「相互知識はいかにして可能か」『アルケー』関西哲学会発行、2004年7月、pp.54-67

     相互知識はいかにして可能か    

 

一 相互知識とは何か

 まずこの論文で我々が「相互知識」と呼ぼうとしているものを、例を挙げて説明しよう。aさんとbさんが山に登って景色を見ているとしよう。aが指差しながら「向こうの赤い山小屋が見えますか」と質問して、bが「はい、見えます」と答えたとする。このとき、〈bが向こうの赤い山小屋を見た〉ということを、aは知ることになる。そして、aがそのことを知っていることを、bは知っている。更に言えば、aは、bがそのことを知っていることを予期することもできるだろう。このような場合に、〈bが向こうの赤い山小屋を見た〉ことについての知を、aとbの「相互知識」と呼ぶことにしたい。

このような相互知識は、命題pをaとbが単に共通に知っている、ということとは異なる。次のような場合については、pはaとbの「共通の知識」である、と呼ぶことにしたい。

()aさんは、pを知っている。

()bさんは、pを知っている。

この場合には、bさんが()知っているとは限らないし、またaさんも()知っているとは限らない。それゆえに、上にみたような相互知識とは異なるのである。ここでcさんが仲介をして、aさんに()を教え、bさんに()を教えたとしよう。つまり、上の()()に加えて、次のことが成立しているとしよう。

  ()aさんは、bさんがpを知っていることを、知っている。

  ()bさんは、aさんがpを知っていることを、知っている。

この場合でも、上にみたような「相互知識」は成立していない。なぜなら、aさんは、()を知らないし、bさんは()を知らないからである。このような仲介を何回繰り返しても、aとbの間に相互知識は成立しない。aとbが直接に対話することによってのみ相互知識が成立するのである。

 では、上のような「相互知識」をどのように定義すればよいだろうか。例えば、Schifferは、次の有名な定義をおこなった。彼は「SとAが相互にpを知っている*」ということを「K*sap」と表記することにして、それを次のように説明した((1))

   K*sap iff

   Ksp 

   & Kap

   & KsKap

   & KaKsp

   & KsKaKsp

   & KaKsKap

   & KsKaKsKap

   & Kaaas

           

           

           

しかしこの定義に対しては、我々はせいぜい数階の階層の知を持つことが出来るだけで、無限の階層の知を持つことは出来ない、という批判など多くの批判がなされた((2))しかし、他方で、相互知識はシファーが表記したように無限の階層の知を秘めているように記述したくなるような特徴をもっていることも事実である。この困難を回避するものとして、「関連性理論」のスペルベル&ウィルソンは、「相互知識」にかわる「相互に明白」という概念を提案した((3))しかし、この概念はまだ十分に明晰判明であるとは思えない。本論文では、この概念への批判的な検討には立ち入らずに、私の提案を説明したい((4))

他者と共有していると思われている知は、従来は、知として意識されているとされいるかいないかを区別することなく、相互知識とか共有知とか呼ばれてきたように思われる。しかし我々は、知として意識されていない場合を「共有知」、知として意識されたものを「相互知識」と呼んで区別し、相互知識の基礎には共有知が働いていることを指摘したい。そのための準備作業として、「実在知」と「共有知」という概念の説明から始めることにする。

 

二 実在知・共有知とは何か

(一)実在知とは何か

 上のケースで、aとbが向こうの山腹のあたりに、赤い屋根の山小屋を見て指さしているとき、彼らは山小屋そのものを見ており、山小屋そのものを指さしているのだと思っている。見えているのが、山小屋の知覚像であるとか、山小屋の知覚像が山腹の知覚像の中にあり、それを指の知覚像で指示している、などとは考えていない。(もちろん、仮にこのように考える現象論者が存在したとしても、我々の議論の批判にはならない。)

