論文18 感情の物語負荷性と問題
「感情とは何か」という問い対する答えとして、ジェームズ=ランゲ説と呼ばれる立場がある。これは、「身体的変化は、刺激を与える事実の知覚に直接に続いて生じる。この身体的変化が起こっているとき、同じ変化についての我々の感じ(feeling)が、感情(emotion)である」と主張する。(1)通常は、知覚(熊に会う)→感情(恐怖)→身体的変化(震える)という順序を考えるが、ジェームズは、知覚→身体的変化→感情、という順序が正しいと主張するのである。つまり、怖いから震えるのではなくて、震えるから怖いのだというような、感情についての生理学的な理論である。
この理論は、心理学者による多くの実験の結果、今日では否定されているようである。キャノン(W.
B. Cannon)は、実験によって「同じ内蔵の変化が、非常に異なる感情状態において起こり、また感情のない状態でも起こる」という事実を実験によって示した。また、シャクターとシンガーは、生理的興奮状態に「喜び」「恐怖」「嫉妬」など、どの感情のラベルを張るかは、状況の認知に依存していることを実験によって証明した。こうして現在では、認知的評価が感情の不可欠の構成要素であることが、一般的に認められている。(2)
この認知的評価は、感情の不可欠の構成要素であるから、我々が感情を持つときには常に持っているはずのものである。たとえば、人に足を踏まれて、怒るときには、苦痛を感じているだけでなく、その苦痛が不当なものであるという認知的評価が不可欠である。この認知的評価がなければ、「なぜ、怒っているの」と問われたときに、答えることができないだろうし、自問したときに、自分の心の動揺を「怒り」として自己了解することもできないだろう。人の意図的行為について、アンスコムは、「なぜ・・・・・・しているのか」と問われたときに、人は直ちに「・・・・のために・・・・しているんだ」というように意図や動機を答えることができることを指摘した。しかもその答えは、「観察によらない知識」であるという。さらに、彼女は感情についても、「なぜ」と問われたときに、その原因を観察によらないで答えることができるといい、これを「心的原因」と呼んでいる(3)
ここでは、当事者が自分の感情を理解したり説明する仕方、つまり「なぜ・・・・・・と感じているのか」と尋ねられたとき、観察によらずにただちに答えられる知としての「感情の説明」がどのようなものであるか、を考察したい。
第一章で示したいのは、この知が、物語的な知であるということ、つまり「感情の物語負荷性」ということであり、第二章で探求したいのは、なぜ物語が感情を説明する力を持つことになるのか、ということである。
第一章 感情の説明方式
第一節 感情の三段論法
さて、我々が感情をもつときには、それに先だって何らかの出来事があり、それが原因ないし理由となって感情が生じる。感情に先行するこの出来事を、「感情の脈絡」と呼ぶことにしよう。この「感情の脈絡」を吟味すると、そこに<欲求>と<状況認識>という二種類のものがあることがわかる。たとえば、教師に叱られて、中学生がキレるとき、叱られたという状況の認識に加えて、それが不当だという意識、いいかえればそんな風に扱われたくないという欲求、あるいは、もっと承認されたいという欲求があるはずである。
さて、この二つを記述する命題と、感情を記述する命題の関係を考えるとき、これらは、欲求の記述と認知の変化の記述を前提とし、感情の記述を結論とする、三段論法になっているようにみえる。これを「感情の三段論法」と呼ぶことにしよう。例えば、次のようになる。
お金が欲しい。 欲求
宝くじに当たる=お金が手にはいる。 状況認識
だから、嬉しい。 感情
お金が欲しい。 欲求
大金を落とした。 状況認識
だから、悲しい。 感情
この感情の三段論法について二つの補足説明をしておきたい。まず、脈絡を構成するものの一方を、<欲求>と考えて<意図>としないのは、次のような理由である。我々は、ある対象について同時に矛盾する二つの感情を抱くことがある。それは、我々が同時に矛盾する二つの欲求をもっているから、と説明できる。互いに異なる(ときには矛盾する)二つの欲求が、同一の状況の認識の変化と結びつくことによって、異なる(ときにはアンビバレントな)感情が帰結するのである。ところで、我々は同時に矛盾する欲求を持つことはできても、同時に矛盾する意図をもつことはできない。なぜなら、それらの二つの意図を同時に実現することは出来ないので、その意図はそもそも実現不可能である。我々は実現不可能だと解っていて、それを意図することは出来ないのである。(4)
それゆえに、感情の脈絡を構成するのは、<欲求>とするのが適当だろう。
次に、脈絡を構成するもう一方を<状況認識>としたことの釈明をしよう。これをより正確に規定しようとすると、ほとんどの感情の場合には、<状況の変化についての認識>あるいは、<状況についての認識の変化>のいずれかになるだろう。しかし、厳密に言えば事情はさらに複雑になるので、ここでは単に<状況認識>とした。まず、<状況の変化>としないのは、つぎの理由による。上の例で、宝くじに当たっていても、それを知らなければ、喜ばないだろう。したがって、状況が変化するだけでは不十分であって、状況の変化が認識されなければならないのである。それでは、<状況の変化の認識>とすればよいのかといえば、それでも不十分である。たとえば、宝くじに当たっていないのに、当たっていると思いこんだとき、喜びが生じるが、この場合には、状況は何も変化していない。ここにあるのは、<状況の変化についての(誤った)認識>である。しかし、つぎのような場合もある。上の例で、誤って喜んでいた者が、この後で当たっていなかったことを知って落胆したとすると、彼は<状況についての認識の変化>のために、落胆したのである。あるいは、さらに込み入ったケースもあ
