MemoirsoftheOsakaInstituteofTechno1ogy,Series:BVol.26,No.2(1982)16PP.
大阪工業大学一般教育科(昭和56年11月5日受理)
論文3 へ一ゲル『精神現象学』における無限判断とエレメント
へ一ゲルの無限判断は西洋哲学史において重要な意義をもっているが、本論ではへ一ゲルの無限判断の意味及び弁証法におけるその役割を明らかにしたい。後者については無限判断が最っとも多く活用されている『精神現象学』の展開方法との関係において考察したい。
I.無限判断の意味とその展開
カントの影響
へ一ゲルが無限判断と呼ぶものは、一般にはカントの無限判断と名を一にするのみで、意味上は殆ど関係ないと考えられているようである。しかし、我々はまずこれに異議を唱えたい。そこで始めにカントの無限判断の意味を確認しておこう。
カントによれば、無限判断とは形式的には肯定判断であるが内容的には否定判断であるような判断であって、「或るものは非AであるEtwas
ist nonA」という一般的な形式をもっている。カントの挙げている例に「魂は不死であるDieSee1e
ist nicht-sterb1ich」という判断がある。このような判断が無限判断と呼ばれる理由は、「無限判断が単に(否定判断のように)主語が述語の下に含まれていないことを示しているのみではなく、主語が述語の領域の外で、無限の領域のどこかにあることを示している」(下線と括弧内は引用者)点にあるといわれている。しかしこの「無限の領域」は規定されていないから、この判断はむしろ述語の領域、Aという領域を制約されたものとして表現している。このような無限判断において、述語の領域からの主語の「排除は、否定であるにもかかわらず、(述語の)概念を制約することは、(概念を確定することだから)肯定的行為である」(括弧内は引用者)といわれている。結局カントのいう無限判断は述語の領域の制約であって、それは肯定面と否定面の二義を持っている.ことになる。次にへ一ゲルの無限判断の意味を見たい。、へ一ゲルが判断論として無限判断について述べているのは『イエナ論理学』『哲学的予備学』『大論理学』そして『エンチクロペディー』においてである。ここではさしあたり、後の展開のもとになりその後も継承されている基本的な無限判断の意味として、『イエナ論理学』(1804/1805)で
の無限判断論を見たい。
そこでへ一ゲルは、無限判断を否定判断より更に徹底した否定の判断、述語の属する4)「より高次の領域die
hoehere Sphaere」の否定の判断と考えている。例えば、「Bは緑ではない B ist
nicht gruen」という否定判断では、Bが緑色をもつことは否定されていても、何らかの色をもつことは否定されていない。これに対して例えば、「感情は赤色をもたない
Das Gefuel hat nicht eine rote Farbe」という判断では、感情が赤色をもたないことのみならず、およそ何の色ももたないことが表現されているとへ一ゲルは言う。ここでは述語、赤色の属している「より高次の領域」である色一般が否定されているのである。このような判断を、へ一ゲルは無限判断と呼ぶ。もう1つ挙げている例は、「精神は六フィートではない
Der Geist ist nicht sechs FuB 1ang」という判断である。(この2つの例を見ても判るように、へ一ゲルはカントの示した一般的な形式「或るものは非Aである」にあまりこだわっていない。へ一ゲルは、肯定判断や否定判断などでも、その文法的な形式をではなく、それが示している事態、つまり主語と述語の関係を主題にしている。)ところで、このような「無限判断において、述語は主語によって完全に否定されているが、そのことによって同時に述語は主語への包摂から外へ出ており、主語と同様に全く自分だけで(fuer
sich)存在している」といわれている。へ一ゲルによれば、結局無限判断とは、述語の属する「より高次の領域」の否定であって、そのことは述語の完全な否定という否定面をもつと同時に、述語を自存化させるという肯定面をもっということになる。今や我々は、へ一ゲルの無限判断とカントのそれとの間の構造の類似点を容易に見い出し得る。それは、一無限判断が述語の領域の否定であって、それが肯定面と否定面の二義をもっているということである。へ一ゲルの無限判断は、カントの無限判断を単に名前においてのみならず、論理構造においても継承したものであるといえる。但し、述語の領域といってもカントの場合には「或るものは非Aである」というときのAという領域であるが、へ一ゲルの場合にはそのAの属するより高次の普遍的領域であるという違いがある。ヘーゲルのこのような無限判断の理解は、シェリングの影響ではないかと推測される。
シェリングの影響
シェリングは『哲学の原理としての自我について』(1795)において、命題を定立命題、反定立命題、綜合命題の3つに分け、定立命題を分析命題であるとし、定立的肯定的命題と定立的否定的命題の2つに分ける。一肯定的命題は、一般に或るものを実在性の一領域へ措定する命題であるが、定立的肯定的命題は、単に実在性一般の領域へ措定する命題であるという。否定的命題は、主語を述語とは異なる領域に措定したりせず、実在性一般の領域からとり去るが、定立的否定的命題は、主語を一定の領域からとり去るだけでなく、その領域に端的に対立する他の領域に措定しているという。シェリングはこの定立的否定的命題を無限判断と呼んでいる。彼が例に挙げているのは「神は非現実的である
Gott ist nicht-wirklich」「円は甘くない ein Zirke1 ist nicht suess」である。ここでは、主語が述語の領域に属することが否定されているが、それはカントの場合のように述語自身の領域ではなく、述語自身の領域が属しているより高次の普遍的な領域に属することの否定である。ここではそのことが、述語自身の領域に端的に(schlechthin,gerade)対立した他の領域に属するという言い方で表現されている。その証拠に「円は四角でない