日常生活において、我々は知(この場合には、言語的に分節化された知覚をともなっている)と対象(実在)を区別していない。このような知を、かりに「実在知」と呼ぶことにする。(もちろん、ひとが自分の実在知を「実在知」として意識するとき、もはやそれは知=実在であるような実在知ではない。我々は、自分の過去の知を「実在知」だったと語るか、あるいは他者の知について、それが彼にとって「実在知」である、と語ることができるだけである。)

 

(二)共有知とは何か

 先ほどの話において、aが赤い屋根の山小屋そのものを見ており、隣のbにそれを指さして「向こうの赤い山小屋が見えますか」と尋ねて、bが「はい、見えます」と答えるとき、bもまた、その赤い山小屋そのものを見ているのだのだ、とaは思っている。つまり、aとbは、山小屋という対象そのものを見ており、aが見て指差している山小屋とbが見ている山小屋は同一であると、aとbは思っている。つまり、山小屋(山小屋の実在知=山小屋そのもの(実在))をaとbは共有している。aの知(実在知)は、bの知(実在知)である。このような知を仮に「共有知」と呼ぶことにしよう。

もしaが一人で山に登って、山腹の山小屋を見下ろしているのならば、山小屋があることは、実在知ではあっても、共有知ではない。このように、すべての実在知が、共有知なのではないが、しかし逆に、すべての「共有知」は実在知であるといえるだろう。つまり、知を「共有」していることは意識していても、それを「知」としては意識していないようなものを「共有知」と呼ぶことにしたい。

ただし、ひとが自分の共有知を「共有知」として意識するとき、それは実在とは区別された知であり、実在知ではなく、したがってここで定義した意味での「共有知」でもない。ひとは自分の過去の知を「共有知」だった、と語ることができるか、あるいは他者の知について、それが彼にとって「共有知」である、と語ることができるだけである。

 これに対して、前述の「共通の知識」の場合には、それが共通の知識であることを、当事者の一方または両方が、知っていることも、知っていないこともありうるだろう。

 しかし、「相互知識」の場合には、その知を他者と共有していることは、両者が自覚している事柄である。もし、そのことを意識していなくても、「pはあなた方の相互知識ですか」と問われたならば、彼らは直ちに「そうです」と答えることが出来る。次に、この「相互知識」を、「実在知

」と「共有知」の概念を用いて定義してみよう。

 

三 相互知識の定義の試み

「相互知識」を次のように定義することを、まず提案したい。

「pがaとbの相互知識である」とは、次の3条件を満たしていることとする。

()aがpを知っている。(この知は共有知ではなく、通常の知である)

()bがpを知っている。(この知は共有知ではなく、通常の知である)

() ()()がaとbの共有知である。

前述のケースで考えてみよう。

  ()aは、赤い山小屋があることを知っている。

  ()bは、赤い山小屋があることを知っている。

当初この知は、二人にとって実在知であり、また共有知でもあった。もしここでbが、「あれは本当に山小屋だろうか。ひょっとすると、何か別の物ではないだろうか」と問い、aがそれに答えて「さあ、どうだろう。この望遠鏡で見てみようか」と答えて、二人で交互に望遠鏡を覗いて確認したとしよう。そのあと、bが「やっぱりあれは山小屋だったね」と言い、aが「そうだね」と言うとき、ここでは、()()は、二人にとってもはや実在知ではなくて、知として意識された知になっている。このような状況で、()()が成立していることは、aとbにとっては自明の事実であり、それは特に知として意識されていない知、つまり実在知である。またその事実=実在知は二人に共有されており、共有知になっている。そこで、次の()が成立する。

() ()()がaとbの共有知である。

このとき、我々は、「赤い山小屋がある」という知を、aとbの相互知識と呼ぶことが出来る。

 この事例は、aとbの共有知であった「赤い山小屋がある」が意識されれて、通常の知となり、今度は「二人が、赤い山小屋があることを知っている」ということが共有知となることによって、「赤い山小屋がある」という通常の知が、相互知識なるというケースであった。

 ところで、相互知識が成立する仕方には、この他にも少なくとも三つの方法がある。それを次に確認しよう。

 

