、「なぜ」という問いで行為の原因を問うことも可能である。例えば、「なぜ、彼を殺したのですか」と問われて、「ついカッとなってしまったからです」と答えるような場合である。
 (3)については、説明が必要であろう。例えば、主張の発話については、その主張「sはpである」の根拠を「なぜsはpなのか」という問いによって問える。命令についても、その根拠つまり命令が正当である根拠を問えるだろう。発話行為のこのような<根拠>は、サールが発語内行為の「事前規則」と名付けているもの(その一部)に他ならない。彼は、主張、陳述、肯定については、「話し手は、pが真であるということを支持する証拠(あるいは理由その他)をもっている」ということを事前条件とし、「依頼」については、「聞き手がそれを行う能力をもつ」ことを事前条件として、「質問」の場合には、「話し手がそれを知らない」こと、「助言」については、「話し手が助言する行為が、聞き手に対して益を与える」こと、「警告」については、「聞き手にとってその行為が利益にならない」こと、「祝福」の場合には、「その出来事が、聞き手の利益となる」こと、「挨拶」では、「sがhにちょうど出会ったところであること」などが、事前条件と言われるものである。これらの発語内行為を遂行することが正当であるためには、これらの事前条件が充たされていることが必要であり、 その意味は、発話の正当性の根拠であるといえるだろう。我々は、全ての発話行為について、このような正当性の<根拠>を問うことができる。

   §2 「なぜ」質問の特徴
 「なぜ」質問を上のように分類することによって、それらが他の疑問文の発話と比べて、次のような特殊な性質をもっていることが明確になるだろう。
 (1)その答が、全て主張型発話になる。原因の「なぜ」や根拠の「なぜ」に答えるのは、事実を述べる主張型発話であるが、理由の「なぜ」に答えることも、事実を述べる主張型であり、それには真理値がある。たとえば、「なぜ、今年はキャンプに行かないのですか」と行為の理由を問われて、「今年の夏は、論文を2本書くつもりだからです」と答えるとき、この答えは、意図を述べるものであるが、約束や依頼や命令などの意図表明ではなくて、意図についての報告であって、真理値をもつ。
 (2)「なぜ」疑問の答は、ほとんど複文(ないしその省略形)である。「なぜ、pなのですか」への答が、「なぜなら、qだからです」であるとき、これは、「なぜなら、qだから、pなのです」と答えるべきところを、省略して、「なぜなら、qだからです」と答えているのだといえる。つまり「なぜ」疑問文は、複文を完成するために用いられる問いである。もちろん、複文を完成するための問いは、他にもある。「彼は、何といったのですか」、「彼は、『p』と言いました」。「彼は、いつドイツに行ったのですか」、「夏休みが終わる前に、行きました」などである。しかし、これらの疑問詞を用いた質問は、常に複文を答とするわけではなくて、単文を答とすることも多い。しかし、「なぜ」疑問だけは、たいてい複文(ないしその省略形)を答とする。(ただし、「たいてい」といったように、例外もある。「なぜ、クーラーをかけないのですか」と問われて、「省エネのために、クーラーをかけないのです」と答えるときのように、原因や理由や根拠を名詞で表現するばあいには、答は単文になる。)
 (3)他の質問は、答に対して同じパターンの質問を繰り返すことができないのに、「なぜ」質問は、その答にたいして同じパターンの質問を繰り返すことができる。上述のように、「なぜ」質問への答はすべて主張型発話である。ところで、主張型発話については、3種類の「なぜ」質問が可能である。まず、主張の<根拠>を問える。つぎに、主張型発話は、他の発語内行為の発話とおなじく行為の一種であるので、その行為の<理由>を問うことができる。最後に、主張型発話は、他の行為と同じく出来事であるので、その<原因>を問うことも可能である。それゆえに、ある「なぜ」質問に対する答にたいして3種類の「なぜ」質問をすることができ、さらにその3つの答の各々にたいして3種類の「なぜ」質問をすることができる。そして、これは無限に反復可能である。(ただし、このような繰り返しは、「なに」質問、「どのようにして」質問、などでも可能であるので、「なぜ」質問だけに固有というわけではないが、ある種の質問の、特殊な性質であるといえる。)

   §3 原因の「なぜ」の反復問題
 ある出来事の<原因>を問うとき、その答は、事実を述べる主張型発話になるだろう。この返答に対して、原因となる出来事の<原因>を問うことができる。<原因>を問う問いは、無限に反復可能である。このように問い続けるとき、誰もがいつか答えられなくなるだろう。しかし、原因の原因が解らなくても、我々が懐疑主義になることはない(科学者は、懐疑主義には陥らない)。なぜなら、ある出来事がある出来事の原因になっていることは、さらにその原因が解らなくても、疑われることがないからである。もちろん、ある因果関係の主張については、その主張の根拠が問うことができる。そうして主張の根拠を問い続ける者だけが、懐疑主義に陥るのである。主張の根拠をどこまでも問い続ける者は、哲学者だけであるだろう(あるいは、哲学者になるだろう)。なぜなら、主張の根拠を問い続けると、その問題は、当初の主張の個別科学領域を超えて、非常に基礎的な問題(哲学的な問題)になるからである。
 ところで、原因の「なぜ」の反復には二種類の仕方がある。「なぜPが生じたのか」という原因への問いに、「なぜなら、Qが生じたから、Pが生じたのです」と答えるとすると、この答は、「もし、Qが生じるならば、Pが生じる」ということを前提している。この前提が、因果法則である。ここでは、次のような推論が構成されている。
  「なぜPが生じたのか」
     もし、Qが生じるならば、Pが生じる (因果法則)
    「Qが生じた (原因)
     ゆえに、Pが生じた」 (結論)
それゆえに、原因の「なぜ」の反復には二種類の仕方がある。つまり、我々は原因の原因へと遡ることもできるし、因果関係の原因へ遡って、「なぜ、そのような因果法則が成立したのか」と問うこともできるのである。言うまでもないかもしれないが、これは、因果法則を主張する根拠を問うものではない。この問いは、因果法則が事実であることを認めた上で、その原因を問うものである。

   §4 理由の「なぜ」の反復問題
