問答論的矛盾

(科研報告書
課題番号10410004『コミュニケーションの存在論』 20013月発行、p.207-215


 一 問答論的矛盾とは

 

 会話は基本的に質問と返答からなるが、質問と返答の間には論理的に奇妙な矛盾が生じることがある。この奇妙な矛盾を分析することがこの論文の課題である。最後に、この矛盾が持つ機能について暫定的な考察を加えた。

 日常で「矛盾」と呼ばれるものは、大抵は論理的な矛盾(構文論的矛盾)である。これは一般的な形式として「pであり、かつpでない」と表記できるものである。これ以外に指摘されている矛盾としては、意味論的矛盾と語用論的矛盾があるだろう。

 「意味論的矛盾」とは、意味論的な概念を述語にもつ文の矛盾である。(1) たとえば次のようなものである。

    「この文は偽である」

    「「ヘテロロジカル」はヘテロジカルである」(Grelling-Nelsonのパラドックス)

 「語用論的矛盾」とは、発話行為あるいは発語内行為と命題との矛盾である。たとえば次のようなものである。(2)

(A)  発話行為と命題の矛盾

「ここでは小さな声で話してください!」(と大声でいう)

   「正しい発音をひてくらはい」(と不正確な発音をする)

B)発語内行為と命題の矛盾

    「私は何も主張していない」

    「私は存在しない」

    「私の命令に従うな」

 これらと区別される矛盾として、ある発話がそれ自体では矛盾しないが、ある特定の問答の中で矛盾をひきおこす場合がある。ここでは、そのような矛盾を「問答論的矛盾」(3)と呼ぶことにしたい。これは、問いと答えの発話の間に生じる矛盾である。以下に例をあげて考察しよう。

 

 二 絡路を確認する問答

 

(1)問答論的矛盾

 声や文字が届いていることを確認するための問答は、問答論的矛盾をひきおこすと思われる。ここでは次の例で考えてみよう。

     「聞こえますか」

     「いいえ、聞こえません」

 単に「聞こえません」という発話には、矛盾したところはない。しかし、「聞こえますか」と問われて、「聞こえません」と答えることは、矛盾している。なぜなら、聞こえなければ、そのような返答をすること自体が不可能なはずだからである。

 ところで、話しかけることは、つねに同時に「聞こえますか」というメタメッセージをともなっており、それにたいして「聞こえません」と答えることがありえない以上は、返事をするときは、つねに「はい、聞こえます」であり、返事のないときには、聞こえないのか、あるいは聞こえるけれども返事を拒否しているかのどちらかである。

 ちなみに、これによって次のことが帰結する。もし、相手が私に話しかけて、相手が聞こえるはずだと考える状況で、私が返事をしないでいるならば、相手は、私が返事を拒否しているのだと理解するだろう、と予期できることになる。そこで、私は、そのような誤解を防ぐためには、つねに、話し掛けに対してすぐに応答するように、心がけていることになる。つまり、我々は他者からの呼びかけに対して、つねに答える準備をしているのである。(4)

(2)この質問の語用論的矛盾

 「聞こえますか」という質問において、答えの発話がそれ自体では矛盾していないにもかかわらず、ある問いに対する答えとなるときに矛盾が生じるのは、その問いに問題があるように思われる。その問い自体が、むしろ語用論的な矛盾を犯しているのではないだろうか。

 「聞こえますか」と問うとき、相手に聞こえなければ、問うこと自体が成立しない。およそ問うことは、つねに相手に聞こえることを前提している。したがって、「聞こえますか」と尋ねることは、それ自体で矛盾している。しかし、この矛盾は、通常の語用論的矛盾とは少し異なっている。なぜなら、語用論的矛盾とは、通常は、命題行為と発語内行為とが矛盾することであるが、この問いの矛盾は、そうではなくて、発語内行為それ自体の矛盾であるように思われるからである。この点を確認しておこう。