四 相互知識が成立する第二の仕方

これは、一方の者が既にもっている知識を他方の者に伝達して、それを二人で共有するようになるというあり方である。

 上の例で、aがbに山を指差して、「あの山が蔵王だよ」と教えて、bが「へえ、あれが蔵王なの」と応えるとき、次の二つが成立することになる。

  ()aは、あの山が蔵王である、と知っている。

  ()bは、あの山が蔵王である、と知っている。

このとき、()()は、aとbにとって事実であり、知として意識されていない知つまり実在知である。またその事実を二人は共有しており、それは共有知である。それ故に次の()が成立している。

 () ()()がaとbの共有知である。

このとき、我々は、「あの山が蔵王である」という知をaとbの相互知識と呼ぶことができる。最初は、aの自覚的な知であったものが、他者に伝達され、他者と共有されて、相互知識になったのである。

 

五 相互知識が成立する第三の仕方

次に、二人がすでにある「共通の知識」をもっており、その事が二人の共有知になることによって、最初の「共通の知識」が、二人の相互知識になるというケースを確認しておきたい。上の事例で、bさんは、aさんに教えられる前から、蔵王を知っていたとしよう。このとき、次の二つが成立する。

()aは、あの山が蔵王である、と知っている。

()bは、あの山が蔵王である、と知っている。

ここでは、「あの山が蔵王である」ということは、aとbの共通の知識である。しかし、aさんは、()を知らず、bさんは()を知らない。そのために、「あの山が蔵王である」ことは、両者の相互知識にはなっていない。しかし、二人が会話を通して、()()を知るとき、次の()が成立する。

() ()()がaとbの共有知である。

このことき、「あの山が蔵王である」という知は、二人によって共有されており、相互知識になっている。

次に、この第二と第三のタイプの相互知識の重要な特徴の一つを指摘したいと思う。

 

六 共有される思想は、知識に限らない。

相互知識は、知識の一種であるので、真だと信じられている。共有知が意識されて相互知識になる場合には、最初の共有知は、事実だと考えられている知なので、真だと見なされている知であり、それが相互知識になったものも、当然真であると信じられている。また、個人の通常の知が、共有されて相互知識になる場合にも、最初の個人的な知は、知である以上は、真だとみなされているので、相互知識になったものも、真であると信じられている。

ところで、我々は、真なる命題だけを共有しているのではない。もし我々が真なる知識だけを共有するのだとすれば、我々の世界は、平板で窮屈なものになるだろう。我々は、間違った思想を共有したり、虚構の物語を共有したりすることによって、豊かで多様な世界に住むことが出来る。我々が共有することのできる思想には、真なる命題だけでなく、真理値を持たない命題、あるいは偽なる命題も含まれている。

前述の相互知識が成立する第二と第三の仕方が、真理値を持たない命題や偽なる命題を共有することを可能にするのである。例を挙げて説明しよう。

 

事例一 真理値を持たない命題の例

aがbに、浦島太郎の物語を話して聞かせるとする。これによって、つぎの3つが成立する。

()aは浦島太郎の物語を知っている。

()bは浦島太郎の物語を知っている。

() ()()は、aとbの共有知である。

このとき定義によれば、浦島太郎の物語は、aとbの相互知識だといえそうである。しかし、浦島太郎の物語はフィクションなので、真偽はなく、これを知識だということは出来ない。ここで「浦島太郎の物語を知っている」というのは、ある種の省略形であって、正確には、「浦島太郎の物語は、・・・という物語である、と知っている」ということだといえるだろう。この場合の知(の内容)は「浦島太郎の物語は・・・という物語である」という命題である。この命題が、ここでの相互知識の内容である。つまり、正確に言えば次の3つが成立しているのである。

()aは、浦島太郎の物語は・・・という物語である、と知っている。

()bは、浦島太郎の物語は・・・という物語である、と知っている。

() ()()は、aとbの共有知である。

ところで、この場合、「浦島太郎の物語は、・・・である」という知が共有されているだけでなく、浦島太郎の物語もまた、共有されていると言えるだろう。こうして、我々は多くのフィクションを共有することが出来るのである。

