論文4   初期フィヒテの他者論


                  入江幸男
    はじめに
 「如何にして人間は、自分と等しいものである理性的存在者達を、自分の外に想定し承認するに到るのか。」こういう問いを真剣に主題としたのは、西洋哲学史においてはフィヒテが初めてではないだろうか。フィヒテ自身も「ほとんどまだ全く触れられていない問い」であるという。一般に、観念論的な哲学は、独裁論であるという批判を受けやすい。これを否定しようとすれば、必然的にこの種の問いを立てざるを得なくなる。それゆえ、思想史上、この種の問いは観念論的な哲学の問題圏に属してきた。フィヒテは、はじめはこの問いに「類推」で答えようとする。しかし次には、この「類推」の不充分さというより、むしろ不可能性ゆえに、他者を知識学の原理から「演繹」するようになる。我々は、一、他者存在の類推から演繹へ、二、知的直観と他者論、という順に考察し、これによってフィヒテの他者論の独創性と、フィヒテ哲学にとっての他者論の重要性を明白にしたい。

    一 他者存在の類推から演繹へ
   A
   a 他者存在の類推『学者の使命』(一七九四年)
 フィヒテが他者認識を最初に主題としてとり挙げるのは、『学者の使命』の中の「第二講義」である。そこでフィヒテは、「如何にして、人間は自分と等しいものである理性的存在者達を自分の外に想定し承認するに到るのか-----そのような存在者が、人間の純粋な自己意識に直接には全く与えられていない場合に----」と冒頭に挙げた問いを立てる。この問いについて述べられていることは、次の四つの性格にまとめられるだろう。
 一、これは哲学が学や知識学になりうる前に答えられねばならない問いであること。
 二、経験からは答えられないこと。
 三、理論的領域には属さないこと。
 四、実践的原理から答えられること。
 一について。フィヒテは、「哲学が学や知識学になりうる前に哲学が最初に答えるべき多くの問いがある」という。そして、前述の問いと身体に関するもう一つの問い----「どのような権原で、人間は物体界の一定の部分を自分の身体と名づけるのか」----が、そのような問いに属しているという。つまり、フィヒテはここでは他者認識の問題を知識学を前提とせずに語ろうとする。(この理由については後で推測する。身体論と他者論の二つの問いの関係についても、後で述べる。)
 二について。経験を根拠として答えることが出来ない理由は、次の点にある。経験は、我々の外の理性的存在者の表象が、我々の経験的意識に含まれていることを教えるだけであり、この表象に対応するものが我々の外にあるかどかについては、教えないからである。我々はいかなる「権原」にもとづいて、一定の経験を我々の外の理性的存在者の存在から説明するのだろうか。それが経験的なものでないなら、先験的なものであろう。
 三について。哲学の理論的領域は批判家達の根源的な諾研究によって尽くされている。だから、今まで答えられずに残っている問い、つまりこの問いは、実践的原理から答えられねばならない、といわれる。
 四について。実践的原理から答えるとはどういうことだろうか。フィヒテの叙述から逆にこのことを探りたい。彼によると人間の最高の衝動は、人間の外にあるすべてのものと、それについて人間がもっている必然的な概念との一致への衝動である。ゆえに自我の中にあるすべての概念には、非我の中でその「表現」(ein Ausdruck)、「対像」(ein Gegenbild)が与えられるべきである。ところで、人間の内には理性の概念が与えられている。ゆえに人間は必然的にこの概念を自己内に実現しようとするのみではなく、自己の外にも実現されているのをみようとする。しかし人間はそのようた存在者をつくり出すことは出来ないから、非我の観察の根底にその概念をおき、それに対応するものを見つけようとする。その際、理性性の徴標(Merkmal)として、合目的性と自由の二つが挙げられる。合目的性は有機的な自然法則からも生じるので、これだけでは、対象が理性存在であるというには不充分である。だから「より確実な見間違いようのない理性性の性格」である自由を見つけねばならない。ところが厳密にいうと、自由は全ての意識の最終の説明根拠であるから意識の領域には属さない。他者の自由ばかりか、自分の自由も意識しえないと彼はいう。しかし、ひとはおそらく一般には、原因が意識されないことを自由の意識と呼んでいる。この意味でなら、ひとは、自由による自分の行為を意識しうる。さてこのような行為によって変化した(現象の中に与えられている)「実体の作用様式」(身体運動や、人工物のことであろう)は 、原因が理性的かつ自由であるという前提の下でしか説明できない。そしてここから、カントの用語でいうと「概念に従った相互作用」(eine Wechselwirkung nach Begriffen)「合目的な共同体」(eine zweckmaessige Gemeinschaft)が生じ、フィヒテはこれを「社会」(Gesellschaft)と名づける。
