「知を共有するとはどういうことか」
『メタフュシカ』大阪大学哲学講座発行、37号、pp.1-1520073

 

What's Going on, When We Share Knowledge

Yukio IRIE

 

When we use the phrase “to share knowledge,” in our every day life, its meaning is ambiguous. At first I introduce the distinction between 'shared knowledge' and ‘common knowledge’. We call P ‘shared knowledge’ of A and B, if and only if the following two conditions are met;

    (1) A knows P.

    (2) B knows P.

   On the contrary, e.g. when A asked B, “Is Thimbu the capital of Bhutan?” and B answered, “That’s right,” both A and B know not only ” Thimbu is the capital of Bhutan,”(P) but also that P is shared knowledge of A and B. And further this is also known by A and B. In this case they can repeat knowing like this according to need. We call P like in this case ‘common knowledge’ of A and B. D. Lewis, S. R. Schiffer, Sperber & Wilson, R. Tuomela and Y. Nakayama argued for such knowledge, but they all intend to reduce it to individual knowledge. But J. R. Searle claimed that such a reduction is impossible. I will also try to criticize such reduction and show that we understand common knowledge as not individual.

A person who reduces common knowledge to individual knowledge thinks that knowledge, supposition, belief and expectation are all in individual brains or minds. We call this standpoint ‘epistemological solipsism’. According to this standpoint we cannot explain how we share knowledge, and common knowledge can only be supposition of an individual. Many epistemological solipsists accept the fact that many persons really exist. But I try to prove that this claim and epistemological solipsism are incompatible.

In the second half I argue the possibility of common knowledge as not individual. Thisis ‘practical knowledge’ G. E. M Anscombe defined, i.e. knowledge about an action of a speaker ‘I’. We can find such practical knowledge about an action of ‘we’ like, “We are playing tennis,” and this practical knowledge is not of individuals and cannot be reduced to individual practical knowledge.

Then I point out that the repeatability of self-knowledge which is an important characteristic of common knowledge results from the logical relation between questions and answers. We need not hereby suppose a super subject.


<キーワード>

共有知、相互知識、独我論、実践的知識、D.ルイス

知を共有するとはどういうことか(1)

 

入江幸男                       

 

我々が「知を共有する」と語るとき、その表現は曖昧で多義的である。後で詳しく説明するが、ある場合にはそれは単なる「共通知識」を意味しており、他の場合には「共有知」を意味している。本論の扱う問題は、この「共有知」をどのように理解するかである。多くの論者は、これを個人の知(あるいは信念、想定、予期など)に還元して説明する。しかし、それは本当に可能なのだろうか。むしろ、個人の知に還元されないような「我々の知」を想定する必要があるのではないだろうか。この考えは、従来の認識論の常識に反するかもしれないが、本論でその可能性を追究したい。

 

1、「共通知識」と「共有知」

(1)「共通知識」の定義

まず「共通知識」を定義しよう。次の二つが成立している場合を、pはaさんとbさんの「共通知識」であると言うことにする。

(1.1)aはpを知っている。

(1.2)bはpを知っている。

例えば、aもbも、p「ブータンの首都がティンプーである」を知っている場合である。この場合に、さらに、aがそのことを知っていることを、bが知っていることもあれば、知っていないこともある。どちらであっても(1.1)と(1.2)が成り立っていれば、「共通知識」であると呼ぶことにしよう。

 ここで更に次のことが成立しているとしよう。

(1.3)aは(1.1)と(1.2)を知っている。

(1.4)bは(1.1)と(1.2)を知っている。

このとき(1.1)と(1.2)がaとbの共通知識である。もちろん、ここにおいてpもまたaとbの共通知識である。上の(1.1)(1.4)を次のように書くことが出来る。

  (2.1)pはaとbの共通知識である。

  (2.2)(2.1)はaとbの共通知識である。

場合によってこのような操作をさらに繰り返すことが出来る場合もあるだろうが、しかし、共通知識であるときには、その繰り返しが常に可能であるとは限らない。

 

(2)「共有知」の例示とルイスによる定義

 さてここで、もう一度最初から考えてみよう。aがbに「ブータンの首都はティンプーですか」と問い、bが「そうだよ」と答えたとき、aもbもp「ブータンの首都はティンプーである」を知っているだけではなく、pがaとbの共通知識であることも、aとbにとって自明である。さらに、この自明であることも、aとbにとって自明であるだろう。この場合には、必要に応じて何度でもこのような反復を行うことが出来るだろう。この場合に、pをaとbの「共有知」と呼ぶことにしたい。

このような共有知についての議論の先駆けの一つは、D.ルイスによるものである。彼が挙げている例は、次のようなものである。

 

「あなたと私が会い、私達は一緒に話をする。しかし、あなたは我々のビジネスが終わる前に去らなければならない。そこで、あなたは、あなたが明日同じ場所に戻ってくる、と言う。このようなケースを想像してみよう。明らかに、私はあなたが戻ってくることを期待するだろう。また、あなたは私が戻ってくることを期待するだろう。あなたが戻ってくることを私が期待することをあなたが期待することを私は期待するだろう。ひょっとすると、さらに一、二階高次の期待があるかもしれない。」(2)

