発話伝達の不可避性と問答

『大阪大学文学部紀要』第43号、2003年3月所収


                   

 

我々はどのようにして言葉によって何かを伝達することができるのだろうか。これが、本論の課題である。もう少し細かく言うと次のようになる。言葉による対象の指示、その対象についての述定、指示や述定などからなる言明の意味、言明による主張や命令などの発語内行為、これらの伝達は、どのようにして可能になるのだろうか。この問題に対して、本論で一つの答えを提案したい。この答えは、この問題に対する充分な答えであるとはいえないが、一つの基本的な側面の指摘になっているであろうことを期待したい。

本論の構成は以下のとおりである。第1節では議論の手がかりとして、クワインの『言葉と物』での「根底的翻訳」(radical translation)に関する議論を検討する。これは、それまで言語的な接触のなかった人間が出会ったときに言葉の伝達がどのようにして可能になるかを考察したものとして読めるだろう。クワインはその状況を、非常に根底的に考察するのだが、その議論では問答関係への考察が欠けており、そのためにクワインのプログラムに疑義が生じることになる。第2節では、言葉による指示や述定の伝達は、語や文の意味や話し手の意図からはうまく説明することができず、むしろそれらの伝達を不可避にするメカニズムがある状況で成立することによって、それらの伝達が成立するという考えを提案する。次にこの発話の伝達を不可避なものにするメカニズムの分析に取り掛かり、まず第3節ではグライスの意味論の修正をふまえて、ある種の「相互予期」が「発話伝達の不可避性の条件」となっていることを指摘する。第4節では、この「相互知識」概念に対する従来の批判を踏まえて、その再定義を試みる。その過程で、「共有知」「実在知」という概念を提案する。第5節では、「発話伝達の不可避性の条件」が成立するためには、問答関係についての「相互予期」が条件となっていることを指摘する。つまり、発話は問答関係の中で理解され伝達されるということである。第6節では、このことの傍証として、すべての発話が焦点を持ち、それが問答関係の中で確定することを示す。そして、発話の焦点もまた発話の意味を構成するという立場を採用すると、真理条件意味論よりも主張可能性条件意味論に接近することを示す。最後の第7節では、多くの発話が質問に対する答えとして発話されること、またそれ以外の発話を含めて、すべての発話が自問自答の答えであると理解できることを論証し、「意味の問答原理」を提案する。

 

        

     第1節 根底的翻訳状況の検討

 

1.根底的翻訳についてのクワインの議論への疑問

(1)問答の同定をめぐる問題

 クワインは、われわれがどのようにして他者の言語を理解するのか、を考察する手段として、「根底的翻訳」について、考察する。これは、それまで接触がなかった人々の言語を言語学者が翻訳するというケースである。

 このような場合に、最初にもっとも確実に翻訳される発話(それゆえに、またこの翻訳は、その後の翻訳の手がかりにもなるだろう)は、言語学者と原地人の双方の目の前で、なにか顕著な出来事がおこり、それと結びついて原地人が発話する場合である、とクワインはいう。それは例えば次のような場合である。

「一匹のうさぎがさっと走り抜け、原地人が‘Gavagai’と言う。のちにいろいろな場面でさらにテストされなければならないが、言語学者はひとまずその翻訳として、‘Rabbit’という文を書き留める」(注1)

しかし、このように原地人の発話をただ観察しているだけでは、この翻訳の正しさを確認することはできない。なぜなら、たとえば「ウサギ」「白い」「動物」などは、同じ対象が現われたときに発せられる可能性があるからである。そこで、「可能なときには、言語学者は、示唆を与えることでデータをゆがめる危険をはらむとはいえ、原地語の文を発して、情報提供者に承認してもらわなければならない。」(注2) そして「原地語の文と刺激状況とを言語学者の側からまず組み合わせて質問し、最終的に満足のいくように推測を絞ってゆくしかない」(注3)ということになる。

ここには、たくさんの困難な問題があるだろう。クワインは、相手の返答が、同意なのか不同意なのかがどうしてわかるのかという問題をとりあげて、それについて検討している。重要なところなので、少し長くなるが引用しよう。

「このように言語学者はさまざまな刺激状況のそれぞれにおいて’Gavagai?’問い、そのたびに、現地人が同意を示しているのか、あるいはそのいずれでもないのかを書き留めるものとしよう。ところで、言語学者は、原地人の反応を見たり聞いたりして、如何にして彼らの同意や不同意を認識しうるのであろうか。彼らのジェスチャーを額面通りうけとることはできない。トルコ人は、アメリカ人とほとんど逆のジェスチャーをするからである。言語学者のすべきことは、観察を手がかりに推測し、その推測がどの程度当たっているかを見て取ることである。したがって言語学者は、うさき、等々、が明らかに目の前にいるときに‘Gavagai?’等、と質問し、‘Evet’‘York’という反応を何度も繰り返して引き出し、その結果、それらは‘Yes’‘No’に対応すると推測できるが、どちらがどちらかは見当がつかない、と仮定しよう。そこで言語学者は、原地人の自発的な発語をそっくりまねるという実験を試みる。もしそれによって、非常に規則的に‘York’ではなくて ‘Evet’が引き出されたならば、言語学者は、‘Evet’を‘Yes’と見なす自信がつくだろう。また、原地人のいろいろな所見に対して‘Evet’や‘York’で反応することも試みる。そのときは、結果がより平静なほうが、‘Yes’の候補としてふさわしい。これらの方法はいかに決定的なものではないとはいえ、ある作業仮説を生み出すのである。もし異常な困難がその後ずっと続いて生ずるならば、言語学者はその仮説を放棄し、推論をやりなおすであろう。」(下線は引用者の付記)(注4)

ここでは言語学者の質問に対する原地人の反応について、それが同意ないし不同意であるであるとどうしてわかるのか、という問題についての説明が行われている。しかし、言語学者が質問のつもりで語る“Gavagai?”という発話を、相手がどうして質問として理解するの、あるいは相手がそれを質問だと理解したかどうかをどのようにして確認すればよいのか、などについて、クワインはまったく触れていない。クワインはこれらが質問として理解されることを自明なことと考えている可能性もある。もし我々がこの点を問うたならば、彼はおそらく‘Evet’と‘York’についての議論と同様に、言語学者が現地人の発話行為を観察し、さまざまな発話を試してみることによって理解できるようになるだろうと答えるだろう。

しかしこの問題を厳密に考えようとするならば、われわれは、クワインが根底的翻訳の分析をもとに導出している結論を修正しなければならない。

 

(2)クワインの行動主義的言語学

クワインは、「肯定的刺激意味」(affirmative stimulus meaning)を、「話者の同意を促すであろうすべての刺激のクラス」と定義する。これは、より明確には、つぎのように定義される。

「任意の話者にとって、刺激σが文Sの肯定的刺激意味に属すると言えるのは、まずその話者に刺激σ′が与えられて、文Sを問われて(asked)もそれに同意しないが、その後で刺激σが与えられて文Sをふたたび問われたならば、今度はそれに同意を表明するであろうような刺激σ′が存在するとき、そしてそのときにかぎる。」(下線は引用者の付記)(注5)

「否定的刺激意味」(negative stimulus meaning)は、上の「同意」と「不同意」を交換して定義される。そして、「刺激意味」(stimulus meaning)とは、肯定的刺激意味と否定的刺激意味の順序対として定義される。

 ところで、上の引用に見られるように、文Sの肯定的刺激意味の確認する作業は、文Sを問うことを前提している。したがって、文Sの刺激意味の確認もまた、文Sを問うことを前提する。しかし、クワインは、ここでも<文Sを問う>ということが、どのようにして可能になるのかについて全く触れていない。

 さらにクワインは、「定常文」(standing sentences)と「場面文」(occasion sentences)をつぎのように定義する。

「場面文とは、「赤い」「痛い」「彼の顔は汚い」のような文であり、〔同意・不同意を〕促すような適切な刺激に続いて問われたときに限り、同意または不同意を強要する文である。定常文に対する、同意・不同意の判定が促されるということも可能ではある。しかし、これらの定常文は、後に再び問われたとき、被調査者がそのときの刺激には促されずにかつての同意もしくは不同意を繰り返しうるものであるのに対し、場面文は、そのときどきの刺激によって被調査者が今一度促されてはじめて、同意もしくは不同意を強要するのである。」(注6)

ここでも、定常文と場面文の区別は、問うことを前提している。

 クワインはこの場面文の定義にもとづいて、「観察文」(observation sentences)を「付帯的情報の影響を受けても刺激意味がなんら変化しないような場面文」(注7)と定義する。ここでも、何が場面文であるかの判定は、その文を問うことを前提していることになる。

 言語学者が原地語の文を問いかけて、それに対する同意や不同意を確認するという、このプロセスによって、観察文の翻訳の達成だけなく、さらに真理関数の翻訳、刺激分析的文の認知、場面文の主観内的刺激同義性の認知などが達成できることをクワインは示している。そして、現地語の<単語>や文法構造などについては、これらとの一致を図りつつ言語学者が仮説として設定すると考える。それを彼は「分析仮説」と呼ぶ。しかし、この分析仮説については、両立不可能な複数の「分析仮説」が可能であるという。つまり、上述の行動主義的に理解された問答のプロセスによって可能になる事柄は、確実なことであるが、分析仮説によって説明される事柄は不確定であり、これらの間には明確な区別がある、とクワインは考えている。次の有名な文はそのことを端的に表わしている。

「場面文と刺激意味は、普遍的に通用する通貨であり、名辞と指示対象は、我々の概念枠に特有なものである」(注8)

 

(3)疑問点:分析仮説と問答の関係

クワインは、簡単に「原地語の文Sを問う」という言い方をするが、先に述べたように、そのことがどのようにして可能であるのかについては、全く言及していない。また、場面文と定常文をどう区別するかについての言及があるが、そもそも文の発話と、文の発話ではない発話をどう区別するのかについても、全く言及がない。クワインは、何が文の発話であるかは、自明であるかのように論じている。つまり、クワインは根底的翻訳の場面をこうさつするときに、注意深くさまざまな前提了解を排除して考えようとしていたのだが、そこにはまだ、意識されないままにさまざまな了解が前提されてしまっているのである。そこで、クワインによる根底的翻訳の場面での問答プロセスの叙述が前提していると思われる事柄を詳しく検討することにしよう。

まず、文の発話とそうではない発話を区別する仕方である。我々が発話するとき、つねに、文の発話をするとは限らない。一つの単語だけを発話しても、それが一語文として発話されることがあるが、しかし他方で、それが一語文として発話されていないときがある(語学の勉強のときのように、単語だけを単語として発話するときがあると言いたいのではない)。われわれは、二つ以上の文を一気に発話するときもあるが、逆に、一つの文をいくつかに分けて、途中で相手のづちを待って話すことある。たとえば、「昨日ね」「うん」「あれから大変だったんだよ」「ふーん」というようにである。このような発話を「部分発話」と呼ぶことにしよう。根底的翻訳の場面で、言語学者が、原地語の文を問うためには、部分発話、一つの文の発話、二つ以上の文の発話などを区別しなければならない。もし文の発話を単語の発話に区別するのが分析仮説であるのならば、発話一般を文の発話(言明)に区別することも分析仮説だというべきではないだろうか。たとえば、次の例は、いくつの文だろうか。

  「これはチョーク これは黄色」

  「チョーク きいろ」

  「これはチョーク そして黄色です」

  「あれ チョーク」

発話をいくつの言明(文の発話)に分けるかは、微妙な問題であり、母語に限っても、それが曖昧な場合がある。それは、文の構造をどのように理解するかと結びついている。つまり、発話を文の発話に分ける分析仮説と、文の発話を語の発話に分ける分析仮説は別の次元にあるのではなく、それらは結合して一つの分析仮説を構成するはずである。

次に、当然ながら、語尾の抑揚を上げて文を発音しても、質問の発話になるとは限らない。どのような発話が質問の発話であるのかを言語学者は推測して、それを何度も試してみなければならないだろう。ところで、クワインが根底的翻訳の場面で考えている問答は、真理値を持つ文ないし発話に関する問答である。これを行うには、相手の発話が、主張の発話であると理解できなければ、質問が質問として理解されたことも確認できない。つまり、ここでは主張、命令、依頼、約束、宣言など、いわゆる発語内行為の区別ができることが前提になる(前述の質問の仕方の認知も、これに属する)。ところで、ある発話が、質問であるか主張であるか命令であるか約束であるかなどは、感覚刺激だけから特定することは困難であろう。そうすると主張、質問、願望、命令、約束などの区別は、一定の分析仮説に基づくことになるだろう。

さらに、同意と不同意の返事については、上に述べたような仕方で推定できるかもしれないが、たとえば、日本語であれば、否定疑問文に対する答えは、同意と不同意の表現が、英語の場合とは逆になる。したがって、この問題の解決も、分析仮説が必要になるかもしれない。

以上の区別は、果たして単語と文法構造についての「分析仮説」以上に確実な基礎的な事柄だといえるだろうか。私には、これらの区別はクワインの言う分析仮説と密接に関連していると思われる。そうだとすれば、これらの区別にもとづいて可能になる、観察文の翻訳は、本当に「普遍的に通用する通貨」だといえないのではないだろうか。

 

2、根元的解釈についてのデイヴィドソンの議論への疑問とヒント

 デイヴィドソンは、論文「根底的(根元的)解釈」(Radical Interpretation)において、われわれが他者の発話を理解するとはどのようなことか、そのときにどのような知識が役立つのか、といったことを、徹底的に考察しようとするとき、まったく知らない言語を使用する他人の発話を解釈する場合を「根底的(根元的)解釈」と呼んで、考察する。そのときに出発点になるのは、話し手が、ある文を真として受け入れるという事実であるという。

「よい着手点は、ある文を真とみなす態度、その文を真として受け入れる態度である。もちろん、これはひとつの信念であるが、全ての文に適用可能な単一の態度であり、我々が、様々な信念をきめ細かく識別して区別できる必要があるような信念ではない。それは、解釈を始める前に解釈者にもおそらくそれと認定できると認めてよい、ひとつの態度である。というのも、ある人物がある文を発話する際に真理を表明しようと意図していることを、解釈者は、それがどういった真理なのかについて何の観念をもたずとも、知ることができるであろうからである。」(注9)