 以上で、実践的原理から答えるとは、他者を自己の外に見つけようとする人間の根本衝動がどのように充たされるかを「物語的に」(historisch)語ることであるといえよう。具体的には、W・ヤンケのいうように他者存在の「類推」(Analogie)によって根本衝動を充たそうとするのである。この類推は、図式化すると私の内的な自由と外的な行為との関係にもとづいて、他のものの外的な行為から他のものの内的な自由を類推するというものである。以上述べてきたここでの他者論の四つの性格は、この「類推」の性格であるともいえよう。このことを次に検討しよう。
   b 類推の検討
 他者存在の類推は、一般に少なくとも次の三つの前提をもつ。
  一、自分の自由の意識、意識の二重化。
  二、自分の身体、行動、ないしその所産の認識。
  三、対象の形態、運動、ないしその所産の認識。
 前提一に関して、フィヒテは前述のように、厳密には自分の自由を意識できないと考えている。従って、厳密には類推自体も成立しないことをフィヒテは知っているのである。またたとえ類推が成立したとしても、類推の結論の妥当性は蓋然的であるにとどまる。このような他者論は、根本原則の条件をつぎつぎに演繹していくという知識学、あるいは必然的な表象を扱う知識学には当然含まれない。この類推は他者存在の理論的証明ではない。(以上前述のここでの他者論の性格一と三に関して。)
 ではこの類推は、我々が実際の経験上どのように他者を想定しているか、を記述しているのだろうか。そうではない。この類推は我々が他者を想定するようになる先験的な「権原」について述べているはずである。(以上二に関して。)
 この類推は、他者存在の理論的証明でも、他者の想定の現象の記述でもない。他者の想定、承認が人間にとっての必然的行為であることを、フィヒテは人間の根本衝動によって説明する。この類推は、その根本衝動が現実に実現される先験的に考えられた仕方である。類推が根本衝動にもとづけられることによって、類推によって想定された他者は、同時に承認されることになる。ここでは、フィヒテは、想定と承認を区別していないかのように見えるが、実は、他者の想定が、根本衝動にもとづいているために、想定された他者は直ちにそのまま根本衝動によって承認されることになり、とり立てて、想定と承認について別々に論証しなくてよいのである。(以上四に関して。)
 ところで、もし厳密には自分の自由を意識できないとすると、類推が厳密には成立しないのみでなく、ここでの根本衝動による説明も不可能になる。他者存在を自分の外に見い出そうとする根本衝動も成立しないことになる。なぜなら、この衝動は----自我の中にあるすべての概念は非我の中に表現をもつべきだという「同一性への衝動」があるという大前提と人間の中に、理性的行為と思惟の概念が与えられているという小前提から成立しているが、自分の自由が意識できないなら、小前提は成立しないからである。
 また大前提の「同一性への衝動」は「第一講義」で述べられているというのだが、そこでは、その完全な根拠づけは哲学全体の叙述を必要とするといわれている。すると、他者論は、哲学全体の後、従って哲学が学や知識学となった後に成立することにたる。これはここでの他者論の性格一に反する。
 ここでの他者論は、このように非常に不充分なものである。フィヒテ自ら、ここでの他者論は「更なる省察のための単なる示唆、更たる啓発のための単なる指示」でしかないと述べている。後論を先取りしていえば、フィヒテは、このような類推を(ある局面では残すが)放棄する。しかし、それは類推が蓋然的にしか妥当しないからではない。この前提が全て、逆に他者の想定を前提としなければ成立しないという理由による。以下我々は、それをみてゆこう。

    B 他者「演緯」の図式----ラインホルト宛書簡(一七九五年八月二十九日)