りうるだろう。ところで、更に言えば、これらの事例では、ある欲求がすでに成立しているときに、状況の認識が変化することによって、感情が生じているが、これとは逆に、状況の認識は変化しないのに、欲求の方が変化して、感情が生じるという場合もあるだろう。たとえば、本人が気付かない内に病気になっていために、食欲がなくなり、好物だったステーキが出てきてもうれしくなくなる、というようなことがあるだろう。ただし、多くの場合には、欲求の変化は、何らかの状況の認識の変化によって生じたり、状況の認識の変化と不可分に結びついていると思われる。
ところで、我々が「なぜ・・・・・・と感じているのか」と問われたとき、確かに、上のような感情の三段論法で答えるということはないだろう。<欲求>の方が自明ならば、<状況の認識>だけを説明するだろうし、<状況の認識>が自明であれば、<欲求>の方だけを説明するだろう。しかし、そこで本人が理解している「感情の説明」が、説明の力を持つように正確に構成してみれば、このような「感情の三段論法」になるのではないだろうか。この点をまず検討してみたい。ところで「感情の三段論法」は、いわゆる「実践的三段論法」によく似ている。この両者の比較をするとき、上の答がえられるのである。
第二節 実践的三段論法との関係
アリストテレスの「実践的三段論法」では、結論は行為にかかわる命題であり直ちに行為が続く(あるいは、結論は行為である)、と考えられている。『動物運動論』での例で考えてみよう。
「「飲みたい」と欲望が言い
「これが飲物だ」と感覚か表象か理性がいう。
と、私はすぐ飲むのである。」(5)
これを三段論法に整理すると次のようになる。
なにか飲みたい。 (意図)
これが飲物だ。 (状況認識)
ゆえに、私はすぐ飲むのである。 (行為)
この結論を感情を表現するものに入れ換えれば、感情の拶zvh・ ミh t m 発表10HTM J層&ス(
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オかおよばないだろう。実践的三段論法で結論に行為が登場するときには、つねにその推論の前提から、行為(あるいは行為の制止という行為)への欲求(意図)が導出されるであろう。しかし、全ての感情に行為が続くということはないので、感情の三段論法の前提から行為が導出されて、実践的三段論法が生じるということはない。
念のために補えば、ある意味では、全ての感情に行為が継起する。たとえば、落胆して肩を落としたり、驚いて目を見張ったり、悲しくてうつむいたり、喜んで小踊りしたり、などである。しかし、これらは「意図的な行為」ではなく「非自発的な行為」であり(7)、それゆえに、実践的三段論法の結論となるような行為ではない。
実践的三段論法が成立するケースと感情の三段論法の成立するケースが、重ならない場合としては次のようなものもある。我々は、矛盾した行為を同時に行うことはできないが、矛盾した感情を同時にもつことができるし、多くの場合にもっている。その場合には、行為の先駆けとなる感情の三段論法と並んで、行為の先駆けとはならない感情の三段論法もまた成立している。(もちろん、この感情も、非自発的な行為としては、その人の行為に反映される。というのは、xをしたいという欲求と、xをしたくないという欲求があるとき、それにも拘らずxを行うときには、単にxをしたいという欲求だけを持っているときとは、その振る舞いが少し違っているだろうからである。)
ところで、このような食い違い以上に、両者の間には根本的な差異がある。感情の三段論法は、それを厳密な推論にしようとすれば、前提に一般法則をつけ加えなければならない、ということである。他方、実践的三段論法は、一般法則に依拠することなく、推論になっているといえる。たとえば、ウリクトの定式化では次のようになる。
Aは、pを生じさせようと意図する。
Aは、aをなさなければ、pを生じさせることができないと考える。
それゆえ、Aは、aにとりかかる。(8)
これは、時間性が考慮されていないという点を除けば(9)、一応これだけで、推論として成り立っているといえる。
これに対して、感情の三段論法には、一般法則をつけ加える必要がある。たとえば、悲しみの感情と<欲求>と<状況認識>は、次のような三段論法を構成している。
(1)私は長生きしたい。
(2)私は余命3ヶ月と告知される。
(3)ゆえに、私は絶望する。
この推論が完成するためには、
(0)ひとは欲望が阻止されると、悲しみを感じる。
という感情に関する一般法則を前提に加えなければならないだろう。
このような対比を主張をするときに問題になるのは、実践的三段論法と重なる場合、つまり行為の欲求という感情の三段論法の場合である。上の実践的三段論法の一般的な定式を、感情が結論になるように書き換えれば、次のようになる。
Aは、pを生じさせようと意図する。
Aは、aをなさなければ、pを生じさせることができないと考える。
それゆえ、Aは、aにとりかかろうと意図(欲求)する。
このように前提の「pを生じさせよう」が単なる欲求ではなくて、意図であるならば、結論の「aにとりかかろう」も単なる欲求ではなくて、意図になるだろう。そして、それには直ちに行為が続くだろう。なぜなら、意図と欲求を区別するならば、意図とはこのようなものとして定義されるからである。この時には、一般法則をつけ加える必要はないだろう。
