論文2      方法としての承認論
                        (『哲学論叢尅8号、1981年3月発行)



    はじめに
 ヘーゲルの『精神現象学』は最終的には『エンチクロペディー』にまとめられた彼の哲学体系に対して、「予備学」という意義を担うと思われる。『精神現象学』は自然的意識が自己吟味によって必然的な行程を経て絶対知に到達する教養の歴史であるが、それは単に歴史に留まるのではなく、その行程の必然性によって一つの学となる。この学は、絶対知一学)成立の可能性を問うという意味で、一つの認識論でもある。だからこそヘーゲルは「緒論Einleitung」においてカントの認識論の批判から始めなければならなかったのである。ヘーゲルは、認識・経験・現象の概念をカントより拡大し、知の吟味を意識のとる一つの態度としてではなく、精神の現象である意識の存立構造そのものとして捉らえる。即ち意識の経験を意識の存立構造の顕在化として捉らえるのである。従って『精神現象学』は意識の、またその対象の、そして究極的には精神の存在論でもある。ここではそれの含むいろいろの問題の中で、理論的態度と並んで認識の一形態、知の吟味の一形態と考えられている実践的態度を「自己意識」の章を中心に考察したい。実践的態度を認識の一形態とすることは、認識論という理論的分野を 超えてその基礎として実践的分野を入れることであり、近代の認識論史の上で画期的意義をもつと思われる。ヘーゲルは実践的態度を理論的態度よりも認識成立にとって重要なものと考える。例えば『大論理学』の「理念」の章において、第二の理念である「認識という理念」の中に理論的態度と共に実践的態度が---しかもより高次のものとして含められている。加えて重要なのは、それが対象認識のではなく自己認識の一形態と考えられていることである。ヘーゲルの絶対精神の哲学では、全ての認識は究極的には自己認識である。自己認識において実践的態度が理論的態度より重要であると考える背景には「個人は彼が行なったところのものでしかない」(S.228)「人間の真の存在は彼の行為Tatである」(S.236)といった人間観があると思われる。
    一  行為の挫折による知の吟味
 『精神現象学』における行為の挫折による知の吟味は、確信を実現しようとする行為の挫折によって確信が訂正される、という仕方で行なわれている。このとき、吟味される知は確信であり、吟味の尺度は行為の挫折という経験である。しかしそれは、行為が成功したなら確信は真理であり、行為が失敗したなら確信は偽であるというだけの、つまり真か偽かだけの尺度となるのではない。行為の挫折の後に確信を訂正する仕方、方向づけもまた、その経験以外のものから得ることは出来ない。ところで、行為が実現しようとする確信は、行為が自己認識の一形態であることからも判るように、自我についての知であり----「絶対的対象」(S.143,145)(行為の直接の対象ではなく本当の対象)は自我であると云われる----しかもヘーゲルにとって「自我は(意識と対象の一関係の内容及び関係すること自身である」(S.134括弧内引用者)から、自我についての知とは意識と対象との一定の存在関係の知である。一定の存在関係を実現する行為は、既存の存在関係に働きかけ、それを新しいものへ変更する行為であらねばならないが、その関係自体を直接に対象とすることはできない。しかし行為は、物、他者、自 分の生命、社会等を直接の対象とし、それらを変更することによって意識と対象の関係を変化させ、そのことによって自我をもまた変化させ得る。従って行為は直接の対象のみならず、自我、意識と対象の関係にも向かう行為である。
 もう一つ知を吟味する行為に関して重要なことは、吟味される確信の内容(対象と意識の関係)における対象が常に全ての対象乃至対象一般であって個々の対象ではないのに対して、行為が直接に向かい得る対象はそうした普遍的対象ではなくて個々の対象であるという点である。これは、自我或るいは意識が身体をもつ行為者としては個別であり、その行為も個別的であることに対応している。従って確信を実現しようとする行為は、個別的対象を普遍的なものとして対象にしており、その目標もまた、個別的対象と意識の個別的関係における普遍的関係としてあり、その行為の場も、個別的な物理空間ではなく普遍的な意味をもった場としてある。
 「意識は一面では対象の意識であり、他面では自分自身。の意識である」(S.72)と云われている。そこで私達は、意識が主題的意識das thematische Bewusstseinとそれを意識している前主題的意識das praethematische Bewusstseinからなる二重構造をもつと解釈したい。前主題的意識自身は更に意識されてはいないから、その内容は無意識的である。この前主題的意識もまた展開しなければならない有限な意識であって、前主題的意識及びそれに知られていない面を叙述するのは「我々」(既に絶対知に到達して『精神現象学』を叙述している哲学者)である。主題的意識の主題.対象は自分以外のものであるか、自分自身(或るいは自分と他のものの関係一であるかだろう。主題的意識の対象となる自分自身(或るいは自分と他のものの関係)には、現在の意識作用(これは前主題的意識の対象である)は含まれず、記憶としての過去の自分(これには過去の意識作用も含まれる一の思考や感情や感覚や行為、また実体的なものとして私念された自分の性格や気質、身体があり、そしてこれらに加えて現在の行為がある。行為は身体運動として主題的意識の対象になっているだけでなく、人問的な行為がもっている意味としてもまた主題的意識の対象になっているが、その意味には前主題的意識によってしか知られていない無意識的な部分もあるだろう。