 「聞こえますか」という質問は、省略をおぎなえば「あなたは私の声が聞こえますか」という質問であり、その命題行為は、<あなた>を指示し、<私の声が聞こえる>という述定を行うことである。質問は、この述定ができるかどうかを尋ねている。普通の質問の場合、たとえば「このお皿はきれいですか」という質問の命題行為は、<このお皿>を指示し、<きれい>を述定することである。このような質問もまた、この述定ができるかどうかを尋ねている。では、「聞こえますか」という質問の奇妙さは、どこにあるのだろうか。「このお皿はきれいですか」では、<きれい>という述定が可能であろうと無かろうと、質問という発語内行為は成立する。しかし、「聞こえますか」では、<私の声が聞こえる>という述定がもし不可能であるならば、そのときには、質問という発語内行為自体が成立しないのである。

 質問する者は、当然ながらその述定が可能か不可能かを知らない。彼がそれを知るには、質問するしかないのである。質問する者は、質問が成立しないかもしれないことを考慮した上で、質問の発話をするのである。

 ところで、相手に質問が聞こえず、質問という発語内行為が成立していないとすると、彼は何をしたことになるのだろうか。単に独り言を話したことになるのではないだろう。なぜなら、対話を意図していたという点で、ただの独り言とは異なっているからである。彼は、発語内行為をしようと意図したが、失敗したのである。ただし、できると思っていたのにもかかわらず、意外にも失敗したのではない。では、これは、できないかもしれないが的に当てようと意図してダーツを投げたが当たらなかった、という失敗と同じだろうか。違うのは、次の点である。たとえ彼が質問に失敗しても、質問の答えを知ることには成功するということである。

(3)絡路を確認するもう一つの問答

 「聞こえますか」という問いは、教室の後ろの方に相手が見えている場合のように、相手の存在はすでに確認済みである場合もあるが、相手が電話の向こうや隣の部屋にいるかどうかわからずに話しかける場合のように、相手がいるかどうかが判らない場合にも発せられる可能性がある。その可能性がはっきりするのは、次の質問である。

   「どなたかいませんか」

   「誰もいません」

 ここで「誰もいません」という返答を真面目にしている人がいるとすると、その人は「ここには私のほかには誰もいません」という意味で言っているのか、あるいは「あなたが求めているような人は誰もいません」という意味で答えているのである。たとえば、お店にはいって「誰かいませんか」とお客が尋ねたときに、中から「誰もいません」という返事が返ってきたときには、「お客の対応ができるひとは誰もいません」という意味で言っているのであろう。

 もし「誰もいません」が真面目にしかも字義通りの厳密な意味で発話されているのであれば、発話者も存在しないと主張することになるので、語用論的矛盾である。これは、「私は存在しない」という発話が語用論的矛盾になるのと同じ事情で語用論的矛盾になるのである。この「誰もいません」という返答は、この問いに対する答えとして発話されるのではなくて、それだけで発せられても語用論的矛盾を犯している。ところで、この答えの発話は、語用論的矛盾になっているだけでなく、問答論的矛盾でもあるのだろうか。

 まず、質問について考えよう。「誰かいませんか」は「聞こえますか」と同じ理由で語用論的矛盾になるだろう。もし誰もいなければ、質問という発語内行為自体が成立しないのである。この質問は、質問の相手がいないこと、つまり質問が成立しない可能性を問うことによって成立している。その意味で、発語内行為の内部に矛盾を抱えている。

 もし、誰もいないとすれば、質問それ自体が成立しないはずであるので、「誰もいません」という返答は、「その質問は成立しません」というメタメッセージをともなうことになる。しかし、「誰もいません」が返答だとすると、それは質問が成立しているということを前提するはずである。これが、この問答の問答論的矛盾である。

(4)語用論的矛盾の質問は有意味である  

 これらの問いは語用論的矛盾であるが、そのことは、これらの問いの発話が無意味であることを意味するのではない。相手がおり聞こえていることの確認は、コミュニケーションの成立のための最も基礎的な確認であり、そのためには、「聞こえますか」「はい、聞こえます」などの問答が有意味に行われているということが不可欠である。(注4)

