ボランティアと公共性

 

入江幸男

 

Voluntary Action and Publicity 

IRIE Yukio

大阪大学大学院文学研究科助教授


                               ボランティアと公共性

 

 西洋、中国、日本における「公共」概念の歴史を踏まえて、我々は「公共」概念を「共同体的公共性」と「市民的公共性」の二つに区別することができる。共同体的公共性とは、「共同体ないしそれに関するものごと」という意味である。市民的公共性とは、「自由な討論」と「公開性(越境性)」が認められているということである。この市民的公共性は、社会正義ないし政治的諸価値が討論される場合には「政治的公共性」となる。ところで、ボランティア活動にとって、その活動についての自由な討論や広報活動は、本質的な構成要素であるので、ボランティアは、市民的公共性(とりわけ政治的公共性)の一部を構成することになる。また、市民的公共性の実現のためには、ボランティアの活動が不可欠である。なぜなら、国家(ないし地方自治体)は、企業と同じく営利組織であって私的であるからである。国家(ないし地方自治体)が公共的であるのは、それが自由で開かれた討論に参加し、ボランティア活動をするときである。したがって、市民的公共性を実現するための活動の主体を国家だけに求めることはできない。それを担うのは、ボランティアである。

<キーワード>

ボランティア 市民的公共性 人民的公共性 アーレント ハーバーマス  


 

         Volunteer Activities and "Publicity"

 

  Referring to the history of the concept of "publicity" in the sence of

"being public" in the West, China and Japan, we can distinguish two meanings:"communal publicity" and "civic publicity". Communal publicity means to

bea community or related to a community. Civic publicity means to be free to discuss and to be open to watch, listen and criticize.  When we discuss social justice or political values, civic publicity becomes political

publicity.  Therefore volunteer activities are a part of civic publicity, because free discussion and dissemination of information are essential to volunteer activities.  Further, volunteer activities are indispensable for the realization of the civic publicity, because a state is a profit-making organization and not public, just like a company. A state is public only

when the state participates in open discussion and chooses to act as a

volunteer. Therefore we cannot leave all the construction of civic

publicity to the state. To realize it, we need volunteer activities.

 

 

keywords

voluntary action, civic publicity, communal publicity, H. Arendt, J. Habermas

 


                                    はじめに

 

 ボランティア活動が、国家システムへの動員になってしまう危険性が指摘されている。中野敏男は、ボランティアの自発性が抽象的であることの危険性を、容易周到な議論で非常に鋭く指摘した。「要するに、「ボランティアという生き方」の称揚とは、このように抽象的な「ボランティア主体」への動員のことなのであり、この主体=自発性は、抽象的であるがゆえにかえって、「公益性」をリードする支配的な言説状況にどうしても親和的にならざるをえない仕掛けになっているのである。」(中野 1999 p.88)私は、ボランティアにつきまとうこの危険性を常に意識しておくことの重要性を積極的に認めたい。なぜなら、ボランティア活動は多様であり、その多様な活動を包み込まなければならない「ボランティア」という概念の中に、国家システムへの動員を阻止できるような明確な原理を見つけることは困難だからである。

 しかし、それにもかかわらず、ボランティアには別の可能性もあるだろうと考える。この別の可能性の一つは、ボランティアが言説状況に参加し、その重要な担い手の一つになるということである。現代のボランティアは、単に社会奉仕活動をおこなうだけでなく、社会に向かって発言する力をつけてきた。それゆえに、ボランティアは、後に述べるような意味での「市民的公共性」の重要な担い手になりつつあるのではないだろうか。この可能性を理論的に明確に示すことが、本論の課題である。

 

                              1 公共性とは何か

 公共(public)とは、ギリシャ語の(koinos)に由来する概念である。koinosの意味は、辞書によれば、①共通の(common, shared in common)、②すべての人に共通のものごと(common to all the people, public)、③国( the state, Lat. republica)などである。koinosとは、単に「共通の」という形容詞であったものが、人間に適用されて、「すべての人々に共通のものごと」という意味になり、さらに「すべての人々が属している共同体」を意味するようになったようである。この②と③の意味がラテン語のpublicusの意味になり、それが英語のpublicになったのである。それと共に、③の「すべての人々が属する共同体」は、古代ギリシアのポリスから、近代の国民国家に転じて行った。このように見るならば、公共(public)の意味は、②と③に分けて考えることができる。

 古代ギリシアの公共性を高く評価するアーレントは、「公的」という言葉が、「密接に関連してはいるが完全に同じではない二つの現象」(Arendt 1958 訳、p.50)を意味していると考える。第一の意味は、「万人によって見られ、聞かれ、可能な限り最も広く公示されるということ」である。第二の意味は、共通の領域としての「世界」である。この世界は、すべての人々を結びつけると同時に、人々がぶつかり合って競争するのを阻止している、と言われる。この「世界」を共同体と考えるのか、それともある種の活動空間と考えるべきなのか、曖昧であるが、それが何らかの領域として考えられ入ることは間違いない。第一の意味は、この領域を可能にするより基礎的な条件であるように思われる。この二つの意味は上の②と③に正確に一致するものではないが、類似している側面がある。

