三種類の「なぜ」の根は一つか?

『メタフュシカ』大阪大学哲学講座発行、35号別冊、2004年12月 
    S.59-68.
 

入江幸男


1 はじめに

これから二つのことを論じたい[1]。第一は、「なぜ」で始まる質問が次の三種類、つまり出来事の原因を問う「なぜ」と、行為の理由を問う「なぜ」と、信念の根拠を問う「なぜ」に分類できるということである。このことを示そうとするときに判断に迷ったことは、行為の正当性を問う「なぜ」をどのように位置づけるか、ということであった。第二は、これら三種類の「なぜ」は適用の対象が異なるだけであって、問答の関係は同質の一つのものであるのか、それとも問答の文の形式が似ているだけで、本来異質な三つの関係を扱うものであるのか、という問題である。

まずは、「なぜ」の問いを三種類に分類できることを示すために、それらを順番に考察しよう。

 

2 原因を問う「なぜ」

ある出来事pの原因を「なぜ、pか」と問うことができる。このとき q⊃p、q├p と推論して「なぜなら、pだから(qなのです)」と答えたのだとしよう。このp⊃qは因果法則(ないしは因果法則にもとづくもの)である。この因果法則には、自然的な因果法則だけでなく、社会的な因果法則もある。そこで、次のように分けることが出来る。

  (1-1)自然的原因を問う「なぜ」

     「なぜ地すべりがおきたのですか」「雨で地盤が緩んでいたからです」

  (1-2)社会的原因を問う「なぜ」

   「なぜ就職状況が悪いのですか」「不景気だからです」

(1-1)が自然の因果法則に基づいて答えられるように、(1-2)の社会的原因の場合にも、「不景気ならば、就職状況が悪い」というような社会の一般的因果法則に基づいて答えられる。

 

3 行為の理由についての「なぜ」

次に、ある行為pを行う理由について「なぜpするのか」と問うことが出来る。この理由についての「なぜ」は、次のように区別できるだろう。

(2-1)因果法則による説明

(2-1-1)自然的因果法則による説明

(2-1-2)社会的因果法則による説明

(2-2)社会的ルールによる説明

(2-1-1)で行為の理由を自然的因果法則によって説明するとは、例えば「なぜスピードを落とすのですか」という問いに「カーブを曲がるためです」と答えるときに、「スピードを落とさなければ、カーブを曲がることは出来ない」というような因果法則が前提になっているということである。(2-1-2)で行為の理由を社会的因果法則によって説明するとは、例えば、「なぜ、貨幣供給量を増やすのか」という問いに「デフレを緩和するためです」と答えるときに、「貨幣供給量が増大するならば、物価は上昇する(あるいは、下落が緩和する)」というような社会的因果法則が前提になっているということである。ただし、自然的因果法則の場合にも、社会的因果法則の場合にも、より精確にいうならば、因果法則が行為の理由であるというよりも、<「因果法則がある」と信じていること>が、行為を行う理由になっている。

2-2)で行為の理由を社会的ルールによって説明するとは、例えば「なぜ、梅田までの切符を買うのですか」という問いに「梅田に行きたいからです」と答えるときに、「電車に乗るためには、目的地までの切符を買わなければならない」という社会的ルールが前提になっているということである。この場合にも、精確にいうならば、この社会的ルールの存在よりも、<この社会的ルールの存在を信じていること>が、行為の理由である。

念のためにここで、社会的ルールと社会的因果法則の違いについて二点確認しておきたい。()社会的ルールは、規約によって成立するが、社会的因果法則は、規約によって成立するのではない。たとえば、「不景気になると、自殺者が増える」「ガソリンの値段が上がると、ガソリンの消費量が落ち込む」などの社会的因果法則は、規約によって成立するのではない。(ii)社会的ルールは、各人がそれを信じることによって、ルールとして成立するのだが、社会的因果法則は、各人がそれを信じていなくても、因果法則として成立する。

 