 行為の<理由>を問うとき、その答はより上位の意図を記述する主張型発話になるだろう。この返答に対して、さらにその意図の<理由>を問うことができる。この意図の<理由>を問う問いも、反復可能である。そして、この場合にも、誰もがいつが答えられなくなるだろう。ところで、理由の「なぜ」に答えられなくても、我々は懐疑主義にはならない。なぜなら、「なぜ・・・したいのか」という問は、意図の存在を前提してるので、意図の存在を脅かすことはないからである。「私は、なぜ幸福になりたいのか」と自問したときに、もはやそれに答えられないとしても、その意図が曖昧になるわけではない(このような主張は、第二章の主張と矛盾するという反論があるかもしれないが、それについては、次の段落で答える)。それでは、我々は、自分の意図については懐疑することは無いのか、と言えばそうではない。むしろ我々は、しばしば「私は本当に・・・したいのだろうか」と悩むだろう。そして、このように自問するときに、意図の存在は曖昧になってくる。じつは、「私は本当に・・・したいのだろうか」という問は、「私は・・・したい」という意図についての報告の根拠を、問うこ とである。このような問いの答に対して、さらに根拠を問う「なぜ」質問を繰り返すならば、誰も最終的には答えられなくなって、誰もが、自分が本当に何をしたいのか、についての懐疑に陥ることになるだろう。これは、次の§5でのべる根拠の「なぜ」の反復の一種である。
 ところで、行為の理由(意図)の理由(意図)の理由(意図)の・・・と遡れば、誰もがいずれどこかで止まらざるを得ないだろう。しかし、第二章で見たように、「意図を理解するには、その理由(より上位の意図)を理解しなければならない」とすると、この系列の最後の意図は、より上位の意図をもたないので、明確に理解できないのだろうか。
 そうではないだろう。例えば、アリストテレスは、「幸福になろう」という意図が、最終的な意図であって、この意図は目的となって手段となることのないものであるという。従って、この意図には、上位の意図はない。しかしそのことによって、この意図が曖昧になるわけでなない。なぜなら、「xをしよう」という意図が、明確でないとは、それをしないことになる可能性の総体D1が解らないことであった。そのD1は、xの目的を知ることによって、知ることができるので、より上位の意図を知らなければ、その意図を明確に知ることができない、ということであった。ところで、「幸福になろう」という最終意図には、より上位の目的がないので、実は、それを意図しないことになる可能性の総体D1のようなものが、存在しないのである。
 このことは、「幸福になろう」という意図にかぎらない。もし我々が、何かを意図して、それが最終意図であったとすると、それを意図しないことになるという可能性はないのである。もし、「世界一のランナーになろう」という意図が、「名声をえよう」というより上位の意図を持つときには、世界一のランナーになっても、名声を得られない状況が成立すれば、もはや「世界一のランナーになろう」とはしないだろう。しかし、もし「世界一のランナーになろう」という意図が最終意図である場合には、彼がそれを意図しなくなるような状況は存在しえない。
 しかし、より厳密には、つぎのように言わねばならない。この意図の場合でも、彼が事故で骨折して一生走れなくなったときにはもはや、「世界一のランナーになろう」とは意図しえないだろう。なぜなら、あることを実現しようと意図するためには、それが実現可能であると信じている必要があるからである。そうすると、ある意図を意図しなくなる状況には、二種類あるようだ。つまり、より上位の意図の実現が不可能になるために、ある意図を意図しなくなるという場合と、ある意図の実現が不可能になるので意図しなくなる場合である。
 ところで、「幸福になろう」という意図を最終意図としている場合には、それを意図しなくなるような状況は全く存在し得ないのではないだろうか。だとすれば、最終意図にも、二種類あることになる。つまり、世界の特定の状態についての信念を前提する意図と、前提しない意図である。
 世界の特定の状態についての信念を前提しない意図は、より上位の意図を持たない。なぜなら、仮にそのような意図xがより上位の意図yを持つとするとき、意図yは、世界の特定の状態を前提するか、しないかのどちらかであるが、しかしどちらの場合も矛盾するからである。これを証明しておこう。
 今かりに、世界の特定の状態D1を前提するとしよう。世界が変化してD1でなくなったとき、人はyを意図しえなくなる。その時には、yの実現のための手段であるxを意図することもなくなるだろう。ということは、意図xもまた、yと同じく世界の特定の状態D1を前提していたということになる。ところが、これは、前提に反する。ゆえに、yは世界の特定の状態を前提する意図ではない。
 つぎに、yが世界の特定の状態を前提しないとしよう。すべての意図は、世界の状態を変えようとするものであろうから、特定の世界の状態を前提しないで世界の状態を変えようとする意図は、一定の世界の状態を目標とするものではないことになる。なぜなら、たとえば特定状態D2を目標とする意図は、D2が実現したときには消えるはずであり、この意図は、世界のD2以外の状態であること、という特定の状態を前提する意図になってしまう。ところが、意図というものは、世界を変えようとするものであり、かつ実行可能な意図は、目標を必要とする。現在の世界状態D3をD4に変えようという特定の目標がなければ、具体的に意図を実行することは不可能である。「幸福になろう」という意図だけでは、その意図は実行不可能であり、今の状態D3よりもD4の方がより幸福であるから、D4を実現しようと意図するのでなければ、このような意図は実現できない。つまり、D4を実現しようとする意図は、一定の目標をもつ意図であるから、特定の世界状態を前提する意図である。意図yの実現の手段となる意図xはこのような意図でなければならない。しかし、これは前提に反する。ゆえに、意図y は、世界の特定の状態を前提しない意図ではない
 したがって、世界の特定の状態を前提しない意図xが、より上位の意図yをもつとすると、yが世界の特定の状態の信念を前提する、と仮定すれば矛盾し、前提しないと仮定しても矛盾する。ゆえに、世界の特定の状態を前提しない意図xは、より上位の意図をもちえない。ゆえに、世界の特定の状態を前提しない意図は、常に最終意図である。アリストテレスは、幸福の追求は目的となりうるが、決して他の目的の手段となることはないということを指摘したが、その原因を示していなかった。我々は、どうして幸福の追求が他の目的の手段となりえないのかを、上のように説明することができるだろう。(誤解の無いようにつけ加えておくのだが、もちろん、このことから直ちに幸福説の主張が帰結するわけではないし、ここで幸福説の主張を意図してるのでもない。)

   §5 根拠の「なぜ」の反復問題
 主張や命令などの発話の<根拠>を問うとき、その答は、事実を述べる主張型発話になるだろう。この返答に対して、主張の<根拠>を問うことができる。このように<根拠>を問う問いは、無限に反復することが可能である。「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」は、このような反復から生じる事態である。