Ein Zirke1 ist nicht viereckigt」という否定判断は、「円は四角でなくある
Ein Zirkel ist nicht-viereckigt」という無限判断にはならないといわれている。なぜなら、円は四角自身の領域には属さないが、四角のより普遍的な領域、図形という領域に属しているからである。この点でべ一ゲルの無限判断は、シェリングの影響を受けていると考えられる。ちなみに、シェリング自身はこのような無限判断論をザーロモン・マイモンから学んだと述べている。
無限判断論の展開
へ一ゲルはこのような無限判断を『哲学的予備学』(1808〜1813)において更に展開させている。まず「上級クラスのための哲学的エンチクロペディー」(1808乱)では、否定一)される述語の属する領域が「普遍的領域
die a11gemeine Sphaere」と規定され、この表現はこれ以後ずっと続くことになる。次に「中級クラスのための論理学」(1808/9)では、『イエナ論理学』ですでに指摘されていた、無限判断が主語と述語の自存化という肯定面をもつことが、「個別は個別である」という「同一判断das
identische Urtei1」として表現されている。続く「下級クラスのための論理学」(1809/10)では、下級クラスのためか説明が簡単であり、とくに展開はみられない。同年の「上級クラスのための概念論」(1809/10)では、無限判断の二義を、「形式に関しては」同一判断、「内容に関しては」無限判断というように、形式面と内容面に振り分けているが、このような試みは、ここだけである。最後の「中級クラスのための論理学」(1810/11)では、無限判断は「肯定的形式においては同一判断として、否定的形式においてはばかげた判断 ungereimtes
Urtei1として」考えられており、無限判断の二義性は、はっきりと肯定面、否定面の二義性として示されている。以上の展開は『イェナ論理学』での無限判断論に潜在的に含まれていた論理構造が顕在化してゆくという性格のものである。『大論理学』第二巻(1816)において、この顕在化は最っとも徹底している。ここでは先に「同一判断」と「ばかげた判断」と呼ばれたものが、「肯定的無限判断
das positiv-unend1iche Urteil」と「否定的無限判断 das negativ-unend1iche
Urtei1」と呼ばれている。無限判断の二義性はここに至って、肯定、否定の2つの無限判断となった。無限判断という名前の理由としてへ一ゲルは、ここで「否定的無限判断」が「否定的無限
das Negativ-Unend1iche」であると述べてい乱否定面、つまり「否定的無限判断」の意味は従来と変わりないが、ここで初めて「無限判断のより実在的な例」として「犯罪
das Verbrechen」が挙げられている。これは、いわば出来事 Geschehen としての無限判断である。「民事訴訟」において所有権が争われるとき、例えば、「これはAのものである」を否定して「これはAのものではない」「これはBのものである」と訴訟を起こすとき、「これはAのものではない」「これはBのものではない」という否定判断は現われても、「これはおよそ誰のものでもない」という判断は現われない。つまり、誰某の所有権が争われ否定されることはあっても、所有権一般、法一般が否定されることはない。これは否定判断である。これに対して、「犯罪」は普遍的領域である法そのもの、所有権一般の否定であるから無限判断と考えられる。例えば、窃盗は、「Aのもの」とか「Bのもの」という述語の普遍的領域である「誰かのものであること」所有権一般を否定するものである。ところで肯定面のとらえ方には展開がみられる。無限判断は「否定の否定
die Negation der Negation」と考えられ、その肯定的なものは「個別性の自己自身への還帰
die Ref1exion」と表現されている。この還帰の表現が「個別は個別的である」という「肯定的無限判断」である。従来はこの主語面の同一判断しか語られていなかったが、ここでは述語も主語から「自己自身へ還帰」し、「普遍は普遍的である」と語られている。「肯定的無限判断」は、主語と述語が「否定的無限判断」によって分離することによって、各々が自己内に還帰するという二重の自己内還帰が起り、各々が自存化するという側面を表現している。「バラは如何なる象でもない
Die Rose ist kein E1efant」という否定的無限判断の例でいえば、その肯定的無限判断は、「バラはバラである」「動物は動物である」となる。最後に『エンチクロペディー』(1817)と『エンチクロペディー』(1830)をみると、綱領という性格のためか、ここには何の展開もみられない。但し、「補遺」で無限判断の例として、「死」が述べられている。「死は、単純な否定判断である病気との区別において、否定的無限判断である。病気においては単にあれこれの特殊な生命機能が阻止ないし否定されているが、これに対して、死においては身体と魂が切り離されている、即ち主語と述語12)が全く分離している。」
『精神現象学』での無限判断
こう見てくると、へ一ゲルの無限判断論の展開はほぼ明瞭な単線的なものと考えられるが、実はそうではない。『精神現象学』(1807)における無限判断は、これらの諸論理学の判断論での無限判断と非常に異なっている。しかも、この意味の無限判断の方が、弁証法論理にとってより重要である。『精神現象学』において無限判断として具体的に述べられている命題は3つだけである。それは、「自己は物である」という「観察する理性」という章での結論と、絶対知の章で、この命題が言い直されている「自我の存在は物である」という命題と、その換位命題である「物は自我である」という命題の3つである。しかし3つの内の前の2つは同じものと考えてよいから、『精神現象学』で述べられている具体的な無限判断は「自我は物である」と「物は自我である」の2つであると考えてよい。これらの無限判断は、今まで見てきた無限判断とは異質であるように見える。「自我は物である」という判断について考えてみると、前述の無限判断論に従えば、この判断は「自我は如何なる物でもない」という否定的無限判断が、「自我は自我である」と「物は物である」或るいは物の普遍的領域を存在と考えて「存