ところで、もし前提の「pを生じさせよう」が意図ではなくて、単なる欲求であるとすると、上の推論はこうなる。
Aは、pを生じさせたいと欲求する。
Aは、aをなさなければ、pを生じさせることができないと考える。
それゆえ、Aは、aにとりかかろうと欲求する。
この場合には、この二つの前提だけから論理的に結論の「欲求」を導出することは、不可能である。したがって、上の推論がなりたつためには、人間の心についての次のような一般法則
「ひとは、pを生じさせたと欲求し、かつそのためにはaをなさねばならない と考えるならば、aにとりかかろうと欲求する。」
をつけ加える必要があるだろう。(10)
以上のように、感情の三段論法は、一般法則を付加しなければ、推論として不完全である。この一般法則は、三段論法が受け入れられているときには、受け入れられるはずのものである。しかし、我々が例えば「なぜ悲しんでいるのか」と問われて、直ちに答えることのできる知識の中には、このような一般法則は含まれていないだろう。確かに先にのべたように、「なぜ」と問われたとき、大抵は<欲求>か<状況認識>の一方だけを答えるだろうが、しかしその場合に答えられていない他方もまた「観察によらない知識」に含まれているとおもわれる。もし、そうでなければ、我々は自分の感情を正しく認知できないことだろう。しかし、上のような一般法則までは、念頭にないであろう。この一般法則を知るには反省や推論が必要であるので、これは「観察によらない知識」ではない。
そうすると、上のように一般法則を補うことによって感情を説明することは、第三者による感情の分析としては興味深いとしても、当事者が「なぜ」と問われて直ちに答えるときの答え方ではない。
では、我々が感情を問われて、観察によらないで説明するとき、その説明方式はどのようなものなのだろうか。感情の三段論法に一般法則をつけ加えないとすれば、それはもはや三段論法ではなくて、実は単に感情が生じる脈絡をつづった物語であったということになるだろう。そこで次に、物語による感情の説明を検討してみよう。
第三節 感情の物語説明
歴史の説明は、物語形式で行われるというのが、アーサー・C・ダントの主張である。(11)彼はこう主張する。我々が、歴史において説明しなければならないことは、ある出来事であり、その出来事がなぜ生じたのかの説明である。それは、ある出来事と他の出来事の関係を説明することである。しかもその際求められるのは、変化の説明である。変化の説明は、「変化の時間の両端にまたがる中間部分を満たすということなのである。」さらに、「変化について語ることは、変化の主体のなんらかの連続的な同一性を暗に仮定している。」
そこから、ダントは、物語説明が次のような構造をしているという。
(1)xはt1時にFである。
(2)xにHがt2時に生じる。
(3)xはt3時にGである
(1)(3)が被説明項(ある変化)を構成し、(2)が説明項(変化の原因)を構成しており、全体で物語による説明方式になっているという。
これを感情に適用すれば、次のようになるだろう。
私は、t1時にお金が欲しいと思っていた。
私は、t2時に宝くじに当たったことを知った。
私は、t3時に喜んだ。
我々が例えば「なぜ喜んでいるのか」と問われたときには、このような物語を(多くの場合省略してその一部を)答えるのではないだろうか。
(1)三段論法と物語説明の関係
(ア)物語説明の三段論法への依存
ところで、ダントも認めるように、物語もまた何らかの一般法則を前提している。(12)上の例で言えば、「欲求が充たされれば、ひとは喜ぶ」という一般法則を前提している。物語は、この一般法則の前件が充足されることを説明しているのであって、それは、喜びについての三段論法の前提の成立経過を物語的に説明しているのである。こう考えると、物語説明は、感情の三段論法に依拠していることになる。
(イ)法則の事例への依存
では、この法則は、どのようにして証明されるのか。科学理論と同様に、この法則は、一致する事例を求めたり、反証例を求めるテストにかけることを通して確証(confirm)されるだろう。そのかぎりで、この法則は事例の報告に依存している。ところで、この事例の一つ一つが、説明されるべき事例とおなじような、物語である。この事例の一つ一つの物語の説得力が、法則に依拠せずに説明されるのでなければ、これらの事例によって、法則を確証することは出来ない。
法則が説得力をもつのならば、それが依拠している事例の物語も説得力を持つはずである。そうだとすれば、その法則によって説明される物語は、法則に依拠しないはずである。
説明されるべき物語もまた、法則によらずに説得力をもつはずである。それにもかかわらず、それを法則によって説明するとき、実際に行われていることは、その事例がある物語クラスの一事例であることを主張しているにすぎない。
(ウ)三段論法の物語説明への依拠
三段論法による説明は、法則に依拠している。その法則が、それを確証する事例報告(物語)に依拠しているのだとすれば、三段論法による説明の正当性は、感情の事例報告である物語の説得力に依拠していることになる。
上の議論に対しては、「pであるから、qとなった」という事例報告は、法則を前提してのみなりたつ、という反論があるかもしれない。しかし、法則を前提せずになりたつのは、「pであった、つぎにqとなった」という単に二つの出来事の継起の事例報告である。これの蓄積から、「PならばQである」という法則が仮定され確証されると、そこではじめて、この法則に依拠して、「pであるから、qとなった」という因果関係の説明が成り立つのである。
(2)物語の説明能力は、ごまかしか?