 以上を念頭において先ず『精神現象学』における最初の行為の形態、「欲望」を満足させようとする行為を考察したい。『精神現象学』で最初に叙述される意識の形態、対象意識は、対象が真なるものであり意識とは無関係にそれ自体で存在しているもの、即自das Ansichと考えていたが、対象についての経験を通して、この即自は意識白身であり、対象意識は真実には自己意識であることを認識するに至る。「対象はそれ自体では(an sich即自的には虚しいものであり、自我がその本質である」と確信するに至った自己意識は、この確信を「真の確信」(S.139)=「対象的なあリ方の確信」にするために、自立的な対象を否定しようとする「欲望」(S.139)となる。この者にとって相互に自立的であるように現われている自分と対象との既定の関係を、確信の示す関係へと変換しなければならないが、この者はこの関係自身をまた自我自身を行為の対象とすることは出来ないので、他なる対象を否定し、それによって対象と自我の関係及びその関係において成立している自我自身を変換し、新しいそれらを実現しようとする欲望となる。この欲望が向かうべき対象は、対象一般あるいはすべての対象であるが、実際には感性に規定された意志としての欲望が向かう対象は個物、また欲望の行為が向かう対象も個物である。たとえば、それは一個の赤い林檎であり、その行為はそれを食べることであろう。
 ところで、私達が林檎を食べる時、先の確信を意識しそれを実現しようと思って食べているのではなく、せいぜい「この林檎はおいしい(食べられる)」ということ、ヘーゲル風に云い直して「この林檎はそれ自体では産しいものである」ということを意識しているにすぎない。つまりこのことは主題的意識に知られている。またその行為は主題的意識にとってはこのことの実現という意味をもっている。しかしかかる意識の背後には「全ての対象はそれ自体では虚しく、自我がその本質である」という確信があるとヘーゲルは考える。意識が現実乃至対象一般に対してとっている関係についてのこうした確信を持つのは前主題的意識であり、この確信がここでの自己意識のエレメント、前主題的存在論、乃至世界観となっている。この前主題的意識自身は更に意識されではないから、確信は無意識的確信die bewusstlose Gewissheitであり、意識と確信の関係は、「観察する理性」の章における理性の「無意識的確信」(S.253)と意識との関係と同じく、「持つ」という関係であろう。
 ヘーゲルは「この一個の林檎はそれ自体では虚しく、自我がその本質である」ことの対象化を、先の全ての対象についての確信の対象化と同一視しているように思われる。「欲望とその満足において獲得された自分自身の確信は、対象によって制約されている。というのは確信がこの他なるものの廃棄によって存在し、この廃棄が存在するにはこの他なるものが存在しなければならないからである。自己意識はそれゆえにその否定的関係によって対象を廃棄することができず、それゆえむしろ再度、欲望及び対象をつくり出す」(S.139)とヘーゲルが云う処から、一個の林檎を食い尽くしても先の確信の対象化にはならず、再度他の個物の否定へ向かうことを反復しなければならないといえる。だがそれは、一個の対象の虚無性を対象化しても対象一般の虚無性の対象化にはならないと考えるからではない。かつてあった一個の林檎の虚無性は、その不在において実現されているが対象化されてはいない。一個の林檎の虚無性の確信は、食べ尽した瞬間においては対象的になっていると言えるかもしれないが、同時にそれはまた過去のものにとどまり、確信は内的なものに戻ってしまい。先の自分自身の確信も 内的なものにとどまっている。ヘーゲルが次に「対象の自立性のために、このものが自ら自分に否定を遂行することによってのみ、自己意識は満足に到達しうる」(S.139 傍点引用者)と云うのは一見奇妙だが、「欲望の対象は、それが普遍的な根絶不可能な実体、流動的で自己自同の実在であるという理由でのみ自立的である」(S.140 傍点引用者)と云われているところから、この対象は個々の対象ではなく対象界全体の意味だと判る。先の確信が対象的になるためには、対象が即自的に虚しいものであって且その否定において猶存続していなければならない。かかる対象は意識であるとヘーゲルは云い、対他者関係へ移行する。この態度の変化は、次のような仕方で、づまり、個物の否定の行為が先の確信の実現であるという考えの誤りが、行為の挫折において、一個の林檎を食べる行為が主観的意識にとってもつ「この林檎がそれ自体では虚しいことの実現」という意味と前主題的意識にとってもつ「全ての対象はそれ同体では虚しく、自我がその本質であるという確信の対象化」という意味の矛盾として、前者の実現がむしろ後折の対象化を妨げるという関係として前主題的に意識され、この矛盾を回避するように行為が修正され、他者へ向かうことになるという必然的な仕方で行なわれている。但し、この段階では「我々」の対象である自己意識は、地図的自覚的に知を吟味しているわけではなく、物に対する欲望の関係から対他者関係への秒行は、この意識にとっては必然性のない単なる「出来事」である。この移行は、.物に対する欲 望の満足だけでは充たされない折が、他方でいわゆる社交本能を充たすために他者へ向かってゆくことでも理解されていることだろう。
 二 疎外論と承認論
 認識としての実践において知の訂正の機縁となる行為の挫折は、へーゲルの疎外論に関わっている。へーゲルの疎外論に対しては、マルクスがまたルカーチが、ヘーゲルは疎外と対象化を同一視しており、それは主体を自己意識と同一視することに由来していると批判している。それに対してイポリットは、「人問は彼が生まれた自然と混り合うが、しかしまた人問は自分を自然から引き離すのである。・…:…疎外はすでにそこにはじまるのであり、しかもその疎外とともに人間の運命の問題がはじまるのである。………このようなものとして、この概念はマルクスが理解しているように資本主義における人間の疎外という概念だけに還元しうるようには思われない」と云いへ-ゲルの疎外論に対して所謂実存主義的な再評価をする。彼はその再評価が根源的には引用した個人と自然の関係論よりも相互承認論に関わっていることを暗示している。私達の予想を言えば、疎外と対象化の同一視は、相互承認が存在=思惟というエレメントにおいて始めて成立し、存在11思惟でないエレメントにおいては基本的に成立しえず、必然的に疎外が生じるとへーゲルが考えていることによる。