在は存在である」という主語面と述語面の2つの肯定的無限判断になるはずである。何故、「自我は物である」が無限判断になるのであろうか。この判断が無限判断であるならば、それは述語の普遍的領域の否定になっていなければならない。「バラは如何なる象でもない」という前述の無限判断は、バラが象の普遍的領域である動物に属すことを否定しているとへ一ゲルは考える。しかし、バラと象には共通の領域が全く欠けているわけではない。象の普遍的領域を動物としてではなく、生物として捉えると、バラはこの普遍的領域に属しているのであって、主語と述語は全く関係を欠いているわけではないことになる。こう考えると、この判断は述語の普遍的領域の否定になっていないから、もはや無限判断ではなく否定判断である。述語の属している普遍的領域を如何に究極的な普遍性において捉えてもなお、それを否定している無限判断を仮りに「絶対的無限判断」と名づけるならば、このような「絶対的無限判断」においては、主語と述語は如何なる共通領域にも属さないということがいえる。判断において主語と述語が如何なる共通領域ももたなくなると、判断という形式が廃棄
Aufheben されるということは『イエナ論理学』以来変わらず云われていることであるが、ここではいわば絶対的に廃棄されることになる。なぜなら如何に無関係で異なったもの同士も、それらが異なったものとして判断されるのは、判断者が両者を比較しているからであって、比較は両者が共通の場に立つことによってのみ可能であるからである。共通の場の成立しないものを比較・判断することは不可能であり、両者は区別せられない。従って「絶対的無限判断」では主語と述語は区別せられず、判断形式であえて表現するなら肯定判断という形式をとることになる。「自我は物である」という判断は、まさにこのような「絶対的無限判断」である。物の究極的な普遍的領域は存在であると考えられる。へ一ゲルのいう存在とは、ハイデガーが指摘したよう)に「直接的表象において、意識に対象的になるもの」であり、このような対象的「存在」と対象化する「意識」の間には如何なる共通領域もない。「意識」と自我との関係については、両概念の多義性ゆえに幾通りか考えられるが、ここではほぼ同じと考えておいてよいだろう。このような「絶対的無限判断」では、主語と述語は同一であって区別され
ないから換位可能であって、「物は自我である」とも云い得ることになる。なお無限判断の換位可能性については、先にみた無限判断についてもいわれている。従って、この「絶対的無限判断」は「同一判断」とか「同一命題」とも呼ばれている。事実、この判断の主語と述語の関係は、「AはAである」という同一律における主語Aと述語Aの関係と同じである。なぜなら、もし主語Aと述語Aが異なるとするならば、両者には如何なる共通領域も成立しないはずだからである。ちなみに、へ一ゲルは『大論理学』の「同一性」の章で、同一性を同時に絶対的区別と捉えている。このような考えが非常に思弁的であることはへ一ゲル自身認め、「絶対的無限判断」を「思弁命題」とも呼んでいる。但し、へ一ゲルにとって思弁的とはよい意味である。このような「絶対的無限判断」は、へ一ゲル哲学の根本概念である無限性を表現している。無限性の本質とは、自分自身において自分自身の反対であるということである。このことは「絶対的無限判断」においては、主語が同時に述語であり、述語が同時に主語であるということとして解釈される。この「絶対的無限判断」に対して、述語の普遍的領域の絶対的な否定に
なっていない無限判断を「相対的無限判断」と呼びたい。へ一ゲルの無限判断論がカントのそれと無関係であると考えられてきた原因は、この2つの無限判断の区別があいまいなまま、「絶対的無限判断」とカントの無限判断が比較されていたことにある。この絶対的無限判断の論理が、へ一ゲル弁証法の核心的論理であるとすると、『大論理学』『エンチクロペディー』にも現われているはずである。これらにおいて、へ一ゲルは判断論を始めるにあたって、判断は「真実には
in Wahrheit」「絶対的根源的分割 die abso1ute ursprueng1iche Tei1ung」「根源的分割」であるという。そして、判断のこのような源義は、判断論での判断の諸形態の展開の最後に述べられている「判断一般の真実態」である「必然的判断
das apodiktische Urtei1」において顕在化されることになる。『大論理学』では、この判断は「絶対的判断
das abso1ute Urteil」とも「根源的分割」とも呼ばれている。この「必然的判断」において判断という形式は止揚され判断論は推理論へ移行してゆく。つまり、これらの書における判断論では、「無限判断」として論じられているのは、相対的無限判断であり、絶対的無限判断は、判断論を始めるにあたり判断の真実態及び語源学的意味として、また判断論の最後に「必然的判断」として述べられていると解釈できる。更に、絶対的無限判断は、これらの書の論理学の最後を飾る「理念」の章の冒頭におい27)て、「理念は無限判断である」とか、「真に実在性を獲得したとき、その概念(理念)は絶対的判断である」と登場してくる。
フィヒテの影響