3 正当性を問う「なぜ」はどれに分類されるのか

 行為の理由を問う「なぜ」について詳しく分類して検討したのは、行為の正当性を問う「なぜ」をどう扱うべきか、つまり行為の理由を問う「なぜ」に分類すべきなのか、根拠を問う「なぜ」に分類すべきなのか、それとも第四の分類項目として独立に扱うべきなのかについて、明確な答えを出すために行為の理由を問う「なぜ」について明確な理解を得ておく必要があったからである。一般に正当性を問う「なぜ」は、次の二つに区別できる。

(1)行為の正当性を問う「なぜ」 

(2)ルールの正当性を問う「なぜ」

(1)行為の正当性を問う「なぜ」について

おそらく我々は、全ての行為について様々な意味でその正当性を問うことができる。そして、その問いに答えるときには、規範的ルールに基づいて答えることになる。例えば「なぜ本を貸し出しできないのですか」という問いに「もう6時半ですから」と答えるとき、<図書の貸し出しは6時迄である> という規範的ルールと、<今、6時半である>という事実の二つが前提となって、<貸し出しできない> といことが結論となる、推論が行われている。このとき、二つの前提のうちのどちらの前提も、<貸し出ししないという行為> ないし <「貸し出しできません」という発話行為> を正当化するものだといえる。

ちなみに、おそらく(上述の(2-2)を含めて)すべての社会的なルールは、同時に規範的ルールでもあると言えるだろう。それゆえに、我々は、同じ社会的ルールにもとづいて、行為の目的を説明することもあれば、行為の正当性を説明することもある。たとえば、今仮にある社会的ルールが「pを実現するためには、qを実現しなければならない」という形式だとしよう。次の問答は、このルールにもとづいて、目的を説明することになっている。

「なぜ、qを実現するのですか」「なぜならpを実現するためです」

そして、次の問答は、qを実現することの要求を正当化する問答である。

「なぜ、qを実現しなければならないのですか」「なぜなら、pを実現するためです」

このように同じ社会的ルールに基づいて、行為の目的を説明することも、行為の正当性を説明することも出来るのである。そこで、行為の正当性を問う「なぜ」は、行為の理由を問う「なぜ」の一種であるように思われることになる。しかし、そうではないことを次に確認しよう。

行為の正当性を問う「なぜ」は、一般的に次の二つの形式をとる。

「なぜ、xは、・・・しなければならないのですか」

「なぜ、xは、・・・できるのですか」

「x」には「私」や「あなた」が入ることが多いと思われるが、しかし第三者の行為の正当性について問うことも可能であるし、また組織や集団の行為の正当性について問うことも可能である。これらにおいて、「xが・・・しなければならない」と「xが・・・できる」は、xの行為について述べているのだが、行為自体を記述しているのではなくて、行為が義務であること、ないし許可されていること、を述べている。従って、これらは行為についての価値判断であるといえるだろう。この正当性を問う「なぜ」は、価値判断の根拠を問うものである。従ってこれは根拠の「なぜ」に属することになるだろう。

(2)ルールの正当性を問う「なぜ」について

ルールの正当性を問う「なぜ」は、行為の正当性を問うこととは異質なことであるように見えるのだが、これは以下に示すように、行為の正当性を問う「なぜ」に還元することが出来る。

今仮に社会的ルールが「pを実現するためには、qを実現しなければならない」という形式になるとしよう。たとえば、「本の貸し出しは、6時までである」を、この形式で言い直せば、「本の貸し出しを実現するためには、6時までに貸し出し手続を実現しなければならない」となる。このとき、このルールに関する「なぜ」の次の問いは、二つの意味を持ちうる。

「なぜ、本の貸し出しは、6時までなのですか」

①「本の貸し出しが6時までである、と決められた理由は何ですか」

②「本の貸し出しが6時までである、というルールの正当性は何ですか」

①は、(ある人、ないし集団が)ルールをそのように決めた(という行為の)理由を問うている。従って、この行為の目的ないし正当性を問うものである。②は、ある命題がルールであることの正当性を問うものである。ところで、ある命題がルールとして正当であるとは、それに従わなければならないということである。従って、この問いは、次のように言い換えることができるだろう。