 相互承認が存在=思惟というエレメントを要求するのは、「承認」概念の根源性に基づく。ヘーゲルの「承認」概念は、単に他者の意見、行動、所有等の承認ではなく、むしろそのような承認の根拠をなす根源的な意味での他者承認であって、この根源性は、現代における他者認識論の「他者認識」の根源性に匹敵する。その根源性は、自己意識が成立した後に自立的なアトムの関係として承認関係があるのではなく、逆に相互承認において初めて自己意識が真に成立すると考えられ、「ある自己意識がある自己意識にとって存在している。このことによって初めて自己意識は実際に存在する」(S.140)と云われている点に収約されるだろう。従って承認関係及至運動は自己意識の存立構造の内に組み込まれており、ヘーゲルが弁証法的経験・知の自己吟味を自己意識の存立構造として捉らえる時にも承認過程が組み込まれているはずである。『精神現象学』の叙述を導く知の吟味には、理論的、実践的の二つがあって、後者が自己についての知の吟味であることは述べたが、更に重要なことは、それが相互承認或るいはそれを求める行為という形態をとることである。
 行為が根源的には相互承認或るいはそれを求める行為であることから、対物関係から対他者関係への移行においてどのように他の自己意識が現われてくるかについて一つの解釈が出てくる。対他者関係の出現は、「自己意識の二重化die Verdopplung des Selbstbewusstseins」(S.140)によると云われている。この「自己意識」の章の前章、理論的態度である「意識」の章における対象意識(感覚的確信、知覚、悟性)は「普遍的自我」(S.83)と云われており、カントの「意識一般」に当るものだった。しかし行為においては、自己意識は普遍ではありえず、個別であり、個別が個別であるのは、他の個別との対立であるところから、自己意識の二重化が生じると解釈できる。すると欲望の行為において既に自己意識の二重化は起こっていたはずであり、自己意識の行為が対象界から疎外されて分裂・二重化が起きるのではなく、疎外によって自己の個別性に気づいた自己意識が他の個別者を見い出すことになり、この新たな対象の内に先の確信の対象化、換言すればその他者によって本質及至対自存在として承認されることを求めて行くと解釈できよう。後の「真の精神、人倫性」の章では「行為Handlungが精神を実体とその意識へと分け、また実体及び意識を(各々二つに、つまり実体は神の法と人の法へ、意識は女と男へ)分ける」(S.317括弧内引用者)と云われ、意識の実体(現実)との対立と意識の二重化は同時であることが明言されている。 従って対他者関係と対物関係は常に密接な関連をもって現われる。
 この解釈は、何故「欲望」の段階が「自己意識」の章で「A自己意識の自立性と非自立性」「B自己意識の自由」の二節の前に一節として設けられず、「自己意識」の章全体の導入部に含まれているのかについて、それが行為の根源的な意味、相互承認の追求という意味を持っていないからであるという解釈を可能にする。
 ヘーゲルは承認を求める対他者関係の叙述に先立って「承認の純粋概念」を提供している。相互承認において、自己意識にとって他の一つの自己意識が存在している時、このことは、他者が自分自身の本質でありまた自分が他者の本質であるという二重の意味を持っており、従ってこの他者を止揚する行為も、他者の本質性を否定しまた他者の内の自己を否定するという二重の意味を持つことになり、更にこの行為からの自己内還帰も、自己の取り戻しでありまた他者の解放であるという二重の意味を持っており、最後にこの行為は、一方の者の行為でもあり他方の者の行為でもあるという二重の意味を持っていると云われ、各々は他にとって、自己を自己自身と媒介し推論結合する中辞であり、更に各々は互いに承認し合っているものとして承認し合っていると云われている。
 この「承認の純粋概念」は決してヘーゲルの考える承認の最上の形態ではない。この承認は二つの自己意識の関係であって、かかる関係はそれ自体、より多くの自己意識或るいは社会によって媒介されている1と考えるヘーゲルにとって承認の最高形態は、民族ないし国家を成立せしめる承認である。この「承認の純粋概念」の叙述において彼は「愛」の関係を念頭に置いていると考えられる。これは例えば『実在哲学1』で愛を原理とする「婚姻」について「そこにおいて各々の意識が互いに交換され、自分自身の意識であり且他者の意識でもあるところの両者の生き生きとした単一存在Einsseinにおいて、意識は必然的に両者がそこで分けられ且一つであるところの中辞、実存する統一である」と云われているのと同じ内容である。この承認は、二つの自己意識を媒介するものが欠けた「直接的に承認された存在」である。しかしこうした感情にによる結合を除けば、二つの自己意識は身体を含めた物や発話行為を含めた行為を媒介にしてじか関係しえない。(このことが現代において他者認識をアポリアにしている。)
 自己意識が、生を産しいものと考えていること、換言すれば自分が純粋対自存在であること、を他者に承認してもらう為の互いの生死を賭けた闘いにおいては、互いの身体、生命が媒介にされている。ここでは、自分が死んでも相手が死んでも承認されることはなくなるという矛盾の「経験において、自己意識には空もまた純粋自己意識と同様に本質的であることが生じる」(S.145)という行為の挫折による知の吟味が行なわれる。そこで次に、この二つを本質とする自己意識の形態が現われてもよいのだが、「それらはさしあたって不同で対立しており、統一へのそれらの還帰はまだ明らかになっていないので、それらは意識の対立する二つの形態としてある」(S.145)と云われ、ここに対自存在を本質とする主人と生あるいは対他存在を本質とする奴隷の有名な関係が成立する。