 

ここでは、「あなたが明日同じ場所に戻ってくると私が期待する」ということが、二人の人物の共有知になっている。このような共有知を、ルイスは一般的に次のように定義する。

 

「<……が、集団Pにおける共有知である>のは、<次のような事態Aが成り立っている>ときそのときに限る。

(1)Pの全ての人が、Aが成り立っていると信じる理由をもつ。

(2)Aが、Pの全ての人に、Pの全ての人がAが成り立っていると信じる理由をもつことを示している。

(3)Aが、Pの全ての人に、……を示している。」()

 

ちなみに「Aはある人xに……を示している、というのは、<もしxAが成り立っていると信じる理由をもつのならば、そのためにxは……を信じる理由をもつ>という場合その場合に限る。」 (4)と定義されている。これで解かるように、ルイスは、共有知を個人の信念に還元して説明している。

 ルイスがここで「共有知」と呼んでいる知について、シファーは「相互知識」という名前を与えて少し異なる定義をしている。また、そのシファーの定義を批判して、スペルベル&ウィルソンは、「相互に顕在的な想定」という名前を与えて別の定義をしている。また、トゥオメラは、「相互信念」という名前を与えて別の定義をしている。しかし、彼らに共通するのは、彼らが共通の知識や想定や信念を、個人の知識や想定や信念によって説明するということである。中山康雄の「集団的志向性」の定義もまた、おそらく集団的志向性を個人的志向性によって説明する立場だろうと思われる。しかし、共有知を個人の知に還元して、個人の知から出発して共有知を構成することは、本当に可能なのだろうか。(5)

 これに対してJ.R.サールは、集団的志向性を個人的志向性に還元することは不可能であると主張し、「集団的志向性は、生物学的に原初的な現象である」()と主張する。私は、集団的志向性は「生物学的に原初的な現象」というよりも、むしろ言語的に原初的な現象だと考える。なぜなら、我々の知や知覚は、感覚の理論負荷性を考えても解かるように言語の習得に依存しており、この言語の習得は集団に依存しているからである。しかし、これが個人的志向性に還元できない「原初的現象」であるという指摘には賛成したい。(7)

以下では、まず共有知を個人の知に還元することの不可能性を指摘し、次に、個人を越えた知、という奇妙かもしれない考えの可能性について検討したい。

 

2、我々は共通知識の成立をどのようにして知りうるのか

 pが共有知であるときには、それは同時に共通知識でもあるので、共有知が成立するためには、共通知識が成立しなければならない。では、我々は共通知識の成立をどのようにして知りうるのだろうか。「共通知識」が成立しているといえるためには、次の問題に答えなくてはならない。上の例で説明しよう。

(1.1)aはpを知っている。

(1.2)bはpを知っている。

この二つが成り立つとき、「pはaとbの共通知識である」と言うことにした。では、この二つが成り立つことを誰がどのようにして知ることが出来るのだろうか。もし第三者cがそれを知るならば、第三者cが「pはaとbの共通知識である」と語ることになる。もしaが、(1)(2)を知るのならば、aは「pはaとbの共通知識である」と語ることが出来る。以下では、後者のaがそれを知る場合について考えてみよう(以下で述べる困難はcが知る場合も同様である)。

このとき、aは、(1.2)bがpを知っている、ということをどのようにして知り得るのだろうか。例えば、pが「ブータンの首都はティンプーである」だとしよう。aがbに「ブータンの首都を知っていますか」と尋ねて、bが「はい、ティンプーです」と答えたならば、aはbがpを知っていることを知ることができる。つまり、この段階で、aはpがaとbの共通知識であることを知っている。

しかし、厳密に考えるのならば、aは、「ブータンの首都はティンプーである」という命題をbがaと同じ意味で理解していることを知る必要がある。では、このことをaはどうやって知りうるのだろうか。この命題を同じ内容で理解していることは、日常生活では、自明なことと見なされているだろう。むしろ、この命題の異なる理解を想像することの方が困難であるかもしれない。

しかし、知はあくまでも個人の知であるという立場に立つならば、aが<bが「ブータンの首都はティンプーである」と知っていること>を知っているとき、<bが「ブータンの首都はティンプーである」と知っていること>は、aの知であり、この中の「ブータンの首都はティンプーである」もまたbの知に関するaの知である。bの知そのものをaは知ることが出来ない。

この立場では、知の共通性というものは、あくまでも個人が想定するものである。この立場では、bの知の内容のみならず、更にbが知をもつことや、bがaと同じようなものとして存在することもまた、aの想定に留まることになるだろう。この立場を「認識論的独我論」と呼ぶことにしよう。この立場に立って同時に、存在の上でも私しかいないという「存在論的独我論」を採るのであれば、立場としては整合的であろう。しかし、もし認識論的独我論の立場で、複数の自我の存在を認めるとすると、それは主張として整合的なのだろうか。この問題を次に検討しよう。

 

3、認識論的独我論と存在論的複数自我論は両立不可能である

(1)科学的に考えて、認識論的独我論と存在論的複数自我論は両立可能か?