 電話の会話の最初に「もしもし」に対して「はい」と答えるとき、これは「聞こえますか」という質問と「はい聞こえます」という返答の意味であるとも解釈できるし、また「誰かいませんか」という質問と「はいおります」という返答の意味であるとも解釈できる。お店に入って、誰もいないときに、「こんにちは」と中に声をかけ、「はい」と中から返事がするとき、これもまた「誰かいませんか」という質問と「はいおります」という返答の意味であると解釈できる。このように我々は日常会話で、語用論的に矛盾する質問を有意味に行っているのである。

 

三 言葉の理解を確認する問答

 

(1)問答論的矛盾

    「日本語がわかりますか」

    「いいえ、わかりません」

  「日本語がわかりますか」と日本語で尋ねられて、「いいえ、私は日本語がわかりません」と答えることは、(「いいえ、私は、日本語があまりわかりません」という意味ではなくて、字義通りに理解するならば)矛盾している。この発話は、上の質問への答えでなくて、単独で「私は日本語がわかりません」と発話されるときにも、矛盾(語用論的矛盾)しているといえる。しかし、上の質問にI cant understand Japanese.と答えるのならば、単独の発話として、語用論的に矛盾しないが、問答論的には矛盾する。

(2)質問の語用論的矛盾

 「私の言うことがわかりますか」と問うとき、相手がこの問いを理解しなければ、問うこと自体が成立しないのであるから、およそ問うことは、つねに相手に理解されることを前提している。したがって、「私の言うことがわかりますか」と尋ねることは、それ自体で矛盾している。この矛盾は、語用論的矛盾だと言えるだろう。

 

 四 誠実性に関する問答論的矛盾

 

(1)問答の説明

 会話において、我々は互いに真面目に話しているということを了解しており、メタメッセージのレベルでつねにそのことを確認しあっている。その確認を明確な問答にすれば次のようになる。

    「真面目に話していますか」

    「はい、真面目に話しています」

あるいは「いいえ、真面目に話していません。」        

ここでの否定の返事は、語用論的矛盾である。この否定の返事は、次のどちらかの意味になるだろう。

    「この発言は嘘です」

    「この発言は、冗談です」J

 「この発言は嘘です」というのは、有名な嘘つきのパラドクスである。嘘つきのパラドクスは、普通は意味論的パラドクスとして扱われる。つまり「この文は、偽である」という文と同じものとして扱われる(この文は確かに意味論的パラドクスである。つまり真であると考えても意味論的矛盾になり、偽と考えても意味論的矛盾になる)。しかし、「この発言は嘘です」と「この文は偽である」がまったく同一であるとは言えない。前者は、意味論的矛盾ではなく、語用論的矛盾になっているからである。これを説明しよう。

 嘘とは、偽なる発言ではなくて、話し手が偽であると考えている発言である。それゆえに、嘘をついたつもりであっても、実はそれが真であったということがありえる。「この発言は嘘である」とは、より正確には「この発言は、私が偽であると考える発言である」あるいは「私はこの発言を偽だと考える」となる。いまこの発言をsとしよう。sが真であれば、<私がこの発言sを偽であると考えている>ことは事実である。しかし、この事実だけからは、<この発言sが偽である>ということは帰結しない。つまりsが真であるとしも矛盾は生じない。また、sが偽であるとしても、同様に矛盾は生じない。したがって、ここに意味論的な矛盾はない。

 しかし、私が「私はこの文sを偽だと考える」という文sを主張するとき、(主張という行為の意味からして)私は文sを真だと考えているはずである。つまり、ここでは、命題内容と発語内行為の矛盾、つまり語用論的な矛盾が存在する。