③「なぜ我々は、そのルールに従わなければならないのか」

③は、「我々」の行為の正当性を問うものである。②は「我々」に言及していないが、③は「我々」に言及しているという違いがある。しかし、社会的ルールは、つねにある社会(集団や組織)のルールであり、「我々」とはその社会(集団や組織)の構成員のことである。②の中の「ルール」はつねに「社会構成員にとってのルール」であり、この「社会構成員」が「我々」である。つまり、②のなかでも、「我々」は潜在的に言及されていると考えられる。従って、②と③は同義であると考えられる。従って、社会的ルールの正当性を問う「なぜ」は、行為の正当性を問う「なぜ」に還元することができるのである。

行為の正当性を問う「なぜ」は、規範的ルールによって答えられることになるが、この規範的ルールの正当性についての問い、つまり②のような問いは③に還元され、③の答えはさらに別の規範的ルールによって答えられることになる。では、このような遡行を続けると、いれずれ最終的な規範的ルールに辿り着くだろう(それが1つであるか、複数であるかは、今は問わない)。そのとき、この最終的な規範的ルールの正当性への問いに対して、どのようにして答えることが出来るのだろうか。もし、これに答えられないとすれば、その規範的ルールの正当性は失われ、それに基づいていいる別の規範的ルールの正当性も失われ、・・・すべての規範的ルールの正当性は失われる、ということになるだろう。

この特徴は、根拠の「なぜ」の特徴でもある。根拠の「なぜ」に答えられないとき、我々は、その主張を撤回しなければならなくなる。これに対して、原因や理由を問う「なぜ」の場合には、答えられなくとも、その出来事や行為が成立していることを否定する必要はない。このこともまた、正当性を問う「なぜ」を根拠の「なぜ」の一種とみなすことの論拠になるだろう。[2]

 

4 根拠の「なぜ」の分析

最後に、信念の根拠を問う「なぜ」について説明しよう。信念や認識や主張の根拠を問う「なぜ」に答える方法は、次の二つに分けられる。

3-1)推論によって根拠づけが行われる場合

3-2)判断以外のものに基づいて根拠付けが行われる場合

(3-1)は、「なぜpか」に対して、ある別の判断qから推論によってpを導出できるときに「なぜならqだから」と答える方法である。この場合のqとpの関係は、根拠と帰結の関係の典型例であり、ここには何の問題もない。

(3-2)は、もはやそれ以上別の判断に遡ることが出来ないときに、判断以外のものに基づく場合である。例えば、ショーペンハウアーは、このようなものとして感性的直観にもとづく経験的真理と、悟性と感性の形式にもとづく先験的真理と、思考の形式的条件にもとづく同一律と矛盾律と排中律と根拠律の三つを挙げていた[3]。我々は、これらの他にも、実践的知識、超越論的語用論的前提、問答論的必然性、に基づいて信念を根拠付けるという議論を想定することができる。[4] 感性と悟性のアプリオリな形式の基づく先験的真理を認めらるかどうか、基本的な論理規則を <理性の思考の条件> といったもの基づけることができるかどうか、については別途批判的に吟味しなければならないが、これらの根拠付けの仕方そのものは、この(3-2)に属するものである。また、例えば「私は存在する」という主張については、内的な直観、実践的知識、超越論的語用論的前提、問答論的必然性などに基づいて<根拠付け>ようとする議論が考えられるが、いずれがただしいにせよ、これらの根拠付けの仕方は、(3-2)に属する。

ところで、(3-2)の答え方は、根拠を答えていると言えるのだろうか。例えば、ある感覚と「これは白い」という主張の関係は、根拠-帰結の関係だろうか。これは原因-結果の関係に似ていないだろうか。これについては、後で議論することにしよう。