現在の科学は、他者との対話においては私の脳が考え発話している、と考える。目や耳などの感覚器官をとおして、相手の声や動きの刺激をうけとり、それを脳で処理して知覚し、それを脳で言葉として解釈して、意味を理解し、・・・。このような説明において、知はあくまでも個別の脳の中に存在するものであり、一つの知を他者と共有するということは、不可能である。

ところで、科学者Sがこのように説明するとき、この説明そのものもまた、彼の脳のなかの知であることを彼は認めるだろう。しかし同時に、Sは上の説明を客観的事実だと考えている。つまり、Sは、p<Sが他者Aと対話していることは客観的事実であるが、それについてのSの知はSの脳の中の出来事である。そして、このSの脳の中の出来事は、Sが他者Aと対話しているのと同様の客観的事実である>と考えている。しかし、このpという知もまたSの脳の中の出来事である。これは、以下同様に繰り返されるだろう。

「人間のあらゆる意識や知は、脳の中の作用あるいはその随伴現象としてのみ成立している」と考えるとき、この考え自体もまた、このように考える者の脳の中に成立している。科学者が、他の人もまた自分と同じように脳の中で考えていると考えるとき、彼はそれをどのように証明できるのだろうか。彼が証明を思いついたとしても、その証明は彼の脳の中にある。彼は、脳から外に出てゆけない。

 少し話を戻すと、科学者は、すべての意識や知が脳の作用ないし作用の随伴現象であるということを、どのようにして証明できるのだろうか。彼が、近未来の磁気共鳴装置をもちいて、被験者の思考(の報告)と脳の作用の対応関係を反復実証可能な形で確定できたとしよう。被験者が、「人間のあらゆる意識や知は、脳の中の作用あるいはその随伴随現象として成立している」と考えたときに、脳がどのように作用するか、を科学者は予測することができ、またその予測が検証されたとしよう。脳学者のテーゼが正しいとすると、彼のこの検証作業もまた、彼の脳の中にあるに過ぎないことになる。脳科学においては、おそらくそのような証明で十分だろう。しかし、哲学としては、テーゼ「人間のあらゆる意識や知は、脳の中の作用あるいはその付随現象としてのみ成立している」のその証明は無効であるように思われる。もしテーゼの証明が原理的に不可能であるとしても、テーゼが真である可能性は残る。その可能性をさらに立ち入って批判するために、現象学の立場について考えてみよう。

 

(2)現象学への批判

フッサールが言うように、世界や対象や他者を構成的に総合する超越論的自我が複数存在しているのだと仮定してみよう。この立場をかりに、「超越論的複数自我論」と呼ぶことにしよう。

しかし、他者が超越論的自我であるとしても、それは私にとってそのように構成されるに過ぎない。つまり<超越論的自我が複数存在している>ということもまた、超越論的自我である私による構成である。従って、この後者の超越論的自我こそが、実在する超越論的自我である。他者達である超越論的複数自我は、私が構成したものにすぎないと言う立場を「超越論的独我論」(8)と呼ぶことにしよう。フッサールは、彼の立場が「超越論的独我論」であるという批判に反論して、(彼の用語ではないが)「超越論的複数自我論」の立場をとろうとしている。

しかし、フッサールの立場からするならば、これらの複数の超越論的自我が存在することもまた、超越論的自我によって構成された事実に過ぎないはずである。そうするとやはり「超越論的独我論」になってしまうのではないだろうか。もちろん、更にこのような超越論自我が複数存在すると想定することは可能である。そうすると、同様のことが無限に反復することになる。この無限の反復は、超越論的複数自我論と超越論的独我論の間を揺れ続けることを意味するだろう。

この二つの立場の間を揺れ続けることは、生き方としてはありうる態度だろう。しかし、それは理論的な立場としては成立しないだろう。なぜなら、もし私がこの揺れ続けることを一つの立場として採用するとき、その立場を採用するのは私であり、その立場はまたしても私の想定に過ぎず、メタレベルで独我論に戻ってしまうからである。ここで私が独我論を取るまいとするならば、私は私の外部に、私と同様に動揺している他者を想定することになるだろう。しかし、またしてもこの想定が、私の想定に過ぎないことを自覚することになる。こうしてまた揺れ続けることになる。つまり、揺れ続けることは一つの理論的な立場にはなりえないのである。

もし我々が、超越論的独我論を採用せず、また<超越論的複数自我論と超越論的独我論との間を揺れ続ける立場>も採用しないとすると、フッサール現象学とは別の仕方で複数の自我の存在を主張しなければならない。以上から、我々は、認識論的独我論と存在論的複数自我論は両立し得ないと結論できるだろう。