何ら共通のものをもたないものを結合する絶対的無限判断という考えには、フィヒテの影響がみられる。フィヒテの『全知識学の基礎』(1794)によれば、肯定判断と否定判断における主語と述語は、共通の規定−−−−それによって両者の関係づけ、比較が可能になるので「関係根拠」と呼ばれている----と異なる規定----これによって両者の区別が可能になるので「区別根拠」と呼ばれている----を各々もち、肯定判断では関係根拠のみ反省され、区別根拠は捨象され、否定判断では逆に区別根拠のみ反省され、関係根拠は捨象されている。肯定判断は、人間精神の綜合的操作
das synthetische Verfahren による綜合的判断 das synthetische Urtei1であり、否定判断は、反定立的操作
das antithetische Verfahren による反定立的判断 das antithetische Urtei1であるという。フィヒテはこの判断からの類推により定立的判断
das thetische Urtei1 を想定する。定立的判断では「或るものが、他のものに等置されたり」、対立させられたりするのではなく、むしろ単に自己自身に等しく措置される」。その主語と述語は、関係根拠も区別根拠も欠いている。フィヒテは、この定立的判断を無限判断とも呼んでいる。これはとりもなおさず、へ一ゲルの絶対的無限判断である。フィヒテは、彼の知識学の第、根本命題である「我ありIch
bin」(=「我は我なり Ich bin Ich」=「自我は根源的に端的に自分自身の存在を措定する
Das Ich setzt urspruenglich sch1echthin sein eignes Sein」)が、このような定立的判断の中で根源的な最高の判断であるという。措定する自我と措定される存在との関係を無限判断と考えている点で、フィヒテの無限判断は、へ一ゲルの絶対的無限判断と形式上のみならず内容上も酷似している。しかし、フィヒテではこの判断は証明されず、課題Aufgabeにとどまる。シェリングもまた「自我=自我」を定立的命題と考えているが、それは肯定的定立的命題であり、彼のいう無限判断、否定的定立的命題ではなかった。しかも、シェリングは、定立的命題を分析的と考えるが、フィヒテでは、分析的なのは定立的判断ではなく反定立的判断である。この差は、二人の哲学の差を考える上で重要だろう。へ一ゲルが前述のように、判断の源義ないし真実態を「根源的分割」と考えたことは、彼の親友であるヘルダーリンが「判断と存在」(1795)という論文の中で、「判断は、最高のまた最も厳密な意味においては、根源的分離die
ursprueng1iche Trennung・・・原分割 die Ur-Tei1ung である」と考えたことの影響があるのかもしれない。しかし、「我は我なり」が「原分割というこの概念の最も適切な例である」と云われているところから、またこの頃ヘルダーリンはイエナ大学のフィヒテの講義を熱心に聴講しているところから、これはフィヒテの影響と考えられる。
II.エレメントの展開論理としての無限判断
以上のように、へ一ゲルの無限判断はドイツ観念論の展開と密接に絡んでいる。それはドイツ観念論の中心問題であった主体=客体を表現する命題が無限判断になるからである。へ一ゲルはこれを、フィヒテのように課題にとどめはしないし、シェリングのように知的直観に基づいて断言するのでもない。彼は媒介によってその必然性を示そうとする。つまり推論の結論として無限判断を証明しようとするのである。『精神現象学』でべーゲルが叙述しているのは自然的意識が絶対知にまで自己を形成してゆく過程であり、その間の意識の全形態である。今私達が、意識の形態を根本的に規定しているものを、意識とその対象の存立のエレメント(境位)として、また意識の形態の展開過程をエレメントの展開過程として解釈しようとするとき、無限判断はこの解釈においてどのような位置を占めるのだろうか。無限判断はまず何よりも、前述の「自我は物である」「物は自我である」という絶対的無限判断として重要である。これは換言すれば存在=思惟、実体=主体という『精神現象学』の結論である絶対知の内容を表現している。従来無限判断については、その表現している内容ばかりが注意されて、へ一ゲ
ル弁証法の方法上の意義は、あまり重視されてこなかったように思われる。しかし、無限判断は知の内容としてのみならず、知の展開の論理自体としても重要である。以下ではこの側面に注意して『精神現象学』の方法と無限判断の関係を考察したい。
相対的無限判断とエレメント
『精神現象学』における自然的意識の叙述は、さしあたって最も直接的な知である「感覚的確信」から始まる。これは「このもの」の存在の知である。「このもの」の諸規定、諸属性の知は次の「知覚」という意識の形態である。この「感覚的確信」から「知覚」への移行は次のようにして起こる。「感覚的確信」は「このもの」を個別的なものと私念dasMeinenしている。「このもの」を「今」と「ここ」という時空の二形態に分けてそのことが吟味される。例えば、「今は正午である」。しかししばらくすると「今は正午ではない」「今は夜である」。或るいはより厳密にいっても同じである。例えば、「今は10時31分16秒である」。否、既に「今は10時31分16秒ではない」「今は10時31分17秒である」。否、もう「今は時31分17秒ではない」「今は10時31分18秒である」。「今」という主語に個別的な述語(個別的と私念されている述語)をつけた肯定判断とその否定のこのような繰り返し、或るいは「今」という主語と個別的な述語からなる否定判断の積み重ねから、「今」はそもそもそうした述語の普遍的領域である個別性に属さないことが削り、「今は正午でないものである(つまり今は正午の普遍的
領域である個別性に属さないものである)」という無限判断が生じる。この無限判断は相対的無限判断であって、主語は個別性より高次の普遍的領域において述語をもつ。そのより普遍的領域は「普遍性」であり、「今は普遍的である」。単純な手としての今は多くの時間である今を含んでおり、一時間としての今は多くの分である今を含んでおり、1分としての今は多くの秒である今を含んでおり、1秒としての今も多くの今を含んでおり、以下無限に続くだろう。つまり今とはつねに絶対多数の今の「複合