話し手が、ある文を発話したとして、そのとき彼がその文を真と見なしていること、つまりそれが主張の発話であるということを、どうやって知ることができるのだろうか。クワインが考えたように、やはり質問して、確認するしかないのではなかろうか。これは、話し手の言語での主張や質問などの命題的態度についての理解を必要とする。

デイヴィドソンは、論文「概念枠という考えそのものについて」において、このことを認めている。

「クワインに従って私は、根元的解釈の理論のための基本的証拠として、文に対するある種のきわめて一般的な態度を、循環や不当な想定無しに受け入れることができる、と提案したい。少なくとも当面の議論のためには、決定的概念として、真として受け容れるという文に向けられた態度に依拠してよいだろう。(いっそう完全な理論は、文に対する他の態度、例えば、真であることを願う、真かどうか怪しむ、真にしようと意図する、等々も視野に入れることになる。)なるほどここには、態度が含まれているが、中心的論点が先取りされていない事実は、次のことから見て取れよう。ある文をだれかが真とみなしていると知るだけでは、彼がこの文で何を意味しているのかも、また彼がそれを真と見なすことでどんな信念が表されているのかも知られない。」(注10

デイヴィドソンは、ここではっきりと、文の意味を理解するには、それに先立って、「真として受け入れる」という態度(主張という発語内行為)の理解が必要であると述べている。そして根元的解釈の「いっそう完全な理論」は、「真であることを願う」という態度(これは、命令や依頼の発語内行為であろう)の理解、「真かどうか怪しむ」という態度(これは、質問の発語内行為であろう)の理解、「真にしようと意図する」という態度(これは約束の発語内行為であろう)の理解を、文の理解に先立って想定することになる、と述べているのである。ただし、デイヴィドソンにも、質問と答えの関係についての考察は見られない。

しかし、文の意味の理解に先行して、「真として受け入れる」という態度の理解があるというデイヴィドソンの指摘は、大変重要だろう。私は、以下では、これをヒントにむしろさらに一歩進めて、「真として受け入れる」という態度の理解が、文の意味の理解に先行するだけでなく、むしろ文の意味の理解はそれにもとづいて可能になるのだと考える。そして、さらに言えば、文を「真として受け入れる」というこの態度は、問いに対して答えるということによって成立するのではないかと考えたい。

私が以上のクワインとデイヴィドソンの議論の検討から引き出したい結論はこうである。我々が文を翻訳したり解釈したりするときに、文の真偽の理解は我々が出発点にすべきであるような特権的なものではない。われわれは、それに先立って、問答関係を確認しなければならないということである。我々もまた、根底的翻訳や幼児が言葉を学習する段階を念頭におきながら、言葉が何かを意味するとはどういうことなのかを、考察しよう。

 

    第二節 発話の意味と伝達の不可避性

 

どのような発話が文の発話(言明)であり、どのような発話がそうではないのだろうか。その一つの答えは、発語内行為を遂行している発話が文の発話(言明)であるというものである。たとえば、一つの単語を発話することと、一語文を発話することの違いは、後者が主張や命令などの発語内行為の遂行になっているということであろう。

では、ある発話が発語内行為を遂行しているかどうかは、どのようにして確認できるだろうか。それは、クワインが考えたように、問いに対する答えとして発話されるときに、より明確に確認できる、といえるだろう。後で確認するように、質問以外のすべての発話が、相手の問いに対する答えとして発話されるというのではない。しかし、根底的翻訳の場面や言葉の学習段階では、質問に対する答えとして、言明および発語内行為が理解されるのではないだろうか。言語が充分に習得された段階において、何が言明であるかが言語学的な規則から推理できるようなケースを除くと、質問以外のすべての発話は、質問に対する答えの発話としてのみ理解可能なのではないだろうか。

では、そのような問答において、言葉による指示や述定はどのようにして伝達されるのだろうか。パトナムの「指示光線」の譬え話にもあるように、これを説明することはきわめて困難である。そこで私は、話し手が指示や述定をどのようにして聞き手に伝えることができるのか、という問題設定とは違った方向からこの可能性を説明してみたい。

 

1、指示伝達の不可避性

 指さしを伴う「これ」という発話による指示、あるいは指さしを伴う「この本」という発話による指示、これらの指示が、言葉によるもっとも原初的な指示であろう。これらの指示が、どのようにして成立するのかを説明することは、非常に難しいことである。

 「この本」と発話して、指さした方向に、本が一冊しかなければ、「この本」でその本を指しているのだと、聞き手は理解するだろう。しかし、この理解は、「この本」という発話で何かを指示しているのだということの理解、指さし行為は、その指さしの方向にある対象を指示しようとする行為であるということ、「本」の意味の理解、などを前提している。この場合に、聞き手が、「この本」という発話や、指さし行為で、何かを指示しようとしているのだということを理解することが、まず何よりの前提として必要であるだろう。これに基づいて、指示対象を特定するために、指さしの方向や、「本」という語の意味をよりどころにするのである。 

つまり、指示が成立するためには、何かを指示しようとしているということを伝えることが必要なのである。では、それはどのようにして成立するのだろうか。実は、指示の成立は、個人の意図や意図的な行為によって成立するのではなくて、むしろ指示を不可避にするメカニズムによってのみ可能になるのだと考えるべきなのではなかろうか。そのメカニズムをいくつかの事例から考えてみよう。

 

(1)根底的翻訳の事例

クワインの「指示の不可測性」テーゼは、指示の不成立を主張するものではない。むしろ、それは指示の成立を認めるものである。ここでいう、指示の成立とは、次のようなことである。

言語学者が‘Gavagai?’とたずねて原地人が肯定することの繰り返しを通して、もし言語学者が‘Gavagai’を「ウサギ」のことだと推定して、そのつもりで‘Gavagai’を使用しており、他方で仮に原地人が「ウサギの一部」のつもりでそれの使用を肯定しているのだとしても、双方が、同じ意味で使用していると誤解しつつも、会話がスムーズに進行している限りで、指示は成功していると双方は思っている。クワインは、このような誤解の可能性を原理的に排除できないと主張するのだが、しかしそのような場合に指示が失敗しているとは彼は考えていない。このような誤解があるときにも、指示が成立しているのだと言えるのは、次のことが成立しているからである。クワインの考えている事例では、仮に誤解があっても少なくとも、‘Gavagai’で何かを指示しようとしていることについては、両者は互いに理解しあっており、その理解は正しい、ということが想定されている。ここで指示が成立しているというときに、考えられているのはこのようなことである。

では、これはどのようにして成立するのだろうか。言語学者から‘Gavagai?’と問われたときに、原地人は、何かの反応をせざるを得ないだろう。彼は言語学者が何かを指示して、Gavagaiが見えたことを確認しようとしていると思ったのかもしれないし、‘Gavagai’という語の用法を尋ねているのだと思ったのかもしれない。彼は、言語学者が‘Gavagai’で何を意味しているのかを知るために、試みに肯定してみるかもしれない。そのうち、彼は言語学者が‘Gavagai’で何かを指示しようとしていると推測するかもしれない。そして、もし‘Gavagai’が原地語で何か指示することが出来る対象の名前であるとすると、彼は‘Gavagai’でその対象を指示することを示そうとするだろう。もし、言語学者が何かを指示してそれを‘Gavagai’と呼ぼうとしているのだと理解できても、自分が考えている対象と、言語学者が考えている対象が同じであると確信がもてないときには、現地人はおそらく肯定でも否定でもない反応をするかもしれない。必要なことは、言語学者が、原地人が‘Gavagai’で何かを指示していると推測すること、その推測に基づいた言語学者の発話を聞いて、現地自身もまた、言語学者が‘Gavagai’で何かを指示しようとしているのだと推測すること、この推測をお互いのやり取りの中で確実なものになることである。そうして、そのことが双方に確実なものになったと双方が思ったとき、‘Gavagai’で指示する対象について一致していなくても、それは両者にとって何かを指示してしまっているのである。

 

(2)日常的な事例

 たとえば、夫と妻がリビングにいるとき、妻が「それ、とってくれる」といったとしよう。夫は、その発話は自分に向けられたのだと理解するだろう。そして、つぎに「それ」が何を指示しているのかを自問するだろう。そのとき、夫にはそれが理解できなかったとすると、「どれ?」と聞き返すだろう。

 この会話において、妻から依頼された夫は、仮に何もしないでも、何らかの態度表明をしたことになってしまう。何もしないことは、妻の依頼を無視したこと、あるいは妻の依頼を拒絶したことになるだろう。そのとき、夫は「それ」が何を指示するのかを、理解したことになってしまうことであろう。なぜなら、もし発話の内容を理解しなければ、それを拒絶するか、あるいは他の態度をとるかの選択ができないからである。夫が態度を選択したことになってしまうのならば、妻の発話内容を理解したことになってしまうのであり、「それ」が何を指示するのかを、理解してしまったことになるのである。(もちろん、文脈によっては、「それ」が何であれ確かめることなく、依頼を拒否するという態度を伝えようとする場合もあるだろう。)

 この会話のつづきで、夫の質問に対して、妻がテーブルのカップを指さしたとしよう。しかし、夫は、その近くのキャンディを指差したのだと思ったとすると、キャンディを妻に渡そうとするだろう。また、ここで、夫が、カップか、キャンディか迷ったとすると、夫は、可能性が高そうだと思ったキャンディについて、「キャンディ?」と尋ねるかもしれない。それに対して、妻は、例えば「いいえ、カップよ」と答えることになるかもしれない。

このようなやり取りによって、指示対象は、次第に限定されてゆく。指示の確定は、問答によって行われるが、クワインが言うように指示の究極的な確定は不可能であるだろう。しかし、一定の確定は問答によって可能である。それどころか、現実には、両者が指示を相互に了解したと思えるようになることは非常に簡単である。

 さて、このようなやり取りを可能にしているのは何だろうか。それは、<「それ」という言葉が何かを指示するために使われるということ>を夫と妻が理解しており、そのことをさらに両者が理解しており、そのことをさらに両者が理解しているということである。

 もし、このような相互的な理解や予期が成立しているならば、そのような状況では、妻が「それ」と言えば、仮に妻に何かを指示する意図などなくても(そのような場合はまれであろうが、ありえないことではない)、何かを指示したことになってしまうのである。なぜなら、妻が「それ」で何かを指示していると夫が理解することを妻は予期できるからである。そして重要なのは、このように実際に意図していなくても<何かを指示したことになってしまう>メカニズムと同じメカニズムが、「それ」と言うことによってあるものを指示することを意図する通常の場合にも成り立っており、それが通常の指示を可能にしているということである。

 

(3)一般的説明

 一般的にいうと、ある意図の認知についての相互予期が成立しているときに、それを訂正しようとしないのならば、その認知を承認したことになる、つまり、それを意図したことになる。修正の可能性があるにもかかわらず修正しなかったのだから、その意図を承認したことになるのである。意図一般とおなじく、指示の意図の場合にも、指示についての相互予期が成立し、修正可能であるにも拘らずそれを修正しないならば、その指示を意図したことになってしまうだろう。相互予期の修正をしないならば、そのとき、指示が成立することは不可避である。指示は、このような相互予期によって成立するのである。相互予期が成立していない段階では、指示は成立しないだろう。(この「相互予期」概念については後に考察する。)(ちなみに、この議論は、幼児期における指示の習得を前提した議論である。言葉によって何かを指示するということの習得が行われ、言葉による指示が予期できるようになれば、その後の言葉による指示のメカニズムの説明は、上のように説明できるだろう。)

 

2、述定伝達の不可避性

(1)述語の意味

 ここでは、述語による述定がどのようにして可能になるのかを考えよう。上述の‘Gavagai’が仮にウサギを意味する言葉であるとしよう。ウサギを見つけたときに‘Gavagai’と叫んぶとき、この言葉は、「ウサギがいるぞ」のように「指示」に用いられているのかもしれないが、「あれはウサギだ」のように対象についての「述定」に用いられているのかもしれない。ここでは、より単純な「これは赤い」という発話を考えてみよう。この「赤い」によって、われわれは指示対象についての述定している。

形容詞である「赤い」の意味について、二通りの理解があるだろう。一つは、赤いものが共通にもつ<普遍的な性質>を意味していると考える立場であり、もう一つは、<「赤い」が述定される対象の集合(あるいは、この集合に属すること)>を意味しているとする立場である。

いま仮に「赤い」の内容が<赤いものの集合>であるとしよう。では、その集合はどのようにして与えられるのだろうか。それはおそらく、ラッセルが考えたように<個物x、y、z、およびそれらに類似したもの>という仕方で与えら得るだろう。そうすると、そのときには、「類似性」という普遍概念を想定することになる。もしこの普遍概念を想定できるのであれば、<赤さ>という普遍概念を想定することもまた可能になるだろう(これもまた、ラッセルの言うとおりである)。もし、このように「類似性」の概念に頼らないとすれば、集合に属する対象をすべて列挙するしかない。しかし、このやり方では、われわれが初めての対象についても、「これは赤い」と言いうるということを、説明できないことになる。

いま仮に、述語の<意味>を、普遍的な概念(心的なものであるか、客観的なものであるかを問わない)であるとしよう。この普遍的な概念、たとえば<赤さ>は、xが、<赤いものの集合>に属するかどうかを判定するときの基準となるだろう。この基準を言葉で表現することはできない。それはうまくいっても、せいぜい「赤い」の同義語を示すことでしかないだろう。しかし、求められているのは、同義語の意味を示すことである。そうすると、つぎのように文脈的定義を与えるしかないように思われる。<「赤い」(の意味)を理解しているとは、ある対象が赤いかどうかの判定ができる、ということである>、一般的にいうと<述語「x」(の意味)を理解しているとは、ある対象が<xの述定できる対象の集合>に属するかどうかを判定できるということである。つまり「これはxである」の真偽を判定できるということである>となるだろう。そうすると、ここに次のような一見すると循環に思われる事態が生じることになる。

(1)「これはxである」の真偽を判定するためには、「これはxである」の意味を理解しなければならない。

(2)「これはxである」の文の意味(内容)を理解するとは、「これ」が何を指示するか(つまり「これ」の内容)を理解するだけでなく、述語「x」(の内容)を理解していることである。