 このような二義を、中国の「公」概念にも見ることができる。溝口雄三の研究(1980,1988)によれば、中国の「公」には、二つの意味群があり、第一群は、「公」の「八」は、開くという意味であり、「開放」という意味から「衆人と共同するの共」「衆人と共に通ずるの通」「平分」などであり、第二群は、この「共」という意味から「衆人の共同作業場・祭事場などを指す公宮・公堂」「それらを支配する族長」「統一国家成立後は君主や官府など支配機構にまつわる概念」などになる。第二群の意味は、第一群に由来する。ゆえに、国家の公の上位には、それをオーソライズする原理としての天下の公があり、天下の公に対しては、国家も私となる。

 では、日本の「公」はどうなのか。田原嗣郎の研究(1988)によれば、日本語の「おほやけ」は大きい「ヤケ」であり、ヤケとは敷地と建物からなる一区画の施設をさすものである。「おほやけ」は、共同体的機能を備えており、共同体の首長に属していたことから、①共同的、公共的であること、②首長であること、という二つの意味を含み持つことになったようである。この「公」概念は相対的なものであり、ある共同体は「公」であるが、この「公」もこれを包み込むより大きな共同体に対しては、「私」となる。例えば、藩内では、公であっても、幕府に対しては私となる。(この考え方で行くと、日本国もまた地球全体のなかでは「私」となる。このような思想をすでに、幕末期に松平春嶽が述べていたようである。)こうして、日本の公私は相対的な上下関係を指す。

 日本では、中国の「公」に「おほやけ」という読みをあてたために、「オホヤケ」つまり、共同体(ないしその首長)の意味はあっても、「すべての人々に共通の事柄」というような意味はみられない。溝口雄三は、日本の公には、第一群の意味がないという。溝口によれば、日本の「公」における共同、公共の内実は、ある種の領域性であり、中国のそれは「同じくする」「共にする」ことじたいを共同とする「つながり性」である。

 「public」の訳語として「公」だけでは不充分で、「公共」という翻訳語が作られる必要があった理由、またその言葉が定着するのが遅れた理由として、日本語の「公(おほやけ)」には「共同体(ないしその首長)」という意味しかなかったという事情があったのだと思われる。(注1)

 

                        2 二種類の「公共」概念

 このような「公共」の概念の中から、我々は二つの意味を取り出して区別することが出来る。(この区別は、概念史研究からのまとめではなく、むしろ概念史研究を参考にしつつ、我々が現代社会を理解するときに有効な概念とするために「公共」概念を再定義したものである。)それは、「共同体ないしそれに関するものごと」という意味と「人々の開かれた関係」という意味である。ところで、「公共」に二種類の意味があるということは、それに対応する「私的」にも二種類の意味があると言うことであり、「公私」の関係に二種類のものがあるということでもある。

 

                      (1)共同体を基礎にした「公共」概念

 「公」ないし「公共」の一つの意味は、「共同体ないしそれに関するものごと」ということである。たとえば、「地方公共団体」「公共建築」という用例がこれにあたる。このとき、「公的な」や「公共の」は「共同体(市、県、国など)の」とほとんど同じ意味である。

 この場合、より小さな共同体の事柄は、それが属するより大きな共同体の事柄との関係では私的なものとなる。たとえば、市全体にかかわる事柄は、公(おおやけ)の事柄であるが、しかし、県の立場と対立するとき、それは私的な事柄になる。県の事柄も、国の立場と対立するときには、私的なものになる。国の立場も世界全体の事柄と対比されるときには、私的なものである。現代では、人・物・金・情報が国境を越えてグローバルに展開しており、他方では、環境問題や食糧問題や難民問題などの社会問題もグローバル化しており、これらの問題に人類すべてが協働して取り組まなければならないとすれば、地球共同体とか人類共同体という発想も登場してくる。

 この公共概念の欠点は、このような共同体を、人類全体に拡張したとしても相対的な原理にとどまる、ということにある。たとえば、人類のエゴとして、それを批判する立場が登場してくるかもしれない。

 もう一つの欠点は、このような公共概念では「私」が消極的な意味しか持ち得ない、ということである。「公」が相対化されるとき、「私」は「公でないこと」というように消極的にしか定義できないことになる。しかも「私」は個別的な特殊な立場に固執するので、邪(よこしま)であり、「公」は個別・特殊を包括する全体の立場に立つので、正義である、とみなされる。日本の伝統的な「公私」概念はこのようなものであるが、田原嗣郎によれば、日本語の「私」は「自己否定または謙遜の意を込めた自称、あるいは他からの非難の言葉」として使用されていた。「私」が認められるのは、それがより小さい共同体の「公」である限りにおいてか、あるいは私を捨てて「公」に同一化する限りにおいて、つまり「滅私奉公」においてである。これを「共同体的公共性」と呼ぶことが出来るだろう。

 