Komp1exion」であり、普遍的である。「ここ」についても同様であり、「このもの」は個別的ではなく普遍的であることが知られる。次に「感覚的確信」の個別性は、主観である「この私」の個別性に求められるが、「この私」も真実には普遍的であることが同様にして知られる。最後に「感覚的確信」の個別性は「この私」と「このもの」の関係に求められるが、「指示Aufzeigen」というこの関係もまた同様に真実には普遍的であることが知られる。これらの場合も同様に、主語について、個別的な述語をもつ否定判断の積み重ねを通して、それらの述語の普遍的領域である個別性に主語が属さないという無限判断が生じていると、論理的には解釈できる。こうして対象と意識が個別性というエレメントから普遍性というエレメントへ移行する。つまりそれは両者の関係が個別性から普遍性へ移行することだが、そのことによって「知覚」という次の意識の形態へ移行する。ここにはこのようにいくつかの無限判断が和として生じているといえるが、この移行自身もまた、意識を主語とし、対象を述語とする相対的無限判断であると考えられる,この相対的無限判断によって否定される述語の普遍的領域に当た
るのは、両者のエレメント、換言すれば両者の関係の仕方である。「感覚的確信」では意識と対象の関係は個別的であり、その個別性というエレメントにおいて成立する両者も個別的であった。しかし、この関係の個別性が否定されることによって、両者はこの関係から身を引き、つまり自己内に還帰し、それによって新しい普遍というエレメントが生じている。このような移行の論理は、前述の相対的無限判断に他ならない。ところで、ここに新しく登場してくる「知覚」の対象「物」は、1「感覚的確信」の「指示」の運動が単純になったもの或るいはその「まとめ上げられた存在
das Zusammengefasstsein」だといわれている。つまり新しい対象である「物」は前の形態の意識の運動或るいは意識と対象の関係が物象化されたものである。『大論理学』でも(相対的)無限判断によって述語は、「諸区別項のまとめ上げ
ein Zusammenfassen von Unterschiedenen」になるといわれている。.もう1つ例を挙げたい。『大論理学』で、出来事としての無限判断の例に挙げられていた'「犯罪」は、『精神現象学』では「真の精神、人倫性」という章で、古代ギリシヤの人倫性から古代ローマの法状態への移行の原因として述べられている。ここで、へ一ゲルはソフォクレスの非劇『アンチゴネー』でのアンチゴネーの犯罪を念頭に置いている。この「犯罪」は人倫的実体というギリシヤ人の生活のエレメントを否定する。このことによって、ギリシヤ人は「全体への信頼」を失い、自己内に還帰し、人倫的実体の実体性を内面化する。つまり、共同体が実体であり、その中では「非現実的な影」でしかなく、「特殊性」にすぎなかった意識が、ここでは実体である個人「アトム」として措定される。他方人倫的実体も自己内に還帰し、諸個人とは無関係に独立に存在しているものとして物象化され、ローマ法として制度化されている。こうして意識と対象が変化すると新しいエレメント、法状態が生じる。ここでもまた次の3つのこと、意識と対象のエレメントの否定、両者の二重の自己内還帰、それによる新しいエレメントの出現、が
生じている。
こうした二重の自己内還帰は多くの移行箇所で出てくる。移行において主体と客体の統一が実現しないかぎり、つまり絶対知に到達しないかぎり、新しいエレメントにおいて、新しい意識と対象の形態が生じるのであるから、常に原則的には、二重の自己内還帰が生じているといえるのではないか。そうするとそこにはまた常に原則として相対的無限判断が出現していることになる。ここでもう1点重要なのは、意識と対象の関係が物象化されて次の意識形態での対象になっていることであり、その物象化の論理が相対的無限判断であるということである。
絶対的無限判断とエレメント
相対的無限判断がこのようにエレメントの展開論理になっているならば、同じように述語の普遍的領域の否定である絶対的無限判断もまたエレメントの展開論理になっていると考えられる。但し、絶対的無限判断は主語と述語の共通の普遍的領域の絶対的な否定であるから、意識と対象、或いは思惟と存在の共通のエレメント、両者の関係の仕方の絶対的
否定であって、これは意識という形態そのものの否定、「精神の直接的定在」という『精神現象学』全体のエレメントの否定である。それによって肯定面として生じる、意識と対象の絶対的区別=同一性という事態のエレメントは、へ一ゲルが「エーテル」と呼んでいるものである。へ一ゲルは『精神現象学』の序文において、「学は精神がその固有のエレメント(エーテル)において建てる国である。絶対的に他なるものにおける純粋自己認識、すなわちこのエーテルそのものが、学の根拠及び地盤である、或るいは知ること一般である。哲学の始源は、意識がこのエレメントにあることを前提する、或るいは要求する、しかし、このエレメントは、その完成と透明さを意識の運動(つまり『精神現象学』)によってのみ得るのである」(括弧内は引用者)と述べている。従って、「エーテル」は学の立場へと自己を形成する意識にとっては、目標であるといえる。ちなみに、『実在哲学I』(1803/04)の「精神哲学」は『精神現象学』よりも明確にエレメントの展開として叙述されており、その過程は諸々の「規定されたエレメント」を経て、最後に「絶対的に普遍的なエレメント」である「エーテル」に到達すると