ここで言いたいことを明確にするために、別の言葉で表現してみよう。もし全ての志向性が個人の心の中にあるのだとすると、我々は、集団的志向性を、個人的志向性に還元して説明しなければならないだろう。しかし、実はそれだけにとどまらない。もし全ての志向性が個人の心の中にあるのだとすると、この考え自体もまた、ある個人の心の中にあるのである。そして、その者は、自分と同じように考えている心が複数あると想定することが出来るが、しかし、その想定もまた彼の心の中の志向性にすぎないのである。つまり、全ての志向性が個人の志向性だとすると、つねに独我論に舞い戻ってしまい、志向性を持った諸個人が存在するという想定、つまり個人的志向性から集団的志向性を構成すること自体が、個人の想定になってしまうのである。以上の議論が正しければ、<全ての志向性は個人の志向性であるから、個人的志向性から集団的志向性を構成する>という主張は、自己論駁的なのである。

では、どのようにして我々は複数の自我の存在を想定したり、知ったり、主張したりできるのだろうか。もしその想定や知や主張が個人によって行われるのだとすると、我々はまた認識論的な独我論に舞い戻ってしまのだから、これを避けるには、<その想定や知や主張は、個人によって行われるのではなくて、個人を超えたものである>と考えるしかないのではなかろうか。この可能性を、以下で検討してみよう。

 

4、対象の共有と記述の共有

(1)我々は同一の花瓶を見ているのではないのか。

 ここで、知覚について考えてみよう。我々は、知覚を他者と共有することは出来ないだろう。しかし、我々は同一の花瓶を見ているのではないのか。仮に、aとbが一つの部屋におり、一つの机に向かい合って座っており、その机の上には一つの花瓶があるとしよう。日常生活では、人々は通常は、一つの対象の異なる知覚像もっているとは考えず、同一の花瓶そのものを見ていると考えているだろう。このとき、aとbは、同一の花瓶そのものを見ている。彼らは、花瓶を別の角度から見ていることは知っている。彼らは通常は、花瓶そのものでなく、花瓶の知覚像だけが与えられているのだとは考えていない。ただし、反省すれば、aとbは、花瓶そのものを見ているのではなくて、花瓶の知覚像だけが与えられているということに同意するだろう。

 ところで、aとbが同一の花瓶の異なる知覚像をもっていることを反省したときにも、それは、同一の花瓶の異なる知覚像なのである。aとbは、そこに一つの花瓶があって共にそれを知覚していると考えている、つまりaとbが同一の花瓶を知覚していると考えている。では、彼らがそのように考えることは、どのようにして可能になるのだろうか。

そのような考えがどのように発生するのかを説明するものではないが、発生したそのような考えを保持し確証することは、aとbが同一の花瓶を知覚していることについてaとbが同意することによって可能になっている。なぜなら、もしaがこの同意を期待していたのに、bが「私が見ているのは花瓶ではなくて机です」とか「私には机の上に何も見えません」などと言って、同意が得られなかったならば、aは、bが同一の花瓶を知覚していることを疑い始めるだろう。したがって、知覚対象の共有は、言語による世界記述の共有を必要条件として前提している。

 

(2)言語による世界記述の共有は、どのようにして可能になるのか

では、言語による世界記述の共有は、どのようにして可能になるのだろうか。予想される一つの答えは、<一つの花瓶を複数の人が知覚するように、一つの命題を複数の人が理解する>という答えである。例えば、フレーゲは命題の意味としての思想が客観的に存在すると考えていた。(9)しかし、このように考えても問題は解決しない。例えば、「5+7=12」をaとbが理解するとき、フレーゲならば、aとbは共に客観的に存在する一つの思想を考えていると言うだろう。しかしその場合、aとbはその客観的な思想をどのようにして理解するのだろうか。何か神秘的な理解が可能だとして、aやbがその客観的な思想を正しく理解していることは、どのようにして保証されるのだろうか。また、aは、bもまた自分と同じようにその客観的な思想を正しく理解していることをどうやって知ることが出来るのだろうか。

これらは、実際には、その命題について、aとbが議論することによって、命題の意味の理解が一致していることを確認することによるしかないだろう。しかし、そうだとすると、それを確実に確認することは不可能である。そのとき、理解の一致はaの個人的な想定に過ぎないことになるだろう。

もし我々が言語による世界記述を共有していると確実に言えるのだとすれば、我々は知のあり様を別様に考えなければならない。aとbがある知を共有するといえるためには、aとbが共にその一つの知を知るのでなければならない。これは確かにこれまでの認識論の常識に反する主張である。そして、以下でそのような知の存在証明が十分にできたとは言えないのだが、その候補となる一つの実例を示したい。

 