(3)述語「x」(の内容)を理解しているとは、「これはxである」の真偽を判定できるということである(上の文脈的定義による)。

しかし実際にはここに議論の循環はない。そのことを次に詳しく説明しよう。

 

(2)述語の学習段階

述語「x」の理解ができるようになるためには、「これはxである」「あれはxでない」「それはxである」などの文の真偽を教わることが、必要条件となるだろう。最初に教わるときには、このように「これはxである」という文を教わっても、これによって直ちに「x」の意味を充分に理解することはできないだろう。ただし、このような学習途中であっても、「これはxである」の文の意味は(部分的に)理解しているはずである。その場合の理解とは、「これはxとよばれるもの集合に属する」あるいは「これはxと呼ばれる(普遍的)性質をもつ」というような理解である。ここで、このような学習段階と習得段階の違いを明確に対比しておこう。

学習段階:あるコンテクストでのある発話「これは、赤い」や「これは赤くない」が真であることを学習する。つまり、個々の対象について、赤いか、赤くないかを教わるのである。この段階では、「赤い」の意味をまだ理解していない。つまり、何が<赤いものの集合>に属し、何が属さないか(あるいは、何が<赤い>という普遍的性質をもち、何がそれをもたないか)を判定できない。

習得段階:この段階では、「赤い」の意味を知っている。それゆえに、あるコンテクストでのある発話「これは、赤い」が真であるかどうかを知らなくても、その意味を理解することができる。つまり真理条件を理解することはできる。つまり、どのようなものが赤いものの集合に属し、どのようなものが赤いものの集合に属さないか(あるいは、何が<赤い>という普遍的性質をもち、何がそれをもたないか)を知っている。言い替えると、なにか対象が与えられれば、「それが赤い」が真であるか偽であるかを判定する能力がある。

 述語を理解するとき(すでに知っている述語によって定義できる述語を理解する場合を別にすれば)、われわれは、必ず上のような学習段階を通過しなければならないはずである。この学習段階では、ある述語を用いた文の発話の真理条件ではなくて、個々の発話の真偽を教えてもらう必要がある。ある発話の真理条件を知ることなく、その発話が真であることを知るとは、次のようなことである。つまり、その述語の意味を完全には知ることなく、またある対象がその述語が当てはまる対象の集合に属するかどうか(あるいは、ある対象が述語の示す普遍的性質をもつかどうかを)について判定する能力はないが、しかし、その述語に何らかの意味があり、それが真だと教えられた発話の主語の指示対象に当てはまる、と知ること、あるいは、その述語が当てはまる集合を理解してはないないが、その述語が当てはまる対象の何らかの集合があり、その集合の中に、真だと教えられた発話の主語の指示対象が属する、と知ることである。

この述語の学習段階は、対象を指示する場合に、<何を指示しているのかわからないが、何かを指示しようとしていることがわかる>という段階を前提する必要があるのとよく似ている。述語の学習段階で必要なのは、<対象について、何であるかよくわからないが、何かを述定しようとしている>ということを理解することなのである。(前述の指示についての議論では、このような説明方法をとらなかったが、指示についても学習段階について同様の説明方法が可能だろう。)

もし、ある語によって、対象について、<何であるかよくわからないが、何かを述定しようとしている>ということさえ伝えることができたならば、後はさまざまな対象について、それが妥当するかしないかを示すことによって、その語の意味を教えることができるだろう。学習段階において、あるコンテクストでのある発話「これは赤い」が真であることを教えられて、それを理解するとは、「これ」が指示している対象が、「赤い」が意味する(それが何かはよくわからないが)<普遍的な性質>をもつのだ、ということを理解することである。(この議論において、なにかわからないが何らかの普遍的性質をもつ、ということを理解することができるのは、幼児期における述定というものの学習を前提している。これをどのように説明することが出来るのか、いまの私には分からない。)

 

 主張伝達の不可避性

指示と述定について、それらは、それらの伝達を不可避にするメカニズムによって可能になる、ということを述べてきた。ところで、指示と述定は、独立の事柄ではない。単に指示だけを行うということは不可能であろう。述定もまた同様であり、何かを指示してそれについて何かを述定するのでなければ、われわれは述定を行うことは出来ないだろう。そこから、指示の伝達を不可避にするメカニズムと述定の伝達を不可避にするメカニズムはつねに共存するといえるし、さらにそれらはおそらく一つの事柄であろうという予測ができる。

ところで、指示と述定からなる命題行為についても、同じようなことがいえるだろう。つまり、我々は単に命題行為だけを行うことはできないのであって、主張することや命令することや宣言することなどを行うなかで、命題行為をおこなうのである。何からの発語内行為をすることなく、命題行為だけを行うことは不可能である。しかも、これは単に並存しているのではない。われわれは、たとえば、何かを主張するが、主張することは、何かを指示し、それについて述定することを含んでいる。指示や述定の伝達を不可避にするメカニズムは、同時に主張の伝達を不可避にするメカニズムでもあるはずである。なぜなら、指示も述定も命題行為と独立には成立せず、命題行為は主張などの発語内行為から独立には成立しないからである。ある文脈で指示の伝達が不可避になるということは、主張の伝達が不可避になるということを伴うはずである。上述の、指示の伝達が不可避になる事例や述定の伝達が不可避になる事例は同時に、主張の伝達が不可避になる事例として読むこともできる。

指示や述定の学習段階では、指示や述定が成立する以前に、たとえば何かを信じさせようとする発語内行為もまた伝わっているのである。指示や述定が成立して、あるいは命題行為が成立して、それを前提にして発語内行為が行われるということであるならば、上述のような指示や述定の学習過程は不可能である。指示や述定よりも発語内行為がより基底的なのである。たとえば、「ギャヴァガイ」についても、それが指示なのか述定なのか区別されていなくても、それを問い、それに同意したりしなかったりすることが可能になるだろう。

 

4 指示なしの意味論への疑念

デイヴィドソンは、意味論に「積木論的アプローチ」と「全体論的アプローチ」という二つのアプローチを区別する。「意味論の二つのアプローチがある。単純なものから出発し積み上げる積木方法と、複合的なものから出発し部分を抽出する全体論的方法である。」(注11

「積木論的アプローチ」とは、「固有名と単純な述語についての意味論的特性を直接に説明することによって、われわれは複合的単数名辞、複合的な述語の指示を説明することに進むことができるだろう。われわれは、充足を特徴付けることができ、最後に真理を特徴付けることができるだろう。」(注12というようなアプローチである。つまり、単純な語による指示と述定を説明し、それによって、より複雑な語句による指示や述定を説明し、さらに述定の充足、発話の真理を説明するというアプローチである。そしてこの積木理論を批判して、彼は、語の意味は文の意味から説明されるのであって、逆ではないと指摘する。

「語は、それらが文の中である役割を演じることを以外にいかなる機能ももたない。語の意味論的特徴は、文の意味論的特徴から抽象されるのである。それは、丁度、文の意味論的特徴が、人々が目標に到達したり、意図を実現したりするのを助けるときの文の役割から抽象されるとの、同じである。」(注13

「「キリマンジャロ」という名前が、キリマンジャロを指示するなら、そのときには疑いなく、英語の話し手と、その語と、その山とのあいだに、ある関係がある。しかし人がこの関係を 文の中でのその語の役割を最初に説明しないで、説明することができる、ということは考えられない。そして、もし、こうだとすると、非言語的用語で直接に指示を説明するチャンスはない。」(14)

ここでデイヴィドソンは、積木理論を否定するために、語による指示を教えるときに、我々が文を使用するという事実を指摘している。つまり、語による指示は文の理解に依存しているということである。これは、ある意味での文の理解に関しては、正しい。しかし別の意味での文の理解は、やはり語による理解を前提するのである。それを以下で説明したい。

たとえば「キリマンジェロ」という固有名を教えるために、指さし行為をしながら、次のような文が発話されたとしよう。

「あの山がキリマンジェロだ」

聞き手は、それまでの語の学習から、「あの山」と指差し行為から、それが何を指示しているかを理解できたとしよう。しかしこれだけでは、聞き手は「キリマンジェロ」は、「大きい」とか「高い」とか「遠い」というような形容詞だと思うかもしれないし、「大きな山」を意味する一般名だと思うかもしれないし、「そびえる」というような動詞だとおもかもしれないし、そして形容詞か、名詞か、動詞かわからないが、とにかく対象について何かを述定しているのだと思うかもしれない。つまりこれだけでは、聞き手は、「キリマンジェロ」がある対象を指示する固有名であることを、理解することができない。これを理解するには、「あの山がキリマンジェロだ」という文が、真であるということを教えるだけでは不充分である。キリマンジェロが、固有名であり、それがどの対象を指示しているのか、を知るまでは、「あの山がキリマンジェロだ」という文の、真理条件をしることはできないだろう。つまり、その文を理解しているとはいえないだろう。たとえば、別の山を指して、「あの山はキリマンジェロか」と尋ねることを繰り返して、ある山を指示しているときにだけ「あの山はキリマンジェロだ」という文が真になることを確認しても、それでは、まだ不充分だろう。たとえば、「私の好きな山」「一番高い山」などの述定である可能性を排除できないだろう。

「あの山はキリマンジェロだ」という文の真理条件を知るには、「キリマンジェロ」を用いた別の文の真理値を知る必要があるだろう。もっとも役立ちそうなのは、「「キリマンジェロ」は山の名前だ」という文が真であると知ることである。聞き手が「山の名前」という語をすでに理解しているならば、「「キリマンジェロ」は山の名前だ」と教えられたならば、「キリマンジェロ」がある山の固有名であることを理解できるかもしれない。

もし、この文「「キリマンジェロ」は山の名前だ」ということだけを聞いたならば、そのときには、これは多義的である。たとえば、「キリマンジェロ」は、「山の名前」という名詞句と同義の一般名(たとえば、「大雨」が「大量の降雨」とほぼ同義の一般名であるように)だと思おもわれる可能性もある。

ただし、ある山を指差しながら、「あの山がキリマンジェロだ。「キリマンジェロ」は山の名前だ」といわたならば、聞き手が、「あの山」や「山の名前」という語の意味をりかしており、「SPだ」という形式の構文規則を理解しているのならば、「キリマンジェロ」が固有名であり、どの山を指示しているのかを理解することができそうである。

このような理解ができるようになったときにのみ、「あの山がキリマンジェロだ」という文(の発話)の真理条件をわれわれは知っているといえるだろう。つまり、語の指示を教えるためには、文を用い、その文の意味を理解し、それが真であるということを理解することを、必要とするのだが、この段階では<文の意味の理解>はまだ不充分である。つまり真理条件を理解しているとはいえない。つまり、「あの山がキリマンジェロだ」という文の真理条件を理解するには、「キリマンジェロ」という語(をもちいた文)に関する問答を重ねる必要がある。

語を理解するとは、その語を使ったさまざま文を使用できるようになるということであろう。それゆえに、ある文の意味は、他の文の意味に依存しているといえるだろう。文の意味は、さまざまな文の網の目の中で成立するが、その網の目をつなぐのは、語の意味であり、その語を用いた問答である。デイヴィドソンの理解では、文はその真理条件は理解できるが、その内部構造についてはよくわからないブラックボックスのようである。しかし、内部構造がわからなければ、真理条件を理解することもまた困難である。真理は、デイヴィドソンのいう二つのアプローチの中間にあるのではないだろうか。

 

第三節 発話伝達の不可避性と相互知識

 

 指示や述定や発語内行為を不可避にするメカニズムの一つは、上に見たように相互知識であった。ここでは、相互知識を発話の成立条件と考えたシファーの意味論を分析して、発話伝達の不可避性の分析をおこないたい。

 

1 グライス意味論の改良

(1)グライス意味論とその改良1:シファーによる「相互知識」の提案

主張するとはグライスの意味論によれば、次の3条件を満たすことである。(注15

  ①S(speaker)は、A(addressee)がpを信じることを意図1する

  ②Sは、AがSの意図1を認知することを意図2する。

  ③Sは、AがSの意図1の認知を理由にして、pを信じることを意図3する。

グライスのこの3条件の主張は、ストローソンとシファーからの批判を請けることになった。シファーは、つぎのような修正案を提案した。(注16

 <Sが、xの発話によって、何かを非自然的に意味する>のは、次の3条件が充たされる場合である。

  (1)Sが、Aの中に反応rを生み出すことを意図1する。

  (2)Sが、意図1をAが認知することを介して、意図2を実現することを意図する。

  (3)Sが、(1)と(2)が相互知識になることを意図3する。

念のためにいうと上述のグライスの条件②は、(1)が相互知識なることを意図するという(3)の中にふくまれるている。

ちなみに、シファーは、「相互知識*」を次のように定義している。(注17

  「K*SAp」=df.「SとAが、pを相互に知っている*

とすると、次のように言うことが出来る。

   K*SAp iff

   KSp [Sがpを知っている]

   KAp

   KSKAp¥

   KAKSp

   KSKAKSp

   KAKSKAp

   KSKAKSKAp

   KAKSKAKSp

           

           

この「相互知識」概念には、さまざまな批判が向けられているが、その検討は、後に回したい。

 

(2)グライスの意味論の改良2:条件③の分析

次に、シファーのいう条件(2)(グライスのいう条件③)を分析して、より明確なものに定式化しなおすことを試みよう。この条件(2)には曖昧なところがある。それは、「認知を理由にして」というところである。グライスが挙げている次の事例を考えてみよう。yがxにxの妻の浮気を信じさせようとして、浮気場面の(写真ではなくて)yが描いた絵を見せたとしよう。もしxがyの描いた絵をみて、妻の浮気を信じるとするならば、xは、yの意図1の認知を理由にして、そう信じたのである。このプロセスをさらに分析するならば、おそらくxはここで次のように考えたのである。このとき、xは、<もしyがそれを真だと考えていなければ、yはそのようなことをするはずがいない>と考えた。そしてさらに、xは、<もしyがそれを真だと考えているのだとすれば、それはおそらくは真なのである>と考えたのである。

 この事例から一般化して説明するならば、次のようになるだろう。条件(2)のなかの、「聞き手が意図1の認知を理由にして」とは、

「聞き手が、次のように、つまり、

Sは私がpを信じるように意図している、(Sの意図1の認知)