いう構成になっている。無論、このように最高のエレメントを「エーテル」と浮ぶのは、ギリシャ哲学で第五の最高のエレメントがエーテルと呼ばれたことに由来しているのであろう。しかし、この「エーテル」というエレメントを成立させる絶対的無限判断は、先に見たように非常に思弁的であるから、その実在的な形態、出来
Geschehenというものは、相対的無限判断の時のような、我々の一般に考える行為としては考えられない。一般に行為は、行為者とそれが向かう対象のみならず、両者に共通の行為の行なわれる場を前提するからである。もし、絶対的無限判断の出来に当るような行為があるとすると、それはへーゲルが「第一の運動」と呼んでいる行為であると考えられる。それは他のものの内に根拠をもつのではなく、それ自身が、その運動の根拠であるような運動であり、「概念の単純性の最初の分離であり、且その分離からの統一である」ような運動である。このような非常に思弁的な行為は、これもまた非常に思弁的な言い方になるが、時間の内に成立するとは考えられない。この点に関して、へ一ゲルは、『エンチクロペディー』の前に引用した「理念は無限判断である」と云っている箇所で次のように述べている。理念は同一的なものを差異あるものから、主観的なものを客観的なものから、有限なものを無限なものから区別し、またそれらを統一へ連れ戻すが、「この二重の運動は時間的ではなく、如何なる仕方でも分けられ区別されない。さもなければそれ(二重の運動)は再び抽象的悟性にすぎないだろう。そ
れ(二重の運動)は他のものにおける自分自身の永遠の直観である」(下線と括弧内は引用者)と述べている。
相対的無限判断と絶対的無限判断の関係
ここで次に、共にエレメントの展開論理である絶対的無限判断と相対的無限判断の関係
を考えたい。へ一ゲルは、「宗教」の章の始めで、それまで述べた「意識」「自己意識」「理性」「精神」は、全体的精神の諸契機であって、その移行は時間の内では行なわれないという。例えば、「意識」の章での「感覚的確信」から「知覚」を通って「悟性」への移行、また「精神」の章での「人倫性」から「疎外された精神」を通って「道徳性」への移行など、それら「特殊な全体」の内部での移行と全体的精神のみが時間の内にあるという。「精神」から「宗教」への移行は言及されていないが、契機から全体への移行だからおそらく無時間的なはずであり、「宗教」の章の内部の移行は全体的精神の移行だから時間的なはずである。「宗教」の章から「絶対知」の章への最後の移行は、無時間的だと思われる。なぜなら、絶対知においては、時間形式は止揚されているといわれているから、「宗教」から「絶対知」への移行は時間性から無時間性への移行であり、このような移行が時間的であるとは考えられないからである。時間形式の止揚そのものが時間形式において起るはずがない。従って、まとめると「意識」「自己意識」「理性」「精神」「宗教」「絶対知」の間の移行は無時間的であり、「
絶対知」を除いた各章内部での移行は時間的であることになる。今、意識の形態の移行を、意識の形態を根本的に規定しているものとしての意識のエレメントの展開と考えるとき、移行はエレメントの展開論理となっている無限判断によって起っていると考えられる。そして、その移行に時問的なものと無時間的なものの区別があるとすると、それは相対的無限判断と絶対的無限判断の区別に対応していると考えられる。従って結論として、「意識」「自己意識」「理性」「精神」「宗教」「絶対知」の間の移行は、絶対的無限判断によって起り、絶対知を除いた各章内部での移行は、相対的無限判断によって起っていると考えられる。しかし、ここに1つの問題が生じる。それは、絶対的無限判断によってエーテルという学の固有のエレメントが成立するならば、そのことによって『精神現象学』は終わるのではないか、何故意識の教養の過程の途中で絶対的無限判断が生じるのか、という問題である。この問題は、既に絶対知に到達しており、絶対知へと自己を形成してゆく意識を対象として叙述する「我々
Wir」と呼ばれている哲学者の立場と、知を自己吟味してゆく「意識」の立場での認識を区別することによって解決される。例えば、我達の解釈では、「意識」から「自己意識」への移行において最初に、絶対的無限判断が出来することになる。「意識」の章の内部での感覚的確信から知覚を通って悟性への移行は、個別性から普遍性を通って悪無限へというエレメントの展開として解釈できるが、その際エレメントの否定は絶対的否定ではない。意識の章全体が存在という共通のエレメントにおいて成立していたと考えられる。これに対して「自己意識」の章全体は、対自存在というエレメントにおいて成立していると考えられる。存在と対自存在という2つのエレメントは絶対的に対立するものであって何ら共通の部分を持たない。それに対して相対的無限判断によって生じる新しいエレメントは、それがエレメントの規定された否定であるから共通部分をもっている。従って、この移行は相対的無限判断によっては起りえない。「我々にとって
fuer uns」は、存在というエレメントの否定は、存在がそれとの絶対的区別によって成立しているところの対自存在の否定でもあり、存在と対自存在の区別の否定、存在と対自存在の絶対的区別=同一性の出来であり、換言すれば真無限の出来である。これは絶対的無限判断であるといえる。しかし、「我々」の対象である意識は、この無限判断の否定面つまり存在というエレメントの否定しか認識しておらず、存在と対自存在の統一、エーテルという肯定面を認識していない。従って、「意識」は存在に対立するものとして残っている対自存在をエレメントとする「自己意識」という形態へ移行することになる。このことによって、意識と対象が各々再び自己内に還帰するという二重の自己内還帰が生じる。「自己意識」の章での展開を経て出来する絶対的無限判断によって、今度は対自存在というエレメントも否定され、ここに絶対的無限判断の否定面がつくされることにより、その肯定面、つまり即自存在=対自存在、存在=思惟の把握が生じる。しかしこの知は、自己の展開の必然性を理解していない「意識にとって」は、突然生じたように思え、断言、確信にとどまるのである。理性となった意識は、