5、「我々」の実践的知識と共有知

(1)「実践的知識」の説明

アンスコムが指摘したように、「何をしているの」と問われたならば、我々は即座に答えることが出来る。そのような行為の中には、さらに「なぜそうするのか」と問われて、即座に答えられる行為がある。この後者の行為は、通常「意図的行為」と呼ばれているものである。アンスコムは、意図的行為を、「意図」という曖昧な概念を用いずに、定義する方法として、上のような基準を考えたのである。ところで、「何をしているの」と問われて、例えば即座に「私はコーヒーを淹れています」と答えるときのこの答えを、アンスコムは「実践的知識」と呼ぶ。彼女によれば、これらの知識は観察によらない知識である。そして、付け加えるならば、推論にもよらない知識である。

実践的知識が観察によらないということを、どのようにして証明できるだろうか。観察によるとは、感性的直観に基づく、と言うことであろう。確かに、私が何をしているかを知るために、私の手足を見ることはない。しかし、私の手足の位置を感じて、判断しているということはないだろうか。おそらくそのようなことはないだろう。なぜなら、私の手足の位置を感じたとしても、それだけでは私がコーヒーを淹れていることは解からないからである。では、内観についてはどうだろうか。私が、コーヒーを淹れようという意図を持っており、そのことを内観によって知り、その内観に基づいて、答えるということはないだろうか。この可能性を否定する方法はいくつかありうるだろうが、その一つを以下に示そう。

ところで実践的知識を、アンスコムは即座に答えられる知識だと述べている。「即座に」という表現は、短時間で答えるということだけでなく、推論によらずに答えるということを含意していたのではないかと思われる。もし実践的知識が、推論による知識ないし内観に基づく知識であるとすると、実践的知識は「私」が指示している話し手についての記述であることになるだろう。したがって、もし実践的知識が、その話し手の行為についての記述でないのだとすれば、それが(内観を含む)観察による知識や推論による知識なのではないことになる。(念のために述べておきたいが、ここで検討している推論は、「何をしているのか」と問われて答えるための推論であって、「なぜそうするのか」と問われて答えるときの「実践的推論」とは異なる。)

ところで、実践的知識には真理値がある。たとえば、「私はコーヒーを淹れています」と答えたときに、実際にはココアの粉を入れているかもしれない。しかし、このようなときにも、アンスコムはテオフラストスの言葉を引いて「間違いは行為にあって、判断にはない」(10)と言う。次の引用にあるように、実践的知識は、行為を記述するのではなくて、それによって行為が可能になるものであり、行為の構成的な要素の一部なのである。

 

「生起している出来事を自分の意志の実現として記述できるのは、自分が今為していることを行為者が知っているからである。」(11) 

「実践的知識なくしては、生じてくるものは——意志の実現という——記述の下に入りえないのであり、この記述の特性を我々は今まで考察してきたのである。そして、もし我々が行為を構成する要素的な部分に、またそこでの挫折にのみ目を向けているかぎり、意志の実現という記述の特性は、それがなくともその記述は同じであるような出来事の単に付加的な性質と思われてしまうのである。」12

 

アンスコムが実践的知識を「記述」として述べている箇所があるいはあるかもしれないが、少なくとも上の引用のなかの「記述」は「実践的知識が行為の記述である」という意味で使われているのではない。むしろ、ここでは実践的知識は対象構成的であるという点で、通常の記述や知識と異なっていることが指摘されている。

行為の構成要素の一部であるという実践的知識のこの特徴は、オースティンのいう「行為遂行型発話」の特徴に少し似ている。行為遂行型発話では、例えば、「私がコーヒーを淹れます」という約束の発話によって、約束が成立する。これとよく似て、「私はコーヒーを淹れている」という実践的知識の発話(多くの場合には内言)によって、私の振る舞いは意図的行為になる。行為遂行型発話は、話し手についての記述ではないので真/偽の区別を持たず、適/不適の区別を持つものである。ただし、行為遂行型発話の中でも、宣言の発話は特殊であり、真/偽の区別を持ちうる。例えば、ある人に「有罪」と宣言することによって、彼は有罪になるのであるが、その宣言が間違っていることもあり得るだろう。この点で、実践的知識の発話は、行為遂行型発話の中でもとりわけ宣言の発話に似ているように思われる。(ただし、実践的知識と言語行為との関係をどのように考えるかという問題は、発語内行為論の分類をどのように考えるかという問題と結びついており、より詳しく検討する必要がある。)

 

(2)「我々の実践的知識」について

 ところで、「何をしているの」と問われて「私はチェスをしています」と答えることがあるのと同様に、「君たちは何をしているの」と問われて、「我々はチェスをしています」と答えるときがあるだろう。この場合にも、我々は「私はチェスをしています」という実践的知識の場合と同様に、即座に答えることができる。つまり、「我々」を主語とする実践的知識もあるように思われる。

これに対しては次の反論が考えられる。「我々はチェスをしています」という返答を発話しているのは、一人の人間である。つまり、ここでは<我々>が答えているのではなくて、一人の人間が、<我々>が行っていることを記述しているのである。