                       (2)個人を基礎にした「公共」概念

 「私」に積極的な価値を認める思想が、中国では明代末期(17世紀)に登場し、また西欧でも17世紀に登場する(溝口雄三、1980,1988、桜井哲夫、1998)。このことは、「相互的均としての公」などの新しい「公共」概念の登場を意味するものでもある。

 もし個人主義の立場にたって、共同体が個人の諸関係として成立しているとすれば、このとき諸個人の利害の総計ではないような共同体の利害=公益がはたして存在するのだろうか、という疑問が生じる(足立幸男 1991 第一章)。もし、私益に還元されないような公益がないとすれば、私益と公益の対立は、実際のところは、少数者の私益と多数者の私益の対立であることになる。したがって、このような対立を「公益」の立場にたって、解決することはもはや不可能である。そこでは、私益と私益の対立をいかなる原理で調停するのか、またその原理をいかなる仕方で決定するのか、ということが対立者に共通の課題であり、この共通の課題の答え(普遍的原理や原理の決定方法)やこれを可能にする条件こそが、公共のものであることになるだろう。

 とろろで、個人主義の立場であっても、私益に還元されない公益というものがあると考える立場があるだろうし、共同体主義の立場で、共同体が個人に先立つと考えて、私益に還元されない公益を認める場合もあるだろう。これらの場合でも、共同体にとって重要なのは、公益についての理解が対立するときに、その対立をどのようにして克服するのかである。つまり、「いかなる仕方で公益を決定するのか」ということが対立者にとっての重要な共通の課題であり、この共通の課題の答え(公益の決定方法)やこれを可能にする条件こそが、公共のものであるということになるだろう。

 個人の自由な活動の調整原理、あるべき秩序(正義)、これらが公共性の構成要素となる。これらの原理を社会的に決定する方法は、公共性の中のより普遍的な構成要素である。これは、理想的には自由な討議によって決定することである。そして、自由な討議を可能にする条件としては、討議がすべての人々に開かれているということがあるだろう。これを逆にいえば、他の集団、他の領域に属している者が、境界を越えて討議に参加するということである。この公開性(越境性)はさらに普遍的な構成要素である。以上をまとめると、公共性は、①諸個人の自由(=権利)を調整し秩序づける原理(普遍的な正義の原理)と②その原理を社会の中で決定するための討論と③その討論を可能にする条件としての公開性(越境性)という三層からなるといえる。

 このような公共性概念を、もう少し拡張しておきたい。公共性の構成要素を①②③に区別したが、その②自由な討論と③公開性(越境性)を備えていれば、それを「市民的公共性」と呼ぶことにしたい。上のように公開の自由な討議が、政治的な価値に関するものである場合には、それを「政治的公共性」とよび、文芸に関するものである場合には、「文芸的公共性」とよび、学問に関するものであるときには「学問的公共性」と呼ぶことが出来るだろう。17世紀に始まる近代科学革命が可能になった背景には、この「学問的公共性」の成立があったといえる。(たとえば、デカルトは学問を推進するために「公衆に伝達する」ことの重要性を指摘していた(望月太郎 1996)。)この他の分野にも公共性が考えられるかもしれない。

 このような公共概念を明確に述べているのは、カントである。「理性の公共的使用とは、ある人が教養人として読書界の全公衆を前にして彼自身の理性についてなす使用を意味している。私のいう理性の私的使用とは、或る人が彼に委託されている市民的地位あるいは公職において彼の理性についてなすことを許されている使用のことである。」(Kant 1784、訳41、訳語を少し修正)カントは、将校、財務官、聖職者が職務をおこなっているときには、彼らは自由に討議することを許されておらず、命令や規則に服従しなければならないので、理性の私的な使用であるという。もちろん、彼らも一人の教養ある市民として、自由に討議するときには、公共的に理性を使用していることになる。ここでいう、「公共的」とは、上の②と③を備えた「市民的公共性」に他ならない。

   

                        表1 二種類の公共性

 

 

     共同体的公共性

        市民的公共性

 

 

 

 

 

 

 共同体を基礎にする公共概念

 公私は同一カテゴリー上の相対概念

 公は正義、私は邪

 私は消極的に定義される

「公」と呼ばれることが多い

  個人を基礎にする公共概念

 公私はカテゴリーが異なり、区別は固定

 私は善、公は正義

 私は積極的な意義をもつ。

「公共」と呼ばれることが多い

 

 

 

                            3、ボランティアの公共性

                (1) 市民的公共性・市場・ボランティアの類似性

 ハーバーマスは、近代西欧において都市の教養市民層によって形成された討議の公共空間を「市民的公共性」と名づけた。これは、上で述べた市民的公共性に当たるものである.経済活動が盛んになり、私益を尊重するようになるとき、個人を基礎にした公共概念が登場する。自由市場経済の発展を背景に、市民的公共性とボランティアは、ともに17世紀に登場したといえる。注2

