(『ヘーゲル研究』第6号掲載)

               現代における承認の諸相

入江 幸男 



 現代の政治状況における特徴的な事柄は、承認が重要な問題になっているということである。とりわけ共同体的な規範の承認要求をめぐっておこなわれている自由主義者と共同体論者の論争が、今日の社会哲学において最も盛んな議論であると言えるだろう。ここでは、その論争に参加するのではなく、いわばその前提作業として、多元的な現代社会に於ける承認の諸相をできるだけ明確に分類整理することを目指し、最後にその限界に触れたい。

 

   一 自由主義社会と伝統的共同体における承認

 

 自由主義の社会では、個人を個人として、他者との関係とは独立に尊重し承認する。これに対して、共同体では、個人は共同体を構成する諸関係に結び付けて規範をとらえるので、他者の承認も共同体のなかでの彼の位置や彼と自分との共同体の中での関係に即しておこなわれることになるだろう。そこで我々は、自由主義社会での承認と、共同体での承認を、基本的に次のように区別できるのではないだろうか。

 (A)ある人を、個人としての属性や行為にもとづいて承認する (自由主義社会での承認)

 (B)ある人を、その人と自分との関係にもとづいて承認する  (伝統的な共同体での承認)

以下では、各々の立場での承認の分類を考えてみたい。

  A 自由主義的な社会での承認

 自由主義の立場では、承認を次のように区別することになるだろう。

 (1)人間一般としての承認(法的、道徳的人格に関連する)

 (2)特殊な善き生の構想の承認(多文化の共存に関連する)

 (3)特別な個人としての承認(個人の生き甲斐に関連する)

 

 (1)の承認は、すべての人が人として承認されるということである。これは、法的にはすべての人が人権をもつということであり、また道徳的には、すべての人が「単に手段としてではなく、目的それ自体として」(カント)尊重されるべき存在であるということである。

 (2)の〈特殊な善き生の構想の承認〉とは、互いに自分とは異なる相手の文化や宗教や生き方などを承認し合う関係である。多文化の人々が共生するという状況は、グローバル化の中でますます進展しており、このような状況の中でそれぞれの文化に対する承認としての〈特殊な善き生の構想の承認〉がますます重要になるだろう。

 (1)と(2)はともに相互的な承認である、あるいはもし現実に相互的でなければ、相互的であることが求められる承認である。しかし、この二つは相互承認として異質でもある。つまり(1)〈人間一般としての相互承〉は、互いに相手の中に自分と同じものを見つけてそれを承認し合う関係であって、〈同質性の相互承認〉と呼ぶことができる。これに対して、(2)は、自分の文化とは異なる相手の文化を尊重するのであり、差異を尊重するのであるから、〈差異の相互承認〉と呼ぶことができる。

 (3)の〈特別な個人としての承認〉は、個人が単に人間一般として認められるのではなくて、個人として称賛され、特別な存在として認められるということである。たとえば、素晴らしい画家として認めらることに生きがいを感じるというような承認である。この承認は、相互的ではなく、その必要もない。(1)と(2)が社会の全員によって相互に求められる承認であるのに対して、(3)は個人が、それぞれの善き生の構想にもとづいて、その中で特別な存在として認められることを生きがいにすることであるので、(1)(2)とは違って、一方向の承認になる。

 ちなみに、自由主義者が、「善に対する正義の優位」を主張するというのは、(1)と(2)を分けて、(1)を(2)に優先させるということである。その理由は、ある人や集団の善構想の追求のために、他の人の権利が侵害されてはならないということであり、(2)は(1)に反しない限りで認められる。これに対して、共同体論者は、この順序を逆にするのではなくて、このように(1)の正義と(2)の善を分けることを批判し、(1)の正義もまた善構想の一種であるとみなす、つまり西洋の人権思想もまた一つのローカルな文化であると見なすのである。このことは、承認を上のように(1)(2)(3)に分けることを批判することになる。

 