 一七九五年八月二十九日付のラインホルトヘの手紙でフィヒテは次のように述べている。「私は、この夏、自然法についてて研究しました。そして法概念の実在性の演繹が、どこにも欠けていることに気がつきました。」彼は法の基礎づけの研究から従来の他者論の不完全性に気がつくのである。「私はこの機会にカントの『道徳形而上学の基礎づけ』(Grundlegung zur Metaphysik der Sitten)をしらべました。そしてカントの諸原理の不充分さと彼自身によって気づかれずになされた前提が、もしどこかに示されるとすれば、ここにはっきり示されうることに気がつきました。」
 ここでフィヒテは、格率が普遍的妥当性をもたなければなら扱い理由をカントは述べていないと批判する。更に、たとえそれが証明されたとしても、そこから法と他の理性的存在者の概念を演繹することは出来ないという。このことは、『自然法の基礎』で述べられる法と道徳の分離を意味している。
 この演繹は、私の外に理性的存在老を想定せずには、私は私を思惟できないという仕方でのみ可能であるという。言い換えると、これは、前述の「類推」の前提一が実は他者の想定を前提しているということである。この演繹は次のような「図式」となる。一、私は私に必然的にある述語Cを帰属させねばならない。二、私は私の外に理性的存在者を想定するという条件下でのみ、述語Cを私に帰属させうる。(三)私の外の理性的存在者は、仮定により私と完全に等しいはずだから、私は彼らにも述語Cを帰属させねばならない。(四)要するに私は私の外の理性的存在者に述語Cを帰属させることなくしては、私にCを帰属させることは出来ない。(一、二はフィヒテ自身による番号であり、(三)、(四)は筆者が補なった。)この図式は、『自然法の基礎』で具体化されることになる。その際、述語Cにあたるのは、客体の認識と自分の自由な能作性(行為)の意識である。これにつづいて、フィヒテは更にカントを批判する。カントの諸原則には、先にのべた欠陥から更に「重大な欠陥」が生じる。「私はどのような現象に理性性の概念を転移し、どのような現象に転移しないのか。」これにカントは哲学的に 答えていないという。フィヒテは次のように答える。「これらの問いは、次のような議論でのみ答えられる。一定の諸物を私に全く征服されているものとして考えることなくしては、私は私を自我として考え得ない。これらの物に対して、私は原因の関係に立つ。他の諸現象に対しては、相互作用の関係に立つ。人間的形態が、人間にとっては、現象の後者のクラスの表現である。私はこの形態を、私において不可侵なものと考える。しかし、私はそれを一般に不可侵なものと考えることなくしてはそうしえない。二つの行為は総合的に結合されている。」(傍点は原文ゲシュペルト。)
 先の「演繹」では、哲学者が自我の存立条件として他者の想定を演繹したのである。ここで「転移」と考えられている他者の認識は哲学者ではなく、当の自我が現実にどのように他者を認識しているかを述べたものである。このように他者論を二つに分けることは、『自然法の基礎』でも同じである。また、この現実的な他者認識が、他者の人間的形態を不可侵なものと考えることと結合している点は、『自然法の基礎』では他者の認識と承認の結合という思想に展開されている。
 『学者の使命』での他者論の性格二(経験からは答えられないこと)は、他者の演繹論については妥当するが、もう一方の当の自我による他者認識の考察にはあてはまらない。この後者の他者論の中で「類推」による他者認識が考えられているかもしれない。
 いずれにせよ、この書簡の中には『自然法の基礎』での他者論の重要な骨格が殆ど出ている。またこの書簡はカントとの関係を考える上でも重要であろう。」
    C 他者存在の「演緯」----『自然法の基礎』(一七九六年)
 『知識学の諾原理による自然法の基礎』という書名に示されているように、ここでの他者論は、知識学に基づいて論じられる。この点で『学者の使命』での他者論の性格一(哲学が学や知識学になりうる前に答えられねばなら扱いこと)とは異なる。この著作以後、他者論は、知識学の原理に従って、あるいは知識学自身の内部で論じられる。
 さて、フィヒテは『自然法の基礎』の第一章で「法の概念の演繹」を企て、次の三つの定理を呈示し証明してゆく。
 「第一定理、有限な理性的存在者(ein endliches Vernunftwesen)は、自己に自由な能作性(freie Wirksamkeit)を帰属させることなしには、自己自身を措定できない。」
 「系、自由な能作性への能力の措定によって理性存在者(das Vernunftwesen)は、自己の外に感性界を措定し規定する。」
 「第二定理、有限な理性存在者は、感性界における自由な能作性を、他の者達にも帰属させることなくしては、つまり自己の外に他の有限な理性存在者達を想定することなくしては、感性界における自由な能作性を自己自身に帰属させられない。」