 

5、「なぜ」の問いは三つである

 「なぜ」の問いは、上述の三種類だけであると思われる。我々は平叙文で語ることができるどのような事柄pについても、「なぜpなのか」と問うことができるだろう。ところで、平叙文で記述できる事柄を、①自然的出来事ないし状態、②心的作用および行為、③思考ないし言語の世界、に分けることが出来るとすると、①について「なぜ」と問うときには、原因を問うことになる。②については、感覚や知覚や記憶について「なぜ」と問うときには、原因を問うことになり、感情、想像、意志、思考および行為ついて問うときには、理由を問うことになるだろう。そして③について「なぜ」と問うときには、根拠を問うことになる。思考の客観的な内容は③に属するが、思考作用が心的行為と見なされるときには②に属することになるので、「なぜ」によってその理由が問われる。また②の心的作用および行為が、自然的出来事と見なされるときには①に属することになるので、「なぜ」によってその原因が問われることになる。このように考えるとき、「なぜ」の問いは、原因と理由と根拠を問う三種類で尽きるように思われるのである。[5] 以上では、まだ充分な論証であるとは言えないかもしれないが、少なくとも言えることは、現在のところ反証例が見つからないということである。

 

6 三つの「なぜ」の根は一つか? それらの同質性と差異性について

我々は「なぜ」の問いを、原因、理由、根拠を問う「なぜ」の3つに区別できることを見てきた。言語の発達史においても、幼児の言葉の発達の上から言っても、「なぜ・・・なのか」「なぜなら・・・だから」という問答の発生が先行し、その後「原因」「理由」「根拠」などの言葉が発生したのだとおもわれる。ただし、ここでは発達史の上での順番ではなく、事柄の本質上、三つの「なぜ」の根が一つなのか、それとも三つなのかを考察したい。[6]三つの「なぜpなのか」の問いの違いは、「p」が出来事、行為(感情、想像、意思)、信念(認識、主張)のいずれであるかの違いだけなのだろうか。つまりこの問いが適用される対象の違いだけなのだろうか。答えによって明らかになる、原因-結果、理由-行為、根拠-帰結、という三種類の関係もまた、名前が異なるだけであって、本来同質の関係なのだろうか。それとも、これらの関係は本質的に異なるものであって、確かにそれらはq⊃p、q ├ pという類似した論理構造をもつが、それは偶然の一致に過ぎないのだろうか。

(1)原因-結果と理由-行為の関係について

まず、原因-結果と理由-行為の関係が同質であるかどうかという問題と、行為の因果説か反因果説かという問題とが、どのような関係にあるのかを確認しておきたい。行為の因果説が正しければ、理由-行為の関係は、原因-結果の関係であり、反因果説が正しければ、この二つの関係は異質である、ということにはならないだろう。なぜなら、行為の因果説とは、意図が行為の原因であるという主張であるが、厳密に言えば、意図の発生が行為の発生の原因である、という主張である。これに対して行為についての「なぜ・・・するのか」と問うときには、意図の内容が問題になっており、意図の発生が問題になっているのではない。仮にある意図の発生がある行為の発生の原因であるとしても、行為の「なぜ」の問答によって明らかにすることが求められている理由-行為の関係は、その意図の内容と行為の内容との関係なのである。つまり、この二つの問題は独立しており、少なくとも一方の答えから他方の答えを導出できるというような仕方で、直接的に結合しているものではない。

さて、原因-結果と理由-行為の二つの関係を比較しよう。原因-結果は、時間的な前後関係になるが、理由と行為は時間的な前後関係にはない。意図の発生は行為に時間的に先行するが、意図の内容は、行為の目的を述べたものであり、行為は目的の実現に時間的に先行する。あるいは、「なぜポンプを押しているの」と問われて、「灯油をストーブに入れているんだよ」と答えるときのように、行為はその目的の実現と同時であるかもしれない。つまり、時間関係を考慮するとき、この二つの関係は異質なものであり、一方を他方に還元することはできない。  