 ところで、発話の正当性の根拠を答えるということは、正当な手続きが行われていることを示すことであるだろう。それゆえに、我々は、「なぜ、Pなのか」という根拠への問いを、「どのようにして、Pと主張するのか」という問いで言い換えることができるのはないか。(ちなみに、日本語の「どうして」はしばしば「なぜ」と同じ意味で用いられる。)このように、根拠の「なぜ」への問いが、「どのようにして」という主張の作り方を問うことだとすると、根拠の「なぜ」の繰り返しが行き詰まるとき、それもまたおなじところで行き詰まることになる。たとえば、「どうして1に1を足すと2になるのか」と問われると、もはや答えられない。なぜなら、「1を足す」という行為は、それ以上分解する事ができないものであり、いわば「基本行為」だからである。根拠の「なぜ」は「基本行為」で行き詰まる。あるいは、根拠の「なぜ」が行き詰まることころを、思考の「基本行為」と考えることができる。この点をもう少し、詳しく説明しよう。
 たとえば、「どのようにして窓を開けたのか」と問われると、たとえば、「まず、取っ手を回し、そして窓枠を向こうに押して、窓を開けた」と答えることができる。そこでまた、「どのようにして取っ手を回したのか」と問われると、たとえば、「取っ手を右手でつかみ、手を右に回した」と答える。しかし、この「どのようにして」という問いを繰り返すと、誰もがどこかで答えられなくなるだろう。このようにして「どうして」と問続けて最後に行き着く行為、「他の何かを為すことによって遂行される」という言い方ができないような行為、それをウリクトは、「基本行為」と呼ぶ。
 基本行為は、いわゆる身体行為について論じられてきたのだが、我々は、思考についても「基本行為」を考えることができるだろう。つまり、「どのようにして、そう思考したのか」という問いを繰り返して、もはや答えられなくなるとき、それが思考における「基本行為」であるといえるだろう。たとえば、かけ算をするときに、かけ算は、足し算の繰り返し、わり算は引き算の繰り返しを為すことによって、遂行される。そして、足し算や引き算は、「1を足す」あるいは「1を引く」ことの繰り返しによって、遂行される。計算するときの「基本行為」は「1を足す」と「1を引く」である。ここで、「なぜ、7に5を足すと12になるのか」と問われると、我々は「なぜなら、5を足すということは、1を5回たすことであり、7に1を5回足せば、12になるからである」と答えることができる。しかし、「なぜ、7に1を足せば8になるのか」と言われると、もはや我々はそれに答えることができない。そのような主張を引き出すための正当な手続きをもたないからである。このような思考の「基本行為」については、もはや「どうして」「なぜ」に答えられないし、また根拠を求めて「どうして 」「なぜ」を繰り返して答えられなくなったときには、思考の「基本行為」に行き着いていると言えるのではないだろうか。
 推論の場合には、「どのようにして、・・・と推論するのか」という問いは、推論の「基本行為」に行き着く。たとえば、同一律や矛盾律や分離則の適用ということが、推論における「基本行為」になるだろう。そこで、例えば「なぜ(どのようにして)同一律を適用するのか」と問われると、もはや答えられない。もちろん、規則の適用のためのメタ規則を立てることはできる。(この方法が、メタメタ規則を必要とするために、規約主義のパラドクスに陥るということを別にすると)この方法は、「基本行為」と見られたものを、さらに細かな諸行為に分けることに成功しているのだろうか。おそらくそうではないだろう。これは、指を曲げるという「基本行為」を「ある筋肉mを引き締める」という行為によってなそうとし、さらにその行為をなすために再び「指を曲げよう」とするようなものである。
 ちなみに、日本語では、原因の「なぜ」と根拠の「なぜ」の質問は、「どうして」や「どのようにして」の質問に言い換えられるのだが、理由の「なぜ」の場合には、そうではない。「なぜPしたのか」という理由への質問は、「どうしてPしたのか」という質問で言い換えられるだろう。しかし、これを、「どのようにしてPしたのか」といいかえることはできない。「なぜ、スパゲッティを作ったのか」と「どのようにしてスパゲッティを作ったのか」とは、全く別の質問であり、前者は作った目的を問い、後者は作り方を問う。理由の「なぜ」が行為の目的を問うのに対して、行為の仕方を問うことは、その行為をおこなう手段を問うことに他ならない。この二つは、目的手段関係の系列を逆方向にたどる質問である。
 さて、以上の分析と第1、2章で証明を試みたテーゼ1を踏まえて、討議倫理学と決断主義と規約主義について批判的に検討しよう。

   §6 討議倫理学への批判的検討
 アーペルに代表される討議倫理学は、我々が言語を用いて考えたり議論するには、それが成り立つための一定の前提条件があり、それを疑ったり否定することは、語用論的な矛盾をおかすことになり、無意味であると考える。これによって、彼は、懐疑主義や非合理主義の発話が無意味になると主張する。こうして、彼は、超越論的語用論の諸前提を認めざるを得ない、ということを基礎付けるのである。「私が、あるものについて、現実に自己矛盾に陥ることなくしてはそれを否認できず、また形式論理的な意味で論点先取におちいることなくしてはそれを否認することができない場合、このあるものとは、論証という言語ゲームがその意味を失わずに存在することを望むならば、必ず受け入れていなければならない、論証の超越論的語用論的な諸前提である。」
 このような語用論的前提として、彼が具体的に挙げるのは、レンクのいう「最小論理」であり、ヒンティカが語用論的分析によって、確実性を論証した「我あり」であり、討議参加者の「相互承認」などである。
 以上のような討議倫理学の主張に対して、ここでは次の点を批判したい。つまり、アーペルが、超越論的語用論的な諸前提は、否定できないだけでなく、それを疑うことも語用論的矛盾になる、と考えている点である。たとえば、彼は、「私が存在する」を疑うことすらできないと考える。しかし、我々が第1、2章で証明を試みたテーゼ1が正しいとするならば、「私が存在する」という発話もまた、問にたいする答としてのみ意味を持ちうるはずである。したがって、もしアーペルのように、「私は存在するのか」という自問を認めないとすると、「私は存在する」という発話も無意味なものになるだろう。それゆえに、もし我々のテーゼ1が正しければ、我々は、「私は存在するのか」という質問は、語用論的に矛盾しているとしても、しかし無意味ではなくて、有意味な問いであることを認めなければならない。これによって、我々は、「私」の存在を疑うことが可能であることを認めることになる。アーペルは、超越論的語用論的諸前提を否定したり、疑ったりする発話が、無意味であると考えて、それに基づいて、懐疑主義の主張が無意味であると批判するのである。もし、我々がテーゼ1を主張 するならば、我々は懐疑主義の意味論的な可能性を認めなければならないだろう(もちろん、このことは懐疑主義に立つということとは別のことである)。
これについて、もう少し、詳しく見ておこう。「なぜ・・・なのか」と問われ続けて、最終的に語用論的な諸前提を表現した命題を主張する答に行き着いたとしよう。たとえば、根拠の「なぜ」の繰り返しによって、「なぜなら、私が存在するからだ」と答える事態になったとする。このとき、さらに「なぜ、あなたは存在するのですか(なぜ、あなたは存在すると言えるのですか)」と問われたとすると、そのとき、アーペルは何と答えるだろう。彼は、「そのような問いは、語用論的矛盾であり、無意味である。したがって、答えることはできないし、必要もない」と言うのだろうか。