 「第三定理、有限な理性存在者達は、法関係(Rechtsverhaeltnis)と呼ばれる一定の関係の中に他の有限な理性存在者達と立っているものとして自己を措定することなくしては、また他の有限な理性存在者達を自己の外に想定することは出来ない。」
 他者の一般的な「演繹」は第二定理の証明で行われ^他者の個別的現実的な認識と承認は第三定理の証明で論じられている。
 他者の一般的な「演繹」は対象認識と自由な行為が循環に陥り、それを解決する両者の総合が、他の理性的存在者を原因とせざるを得ない、という仕方で行なわれる。以下第二定理の証明を詳しくみよう。
 まず次のような認識と行為の「循環」(Zirkel)が呈示される。
 a「理性的存在者は、綜合において分離せず、同時に自己に能作性を帰属させることなくしては、いかなる客体も措定(知覚及び把握)できない。」
 b「しかし理性的存在者は、その能作性が向うべき客体を措定しおえているのでなければ、いかなる能作性も自己に帰属させることはできない。」言い換えると「すべての把握(Begreifen)は、理性存在者の能作性の措定により制約されており、すべての能作性は、先行の把握により制約されている」。ここで直ちに自己意識の存立が矛盾に陥るわけではたい。(aに従って)ある客体Cの認識があるとき、同時に自由な能作性C’を自己に帰属させているとすると、(bに従って)能作性C’には、別の客体Bの認識が先行する。更に、Bの認識と同時に能作性B’を自己に帰属させており、このB’には別の客体Aの認識が先行しており、更に……。というように無限にさかのぼるとすれば、ひとまず説明できる。しかし、この場合問題なのは、自己意識の生じる最初の瞬間をどう説明するかである。ここに「矛盾」が生じる。これを解決するには「主体の能作性がそれ白身、知覚され把握された客体であり、客体が主体のこの能作性に他ならず、両者が同じものである」という総合を想定せざるを得ない。この「総合」を「分析」すると当然次の二性格をもつ。一つは客体であること、もう一つは主体の能作性である こと。ここでフィヒテは、「主体が自己規定へ規定されていること」(ein Bestimmtsein des Subjekts zur Slbstbestimmung)「能作性へ決断するように、という主体への要求(eine Aufforderung)」が、このような二性格をもった「綜合」であるという。その説明をみよう。この「綜合」は客体であるから、感覚に与えられねばならない。しかも、すべての内的感覚は外的感覚の再生によってのみ生じるから、最初の感覚の対象であるはずのこの「綜合」は、外的感覚に与えられねばならない。
 またこの「綜合」は、主体の自由な能作性でなければならない。しかし、自由な能作性が客体として与えられるということは、ありえなたい。なぜなら、自由とは自己規定であり、自己観定へ規定されるこ・9 9 0 5 s ヒp e c i a l . h 9905SP~1HTM ツュケ&' テュケ& j・ Ba k  C 9 9 0 6 p  Ca r s o n s . b 9906PA~1BAK h劍チ&チ& 囗チ&9o? Bt m  サ 9 9 0 7 l  サu h m a n n . h 9907LU~1HTM XC猾& D猾& * Bt m  ス 9 9 0 8 l  スu h m a n n . h 9908LU~1HTM ( ・ヨ& ・ヨ& yタ5 Ba k  ョ 9 9 0 7 l  ョu h m a n n . b 9907LU~1BAK dC斫&マ& D斫&軾・ Ba k  ー 9 9 0 8 l  ーu h m a n n . b を前提していなければならない。このような前提をなしうるためには、「要求」する者が理性と自由の概念をもっていなければならない。ここに、他の理性的存在者が必然的に想定されるのである。
 フィヒテはここで、「どんな作用が理性的原因によってしか説明できないか」と問い、「作用の概念が必然的に先行しなければならない作用」と答える。そして更に、それはどのような作用かと問う。「理性的存在者は、能作性の客体の認識をもたずには、その能作性のいかなる概念ももつことはできない。」「さてしかし、単なる自然力でなく、(能作性の客体の)認識によってしか可能と考えられないものは、認識そのものに他ならない。」従って、理性的存在者の作用であるという「確実な徴標」は、認識を意図していると考えねば全く理解できない作用であるという点に求められる。そしてかの「要求」こそは、まさにそれに当る。この「要求」をフィヒテは、「教育」とも言い換えている。