 ハーバーマスは、17世紀中ごろから、都市の教養市民層が、サロンやカフェーで、また新聞や雑誌を通して、討論する討議空間が発生し、それによって政治への監査がおこなわれるようになったと指摘する。市民的公共性を担っていたのは、都市の教養市民層であった。自由な討議が行われる場所は、都市である。なぜ、村ではなく都市なのかといえば、そこで人々は、市場で人々が出会うときと同じように、個人として出会うからである。村では人々は、○○の息子、××の妻、などとして出会う。これにたいして、市場では、どこからやってきて、どういう動機で商品を売っているのかは問題ではない。その人がどのような商品をどのような値段で売るのか(あるいは買うのか)、と言うことだけが問題である。そこでは、人は、彼が属する集団とは無関係に個人として、あるいは物は、誰れがどのようにして作ったのかとは無関係に、商品として登場し、個人と個人、商品と商品の関係が生じる。討議や活動のための共同空間でも、重要なのは彼の発言内容であって、その人がどのような集団に属しているかではない。また、どのような動機から発言するのかということでもない。公共空間の中での発言は、誰によって話されるのかとは無関係に、その内容だけで判断され、他の発言との関係(一致−不一致、主張−反駁、主張−論拠、など)において検討される。

 討論や経済活動と同じく、ボランティア活動もまた、その内容だけで評価される。それが誰の誰に対する行為であるかということは重要ではない。同じ行為であっても、する人によって、その行為の意味や行為に対する評価が変わるということはない。 ボランティアの人間関係は、市場での人間関係と同じく、個人と個人の関係になる。市場で客が商人から商品を買うときに、両者は、相手が今までどこで何をしていたのか、ということをまったく知る必要がない。ボランティア活動でも事情は似ている。我々は、いっしょにボランティア活動をしていても、お互いの経歴を知らないことがおおい。その人が会社の重役であろうと、失業者であろうと、彼/彼女のボランティア活動にたいする評価が変わるわけではない。彼らは、重役、失業者、主婦などとして出会うのではなくて、個人として出会うのである。ある問題意識を共有して、その問題解決のための活動に協力できるかどうか、が重要なのである。

 ボランティアは、市場での商品と同じく、物語をもたない。市場の商品は、どこで誰によって作られ、どうやってそこに運ばれてきたのか、ということをまったく捨象して、そこにある。これと同様に、ボランティアも、例えば英語ができるという能力を使って活動するときに、どこでどうやってその能力を獲得したのかという彼女/彼の歴史(物語)はまったく捨象される。ボランティアとしての個人は、そのような経歴を捨象して、現れる。彼は、そこで別の新しい物語を始めるのだともいえる。うまくいったときのボランティア活動には、いわばゼロから始める解放感と個人として承認されるという喜びがある。ゼロから個人として始めるということが、ボランティア活動が、なによりも自発的(ボランタリー)な行為として表象されてきた理由である。

 このように個人と個人が自由な活動空間の中で出会うという点において、市民的公共性も自由市場もボランティアも同じである。この三つに共通なのは、活動が開かれているということである。これは、市民的公共性の条件の一つとして上げた③公開性(越境性)である。しかし、ボランティアは、非営利活動であるという点において、市場での経済活動とは異質である。では、ボランティアは、市民的公共性とはどのような関係にあるのだろうか。

 ボランティアの活動は、社会の役に立つ活動であり、社会正義を実現する活動であるといえるだろう。それゆえに、その活動は、社会正義に関する政治的公共性と深く結びついている。例えば、ボランティアが生活困窮者を助けるときには、ひとはある程度の健康的で文化的な生活が保証されるべきだという権利や正義についての規範意識がある(場合によっては、単に「かわいそうだから」という感情に基づく行為として理解されているかもしれないが、その感情は上のような規範意識と不可分である)。彼の活動が、支援している相手や第三者に承認されるということは、それと結合している彼の社会正義に関する考えも承認されるということである。ほとんどのボランティア活動は、組織によって行われるが、組織の中では、活動の目的や仕方についてつねに繰り返し自由な討論が行われる。また、奉仕・支援の相手とも、奉仕・支援の内容について話し合いが行われる。またボランティアは、その活動に対する一般の人々の支援を求めて、主としてミニコミや講演会などによって広く人々に訴えるということを盛んに行なっている。活動についてのこのような開かれた自由な討論は、ボランティア活動の本質的な構成要素である。このような言論活動抜きのボランティア活動というものは、ほとんど考えられない。そして、そこで議論されているのは、些細なことであっても、社会正義ないし政治的諸価値に関することである。それゆえに、ボランティアは、市民的公共性の担い手の一部なのである。ちなみに、経済活動は、言葉ではなく貨幣をコミュニケーション・メディアにしているので、上に述べた市民的公共性の条件である(③公開性(越境性)を備えているが)②自由な討論を備えていない。つまり、市民的公共性をもたないのである。

 

                              (2)非営利とは何か

 ボランティア組織は、非営利である。では、「非営利」とはどういうことだろうか。経済学では、非営利組織とは、利益をメンバーに分配しない組織、と定義されるようだ。ボランティア組織が活動のための資金稼ぎをしても、それをメンバーに分配するのではないから非営利であるということになる。ところで、この定義を認めると意外なことに、共同体というのは、利益をメンバーに分配するので、営利組織であることになる。つまり、国家や行政は、営利組織なのである。国家は、国民が豊かになるために、たとえば輸出産業を振興しようとする。市は、市民が豊かになるために、たとえば企業を誘致しようとする。