この反論に対しては次のように答えたい。これが実践的知識であるとするならば、これは<我々>についての記述ではない。もし「私はチェスをしています」という答は記述でなくて、「我々がチェスをしています」という答えは記述であるとすれば、両者の間には非常に大きな質的な区別があることになるが、そのような大きな差異があるようには思えないのである。これを証明するための手がかりとして、ウィトゲンシュタインによる、「私」の「客観としての用法」と「主観としての用法」の区別を想起してほしい。

 

「「私」という語の用法には、二つの違ったものがあり、「客観としての用法」「主観としての用法」、とでも呼べるものがある。第一の種類の用法の例としては、「私の腕は折れている」「私は6インチ伸びた」「私は額にこぶがある」「風が私の髪を吹き散らす」など。第二の種類の例は、「私はこれこれを見る」「私はこれこれを聞く」「私は私の腕を上げようとする」「雨が来ると私は思う」「私は歯が痛い」など。次のように言うことで、この二つのカテゴリーの間の相違を示すこともできる。第一のカテゴリーの場合は、特定の人間の認知が入っており、したがって誤りの可能性がある、というよりむしろ、誤りの可能性が用意されていると私は言いたい。[……]それに対して、私が歯が痛いというときには人間の認知は問題にならない。「痛みを感じているのは、君だってことは確かか」と尋ねることはばかげている。なぜなら、誤りが不可能なこの場合、誤り、つまり「悪い差し手」とあるいは考えられるかもしれない差し手は実は、もともとこのゲームの差し手などではないからだ。」13

 

客観としての用法とは、話し手が観察によって自己について客観的に記述する場合であるのに対して、主観としての用法は、話し手について記述しているのではない。この用法の例の中には、アンスコムのいう実践的知識に当たるものは含まれていない。(14しかし、我々は実践的知識もまた主観としての用法に含まれると言えるだろう。「痛みを感じているのは、君だってことは確かか」と尋ねることが馬鹿げているのと同様に、「コーヒーを淹れているのが君だってことは確かか」と尋ねることは馬鹿げており、ここでも人間の認知は問題にならないからである。

さて、我々は、ウィトゲンシュタインが「私」の用法を二つに分けたのと同様に、「我々」の用法を二つに分けられるだろう。客観としての用法は、例えば、「我々は、新しいユニフォームを着ている」「我々は、強いチームである」がそれである。ここでは、人間達ないし集団の同定が行われている。これらの発言には、誤りの可能性があるといえる。主観としての用法の例としては、「我々はサッカーをしている」「我々は構内放送を聞いている」「雨が来ると我々は思う」「我々は、困っている」などを、上げることができるだろう。この場合、例えば「サッカーをしているのが君たちだというのは確かか」と尋ねることは馬鹿げているように思われる。つまり、集団の同定は問題にならないように思われる。なぜなら、集団を指示してそれについて記述しているのではなくて、この発話によって「我々」が作られていると考えられるからである。つまり、「我々はサッカーをしている」が主観としての用法だとすると、それは話し手による「我々」についての記述ではないのである。

「我々はチェスをしています」という知が、「我々の実践的知識」であり、話し手による「我々」についての記述ではないとすると、この知は個人の知ではなく、「我々」の共有知である。(「我々」の主観としての用法の他の事例も、我々の共有知であると言えそうであるが、その検討は別の機会にしたい。)

aさんとbさんが、「君たちは何をしているの」と問われて、aさんが「我々はチェスをしています」と答えるとき、この返答が実践的知識であるとしよう。ここでaとbが「我々はチェスをしています」という一つの知を分け持っているのだとすると、aは、「我々」を代表してこの問いに答えているのだと考えられる。「我々」は代表されることによって成立するのだと考えられる。このように考えるとき、実は「私」を主語とする実践的知識でも、発話者が、ある人物「私」を代表していると考えることが出来る。この人物はあらかじめ存在していて指示されるのではなくて、代表されるべき「私」は、代表されることによって、成立するのである。つまり、「私」の成立の仕方と「我々」の成立の仕方は同じである。

 

(3)「我々の実践的知識」の背景知

 ところで、他の知と同様に、実践的知識もまた、他の多くの知識とともに作る網目(web)のなかで成立している。我々が実践的知識に注目するときには、網目を作るその他の知識を「実践的知識の背景知」と呼ぶことが出来るだろう。「私はコーヒーを淹れています」は、「これはコーヒーの粉である」「ここにお湯がある」「私はコーヒーを淹れることが出来る」「私は存在する」などの背景知を伴っている。

これと同様に「我々の実践的知識」もまた、背景知をもつだろう。「僕達はサッカーをしています」は、「あれがゴールポストである」「これがサッカーボールである」「ここは運動場である」「我々は存在する」などの背景知を伴う。そして「我々の実践的知識」が共有知であるとすれば、これらの背景知もまた共有知である。