    b 「演繹」の検討
 ここでまず確認しておかなければならないのは、他の理性的存在者の演繹を行なっているのは、第三者にあたる「哲学する我々」であって、当事者にあたる意識ではないということである。「我々」が当事意識の存立条件として、他の理性的存在者の存在を演繹したのである。問題はこの演繹である。
 第一に、この演繹によって証明されるのは、他の理性的存在者が自己意識の成立時に、最低一人は存在していたことだけである。他の理性的存在者が複数いること、自己意識が成立した後も存在していることは証明されていない。このことは、ここでは明言されていないが、後にのべる『道徳論の体系』では明言されている。
 第二に、自己意識が成立するには、他の自己意識がその前に成立していなければならないことから、問題が生じる。最初の人間はどのようにして自己意識をもつことができるのか、という問題である。フィヒテは「自由な自発性への要求は、教育と呼ばれているものである」といい、「護が最初の人間のペアを教育したのか」と問い、人間ではない理性的存在者を想定する。ここでは、アダムとイブそして神が考えられている。「すべての哲学は、最後には再び古い尊い古文書に還らねばならない」という。この場合には次に、最初の人間による神の認識が問題になるだろう。
 以上の二点は、この「演繹」の外的な問題、つまりその限界に関するものである。次に内的な問題を考えよう。
 まず検討しなげればならないのは、はじめに呈示された、認識と行為の「循環」である。行為のためには、行為の向う対象を措定しておかねばならない。この意味で先の命題bは明らかである。問題は命題aである。フィヒテは「第一定理」の証明の中で命題のaを証明している。彼によると、「自己自身の内へ還帰する活動一般(自我性、主観性)が理性存在の性格である」。ゆえに「理性存在は、反省において自己自身を措定すべきである。自己自身を客体にすべきである。」ところが「有限な理性存在」は、制約された「自己内へ還帰する活動性」である。従って、その外に、別の活動性、「自己内に還掃しない活動性」(=「世界直観における活動性」これは世界を客体にする)を反措定する。従って、世界直観における活動性(客体の措定)は、制約された自己内に還帰する活動性に制約されている。ところで、制約された自己内に還帰する活動性は、「自由た活動性」である。これは、客体がこれを拘束しているかぎり、客体の廃棄へ向かう「客体への能作性」である。「能作性への自由な自己規定」である。ゆえに、客体の措定は自由な能作性に制約されているのである。このようにして、命題aは証明さ れる。この命題は、理論的態度に対する実践的態度の優位を述べるものであり、これ以上の検討は、彼の知識学の理論的部門の本格的研究となるべきものである。ここでは、以上の説明に留まらざるを得たい。次に検討しなげれならないのは「総合」である。「総合」は、客体=能作性と表現できるだろう。この表現は、これだけを考えると、二つの意味に解釈されうる。つまり客体としての<客体=能作性>と、能作性としての<客体=能作性>である。後者は、自己内に還帰する活動性が、前老のように客体になってしまうのではたく、活動性としてそのまま客体になっている状態である。(これについては後に述べることにたろう。)ここでの「総合」は、他者が行なう「要求」であるから、前者の意味である。この「要求」の理解は、フィヒテの先の用語を使えば、〈制約された自己内に還帰する活動性〉を措定する〈自己内に還帰しない活動性〉であろう。(このことは後で確認できるだろう。)この「要求」ないし「要求」の理解(verstehen)が、具体的にはどのようなものであるのかをフィヒテは書いていないので、ここでは、言語によるものであろうとしか推測できない。ここで「類推」による他者認 識との関係をふりかえっておこう。他者の「類推」の三つの条件はすべて「要求」の理解、つまり他者の認識によってはじめて成立するのである。条件一(自分の自由の意識)は、自由な能作性の意識にあたる。条件二(自分の身体、行動、ないしその所産の認識)と三(対象の形態、運動、たいしその所産の認識)は、客体の認識にあたる。この二つは「循環」しており、「要求」の理解によってはじめて成立するのである。「類推」による他者認識は第二次的な他者認識であることになる。フィヒテに従うと、最初の意識は、客体の意識でも、自己の意識でもなく、他者の意識である。演緯の問題から少しずれるが、ここで、意識の第二の瞬間をみておきたい。