  B 伝統的共同体での承認

 共同体での承認は、前述の(b)のように「ある人を、その人と自分との関係にもとづいて承認する」という性格をもっている。これは、さらに次のように区別できるだろう。

  (イ)ある人を、その人と私が同じ集団に属することに基づいて承認する。

  (ロ)ある人を、その人と私の役割関係にもとづいて承認する。

 

 (イ)は、たとえば同じ村の住人であることや、同じ国家の国民であること、同じ会社の従業員であること、などに基づいて仲間として承認し合うことである。この立場からすると、自由主義者のいう前述の〈人間一般としての承認〉は、〈同じ共同体の一員としての承認〉の一形態であることになる。つまり、国民の人権を認めるということは、同じ国家の仲間として認め合うということになるだろう。同じ集団のメンバーとしての承認は相互承認になるだろうが、この承認は同質性にもとづくというよりも、関係性にもとづく承認である。ゆえに、〈関係の相互承認〉と呼ぶことにしたい。

 (ロ)としては、たとえば、親子関係や、上司と部下の関係にもとづいて、相手を親として承認したり、部下として承認するというような例が考えられる。基本的には互いに相手の役割を承認するのでなければ、役割関係そのものが成り立たないのであるから、この承認も〈関係の相互承認〉となる。しかし、これまでみた相互承認がすべて、対称的な関係であったのに対して、これは相補的な関係である。

 共同体の関係は、承認とは独立に成立しており、その関係にもとづいて承認が成立するのではない。もちろん関係が形骸化して、生き生きとした承認が消失してしまっていても、共同体的関係が存続しているということはありうるだろう。しかし、その関係は、本来はその関係への承認そのものを重要な構成契機として含んでいる。

 確認のために相互承認の類型をまとめると、次ぎのようになる。

  自由主義的な社会での相互承認

     同質性の相互承認 (対称的相互承認)

      差違の相互承認    (対称的相互承認)

  伝統的共同体での相互承認

     関係の相互承認   対称的相互承認

               相補的相互承認

 

            二 「負荷なき自我」の歴史性

 

 共同体論者が指摘するように、自由主義の基本となる近代的な人権思想は、たしかに歴史的なローカルな所産である。それは、資本主義的市場社会から発生したものだといえるだろう。

 ウォーラースティンによれば、「史的システムとしての資本主義は、それまでは「市場」を経由せずに展開されていた各過程——交換過程のみならず、生産過程、投資過程をもふくめて——の広汎な商品化を意味していたのである」(1)。この広汎な商品化のなかでとりわけ重要なのは、労働力と土地の商品化である。労働者は、労働力という商品の所有者となった。資本主義社会では、マルクスがいうように、ブルジョアもプロレタリアも、商品所有者として対等な存在として、市場に参加するのである。

 「その所有者が、労働力を商品として売るためには、彼はこれを自由に処理し得なければならず、したがって、その労働能力の、すなわち彼の一身の、自由な所有者でなければならない。彼と貨幣所有者とは、市場で出会い、お互いに対等の商品所有者としての関係にはいる。ただ、一方は買い手であり、他方は売り手である。したがって、両者は法律上平等な個人であるということで区別されるだけである。」(2)

 このような市場社会では、すべての人がその生命、自由、財産という所有を、自由に処分する権利をもつという思想が認められる。

 「労働力の買いと売りとが、その柵の内で行われている流通または商品交換の部面は、実際において天賦人権の真の花園であった。ここにもっぱら行われることは、自由、平等、財産、およびベンサムである。 自由! なんとなれば、一商品、たとえば労働力の買い手と売り手は、その自由なる意志によってのみ規定されるから。彼らは自由なる、法的に対等の人として契約する。契約は、彼らの意志が共通の法表現となることを示す終局の結果である。 平等! なんとなれば、彼らは、ただ商品所有者としてのみ相互に相関係し合い、等価と等価とを交換するからである。 財産! なんとなれば、各人が自分達のものを処理するだけであるからである。 ベンサム! なんとなれば、両当事者のいずれも、ただ自分のことに関わるのみであるからである。彼らを一緒にし、一つの関係に結びつける唯一の力は、彼らの利己、彼らの特殊利益、彼らの私的利益の力だけである。」(3)