つまり、政治的共同体は、営利組織なのである。国家が営利団体であるからこそ、「日本株式会社」などと呼ばれたのである。このことは、共同体は、内部では「公」であっても、他の共同体との関係では、またより大きな共同体の中では「私」である、ということに対応している。(共同体が営利性をもつからこそ、逆に日本的経営の会社が、運命「共同体」と理解されていたのである。運命共同体としての会社経営が消えつつあるいま、国家を運命共同体とみて、それに依存しようとする傾向が一部に強まりつつある。この時の「国=公」の実態は、企業と同じ私的な営利組織である。もちろん、私的であることも営利組織であることも悪いことではない。悪いのは、私的であるのに「公」と僭称し、営利であるのに非営利と僭称することである。)

 さてそうすると、しばしば行われる次のような整理は間違いなのだろうか。

            行政                企業           ボランティア

   (公的、非営利)  (民間、営利)  (民間、非営利)

この行政のところは、(公的、営利)に訂正すべきであろうか。次のように言えるかもしれない。

            行政                  企業             ボランティア

   (公的、営利(公益)) (民間、営利(私益)) (民間、非営利)

この場合の「公的」「公益」というのは、上に区別した「共同体的公共性」の意味になる。つまり、これらは、より大きな共同体の中では「私的」「私益」とみなされるものである。 ところで、ある組織が営利組織であるということは、その組織の利害は、他の組織の利害と対立する可能性があるということである。そのような組織の利益は、私益であるといわざるを得ないだろう。ということは、その組織は私的である。つまり、ある共同体を営利組織と捉えることは、それを他の共同体との関係において私的であると捉えることを意味する。したがって、「市民的公共性」の立場から規定すると次のようにようになる。注3

            行政               企業           ボランティア

    (私的、営利)  (私的、営利)  (公共的、非営利)

 ただし、国家(あるいは地方自治体)は常に私的で営利的であるのではない。それは、私的な個人がボランティアをおこない、私的な企業がフィランソロピー活動を行うときがあるのと同様である。では、国家はどのようなときに公共的であるのだろうか。それは国家が、国の内外の人々や集団とまた外国と開かれた自由な討論を行い、それに基づいて行動するとき、つまりボランティアを行うときである。例えば、外国の困窮している人々をODAによって支援するときであり、国内の困窮している人々を国籍に関係なく福祉政策によって支援するときであり、外国での人権侵害を阻止すべく努力することである。国民だけでなく国内のすべての人の人権を保障することであろう。国家や地方自治体が、公的ではなくて、公共的であろうとするのならば、企業と同じく、フィランソロピー活動ないしボランティア活動をしなければならない。国家の二つの側面、つまり私的・営利的である側面と公共的である側面を混同していたことが、従来の国家論や公共性をめぐる議論の混乱の一因であったと言えるだろう。(ただし、国家や企業のボランティア活動を本論では扱えないので、本論でボランティアというときには、主として個人のボランティア活動を念頭においている。)

 

 さて、市民的公共性の重要性を指摘したのは、ハーバーマスであったが、ボランティア活動を公共的なものとしてとらえるときには、彼の「市民的公共性」の概念を拡張することが必要になる。次に、それを検討したい。

 

                  4、ハ−バーマスの「市民的公共性」概念の拡張

 ハ−バーマスのいう「市民的公共性」の理念は、「教養ある市民が理性的に討議することによって、世論が形成され、その世論が政治を監査する」ということであった。ここには、(1)世論形成、(2)政府に対する世論による監査機能、という二つの機能がある。この各々の問題点を順に論じよう。

 

(1)世論形成について

 市民が公共的に議論することは、個別の政治的イシューについての世論(公論)を形成することだけを目的にしているのだろうか。そこには、別の機能があるように思われる。ナンシー・フレイザーは、「競合的な公共圏」が「社会集団のアイデンティティーの形成と発動」という機能を持っていると指摘していたが(Fraser 1992、阿部潔 1998)、この機能はマイノリティー集団のみならずマジョリティー集団においても働いているはずである。つまり、公共的な議論には、「世論形成」のみでなく、「集団のアイデンティティ形成と発動」という機能があり、さらにいえば、集団や社会への帰属や参加を媒介にした「個人のアイデンティティーの形成と発動」という機能があるはずである。そして、この機能は、アーレントが公共性に与えていた意義でもある。アーレントは、「見られ、聞かれ、広く公示されること」によって、つまり公共的にあらわれることによって、「リアリティ」が形成されると考えていた。

  「私たちにとっては、現れがリアリティを形成する。この現れというのは、他人によ  っても、私たちによっても、見られ、聞かれるなにものかである。見られ、聞かれる  ものから生まれるリアリティに比べると、内奥の生活の最も大きな力、例えば魂の情  熱、精神の思想、感覚の喜びのようなものさえ、それらがいわば公共的な現れに適合  するように一つの形に転形され、非私人化され、非個人化されない限りは、不確かで、  影のような類の存在にすぎない。」(Arendt 1958 訳、p.50