 確かに「あなたは存在しない」という発話ならば、その発話は、語用論的矛盾である。ならぜなら、それは、相手にそのように語りかけることにおいて、相手の存在を認めているからだ。このことは、ヒンティッカとアーペルが指摘しているとおりである。(ちなみに、マンガの主人公の台詞「おまえはもう死んでいる」が数年前に有名になったのは、その台詞が語用論的矛盾であるが故にもつことになった、詩的な機能のためであろう。)さらに、これと同様に、「あなたは存在しますか」という質問もまた、質問する行為において相手の存在を既に認めているのだから、語用論的矛盾である、とアーペルならば(明言していないが)言うはずである。もし、先の「なぜあなたは存在するのですか」という問いが、「あなたは存在しますか」という問いと同じだとすると、アーペルは、上のように答えるだろう。
 しかし、「なぜあなたは存在するのですか」という問いは、「あなたは存在しますか」という問いとは異なる。「なぜあなたは存在するのですか」という問は、相手の存在を疑っている問ではなくて、相手が、「私が存在する」と主張する根拠を尋ねている問である。これに対して「あなたは存在しますか」という問いは、相手の存在そのものを疑っている。
 では、アーペルがこの問いを有意味だと考えて答えるとすれば、彼はどのように答えるのだろうか。このように問われた者が、これに答えるためには、「なぜ私は存在するのだろうか」と自問しなければならないだろう。ところで、アーペルの立場で、このように自問することができるのだろうか。「私は存在するのだろうか」と問うことは、語用論的矛盾になり、不可能であるというのが、アーペルの考えだった。それでは、「なぜ私は存在するのか」という問は、どうだろうか。この問は、「私が存在すると考える根拠は何か」という問に言い換える事ができだろう。「私が存在している」という信念をもつことと、この信念の根拠を問うことは、矛盾するのだろうか、しないのだろうか。この答は、「信念の根拠を問う」ということの意味によって異なる。もし、信念の根拠が存在することを前提して、その根拠がどのようなものであるかを問うのならば、信念をもつことと、その信念の根拠を問う事は矛盾しない。しかし、信念の根拠の存在を前提せずに、根拠が存在するのかどうか、もし存在するとすればそれはどのようなものであるか、を問うことであるならば、信念をもつことと、その信念の根 拠を問うことは、矛盾するだろう。
 我々は、「根拠を問う」の意味は、前者であると考えたい。なぜなら、「なぜsはpなのか」と自問するときには、sはpであると想定しており、したがって、その主張に何らかの根拠があると想定しているだろうと、思われるからである。もし、そのような想定がないならば、「なぜ、sはpなのか」と自問するのではなくて、むしろ「本当にsはpなのだろうか」と自問することになるだろう。他者に「なぜ、sはpなのか」と問うとき、その者自身は、sがpであるということを疑っているかもしれないが、相手が、そのような信念をもち、その信念の何らかの根拠をもっていると想定していることを予期しているはずである。したがって、「なぜ、私は存在するのか」という問は、「私は存在するのか」とは違って、語用論的に矛盾しないだろう。
 もしアーペルが「なぜ私は存在するのか」という問を有意味な問として認めて、これに答えるとすると、彼はどのように答えるだろうか。「なぜなら、私が存在しないという主張は語用論的矛盾になるからです。」もし彼がこのように答えるのだとすると、この答えは、次のような推論になっていないだろう。
    私は存在するかしないかのどちらかである。
    私が存在しないという主張は語用論的矛盾になる
    ゆえに、私が存在するという主張は語用論的に必然的である。
アーペルは、このような推論によって、「私が存在する」を根拠づけようとするのではない。もしそうならば、それは最終的に根拠づけられた命題ではなくて、派生的な命題であるだろう。このような推論は、事後的に「根拠付けの試みを対象化する」ことによって言えることであると、見なされている。デカルトに似て、彼もまたここで「明証性」に依拠しようとする。ただし、原理的に孤立した意識の内的経験ないしは内観にとっての「明証性」ではなくて、「言語ゲームの範型的明証性」に依拠しようとするのである。この「範型的明証性」は、「思惟行為、あるいは発話行為における、現実の自己反省によって媒介された、超越論的遂行論的な反省的洞察の上に成り立っている」と言われている。つまり、先の問いに対する彼の答えはこうなるだろう。「なぜなら、それは明証であるから」と。
 しかし、「私が存在する」が「言語ゲームの範型的明証性」をもつとしても、我々のテーゼ1が正しいとすれば、この命題もまた、問に対する答としてしか意味をもちえないのである。このことを、第一章で論じた焦点に注目して、確認しておこう。この命題は、二つの意味をもちうる。つまり、「私」に焦点がある場合と、「存在する」に焦点がある場合である。
   「(他でもなく)私が、存在する」
  「私は、(無ではなく)存在する」
 デカルトが「我あり」の認識を直観だと考えるときには、おそらく、その直観は、上の二種類の焦点のどちらかにも対応しない直観であるだろう。さもなければ、「我あり」の直観には二種類あることになるからである。ただし、その直観を命題で表現するときには、我々は、我々は、どちらかに焦点をあてることによってしか、この命題を理解することはできないだろう。(デカルトのコギトをこのどちらに解釈するのか、という解釈上の問題が生じるが、これはここでの我々の問題ではない。)これに対して、アーペルのいう「コギト」の「言語ゲームにおける範型的明証性」は、言語的に分節されたものであるので、デカルトの直観のように焦点の区別(あるいは知覚のアスペクトの区別)をもたない、ということはないだろう。この「範型的明証性」は、上のどちらかの焦点をもつ発話の「明証性」でなければ、「言語ゲームにおける明証性」とは言えないはずである。あるいは、上の二つの発話の両方が、それぞれに、「範型的明証性」をもつ最終的に根拠づけられた知識である、ということになるのかもしれない。
 (1)もし「(他でもなく)私が、存在する」ならば、それは、「何が存在するのか」という問に対する答である。そして、この問は、何かが存在することを前提しているのではないか。すくなくとも「存在する」ということの意味の理解を前提している。したがって、この場合には「存在の意味の理解」が、「私が存在する」の認識に先行し、存在の意味の明証性が、「私が存在する」の明証性に先行することになるだろう。
 (2)もし、「私は、(無ではなく)存在する」ならば、これは、おそらく「私は、存在するのかしないのか」という問に対する答であろう。