 マルクスは、「人権」というものが、資本主義的な生産様式が必然的に要請する社会規範であることを、これ以上望み得ないほど明確に指摘している。人権思想を考える上で、もう一つの重要な背景は、資本主義市場での自由な商品交換という人間関係に促されて同時期に登場してきた「公共性」、つまり政治や科学や文芸に関して公開で自由に討論するという人間関係であるだろう(4)。

 このように人権思想は、特定の歴史、特定の社会に登場した規範であり、少なくともその起原においてはたしかに一つの特殊な善構想である。しかし、これを共同体的な人間関係の一つの特殊形態である、と言うことは出来ない。サンデルがロールズの考える自我を「負荷なき自我(unemcumbered self)」とよび、これを否定して「状況づけられた自我(situated self)」を主張したことは、正しいといえるだろう(5)。しかし、「状況づけられた自我」が、つねに共同体的な関係の中に状況づけられているとは限らないし、「状況づけられた自我」を認めることから共同体論が帰結するとも限らない。前述のように、自由主義社会での自我もまた資本主義システムに状況づけられているが、しかしそれを認めても共同体論をとることにはならない。我々は、「状況づけられた自我」と「共同体的な自我」を区別する必要がある。

 

         三 個人の〈承認願望〉の登場とその二重化

 

 自由主義社会では、法的に人権を承認され、道徳的な主体として人格を尊重されても、また彼が属する集団の文化がもつ特殊な善構想が社会に承認されているとしても、それだけでは、個人は満足を得られないだろう。なぜなら、これらの承認では、彼は〈特別な個人として〉承認されているわけではないからである。我々には、〈特別な個人として〉承認されたいという強い願望がある。それは、どうしてだろうか。

 ラヴジョイによれば、このような個人の称賛願望や、承認願望が、人間にとって普遍的な本質的欲望として重視されるようになるのは、十七、十八世紀からのことである。

 「キケロとダンテは、承認願望というものは、厳密にいえば徳ではないけれども、ある種の人々には徳と殆ど変らない結果をもたらすと主張しましたが、すべての人が常にこうした動機によって支配されているとは主張しませんでした。しかしながら、これから我々が考察する十七、十八世紀においては、あらゆる人間というものは、みずからの社会的行為を、承認願望以外のいかなる動機によっても行うことはありえないということが、広汎に受容された前提となっていたのです。言い換えますと、感嘆されることや喝采されることへの強い欲望が、人類にとってありふれたものであると見なされていただけではなく、それが、人間に欠如した理性や徳に代わるものとして、創造者によって人間の内部に巧妙に植え付けられ、善行の唯一の主体的な誘因として、また社会の優れた秩序と人間の進歩のために必要なあらゆる行為の事実上の動機として働いているということが、広汎に受容された前提となっていたのであります。」(6)

 このように十七世紀に「称賛への愛」ないし「承認願望」が登場するということは、これが伝統的な共同体が市場社会によって崩壊した後に登場したものであることを物語っている。したがって、これは共同体の中で一定の義務を立派に果たすこによって称賛を受けるという「名誉欲」とは、異質なものである。  自由主義的な社会では、個人として称賛をうけることが、社会的な義務を果たすことや権利を享受することと結びついていない。そこで個人は、義務や権利の諸関係とは別のところに、〈特別な個人として〉承認されることを求めなければならなくなるそれは例えば、優れた画家として人々に称賛され、承認され、そこれに生きがいを求めることである。しかし、芸術を全ての人が追求しているのではないし、すべての人がそれに価値を認めているのでもない。人が何に生きがいを求めるかは、彼の決断にまかせられているので、優れた画家になるという価値は、そのひと自身にとっても、必然的なものではない。ここでは、生きがいの選択について、恣意性がつきまとっており、ニヒリズムにさらされているといえよう。何故そうなるのだろうか。