  「私たちが見るものを、やはり同じように見、私たちが聞くものを、やはりおなじよ  うに聞く他人が存在するおかげで、私たちは世界と私たち自身のリアリティを確信す  ることができるのである。」(同所)

 この後の引用を、ヘーゲルの言葉で言い換えるとつぎのようになる。「自己意識は、承認されたものとしてのみ存在する。」(『精神現象学』)このように考えるとき、市民が公共的に議論するのは、政治的な問題についての世論の形成ということだけでなく、個人や集団として承認されるためである。公共性の支配している社会空間を「公共圏」と呼ぶことにすれば、市民的公共圏は、個人と個人(場合によっては、集団と集団、国家と国家など)などが、互いに承認を求めるための社会空間であるといえるだろう。

 

(2)政府に対する世論による監査機能について

 世論は、政府を監査するだけなのだろうか。つねに政府を批判し注文をつけるだけが世論の機能なのだろうか。公共的に議論した内容に基づいて、自ら問題解決のために行動しようとする市民が登場する場合があるのではないか。

 ハーバーマスは、『公共性の構造転換』の冒頭で、研究範囲を公共性の主流となった「市民的公共性の自由主義的モデル」に限定して、「歴史過程の中でいわば抑圧されしまった人民的公共性という変形を度外視する」と断っている。この「人民的公共性」について、そこでは次のように語られている。

 「フランス革命においてロベスピエールの名前に結び付いている段階に至って、ひとつの公共性が文人的衣裳をぬぎすてて、いわば一瞬間だけその機能を発揮するが——その主体たちは、もはや「教養ある身分」ではなく、無教育な「人民」である。この人民的公共性は、チャーチスト運動においても、とりわけ大陸の労働運動の無政府主義的伝統においても、ひとしく底流としては生き続けているものである」(Habermas 1962、訳、p.2

 ここで言われているフランス革命時のサンキュロットたちは、フランスで始めて「ボランティア」と呼ばれた人たちである。現代のボランティア活動は、ハーバーマスのいうこの「人民的公共性」の系譜を引くものである。この「人民的公共性」は、民衆が自ら問題解決のために行動した運動であった。彼が、この「人民的公共性」を研究範囲から除外したことが「市民的公共性」概念を狭くしてしまったのだと言わざるをえない。

 つまり、ボランティアの公共性というは、活動にともなう自由な討論にだけにあるのではなくて、その実践活動によって担われている。ボランティアの活動は、市民的公共性の不可欠の要素である。なぜなら、社会正義や政治的価値について、開かれた自由な討議を行ったのち、それを実現しなければならないが、その実現は、政府や行政にまかせておけることではないからである。なぜなら、上に見たように、国家や地方自治体は、本来は私的で営利的であって、それが公共的・非営利であるのは、ボランティア活動をするときだけだからである。つまり、市民的公共性、とりわけ政治的公共性が実現されるためには、その実現を政府に要求するだけでは、本質的に不充分なのであり、ボランティアによる活動を必要とするのである。

 ところで、ピューリタン革命からアメリカ独立革命をへてフランス革命にいたる民衆運動(人民的公共性)は、「市民運動」の起源とされるのが、通説のようである(厚東洋輔 1999)。ところで、この民衆運動(人民的公共性)が「ボランティア」の起源でもあったということは、市民運動とボランティアは、ほんらい同じものである、ということになる。次にこの両者の関係について、触れておきたい。

 

                           5、市民運動とボランティア

 ボランティア活動は、「アクション型」と「サービス型」に分けられることがある(厚東洋輔 1999、岡本栄一 1981、早瀬昇 1981)。「アクション型」とは、社会問題を解決するために、行政に訴えて社会制度の改善を目指す活動のことであり、「サービス型」とは、問題を抱えている当事者を直接にサポートする活動である。このとき、「市民運動」は、「アクション型」ボランティアの一種とみなすことが出来るだろう。現代における社会運動の変化は、「市民運動からボランティアへ」という動きに見えるが、実質的には、「市民運動とボランティアの融合」「アクション型ボランティアとサービス型ボランティアの融合」という動きであると思われる。あるいは、市民運動のボランティア化、ボランティアの市民運動化と言うことも出来る。市民運動は、ただ政府や行政に要求するというだけでなく、自らも行動によって問題を解決しようとする力をつけてきた。たとえば、対人地雷に反対するだけでなく、NGOがみずから地雷の除去作業に取り組むというようなこと、あるいは環境保護を訴えるだけでなく自ら環境破壊の現状についての調査・研究をしたり、植林などの環境改善に取り組んだりしている。また、従来のサービス型のボランティア活動も、その社会の制度の欠陥を補完するサービス活動をするだけでなく、制度の改革の提言や要求を行うようになってきた。サービスだけでなく、アドヴォカシー(政策提言)がボランティア達のあいだで重視されるようになってきた。このような流れの中で、市民運動もまたボランティアと呼ばれるようになり、言葉の使用頻度の上では「市民運動からボランティアへ」という動きがあるように見えている、というのが実情ではないだろうか。現在の変化は、市民運動の衰退、保守化、脱政治化ではなくて、むしろ市民運動が政府に対する要求依存型から、積極的に市民的公共性の自立的な担い手に転換しようとしているのだと捉えることができる。