 主奴関係において主人はa)直接的にイ)奴隷とロ)物に関係し、またb)間接的にイ)物を介して奴隷とロ)奴隷を介して物と関係すると云われている。a)イ)は承認を求める闘いの場合のように生の内に埋没した意識、つまり物としての奴隷に対する関係として一対自存在としての奴隷に対して主は直接的には関係しえないはずである)a)ロ)は欲望の関係として考えられる。b)イ)(主人-物-奴隷)では、奴隷にとっての本質である物一生命一を否定する主人が、その物(生命、土地、生産手段)の支配を介して奴隷を支配する関係(支配-奉仕)が、b)ロ)(主人-奴隷-物)では、奴隷の労働・加工という行為を介して生産物としての物を主入が享受するという関係(享受-労働)が考えられている。b)イ)において主人は物を非自立的と考え奴隷は物を自立的と考え、b)ロ)においても主人は物の非自立性を享受し奴隷は物の申立笛を引き受けている。二つの自己意識を媒介する物が両者に一面的にしかも異なった面においてしか関係していないとき、その物は分裂した中辞であり、両者を統一し得ない。さしあたりこう考えられる。
 しかしここに周知の主奴の逆転が起きる。ここでの承認関係は、「本来的な承認」(S.147)ではなく「一面的で不同」であると云われるが、それは一方(主人)のみが承認されて、他方(奴隷)は承認されないという意味のみでなく、主人がたとえ承認されても「本来的な承認」ではないという点にもあることを注意しなければならない。A.コジェーブが鋭く指摘するように「奴隷は主人にとっては動物・物である。それゆえ……彼は…-一人の他の人問によって承認された人間ではない」。私達はここから更に、主人が奴隷に逆転するのは、彼の生活が奴隷の労働生産物に依存しているからのみでなく(このことは主人が初心に戻って物を非自立的なものとして否定すれば問題にはならないはずであり、より根本的なのは次のことである一、承認においてまさに主人にとって物である奴隷に依存しているから、主人も物に依存する奴隷に他ならないと考えられる。
 奴隷は、主人による「死の、つまり絶対的主人の恐怖」(S.145)によって、すべての確固としたものの崩壊を体験し、主人の内に見ていた純粋対自存在=絶対的否定性を自己の内に見い出し、それを「奉仕」において自分の物に対する執着を否定することによって実現し、更に「労働」において自分の否定性・対自存在を生産物の「形式」(S.149)として対象化するという、「恐怖」「奉仕」「労働」の三契機によって「自立的存在の自分自身としての直観」(S.149)に到達し、「対自存在しているもの」主人と同じものになると云われる。
 ここで疎外と承認の関係を考える私達にとって何より重要なのは、労働によって自立的対象を自分自身として直観するには「恐怖」に加えて「奉仕」つまり他者を承認する必要性が指摘されている点、換言すれば物・存在における疎外を止揚するために他者を承認する必要があるという点である。この奉仕という契機がなければ、奴隷の労働は前の「欲望」の行為と同じである。労働にもなるほど欲望の抑制はあるが、それは欲望実現のための必要手段に過ぎず奉仕を欠くなら、労働は自分の欲望の満足とはなっても、純粋対自存在の対象化にはならない。奉仕によって自分の「欲望」(個々の対象への依存、執着)を否定し、疎遠な主人の欲望を実現することが初めて労働をして対自存在の対象化たらしめるのである。
 「真の精神」の章からの前の引用のように、自己意識が行為するとき一行為はヘーゲルによって常に自己を実現するという根源的な意味において捉らえられているのであるが---自己意識が二重化するのみならず、現実も自立的、非自立的という二面へ分かれる。この現実の二面への分裂は、行為の二面性及至二義性に由来している。行為は一面では現実的な働らきかけとして常に現実の否定である。しかし他面では行為は現実をそれが向かう対象として、またそれが成立する場として前提し、従って「行為は現実を自分の本質として承認するという意味をもっている」(S.267)。現実の虚無性・非自立性イ)は、具体的にはa)行為によって否定されたり、b)否定されることにおいて自己を維持できず否定性が対象化されない、といった仕方で経験される。現実の実体性・自立性ロ)は、具体的にはa)労働の行為が作品として「持続するものein Bleibendes」(S.149)ないし定在になることを可能にしたり、b)行為によって根絶・否定できない、といった仕方で経験される。この両面は各々、この具体例でもわかるように、自己実現・確信の対象化を求める自己意識にとって都合の良い面(イ)a)とロ)a))と悪い面(イ)b)とロb))をもつ。
 自己実現にとって都合の悪い面が「奉仕」によって解決されるとすればどのようにしてだろうか。「奉仕」は、生産物を主人の享受の為に捧げることと、主人の欲望の実現の為の労働であることの二契機から成っているだろう。都合の悪い面刈りは、主人の享受において現われ奴隷はそれから解放され、悪い面0)いは、加工の不充分さとして現われるが、その具体的な加工は主人の欲望の実現であるから、奴隷にとっては無関係なこととなる。前に私達は、主人が現実の非自立的な側面のみに、奴隷が自立的な側面のみに関係していると考えたが、実際には、主人は現実の二面の各々の自己実現にとって都合の悪い面に、奴隷は都合のよい面に関わっていたことが削る。このことが主奴の転倒の理由である。ここで、一つの自己意識が現実の二面に関わることは、現実に対して二様の関係をもつことであり、それはとりもなおさず自己意識自身が分裂しているということである。
 ちなみに、現実との関係のこの四面(イ)のa)b)、ロ)のa)b))は、現実との関係が叙述される場合には常に重要な解釈の鍵となるのだが、現実の二面(イ)とロ))は後に「不幸な意識」において「分裂した現実」として明言され、現実の四面は後の「自分から疎遠になった精神・教養」において「国家権力」一自立的な面)と「財富」(非自立的な面)の各々について、それが「良いgut」「悪いschlecht」という二つの判断、計四つの判断として明言されている。