この二つの関係のもう一つの差異は、行為の理由を説明するときにも、因果法則やルールが使用されるが、前述のように、精確に言うならば、法則やルールが存在していることではなく、それらが存在しているという信念が、行為の説明に必要なことなのである。この点でも、この二つの「なぜ」の一方を他方に還元するということはできそうにない。では、この二つの「なぜ」をともに根拠の「なぜ」に還元する可能性については、どうだろうか。

(2)他の二つの関係を根拠-帰結の関係に還元できるのだろうか?

原因と結果の関係も、理由と行為の関係も、厳密な推論に仕上げられるならば、論理的な前提と結論の関係になるだろう。ゆえに、それは根拠と帰結の関係になるはずである。このことを原因-結果の関係を例に説明しよう。1つは、因果法則と結果となる出来事との関係である。いま仮に「なぜFaなのか」という問に「なぜならGaだから」と答えるときに、その背後には ∀x(Gx⊃Fx)、Ga├Fa という推論があり、∀x(Gx⊃Fx)が因果法則であるとしよう。ところで、このときに∀x(Gx⊃Fx)とGaを比較して、Gaの方がより自明であれば、おそらく「なぜなら∀x(Gx⊃Fx)だから」と答えるだろう。ところで、GaはFaの原因であるが、∀x(Gx⊃Fx)はFaの原因ではない。というのも、∀x(Gx⊃Fx)は無時間的であるので、これとFaの関係は、因果関係のような時間的な前後関係ではないからである。この答えが原因を答えているのではないとすると、この問いは原因を問う「なぜ」ではないことになる。この因果法則∀x(Gx⊃Fx)は、Gaという前提と結合して、Faという主張の根拠になっているといえるだろう。そうすると、この「なぜ」は根拠を問う「なぜ」であることになる。

同じことは、理由-と行為の関係についても成り立つはずである。従って、すべての原因を問う「なぜ」と理由を問う「なぜ」の質問は、それに厳密に答えたときには、根拠-帰結の関係になる。では、3つの「なぜ」の根は一つであり、それは根拠を問う「なぜ」なのだろうか。

 しかし、つぎの反論が考えられる。原因と結果の関係、理由と行為の関係は、厳密な推論にはなりえない。なぜなら、それらには、デフォールトな条件が常に付きまとうからである。ゆえに、それらに関する推論は、必ずデフォールト推論になる。それに対して、根拠-帰結の論理的な関係は、単調推論、つまり通常の演繹推論になる。つまり、これらは異質である。

たしかに、例えば、数学や論理学での定理の証明は単調推論である。しかし、経験的な判断の場合には、それらとその根拠となる判断との関係は、多くの場合にデフォールト推論になるだろう。従って、反論となる推論の質的な差異は、それほど決定的なものとは思われない。三種類の「なぜ」の問いの共通の根は、推論構造にあるのかもしれない。

(3)原因の「なぜ」と根拠の「なぜ」の類似点

「なぜ」の問いへの答えは、通常は推論になるのだが、そうならないように思われるケースがある。それは、命題以外のものが根拠になる(3-2)の場合である。命題以外のものが根拠となるので、ふつうに考えると、これは推論の関係にはならない。それは根拠というよりも、原因であるようにも見えるのである。以下に詳しく説明しよう。

 (3-1)の場合には、信念の発生の原因は、信念の根拠とは明確に異なる。たとえば、数学の定理の証明を友人に教えられたとすると、その定理についての信念の発生の原因は、友人に教わったことであるが、信念の根拠はその証明である。