 このいずれにしても、この「コギト」は、問に対する答としてのみ明確な意味をもつはずである。我々は、語用論的な諸前提についての問が、語用論的に矛盾するということを認めるとしても、それにも拘らずそれが有意味であることを認める必要がある。なぜなら、仮に「言語ゲームの範型的明証性」を認めるとしても、それは単一の発話がもつ明証性ではなくて、問いに対する答えの発話がもつ明証であるからである。我々は、討議倫理学が依拠する「言語ゲームの範型的明証性」を、問答関係に注目しつつ分析することが必要だろう。

   §7 決断主義の批判的検討
 ここでいう「決断主義」(decisionism)とは、ミュンヒハウゼンのトリレンマに陥った状況下で、懐疑主義を回避するために、ある命題(これは複数の命題でもよい)を決断によって真と見なす立場を指すことにしたい。ところで、上で確認したように、「なぜ」の問の答は、つねに主張型発話である。それゆえに、「なぜ」と問続けても、決断主義者が出発点にする決断の発話(「・・・しよう」など)や、規約主義者が出発点にする約束の発話(「・・・します」など)にはたどり着かない。決断主義者が決断したり、規約主義者が約束するのは、「なぜ」の問に対して答えるためではなくて、「なぜ」の問に答えられないことが、決断を促すのである。
 今かりに、ある決断主義者が、「矛盾律が正しいということにしよう」と決断し、それにつづいて、「矛盾律は正しい」と主張するとしよう。このような決断主義者に、「なぜ矛盾律は正しいのか」と質問しても、彼はその根拠を答えられない。彼は「根拠はありません」と答えるかもしれない。
 しかし、「なぜ君は、『矛盾律は正しい』と主張するのか」という質問(この質問は、根拠を問う質問にも、理由や原因を問う質問にもなるだろう)に対しては、質問をすり替えて「なぜなら、私は『矛盾律は正しい』と主張しようと決断したからだ」と答えることができるなるだろう。これは、主張行為の原因ないし理由を答えるものである。(ここでの決断が、主張行為の原因であるか、理由であるかは、行為の因果説に関わる問題であり、現在の私には判断がつかない。)
 ところで、この答では、主張行為の原因ないし理由としての決断は、過去の出来事として語られている。繰り返して強調するが、この答は、主張するという決断を語る発話ではない。
 「私は、矛盾律が正しいと認めることを決断した」(主張)から、「矛盾律が正しい」という命題を導出することは出来ない。決断主義では、矛盾律その他の決断された命題から導出された体系があり、決断はその体系の外部にある。ゆえに、もし、決断によって知を基礎付けようとする「決断主義」ないし「信仰主義」(fideism)」というものがあるとすれば、それは間違っている。このことは、基本的な命題を規約によって真と見なす、という意味での「規約主義」にも妥当する。その際に、規約するという行為は、規約によって成立した体系の外部にあり、体系の最終根拠にはならない。したがって、決断や規約によって、ある主張を根拠づけることは、不可能である。このような意味で、「決断主義」や「規約主義」では、「基礎付け主義」(foundationalism)をとれない。
 では、決断主義が、批判や訂正の可能性を認める「可謬主義」を主張する場合には、それは整合的な立場になるのだろうか。おそらくそうではないだろう。たとえ、可謬主義に立つとしても、「決断主義」と呼ばれるにふさわしい立場は、決断について、次のように考えているのではないだろうか。<決断そのものはもはや如何なる根拠も持たない(決断の無根拠性)。また、何を妥当な論理とするかについても最終的には決断に委ねるので、決断そのものはいかなる論理にも基づかない非合理なものである(決断の非合理性)。また、決断は無根拠なものであるので、それは何にも媒介されていない直接的なものである(決断の直接性)。>もし、このように考えた「決断」に依拠しようとするのが、「決断主義」であるとするならば、たとえそれが「可謬主義」をとるのであっても、間違っているといわねばならない。なぜなら、もし、テーゼ1が正しければ、決断の発話もまた、問に対する答としてのみ意味をもつだろう。
 決断は、何の前触れもなく、何の必要性も無い状況で、自由に意志決定する<主体>によって、根拠も理由も原因もなく突然生じるものではない。(このような<主体>概念が、西欧近代の生みだしたフィクションであったことはすでに指摘されている。)基礎付け問題でいえば、「なぜ、なぜ」と根拠を問われ続けて、答えられなくなったときに、根拠を答えられないが故に、我々は、何らかの決断へと促される。あるいは、このような状況では、自発的に決断できないでいること自体もまた、一つの立場の選択になってしまい、決断したことになってしまうのである。
 テーゼ1が正しいとすれば、決断は問への答として出現するのでなければならない。そのような決断の姿をラフスケッチするとつぎのようになるだろうう。決断が生じるには、決断する必要性がある。つまり、我々を決断へと促す問題状況がある。その状況の中で、実は決断は不可避的に行われる。なぜなら、そのような状況の中では、決断しようと意図していなくても決断したことになってしまうからである。このメカニズムは、発話の意味が発生するメカニズムでもある。さらに言えば、我々に決断を促す問題状況は、我々に決断を不可避なものにする状況であり、我々が決断したことにしてしまう状況であり、逆に言えば我々に選択の責任を帰し、我々を責任主体、決断主体に仕立て上げてしまう状況である。決断は、このような問題状況に媒介されており、それゆえに全く無根拠であるのではなく、全く非合理というのでもない。可謬的な立場の選択を、決断によって行うとしても、その決断を促す問題状況について、さらに分析する必要があるだろう。

   §8 規約主義の批判的検討
 「規約主義」には、二つの理解があるだろう。一つは、公理系に関する規約主義のように、ある分野の科学者集団で、いくつかの命題を真であると約束するというものである。この場合には、この約束をする個々人にとっては、これは約束するかしないかという決断をすることと同じであって、その限りでは、上で述べた「決断主義」の一種であると見なすことができる。もう一つの規約主義は、我々が「なぜ」と問い続けたときにゆきどまる、基本的な命題は、幼い頃から習い憶えたものであって、それらの命題を真だとみなすことは、特定の人達が特定の時点で約束したのでもないし、また、ある時決断によって受け入れたのでもなく、いつのまにか受け入れて身についている慣習としての規約である、と考える立場である。
 この第二の規約主義者は、「なぜ」と問われたときに、最終的には<根拠>を答えられず、「なぜなら、・・・とならったからだ」と<原因>を答えるのかもしれない。ここでの問題点は、二つある。