 ところで『実在哲学1』、『実在哲学Ⅱ』では、承認は何よりも他者に承認される必要として出てくるのであり、他者を承認する必要が出てくるにしても、それは他者に承認されるには相互承認による他ないという理由で出てくるのである。ここでの物との統一のための、また後に「不幸な意識」に出てくる自己同一回復のための.「奉仕」という他者を承認する契機は、『精神現象学』での承認論とそれ以前のそれを区別する重要なメルクマールである.この契機の導入は、へーゲルが『精神現象学』において相互承認への過程を多様な諸段階、諸相において叙述することが可能になり、『実在哲学1』『実在哲学Ⅱ』での不充分さ、つまり承認を求める生死を賭けた闘いから、自己否定によってあっさりと相互承認の成立へ移行してしまうという不充分さをある程度免れた理由の一つである。
  三 一面的承認から相互承認論へ
 主奴関係あるいはそれに入ることは、主人の前主題的意識にとっては「全ての対象はそれ自体虚しく、自我がその本質であるという確信の対象化」という意味を持っていた。主題的意識にとっては、多分はじめには「この人間を支配し、自分を承認させる」という意味を持っていただろうが、「この奴隷(物一とその生産物に依存する」という意味に逆転する。これは前主題的意識に矛盾する。そこで主人は----前に欲望から対人関係への移行においてしたように----再び行為を前主題的意識に合わせて変更しなければならないが、もはやそれは不可能である。この行き詰まりにおいて主人は彼が無意識的に課題としていた確信を意識する。先の確信が主題的意識になることによって、それの意識である前主題的意識もまた変化し「対象的実在が(この一意識の対自存在という意味をもつ」(S.151括弧内引用者)という意識に変化する。そしてこの前主題的意識が、新しい意識の形態(さしあたってはストア主義)の「即自的に存在しているエレメント」(S.152)前主題的な存在論、世界観となる。
 奴隷の前主題的意識は「物が自分の本質であり、自分は物一生命)として存在している」という内容をもつ。主題的意識は「主人が自分の本質である」という内容であったが、恐怖によって前主題的意識も主題的意識も「純粋対自存在である」という内容になる。更に奉仕、労働によってそれが対象化され「この物(生産物)の形式は自分の対自存在である」という主題的意識が生じる。このことから、前主題的意識は「全ての対象的実在はこの意識の対自存在であるという意味をもつ」という内容になるが、主題的意識は、自分のこの生産物における自己直観を全ての対象に拡張できないところから、物一般に対する態度としては「全ての対象は即自的には虚しく、自我がその本質である」という内容に留まる。こうして奴隷もストア主義へ移行する。
 「ストア主義」の意識が自覚している「全ての対象はそれ自体では虚しく、自我がその本質である」という確信は、「スケプシス主義」において理論的態度によって実現が試みられる。これは、「欲望」「主奴関係」において実践的に試みられたのと同様に失敗する。そこで自己意識は初めて対自存在と存在が共に本質であることを自覚することになる。こうして生じた「不幸な意識」では、主人と奴隷への自己意識の二重化が「自己自身の内での自己意識の二重化」(S.158)になっている。つまり自己が一方では主人のように対自存在を本質とし他方では奴隷のように存在を本質とするのである。この二重化は、現実との関係でいえば、物の非自立性と自立性の二面に対応しており主人と奴隷が、物のこの二面に共に関係するとき即自的には既に生じていたが自覚されていなかったことである。
 こうして不変なもの(純粋対自存在、普遍)と可変的なもの(存在、物、個別性)へと自己内で分裂した不幸な意識はまず始めには、分裂しているがゆえに可変的なものである自己の否定によって、不変なものとして自己同一性を獲得しようとするが、可変的なものも本質であるから失敗する。これはユダヤ教における神(主人)と人(奴隷)の関係であると一般に云われており、前の主奴関係の内面化でもある。ちなみに、前の主奴関係は歴史的には古代ローマの奴隷制に、ストア主義とスケプシス主義はヘレニズム哲学に、不幸な意識は全体としては中世キリスト教に対応していると解釈されている。承認論を考える私達にとって重要なのは次のことである。不変なものと可変的なものの統一つまり「姿形をもった不変者der gestaltete Unwandelbare」(S.162)である歴史上の「出来事」(S.161)イエスを「憧けい Sehnsucht」(S.163)する自己意識の態度が次に現われ、意識は、自己同一性の獲得の運動を、その自己同一の理想であるイエスとの相互承認を求める運動として行なうのである。この「憧けい」は「我々にとっては」また自覚されていない前主題的意識にとっても、自己を「個別性一物)と考える純粋思惟(対自存在一であるという確信、この憧けいがこの対象(イエス)によって彼もまた自己を個別性として考えるゆえに認識され承認されているという確信を持つ」(S.163f.括弧内と傍点引用者)。憧けいする者は、無論イエスを承認しているからここで相互承認が成立するかといえば、否である。相互承認は、前に引用したように「両者が相互に承認し合うものとして、相互に承認する」(S.143)ことによって成立するのである。ここでは、憧けいする者は、承認されているという確信を持つが意識していないので、イエスを一方的に承認するものとして承認しているに過ぎない。自己意識がここで自己の分裂を止揚するために他者へ向かうのは、直接に自己自身に向かうことが不可能だからであり、また自己分裂は対他関係の分裂に他ならないからである。不変なものと可変的なものめ統一.であるイエスとの相 互承認に入るには、自分もまたそれらの統一でなければならず、自己同一を獲得していなければならないから、逆に相互承認を求めることによって自己分裂の止揚を図るのである。自己分裂が対他関係の分裂に他ならないことは次に確証されている。自己意識は次に「欲望と労働」(S.165)という態度をとる。