感情についての物語(事例報告)が、因果関係についての一般法則を前提しないのだとすると、それはどうして感情についての説明能力をもちうるのだろうか。つまり、「なぜ」という問いに対して、単なる出来事の物語記述がなぜ答えになるのだろうか。
あるいはバルトが指摘するように、物語の説明能力は、ある種のごまかし、錯誤によるものかもしれない。「物語活動の原動力は、継起性と因果性との混同そのものにあり、物語のなかでは、後からやってくるものが結果として読みとられる。してみると、物語とは、スコラ哲学が、そのものの後に、ゆえに、そのものによって(post
hoc ergo propter hoc)という定式を用いて告発した論理的誤謬の組織的応用ということになろう。」(13)
しかし、バルトが指摘するように物語の説明力がごまかしであるとしても、「継起性と因果性の混同」を生じさせている要素があるはずである。その要素とは、物語説明にふくまれている<錯綜した相互言及のネットワーク>ではないだろうか。
たとえば、ウリクトは、実践的三段論法の前提や結論となっている命題について、それが成立しているかどうかを個別には検証できず、そのためには相互に言及する必要があることを厳密に証明した。そして次のようにいう。「したがって、行動の志向性は、行為者にまつわる物語(story)のなかに、その場所を持つといえるだろう。」(14)
また、ダントは、物語に登場する特徴的な文、たとえば、「30年戦争は、1618年に始まった」というような文を「物語文」となづけた。この「物語文の特徴は、それらが時間的に離れた少なくとも二つの出来事を指示するということである。このさい指示された出来事の内で、より初期のものだけを記述するのである。」(15)
これらの指摘にみられるように、物語の重要な特徴は<錯綜した相互言及のネットワーク>を含んでいることである。これが、話しに厚みと拡がりを与えることによって、物語の説明の力に寄与しているように思われる。しかし、<錯綜した相互言及のネットワーク>というだけでは、物語は「継起性と因果性の混同」というごまかしを行っているだけであり、その力はごまかす力だという嫌疑がのこる。我々は次に、もう一つの要素を検討したい。
第二章 感情と問題
第一節 感情は、問題状況の変化によって生じる
ライルは、「心の動揺」が生じたときに感情が生まれると主張し、「心の動揺」について次のように説明する。「(心の動揺という)心的状態にある人は、やや危険な比喩を用いるならば、対立する二つの力の支配下にあるということができる。このような葛藤の極端なものには次の二種類のものがある。その一つは一つの性向が他の性向と衝突する場合にみられるものであり、他の一つはある性向が世界の強固な事実によって阻害される場合にみられるものである。」(16)
ここにいう「性向と現実の衝突」は、「問題の発生」と言い換えることができるのではないだろうか。我々は日々さまざまな問題を抱えて、それを解決しながら生活している。
ところで、私は以前に、「意図と現実」の矛盾が問題を生みだし、問題状況を構成するのだと論じたことがある。しかし、第一章第一節で述べたように、我々は多くの場合に、矛盾する様々な感情を抱えていおり、それは矛盾する様々な欲求から生じている。これを説明するには、<意図>と<状況認識>から感情を説明するのではなくて、<欲求>と<状況認識>から感情を説明する必要があった。そこで、ここでは「欲求と現実」の矛盾が問題を生みだし、「問題状況」を構成しているのだと考えることにする。
また他方で、問題が解決したときに我々は喜びや安堵を感じる。そうすると、感情が生じる場合は、次のように分類できるだろう。(17)(性向と性向の矛盾については、後の二次感情の節で論じる)
(1)問題が発生する場合
(a)現実と矛盾する欲求(意図)が発生した場合(欲望、希望、努力、緊張、など)
(b)欲求(意図)と矛盾する現実が発生した場合(驚き、怒り、悲しみ、困惑、など)
(2)問題が解決した場合
(c)現実の変革によって解決した場合(満足、喜び、など)
(d)欲求(意図)の妥協調整によって解決した場合(あきらめ、など)
(e)現実の変化によって解消した場合(安心)
ここでテーゼ「全ての感情は、問題が発生したとき、あるいは解決(解消)したときに生じる」の証明を試みよう。
我々は、まず次のように言えるだろう。「多くの感情は、欲求が阻止されたり、充たされるときに生まれる。」ところで、欲求が阻止されるとは、それが現実と矛盾するということであり、問題の発生を意味している。また、欲求が充たされるとは、問題の解決を意味している。そこで、「欲求が阻止されたり、充たされるときに生じる多くの感情は、問題が発生したり解決(解消)したときに生じている」といえる。
ところで、ここにいう「多くの感情」に属していない感情には、どのようなものがあるのだろうか。つまり、欲求が阻止されたり、充たされるときに生まれるのではない感情とは、どのようなものだろうか。このようなものとして考えられるのは、おそらく「驚き」と他の欲求から派生したのではない欲求(これを「基本的欲求」と呼ぶことにする)だけだろう。
「驚き」は、予期がはずれるときに生じるが、予期がはずれることは、問題である。現実に対する正確な認識をもっておくことは、生活する上で基本的な必要条件であり、これが損なわれることは、問題である。ゆえに、驚きは、問題発生によって生じるといえる。
さて、残るのは「基本的欲求」であるが、その前に、その他の欲求について確認しておこう。多くの欲求は、他の欲求が阻止されたとき、あるいはそのままでは実現しないときに派生する(これを「派生的欲求」と呼ぶことにしょう)。それゆえに、これらの「派生的欲求」は、問題が発生したときに生じるのだといえる。寒い夜に、「温かい布団が欲しい」という欲求が生じるとき、これは、「快適に眠りたい」という欲求が阻止されたという問題が発生したときに、生じている。