もしSが私がpを信じるように意図しているのならば、Sはpを真であると思っているのであろう。(Sの誠実性への信頼)

もしSがpを真であると思っているのならば、pはおそらく真であろう。(Sの判断力への信頼)

ゆえに、pはおそらく真であろう。            

と、推論することによって」

と言い替えられるだろう。つまり、ここでは、聞き手が、話し手の意図1を認知すること、話し手の誠実性を信頼すること、話し手の判断力を信頼すること、という3つの前提に基づいて、pを信じるという結論が導かれているのである。逆に言うと、我々が、Sの主張にもかかわらず、pを信じないときには、

   Sの誠実性への信頼

   Sの判断力への信頼

このうちの一つないし両方が欠けているのである。

では、主張以外の命令や約束の場合にはどうなるだろうか。命令の場合を考えてみよう。このとき、条件(2)は、たとえば「Sは、Aが意図1の認知を理由にして、rを行うことを意図3する」となるだろう。このなかの、「Aが意図1の認知を理由にして」とは、

「聞き手が次のように、つまり、

    Sは、私がrすることを欲している、(意図1の認知)

もしSは、私がrすることを意図するのであれば、Sは私が(私にとってであれ、

彼にとってであれ、他の誰かにとってであれ)望ましい(必要だ)と誠実に

考えているのであろう(Sの誠実性への信頼)

もしSが、誠実に私がrすることが望ましいと誠実に考えているのならば、私が

rすることが望ましいのであろう、(Sの判断力への信頼)

ゆえに、私がrすることが望ましいのであろう、

と、推論することによって」

と言い替えられるだろう。この推論の部分をすべての発話内行為に妥当するように一般化すればこうなるだろう。

  Sは、私が反応rをおこなうことを意図1している。

  Sが、私が反応rをおこなうことを意図1するのならば、Sは私が反応rを行うことが

望ましいと誠実に考えているのであろう。(Sの誠実性への信頼)

  Sが、私が反応rを行おうことが望ましいと誠実に考えているのならば、私が反応r行

うことは望ましいのであろう。(Sの判断力への信頼)

ゆえに、私が反応rを行うことは望ましいのであろう。

以上の分析を取り込んで、条件(2)をより明確に言いなおすならば、次のようになる。

  条件(2’):Sは、Aによる意図1の認知とSの誠実性と判断力への信頼に基づいて、Aにある反応rが生じることを意図2する。

以上をまとめると3条件はつぎのようになる。<Sが、xの発話によって、何かを非自然的に意味する>のは、次の3条件が充たされる場合である。

  (1)Sが、Aの中に反応rを生み出すことを意図1する。

   (’) Sは、Aによる意図1の認知とSの誠実性と判断力への信頼に基づいて、Aにある反応rが生じることを意図2する。

  (3)Sが、(1)と(2)が相互知識になることを意図3する。

この3条件は、話し手が相手に何かを告げたといえるための充分条件である。なぜなら、ある提案された条件を満たしていても、話し手が相手に何かを告げたとはいえない事例の指摘をふまえて、条件を修正する作業の結果、<これらの条件を満たしているにもかかわらず、話し手が相手に何かを告げたのだとはいえない事例は存在しない>といえるような条件としてたどり着いたのが、この3条件であるからだ。つまり、この3条件が成立するならば、話し手が何かを告げるということが成立しているのである。これを「発話成立の充分条件」と呼ぶことにしたい。

 

2 発話成立の充分条件と発話伝達の不可避性の条件

 さて、この分析を参考にして、主張の不可避性を分析しよう。この「発話成立の充分条件」が満たされたとしても、話し手が何かを発話し聞き手に伝達することが成功するとはかぎならない。例えば、これらの条件が満たされていても、聞き手が話し手の上記の3つの意図のうちのいずれかを実際に認知していなければ、発話は聞き手に伝達されないだろう。また逆に、「発話成立の充分条件」が満たされていなくても、発話の伝達が成立することがある。しかも単に成立するだけでなく、それが不可避になる場合がある。それは次の条件が満たされた場合である。

発話伝達の不可避性の条件:

SAが、<Aが次の(1)(2)(3)を予期する>ことを相互予期すること

()Sが、Aの中に反応rを生み出すことを意図1する。

() Sが、Aによる意図1の認知とSの誠実性と判断力への信頼に基づいて、Aにある反応rが生じることを意図2する。

     (3)Sが、(1)と(2)が相互知識になることを意図3する。

この条件が成立していれば、たとえ実際に<発話成立の充足条件>の3つすべてが成立していないとしても、話し手は何かを発話しそれを伝達したことになってしまう。たとえば、主張の場合、<話し手が、聞き手がpを信じることを意図1しておらず、また、聞き手が、その意図1の認知と話し手の誠実性と判断力への信頼にもとづいてpを信じることを意図2しておらず、これらの意図1と意図2が話し手と聞き手の相互知識になることを意図3していない>としても、<これらの意図1と意図2が話し手と聞き手の相互知識なっている>とするならば、そのときには、聞き手は、話し手が意図1と意図2をもっていると考えており、話し手はそのことを知っており、聞き手はさらにそのこと知っている・・・というような関係が成立している。このときには、話し手が、その相互予期を訂正しない限りで、話し手は、pを主張したことになってしまうだろう。このような相互予期が成立しているのに、話し手がpを主張ないとすれば、話し手は話し手への信頼を知りながら、それを裏切っていることになるだろう。もちろん、通常の会話では、話し手は、もし意図1や2を持っていないのに、そのような相互予期が成立すると考えたときには、それを訂正するだろう。そして、このように訂正するように迫れているということは、主張の伝達の不可避性が成立しているということの証である。次節では、この相互予期および相互知識の明確な定義にとりくみたい。

 

              第四節 相互知識と共有知

 ここでは、上のメカニズムをより明確に分析するために、相互知識と相互予期についての再定義を試みたい。もちろん、以下に提案する再定義は、現在の我々のトピックに限らず、これらを考えるときに一般的に妥当するものと考えている。

 

1 相互知識の従来の定義

(1)シファーによる定義の問題点

シファーによる相互知識の定義は、前述のとおりであるので、ここでは定義を省略する。この「相互知識」概念には、次のような問題がある。

問題点1:知の無限の階層は人間には不可能であり、せいぜい5、6階の知までしか可能ではない。

問題点2:相互知識をシファーのように定義するかぎり、そのような相互知識は現実には存在しない。なぜなら、相手がある知をもつことについて予期するのではなく、知っているというためには、相手がその知をもっていることの証拠が必要であるが、そのような証拠を無限につづく知の階層のおのおのについて持つことは不可能だからである。

 

(2)相互知識から相互予期への修正とその問題点

我々は、上記の問題点を克服するものとして、「相互予期」を考えることができる。相手がある知をもつことについて、我々がその知を実際に確認していないとき持つことができるのは、相手の知の知ではなくて、相手の知の予期である。そして、さらにその予期の予期というような階層であれば、われわれは、相手の予期の存在を実際に確認しなくても、多くの階層の(もちろん心理学的に可能な範囲での)予期の予期を持ちうる。つまり、上のシファーの定義のある段階からKKnowledge)をEExpect)に置き換えるのである。どの段階からになるかは、個々の状況で異なるだろう。ただし、このような「相互予期」概念にも次のような問題点が残る。

問題点1:知識を予期に替えたところで、無限の階層の予期をもつことはできない。

問題点2:一方的な予期の可能性。つまり、私が、相手の予期aを予期bしているとしても、相手が予期aしているという保障はない。私が一方的に予期しているだけかもしれないのである。そうすると、相互予期が成立しているのではなくて、相互予期が成立しているだろうという一方的な予期が成立しているに過ぎないことになる。

 

2 相互知識の再定義

(1)「実在知」とは何か

 我々が、日常生活で魚を食べるときに、魚そのものを見ており、見えている魚そのものを食べるのだと思っている。見えているのは、魚の知覚像であるとか、魚の知覚像が皿の知覚像の上にあり、それを箸の知覚像で挟んでみよう、などとは考えない。(仮にこのように考えて生活している現象論者がいても、議論には差し支えない。もっとも「上にある」や「挟む」という関係も知覚内容であるので、現象論者はもう少し違った風に考えるだろう)このような日常生活において、我々は知覚(知)と対象(実在)を区別していない。このような知を、かりに「実在知」と呼ぶことにしよう。(もちろん、ある知を「実在知」と呼ぶ者にとっては、そのときそれは、もはや実在知ではない。したがって、人は自分の過去の知を「実在知」だった、と語るのか、あるいは他者の知について、それが彼にとって「実在知」である、と語ることができるだけである。)

 たとえば、いまいる部屋のドアの向こうに廊下があることは事実であるが、わたしはそのことを知として意識しているわけではない。これもまた「実在知」といえるだろう。そして、仮にこのようにその知が推論によって得られたものである場合にも、推論によって得られた知であることが意識していないとき、このような知を、実在=知であるような知という意味で「実在知」と呼ぶことができる。(もちろん、ある知を「実在知」と呼ぶ者にとっては、それはすでに実在=知であるような知ではない。)

 

(2)共有知とは何か

 先ほどの話の続きである。日常生活では、私は食卓の魚そのものを見ており、魚そのものを箸でつついている。向かいに座っている子供にもその魚そのものが見えている、と私は思っている。つまり、対象そのものが他者に見えている。つまり、私が見ている魚と子供が見ている魚は同じ魚である。一匹の大きな鯛を二人でつついているのだとすると、私が箸でつついている魚と子供が箸でつついている魚は、当然同じ魚である。

つまり、魚(魚の知=実在)をわたしと子供は共有している。私の知(実在知)は、子供の知(実在知)である。

このような知を「共有知」と呼ぶことにしたい。(この場合、「実在知」は「共有知」である。「実在知」と「共有知」は、知の性格を表現する言葉であるので、ある知が、実在知であり、かつ共有知であることは、問題ない。)日常生活では、それが「共有」されている(わたしと子供が同じ魚を見ている)とは思っているが、それが「知」であるとも、ましてや「共有知」であるとも思っていない。(もちろん、この場合にも、ある知を「共有知」と呼ぶ者にとっては、そのときそれは、もはや共有知ではない。したがって、人は自分の過去の知を「共有知」だった、と語ることができるか、あるいは他者の知について、それが彼にとって「共有知」である、と語ることができるだけである。)

 

(3)実在知と共有知の関係(実在知の一部が共有知である)

 私が食堂で一人で魚を食べているとき、魚があることは、実在知であっても、共有知ではない。このように、すべての実在知が、共有知なのではない。しかし、すべての共有知は実在知である。共有知は、「共有」していることは意識していても、それが「知」であることは意識されていないようなものである。

もし、それが知であると意識されたとすると、そのとき、私の知と他者の知が一致していると考えられているような知、あるいは、私と他者が同じ知をもつのだと考えられているような知であることになるだろう。このような段階の知と、それ以前の段階の知には、大きな違いがあるので、これを明確に分けて、「知」であることを意識していない段階のものだけを「共有知」と呼ぶことにしよう。そうすると、「共有知」は「実在知」の一部に限られることになる。

 

(4)相互知識の定義

 上記のような「共有知」は、知として意識されていない知であるが、これに対して知として意識された知であるが、同時に複数の人間に共有されている、と言えるような知が存在する。このような知を「相互知識」と名づけるとき、これをまず次のように定義できるだろう。

「pがxとyの相互知識である」とは、まず、次の3条件を満たしていることをいう。

(ア)xがpを知っている。(ただしこの知は共有知ではない)

(イ)yがpを知っている。(ただしこの知は共有知ではない)

(ウ)(ア)と(イ)がxとyの共有知である。

 次に、ある相互知識が、「xはpを知っており、かつyはpを知っている」という内容である場合には、そのpもまたxとyの相互知識であるとしよう。

xとyがそこにいることが事実であるのと同じように、(ア)と(イ)が二人にとって事実(実在知)であり、しかし、そのことが知であるとは意識されていない場合に、この(ア)と(イ)は二人の共有知である。このときのpをxとyの相互知識と呼ぶことにすれば、コミュニケーションにおいて要請される「相互知識」をうまく定義できるだろう。

この定義をより明確に説明するために、例を挙げて説明しよう。xとyが机をはさんで向かい合わせに座っており、その机の上に蝋燭があるとしよう。このとき、通常は、つぎの三つが成立しているといえる。

(ア)xが、机の上に蝋燭があることを知っている。

(イ)yが、机の上に蝋燭があることを知っている

(ウ)(ア)と(イ)がxとyの共有知である。

このような場合、通常、xにとってもyにとっても、<机の上に蝋燭があること>は事実であって、知とはとくに意識されていない、つまりこれは実在知=共有知である。さらに、xにとってもyにとっても、<相手が机の上に蝋燭があることを知っていること>もまた、(我々から見てそれが推論の結果得られる知であるとしても)自明な事実であって、知であるとは意識されていないことであり、実在知=共有知である。この場合には、上の定義からすると、「机の上に蝋燭がある」はxとyの共有知であって、相互知識ではない。

もしここにzがやってきて、「机の上に蝋燭があるね」とxとyに告げたとしよう。このとき、xとyの二人にとって「机の上に蝋燭がある」は確実に知となるだろうし、相手がそのような知をもつようになることは、zがそこにやってきたことと同様に、xとyにとっては自明の事実であろう。そこで、次の3つが成立しているといえる。

(ア)xが、机の上に蝋燭があることを知っている。

(イ)yが、机の上に蝋燭があることを知っている

(ウ)(ア)と(イ)がxとyの共有知である。

この場合には、「机の上に蝋燭がある」ことをxとyは知っており、これは彼らにとっては知として意識された知である。そして、xにとって、yがそのことを知っていることは、yがそこにいることと同様の事実であり、実在知=共有知であるとおもわれる。yにとっても同様であろう。ここでは、「机の上に蝋燭がある」ことは、xとyの相互知識である。