 自由主義社会における個人の生きがいの恣意性について、マルクスならば次ぎのように言うかもしれない。市場社会では、個人は抽象的な「商品所有者」として無内容で空虚な自我なのであるから、個人が特別な存在として承認されるとすれば、それは彼が所有する商品が特別な存在であるということ以外ではありえない。市場社会で、個人が承認されるのは、彼がもっている商品(作品、才能、財産)が優れているということである。優れた画家が尊敬されるのは、彼の作品やそれを生産する彼の才能によってである。社会の中で、個人が〈特別な存在として〉承認されるのは、特別な商品をもつ者としてである。しかし、彼の持つ〈商品〉がどんなに優れていても、それは彼の所有物であり、彼自身は無内容で抽象的な存在でありつづけている。したがって、彼の商品のみならず商品への称賛もまた、彼にとっては〈疎遠なもの〉となる。

 では、自由な討議の公共圏において、優れた意見を持つ者、あるいはそれを生産する優れた能力をもつ者として承認されることはどうだろうか。ここで討議参加者は、自分の意見や感受性のすべてを、公開の討論にかけ吟味する。そのことによって、意見や感性ははじめてリアリティを獲得するという側面を持つと同じに、それを自分自身でも対象化し批判にかけることによって、討議者自身は、意見から独立した無内容で空虚な自我になるという側面があるだろう。討議の公共性においても、市場でと同じく、承認されるのは討議者の発言であり、個人そのものではない。

 ところで、このように市場や公共性という公開の場の中で承認されることは、市民社会のなかで、特別な存在として公共的に承認されることである。これに対して、個人は私的な親密圏において、かけがえの無い〈特別な存在として〉承認されることも可能である。これは、家族や恋人、友人、仲間などの関係における承認になるだろう。我々のアイデンティティは、公共的な承認だけでなく、この親密圏での承認によって規定されており、ここでのアイデンティティの形成に重要なのは、テイラーが指摘するように、自分にとって重要な他者との〈対話〉であるだろう(7)。対話の中で形成されるアイデンティティをもつ自我は、抽象的で無内容な「負荷なき自我」ではない。共同体主義者が主張する「状況づけられた自我」である。

 ところで、親密圏での人間関係は、家族のような共同体である場合もあるが、友人関係のように共同体的でない場合もある。ここでも、「状況づけられた自我」と「共同体的な自我」を区別しておくことが重要である。

 親密圏での共同体的な人間関係の中での生き甲斐は、個人が属している集団の〈特殊な善き生の構想の承認〉にかかわる。なぜならそこでの生き甲斐は、その共同体の価値や規範と結びついているからである。先ずは、(伝統的な形態を含めて)共同体的な人間関係の中での承認と生きがいについてみておこう。

 

           四 共同体における義務と権利と生きがい

 

  伝統的な共同体においては、義務と権利と生きがいは同一である。(8)

 伝統的な共同体において、共同体の一員としての行為は、その人の義務でもあり、また権利でもある。たとえば、村の一員として、祭りを行うことは、彼の義務でもあり、また彼の権利でもあり、彼の生きがいでもある。このような生きがいは、彼にとっては、恣意的な決断によるものではない。村の一員として祭りにおいてある役割を果たすことは、彼のアイデンティティの一部を構成しており、それを生きがいとすることは、彼にとっては〈自然なこと〉であり、必然的なことである。

 また、伝統的な共同体において、共同体のなかでの役割関係を果たすことは、義務でもあり、原理でもある。たとえば、父親は子供に対して、養育や教育の義務をもつが、それは同時に父親の権利でもあり、さらにいえば、それは父親の喜びでもあり、生きがいでもある。子供にとっては、親に従うことは、彼の義務であると同時に、権利でもあり、彼の喜びでもある。このような関係は、伝統的な村長と村人の間にも成立するだろうし、日本的経営の会社の中の上司と部下の間にもなりたつだろう。

 ところで前述のように自由主義的な社会の中でにも、共同体的な人間関係はありうる。その人間関係においても、義務や権利や生きがいは同一になるだろう。たとえば、自由主義的な社会であっても、家族にとっては義務と権利は一つになっているとおもわれる。もちろん、伝統的な封建的家族はなくなり、その後登場した近代家族も行き詰まりを見せているようにみえる。しかし、家族が共同体である限り、家族関係における義務と権利と生きがいの合一という原理は存続するだろう。