では、基本的欲求の場合は、どうなるのだろうか。問題が、意図と現実の矛盾によって発生するのだとすれば、問題が発生するには、欲求(意図)が前提になる。したがって、最も基本的な欲求は、問題の発生によっては説明できない、ということになるはずである。基本的な欲求として、食欲や睡眠欲のような生理的な欲求、フロイトのリビドー、ジラールの「模倣欲望」、ヘーゲルの「承認欲求」など、どのようなものを考えるにせよ、「基本的欲求」というものを想定すると、それは問題発生によって成立するとは言えないことになる。(もちろん、食欲や睡眠欲のような生理的な欲求が基本的欲求である場合には、この欲求は、生命体としての人間にある種の<生理的な問題>が発生したときに生じるのだ、といえる。しかし、この<問題>は、もはや我々が論じてきた<欲求(意図)と現実の矛盾>という意味の問題ではない。)
さて、そうすると我々は上のテーゼを修正して、「基本的欲求」を除外するか、あるいは、逆にこのような「基本的欲求」はもはや「感情」ではないと見なすか、どちらかを選択しなければならない。残念ながら、この「感情」の定義ないし境界の問題にいま答えることができないので、ここでは、上のテーゼについての、不完全な証明で満足するほかない。上のテーゼに多少でも説得力を与えることができたとすれば、それで満足することにしたい。
第二節 疑問文による感情表現
ここでは、上のテーゼに説得力を与える別の証拠を示したい。それは、多くの感情が疑問文で表現される、という事実である。これについては、山口堯二による卓越した研究がある。集められた膨大な例文の中から少しだけ引用しよう。(18)
危惧 「毎日がこんなふうではどうなつてゆくことか」(川端康成・雪国)
「海浜ホテルは、閉まってやしないか」(岸田国士・紙風船)
驚き 「あいつ、どこまであほなんや・・・・」(野間宏・真空地帯)
「こっちを向いてご覧。うん、それがお前の眼だったのか。」(島崎藤村・夜
明け前)
悲しみ「何てふしあわせな子どもだろう。」(宮沢賢治・セロ弾きのゴーシュ)
「あああ、これがたまの日曜か。」(岸田国士・紙風船)
怒り 「私はけふ迄あの人に、どれほど意地悪くこき使われてきたことか、どんなに 嘲弄されてきたことか。」(太宰治・駈込み訴へ)
「一杯食ふたか、無念やな。」(浄・曾根崎心中・上)
後悔 「僕はどうしても少しあの人に物を言わなかったらう。」(宮沢賢治・銀河鉄
道の夜)
喜び 「いっしょに食べるのはいく月ぶりかねえ!」(山本有三、路傍の石)
賞賛 「ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。」(宮沢賢治・銀河鉄道の夜)
「お前の学問好きも、そこまで来たか」(島崎籐村・夜明け前)
ほかにも、期待、勧誘、羨望、決意、非難、制止、催促、などの感情について今古にわたる多数の用例が挙がっている。これらの例で充分にわかるように、我々の感情は(感情の客観的な記述においてではなく、その体験される相において)疑問文で表現されることが多い。我々は感情を疑問文で体験しているのである。そのさいに、決定疑問文(yes/no疑問文、特定方式)と補足疑問文(wh疑問文、不定方式)の両方が使用されている。ちなみに、本来「かな」は疑問の助詞であったのが、中古語以降、疑問表現の付帯的な詠嘆性を担うことから、詠嘆そのものの形式に変化したのだそうである。また、古代語の疑問の係助詞「や」は、本来は詠嘆を主とする間投助詞であったものが疑問形式として用いられるようになったと推定されるそうである。(19)これらは、感情と問題発生や問題解決との密接な関係をしめす言語現象である。
では、なぜ感情は疑問文で表現されるのだろうか。それは、前節で主張したように<問題が発生したときに>感情が発生するからであろう。しかし、さらに重要なことに、感情を疑問文で表現しているものの中には、<問題が解決したときに>感情が発生する、ということの証拠になっているものもある。なぜなら、山口氏が指摘するように、疑問表現は「それ自体すでに自問自答的な解答の模索を経て提示された主体の解答案でもある」(20)と言える場合が多いからである。そこから、問題状況の解決や解消を、問題提示という形で再確認するという用法が可能になるのである。たとえば、「喜び」の表現例に挙げられている次のものなどがそうである。
「コレおはつじゃないか。これはどうじゃ」(浄・曾根崎心中)
「さては我父にてましますかとて、なのめらなず喜びて」(伽・小敦盛)
第三節 問題と物語
(1)物語の構造と説明能力
物語説明は、法則に依拠しないときには、たんなる出来事の継起の記述であるのに、どうして感情を説明する力を持つように思われるのか。これが第一章から引き続いている問題であった。
感情の物語説明においては、感情発生に先行する出来事の経緯が物語られるのであるが、これまでみたように感情が問題の発生や解消において生じるのならば、感情の物語説明は、この問題状況の発生や解消の経緯を物語ることになっているはずである。ところで、じつは、感情の物語説明の場合だけでなく、少なくとも人間を主人公とする物語の場合には、物語というものは、問題状況の発生や解消の経緯を物語るものなのだ、と理解できそうである。
ダントは、物語は<始まり>と<中間>と<終わり>の三つの部分からなる、と指摘していた。クロード・ブレモンによる分析では、これがさらに次のように規定されている。彼によれば、物語の「基本的連続」は、次の三つの機能ないし相からなる。(21)
(a)取られるべき行動とか予想される事件などの形をとって、経過の可能性 を開く機能
(b)それらの潜在性を、行動や事件の形のもとに実現する機能
(c)その経過を、達成された結果という形のもとに、閉じる機能
我々は、少なくとも人間が主人公となる物語の場合には、基本的連続を構成するこの三つの機能を、問題発生、問題解決の試み、問題の解決(解消)として解釈できるだろう。
(a)可能性を開く機能、 ——問題発生
(b)可能性を実現する機能 ——問題解決の試み
(c)閉じる機能 ——問題解決
実際にたいていの物語では、主人公に何らかの問題が生じて物語が始まり、その解決をもとめて物語が進行し、問題解決(あるいは失敗)によって物語が終わる。その物語の細部もまた、この三つの繰り返しで出来ている。
ところで、問題状況は、欲求(意図)と現実が矛盾する状況だといえる。そこで欲求(意図)と現実を記述する命題もまた、ある意味で矛盾することになる。しかし、これは厳密にいえば論理的な矛盾ではない。欲求(意図)が実現された状態を記述する命題と、現実を記述する命題が矛盾するのであって、欲求(意図)を表明する命題と、現実を記述する命題が矛盾するのではないからである。