例えば今仮に、「君たちは何をしているのか」と問われて「僕達は野球をしています」と答え、「君は何をしているのか」と問われて、「ぼくはレフトを守っています」と答え、「彼は何をしているのか」と問われて、「彼はセンターを守っています」と答えるとしよう。ここで、「僕達は野球をしています」は「僕達」の実践的知識であり、「僕はレフトを守っています」は「僕」の実践的知識である。この二つが、実践的知識であり、観察によらない知識であるとき、「彼はセンターを守っています」もまた観察によらない知識であるだろう。それだけでなく、「僕達が野球をしている」が「僕達」の共有知であるのならば、「僕がレフトを守っており、彼がセンターを守っている」もまた、「僕達」の共有知である。つまり、「僕はレフトを守っています」「彼はセンターを守っています」は「僕達」の共有知である。ここに共有知の拡張の可能性がある。

 

6、問答の必然性と共有知

 私がpを知っているとすると、大抵の場合、私は「私がpを知っている」ことを知っており、またこのこと自身をも私は知っている。個人の自己意識の場合、このような反復は必要に応じて何度でも可能である。最初に挙げた「共有知」の事例で示したように、共有知もまたこれと同様の特徴を持っている。もしpがaとbの共有知であるならば、「aとbがpを知っている」ことをaとbは知っており、このこと自身をまたaとbが知っている。そしてこのような反復は、必要に応じて何度でも可能である。

 では、我々はこの共有知の反復をどのようにして説明できるのだろうか。もしこのようなメタレベルの知の反復が内観や反省を必要とするのであれば、「我々」による内観や反省が必要になる。そのためには、個人を越えた大きな主体を想定することが必要になるだろう。このことが、個人の知に還元不可能な共有知を考えることに対する反論の一つであろう。しかし、我々はメタレベルの知の反復を説明するために、内観や反省を行う大きな主体を想定する必要はない。我々はそれを以下のような問答関係の分析によって説明できるからである。

 

(1)自己意識と問答の必然性

夜、バス停で降りて、家まで歩く。そのとき、ふと空を見上げると満月が見える。「あっ、満月だ。どおりで、少し明るいな」と思う。このとき、「満月だ」は知として意識されているのではない。そのときの私の関心は、月に向かっており、月を見ている私に向かっているのではないからである。「満月が出ている」が知として意識されているとしたら、「私は、「満月が出ている」と知っている」と思っているということになる。

しかし、このように知を意識していないとき、私が「満月が出ている」ことを知らないのかといえば、そうではないだろう。なぜなら、もしそのとき「あなたは、満月が出ていることを知っていますか」と問われたならば、私は即座に「もちろん、知っています」と答えるだろう。私はこのとき何に基づいてこのように答えるのだろうか。おそらく、それは内観や反省に基づくのではないだろう。このように問われたときに、私の答えは、次の二つに一つである。

  (1)「はい、私は満月が出ていることを知っています」

  (2)「いいえ、私は満月が出ていることを知りません」

私は、満月をみて「満月だ」と内言したのであるから、(2)で答えることは、「満月が出ている。しかし、私は満月が出ていることを知らない。」と内言することになる。これは不条理(矛盾に似たもの)である。ゆえに、この場合に私が(1)を答えることは、必然的である。

より一般的に考えてみよう。Aさんが「p」という。そのとき、Bさんが、「あなたは、pを知っていますか」と問われたとするとき、Aさんの答えは、常に、

  (3)「はい、私はpを知っています」

となる。なぜなら、もしそうでないなら、

  (4)「いいえ、私はpを知りませんでした」

となるが、このように答えることは、

(5)「p。しかし私はpを知りません」

と発言することになるからである。これはいわゆるムーアのパラドクスに似たものであり、不条理(矛盾に似たもの)だと思われる。(厳密に言うと、「ムーアのパラドクス」と呼ばれているのは、「p。しかし私はpを信じない」という形式の発話であり、上の発話とは少し異なる。)

この(3)について、さらに「あなたは、あなたがpを知っていることを、知っていますか」と問われたならば、またしても上の場合と同じような事情によって、

  (6)「はい、私は、私がpを知っていることを知っています」

と答えることになるだろう。つまり個人の自己意識の無限の反復の可能性は、このように問答における不条理を避けるための必然性として説明することが出来る。この反復は、内観や反省などの人間の認識能力にもとづく経験的事実でも、超越論的事実でもなく、問答における論理的関係から説明できる事柄なのである。

 

(2)共有知と問答の必然性

これと同様のことが、一人称複数形についても妥当する。例えば、ある夜、私が妻と歩いているとしよう。私が夜空を見上げて「満月だね」といい、妻も空を見上げて「そうね」と言ったとしよう。このとき二人は、「満月が出ている」ということを知っている。このとき近くにいた第三者が我々に「あなた方は、満月が出ていることを知っていますか?」と問うならば、我々は次の(7)を答えるだろう。

  (7)「はい、私たちは、満月が出ていることを知っています」

  (8)「いいえ、私たちは、満月が出ていることを知りません」

もし私(或いは妻)が(8)を答えるとすると、「満月が出ている。しかし、私たちは、満月が出ていることを知らない。」と答えることであり不条理である。もし私が「満月が出ている。しかし私はそれを知らない」といえば、それはムーアのパラドクスになるだろう。また、もし私が「満月が出ている。妻はそれに同意した。しかし、妻は満月が出ていることを知らない」と言うとすれば、それもまた不条理だろう。ゆえに、私は「私も妻も満月が出ていることを知っている」と必然的に考えることになる。それゆえに、私は、(7)を答えることになる。また妻も同様である。ゆえに(7)の答えがここでは必然的である。