 

   〈 事例二 偽なる命題の例

例えば、現在では誤りだと見られている古い理論fがあって、aが、bにその古い理論を教えてあげたとする。このとき、彼らにとって、二人がその理論を知っていることは自明な事実となり、そのことは二人の共有知になっている。つまり、次の3つが成立している。

()aは、理論fを知っている。

()bは、理論fを知っている。

() ()()は、aとbの共有知である。

従って、上の定義により理論fはaとbの相互知識である。しかし、彼らはそれを真であると思っていないどころか、偽であると考えている。この場合も、「理論fを知っている」は省略形であり、正確には「理論fが・・・という理論である、と知っている」と考えるべきであろう。つまり、正確には、次の3つが成立している。

()aは、理論fは・・・という理論であることを知っている。

()bは、理論fは・・・という理論であることを知っている。() ()()は、aとbの共有知である。

このときには、相互知識になっているのは、「理論fは・・・・・・という理論である」という知である。しかし、この場合にも、この知が共有されているだけでなく、偽であると見なされている理論fそのものが共有されている、といえるだろう。こうして、我々は偽の命題を偽の命題として共有することが出来るのである。

 

事例三 真なる命題についての曖昧な理解の例

ところで、もちろん真なる命題がこれと同じような仕方で共有される場合も考えられる。たとえば、ある分野の科学者aとbがおり、その分野で真だと信じられている理論tについて次のことが成り立つとしよう。

()aは、理論tを知っている。

()bは、理論tを知っている。

() ()()は、aとbの共有知である。

この場合にも「理論tを知っている」とは、(間違った理論fの場合と同様に)正確には、「理論tが・・・という理論である」と知っていることであろう。「理論tを知っている」というのが、最も厳密な意味で使用される場合には、いま仮に理論tが命題pで表現されるとすると、「理論tを知っている」とは「pを知っている」という意味になりそうである。しかし、もしこの場合に、aとbが天文学の素人であり、「理論tは天文学の有名な理論である」という大雑把な知であるとしたらどうだろうか。それでも我々は、二人が理論tを知っていることは相互知識だといえるだろうし、また二人は理論tを共有しているといえるだろう。実際、多くの人は、真なる科学理論の大部分について、このような大雑把な理解しかもっていない。それでも、我々はそれらの科学理論を共有し、非常に大雑把であるが、科学的な世界像を共有している。このように我々は、真なる理論を様々な程度の厳密さないし曖昧さにおいて、共有することができるのである。〈真なる理論についての大雑把で曖昧な意味での理解の共有を可能にする仕組みは、偽なる理論や物語の共有を可能にする仕組みと同じである〉と言えるだろう。さらにいえば、ある科学的な世界像が真であるかどうかを疑っている者もまた、それを信じている人々と、その世界像を共有することができるし、またある理論を認める人と認めない人との間で、その理論の理解を共有した上で討議することもできるのだが、これらが可能なのも、相互知識が成立する第三の仕方によるのである。

 

七 相互知識が成立する第四の仕方

相互知識が成立する第四の仕方は、相互知識が、「aとbがpを知っている」という内容の知であることによって、「p」もまた相互知識になるというケースである。ある知が相互知識となる仕方には、これまで述べた三つの仕方があるので、ここで「aとbがpを知っている」が相互知識になる仕方も三通り考えられる。それを確認しよう。