しかし、欲求(意図)と現実の間の一見するところのこの<矛盾>こそが、物語に、説得力を与えている要素になっているのではないだろうか。欲求(意図)と現実との矛盾の発生が語られると、主人公の行動は、この矛盾を解決するためのものとして容易に理解できるようになる。つまり「なぜ彼は・・・・・・したのか」と問われると、聞き手は、直ちに答えることができるのである。この知は、物語の聞き手にとっても、主人公にとっても「観察によらない知識」になっている。このことは、感情の物語説明の場合にも妥当するだろう。先の「感情の三段論法」の前提である<欲求>と<状況認識>の表現は、推論の前提であるから決して矛盾してはいけなかった。なぜなら、前提が矛盾しては、どんな結論でも導出されることになり、推論が無意味になるからである。もちろん、物語説明でも欲求(意図)と現実は厳密には論理的に矛盾しないのだが、一見すると矛盾するという関係を構成することが重要なのである。これによって、三段論法のときのように、一般法則を付加しなくても、それらだけで説明の力を獲得するのである。ところで、この<一見したところの矛盾>が成立するときに、<欲求>の
記述と<状況認識>の記述は、前述の<錯綜した相互言及のネットワーク>を構成することになるだろう。物語の重要な特徴である<錯綜した相互言及のネットワーク>は、論理的なごまかしのためというよりも、むしろ問題発生や問題解決というプロセスを説明するために求められる性質なのではないだろうか。(さて、それでは、問題状況を構成する<一見したところの矛盾>がなぜ説明の力をもつことになるのか。これについては、今明確に答えることができないし、また感情に限らない一般的な問題になるので、別の機会に論じる事にしたい。)
以上で、感情の物語説明が、説明の力をもつことを一応説明できたと考える。そうすると、こう言えるだろう。感情について「なぜ」と問われたときに、我々が答える「観察によらない知識」は、感情についての物語説明になっている。この知識は、自分の感情を自分自身で了解するときにも必要なものであり、感情の構成要件になっている。そうだとすれば、「感情は、物語説明によって可能になっている」と言えるだろう。このテーゼを「感情の物語負荷性」と呼ぶことにしたい。
さて、ここまでとりあげなかったより複雑な感情があるので、以下では、その感情について「なぜ」と問われたときに、我々がどのような感情の説明をするのかを述べておこう。
(2)問題の結合と「二次感情」
(ア)問題の結合
ブレモンによれば、前述のような三相からなる基本的連続が、結合することによって、より大きな物語が作られるのだが、その結合の仕方には次の二つがあるという。(22)
(a)端と端との連携
(b)囲い込み
(a)は、最初の基本的連続の中の「閉じる機能」を担っている出来事が、同時に次の基本的連続の「可能性を開く機能」を担うことによって、二つの基本的連続が結合するタイプである。
(b)は、一つの基本的連続の中に別の基本点連続が組み込まれるというタイプである。後者が、前者の目的の達成のための手段として役立っている。
ところで、我々は、問題の結合についても、上の二つに対応する次の二つを考えることができる。
(a)問題の直列
問題発生→解決の試み→問題解決→新しい問題発生→解決の試み→問題解決
(b)問題の囲い込み
問題発生→解決の試み(問題発生→解決の試み→問題解決)→問題解決
ところで、このように問題が結合するとき、つねにではないが、感情もまた複雑に結合する場合が生まれてくる。
(イ)一次感情と二次感情
近年、感情社会学の分野でホックシールドの仕事が注目されている。(23)彼女は、我々がある状況でどのように感じるべきかということについての社会的な規則があることを指摘し、それを「感情規則」(feeling
rules)と名付けた。例えば、我々は次のように言うことがあるという。「怒る権利がある」「もっと感謝すべきだ」「君は罪を感じるべきじゃない」これらの表現は、「我々がある状況でなにを感じるべきか」という規範が存在していることの明らかな証拠である。ホックシールドは、ここから、感情規則に合わせて感情を「喚起」したり「抑制」しようとする行為(感情労働(emotion
work))の分析を進めて行く。
しかし、我々がここで注意したいのは、このような「感情規則」と現実の感情との矛盾から(ときには一致からも)別の感情が生じるということである。たとえば、次のような場合である。
ある感情を持っている。 (現実としての一次感情)
ある感情を感じるべきではない (感情規則に従おうとする欲求・意図)
それで、負い目を感じる (二次感情)
このように「自分がある感情をもっているという現実」と欲求(意図)との矛盾(や矛盾の解消)によって生じる感情を、「二次感情」と呼び、その前提として成立している感情を「一次感情」と呼ぶことにしよう。これを示せば、下図のようになる。(24)
現実
[矛盾/一致]→ 一次感情(現実)
欲求・意図 [矛盾/一致]→ 二次感情
感情規則(欲求・意図)
このような「二次感情」を生じさせるものとしては、「感情規則」以外にも考えられる。ホックシールドの「感情規則」は「社会的ガイドライン」ともよばれているように、社会的規範ないし社会的期待という意味をもっている。ところで、我々は自分について「私はしかじかの状況ではしかじかの感情をもつだろう」という予測を持っているだろう。これを「感情予測」と呼ぶことにしよう。このような「感情予測」は、例えば「私は厭きっぽい性格だ」というような「性格」についての自己理解を言い換えたものといえるだろう。だから、この「感情予測」はアイデンティティーの中心的な部分を構成している重要なものである。
ところで、この感情予測がはずれることがある。このときに、我々には「二次感情」が生まれる
。たとえば、「私は、冷たい人間だ」と思っていた人が、他人の不幸に対して予期した以上に深い悲しみを感じたとき、「戸惑い」や「安心」を感じたりするだろう。また、「感情予測」が当たることが、満足や悲しみなどの感情を引き起こすこともありうるだろう。
また、自分が感じたいと思っている理想的な感情(「感情理想」と呼びたい)とのずれや一致に対して「二次感情」が生じることもあるだろう。
このようにして、感情予測、感情理想なども「二次感情」を生み出すのである。
(ウ)問題の結合と二次感情
さて、上のような二次感情の発生において、二つの問題は、どのように関係しているのだろうか。