 「アクション型とサービス型の融合」という流れは、ボランティア活動全体におけるアドボカシーとネットワーキングの活発化を意味しており、言論活動の重要性の増大を意味している。これは、ボランティアが、市民的公共性の担い手の一つになるということである。

 

                     6、ボランティアの社会の中での位置付け

 以上の考察を踏まえて、最後にボランティア活動の社会における位置付けについて考えたい。

(1)第三セクターとしてのボランティア活動

 ボランティア活動を社会の中に位置付ける議論の中に、第三セクター論がある。これは、行政という第一セクター、企業という第二セクターに対して、市民セクター(あるいは非営利セクター)という第三セクターを担うものとしてボランティア活動を捉える議論である。ボランティア団体は、行政と対比されるときにはNGO(Non govermental organization)とよばれ、企業と対比されるときにはNPO(Non profit organization)と呼ばれることがおおい。

 この第三セクター論では、ボランティア活動を、次のどちらかで理解している。

    ①ボランティア活動は、行政の失敗と企業の失敗を補うものである。

    ②行政セクターや企業セクターは、市民活動の限界を補うために発生したもので     あり、人間社会は、そもそも市民のボランティア活動によって成立していた。

 このいずれの立場をとるにせよ、第三セクター論には、次のような欠点があるようにおもわれる。まず、ここでは、ボランティア活動として主としてサービス型ボランティアが、想定されており、アクション型ボランティアが充分に視野に入っていないということである。つぎに、第三セクター論では、ボランティア活動は、社会の中である課題を引き受け、一定の成果を目指すものとして理解されている。しかし、かりにサービス型ボランティアにかぎったとしても、ボランティアの意義には、問題に苦しんでいる人を直接的にサポートして、問題解決を図るということだけでなく、その直接的な交流の中で互いに個人として承認し合うということがある。この相互承認の側面が、充分に考慮されていない。

  

                  ┌─────────────────────┐       
   
               │ ┌───────┐    ┌──────┐         
                     │ │ 行政セクター  │    │ 産業セクター │             
                     │ │(第1セクター) │   (第2セクター)    
      フォーマル   │ └───────┘    └──────┘             
      セクター                                                          │        
                                 ┌───────┐                          
                                 │ 市民セクター   │                         
                                 (第3セクター)  │                 │        
                                 └───────┘                  │        
                                    社会的領域                        │        
                    ├─────────────────────┤        
 インフォーマル                                                      │        
  セクター       │             私的領域                                  
                    └─────────────────────┘        

              図1 ボランティアの社会的位置付け1

(2)市民的公共性としてのボランティア活動

 ボランティア活動は、社会の中で何かの課題を引き受けて、ある一定の成果をあげるということよりも、より基本的なところでは、その活動の中で、人と触れ合い、同じ人間として認め合い、生きる力を分かち合うということに重要な意味があるのだとすれば、それは成果を志向する活動と言うよりも、相互了解や相互承認を志向する活動である。市民的公共性というものが、権利や正義の実現を目指す活動を含む、自由な討論と公開性であるならば、ボランティア活動はおそらくその中心に位置することになる。ここでは、この市民的公共性が支配している社会空間を市民的公共圏と呼ぶことにしたい。市民的公共圏のなかには、政治的公共圏や文芸的公共圏、学問的公共圏などが含まれる。ボランティア活動は、主として政治的公共圏に属するが、しかし文芸的公共圏や学問的公共圏に属するボランティア活動も生まれつつある。

 

     システム      生活世界

     (成果を志向)   (了解・承認を志向)

      ┌─────┐     ┌──────┐                                       
   ┌┼─────┼──┼──────┼──┐                              
    ││           │                       │                     
    ││ 行政機構  │    │市民的公共圏│       公共的領域                  
    ││                                                                    
    └┼─────┼──┼──────┼──┘                              
    ┌┼─────┼──┼──────┼──┐                              
    ││                                                            
    ││ 市場経済 │     │ 私生活圏   │       私的領域                  
     ││                                     │                        
     └┼─────┼──┼──────┼──┘                         
        └─────┘     └──────┘                               

     図2 ボランティアの社会的位置付け2         

 (ハーバーマスと花田達朗氏の図を参考に、変更を加えたものである。)

 

 