この「欲望と労働」は「我々にとっては」また前主題的意識にとっては、不変なものと可変的なものの統一であるという先の前主題的な確信の確証・対象化であるが、この確信を自覚していない主題的意識にとっては、不変なものと可変的なものの矛盾であるという「自分自身の分裂した確信 die gebrochene Gewissheit seiner selbst 」(S.165)の確証・対象化でしかない。主題的意識にとっては、現実は、意識の自己分裂に対応して「一面でのみ即自的に虚しく、他面ではしかしまた聖なる現実(不変なものの形態)であるという二つに分裂した現実」(S.165傍点部イタリック)であり、現実の止揚もまた、一面では、不変なものとしての自己による、即自的に虚しいものとしての現実の止揚であり、他面では、不変なものである現実(イエスの血と肉であるワインとパン)の否定は、可変的なものである自己意識によっては不可能であり、それはイエス(不変なもの)が自己意識を承認し、それのために自己否定することによって生じたという意味をもっている。この後の面において確証されているイエスによる自己意識の承認に対して、自己意識は、現実の否定は不変なものとしての自分の力によってなされたという前の面を放棄するという、イエスに対する「感謝」(S.167)「感謝する承認 das dankende Anerkennen」(S.168)を行なう。いったんはここに相互承認が成立したかに見えるのだが、前の面の感謝による放棄は内的なものに留まっており現実的な享受は放棄しておらず、この表面的な相互承認は破れる。そこで最後に不幸な意識は、単に承認して感謝するだけでなく、現実に所有と享受を放棄し、その上自分の決断を捨てイエスと自分の「媒介者 Vermittler」(S.169,171)(教会・僧侶)の「助言 Rat」(S.169,171)によってイエスの意志に従うという「現実に遂行された献身」によって相互承認を実現しようとする。ここで相互承認は相互的な献身.奉仕によって、しかもそれが現実的でなければならないところから現実(物)を媒介にした献身.奉仕によって求められている。従って明示されてはいないが一方では人−物−イエスという推論・媒介関係が成立している。他方ではここには人とイエスの間に第三の意識一教会・僧侶)が現われ、人−媒介者−イエスというもう一つの「推論」(S.170)が生じている。人とイエスの関係は相互的な奉仕であるからその媒介者は「相互的な奉仕者」(S.169)であり、「両者を互いに紹介(表象)する」(S.169)。
前主題的意識は、私達の解釈によればストア主義以来「全ての対象的実在がこの意識の対自存在であるという意味をもつ」ことを意識しており、これを実現するためここでは相互承認を様々に試みてきた。「欲望と労働」において前主題的にはこれは実現されたが、主題的意識にとってはそうではなく自己分裂したままである。前主題的意識は、不変なものと可変的なものの統一であるに反して、主題的意識は、その分裂であり、前主題的意識にとって意識全体は統一と分裂の分裂である。このことは「憧けい」においても言えることであるが、「欲望と労働」においては、それが確証・対象化されている。最後の現実的な献身・奉仕によって主題的意識には、自分の行為及び存在である対象は、イエスの意志への奉仕であるから不変であり、従って不変的なものと可変的なものの統一であるが、自分には疎遠な「彼岸」(S.171)であるという結果が生じている。つまりここでは先の統一と分裂の分裂が主題的意識の対象となっている。この(自己意識と意識の)統一と分裂は、換言すれば、意識と物の統一(自己実現にとって都合の良い現実の側面)と分裂(悪い側面)の分裂である。この分裂は以前には、都 合の良い面に関わる奴隷と悪い面に関わる主人という二つの意識への分裂であったが、ここでは一つの意識の内に内面化され且意識されている。ここにおいて意識の分裂・不幸は一層深刻なものになっている。無論相互承認は失敗である。この前主題的意識に留まって、主題的意識との矛盾を回避して、自己同一、相互承認を求める道はもはやなく、この行き詰まりにおいて、この前主題的意識は主題化され、ここに相互承認を可能にする新しい前主題的意識が生じる。それは、「全ての実在性である」「思惟が直接にそれ自身現実である」という確信=理性である。こうして舞台・エレメントは理性へ移る。(理性の確信は「自分の個別性において即自的に絶対的であるという意識の確信」(S.171)とも云われているが、この個別性は対自存在としての個別性ではなく----もしそうだとするとそれは従来の前主題的意識の内容と変らない----存在・物としての意識の個別性だろう。)ここには猶多くの問題、例えば相互承認を媒介する言語(ここでは Rat)の問題、言語の背景にある社会の問題、二つの推論の関係の問題、相互承認は媒介する第三の意識を必然的に必要とするのかどうかの問題等々あるが紙数が尽きたのでここでは指摘するに留めておく。

     結び
 ヘーゲルの相互承認論を論じるにはこの後「理性」「精神」「宗教」の章での相互承認過程を見なければならず、そこではこれまでの承認過程が止揚されより根源的に語られているに違いないが、私達は一先ず以上で考察を終わりたい。行為の挫折による知の自己吟味は次のような構造を持っていた。行為が主題的意識にとってもつ意味と前主題的意識にとってもつ意味(行為者の前主題的存在論、世界観、エレメント)の矛盾が行為の挫折において前主題的に意識され、後者に合わせて行為をまた前者を変更し、どうしても矛盾が避けられなくなった時後者が主題化され、それによってまた新しい前主題的意識が生じ、前主題的に意識されている新しい存在論、世界観、エレメントにおいてまた一一連の行為が続いた。ところでこの行為は自己実現しようとする行為であり、自己実現は相互承認によってのみ成立、するところから、相互承認を求める行為であった。ところが私達の解釈した前主題的意識の内容は意識と対象の一定の関係を内容にしているに過ぎなかった。