 また例えば、新新宗教に若者が引かれる理由には、そこでの共同体的人間関係のなかでの承認関係、つまり教団のために為すことが自分のためでもあり、教団の中での自分の役割を義務として果たすことが、自分の生きがいにもなるということがあるのではないだろうか。

 また、自由主義的な社会の中で、文化的なマイノリティ集団が、共同体的な人間関係を形成することもある。カナダのケベックでは、フランス語文化をまもるために、フランス系の人々および移民には、フランス語で教育をおこなう学校に子供を通わせる義務があるが、それは彼らにとって義務であるだけでなく、彼らの権利であり、彼の喜びでもあるにちがいない。

 さて、このような共同体的な義務と権利と生きがいの合一を政策として強制することは、多様な人々が共生する現代社会では、不可避的に一部の人々に対する人権侵害を引き起こすことになるだろう。(自由主義者ならば、ケベック州の政策に反対せざるを得ない。)しかし、共同体論者の側から見れば、このように共同体の規範や文化においては、義務と権利と生きがいが合一しているがゆえに、それに対する制限は、たんに義務や権利の制限にとどまらず、生きがいを制限し妨害することにもなるのである。それがもっとも明らかになるのは、「差別」の場合である。

 

               五 〈差別〉の誕生

 

 大方の予想に反して、discriminaton(差別)という言葉が、単なる区別や識別の意味でなく、いわゆる「差別」の意味で使われ始めるのはかなり遅くて、十九世紀後半からであるとおもわれる。The Oxford English Dictionary(Second Edition Clarendon Press Oxford 1989)によれば、discrimination discriminate が、事物の違いに注目するという意味ではなくて、「自分とは異なる人種や色の人々を偏見を持って区別する」という意味をもつ最初の用例は、一八六六年のA.ジョンソン演説である。幾つかのドイツの外来語辞典を調べたかぎりでは、ドイツ語のDiskriminieren が、外来語としていわゆる「差別」の意味で使われ始めるのも、二十世紀になってからのようである。また、日本語でも、「差別」(さべつ、しゃべつ)は、英語のDiscriminationと同じく本来は区別や弁別の意味しかもっていなかったようである。『日本語大事典』(小学館)では、「差別」が、「あるものを正当な理由なしに、他よりも低く扱うこと」という意味で使われるのは現代的な用法であると言われている。日本語辞典のなかで、「差別」の説明として、単なる区別、弁別ではない意味の説明が登場するのは、昭和に入ってからであり、それもかなり後のことである。(ちなみに、大正十一年の水平社宣言の中にも「差別」という言葉は出てこない。)

 このように「差別」という言葉が使われ始めるのは、人権思想が充分に普及してからのことであると言えるだろう。というのも、ある種の人々に人としての尊厳を承認しないことが差別であって、それ以前の共同体の人間関係においては、そのような〈人間一般としての承認〉は無かったからである。共同体の中で劣位におかれた人々も、おなじ共同体の一員であることは認められていた。女性を劣位におく共同体の中でも、女性は、同じ家族の一員として、同じ共同体の一員として認められる。ある人々を奴隷として抑圧している共同体の中でも、奴隷は、同じ家族の一員(家奴)や同じ農園の一員として承認されている。差別は、共同体のなかで、支配と服従という相補的な関係として現象している。そして、この相補的な関係は、前述のように相互承認の関係である。たとえ主人と奴隷の関係であっても、奴隷が主人を主人として承認しているだけでなく、主人もまた奴隷を奴隷として承認しているのである。なぜなら、支配と服従の関係が成立するためには、その関係を双方が承認している必要があり、その関係を主人が承認するということは、主人が奴隷を奴隷として承認するということに他ならないからである。(念のために言えば、主人が奴隷を奴隷として承認するというのは、奴隷を自分の家族の一員(家奴)として承認したり、自分の農場の一員として承認したり、自分の国の一員として承認するということとは、別の承認である。)それゆえに、共同体における支配と服従ないし、抑圧と隷従の関係は、承認の欠如とは考えられなかったのだとおもわれる。なぜなら、ひとが集団の中に入る限り、どんなに抑圧ないし疎外されている相補的な関係の中にあっても、集団の中での彼の一定の役割への評価ないし承認が行われているからである。(9)