 では、「私は冗談を言っています」という発話は、意味論的矛盾だろうか。この発話が「この発話は字義通りの意味ではない」という発話tだとしよう。もし発話tが真だとすると、tは字義通りの意味でないことになり、このtは偽であることになる。もし発話tが偽であるとすれば、tは字義通りであることになり、tは真であることになる。ゆえに、ここには意味論的なパラドクスが成立しているといえる。しかし、この発話tは、主張を行っているのだとすれば、それは「冗談を言っている」という命題内容と矛盾する、ゆえにこの発話もまた語用論的矛盾である。

 しかし、この否定の返答「私は嘘吐きです」「私は冗談を言っています」などは、語用論的矛盾であるだけでなく、質問に対する問答論的矛盾にもなっているのだろうか。

(2)この問いの特殊性(語用論的矛盾と無効性)

 まず「あなたは真面目に話していますか」という質問が、語用論的矛盾になっていることを確認しよう。一般に、相手に質問することは、相手が真面目に返答することを期待している。相手が真面目に返答することは、質問の発語媒介行為である。かりに発語媒介行為が行われず、相手が真面目に返答しなかったとしても、質問という発語内行為が行われなかったということになるのではない。しかし、質問することは、相手が真面目に返答することを期待するということを構成契機としている。相手が真面目に返答することを期待しないで、相手に質問するということは、普通はありえない。それはいわば不真面目な質問であり、つまり質問という発語内行為をおこなう振りをしているだけの発話である。質問するという発語内行為は相手に真面目な返答を期待することを含んでいる。ところで、「あなたは真面目に話していますか」という質問は、否定の答えの可能性を予想している。つまり、相手が真面目に返答しない可能性を予想している。それゆえに、この質問は、発語内行為の内部に矛盾を抱えており、語用論的矛盾になっている。

 ここで、「聞こえますか」や「わかりますか」という質問との違い二点を確認しておきたい。

 (a)「聞こえますか」や「わかりますか」は、もし「はい」と答えるのでなければ、質問するということ自体が成立しない質問であった。これに対して「真面目に話していますか」は、かりに相手が真面目に話していないとしても、相手が「聞こえており」「言葉を理解している」のならば、質問は成立する。

 (b)「聞こえますか」や「わかりますか」は、答えが「はい」でなければ、質問が成立しなかったが、しかし質問者は、たとえ質問に失敗しても、意図した答えをうることができるのである。これに対して、「あなたは真面目に話していますか」という問いに対しては、相手が真面目に話しているのならば、「はい、私は真面目に話しています」と答えるだろうが、しかし相手が嘘つきであっても、「はい、私は真面目に話しています」と答えるだろう。つまり、「あなたは真面目に話していますか」という質問は、意図した答えを得ることができないのである。この質問は、嘘つきに対しては無効である。

 (ただし、相手が冗談を言おうとしているときには、有効である。相手が冗談を言おうとしているのならば、答えに「はい」や「いいえ」でまともに応えようとしないか、あるいは「いいえ、私は真面目に話していません」(あるいは「私は嘘吐きです」「私は冗談を言っています」)などの語用論的矛盾の発話をするだろう。つまり、相手が、冗談を言おうとしているのならば、我々は質問に対する真面目な答えが無くてもそれを知ることができるのである。)

(3)問答論的矛盾

 さて、以上の質問の分析を踏まえて、もとの問題に戻ろう。「いいえ、私は真面目に話していません」という返答は、問答論的矛盾になるのだろうか。この返答は一見すると問答論的矛盾にはなっていないように見えるかもしれない。なぜなら、「私は真面目に話していません」ということが事実だとしても、(質問が聞こえていなかったときや、理解されていなかったときのように)質問が実は成り立っていなかったということにはならないからである。しかし、「真面目に話していますか」という質問に対する「いいえ」という返答を考えてみよう。この返答は問答論的矛盾になる。なぜなら、「いいえ」という返答が真面目なものであるならば、質問に対する否定の返答から、返答者は真面目に話していないことになり、返答するということを自己否定することになっているからである。

 

五 問答論的矛盾とコミュニケーション

 