たとえば、友人が死んで悲しむ。このとき、友人の死という現実は、もっと生きて欲しいという欲求と矛盾するので、問題が発生しているといえるだろう。この問題は、現実を変えて解決する事が出来ないのだから、現実を受け入れて欲求の方を変えるしかないだろう。友人の死を受け入れないときには、世の中に対して不条理だと怒ったりするのかもしれない。しかし、悲しんでいるときには、すでに死という現実を受け入れるしかないのだと思っていることだろう。
このときにその人が「本当はもっと悲しむべきだ」と考えるとすれば、現実の悲しみと、感情規則の要求する悲しみが矛盾しているのである。このとき、彼にとっては、この矛盾が問題となる。そこで、この矛盾を解決するために、もっと悲しもうと努力するだろう(感情労働)。つまり、今度は、現実(悲しみの感情)の方を変えることによって、矛盾を解決しようとするのである。
ところで、悲しみが大きければ大きいほど、そのことは、ある不幸な事実を受け入れることがより難しい、ということを意味している。ここでは、友人の死に出会ったときの問題を解決することがより難しいということを意味している。それゆえに、友人の死に際しての悲しみが少ないと感じるということは、友人の死に出会ったときの問題を簡単に解決しすぎていると感じるということである。つまり、ここでは、ある問題の解決が別の問題を生み出すという「問題の直列」という仕方で、二つの問題が結合しており、そのことが二次感情を生み出している。
もう一つの例を挙げよう。「どうして落ち込んでいるの」と問われて「禁煙したいんだけれど意志が弱くて出来ないんだよ」と答えるとき、「落ち込み」の感情は、「禁煙したい」という欲求と、それができないという現実の矛盾から説明されている。ところで、この「禁煙ができない」という現実とは「タバコを吸いたいという欲求を止められない」という現実である。つまりここにある矛盾を正確にいえば、「タバコを吸いたいという欲求を止められない」という現実と「タバコを吸いたいという欲求をなくしたい」という欲求の矛盾である。
ここでは、タバコを吸いたいという欲求とタバコは健康に悪いという現実の矛盾が問題になっている。現実の方を変えることはできないので、欲求をかえることによって、問題を解決しようと試みるのである。彼は、タバコを吸いたいという欲求を消去しようと意図する。しかし、なかなかタバコを止められない。この矛盾が第二の問題として登場するのである。この第二の問題は、最初の問題を解決するために、その手段として解かねばならない問題である。ここでは、「問題の囲い込み」という問題の結合が、二次感情を生み出している。ちなみに、このように「ある欲求を持たないことへの欲求」や「ある欲求を持つことへの欲求」をフランクフルトは「二階の欲求」とよんでいるが、これは我々の名付けた「二次感情」の一種である。(25)
まとめよう。二次感情の場合には、「なぜ」と問われたときの答となる「観察によらない知識」は少し複雑になる。つまり上の二つの例で解るように、第二の問題状況を説明するには、第一の問題に言及する必要があるのである。しかし、それでもやはり、問題発生や問題解決の経緯を物語ることによって、感情の説明がなされているといえるだろう。このような物語説明によって、感情についての「なぜ」に答えており、そのような物語説明が、自分の感情を感情として理解するときに不可欠な認知的要素である、と我々は主張できるだろう。二次感情もまた、「感情の物語負荷性」をもつのである。
<注>
(1) Willam James,The Principles of Pshchology, London, Vol.2, p.449. ジェームズ『心理学』今
田恵訳、岩波文庫、下巻、p.174、訳文は少し修正した。
(2) S. Schachter and J. E. Singer,‘Cognitive, Social, and Physiological
Determinants of Emotional State’in Pshchological Review, 1996, Vol.69,
No.5, p379、これまでの感情研究の歴史については、岡原正幸「感情社会学の成立と展開」(岡原正幸、山田昌弘、安川一、石川准著『感情の社会学』世界思想社、1997年、所収)が大変参考になった。
(3) G.E.A. Anscombe, Intention, Oxford, Basil Blackwell, 1957, アンスコム『インテンション』菅豊彦訳、産業図書、1984年。彼女は、おそらく全ての感情についてこのことを認めているのだろうと推測するが、明言されてはいない。また、感情の「心的原因」としては「外的な出来事の知覚」だけがとりあげられていて、欲求や評価という側面に言及されていない。しかし、これはその著作が感情を主題としていないので、仕方のないことであろう。(4)
欲求などと意図の区別については、Donald Davidson, Essays on Actions and
Events, Clarendon Press, 1980, デイヴィドソン「意図すること」(『行為と出来事』服部祐幸、柴田正良訳、勁草書房、1990年)を参照。
(5) アリストテレス『動物運動論』第7章、701a30。
(6)デカルト『情念論』40、ホッブズ『リバイアサン』6。
(7)アンスコム、『インテンション』前掲訳、p.46-48。
(8)ウリクト『説明と理解』丸山高司、木岡伸夫訳、産業図書、1984年、p.123。
(9)実践的三段論法についての時間性を考慮した最終的な正確な定式は、前掲訳書、p.139にある。
(10) ここでの二つの前提から次の命題ならば、論理的に導出できるかもしれない。(ただ
し、まだ確信がもてない)。
(1)「Aは、aにとりかかろうと欲求することを欲求する」
しかし、この(1)から、当初の結論であった次の命題は、論理的には帰結しない。
(2)「Aは、aにとりかかろうと欲求する」
なぜなら、たとえば、我々は、「勉強しようと欲求すること」を欲求していても、勉強しようと欲求するとは限らないからである。あるいは、「Bさんのことを嫌いになること」を欲求していても、あいかわらずBさんのことが好きだ、ということがありうる。このような議論については、フランクフルトの「二階の欲求」についての議論が参考になる。Cf.