 人権の担い手が、抽象的で無内容な「負荷なき自我」であるとすると、本来は、人種、性別、門地などの差異はこの自我にとっては無縁のものである。ひとは男性であれ女性であれ、白人であれ黒人であれ、労働力という商品の所有者として自由に市場に参加できるはずである。しかし、本来ならば能力さえあれば開かれているはずの市場の中で、ある領域にしか参加できないという仕方で排除が行われたり、また、同じ労働をしてもより少ない賃金しか支払われないという仕方で差別されるとがある(10)。ヘーゲルは、しばしば所有物に対する侵害は、所有者の人格そのものに対する侵害であるというが、それと同じように、ある人の労働力商品を排除したり差別することは、その人の人格そのものの侵害であり差別である。

 このような差別を理論的に批判するためには、まず人権の担い手は、抽象的な存在なのであり、人種、性別、門地などをふくめてあらゆる属性はこれに関係しないのだから、〈差異〉がどのようなものであろうと、また〈差異〉がどのように評価されようと、それらにかかわらず平等に諸権利を認めるべきであるという批判がなされねばならない

 しかしそれだけでは不十分である。なぜなら、差別は〈人間一般としての承認〉を否定するだけでなくて、〈特殊な善の構想の承認〉や〈特別な存在としての承認〉をも否定するからである。なぜなら、差別において否定的に評価される〈差異〉は、個人のアイデンティティにとって本質的な規定であり、この〈差異〉を否定的に評価されることは、その人に深刻な影響を与えるからである。これについてテイラーは、次のように述べている。

 「我々のアイデンティティーは一部には、他人による承認、あるいはその不在、さらにはしばしば歪められた承認(misrecognition)によってかたちづくられるのであって、個人や集団は、もし彼らをとりまく人々や社会が、彼らに対し、彼についての不充分な、あるいは不名誉な、あるいは卑しむべき像を投影するならば、現実に被害や歪曲を被るというものである。不承認や歪められた承認は、害を与え、抑圧の一形態となりうるのであり、それはその人を、偽りの歪められ切り詰められた存在の形態の中に閉じ込めるのである。」(11)

 しかも、次ぎのようなことがある。差別がよりどころにする〈差異〉は、つねに一つの文化や集団や共同体に対応するのではない。たとえば、外国人労働者に対する差別に対応して、外国人労働者という集団や文化があるわけではなく、ブラジルの日系人や、ペルーの日系人など、言葉も慣習も異なる様々な文化の人々がいる。また、障害者に対する差別においても、一つの文化や一つの集団をなす障害者がいるわけではない。このような場合には、差異を否定的に評価することだけでなく、むしろアイデンティティにとって重要な差異を無視するというということが起こっている。

 あるいはまた、ある差異に依拠して差別されるからこそ、その差異が差別されるものアイデンティティにとって本質的な規定になる、という側面もある。差別があるからこそ、女性が〈女性〉になり、黒人が〈黒人〉になり、障害者が〈障害者〉になるのである。ここで〈女性〉〈黒人〉〈障害者〉というのは、これらの規定をそのアイデンティティの本質としている存在者という意味である。

 テイラーがいうアイデンティティを「偽り歪め切り詰める」ということは、このように複雑である。差別は、既にある一定の同質集団のアイデンティティを前提して、それに否定的な評価を下す、というような単純な事柄ではない。そして、このことは、個人や集団のアイデンティティに対する差別的な介入にのみ限られることではないだろう。我々は、差別ではなくて、称賛においても、また競争心に満ちた敵意においても、また憐れみや同情においても、我々のアイデンティティを確認したり修正したり偽ったり歪めたり切り詰めたりしている。そうだとすれば、差別に対して闘うためには、単に押しつけられた〈差異〉とその否定的な評価を批判するということでなくて、肯定的な差異や肯定的なアイデンティティへ向けて、アイデンティティを再構築しなければならないのではなかろうか。