しかし、(3-2)の信念が判断以外のものに基づいている場合には、信念の発生の原因と信念の根拠の区別は曖昧になる。たとえば、「これは白い」という判断の根拠が感覚である場合、この信念の発生の原因が、感覚であるということも出来そうである(もちろん、ある種の感覚が発生するとき、つねに「これは白い」という判断が発生するわけではないので、その感覚と判断の間に必然的な因果関係があるとは言えないが、しかし前に見た様に、因果関係にはデフォールトな条件が伴っているので、この感覚を原因とよぶことも可能なように思われる)。この場合に、「これは白い」の判断の根拠は、その感覚であるが、より精確にいえば、その感覚の質であるというときにも、その感覚の質は、また同時に「これは白い」という判断の発生の原因でもあると言うことも出来そうである。

 同様のことが、「私が存在する」ということをある内的直観に基づいて主張する場合にも妥当する。この「私が存在する」という信念の根拠は、ある内的直観であるとも言えるが、この信念の発生の原因が内的直観であるとも言えそうである。つまり、「私は存在する」という信念の根拠と原因の区別が曖昧になる。

同様のことが、論理法則の根拠についても妥当する。その根拠は論者によって、理性の思考の条件と考えるか、超越論的語用論的前提と考えるか、などの違いがあるが、具体的な論証はすでにアリストテレスが述べていたこととあまり変わらない。5[7]矛盾律を否定してみると、およそ何事かを考えたり、対話したりすることが不可能になるということである。この事態は、矛盾律を真と見なさざるを得ないという根拠であるとも言えるし、原因であるとも言えるだろう。

このように(3-2)の「なぜ」は、原因の「なぜ」に似ているのだが、しかし、次の点ではむしろ理由の「なぜ」に似ている。

(4)理由の「なぜ」と根拠の「なぜ」の類似点

原因-結果の関係は、我々がそれを知らなくても、つまり我々がそれを問わなくても成立する。これに対して、理由-行為の関係は、我々の問いかけによって、あるいはわれわれがそれを知ることによって成立しているといえる。なぜなら、自分の行為を自分で理解するときにさえ、その意図(理由、目的)に言及することが不可欠であるので、理由を知らずに行為するということは、ありえないからである。(無意識の欲望が働いていることがあるかもしれないが、その欲望を実現するために行為が行われているのならば、その関係が意識されていないとしても、それは何らかの仕方で知られているといえるだろう。もし、その関係が知られていないのだとすると、その関係は、理由-行為の関係というよりも、原因-結果の関係だと言うべきであろう。その場合の無意識の欲求と行為の関係については、本人によって事後的に語られるか、他者によって語られる、という仕方でのみ可能である。そのときに、本人が無意識の欲望を実現する為に、行為を行った、という語り方をするのであれば、そこには理由と行為の関係がある。)

ところで根拠の「なぜ」の (3-1)の場合には、判断間の根拠-帰結の関係は、我々がそれを問わなくても、また知らなくても、成立している。それに対して、(3-2)の事態と判断の間の根拠-帰結関係は、知の発生の関係でもあり、我々がそれを問うことによって成立する。前述のように、ある感覚の質があたえられたとしても、常に「これは白い」という信念が発生するのではない。それが発生するのは、「それは白いですか」とか「それは何色ですか」などの問いに対して答えようとすることによってである(もちろん、自問自答の場合もあるだろう)。(3-2)の場合に、問われている信念自体が、問答によって成立しているということは、行為の理由を問う「なぜ」の場合にも当てはまる特徴である。

(5)むすび

 三つの「なぜ」の問いの根は一つか否か、という問いに、ここではまだ答えを出すことは出来ない。しかし、この問題に答えようとする過程で、三つの「なぜ」の特徴がかなり明らかになってきたとおもわれる。この問いに答えを確定することに、哲学的にどのような意義があるのか未定であって、その意味ではこの問い自身が未だ形成途上にある。しかし、この問いに取り組むことが、三つの「なぜ」の分析するための有効な視点を提供してくれることは確実である。

(いりえゆきお 大阪大学大学院文学研究科教授)