相互知識が成立する第一の仕方に対応するケースを、最初の例で考えてみる。そこでは、次の三つが成立していた。

()aは、赤い山小屋があることを知っている。

()bは、赤い山小屋があることを知っている。

() ()()が、aとbの共有知になっている。

ここで「赤い小屋がある」がaとbの相互知識になっていた。このとき、何らかのきっかけで、aが()()を知っている(実在知、共有知)ということに気付いたとする。つまり、()()が、aにとっての実在知や共有知ではなくて、知として意識された通常の知になったとする。そのとき、aは「私が赤い山小屋があることを知っており、かつbもそのことを知っていること」つまり「二人が赤い小屋があることを知っていること」に自覚的に気づいたのである。このとき、「二人が赤い小屋があることを知っている」という事実が二人にとって自明な事実であって二人がそれを共有している、という関係は崩壊する。

このとき、bは相変わらず「二人が赤い小屋があることを知っている」という事実を自明な事実とする実在知ないし共有知にとどまっているかもしれない。そのとき、aは、()()を知として反省したことを忘れて、再び元の()()についての共有知に戻ることが可能かもしれない。あるいは、少なくともそのようなフリをすることは可能である。

 このとき、bもまた「二人が赤い小屋があることを知っている」という事実を、知として反省するかもしれない。ただし、二人が実際にこのように反省していたとしても、そのことを互いに知らなければ、最初の相互知識は回復しない。(つまり、スムースなコミュニケーションは出来ない。)

 この場合には、つぎのようにして相互知識が回復するだろう。

()aは、二人が赤い山小屋があることを知っていること、を知っている。

() bは、二人が赤い山小屋があることを知っていること、を知っている。

() ()()が、aとbの共有知になっている。

「二人が赤い山小屋があることを知っている」ということについて二人がコミュニケーションを行って、()が成立するならば、上の定義により、()()つまり「二人が赤い山屋があることを知っていること」が、aとbの相互知識になる。ところで、このとき、「赤い山小屋があること」もまた、二人に共有されておりかつ真だと信じられているのだから、二人にとっての相互知識であると言えるだろう。したがって、相互知識の定義に次を加えることが出来る。

「ある相互知識が、「aとbがpを知っている」という内容である場合には、そのpもまたaとbの相互知識である」

第二の仕方に対応するのは、次のケースである。例えば、aがある分野の科学者であり、その分野の理論tを知っているとする。aは、cから聞いて、bはその分野の科学者ではないけれども関心があって理論tを知っている、ということを知っているとしよう。さて、bはaのことをよく知らないとすると、そこで次のことが成立している。

()aは、理論tを知っている。

()bは、理論tを知っている。

()aは、()()を知っている。

()bは、()だけを知っている。

この状況で、aとbが会話することによって、bもまた()()を知ることになるとき、最初はaだけが知っていた「aとbは、理論tを知っている」という知が、相互知識になる。これによって、理論t(理論tが・・・という知である)という知もまた、aとbの相互知識になる。それによって、理論tについての二人の会話はスムースに行われることになるだろう。

 第三の仕方に対応するのは、次のケースである。上の例で、bもまた、aがその分野の科学者であり当然理論tを知っている、ということを予め知っているとすると、次のことが成立している。

()aは、理論tを知っている。

()bは、理論tを知っている。

()aは、()()を知っている。

()bは、()()を知っている。

このとき、()()が成立していても、bはaが()を知っていることを知らない。このとき、「aとbは、理論tを知っている」は相互知識にはなっていない。しかし、二人が会話の中で、()()を知ることになれば、それは相互知識になる。これによって、理論t(理論tが・・・という知である)という知もまた、aとbの相互知識になる。

 

八 相互知識の定義の改良

 上の考察から、我々は相互知識についての最初の定義を次のように改良すべであろう。

「pがaとbの相互知識である」とは、次の3条件を満たしていることである。

(ア)aがpを知っている。(ただしこの知は共有知ではない)

()bがpを知っている。(ただしこの知は共有知ではない)

() ()()がaとbの共有知である。

あるいは次の条件を満たしていることである。

()「aはpを知っており、かつbはpを知っていること」がaとbの相互知識になっていること。

ここで「共通の知識」を次のように定義しよう。

「pがaとbの共通の知識である」とは、次の2つの条件を充たしていることである。

()aがpを知っている。(ただしこの知は共有知ではない)