前主題的意識、つまりエレメントの内に対他者関係が組み込まれるのは、「理性的自己意識の自己自身による実現」の章からであり、ここ において、前述の行為の挫折による知の自己吟味の構造そのものの内に対他者関係が組み込まれることになろう。このことから承認論は弁証法の内容であるに過ぎず、その方法とは無関係であると考えられるかもしれない。しかし、この「自己意識」の章において前主題的意識の内に対他者関係が組み込まれていないにもかかわらず、承認過程が現われるということは、むしろ行為の挫折による知の自己吟味という方法における承認過程の不可避性の証左であると考えたい。へーゲルにとって根源的には自己実現として把握されている行為は、物・存在において疎外され、そこから他者に承認されることによって自己実現しようとする道と他者を承認することを介して物・存在からの疎外を克服しようとする道が現われ、両者の挫折(前者は本来的な承認が得られず、後者は対他者関係において疎外された)から、物・存在を媒介とした相互承認を求める行為が現われた。この過程は方法論としての承認論の必然性の証明であると読める。
 最後に理論的なものを含めた知の自己吟味についていえば、意識の「不幸」はこの知の自己吟味を可能にしまた必然的なものにしている意識の存在構造からくる存在論的な不幸である。「不幸な意識」の不幸は、不変なものとしての自己と可変的なものとしての自己の分裂であるが、これは自己意識(自分が全ての他在の本質であるという確信)と意識(対象は即自であり、それ自体で実在であるという確信)への分裂であろう。意識でもあり自己意識でもあるというこの二重構造は、主題的意識と前主題的意識の二重構造に由来していると推測される。意識が主題的意識と前主題的意識の二重構造をもち、それゆえに知を吟味訂正して新しい形態へ移行することになるとすると、かかる知の自己吟味の過程の目標としてヘーゲルが云う「知が自己自身を超えてゆく必要のもはやない所」(S.69)では、意識の二重構造は止揚され、従って「精神の定在」である「意識」という精神の形態そのものが止揚されなければならない。意識の存在論的な「不幸」は、人間が常に自己を超えているとか、「それがあるところのものであらず、それがあらぬところのものである」と云われるのと同一事であるから、その止揚は「 人間」の止揚である。「不幸な意識」は意識と自己意識の統一を企てる最初の形態であって、最後の絶対知はこの統一によって成立する。この統一は換言すれば主題的意識と前主題的意識の統一である。これは、前主題的意識もまた同時に意識されること、換言すれば主題的意識が自己自身をくまなく主題化することであろう。しかし主題的意識は、たとえ自己を対象としても現在の意識作用を対象としているのではなく、本質的に対象意識であるゆえに、敢えてすれば実体的なものへ変質させてしまうことになる。ただ行為においてのみ主題的意識は現在の自己を主題化し、その意味で前主題的意識との統一に向かう可能性をもっている。ここに認識としての実践概念の重要性があるのだろう。


(1)これを学の一部とみるか、体系の外に置くか、それとも体系である学には三つの叙述方法があってその一つによって叙述された学の体系そのものであるとみなすかについては込み入った議論のあるところであって、ここではその考察を控えさせて頂くが、いずれにしてもこう言い得るだろう。このことは、カントにおいて「批判」が形而上学に対して予備学という意味をもつのと同じと思われる。
(2) Richard Kroner, Von Kant bis Hegel, Bd. II, Tuebingen, 1977, S. 366ff 参照。(3)Hegel, Wissenschaft der Logeik, Bd. II, hrsg. von G. Lasson, Hamburg, 1969, S.478. 但し、最高の「理念」は両態度の統一である。
(4)本文中に示す頁数は全て、hegel, Phaenomenologie des Geistes, hrsg. von J. Hoffmeister, Hamburg, 1952 のものである。
(5)『精神現象学』では、Tun は Handlung, Handeln, Machen と「必らずしも明別されていない」(ヘーゲル『精神現象学』下巻、金子武蔵訳、岩波書店、1979年、「事項索引」の「行動」「為すこと(行為)」の項参照)と思われる。またTunには、Tun als Tun(S.229,231)(内なるものそのもの、意図されたこと)と
Tun als Tat(S.231) (内なるものから分離した外面的現実としての為されたこと)という「二重の対立した意味」(S.230)があるが、この論文では、二義を含む広義での Tun を「行為」の語の下に考えておきたい。行為の挫折は、この二義が矛盾することである。
(6)ヘーゲルは後に「である」=「持つ haben」を「知る wissen」=「反省する reflektieren」と対比させてこう述べている。「人間のみが考えるものとして、彼にとってそれ自体必然性をもつ衝動を反省し得る。…それゆえひとが単に何かである乃至何かをもつのか、それともひとがこのものである乃至このものをもつということを知ってもいるのかは、非常に大きな区別である。…それの反省は、すでにそれを超え出る第一歩である」(Hegel, Werke, Bd. 4 Suhrkamp Verlag, 1970, S.219 傍点部イタリック一この区別は、カントの Welthaben と Welterkennen の区別に関係由来するのではなかろうか。
(7)イポリット『マルクスとヘーゲル』宇津木正/田口英治訳、法政大学出版局、111,112頁