(注1) publicは、まず「公」と訳された。『和釈英辞書』(明治2年)には、「public 人民」「public 公ノ、普通ノ」「public-sprited 公ケノ為ニスル」とある。また、小安峻、柴田昌吉著『附音挿図 英和字彙』(明治6年)では、「pulbic 公ノ、衆人の、普通の」「public-spiritedness 公益ヲ謀ル、衆人ノ為ニスル」とある。『哲学字彙』(明治14年)『改訂増補 哲学字彙』(明治17年)にも「公共」という訳語はまだ登場しない。これが初出であるかどうかはわからないが、小学館『国語大辞典』によれば『大日本帝国憲法』(明治22年)八条に「天皇は公共の安全を保持し」と「公共」という言葉が登場する。しかし、その後の日本語の辞書にも、まだ「公共」の項目はみあたらない。山田美妙著『日本語大事典』(明治25年)『日本大辞林』(明治26年)『帝国大辞典』(明治29年)『日本新辞林』(明治30年)これらの辞書には、「公共」の項目はない。つまり、「公共」という言葉が、定着するのは、かなり後、おらくは大正期になってからではないか、とおもわれる。というのは、『英独仏和 哲学字彙』(大正元年)では、「public-spiritedness 公共心、義気、慷慨」となっており、ここに「公共」の語が登場するものの、public のその他の訳語には、「公共」の語は登場しないからである。

(注2)イギリスでのボランティア活動の起源については、柴田善守(1980)が詳しい。それによると、ボランティアは、17世紀のピューリタン革命のときの自警団にはじまる。ただし、ボランティアが今日のような民間社会福祉事業として発展するのは、イギリスでも19世紀に入ってからのようである。フランスでのボランティア活動の始まりは、18世紀末のフランス革命におけるサン-キュロット運動だとされている。

(注3)ボランティア組織の特性について、ここでまとめておきたい。ボランティアは、社会問題の解決のために活動を行うが、一人で出来ることは限られており、組織的な取り組みが必要がある。そこで、ほとんどのボランティア活動は、一時的な参加であれ、恒常的な会員としての活動であれ、ボランティア組織の活動に参加するという仕方で行われている。この組織は、共同体組織や企業組織と次の点で異なっている。

 (1)ある社会問題に関心を持って活動しようとする人々が、互いに知り合い自然発生的に組織が出来上がる。それが、ボランティア組織のはじまりである。組織は、ある問題に関心を持った人々が出会う場所のようなものである。一旦組織が出来ると、問題意識を同じくする人々が、仲間を求めたり、独りではできない実効性のある活動をするために、集まってくる。このようなボランティア組織では、人は組織のために活動するのではなく、ある社会問題を解決するために活動するのであり、組織はそのための手段に過ぎない.

  これに対して、共同体(国家を含む地域共同体や民族共同体など)では、その維持・発展が目的になり、メンバーは、組織の維持発展のために活動することになる。

 企業は、利益をあげるという目的を持っている。会社での人々の活動は、会社の目的に奉仕することである。それとの交換で、会社員は給与を得るという自分の目的を達成する。会社員の目的は、会社の目的とは別のものである。(会社と社員の関係が運命共同体として考えられているときには、事情は少し異なっている。)株式会社の場合、株主の目的は利益をあげることであり、それは利益をあげるという会社の目的と同じである。しかし株主たちは、利益をあげるために、活動しない.活動するのは、会社員である。しかし、会社員にとって活動の目的は給与を得ることであって、会社の利益をあげることではない。社員がより多くの給与を得ることと、会社がより多くの利益を得ることは、一致する側面もあるが、対立する側面をもっている。

 ボランティア組織では、組織の活動目的は、ボランティアの活動目的である。組織の維持や発展は、組織にとってもメンバーにとっても、その活動の手段ではあっても、目的ではない.以上の点を図に示すと、ボランティア組織が、共同体や企業とは異質な組織であることがわかるだろう。

 (2)ボランティア活動では、複数のボランティア団体に属することは、自由である。同種であれ、異種であれ、どのような複数のボランティア団体に属することも自由である。この理由の一つは、共同体や企業と異なり、ボランティア団体は、理念上は、競合や競争の関係にないという点にある。

 これに対して、複数の共同体に属することには制約がある。複数の共同体に属することは可能ではあるが、それらの共同体が同心円の関係になっていなければならない.つまり、大きな共同体の中に、小さな共同体がふくまれていて、その小さな共同体の中に、個人が属しているとき、彼はまた大きな共同体にも属する。会社組織についていえば、複数の会社に属することは、ほとんどないが、不可能ではない。たとえば、夜と昼で別の会社に勤めるということも可能であるかもしれない。しかし、同じ業種の別の会社に勤めることは、許されないだろう.

 以上の考察をまとめると表2のようになる。

 
                
表2 ボランティア組織の特徴

 

 組織の維持・発展が

 最終目的である

 組織の目的と

 成員の目的との関係

営利性

 

複数組織

への所属

 

 

 

  共同体

     最終目的

    一致

営利

制約あり

 

 

 

 

  会 社

      手段

  不一致

営利

制約あり

 ボランティア組織

      手段

   一致

非営利

自由

 

  

参考文献

   

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早瀬昇 1981 アクション型ボランティア活動の実際 大阪ボランティア協会編『ボランティア:参加する福祉』ミネルヴァ書房 1981 第4

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入江幸男 1997 ボランティアと人権概念 『哲学者たちは授業中』ナカニシヤ書店 4-39

−−−− 1999 ボランティアの思想 『ボランティア学を学ぶ人のために』世界思想社 4-21