ここでさらに「あなた方は、あなた方が満月が出ていることを知っていることを知っていますか?」と問われたならば、答えは、次の二つに一つである。

  (9)「はい、私たちは、私たちがそれを知っていることを知っています。」

  (10)「いいえ、私たちは、私たちがそれを知っていることを知りません」

(10)の返答は不条理である。なぜなら、そのとき次のように答えることになるからである。

(11)「私たちはそれを知っています。しかし、私たちは私たちがそれを知っていることを知りません。」

これは不条理である。なぜなら、このように答えるためには、私か妻の一方ないし両方が次のように答えなければならないが、次の返答はムーアのパラドクスと同様に不条理だからである。

  (12)「私たちはそれを知っています。しかし、私は私たちがそれを知っていることを知りません。」

従って、我々は(10)で答えることは出来ず、(9)で返答することが問答の論理的関係から必然的である。

 ここでは、「我々はpを知っている」ということについて、さらに「我々は、我々がpを知っていることを知っている」ということが成立し、かつそれは問いに応じて何度でも反復可能なのである。つまり、ここでの「我々の知」は自己意識と同じように何度でも反復可能なのである。

 

7、結び

我々は社会の中で生活しており、信号を待つとか、定時に出社するとか、挨拶するとか、会社で仕事するとか、電車に乗るとか、社会的な様々な約束事に従って日常業務をこなしてゆく。このような社会生活が、共有知によって成り立っていることは、言うまでもない。

他方で、我々は常に他者との意見の不一致に出会う可能性がある。しかし、我々が不一致に気づくことは、他の何らかの知の共通を前提してのみ可能である。例えば、チェスのルールについて意見の不一致に出会うことは、その他の多くの部分での知の共有を前提するだろう。もしそれがなければ、あるルールに関する不一致と言うこと自体が成立し得ないだろう。個々の共有知については、解消したり偽であると解かることがあるかもしれないが、しかし共有知一般について言えば、それが底割れすることはない。我々が、言語を共有している限り、我々は共有知を持つといえるだろう。

 

 

(1) 拙論「相互知識はいかにして可能か」では、相互知識と共有知を区別し、共有知の存在を前提した上で、相互知識が成立する仕方についての分類整理、問題点の検討を行った。そこで論じた、共通知識と相互知識と共有知の区別は今も重要だと考えている。しかし、そこでの共有知の説明は曖昧で不十分だった。そこで、本論ではこの共有知の分析を行いたい。グライス、ストローソン、シファーの相互知識めぐる議論については、拙論「メタコミュニケーションのパラドクス(2)」、『大阪樟蔭女子大学論集』第31号、1994年、143-160頁、の参照を乞う。相互知識と共有知の区別については、拙論「相互知識はいかにして可能か」『アルケー』関西哲学会発行、2004年、54-67頁、の参照を乞う。

(2) D. Lewis, Convention: A Philosophical Study, Harvard UP. 1969, p.52.

(3) Ibid., p. 56.

(4) Ibid., pp.52-53.

(5) S. Schiffer, Meaning, Oxford UP, 1972, Sperber & Wilson, Relevance, Blackwell, 1986, R. Tuomela, The Philosophy of Social Practices. Cambridge UP. 2003. 中山康雄『共同性の現代哲学』勁草書房、2004年。

(6) J. R. Searle, The Construction of Social Reality, The Free Press. 1995, p. 24.

(7) しかし、サールは、ヘーゲルの世界精神のようなものが存在するとも考えない。むしろ、第三の道をとるのである。このサールの主張については、本論では扱えないので、他の論者の定義の検討とあわせて、別の機会に考察したい。

(8)フッサール『デカルト的省察』§62

(9)Frege, Kleine Schriften, Hrsg. von Ignacio Angelelli, Georg Olms, Hildesheim,1967. フレーゲ「思想」(『フレーゲ哲学論集』藤村龍雄訳、岩波書店、1988年、所収)

(10) G. E. M. Anscombe, Intention, Oxford, Basil Blackwell, 1957. アンスコム『インテンション』菅豊彦訳、産業図書、1984年、157頁。

(11) 同書、166頁。

(12) 同書,167頁。

(13)ウィトゲンシュタイン『青色本』大森庄蔵訳(『ウィトゲンシュタイン全集』第6巻、大修館書店、1975年、所収)120頁。

(14)菅豊彦が、ウィトゲンシュタインの「私」の主観としての用法の例と、アンスコムの実践的知識のずれについて指摘している。菅豊彦著『心を世界に繋ぎとめる』勁草書房、1998年、118-121頁を参照。


 

                                                           (哲学哲学史教授)