 一つは、「1足す1は2である」とか、「赤は黄色ではない」というような慣習的に真、(あるいは<文法的に真>)である命題もまた、意味を確定するには解釈を必要とするということである。たとえば、「これは、赤い」と有意味に言えるためには、「赤い」「黄色い」「青い」などの色の名前をある程度体系的に学習していなければならない。そのような体系を受け入れることには、「赤は、黄色ではない」「赤は青ではない」「黄色は、赤ではない」「黄色は、青ではない」などの命題を真とみなすことが含まれている。これらの命題は、<文法的に真>である。ところで、いまかりに、表と裏の区別のつく三枚の札があって、赤の裏は青で、黄色の裏は青で、青の裏は赤だとすると、「赤は、黄色ではなく、赤は青だ」という発話が真となる。ここに登場する、「赤は黄色ではない」という命題の意味は、先の意味とは異なる。また、我々はここで、「赤は、青だ」ということもできる。ところで、先の「赤は青ではない」という命題が<文法的に真>であるとすると、ここでの「赤は、青だ」は、<文法的に偽>になるのだろうか。そうではない。なぜなら、両命題の意味は異なるからだ。つまり 、<文法的に真>である命題もまた、一定の解釈のもとでのみ、<文法的に真>なのである。そして、<文法的に真>である命題もまたやはり、それを答とする問いとの関係においてのみ意味をもつのである。我々は、そのような問答の言語ゲームを習ってきたということになるのだろう。
 もう一つは、このような規約主義者に、我々がもう一度「なぜ、あなたは根拠がないにもかかわらず、習ったとおりに振る舞うのか」と問うとどうなるか、ということである。このように問われた彼が、<根拠>がないにも関わらず、慣習を受け入れ続けることを決断するのだとすれば、これもまた、「決断主義」の一種である。第二の規約主義者は、彼の信念が最終的には慣習(生活形式)に基づいていることを反省した時点で、第一の規約主義者と同じことになってしまう可能性がある。そうならないためには、はっきりと約束したわけでもないし、規約を受け入れることをはっきりと決断したわけでもないのに、いつのまにか慣習を身につけているという慣習成立のメカニズムを分析することが必要である。そして、ここでも我々は、問答の言語ゲームにおいて、決断したわけではないのに、決断したことになってしまう、というというメカニズムに注目しなけらばならない。



(1)Hans Albert, "Traktat {ber Kritische Vernunft", T{bingen, 1968, S.11ff. H・アル バート『批判的理性論考』御茶の水書房。
(2)古代懐疑主義のいう2方式は次のようなものである。
 「およそ認識によって把握されるところのものすべては、(1)直接それ自身によって把 握されるのであるか、それとも、(2)他のものによて間接的に把握されるのであるかの、 どちらかであるように思われる以上、彼らは、何かが(1)それ自身によっても(2)他 のものによっても把握されないことを論じることにより、あらゆるものについての行き詰 まりを導入すると考えるのである。
 (1)まず、何ものも直接自己自身によって把握されないということは、感覚の対象とな るあらゆるものと思惟の対象となるあらゆるものについて自然哲学者たちのあいだに行わ れてきたところの、意見の不一致を思えば明白である。
 (2)さらに彼らは次の理由によって、何かが間接的に他のものを根拠として把握される ということも認めない。すなわちもし一方において、あるものがそれによって把握される ところの、その根拠となるものが、つねにまた別のものを根拠として把握されなければな らないとすれば、循環論の方式、もしくは無限背進の方式の中へ追い込むことになる。他 方しかし、もしあるものを把握するための根拠となるそのものが、直接自己自身によって 把握されるというふうに考えようとするならば、なにものも既述の理由によって直接自己 自身によって把握されることはないという原則が、これをしりぞける。」(セクストス  『概要』第一巻178ー9節、ジュリア・アナス、ジョナサン・バーンズ『懐疑主義の方 式』岩波書店からの引用。)
(3)規約主義のパラドクスについては、飯田隆『言語哲学大全Ⅱ』勁草書房「規約による真理」 の章を参照。
(4)コリングウッドは、『自伝』の第5章「問いと答」と題する論文で、命題が単独で意味を もち真理値をもつとする従来の立場を「命題論理学」とよび、それに対して「問答論理学」 を主張している。その基本的な主張は、つぎの3つのテーゼにまとめることが出来るだろ う。
 1、「答えようとしている問題がどんなものかを知らずには、ある命題の意味するところ   を語り得ない」(『自伝』玉井治訳、未来社、p.43)
 2、「いかなる二つの命題も、それらが同一の問題に対する解答でないかぎり、互  い   に矛盾はしえない」(同所)
 3、「真理は、いかなる単一の命題にも属さず、また統一理論者たちの主張するよ  う   な、諸命題をひっくるめた複合体にさえも属するものではなくて、問題と解答とから   なる複合体に属するなにものかである。」(同書、p.47)
 コリングウッドには、充分な証明をあたえてはいない。しかし、もしこれらのテーゼを証 明できたならば、それは哲学の大きな変革につながるだろうと思われる。本論は、この中 の第一のテーゼの証明の試みである。
(5)池上嘉彦『意味論』大修館書店、p.340。
(6)同書、p.456
(7)チョムスキー『生成文法の意味論研究』安井稔訳、研究社、p.113。
(8)チョムスキー『形式と解釈』安井稔訳、研究社、p.297。
(9)山田みどり「助詞」『研究資料日本文法 5』明治書院。
(10)久野あきら『日本文法研究』大修館書店、1973、p.209。
(11)野田尚史「ハとガ」、宮島達夫、仁田義雄編『日本語類義表現の文法(上)』くろしお 出版、1995年、p.281。
(12)この用例は、坂野信彦「ハとガの本義と使い分け」中京大学教養論叢、第23巻第3号 p.8からの引用。
(13)チョムスキーは、焦点と前提の区別は、深層構造によっては、規定されていないと考え るが、「は」と「が」の区別もまた、深層構造によって規定されていないようにとおもわ れる。(参考、池学鎮「「は」と「が」を持つ文の二重の主語について」語学教育研究論 争、第6号、pp.10-28)
  ところで、焦点−前提の構造が文の意味構造上、重要であるとすれば、それは、何らか の構文論上の区別になって現れるはずである。しかし、そうではないとすると、焦点−前 提の構造は、文の意味構造上重要なものでははくて、いわば付帯的な意味であるとみなさ れるかもしれない。しかし、もし焦点−前提構造が、構文論上の区別になって現れるとす ると、焦点−前提の構造は、コミュニケーションや問答を離れて、一つの文をそれだけ取 り出したときにも確定しており、コミュニケーションに依存しないことになる。そうする と、新情報/旧情報の区別は、コンテクストに依存するので、焦点−前提の構造と、新情 報/旧情報の区別が対応しなくなる。新情報に、焦点を合わせるためには、焦点は、深層 構造によって規定されるわけにはいかない、ということになるだろう。(日本語の「は」 と「が」は焦点位置を決定するのではなくて、限定するだけであるから、この説明とは矛 盾しないだろう。)