もう一つの場合を考えよう。zがやってきて「この蝋燭はネパールのお土産かもしれないよ」とxとyに告げたとしよう。このとき通常は、次の三つが成立する。

(ア)xが、机の上の蝋燭がネパールのお土産であるかもしれないと知っている。

(イ)yが、机の上の蝋燭がネパールのお土産であるかもしれないと知っている。

(ウ)(ア)と(イ)がxとyの共有知である。

ここでは、<机の上の蝋燭がネパールのお土産であるかもしれないこと>がxとyの相互知識になっている。この()()の「知っている」は、むしろ「思っている」というほうがより正確なのかもしれないが、日本語の日常の使用法では、この種の用法に明確な区別をすることは困難であるので、ここでも、「知っている」を広い意味で用いることにする。

さらにここで、相互知識の定義を拡張して、ある相互知識が、「xはpを知っており、かつyはpを知っている」という内容である場合には、その内部の「p」もまたxとyの相互知識であるということにしよう。すると、つぎのように定義できるだろう。

「pがxとyの相互知識である」とは、次の()()()3条件を満たしている場合か、あるいは()の条件を満たしている場合、のどちらかに限る。

(ア)xがpを知っている。(ただしこの知は共有知ではない)

(イ)yがpを知っている。(ただしこの知は共有知ではない)

(ウ)(ア)と(イ)がxとyの共有知である。

()「xはpを知っており、かつyはpを知っている」が、xとyの相互知識である。

この定義の優れている点として、とりあえず次の3点をあげることができる。

長所1:共有知には、メタレベルというものがないので、無限の階層の知を想定する

必要がない。

長所2:我々は必要に応じて、共有知を知として反省することが可能なので必要な階

層の知の成立を説明できる。(もちろん、知として反省されたときには、共有知は、我々の定義する相互知識になる。)

  長所3:知の共有をめぐる複雑で微妙なケースを分析するときに、共有知と相互知識を区別しておくことが、分析の道具立てとして有用である。

これらの長所によって、上述の問題点はすべて解決できるだろう。長所2については、説明が必要だろう。問題は、<共有知が知として反省されたときに、我々の定義する相互知識になるのかどうか>という点である。共有知とは、知であることが意識されていない実在知であるがゆえに、共有されているものである。たとえばxにとってpが共有知であるとき、xは「pが共有されている」と思っているが、しかし「私はpが共有されていると思っている」とは思っていない。

ところで、このpが 知として反省ないし意識されるとき、それはxが「私はpを知っている」と思うということであろう。これによって、xが「pは私の個人的な知である」と考えるのならば、このpはもはや共同性を持たなくなり、この共有知pによって成立していた相互知識も、個人的な知になるだろう。つまり、相互知識だとおもっていたものも、よく考えてみれば、私が個人的にそのように考えていたに過ぎなかった、というわけである。

しかし、xが共有知pを知として反省するとき、つぎのようなケースも考えられる。xがq「私はpを知っており、yもpを知っている。私とyは共にpを知っている」と考えるケースである。このとき、xにとって、qは、自分とyがそこにいることとと同じように、自分にもyにも自明な事実であるのならば、xとにとってqは共有知である。yにとっても同様であるとすると、前述の条件()により、かつての共有知pは相互知識となる。

つまり、共有知を意識するときに二つの方向があり、一つは、共有知であったものを知として意識するのが、とりあえず個人としての私であり、それゆえにその知は個人の知として理解される。もう一つは、共有知であったものを知として意識するが、その知があることは二人(あるいはそれ以上の人間)に自明のことであり、その知を再び共有知として捉え返すことである。前者は近代以後の哲学にはなじみの考えであるが、後者は判りずらかもしれないので、もう一度説明しよう。共有知pをもつとき、xは「pが共有されている」と思っている。ただし、xが「私もyもpを知っている」とは思っていない。なぜなら、pを知だとは意識していないからである。ここで、共有知を知としている反省するとは、xが「私もyもpを知っている」ことに気付くことである。ここでの気付き方に二つの方向がある。後者は次のような場合である。「私もyもpを知っている」ということにxは気付くが、「私もyもpを知っている」ことは、xにもyにも自明のことであるとxがおもうとき、xにとって「私もyもpを知っている」ことは共有知である。これに対して、前者の場合には、「私もyもpを知っている」といことに気づき、その気づきが個人のものだと気付くのだから、そのときxは、「私は、「私もyもpを知っている」ということを知っている。しかし、yはそれを知っていないかもしれない。」と考えるのであろう。しかし、もしこのようにyの知を疑うのであれば、最初の「yがpを知っている」についても、おそらく彼は疑うことになるだろう。「「私もyもpを知っている」と私は思っていた」と改めるかもしれない。

 

 以上を踏まえて、再定義された相互知識と共有知の相違点を再確認しておきたい。

相違1:共有知は、知として意識されていない知であるが、相互知識は、知として意識

された知である。

相違2:共有知は、事実だと考えられている知なので、真だと見なされている知である。

これに対して、相互知識は、真だと見なされていない場合もある。

この相違2を説明しよう。たとえば、もはや古くなったある理論tがある分野の科学者によく知られているとしよう。たとえば、その分野の科学者xとyが会話しているとき、彼らにとって、xもyもその理論を知っていることが自明なじじつであるとき、そのことは共有知になっている。したがって、上の定義により、この場合の理論はxとyの相互知識であることになる。しかし、彼らはそれを真理であるとはおもっていない。

 もちろん、このとき彼らが知っており、相互知識になっているのは、「理論tは・・・・・・という理論である」という知なのであって、理論tそのものを構成する命題ではない。そして、「理論tは・・・・・・という理論である」という知は、この場合も、両者にとって真理である、ということができる。また、その方が厳密な思考法であるようにもおもわれる。しかし、ここでは、「知っている」を広い意味で用いて、理論tそのものを構成する命題についても、xとyはそれを知っているといえることにして、それを相互知識に含めることにしたい。このように「知っている」ないし相互知識を広く定義するのは、この間に厳密な境界線を引くことが非常に難しいからである。

 

(5)相互予期の再定義

以上の説明を踏まえて、「相互予期」の再定義を行いたい。

「pがxとyの相互予期である」とは、次の()()()の3条件が満たされている場合か、あるいは()の条件が満たされている場合か、のいずれかに限る。

(ア)xがpを予期する。

(イ)yがpを予期する。

(ウ)(ア)と(イ)がxとyの共有知である。

(エ)「xがpを知っているか予期しており、かつ、yがpを知っているか予期している」がxとyの相互知識であるか相互予期である(この場合、少なくともどこか一箇所が、知(知識)ではなく、予期になっていること。もしそうでなければ、相互知識となる。)

先に相互知識の定義での「知っている」を広い意味で理解することにしたので、ここでの「予期する」とそれとの境界もまた曖昧なものになるだろう。しかし、日常語の語感からして、「相互知識」よりは「相互予期」とするほうが好ましい事例はたくさんあるので、境界は曖昧だが、区別はあると考えて、この形式的な定義を与えておく。

この定義によって、先に述べた相互予期の概念の問題点1「無限の階層の予期をもつことはできない」については、解消したといえるだろう。では、問題点2についてはどう考えたらよいだろうか。それは、相互予期が成立しているのではなくて、相互予期が成立しているだろうという一方的な予期が成立しているに過ぎない、という可能性がつねにのこるということであった。この問題は、つぎのように解決できるだろう。

上述の定義によれば、次の()()()の3条件が満たされている場合には、xとyにとってpが相互予期である。

(ア)xがpを予期する。

(イ)yがpを予期する。

(ウ)(ア)と(イ)がxとyの共有知である。

ところで、この場合にxは、「xとyにとってpが相互予期である」ことを知として意識していない。なぜなら、「xがpを予期する」という共有知は知として意識されていないからである。この共有知が知として意識されて、しかもそれが前述のように、個人の知として意識されるのではなくて、共有知になるとするとしよう。つまり「xが「xとyがpを予期している」が知り、yもそれを知っている」ということが共有知になるとしよう。このとき、相互知識の定義によって、「xとyがpを予期している」はxとyの相互知識になり、相互予期の定義の条件()によって、pはxとyの相互予期となる。

 しかし、前節で述べたように、共有知が知として意識される仕方には、二通りある。つまり、()の共有知が知として意識され、しかもそれが個人の知として意識されることがありうるのである。その場合には、xは「私もyもpを予期している」といことに気づき、その気づきが個人のものだと気付くのだから、xは、「私は、「私もyもpを予期している」ということを知っている。しかし、yはそれを知っていないかもしれない。」と考えるのであろう。そしてさらに、「最初の「yがpを予期している」についても、私の個人的な予期に過ぎないのかもしれない」と疑うかもしれない。

 相互知識の場合にも、相互予期の場合にも、同様なのだが、根底に想定される共有知を反省したときに、それが単なる個人の知であると見なされる可能性がある。そうすると、相互知識にせよ、相互予期にせよ、一方のものがそのように考えており、相手がそのように考えているかどうかは、不明であることになる。そして相手もそのように考えているとしても、二人がそのように考えていることは、もはや共有知ではないのだから、この場合には、共有知や相互知識は崩壊する。私は、このような独我論的ないし個人主義的な反省が正しいのか、あるいは共有知が真に存在しているのか、という問題にここで答えることはできない(そのためには、問題そのものが正しく設定されているのかどうかを含めて、問題をさらに吟味しなければならない)。ここで言いたいことは、日常生活での滑らかなコミュニケーションを分析するならば、我々が(それが真であれ、誤りであれ)このような共有知、相互知識、相互予期をもっているということ、言い換えると、これらが日常のコミュニケーションを記述するための有効な概念であるということである。

 

さて、「発話伝達の不可避性の条件」がどのように表現できるか確認しておこう。それは次のようなものであった。

発話伝達の不可避性の条件:

SAが、<Aが次の(1)(2)(3)を予期する>ことを相互予期すること

()Sが、Aの中に反応rを生み出すことを意図1する。

() Sが、Aによる意図1の認知とSの誠実性と判断力への信頼に基づいて、Aにある反応rが生じることを意図2する。

     (3)Sが、(1)と(2)が相互知識になることを意図3する。

前述の「相互予期」の定義をもちいて、この条件を表現するとつぎのようになる。

 発話伝達の不可避性の条件:

(a)Sが、<Aが上の(1)(2)(3)を予期する>ことを予期する

(b)Aが、<Aが上の(1)(2)(3)を予期する>ことを知る

(c)()かつ()」がSAの相互予期である。

となるだろう。(ちなみに、これは「相互予期」の定義の「()の条件」を満たす場合である。なぜなら、()()()の3条件をそのまま当てはめることができないからである。)

 

3、「誤信念問題」による相互知識の成り立ちの分析

 ここで、自閉症児の研究など発達心理学の分野で有名な「誤信念問題」をもとに、相互知識の成り立ちを別の角度から考えたい。まず「誤信念問題」とはつぎのようなものである。

「マキシは、チョコレートを緑のタンスの中に入れる。次に、マキシが見ていないところで、他の人間が、そのチョコレートを青のタンスに移してしまう。そこにマキシが戻ってくる。このような「お話」を被験者の子どもに聞かせたあと、被験者の子どもにこう質問する。「マキシはどちらの色のタンスにチョコレートをとりに行くかな?」この実験結果によると、正しく「緑のタンス」と答えた割合は、3−4歳の子どもでは0%、4−5歳では、57%、6−9歳では86%であった。つまり、4歳以下の子どもでは、マキシという他者の知識の世界を正しく推測できなかったことになる。」(注18

ふつうの大人からみれば驚くべきことに、3−4歳の子供は、マキシが誤った信念を持つことを予測できず、子供はマキシが自分と同じように考えると思うのである。これは、自分の知っていることとマキシの知っていることの区別がつかないということである。つまり、この段階の子供は、自分の知っていることを、他の人も知っていると考えている。彼の知は、我々のいう「共有知」なのである。

ここで、この話を少し変化させよう。たとえば、マキシのお話を舞台で上演したものを二人の子供xとyが並んでみているとしよう。つまり、舞台の上にマキシが登場して、チョコレートを緑のタンスに入れて、舞台から出て行く。そのあとに他の人間が舞台に現われて、緑のタンスの中からチョコレートをとりだして、青のタンスに入れて、舞台から出て行く。そこにマキシが再び登場する。これを見ているxとyはすでにマキシが間違った信念を持っていることを予測できるとしよう。xは、<マキシは、緑のタンスにチョコレートがあると考え、一緒に見ていた子供yは、青のタンスにチョコレートがあると知っている>と考えるだろう。yも同様に考えるだろう。このとき、<青のタンスの中にチョコレートがあること>は、彼らxとyにとっての事実であり、一緒に見ている相手もそれを知っていると考えることだろう(我々大人も、日常生活では、そのように考えるだろう)。これは、<舞台がそこにあること>が、彼らxとyにとっては事実であり、一緒にいた相手の子供も当然それを知っている、と考えるのと同様のことである。xとyにとって、<青のタンスの中にチョコレートがある>ことは、共有知である。

このとき、第三者が、「マキシはチョコレートがどこにあるとおもっていますか」とxとyに尋ねたならば、xとyは正しく答えるだろう。そして、そのとき、<マキシは青のタンスの中にチョコレートがあることを知らない>ということとの対比によって、<xとyの二人は青のたんすの中にチョコレートがあることを知っていること>ことにxとyは気付くだろう。このとき、「青のタンスの中にチョコレートがある」ことは、xとyの「相互知識」になっている。

このように、知を知として共有していることの意識は、自分の知と他者の知が同一であろうという推論によって成立するのではなく、共有知や相互知識を限定してゆく中で成立するのではないだろうか。この場合でいえば、<青のタンスの中にチョコレートがあること>は、最初は、xとyとマキシの知としてすら意識されていない共有知であるのだが、次にマキシはそれを知らないことに気付くことによって、xとyだけの明確に限定された相互知識となるのである。