(8)この予想は、本稿の後につづくべき考察の対象であって、本稿ではまだその論証に入ることが出来なかった。後の『哲学的予備学』『エンチクロペディー』での「精神現象学」に即して述べるならば、そこでは、承認を求める生死を賭けた闘い、主奴関係につづいて、「普遍的自己意識」と題して相互承認し合っている自己意識が叙述されており、この普遍的自己意識は存在と思惟の関係からみられると、両者の同一性を確信している理性に他ならないと云われている。これからすると、思惟と存在の統一、換言すれば自己意識と意識の統一と、相互承認の成立は同時であると考えられる。逆に、相互承認成立以前には、思惟と存在は分離していることになる。(9)こうした「承認」概念の根源性は近代政治思想史においても、ヘーゲルに重要な地位を与えることになるだろう。アトミックな人間関係である近代市民社会の正統化理論として登場してきた近代の国家契約説を批判して、市民社会ののりこえを国家に求めるヘーゲルが提出したいわば国家承認説とでも云うべきものの重要な点は、さしあたり次の二点にあるだろう。契約が自立的な個人を前提するに対して、ヘーゲルの承認論は根源的には個人の 確立に先行する点、契約関係は契約締結の行為の結果として成立するが、承認関係は承認の結果としてでなく承認行為として成立し、国家は持続的な承認行為によって成立する点である。
(10)個別的意識(「理性」の章まで)においては大体「意識」は理論的態度を、「自己意識」は実践的態度をとるが、「精神」においては「精神の意識」(「精神」の章)は実践的態度を、「精神の自己意識」(「宗教」の章)は理論的態度をとる。この逆転は「有限なものの存在が絶対者の存在である」のではなく「有限なものの非存在が絶対者の存在である」という逆転に基づいている(vgl. Hegel, Wissenschaft der Logik, Bd. II, hrsg. von G. Lasson, Hmburg, S.62)。大まかに言えば、個人が主体(自己意識)であることは、精神が主体でない(意識である)ことであり、精神が主体(自己意識)であることは、個人が主体でない(意識である)ことであるということに基づいている。精神が実践的であるとは、その内で個人が実践的(自己意識)であるということであり、精神が理論的であるのは、その内で個人が理論的(意識)であるということである。
(11)Hegel, Jenense Realphilosopie I, hrsg. von J. Hoffmeister, Leibzig, 1932, S. 222f.
(12)Hegel, Jenaer Realphilosopie, hrsg. von J. Hofmeister, Hamburg, 1969, S. 213,227.
(13)Hegel, ibid., S.204.
(14)マルクスにおける「ロビンソン物語」は大塚久雄氏の研究によって有名であるが、ヘーゲルもこの主奴関係の典型例として「ロビンソンとフライデーの物語」を挙げている。Vgl. Hegel, Werke, Bd. 4, Suhrkamp Verlag, 1970, S. 121.
(15)このことは、マルクスがブルジョアもまた資本主義社会において疎外されていると考えたことを想起させる。
(16)Alexandre Kojeve, Hegel, hrsg. von I. Fischer, Suhrkamp Verlag, 1975, S. 36f.
(17)この二契機はマルクスが『経済学・哲学草稿』において述べる四つの疎外の内の最初の二つ、生産物からの疎外と労働における疎外である。この二契機による人間からの疎外にヘーゲルも気づいているが、他方でここに物からの疎外の克服の契機を見ていることを、簡単に観念論的歪曲反動的転倒と片づけることはできないだろう。
(18)この意識を個別的意識とし、理性の確信における意識を普遍的意識として区別したい。そうしなければ両者は同一になってしまうだろうから。
(19)互いに想い合っていてもそれを知らなければ擦れ違いになるのと同じである。愛における相思相愛の自覚の契機の必要性は、Hegel, Jenaer Realphilosopie, hrsg. von J. Hofmeister, Hamburg, 1969, S.204 に指摘されている。
(20)ヘーゲルの承認論を包括的に扱っているものとして  がある。ジープはそこで、承認論と『精神現象学』の方法との関係について特に一章を当て、ヘーゲルの承認という原理をヘーゲルの実践哲学の方法であると云い(S.203f)、『精神現象学』の方法の起源は、理論的な吟味にではなくむしろ実践的な吟味にあることを論証し(S.212f)、「行為の諸尺度、個人の他者および普遍的精神に対する関係の諸規則や制度的諸決定が、行為における自己吟味の叙述によって批判可能であるのは、承認過程によってのみその同一性を獲得するという意識の本質にある」(S.220 傍点引用者)と云う。この主張には賛成するが、そこには厳密な意味での論証が欠けているように思える。私達は行為の挫折による知の自己吟味の構造の解釈によってまだまだ充分でないにせよその論証を補いたい。
(21)Alexandre Kojeve, ibid., S. 22. この部分の初出は一九三九年一月十四日である(ibid., S.301)から、サルトルの有名な対自の定義は、ここに由来する可能性がある。
(22)行為による知の吟味、或るいは認識としての実践というへーゲルの考えは、近代認識論史において枢要な意義をもつのみではなく、もし、ハイデッガーに従って近代を、世界を像として捉らえる世界像の時代と規定し、そこでの真理概念は表象の真理であると考え、これに対して現代を、例えばキルケゴールが「真理は主体性にある」と云い、マルクスがフォイエルバッハテーゼの2で「人間的思考に対象的な真理が到来するかどうかという問題は、何も理論の問題ではなく実践的な問題である。人間はかれの思考の真理性、すなわち現実性とか此岸性を証明しなければならない」と云う時の主体的或るいは実践的真理概念への展開として把握することが許されるならば、ヘーゲル哲学は、表象の立場を執拗に批判し、認識としての実践を主張することによって、近代から現代への真理概念の転換点をなしていると言えるだろう。(博士課程学生)