(14)野矢茂樹は、ウィトゲンシュタインを援用しつつ、知覚のゲシュタルト=アスペクトと 同様の意味で、言葉もアスペクトをもつことを指摘している。野矢が言葉のアスペクトと 呼ぶものを区別すれば、次の二つあるように思われる。
   (ア)記号が、意味という表情を持つ/もたない、というアスペクトの差異
   (イ)記号が、この意味を持つ/あの意味を持つ、というアスペクトの差異
 我々が論じている「焦点」は、この(イ)の一部であるだろう。ところで、野矢は、言葉 のアスペクトの差異を理解できないものは、言葉の意味を理解できない「意味盲」である という。これを援用して、我々は、発話の焦点を理解しないで、発話の意味を理解するこ とは、不可能であるといえるかもしれない。参考、野矢茂樹『心と他者』勁草書房。
(15)スペルベル&ウィルソン『関連性理論』内田聖二、中むつ俊明、宗南先、田中圭子訳、 研究社、pp.251-254。
(16)発話の理解が、デフォールト推論によって行われていることも、一般的に認められてい ることと考えてよいのかもしれない。例えば、次のように指摘されている。「伝統的な論 理においては、ある結論がある前提集合から導かれるのであれば、その前提集合に他のい かなる言明をつけ加えたとしても同じようにその結論が導かれる。しかし、我々がデフォ ルト推論を行う際には、後に得られる言明によって破棄しなくてはならないような暗黙の 推論を行っていることがある。たとえば、犬について何か話しがあれば、デフォルトとし てそれが4本足であろうと推論するが、実際には3本しかないことが後にわかることかも しれない。この概念を定式化しようという試みが色々なされてはいるが(たとえば
 McDermott & Doyle, 1980 参照)、現在も依然として未解決の問題である(Davis,1980)。」 (ジョンソン=レアード『メンタルモデル』海保博之監修、AIUEO訳、産業図書、pp.299- 300)リーチもまた、発話の理解が「デフォールトの解釈」であると述べている(リーチ  『語用論』池上嘉彦、河上誓作訳、紀伊国屋書店、p.59)。スペルベル&ウィルソンが発 話の理解を「非論証的推論」であるというのも同じことを指していると考えてよいだろう (スペルベル&ウィルソン『関連性理論』内田聖二、中むつ俊明、宗南先、田中圭子訳、 研究社、第二章「推論」)。この三冊の原著作は、いずれも1983年の出版である。
(17)議論が複雑になるので、注に記すが、厳密にいうならば、これは間違いである。これに ついては次のような反論を受けた。「pが (s⊃t)・s、qがt⊃〜t、xがtのとき には(8)と(9)がともに成り立っているのではないか」(中谷隆雄氏)この批判は、全くそ の通りである。
(8) p ├ x
(9) p,q ├ 〜x
 上の(8)と(9)がともに成り立つということは、「古典論理学ではありえない」というのは、 厳密に言うと間違いである。矛盾した命題からは、任意の命題を導出できるからである。
    (a)pが自己矛盾する命題であるとき
    (b)qが自己矛盾する命題であるとき
    (c)pとqが矛盾する命題であるとき
 このうちの少なくとも一つが満たされるならば、(8)と(9)がともに成り立つ。
 上の批判では、(c)が成り立っている。したがって、「(a)(b)(c)のいずれで もないときには、古典論理学ではありえない」と言うべきであった。
  ところで、現実の会話では、我々はしばしば矛盾したことを話しているので、そうする と、矛盾した前提からは、どのような結論も古典論理で導出できるのだから、演繹論理で、 解釈の変更を説明することが出来るのではないか、と言われるかもしれない。しかし、そ うではない。仮に(9)において、前提の中に矛盾があって、演繹推論によって〜xが導出さ れたのだとすると、このときには、xも演繹推論で同様に導出できたはずである。しかし、 我々が、コンテクストの変化によって、xという解釈を〜xに変えるときには、もはや〜 xをxと同じ強さで主張するのではなくて、この場合には、xではなくて〜xでなくては ならないと考えているのである。それゆえに、コンテクストの解釈は、やはり演繹推論は なくて、デフォールト推論によるもであるといえる。
(18)D. Davidson, "Essays on Actions and Events", Oxford, 1980, p.94. デイヴィドソン 『行為と出来事』服部祐幸、柴田正良訳、勁草書房、P.113。
(19)詳しくは、拙論「問題の分類」『待兼山論叢』第28号哲学篇、大阪大学文学部、1994年 の参照を乞う。
(20)ここでの話題からずれるが、重要なことなので触れておきたい。それは、かりに真理条 件意味論を採用するとしても、命題の真理条件を確定するには、その命題がどのような問 いに対する答えであるかを知る必要があるということである。
  もしこの段落の主張が正しいとすれば、他の発語内行為の発話と同様に、すべての主張 型発話が、デフォールトな条件D1をもっていて、「p」の主張が、実は、
   「もしD1であるならば、p」
 という主張であることになる。そして、D1を網羅することができないできない以上、「も しD1であるならば、p」の真理条件を確定するには、それがどのような問いに対する答で あるのかを知る必要があることになる。
  ちなみに、前章の焦点論からも同じ指摘ができる。
    T文:「雪は白い」が真であるのは、雪は白い場合、その場合に限る。
 真理条件意味論では、このようなT文と呼ばれるタルスキーの真理の定義に依拠して(こ れを発話について適用できるように修正するのだが)、「雪は白い」の意味=真理条件は、 <雪は白い>ことである、と説明しようとする。ところで、「雪は白い」に焦点があるよ うに、<雪は白い>にも焦点がある。したがって、焦点が変化すれば、真理条件も変化す ることになる。焦点を下線で便宜的に示すことにすれば、「雪は白い」が真であるのは、 <雪は白い>ときであって、<雪が白い>ときではない。なぜなら、<雪は白い>という 認識と、<雪が白い>という認識とは別の認識であって、比較できないからである。ゆえ に、先のT文では、対称言語とメタ言語の焦点が一致している必要があるだろう。それゆ えに、より正確には、次のように改めなければならない。
    T文:「雪は白い」が真であるのは、雪は白い場合、その場合に限る。
  ところで、我々がこのようにT文の焦点を確認するためには、対象言語とメタ言語につ いての問答を必要とする。ところで、焦点を確定するための問答は、当の発話についての 意味論的な言及になっている可能性がある。この点は私にはいまのところ不明であるが、 もし、そうなっているとすると、対象言語とメタ言語の区別を維持できなくなるだろう。 そうすると、タルスキのT文は、もはやメタ言語ではありえず、したがって真理条件でも ありえなくなるであろう。その場合には、真理条件意味論も間違いであることになるだろ う。
(21)J. Searle, "Speach Act", Cambridge UP., 1969, サール『言語行為』坂本百大、土屋 俊訳、勁草書房。