もし現実と知が区別され、したがってまた、自分の知と他者の知が区別されているということを出発点にすると、自分の知と他者の知の一致というのは、単に内容が一致する二つの知、共通の知である、という仕方でしかありない。それでは、日常においてスムーズ行われているコミュニケーションを説明することはできないだろう。第三者から見て本当はどうであるかを別にして、少なくとも当人には、二つの知の内容が一致しているのではなく、目の前の机を共に見ているのと同様に、同一の知を共有しているという意識を想定しなければ、滑らかなコミュニケーションを説明できないのである。これを可能にするのは、個人の知が一致することによって、共通の知が形成されるのではなくて、共有知が限定されることによって、特定の個人間に相互知識が成立するとかん賀が得るのがよいだろう。私は、日常的な意識にとっては、このような共有知や相互知識のほうが、私的な意識や自己意識よりも的であると考える。そうだとすれば、(哲学的独我論者の自己意識については留保するとしても)日常生活での極ありふれた私的な意識というものは、むしろ日常的な共有知や相互知識の限定によって成立するのではないだろうか。

主張などの発語内行為の伝達もまたこのような共有知や相互知識によってすでに生じており、また生じることが不可避になるのである。主張などの発語内行為を話し手が意図するということは、このような共有知や相互知識が限定される中で、明確になり、自覚されることになるといえるだろう。(注19

 

第四節 伝達の不可避性と問答

 

1、伝達の不可避性と問答関係

まずこれまでの議論をまとめよう。聞き手が、<話し手の「発話成立の充分条件」である3つの意図をもっていること>を予期している、ということが、聞き手と話し手の相互予期になることによって、発話の伝達が不可避になるのである。聞き手がその言語を習得している場合には、言明を構成する語の意味や文法規則を知っており、そこから主語の発話が何を指示するのか、述語の発話が何を述定しているのか、またその発話がどのような発語内行為を行うのか、を理解できるだろうし、そのような理解を、聞き手と話し手は相互に予期できるだろう。そして、この予期によって、指示や述定や発語内行為が不可避になるのである。

もし、聞き手が、その言語を知らない場合、あるいは言語の学習段階の幼児である場合には、指示や述定や発語内行為を明確に理解することができない。しかし、その場合にも、もし、何かを指示しようとしていること、何かを述定しようとしていること、何かを(たとえば)主張しようとしていること、の理解にもとづいて、さまざまな手がかりをもとに、指示対象や述定内容や主張内容などを特定してゆくことが可能になるのである。この場合にも、このように何かわからないが何かを指示、述定、(たとえば)主張している、ということを聞き手が理解し、そのことが聞き手と話し手の相互予期になることによって、部分的にであれ、指示や述定や発語内行為の伝達が不可避なものになるのである。

では、聞き手は<何かわからないが何かを指示、述定、(たとえば)主張している>ことをどのようにして理解することができるのだろうか。発語内行為をするときには、指示や述定が伴うはずであるから、聞き手は<何らかの発語内行為が行われている>ことの理解ができればよいのだが、聞き手は、どのようにしてこの理解ができるようになるのだろうか。

これは、第二節の冒頭の議論と関連する。そこではつぎのように述べた。発話が文の発話(言明)であるかどうかの判定の基準になるのは、それが発語内行為を遂行しているかどうかであり、そして発話が発語内行為を遂行していることは、質問に対する答えである場合にもっとも明らかである、と述べた。つまり、聞き手が<何らかの発語内行為が行われている>ことを理解することがたやすいのは、その発話が質問に対する答えとして行われる場合である。とこで、ある発話が質問に対する答えの発話であることが、ある人にとって最も明らかなのは、彼が相手の質問に答える場合であるか、彼の質問に対して相手が答える場合であろう。では、このような場合に、問答の理解はどのようにして可能になるのだろうか。

クワインの語る根底的翻訳の場面で、言語学者に‘Gavagai?’と問われた原地人は、どうするだろか。かりに、文末の抑揚を挙げて‘Gavagai?’と尋ねることが、原地人にとって質問の発話だったとしよう。しかし、原地人は、言語学者が質問しようとしているのだと確信がもてるだろうか。原地人からすれば、言語学者がそのように発話することによって、なにか他のことを意味している可能性がある。しかし、質問かもしれないので、質問だと理解することにして、それに対して同意のつもりで‘Evet’と答えたとしよう。これを言語学者が、これまでの観測から、同意の意味だと理解したとしよう。このとき問答は成立したのだろうか。そうではない。これによって問答が成立したことを、両者は確信をもてないでいる。問答に確信がもてないでいるときには、当然ながら、質問の発話が質問として伝達されること、返答の発話が返答として伝達されること、したがってたとえばその返答が(たとえば)主張という発語内行為を遂行することを伝達されること、について確信がもてない。つまり、伝達の不可避性は成立しない。では、何が必要なのだろうか。

問答が成立するためには、<xの発話とyの発話が問答になっている>ことがxとyの相互知識ないし相互予期にならねばならないだろう。根底的翻訳の場面においてまず可能になるのは、相互知識ではなくて相互予期であろうから、ここではまず次のことが成立しなければならないのである。

(1)問う者xは、<xの発話とyの発話が問答になっている>ことを予期する。

(2)答える者yは、<xの発話とyの発話が問答になっている>ことを予期する。

(3)(1)(2)がxとyの共有知である。

もちろん、当初は、この(3)の共有知が成立しないだろう。何度も問答を試すことによって、このような共有知がいずれ可能になるのであろう。

 前述の「発話伝達の不可避性の条件」は、言語を習得したもの同士の関係においては、それだけでコミュニケーションすることを可能にし、また不可避にする条件であるだろう。しかし、学習段階の幼児や未知の言語を話す人を相手にする場合において、この「発話伝達の不可避性の条件」が成立するに為には、発語内行為を遂行していることが明確になる必要があり、そのためにここに述べた条件、つまり<<xの発話とyの発話が問答になっている>ことがxとyの相互知識ないし相互予期になる>ことが必要である。

 この条件をより明確に理解するには、質問もまた、発語内行為の一種として、それを不可避にするメカニズムによって可能になる、ということを確認しておく必要があるだろう。それを次に見よう。

 

2、問いの不可避性

我々は、他者に問いかけられると、答えたことになってしまう、意図表明したことになってしまう、決断したことになってしまう。これと同様に、我々が問うことになってしまうという状況がある。「どのようにして問いかけが、成立するのか」といえば、指示や述定や主張などの発語内行為と同様に、問いが不可避になるメカニズムによってである、と答えることができるだろう。

 

(1)事例分析

事例1(相手に問われたときの自問の相互予期):相手に問われたときには、我々は、意図の有無に関わらず、答えることになってしまう。そうだとすれば、この場合、問われた者は、自問自答したことになってしまうのである。たとえば、「この映画を見ませんか」と問われた者は、たとえ黙っていても、その状況の中でたとえば「他の映画にしましょう」とか、「映画はやめましょう」という返事をしたことになってしまうことがあるだろう。そのような場合には、同時に、「その映画をみようか、どうしようか?」と自問したことになってしまっている。

 事例2(習慣にもとづく問いの相互予期):子供にいつも「勉強しなくていいの」問う母親が、子供がテレビを見ている居間に入ってきたとしよう。彼女が何も言わなくても、子供は母親の「勉強しなくていいの」という問いを予期するだろう。母親はその予期を予期するだろう。子供は母親のその予期の予期も予期しているだろう。このような状況では、母親が黙っていることは、その問いを発することになってしまうのである。もし、母親がその問いを発したくなければ、別の質問「晩御飯は何がいい?」などの、他の問いを発したり、他の話しをしたりする必要があるだろう。

 

(2)事例からの一般化

 xがたとえ何も言わなくても何かを言ったことになるような状況を、つまりxによる発話の伝達が不可避になる状況を、yがつくってしまうのだとすれば、それはyがxに質問しているのと同じことである。もし、yが意図するにせよ、しないにせよ、このよううな状況を作ってしまうのだとすれば、yが明示的に質問しなくても(つまり、何も言わなくても、あるいは、質問以外の発話をしても)、yは質問したことになってしまうのである。

このような状況は、特殊なものではない。なぜなら、我々が他者と出会ったときには、つねに何らかのコミュニケーションが成立してしまうといえるとすれば、そのときには、同時につねに何らかの質問をしたことになっている、といえるからである。(注20

では、我々が他者と出会ったときに、はたして常に何らかのコミュニケーションが成立してしまうといえるだろうか。我々は他者と出会ったときに、相手の意図や行動を予期する。その予期は、外れるかもしれない。あるいは意図的にはずされるかもしれない。したがって、多くの場合は、相手の行動についての予期は、「彼はAをするかしないかのどちらかだろう(彼はAをするのだろうか、しないのだろうか)」あるいは「相手はABをするだろう(彼はAをするのだろうか、Bをするのだろか)」というように複数に分岐する。この場合に、私が、相手の行為についてのこのような<分岐した予期>を持つことを相手が予期することを、私が予期するならば、それは私が、相手に「あなたはAをするのか、非Aをするのか、どうするのか」と問うことになるのである。ある事柄についての<分岐した予期>の表明は、xについて知りたいという意図の表明にもなるだろう。この意図が相互予期になるとき、問うことは不可避になるのである。つまり、その相互予期を訂正しない限り、質問したことになってしまうのである。(決定疑問文(yes-no疑問文)の場合には、予期の分岐は明確である。補足疑問文(wh疑問文)の場合には、分岐の選択肢自体が規定されている場合と、不定ないし未規定な場合がある。)

 

(3)問における分岐した予期と相互知識

予期が分岐しているとき、分岐のそれぞれの予期は、事実であるとは見なされていないので、それは実在知ではなく、また共有知でもありえない。つまり、問は共有知ではありえない。(共有知だけしかもたない生物には、問うことは不可能である)したがって、問いに対する答えもまた、(相互知識にはなるが)共有知ではありえない。なぜなら、問においてすでに知として意識された知が、その後共有知になることはないからであり、また、それが共有知であるならば、そもそも問われることはなかっただろうからである。ただし、答える者にとって、答えが実在知である可能性はある。ただし、答えるときにはその実在知は、すでに知として意識されており、実在知であることをやめて、問う者と答える者の相互知識となるだろう。

先に述べたように、少なくとも言語学習や根底的翻訳の場面では、<<xの発話とyの発話が問答になっている>ことがxとyの相互知識ないし相互予期になる>ことが発話の伝達のために必要である。つまり、発話は問答関係の中で理解され伝達されるということである。第6節では、このことの傍証として、すべての発話が焦点を持ち、それが問答関係の中で確定することを示す。

 

        第六節 発話の焦点と主張可能性と問答

 

 発話の意味を考えるとき、発話の意味が問答関係に依存することをはっきりと示すのは、焦点である。以下に見るように、同じ文でも、異なる焦点を持ちうる。つまり、焦点は、コンテクストにおける文の発話に属するのであって、文が規約によって持つ意味特性に属するのではない。この焦点がもっとも明確になるのは、問答関係においてである。

 

1、発話の焦点と問答関係

(1)答えの焦点

同じ文であっても、異なる問いの答えとなることがある、そしてそのとき、発話の焦点が異なることがある。同じ文の発話であっても、焦点の異なる主張は、別の主張である。たとえば、次のような例をあげることができる(下線部分が焦点のある箇所である)。(注21

  問1「このような種類の入院は一般科にもありますか」

答1「一般科の入院にはこのような種類の入院はありません」  

  問2「このような種類の入院が無いのはどの科ですか」

答2「一般科の入院にはこのような種類の入院はありません」  

このような問答の例文は、ある与えられた文のどこに焦点を当てるかを複数決めて、それぞれの点を尋ねる質問を作れば、(一語文を除く)すべての文に関して、作ることができるだろう。ただし、われわれは、情報の重複を避けて、焦点となる部分だけを答える傾向があるので、上の会話も大抵は次のようになるだろう。

  問1「このような種類の入院は一般科にもありますか」

答1「ありません」  

  問2「このような種類の入院が無いのはどの科ですか」

答2「一般科です」  

このような一語文(ないしそれに近いもの)には、焦点についての選択の余地はない。しかし、このことはそれが問答関係と無関係であることを示すのではなくて、むしろ逆にその理解が問答関係により強く依存していることを示している。

 

(2)問いの焦点

問いにも焦点はある。同一の決定疑問文が異なる焦点を持つ質問となることができる。例えば、次のものがそうである。(以下の「(他でもなく)」は焦点の説明のための補足である)。

問1「(他でもなく)これはバラですか」

  問2「これは(他でもなく)バラですか」

これらに対するそれぞれの答えもまた、たとえ同じ文であっても、焦点は異なる。

答1「はい、(他でもなく)これはバラです」

  答2「はい、これは(他でもなく)バラです

焦点の位置は、疑問文の場合と同一になるだろう。

補足疑問文もまた、同一の疑問文が、異なる二次的焦点をもつ質問となることができる。たとえば、次の例がそうである。(点線下線部で二次的な焦点を示す。)

問3「いつ(他もでもなく)xさんはネパールにいくのですか」

問4「いつxさんは(他でもなく)ネパールにいくのですか」

これらの質問文は同じであり、焦点もまた同じく「いつ」の箇所にあるだろうが、二次的な焦点が異なっている。これらに対するそれぞれの答えもまた、同じ文で異なる二次的焦点をもつことになるだろう。

答3「xさんはネパールに7月に行くそうです」

答4「xさんはネパールに7に行くそうです」

この場合の二つの答えの焦点は同じ日付の部分になるだろう。しかし、答えの発話の第二次的焦点は、質問の二次的焦点の部分になるはずであり、それは二つの答えで異なっている。

 多くの疑問文の場合には、このように焦点の違いはあっても、それによって答えの文が異なることは無い(答えの焦点は異なる)とみることができる。(ただし、決定疑問において、答えの発話がその焦点の部分だけの発話になるときには、発話される文は別のものになる。)ところが、次に見る「なぜ」疑問文の場合には、その焦点が異なると、答えの文そのものが異なることになる。

 

(3)「なぜ」疑問と焦点

「なぜ」をたずねる補足疑問文の場合には、同じ疑問文であっても、異なる焦点をもつことがある。そのとき、答えは異なる文になるだろう。(もし答えが同じ文で表現されるとしても、その焦点が異なるはずである。)「なぜ」の疑問は、原因を問うものと、理由を問うもの、根拠を問うものに、分かれるので、それぞれについて例を挙げて説明しよう。(注22

 