 ところで、差別において承認の問題を見ようとするときに明確になるのは、これまで整理分類しようとしてきた承認の諸相が、差別においては別々に成立するのではなくて、ある位相の承認の否定が、その他の承認の否定とリンクしているということ、分析上では区別できたとしても、現実にはすべての位相を横断して差別が現象するということである。

 前述のように、社会の中で、個人が個人として〈特別な存在として〉承認される仕方を二種類に分けられるだろう。一つは、市場経済や文芸や学問の公共圏の中での公共的な承認である。これは、その人の仕事や能力が、特別なものとして、公共的に承認されるということである。もう一つは、親密圏において、対話を通して、特定の他者に〈特別な存在として〉承認されることである。しかし、個人に対する公共的な場での承認と、私的な親密圏での承認とを比べた場合に、個人のアイデンティティにとっては、後者の方がより重要である、ということはいえない。たとえば、絵描きとして認められることを生き甲斐にしているものにとっては、絵描きとしての公共的な評価は、彼のアイデンティティにとって非常に重要な意味を持っている。前の箇所では、公共的な場での個人の承認は、彼がもつ商品に対する承認であり、それゆえに個人にとっては〈疎遠なもの〉であると述べた。そうだとすれば、そこでの評価は、彼のアイデンティティにとっても〈疎遠なもの〉にとどまるはずである。確かにそのようなニヒリズムはあるのだが、しかし他方では、上述のように労働力商品に対する差別は、人格そのもの差別と感じられるのである。そうだとすれば、それとおなじく、絵がどのように評価されるかは、絵描きになろうとする者にとっては、彼のアイデンティティに関わる非常に重要なものであるといえるだろう。そして、公共的な承認と親密圏での承認は、互いに影響し合うのである。絵描きとして認められることは、親密圏での彼への承認にも関係するだろうし、また彼は親密圏で認められようとして、絵描きになろうとするのかもしれない。

 承認の位相の間のこのような結びつきを説明するには、「負荷なき自我」もまたメタレベルにおいて、「負荷なき」や「無内容な」や「抽象的な」という具体的な内容をもった「状況づけられた自我」であるということを再確認する必要がある。そして、そこから帰結するのは、ここで述べた承認の位相の区別自体もまた状況づけられたものだということである。そして、そこから更に言えそうなのは、承認の様々な位相が、より基底的なレベルでの承認から分節化したものであり、また、このより基底的なレベルの承認からつねに再構築されつづけているということである。

 もしこのように言えるとすれば、今回は、自由主義的な社会における承認の諸相を共時的に分類整理しようとしたが、次ぎに必要になるのは、それを系統的ないし発生的に考察することであろう。

 

 註

(1)ウォーラースティン、川北稔訳『史的システムとしての資本主義』岩波書店、一九八五年(原著は一九八三年)七頁。

(2)K.マルクス、向坂逸郎訳『資本論』岩波書店、一九六九年(原著は一八六七年)第一分冊、二九二頁。

(3)同書、三〇六頁。

(4)市場メカニズムと公共性の類似性については、拙論「ボランティアと公共性」(『ボランティア学研究』国際ボランティア学会発行、創刊号、二〇〇〇年)の前半部分で論じた。

(5)M.J.サンデル、菊池理夫訳『自由主義と正義の限界』三嶺書房、一九九二年(原著は、Michael J. Sandel "Liberalism and the Limits of Justice" Cambridge Uni.1982)。