またそれを概念把握しておらず、存在=思惟をカテゴリー(これはつまるところ述語である)として捉え、カテゴリーというエレメントにおいて展開する。一般的にいえば、絶対知成立以前に絶対的無限判断が出現しても、その否定面しか把握されず、また肯定面が把握されたとしても充分な概念把握でないために、再び規定されたエレメントが生じる結果になると考えられる。へ一ゲルの叙述に忠実に読むならば、論理的にはこのように考えざるを得ない。ところで、相対的無限判断は物象化の論理であると前に述べたが、この物象化は、へ一ゲルのいう疎外とどのように関係しているのだろうか。『精神現象学』での最初の「意識」の章では、先に述べた「感覚的確信」から「知覚」への移行、更に「知覚」から「悟性」への移行が相対的無限判断によって起こり、その際意識と対象の関係が次の段階で物象化されて対象となるが、それは疎外をもたらさない。ここで物象化されているのは、個々の対象との関係である。(より重要なのは、対象界、感性界の物象化であろう。しかし、これはさしあたり疎外にはならない。疎外とは自己の外化したものが自己にとって疎遠なものになることであって、対象界の物象
化は、自己の外化の前提ではあっても、それ自体で疎外ではないからだ。)対象知の投影、物象化は、人間の物化ではなく、むしろ物の人間化であって疎外ではない。疎外という以上、そこでは単なる知ではなく、人間の本質が疎遠なものになっているのでなければならない。疎外は自己の外化を前提するが、自己の外化の成立は、換言すれば意識と対象の統一の成立である。そして外化された自己が疎遠になるとは、意識と対象のその統一が意識にとって疎遠になることである。とすれば疎外はそれに先立って、意識と対象の統一、つまり絶対的無限判断の成立を前提することになる。そして実際、へ一ゲルの叙述において疎外は最初に絶対的無限判断が成立した後、つまり「自己意識」の章から現われるのである。『精神現象学』において、疎外成立の究極の根拠は論理的には、絶対的無限判断がいったん生じても概念把握されないために、再び意識と対象が分離することにあるといえよう。
結び 無限判断から推論へ
以上、私達はエレメントの展開と無限判断の関係について考えてきたが、無限判断はそれ以前の意識の経験を媒介にしているのであって、推論の結論として理解されねばならない。出来事としての推論の結論として絶対的無限判断が出来したとしても、その概念把握には、意識が自覚的に推論を行なう必要がある。従って次の課題として私達にはへ_ゲル弁証法の本質的な論理である推論の考察が残されている。推論といえば、普通には対象内に或るいは諸対象間に見い出される三項関係の一種であって作用としての推論は、その関係を見い出す意識の作用である。しかし『精神現象学』では、意識は(「我々」哲学者の対象であって)推論を構成する三項の一つである。もう一つの項が対象であり、両者の媒介項がエレメントである。また、この推論は、三項の自ら行なう運動であって、「我々」哲学者は、この推論運動を「傍観」し叙述するだけである。また推論関係は、三項の静的な関係ではなく運動であるから、媒介項が消えて両項が直接に結合するという過程も、推論関係を見い出す思考の過程ではなく、媒介項は実際に消えなければならない。この媒介項、エレメントの否定の論理が無限判断であっ
た。しかし、相対的無限判断によっては、エレメントは否定されても両項は各々自己内に還帰し、結論としての両項の合一は成立せず、新しいエレメントにおける新しい推論関係へ移行するだけである。媒介項であるエレメントの否定によって両項が合一するためには、絶対的無限判断によらなければならない。無限判断が推論の結論であるならば、二種の無限判断に対応して二種の推論があることになる。このように、推論を考えるときにも、エレメントの展開論理としての無限判断がその核心をなすことになろう。
註
(1)無限判断は、論理学史においては、述語を含みつつ支えるものとしての主語というアリストテレス的命題の論理学を止揚するものであり(Walter
Schulz,Der Gott der neuzeitlichen Metaphysik,1957、岩波哲男訳『近代形而上学の神』早稲田大学出版部、1973年、93頁参照)、倫理学史においては、ソクラテス、ドイツロマン派、キルケゴールにおいて重要であるイロニーの論理構造を示したものと考えられ、またあらゆる神秘主義に共通の反対の一致という論理を提示しているものとも考えられる。
(2)Hemann Schumitz, Hegel als Denker der Individualitaet, Meisenheim/Glan,
1957, S.115 で、シュミッッはこう主張している。
(3)この段落での引用は全て Kant,Immanuel Kants Handbuch zur Vorlesungen,
§22 からのものである。なお合わせて、Kant, Kritik der reinen Vemunft, A71f,B95,も参照。前者の本は、1800年に出版されており、へ一ゲルは1801年からイエナ大学で繰り返し論理学の講義をしているので読んでいる可能性は充分あるだろう。後者については無論へ一ゲルは熟読している。
(4)この段落での引用は全て、Hegel, Jenenser Logik Metaphysik und Naturphilosospie,
hrsg. von G.Lasson, Hamburg, 1923, S.89f からである。
(5)Schel1ing, Schelling Ausgewaehlte Werke, Schhriften von 1974-1798,
Wissenschaft1iche Buchgese1lschaft,1975,S.97-101参照。
(6)Ebd.S.101.