(a)原因を問う「なぜ」の場合にも、同じ疑問文でも、二次的焦点が異なると、答えは異なる。

例えば次の例を考えよう。

  問 「なぜ、この自動車はそのカーブを曲がりきれなかったのか」

  答1「なぜなら、この自動車はスピードを出しすぎていたからです」

答2「なぜなら、そのカーブが急だったからです。」

この二つの答えは、つぎのように問いを異なる焦点で理解して、それに答えている。

   問1「なぜ、(他の自動車は曲がれたのに)この自動車はそのカーブを曲がりきれなかったのか」

  答1「なぜなら、この自動車のハンドルが壊れていたからです」

  問2「なぜ、この自動車は(他のカーブは曲がれたのに)そのカーブを曲がりきれなかったのか」

答2「なぜなら、そのカーブが急だったからです」

 

(b)理由を問う「なぜ」の場合にも、同じ疑問文でも、二次的焦点が異なると、答えは異なる。

 例えば次の例を考えよう。

   3なぜ(他もでもなく)xさんはネパールにいくのですか」

   3xさんは抽選に当たったからです」

4なぜxさんは(他でもなく)ネパールにいくのですか」 

   4「xさんは、ネパールに間係するNGOに参加しているからです」

 

(c)根拠を問う「なぜ」の場合にも、同じ疑問文でも、二次的焦点が異なると、答えは異なる。例えば次の例を考えよう。

  問5なぜ(他でもなく)この図形の内角の和は、二直角なのか」

  答5「なぜなら、この図形が三角形だからです」

  問6なぜ、この図形の内角の和は、(他でもなく)二直角なのか」

   答6「なぜなら、ここの角度がちょうど二直角になるからです」

 

2、発話の焦点と意味論

 「なぜ」疑問文の問答において顕著なように、発話の焦点の違いは、発話の意味の重要な違いとなっている。それゆえに、われわれは、<発話の焦点の違いが発話の意味の違いである>と言えるだろう。この主張は、現代の代表的な二つの哲学的意味論、つまり真理条件意味論と主張可能性意味論のうちの、後者に親和的であることを以下に示したい。

 

(1)発話の焦点と真理条件の関係

<同じ文で異なる焦点の主張がともに真であるときに、それらが一致する事実とは、同じ事実である>といえるだろう。例えば、もし今目の前の机の上にリンゴがあるとしよう。そのときこの事実(現象、観察)に基づいて、私は「(他でもなく)リンゴが机の上にある」ということもできるし、「リンゴが(他でもなく)机の上にある」ということもできるからである。

では、<同じ文で異なる焦点の主張が一致する事実が同一である>とするとき、これらの主張は、同じ真理条件をもつことになるのだろうか。

真理条件を示すためには、我々にはメタ言語の発話によって示すしか方法がないのだが、真理条件は、そのメタ言語の発話の内容そのものではなくて、メタ言語の発話が記述している事実だと考えられているのではないだろうか。つまり、ある文の真理条件とは、その文を真となるときの対応する事実だと考えられることがおおいのではないだろうか。もしそうならば、同じ文で異なる焦点の主張は、同一の真理条件を持つことになるだろう。そして、もし真理条件が主張の意味だとするならば、焦点の違いは、主張の意味の違いではないことになる。(デイヴィドソンが「対象たちのおどけた仕種が、我々の文や意見を真や偽にするのである」(注23と言う場合にも、焦点の違いは考慮されないであろう。)

しかし、もし真理条件がメタ言語で表現されている発話の内容だとすると、その発話にもまた焦点の区別があるだろう。たとえば、「『雪が(他もでもなく)白い』が真であるのは、雪が(他でもなく)白いときそのときにかぎる」というように真理条件が理解されるのであれば、真理条件にも焦点の違いが反映されていることになる。

したがって、真理条件意味論の場合には、発話の焦点の違いを、意味の違いだとしても、意味の違いだと見なさないとしても、どちらにも解釈できる可能性は残されているようにおもわれる。ただし、上に見たように、真理条件意味論では、発話の焦点の違いを、発話の意味の違いだとは見なさない場合の方が多いように思われる。少なくとも、これまでそのような指摘はなされてこなかったと思われる。

ちなみに、クワインのいう「観察文」の刺激意味という考えでも、発話の焦点は、無視されることになる。たとえば「(他でもなく)これは赤い」と「これは(他でもなく)赤い」という発話の刺激意味は同一になるだろう。

 

(2)発話の焦点と主張可能性(assertability)条件の関係

これに対してダメットのように発話の意味は発話の主張可能性条件である、と考えるときには、主張の焦点の違いは、発話の意味の違いと見なされる。なぜなら、焦点の異なる主張は、主張可能性条件も異なるからである。まず、「主張の焦点の違いが、主張可能性条件の違いとなる」ことを証明しよう。

ステップ1:「同じ文の発話だが、焦点が異なる二つの主張の根拠を問うとき、それぞれの答えは別のものになる」ことを証明しよう。まず、次の二つの問答で考えてみたい。

 問答1:x「(他でもなく)リンゴが、机の上にあります」

     y「なぜあなたはそう主張できるのですか」

    x「なぜなら、これは赤くて丸くてリンゴの香りがしているからです。」

問答2:x「リンゴが、(他でもなく)机の上にあります」

     y「なぜあなたはそう主張できるのですか」

     x「なぜなら、私がさきほど机の上においたからです」

この例は、同じ文の発話が異なる焦点を持つとき、その主張の根拠を問うと、それに対する答えは別のものにならざるを得ない、ということを示している。この例を一般化して次のように言うことができるだろう。主張の根拠への問いに対する答えは、主張の焦点の部分aに関して、それが<他でもなく、aである>ことの根拠を答えることになるので、主張の焦点が異なれば、当然その答えも異なる。

ステップ2:「主張の根拠は、主張可能性条件である」ことを証明しよう。このような主張の根拠は、主張のいわゆる「真理条件」とは別物である。なぜなら、これらの主張の根拠が正しくなくても、答えが正しい可能性はあるからである。例えば、前者で言えば、それは青リンゴであるかもしれないし、また新種の四角いリンゴかもしれないし、新種の桃の香りのリンゴかも知れないからである。後者で言えば、私がリンゴを置いたのは別の机の上で、別の人がその机に別のリンゴを置いたのかもしれないからである。つまり<主張の根拠は、主張が真理であるための必要条件ではない>ということがわかる。

ここで真理条件と主張可能性条件の関係を整理しておこう。ある命題pの真理にかんする条件としては、

   「p」が真であるための必要充分条件

   「p」が真であるための必要条件

   「p」が真であるための充分条件

の3つが、考えられる。デイヴィドソンの言う「p」の真理条件とは、

   「p」が真であるのは、pであるときそのときに限る

というものであるので、「p」が真理であるための必要充分条件のことである。

ダメットのいう主張可能性条件とは、「p」が真であるための充分条件(ないしその一部)である。なぜなら、彼によれば、「文の理解は、それの検証とみなされるものを認識する能力の中にあり」「我々が、言明の真理ないし偽を決定する手段を持っている必要はない。我々が、命題の真理が確定したときにそのことを認識する能力があることが、必要なのである。」(注24つまり、それは、どのようなときのそれを主張できるかという条件を理解しているということなのである。つまり、主張可能性条件とはpを結論とする推論の前提(ないしその一部)だからである。また、主張可能性条件は、証明図のようなものであるともいわれる(注25)。ところで、ある命題の証明方法は、一つではないのだから、一つの証明図は、ある命題が真であるための充分条件であるが、必要条件ではない。したがって、主張可能性条件は、ある命題「p」が真であるための充分条件である。

以上の二つのステップから、われわれは「主張の焦点の違いは、主張可能性条件の違いである」ことを証明できる。

 

3 意味の問答原理へ向けて(1)

言明が焦点を持つことと、問答関係が密接に関係していることは、上の事例からもあきらかだろうが、このような密接な関係が成立する原因は、次の点に求められる。ある発話の部分aに焦点があるとは、その部分が、<他もでもなくaである>ということであり、例えば<bでもなく、cでもなく、dでもなく、aである>ということであり、その部分aにおいて選択ないし限定が行われているということである。そのような選択ないし限定は、他の可能性が存在することによって可能になる、そしてその他の可能性を示すものが、問いに他ならない。なぜなら、問いは、分岐した予期が相互予期ないし相互知識になることによって成立するものだからである。これによって、もし<言明の焦点は、本質的に問答関係の中で成立する>と言え、またこれまで見てきたように、<言明の焦点の違いは、言明の意味の違いである>と言えるとすると、<言明の意味は、問答関係の中で成立する>と言えるだろう。

 もしこれが正しいとすると、<すべての言明は、問いの発話であるか、問いに対する答えの発話であるかのいずれかである>といえるのではないだろうか。次にこのことを確認しよう。もしこのことが言えれば、<ある発話が発語内行為を遂行しているかどうか>を判定する基準として、<その発話が答えとなるような問いを想定できるかどうか>ということを想定することができるだろう。

 

第六節 質問と他の発語内行為の関係

 

1、質問とその他の発語内行為の関係

残念ながら<伝達に成功する発話はすべて、質問の答えとなっている>とはいえそうになり。しかし<すべての発話が自問自答の答えとなっている>ということならばいえそうである。ここではそのことを確認したい。そのために、主張型発話、行為指示型発話、行為拘束型発話、表現型発話、宣言型発話に分けて、検討しよう。

 

(1)主張型について

まず<すべての主張の発話は、質問の答えになっている>を証明できるかどうか検討しよう。主張型発話と問いの関係は、とりあえずつぎのように分類できる。

①問いに対する答えである

②その答えの導出の前提である

③問いの前提である

    ④上の①②③以外の問いと無関係な発話である

したがって、上の証明を行うには、、

(a)②が①に属すること

   (b)③が①に属すること

   (c)④が存在しないこと

を証明すればよいだろう。

(a)②が①に属することの証明

問いの答えの前提は、一方では、問いの答えの一部であるとみることができるが、また他方では、問いの答えについての、「なぜそう答えるのか」という問いを予期して、それに答えているのだと見ることもできる。いずれにせよ①に属するといえる。

(b)③が①に属することの証明

問いの前提は、問いの一部である。なぜなら、問いを理解するには、その前提を理解しなければならないからである。これをもうすこし詳しく説明したい。問いは、事実と意図の矛盾から生じる。(注26したがって、問いを述べるには、事実と意図を述べなければならない。たとえば、「あなたは明日暇ですか」と問われたときに、「どうして(そう聞くのですか)?」と問い返すとしよう。これは、相手の問いの意味を理解するために問い返すのである。「相手は、私の仕事のスケジュールを尋ねているのかもしれないし、仕事が終わったあとの予定を尋ねているのかもしれない」それによって、答えは変わってくるだろう。このように、問いの前提となっていることを理解しなければ、問いを理解できないのだとすれば、問いの前提は、問いの一部だといえる。

 相手にとって、重要であると思われる情報を提供する発話は、問いの前提ないし問いの省略として発せらる場合が多いようにおもわれる。相手にとって重要だろうとおもうことを述べて、それについての問いを相手に投げかけようとするのである。

例えば、自分にとって驚きである事実を述べて、それについての同意を求める発話もある。このときには、「・・・だそうです。(すごいとおもいませんか?)」というような問いが省略されている。また例えば、学生が研究室に入ってきて、そこにいる友人がまだ知らないだろうとおもって、「雨が降っているよ」と言ったとしよう。このとき、もし友人が「それがどうかしたの?」と尋ねたら、「きみは傘を持っているの?」と問うのかもしれない。もしそうだとすれば、最初の発話はこの問いの前提であり、この問いが省略されていたのだと言えるだろう。「雨が降っているよ(困ったね。そうだろ?)」と同意を求めているのかもしれない。これもまた、質問の省略形だといえるだろう。

 (c)確定的な結論を出せないのだが、④の発話は見つかるかもしれない。(注27したがって、上記の主張について確定的な結論を出すことはできないのだが、否定的である。

 

(2)行為指示型発話

ここでは、<すべての行為指示型発話(命令、要求、依頼などの発話)は、質問発話に対する答えである>と主張できるかどうか検討しよう。

 行為指示型発話と問いの発話との関係は次のように分類される。

  ①命令や依頼が問いに対する答えである

②命令や依頼が、問いの答えの前提である

  ③上の①②以外の問いと無関係な発話である

ちなみに、<命令や依頼の発話が、問いの前提となることはない>。なぜなら、問いの前提となるのは、事実認識と意図の矛盾であり、それの言明が命令や依頼になることはないからである。そこで、上の主張を証明するには、次を証明すればよい。

   (a)②は①に属する。

   (b)③は存在しない。

(a)②は①に属する

 実践的三段論法では、行為指示型発話が大前提となり、主張型発話を小前提として、公指示型発話の結論が導出されることがある。たとえば、次のとおりである。

安全運転してください。

   自動車のスピードが出すぎている。

   スピードを落としてください。

 たとえば、時速100キロで運転しているドライバーが、助手席の人とつぎのような会話をするとき、このような推論を背景にしている。

   運転者:「スピードを落としましょうか?」

同乗者:「安全運転しなさい」

相手のこの答えは、問いに対する答えというよりも、むしろ答えの前提である。

 しかし、主張型の場合とおなじく、これは、答えの一部であるといえるし、また他方では、答えに対して「なぜ、そういうの」という予期される質問に対して、答えているのだということもできる。

(b)③は存在しない、といえるだろうか

 実はこれには簡単に反証例を挙げることができる。例えば、119番に電話をかけて慌てている話し手に対して、受け手が「落ち着いてください」というとき、この依頼は、問いに対する答えではないし、また問いに対する答えの前提でもない。また例えば、教室に教師が入ってきたときに、級長が「起立」と号令するとき、これもまた問いとは無縁であるように思われる。

 ゆえに、③は存在する。したがって、「すべての行為指示型発話(命令、要求、依頼などの発話)は、質問発話に対する答えである」と主張することはできない。

 ただし、つぎのように言うことはできる。<すべての行為指示型発話は、発話者自身の自問自答における答えである>。なぜなら、①の場合も、②の場合も、発話者自身が同様の自問自答をしているはずであり、また③の行為指示型発話でも、次に述べるように、発話者自身の自問自答が行われているからである。(③の発話を含めて)命令や依頼に対して、「なぜそう命令(依頼)するのか」と問えば、かならず理由の答えがあるだろう。つまり、命令や依頼は、その理由を前提とする推論、つまり実践的三段論法の結論となっている。そして推論は問いによって可能になるのであるとすれば、命令や依頼や実はすべて問いに対する答えなのである。この問答は、命令や依頼するもの自身が自分で行う、自問自答である。