()bがpを知っている。(ただしこの知は共有知ではない)

この定義を使用するならば、相互知識について次のように定義することができる。

「pがaとbの相互知識である」とは、次の2条件を満たしていることである。

()pがaとbの共通の知識である。

() ()がaとbの共有知である。

あるいは次の2条件を満たしていることである。

()pがaとbの共通の知識である。

() ()がaとbの相互知識である。

 

九 相互知識と代入則

ところで相互知識が成立する仕方には、もう一つある。これは信念文に対する代入則の適用によるものである。相互知識は、「xは、pを知っている」(pには命題が入る)という形式の文を用いて表現される。この形式の文や「xは、・・・・・・を信じる」という形式の文を、ここで広い意味で「信念文」と呼ぶことにすると、相互知識は、信念文一般の場合と同様に、代入則の適用に関して制限を受けることになる。まず、信念文における代入の問題を説明しよう。たとえば、通常の文章の場合には、次の()()から()が言える。

 () キケロはカティリーネを告発した。

 () キケロとタリは同一人物である。

 () タリはカティリーネを告発した。

つまり、()の「キケロ」の代わりに、同一対象を指示する語「タリ」を代入して()のように言うことが出来る。これが「代入則」と呼ばれている。しかし、信念文の場合には、次の()()が成り立っても、()が成り立つとは限らない。

()aは、キケロがカティリーネを告発したことを知っている。

  () キケロとタリは同一人物である。

()aは、タリがカティリーネを告発したことを知っている。

このように信念文では、代入則の適用が制限を受け((5))

さて相互知識も、その定義には信念文を用いるので、代入則の適用に関して独特の制限をもつことになる。例えば、次の三つが成立しているとき、「キケロがカティリーネを告発したこと」はaとbの相互知識である。

()aは、キケロがカティリーネを告発したことを知っている。

()bは、キケロがカティリーネを告発したことを知っている。

() ()()が、aとbの共有知である。

さて、ここで次の二つも成立しているとしよう。

()aは、キケロとタリが同一人物であることを知っている。

()bは、キケロとタリが同一人物であることを知っている。

しかし、この()()から、「タリがカティリーネを告発したこと」がaとbの相互知識であることにはならない。そのためには、()()が、aとbの共有知ないし相互知識になっている必要である。つまり次の()()が成立してのみ、()の「キケロ」に「タリ」を代入した()が成立する。

 ()aとbが「キケロがカティリーネを告発した」を相互に知っている。

  ()aとbが「キケロとタリが同一人物であること」を相互に知っている。

  ()aとbが「タリがカティリーネを告発したこと」を相互に知っている。

したがって、相互知識における代入則については、〈ある表現が、相互知識の従属文のなかの対象を表示する表現と同じ対象を表示するものであることが、相互知識になっている場合にのみ、代入した命題についても相互知識が成り立ちうる〉と言えるだろう。

 ちなみに、これは〈成り立ちうる〉ということであって、必ず成り立つということではない。()の相互知識が成り立つときには、aとbが次の推論を行っている。

  キケロがカティリーネを告発した。

  ところで、キケロとタリは同一人物である。

   ゆえに、タリがカティリーネを告発した。

このような場合の推論が複雑であれば、かりに前提となる命題、・・・・nが相互知識であるとしても、そこから導出される結論pn+1は相互知識にならないだろう。たとえば、ユークリッドの公理が相互知識になっていても、全ての定理が相互知識になるわけではない。では、簡単な推論のときには、必ずその結論が相互知識になるのか、といえばそうではない。なぜなら、どんなに簡単な推論であっても、前提から論理的に導出可能な結論は、無数に存在するからである。そのなかから一つの結論を導出すること、そしてそのような推論を行うことが、両者の相互知識になることによってのみ、その結論は、相互知識になるのである。では、このことはいかにして可能だろうか。これらのことは、ある問いに対する答えを求めるために、一定の推論が行われるということによってのみ可能になるだろう。