問答論的矛盾の分析はまだまだ不充分であるが、最後にこれらの矛盾がコミュニケーションの成立においてどのように機能しているのかをごく簡単に指摘しておきたい。

 ここで考察した問答論的矛盾となる答えは、それが発話されるときには、問答論的矛盾のゆえに、冗談の発話と見なされることになる。(狂人でなければ)これを真面目に発話することは、論理的にありえないものである。つまり、「聞こえますか」と問われて「聞こえません」と答えたり、「誰かいませんか」と問われて「誰もいません」と答えたり、「言葉が解りますか」と問われて「解りません」と答えたり、「真面目に話していますか」と問われて「いいえ」と答えることはありえない。つまり、我々が答えるときには、すべて「聞こえます」「います」「解ります」「真面目に話しています」と答えることになるのである。こう答えることは、問答論的必然性だといえるだろう(この表現は、語用論的矛盾を避ける発言を「語用論的必然性」(レカナティの表現)と呼ぶのにならったものである)。このような必然性からは、次のようなことが成立するのである。

 

(1)   相互知識の成立 

 コミュニケーションが成立するときには、様々な事柄が相互知識になるが、その際<聞こえていること>と<言葉が理解できていること>についてはつねに相互知識が成立している。なぜなら、相互知識は、代理によっては成立せず、当事者が直接にコミュニケーションする必要があるので、相互知識が成立するときには、つねに<聞こえていること>と<言葉が理解できること>の相互知識が成立しているはずだからである。

(2)  意図表明の不可避性

 <聞こえること>と<言葉が理解できること>の相互知識が成立すると、当事者は、互いに対して意図表明をせざるを得なくなる。つまり彼らは不可避的に意図表明の主体となる。なぜなら、そのような相互知識が成立すると、たとえば質問をされて黙っていることは、質問が聞こえてわかっているのに黙っているのだ、ということが互いに予期されており、そのような予期をすること自体をも互いに予期しているので、そのような状況で黙っていることは、たとえば拒否の返事や無関心の表明など一定の態度表明になることが相互に予期できる、そしてそのように相互に予期できる状況で、そのような態度をとれば、それは意図表明することになってしまうのである。黙っていたり、質問したり、質問にある仕方で答えたり、別の仕方で答えたり、することができるが、いずれにせよ、このような相互知識が成立している状況では、我々は何らかの意図表明をすることになってしまうのである。

(3)相互承認

 (a)会話において「私は誠実である」と言わざるをえない。なぜなら、「あなたは真面目ですか」と問われたときには、我々が真面目でも不真面目でも、「いいえ、真面目ではありません」と答えることはありえず、我々は、つねに「はい、真面目です」と答えることになるからである。なぜなら、「いいえ、真面目ではありません」とか「いいえ、私は嘘吐きです」という発話は、語用論的にも問答論的にも矛盾するからである。(冗談で答える人はいるだろう。しかし、冗談を言う人もまた、それが冗談であるというメタメッセージを真面目に伝えているのである。そのようなメタメッセージを真面目に伝えようとしなければ、それは冗談としてさえ成立しない。つまり、冗談を言う会話者も、彼の発話の総体で考えるならば、真面目な発話者なのである。)

 (b)会話において、相手を「誠実である」とみなさざるをえない。なぜなら、我々が相手に「あなたは真面目ですか」と問ううたとき、相手が「いいえ、真面目ではありません」と答えたとすると、それは上に見たように冗談の発話としてしか理解できないが、それを冗談として理解するとき、(語用論的矛盾から)冗談であるというメタメッセージをよみとり、相手は真面目に冗談をいっていると理解するのである。つまり、相手の発話を冗談だとみなすことは、我々は相手を「誠実である」と考えることを伴っている。相手が「はい、真面目です」と答えたが、それにもかかわらず相手が嘘をついていると考えて「いいえ、あなたは不真面目です」と言い返したとすると、この発話は矛盾する。なぜなら、この発話は相手の返答を真面目なものと見なしたときに成り立つ反論だからである(問いに対する答えの矛盾ではないが、相手の発言に対する応答の発言の矛盾であるので、これも広い意味で問答論的矛盾として理解したいが、この種のものについては、別に論じる必要があるだろう)。真面目でないはずの相手に真面目に答えようとすることは矛盾した態度である。それゆえ、我々は、討議において相手が「真面目である」と言いつづけるならば、かりにそれを信用していないとしても、相手の発話を暫定的に真面目なものとして受け取るのでなければ、会話は成立しない。ゆえに、会話するとき、我々は相手が誠実であると見なさざるをえない。