 

(3)行為拘束型発

ここでは、<すべての行為拘束型発話は、質問発話に対する答えである>を検討しよう。

行為拘束型発話と問いの発話との関係は次のように分類される。

  ①約束が、問いに対する答えである

②約束が、問いの答えの前提である

③約束が、問いの前提である

   ④上の①②③以外の問いと無関係な発話である 

そこで、上の主張を証明するには、

   (a)②は①に属する。

  (b)③は①に属する。

   (c)④は存在しない。

(a)②は①に属する

 実践的三段論法では、行為拘束型発話が大前提となり、主張型発話を小前提として、行為拘束型発話の結論が導出されることがある。たとえば、次のとおりである。

 私は安全運転します

   自動車のスピードが出すぎている。

   スピードを落とします。

 たとえば、時速100キロで運転しているドライバーが、助手席の人とつぎのような会話をするとき、上のような推論を背景にしている。

   同乗者:「スピードを落としてくれませんか?」

運転者:「安全運転しましよう」(と答えて、スピードをおとす)

運転者のこの発話は、問いに対する答えというよりも、むしろ答えの前提を述べている。しかし、主張型の場合とおなじく、これは、答えの一部であるといえるし、また他方では、答えに対して「なぜ、そういうの?」という予期される質問に対して、答えているのだということもできる。

(b)③は①に属する 

「秋に講演会を開くことにします。日程をいつにしましょうか?」

問いは、事実認識と意図の矛盾から生じる。意図を表現する発話が、行為拘束型発話になることもあるだろう。そのとき、行為拘束型発話は、問いの前提となる。この発話が、別の問いに対する答えでないのだとすれば、これは、この質問の一部だといえるだろう。

(c)④の行為拘束型発話をあげることができれば、反証になる。明確な事例をあげることができないのだが、存在しないとは言い切れない。これまた、結論を出すことができない。

 

(4)表現型発話

ここでは、<すべての表現型発話は、質問発話に対する答えである>を検討しよう。

表現型発話と問いの発話との関係は次のように分類できるだろうか。

  ①表現型発話が、問いに対する答えである

②表現型発話が、問いの答えの前提である

③表現型発話が、問いの前提である

④上の①②③以外の問いと無関係な発話である

表現型発話について、上のようなケースがありうるかどうかが、あいまいであるので、まずこれらの可能性から吟味する必要があるだろう。

 ①表現型発話が、問いに対する答えだといえるかもしれないのはつぎのような事例である。たとえば、合格発表の会場で、受験生に対するインタビュアーの「いまは、どんな気持ちですか」という質問に対して、受験生が「最高にうれしいです」「とても残念です」などと答えるとすると、これらの答えは、問いに対する答えとなる表現型発話である。

あるいはまた、「一体全体どういうつもりだ」といって怒られるのを見越して、その「申し訳ありませんでした」というとき、この謝罪の表現型発話もまた、質問へのこたえであるといえそうである。

 ②や③をうまく考えることができない。もし、それが見つかれば、それらが①に属するかどうかを検討しなければならないだろう。

ところで、④の表現型発話があるようにおもわれる。例えば、合格発表会場にいる不動産屋さんが、「合格おめでとうございます。ところで下宿先はお決まりですか」と学生に訪ねたとすると、この「合格おめでとうございます」という表現型発話は、問いの前提になっているといえなくもないが、問いとは関係のない発話だともいえそうである。たとえば、司会者が、「こんにちは。今日はたくさんお集まりいただき、有難うございます。」などと表現型で会議はじめる場合

 したがって、最初の主張は撤回しなければならないのだが、このような表現型発話についても、「なぜ、そういうのか」と問えば、必ず理由の答えがあるだろう。つまり、話し手の自問自答の結論がこの表現型発話なのである。

 

(5)宣言型発話

ここでは、<すべての宣言型発話は、質問発話に対する答えである>を検討しよう。宣言型発話と問いの発話との関係は次のように分類される。

  ①宣言が、問いに対する答えである

②宣言が、問いの答えの前提である

③宣言が、問いの前提である

  ④上の①②③以外の問いと無関係な宣言である

裁判の判決や、スポーツの審判の判定など、たいていの宣言は、それぞれそれにふさわしい状況というのが、慣習として決まっている。その状況で、とりわけ、問いかけに対して宣言が行われるのではないにしても、その状況では、問いかけが暗黙のうちに行われており、それに対する返答として宣言が行われるのだといえるだろう。したがって、殆どの宣言が、①になるのだと思われる。

しかし、②の③のケースがないとはいえない。また④の宣言がないということを論証することも、いまの私には難しい。

 したがって、上の主張についての結論を出すことはできないのだが、しかし宣言型発話もまた「なぜそう宣言するのか」と問われたならば、即座に「・・だからだ」という答えがかえってくるだろう。つまり、話し手は、ある理由にもとづいて宣言するのであって、宣言が推論の結論になっているということは、宣言は、何らか自問自答の答えになっているということである。

 

2、意味の問答原理へ向けて(2)

以上見てきたように、<すべての発話は質問への答えである>と主張することはできない。しかし、問いの答えとして発話されるのでない場合にも、「なぜそう言うのか」と問われたならば、直ちに「なぜなら、・・・」というように、その理由を直ちに答えることができる(このことは、アンスコムが指摘したように意図的な行為すべてに妥当することであり、発語内行為もまた意図的な行為の一種である)。つまり、それらの発話は、その理由を前提とする推論の結論となっている。したがって、<すべての発話は、話し手自身の自問自答の答えである>と言える。したがって、<すべての言明は、問いの発話であるか、問いに対する答えの発話であるかのいずれかである>といえるだろう。また<その発話が答えとなるような問いを想定できるかどうか>ということを<ある発話が発語内行為を遂行しているかどうか>を判定する基準とすることができるだろう。また、発話の伝達を不可避にしそれを成功させるメカニズムは、<発話が、(他者との問答であれ自問自答であれ)問いの答えなっていることを相互に予期すること>であるという仕方で表現することも出来るだろう。いずれにせよ、<言明の意味は、問答関係の中で成立する>と言えるのである。

語の意味は、文の意味への寄与であるという主張は、「文脈原理」と呼ばれるのだが、これに倣って、文の意味は問答への寄与であり、語の意味は、文の意味への寄与でもあるが、最終的には問答の意味への寄与であり、意味の担い手は、文や文の発話(言明)よりも、むしろ問答である、と考える立場を「意味の問答原理」と呼ぶことができるだろう。この意味の問答原理からみるならば、文の意味は語の意味に対して優先するわけではないし、また観察文のような特権的な文があるわけでもない。

 

 

1 W.V.O.Quine, “Word and Object” MIT Press, Cambridge, 1960, p.29. クワイン著『ことばと対象』大出晁、宮館恵訳、勁草書房、1984年、44頁。

 

2 Ibid, 前掲訳44-45頁。

3 Ibid, 前掲訳45頁。

4 Ibid, pp.29-30, 前掲訳45-46頁。

5 Ibid, p.32, 前掲訳50頁。 

6 Ibid, pp.35-36, 前掲訳57頁。

7 Ibid, p.42, 前掲訳66頁。 

8 Ibid, p.53,前掲訳84頁。

9 Donald Davidoson,Inquiries into Truth and Interpretation Clarendon Press, Oxford, 1984, p.135, デイヴィドソン『真理と解釈』野本和幸、植木哲也、金子洋之、高橋要訳、勁草書房、1991年、135頁。

10 Ibid, pp.195-196, 前掲訳209

11 Ibid, p.221.

12 Ibid, p.219.

13 Ibid, p.220.

14 Ibid.

15 Paul Grice, Meaning (1948), in Studies in the Way of Words, 1989, Harvard U.P.

16 この経緯についての説明は、拙論「メタコミュニケーションのパラドクス(2)」(『大阪樟蔭女子大学論集』第31号、19943月発行)で詳しく論じた。

17 Schiffer, Meaning, Oxford UP, 1972, pp.30-31.

18 金沢創著『他者の心は存在するか』金子書房、70頁。なお、「誤信念問題」については、板倉昭二『自己の起源——比較認知科学からのアプローチ』金子書房、バロン・コーエン、ヘレン・ターガー・フラスバーグ、ドナルド・J・コーエン『心の理論』上下、八千代出版も参照した。

 

19 ここで「相互顕在性」概念を検討しておきたい。スペルベルウィルソンは、相互知識の問題点を克服するために、「相互顕在性」という概念を提案する。まず、彼らは、「ある事実が個人にとって顕在的である」ということをつぎのように定義する。

「ある事実がある時点で一個人にとって顕在的であるのは、その時点でその人がそれを心的に表示し、真、または蓋然的真としてその表示を受け容れることが出来る場合、そしてその場合のみである。」(スペルベル&ウィルソン『関連性理論』内田聖二他訳、研究社出版、46)

これに基づいて「相互顕在性」をつぎのように定義する。

「だれがそれを共有するかということが顕在的である共有された認知環境は、すべて相互認知環境と呼ぶことにする。相互認知環境では、顕在的な想定すべてに関して、この環境を共有する人間にそれが顕在的であるという事実自体が顕在的である。いいかえれば、相互認知環境では、顕在的な想定はすべて我々が相互に顕在的である(mutually manifest)と呼ぶものである。」(前掲訳、49頁)

ここにいう「認知環境」とは「一個人の認知環境は当人にとって顕在的である事実の集合体」(前掲訳、46)と定義される。

この「相互顕在性」概念と、私が上に提案した「実在知」=「共有知」概念の異同

を確認しておきたい。まず、上に定義された、「ある事実が個人にとって顕在的である」とは、私の言う「実在知」を含むものである。なぜなら、実在知は、心的に表示されており、かつ真として受け容れることができるものだからである。ただし、私は「蓋然的に真」として受け容れることのできるものを、実在知とは考えていない。また心的に表示されているのだが、そのことが意識されているもの、つまり知として意識された知を、実在知には含めていない。

「相互顕在性」概念の問題点は、その曖昧さにある。これは、解釈の仕方によっては、私が再定義した「相互知識」と同じ意味になるだろう(蓋然的に真である知もまた「相互顕在性」にふくまれるのは、私のいう「相互知識」もこれに含まれているからである)。しかし、この曖昧な規定のままでは、つぎのような不適切な解釈が行われてしまう可能性がある。

不適切な解釈:「pがxとyの相互に明白である」とは、次の3つの条件が満たされていることである。

(1)xがpを知っている。

(2)yがpを知っている

(3)(1)と(2)がxとyの実在知である。

この場合、xにとって、(1)(2)が実在知であるとき、xは、これらは事実であるので、当然yも知っているはずである、と考える。

不適切な解釈への反証例:この3つが満たされていても、「pがxとyの相互に顕在的である」といえない場合がある。それは、次のように、yが(1)を知らないとxが誤解している場合である。

いま仮にマキシのお話を例にしよう。xとyが舞台をみており、舞台の上である人が青のタンスにチョコレートを入れたのを、二人が見ているとしよう。このとき、xが目隠しのようなものをしているのだが、それは実は目隠しではなくて、舞台が透けて見えるものだったとしよう。そのことをyは知っているのだが、xはyがそれを知っていることを知らないとしよう。このとき、次のことが成立する。

  (1)xは、p「青のタンスにチョコレートがあること」を知っている

  (2)yは、p「青のタンスにチョコレートがあること」を知っている

  (3)xとyは、(1)と(2)を知っている。

このとき、(1)と(2)はxとyにとっての実在知である。このとき、上の不適切な解釈に従うならば、pがxとyに相互に明白であることになる。しかし、xは、yが(1)を知らないと思っているので、いわゆる相互顕在性が成立しているとは考えていない。つまり、あることが実在知であっても、それが共有知であるとは限らないので、上の解釈では不適切になるのである。

20 これについては、拙論「メタコミュニケーションのパラドクス(1)」(『大阪樟蔭女子大学論集』第30号、19933月発行)で論じた。

21 これについては、拙論「問答の意味論と基礎付け問題」(『大阪大学文学部紀要』第37号、19973月、大阪大学文学部発行、p.153-190)で論じたことがある。

なお、次の例では、同じ文が異なる問いに対する答えになっているが、しかし、「それ」がさすものが異なるので、(直接指示の理論で言う意味での)発話の「内容」が異なっている。

「この花は何ですか」

      「それはアジサイです」

 「あなたの好きな花はなにですか」

      「それはアジサイです」

この場合の答えは、同じ文の発話であるが、内容(語の指示対象)が異なる。本文で議

論するのは、文も発話の内容も同じであるが、その焦点が異なるケースである。

22 「なぜ」疑問のこの三分類については、拙論「問答の意味論と基礎付け問題」(『大阪大学文学部紀要』第37号、19973月、大阪大学文学部発行、p.153-190)で論じた。なお「なぜ」疑問における焦点の違いによる答えの違いについては、三分類した上での分析ではないし、「焦点」を論じているのでもないのだが、科学的説明との関係で、これとよく似た分析が、B.C.van Fraassen,”The Scientific Image”, Oxford UP. 1980 (ファン・フラーセン著『科学的世界像』(丹治信春訳、紀伊国屋書店、1986年)の第5章によって行われている。

23 D, Davidoson, Ibid.p.198, 前掲訳、212.

24 Cf, Michael Dummet, ‘ What is a Thoery ofMeaning?(1)’, in Samuel Guttenplan (ed.), “Mind and Language” Oxford, 1975, pp.110-111.

25 参照、野本和幸著「論理と言語の哲学」(坂本百大、野本和幸編著『科学哲学』北樹出版、2002年、所収)94頁。

26 これについては、拙論「問題の分類」(『待兼山論叢』第28号、199412月大阪大学文学部発行)で論じた。

27 文学部での講義において学生(Mさん)から「むかしむかし、あるところに、・・・」というような物語の冒頭の部分が、問いの答えでも、問いの前提でも、答えの前提でもないのではないか、という指摘を受けた。これを含めて、もうすこし検討したい。