[1] 「なぜ」疑問文については、これまでに拙論「問答の意味論と基礎付け問題」(『大阪大学文学部紀要』第37号、19973月)と「発話伝達の不可避性と問答」(『大阪大学文学部紀要』第43号、20033月所収)で論じてきた。これらの論文や本論文において、「なぜ」疑問文を取上げる背後にあるのは、知の基礎付け、ないし正当化の問題への関心である。

 

 

[2] 原因の「なぜ」、理由の「なぜ」、根拠の「なぜ」についてのこのような問いの反復およびそこら生じる問題については、不充分ながら拙論「問答の意味論と基礎付け問題」(『大阪大学文学部紀要』第37号、19973月)で考察したので、ここではこれ以上触れない。

[3] ショーペンハウアーは『充足理由律に関する4つの根について』の中で、認識根拠を4種類に分けているが、これは根拠の「なぜ」に対する4つの答え方になっている。(1)論理的真理、これは、ある別の判断qから、推論によってpを導出できることから、「なぜなら、qだから」と答えるやり方である。(2)経験的真理、これは、感覚ないし知覚にもとづいて、pと認識したことから、それに基づいて「なぜなら、そののように知覚したので」と答えるやり方である。(3)先験的真理、これは、例えば、「二直線は、空間を囲むことはない」「なにものも原因なしには生じない」であり、これらは悟性と感性の形式から成立する(カントの言う)「アプリオリな綜合判断」である。それゆえに、これらについて「なぜ」と問われたならば、たとえば「なぜなら、我々の悟性と感性の形式によって、このようの認識が生まれるのである」と答えることになるだろう。(4)超論理的(metalogich)真理、これは論理学の基礎となる判断であり、「理性のうちにある一切の思考の形式的諸条件」に基づく判断である。ショーペンハウアーはこのような判断として4つ(同一律、矛盾律、排中律、根拠律)をあげている。これらの命題について「なぜ」と問うたならば、ショーペンハウアーならば「なぜなら、理性のうちにある一切の思考の形式的諸条件によって、我々はこのように思考せざるを得ないのである」と答えるだろう。参照、生松敬三訳「根拠律の四つの根について」(『ショーペンハウアー全集1』白水社、1972年)第三十節—第三十三節。Vgl. Shopenhauer, Sämtliche Werke, Bd.1, Brockhaus Mannheim, 1988. S.106-110.

 

[4] 問答論的必然性については、拙論「問答論的矛盾」(文部省科学研究費共同研究報告書  課題番号10410004 『コ

ミュニケーションの存在論』、20013月)の参照を乞う。

[5] ショーペンハウアーは前掲書『根拠律の四重の根について』において、根拠律を次の四つ、①生成の根拠律=因果律、②認識の根拠律、③存在の根拠律④行為の根拠律=動機付けの法則、に区別している。この①②④はそれぞれ、原因を問う「なぜ」、根拠を問う「なぜ」、理由を問う「なぜ」に他言うするものである。③の存在の根拠律とは、空間と時間の形式的関係であり、これを命題で表現した幾何学や算術は、カントにならってアプリオリな綜合判断と見なされている。我々は、幾何学や算術の定理についての「なぜ」は、根拠の「なぜ」に属し、事実としての空間と時間の形式に関しての「なぜ」は、原因をとう「なぜ」に属すると考えることができるだろう。

 

 

[6] ショーペンハウアーは、前掲書『根拠律の四つの根(四重の根)について』において、根拠律を4つに区別するが、「根拠律は、偶然に同じ判断に行き着いた四つの異なる根拠をもつ判断ではなく、四つの形態をとって現われる一つの根拠をもつ判断であって、私たしはそれを比喩的に、四重の根と呼んだ」(Ibid.. S.110. 前掲邦訳p.146に手を加えた。)このようにショーペンハウアーは、四つに根拠律の根は一つである、と考えている。

[7] アリストテレスは、『形而上学』第4巻第4章で、矛盾律を否定することが不都合に陥ることを示すという「弁駁的」(1006a8)な論証を行っている。