(22)Ibid.,p.25. 前掲訳書、p.44。
(23)Paul Grice, Meaning (1948), in Studies in the Way of Words, 1989, Harvard U.P.,  p.217. グライスの意味論の検討については、拙論「メタコミュニケーションのパラドク ス (2)」『大阪樟蔭女子大学論集』第31号、1994年、で論じた。
(24)オースティンは、この関係を「一定の反応や後続事件を誘発する」(J.L.Austin, "How  To Do Things With Words", Oxford UP., p.117. オースティン『言語と行為』坂本百大 訳、勁草書房、p.194)と述べている。
  これを踏まえると、次のように言えるだろう。行為と理由との関係は、手段と目的の関 係になっているが、それは次の三種類に区別できる。
  (1)自然因果性に依拠した関係(スイッチを入れることとランプをつけること、など)  (2)規約に依拠した関係(発話行為と命題行為・発語内行為の関係、など)
  (3)誘発に依拠した関係(発語内行為と発語媒介行為の関係、など)
(25)J. Searle, "Speach Act", Cambridge UP., 1969, pp.66-67. サール『言語行為』坂本 百大、土屋俊訳、勁草書房、pp.124-127。
(26)ウリクト『説明と理解』丸山高司、木岡伸夫訳、産業図書、P.87。この概念を最初に指 摘したのは、A. Danto であるが、彼の論文に直接にあたることができなかったので、ウリ クトの説明に依拠した。
(27)K-O, Apel, The Problem of Philosophical Fundamental Grounding in Light of a
 transzendental Pragmatics of Language, in "Man and World", Vol. 8, Nr.3, 1975. ア ーぺル「知識の根本的基礎付け」宗像恵、伊藤邦武訳、ガーダマー、アーペル他著『哲学 の変貌』竹市明弘編、岩波書店、P.237。
(28) H. Renk, Logikbegr{ndung und Rationaler Kritizismus, in "Zeitschrift f{r Phi- losophische Forschung", Bd.24, 1970.
(29)J. Hinttikka, Cogito,Ergo Sum: Inference or Perfomance,in "Philosophical Rev-
iew, 71, 1962, pp.3-32.
(30)アーペル、前掲論文訳、p.240。
(31)アーペル、前掲論文訳、p.235。
(32)アーペル、前掲論文訳、p.240。
(33)「なぜ」質問のすり替えについては、野矢茂樹の指摘に負うところが多い。参照、野矢 茂樹『心と他者』勁草書房、pp.175-183。

キーワード:ミュンヒハウゼンのトリレンマ、焦点、デフォールト推論、行為論、討議倫理学、
       決断主義、規約主義、問答論理学                




        <ドイツ語レジュメ>

      Die Semantik von Fragen und Antworten und
           das Begr{ndungsproblem des Wissens
                            Yukio IRIE

Wenn man immer wieder fragt "warun, warum?", dann wird irgendwann
niemand mehr darauf antworten k{nnen und in den Skeptizismus fallen. Das
Trilemma, das H. Albert "M{nchhausen-Trilemma" nannte, dr{ckt diesen
Sachverhalt klar aus. Der Dezisionismus, der Konventionalismus und die
Diskursethik usw. sind als Probleml{sungen dieses Sachverhaltes vorge-
schlagen. Aber in diesen Ansichten achtet man nur auf einen Anfangssatz,
und kaum auf das Verh{ltnis von Frage und Antwort. Wenn die These 1
"jede Aussage hat einen Sinn nur im Verh{ltnis mit der Frage, deren Ant-
wort die Aussage ist" richtig ist, so k{nnen diese Ansichten {ber das
Begr{ndungsproblem des Wissens nicht aufrecht erhalten werden.
Ich versuchte die These 1 in den ersten zwei Abschnitten zu beweisen.
Im ersten Abschnitt versuchte ich daf{r die folgende zwei These von der
Erscheinung des 'Fokus' der Aussage zu beweisen, n{mlich die These 2
"der Fokus ist ein wesentliches Ingredienz des Sinnes der Aussage" und
die These 3 "der Fokus kann nur im Verh{ltnis der Frage und der Antwort
bestimmt werden." Im zweiten Abschnitt versuchte ich f{r den Beweis der
These 1 die These 4 "der 'default' Schlu@ wird m{glich nur durch das
Verh{ltnis der Frage und der Antwort" zu beweisen, weil das Verstehen
des Sinnes der Aussage im Kontext mit dem 'default' Schlu@ entsteht. Im
dritten Abschnitt machte ich eine Analyse der 'warum' Frage, dann kriti-
sierte ich die Diskursethik, den Dezisionismus und den Kenventionalismus.