 我々はこの(a)と(b)から相互承認の不可避性を主張できる。(5) このような相互承認の論証は、討議倫理学の論証方法と似ているが、まったく同じものなのではない。討議倫理学が論証に際して依拠するのは、語用論的な矛盾であるが、ここで注目しているのは、問答論的な矛盾である。もちろん、討議倫理学では、我々がみた語用論的矛盾と問答論的矛盾の区別をしないので、この両方がその議論の中に含まれているという可能性がある。しかし、討議倫理学は、基礎付けられるべき命題にばかり注目して、それが答えとなる問答全体を考察しないという欠点がある。我々は問答への注目が、討議倫理学の僅かな改良に終わるのでなく、それへの根本的な乗り越えになることを期待しているが、その論証はこれからの課題である。

 

(1)「意味論的概念」とは「言語的表現(文、名詞句、形容詞など)とそれらによって表現されるもの(事態、対象、性質)との関係を表現する概念」であり、たとえば「真」「充足」「表示」「定義」などである、と一般に説明される。意味論的矛盾は錯綜した難しい問題を含んでいるが、ここでは本論文の主題からはずれるので、一般的な説明でご容赦願いたい。

(2)「問答論的矛盾」とは、拙論「メタコミュニケーションのパラドクス(1)」(『大阪樟蔭女子大学論集』第30号、19933月刊行、pp.179-195)で「談話論的矛盾」と名づけたものと同じものである。語用論的矛盾との相違点をより明確にするために名称を変更することにした。

(3)これによって、コミュニケーションのコード・モデルが抱えるアポリアを解決できることについては、前掲論文で論じた。

(4)私は、いかなる発言も、問いに対する答えとしてのみ有意味であると考える(拙論「問答の意味論と基礎付け問題」『大阪大学文学部紀要』第37巻、19973月発行、pp.153-190)ので、もし、「聞こえますか」という質問が無意味であるとすると、これに対する「はい、聞こえます」という肯定の答えも無意味であるあることになってしまう。また「私が存在する」が有意味であるためには、それが答えとなる「あなたは存在するのか」や「私は存在するのか」(自問)や「誰かいますか」などの質問が有意味でなければならないと考える。しかし、これらの質問を有意味だと見なすことは、次のような問題を喚起するだろう。語用論的矛盾の発話は、すべて有意味なのか。それとも、これらの質問は、語用論的矛盾の中でも特殊なものだから有意味なのか。これらの問題は、今後の課題としたい。

(5)相互承認の必然性は、次の仕方でも議論できる。相互否認の対話は次のようになる。

   A「君の判断は、間違っている」

   B「あなたの判断こそ間違っている」

このような相互否認では、議論にならない。これに対して、相互承認の対話は次のようになる。

   A「君の判断は、正しい」

   B「あなたの判断も正しい」

このときには、議論が成立する。ところで、一方向的承認の対話はどうなるだろうか。もし承認か否認しかないとすれば、一方向的承認は、つねに一方向的否認でもある。そして、これは、次の発言のように自己破壊的である。

   A「私は、君の発言を認めない」

   B「それは、正しい判断だと思います」

 つまり、AがBを否認したときに、BがAを承認すると、Aの否認は自己矛盾し無効化される。一方向的承認でも、議論にはならない。つまり、議論が成立するには、相互承認が求められる。

                                      了