H.G.Frankfurt, The Importance of What We Care About, Cambridge UP.,1988,
Chap.2.‘Freedom of the will and the concept of a person’.
(11)Cf. A.C.Danto, Analytical Philosophy of History, The Cambridge U.P.,
1965, ダント『物語としての歴史』河本英夫訳、国文社、1989年、特にp.281-286を参照。
(12)ダント、前掲訳書、p.257,258。
(13)バルト『物語の構造分析』花輪光訳、みずず書房、p.18。
(14)ウリクト、前掲訳書、p.150。
(15)ダントー、前掲訳書、p.174。
(16)Gilbert Ryle, The Concept of Mind, Hutchinson of London, 1949, p.93.
. ライル『心の概念』坂本百大、宮下治子、服部祐幸訳、みすず書房、1987年、p.125。
(17)このように考えると、意図ではなくて単なる<欲求>と現実の矛盾から生じる問題の場合には、我々にとって問題状況は成立しているが、我々は少なくとも意識的には、それに対する実践的解決や理論的解決に向かおうとしないような問題状況の中にいるということになる。このような状況が、我々の<生>にとってどのような意味を持つのかを、考えなければならないだろう。問題状況や問題解決の分類については、拙論「問題の分類」(・待兼山論叢・第28号、大阪大学文学部発行、1994年、所収)の参照を乞う。ちなみに、ライルは、喜びなどのポジティヴな感情も、性向と現実の衝突による「心の動揺」であると見なしているので、我々のいう、問題発生も問題解決も共に「性向と現実の衝突」が起こっていると考えることになるだろう。また、ライルは、行動するときには、感情をもたない、という。これにならっていうならば、問題発生と問題解決の中間である問題を解決しようとしているときには、感情をもたない、ということになるだろう。行動もまた問題を解決しようとすることである。
(18)山口尭二『日本語疑問表現通史』明治書院、1990年、第三章「疑問表現の情意」。
(19)前掲書、p.12。
(20)前掲書、p.8。ちなみに、山口氏は、同書、第一章「疑問表現の原理」において、疑問文と詠嘆とのつながりを、つぎのように考える。疑問表現は、内面の「疑い」の表明であれ、他者に解答を求める「問いかけ」であれ、内面の疑念を出発点にする。疑念が生じるとは、事態が不透明にとらえられているということである。そして、この「不透明な事態の捉え方」に対して、情意的抵抗感が生じるとき、疑問表現が詠嘆性を帯びることになるのである。つまり、感情が疑問文で表現されることが多いのは、事態が不透明であるとき疑念が生じて、それが疑問文で表現されるのだが、他方でこの不透明な事態が、情意的抵抗感(感情)を生むからである。
(21) クロード・ブレモン『物語のメッセージ』阪上脩訳、審美社、1975年、p.39,
40。
(22) 前掲訳書、p.42, 43。ダントもまた、物語の結合の仕方として、この二つを挙げている(ダント、前掲訳書、p.290,
291を参照)。ところで、ブレモンは、p.67-69では、「連携」という結合の第三のタイプを挙げている。これは、同じ動きが、二つの文脈の中で異なる意味をもつことによって、同時に並行する二つの基本的連続を構成するというタイプである。このタイプは、問題との関係でいえば、ある出来事が、異なる二つの文脈において、二つの問題を引き起こし、その解決が二つの意味をもつという場合に対応しているだろう。感情についていえば、同じ出来事が、矛盾する欲求にたいして別の感情を引き起こしたり、ある欲求が、二つの人間関係の中で別々の感情を引き起こす、というような場合に対応するだろう。
(23)A.R.Hochschild,‘Emotion Work, Feeling Rules, and Social Structure’,
in American Journal of Socioligy, Vol.85 No.3, p.551-575. 彼女の研究を紹介しそれを展開しているすぐれた仕事に、前掲の『感情の社会学』がある。
(24)この図は、前掲の『感情の社会学』p.77にある山田昌弘による図に手を加えたものである。
(25)フランクフルトの前掲書第二章での「二階の欲求」と、これまで述べてきた「二次感情」と微妙に食い違うところもある。たとえば、二階の欲求をもつときには、その対象となる欲求は、現実になくてもよいのである。しかし、広い意味では「二次感情」の中に「二階の欲求」を含めることができるだろうと考える。