 この事例は、前述の相互知識が成立する第三の仕方、つまり「共通の知識」であったものが相互知識になる事例に似ているが、しかしそれとははっきりと異なるものである。このようなケースを含めて、相互知識が成立する仕方については、他にもまだ可能性があるかもしれない。しかし、おそらくそこでも重要なのは、問答であると思われる。最初に述べた相互知識が成立する四つの仕方においても実は、問答が行われているのである。そうすると、〈相互知識は問答によって成立する〉と言いたいところだが、これについては別途詳しく論証を試みたい。

 

十 展望

最後に、この定義の優れている点として、三点を挙げておきたい。

長所一、共有知には、メタレベルというものがないので、無限の階層の知を想定する必要がないこと。

長所二、我々は必要に応じて、共有知を知として反省することが可能なので必要な階層の知の成立を説明できるということ。(もちろん、知として反省されたときには、共有知は、我々の定義する相互知識になる。)

 長所三、知の共有をめぐる複雑で微妙なケースを分析するときに、共有知と相互知識を区別しておくことが、分析の道具立てとして有用であること。

 しかし、このような長所以上に重要な論点がある。それは、このように「共有知」を想定し、これに基づいて「相互知識」を定義することは、我々の知のあり方についての新しい理解をもたらすということである。〈知は本来的に個人の知であって、「私の知」である。それゆえに、相互知識とよべるようなものがあるとしても、それはこの「私の知」から構成されるはずである、あるいは、私によって構成された私の知にすぎないはずである〉と考えることが近代以後の認識論の主流であろう。我々は、これを認識論における方法論的個人主義と呼ぶことが出来るだろう。しかし、共有知の想定は、これとは全く異なる立場をとる。我々は、知は本来的に共有知=実在知であって、個人の知識、「私の知」というものは、その共有知の限定によって成立するものであると考える。

この立場の証拠となるのは、「心の理論」でいうところの「偽

信念問題」である。これは、次のようなものである。〈マキシ(主人公)は、チョコレートを緑のタンスの中に入れる。次に、マキシが見ていないところで、他の人間が、そのチョコレートを青のタンスに移してしまう。そこにマキシが戻ってくる。〉このような「お話」を被験者の子どもに聞かせたあとで、「マキシはどちらの色のタンスにチョコレートをとりに行くかな?」と質問する。ある実験結果によると、「正しく「緑のタンス」と答えた割合は、3-4歳の子どもでは〇%、4-5歳では、五七%、6-9歳では八六%であった。つまり、4歳以下の子どもでは、マキシという他者の知識の世界を正しく推測できなかったことになる((6))」つまり、3-4歳の子供は、自分の知っていることを、他の人も知っていると考えているということなのである。つまり、共有知が我々にとって基底的な知なのである。その後、この共有知が限定されることによって、他者の心の世界と私の心の世界を区別できるようになるのである。

 

(1)S.R. Schiffer, “Meaning, Clarendon Press, Oxford, 1972にある。

(2)相互知識の定式化をめぐる困難についての議論は、次のものに集められている。N.V.Smith (ed.) , Mutual Knowledge, Academic Press, 1982.

(3) D.Sperber and D. Wilson, Relevance, Basil Blackwell, 1986.

(4)スペルベルとウィルソンの「相互に明白」という概念についての批判的な吟味は、拙論「発話伝達の不可避性と問答」(『大阪大学文学部紀要』第四十三号、二〇〇三年三月所収)の注(19)で行った。

(5)拙論「信念文における話し手による指示と信念者による指示」『待兼山論叢』第三十七号、二〇〇三年十二月。

(6)金沢創『他者の心は存在するか』金子書房、一九九九年、六九、七十頁。Cf. Heinz Wimmer & Josef Perner,Beliefs about beliefs: Representation and constraining function of wrong beliefs in young children's understanding of deception in “Cognition” Vol. 13. Issue 1. Science Direct, pp. 103-128.
                  (大阪大学大学院文学研究科教授)