(7)Hegel,Werke,Bd.4, Suhrkamp Verlag, 1970, S.23.
(8)Ebd.S.108.
(9)Ebd.S.144f.
(10)Ebd.S.198.
(11)Hegel,Wissenschaft der Logik II,hrsg. von G. Lasson, Hamburg, 1969,(以下Logik
IIと略す)S.284f以下のこの段落での引用もここからのものである。
(12)Hegel,Werke,Bd.8, Suhrkamp Verlag,1970(以下Enzyと略す)§173 ZuSatz
無限判断としての死は、本論では触れないが、へ一ゲルによるキリストの死の解釈を考察するとき重要である。
(13)Hegel,Phaenmenologie des Geistes, hrsg. von J. Hoffmeister, Hamburg,
1952 (以下 PhGと略す)S.253.
(14)PhG,S.551.
(15)PhG,S.551.
(16)無限判断という言葉自体は他にPhG,S.370,383でも出てくる。
(17)Martin Heidegger,Holzwege, Frankfurt, 1972, S.141.
(18)PhG,S.370.
(19)PhG,S.51.
(20)PhG,S.51f 他に無限判断の言い換えとしては、「哲学的命題」(S,51f)「精神的判断」(S・356f)「自己自身を止揚する判断」(S.254)という表現がある。
(21)シュミッツがこう指摘している。Vg1.Hemann Schumitz, ebd. S.116f.
(22)Logik II, S.264.
(23)Hegel, Enzyklopaedie, Saemtliche Werke, Bd.6, hrsg. von H. Glockner
(いわゆるHeide1berger Enzyklopaedieであり、H-Enzyと略す)§115.Enzy(これはいわゆるBerlinerEnzyklopadie)§116.
(24)Logik II, S.306.
(25)Ebd.S.306.
(26)Ebd.S.307.
(27)H-Enzy,§162, Enzy,§214 この箇所はHermann Schumitz, ebd. S.110 に教えられた。
(28)LogikI,S,411この箇所は星敏雄「自己は物である」(『認識論の諸相』日本哲学会編、有斐閣所収、189頁)に教えられた。
(29)Fichte,Grundlage der gesamten Wissenschaftslehre(1794), Hamburg, 1970,
S.32-38 を参照。
(30)Ebd.S.36.
(31)Ebd.S.36.
(32)Ebd,S.18.
(33)Sche1ling, Ebd. S,98.
(34)Hoelderlin, Werke und Briefe, hrsg.von F.Beissner,Insel Verlag, 1969,
S,591.
(35)Ebd.S.591.
(36)このような解釈を、拙論「へ一ゲルの<エレメント>概念と『精神現象学』の方法」(『哲学論叢』第6号所収)で、以前試みた。
(37)PhG,S.86.
(38)PhG,S.89.
(39)Logik皿,S.285.
(40)PhG,S.334,338,340,516.
(41)PhG,S,335信頼についてはS,259,390,402,405,491,506,521を参照。
(42)PhG,S.321,331,335,337.
(43)PhG,S.335.
(44)PhG,S.342.
(45)PhG,S.135,140,153,167,274,374,425.
(46)PhG,S.32.
(47)PhG,S.24.
(48)Hegel, Jenenser Realphilosophie I, hrsg. von J.Hoffmeister, Leibzig,
1932, S.232.
(49)「エーテル」という概念は、シェリングも『世界霊について』(1798)で用いており、ヘルダーリンも「エーテルによせて」(1797)という詩を書いており、これらの影響も大きいだろう。Vgl.
Hermann Schumitz, ebd. S.111ff.
(50)PhG, S.544,552.
(51)PhG,S.552.
(52)PhG,S.476f.
(53)PhG,S.477.
(54)PhG,S.558.