(6)アーサー O.ラヴジョイ、鈴木信雄・市岡義章・佐々木光俊訳『人間本性考』名古屋大学出版会、一九九八年(原著は一九六一年)一七六頁。

(7)テイラー「承認をめぐる政治」(エイミー・ガットマン編、佐々木毅・辻康夫・向山恭一訳『マルチカルチュラリズム』岩波書店、一九九六年(原著は一九九四年)を参照。この論文は、前掲のラヴジョイの本と並んで、近代社会における個人の承認について考える上で、非常に示唆に富んでいる。拙論で、個人の承認願望を、公共的なものと親密圏におけるものとに分けたことは、テイラーやラヴジョイの議論に対する批判を意図しているが、しかしそれ以上に多くのことを教えられた。

(8)これは、ヘーゲルに教えられた論点である。ヘーゲルは、『法の哲学』の§二九、一五五、二六一で、人倫性(国家)においては、義務と権利が同一であることをのべているが、そのことがもっとも直裁に述べられているとおもわれる個所を講義ノートから引用しよう。「私の義務であるものは、私の権利でもある。というのは、人倫的なものは、私の本質でもあり、現存在をもつべきだからである。このことは、義務である。私は人倫的なものの現存在であり、人倫的なものは、私の中で実現される。それゆえに人倫的なものは私の権利でもある。私は人倫的なものなしには、よりどころをもたず、私が、人倫的なものそのものであり、人倫的なものは、義務であると同様に権利である。」I. Philosohie des Rechts nach der Vorlesungsnachschrift K.G.v.Griesheim 1824-25, in Hegel, Vorlesungen über Rechtsphilosophie1813-1831, Edition undKommentar von Karl-Heinz  Ilting, frommannßhozboog, 1974, Bd.4, S.412f

 ちなみにヘーゲルは、イエナ期の草稿の二箇所で「愛」について「相互に受取り且つ与えること」(ein  gegenseitiges Nehmen und Geben)( Hegel, Werke in zwanzig Bänden, Suhrkamp Verlag, 1970, Bd.1,  S.248,)「与え且つ受けとること」(ibid., S.335)と述べている。これは、いわゆるギブ・アンド・テイクではなく、愛においては、相手に与えることは同時に相手から受取ることであり、またその逆でもある、ということを意味している。この考えが、後に「人倫性」に関して、権利が同時に義務であると考えるようになった、その思想の芽であるようにおもわれる。

(9)へーゲルのように、主人と奴隷の関係を、「一面的な承認」とみなすことは、すでにそこに差別や抑圧を見るということにほかならない。ただし、ヘーゲルは、『プロペドイティーク』のBewußtseinslehre für die Mittelklasse  (1809ff)では、主奴関係を我々が述べたような意味での「相互承認」であると述べている(Vgl., Hegel, Werke in zwanzig Bänden, Suhrkamp Verlag, 1970, Bd.4,  S.120

(10)                                                様々な〈差異〉にもとづいて、労働力の編成の中で、ある集団に特定の役割を担わせることは、雇用者達にとっては、経済的な合理性があったのだと言える。ウォーラースティンは、これをうまく説明すると共に、このような差別が資本主義の展開にとって、非常に大きなファクターであったことを指摘してる。「賃金労働者の雇主たちは、プロレタリア化の促進にはまったく熱意を示さず、他方では、性別や年齢による分業を奨励しているばかりか、雇用パターンと政治面での影響力を駆使して、特定の民族集団を取りだし、これに全体の労働力編成の中で特定の役割を担わせることにも熱心であった。・・・・民族差別は、文化的な外皮をまとうようになり、半プロレタリア的な世帯構造を固定してしまう。こうした民族差別の出現によって、労働者階級が政治的にも分裂したことは、雇用主層にとって思いがけない福音であった。」(ウォーラースティン、前掲書、二九頁。)

(11)                                                テイラー、前掲論文、三十八頁。

 

付記:シンポジウムの発表では、リベラル-コミュニタリアニズム論争と知の基礎付け問題との連関、またヘーゲルの承認論の可能性などにも言及したのですが、当日頂いた批判に答えようと検討しているうちに、全体の構成に無理がでてきましたので、当日論じた「承認の諸形態」の箇所を加筆展開しました。当日の発表原稿とは、全く変わってしまったことをお詫びいたします。