「理性存在は、意図された概念(自由な行為という概念)を確かに把握したとき、それを実現する。」(括弧内は引用者の付記)これは「現実的行為によってか」「行為しないこと(Nichtehandeln)によってか」であるとフィヒテはいう。しかし、現実的行為に如何にして移ることができるのだろうか。「行為一般だけが要求されている」のだから、「可能な諸行為の領域の中で、主体は自由な自己規定によって一つを選ぶべきである」とフィヒテはいう。しか し、「可能な諸行為」の認識はいつのまに成立したのだろうか。この問題の解決の糸口は、『道徳論の体系』で与えられる。他方、行為しないことによって自由を実現するとはどういうことだろうか。理性存在者は、行為への要求を理解し、かつこれに反して行為をつつしむとき、彼は行為と行為しないことの間で自由に選択しているのである、とフィヒテはいう。しかし、この選択がなり立つには、行為が可能でなければならず、「可能な諸行為」の認識が生じていなければならず、同じ問題にぶつかる。ともあれ、フィヒテは、要求とそれに対するこのような行為の関係は、「自由な作用」と「自由な反作用」との「自由な相互作用」であるという。「要求」が「自由な作用」であるというのは、次のような次第である。
 フィヒテは、「理解する、あるいは把握する(begreifen)とは一体何を意味するのか」と問い、答える。「もし私が認識の完全な全体を獲得したたら、私は現象を把握したのである。……もし私の態度がまだ動揺(ein Schweben)……であるなら、私は把握していない。」「完全な全体」とは各部分が全部分によって根拠づけられ、また全部分が各部分によって根拠づげられていることをさす、といわれる。ゆえに、ひとは、他の人間の身体の形態を見たとき、必然的にそれを理性的存在者の「代表象」(Repraesentation)とみなさねばならない。この場合の他者認識としては、カントの反省的判断力による合目的性の認識に似たものが考えられているようだ。「反省的判断力」は多様なものの中へ統一を「持ち込む」(hineintragen)といわれている。これは「転移」と同じものだろう。前述の書簡と同様にフィヒテは次のようば問を立てている。「如何にして、我々は、感性界の若干の対象に理性性の概念を転移し、他の対象にはそうしたいのか。これは哲学者における重要な問であり、私の知るかぎり、哲学はこれをまだどこにも解いていない。」ところでカントの反省的判断力による合目的性の認識は「類推」であった。従って、この「転移」は「類推」にもとづくものであろう。
 こうして、相手を理性的存在者とみなした以上は、相手へかの「要求」をすべく「首尾一貫性」(Konsequenz)によって拘束されてる。しかし、「首尾一貫性」の採用自体は、「要求」する者の自由にもとづく。ゆえに「要求」の行為は自由な行為である、とフィヒテはいう。この「要求」の行為は、他者承認の一形態であるので、詳しい検討は、承認論の検討として行おう。
   C他者の認識と承認----『自然法の基礎』つづき
 第三定理は、「有限な理性存在者は、法関係と呼ばれる一定の関係において他の理性存在者と共にあるものとして、自己を定立することなしには、他の有限な理性存在者を自己の外に想定することは出来ない」であった。ここにいう「法関係」とは、「各人が自分の自由を、他者の自由の可能性の概念によって制約する---但し、一方もまた他方の自由によって同様に自分の自由を制約するという条件下で」という関係であり、相互承認の関係といってよいだろう。因に、フィヒテのいう承認とは、他者を自由なものとして扱うこと、つまり他者の自由の概念によって自分の自由を制約することである。
 これの証明は次の「三段論法」になる。
 大前提「私自身が一定の理性存在者をそれとして扱う限りでのみ、私は一定の理性的存     在者に、私を理性的存在者(50)として承認するよう要求しうる。」
 小前提「しかし私は、私を理性的存在者として承認するように、私の外のすべての理性的存在者に、全ての可能な(51)場合に、要求しなければならない。」
 結論「私は、私の外の自由な存在者を全ての場合に、それとして承認しなければならなあい、つまり私の自由を彼の自由の可能性の概念によって制約しなければなあらない。」 大前提と小前提の証明をかねて、現実的具体的な他者の認識を、フィヒテがどのように考えていたか図式化してみよう。ここにAとBの二人がいたとする。
 一、Aは、Bの身体の形態や理性的行為から、Bが理性的存在者であるという蓋然的な認識をもつ。
 二、Aは、この認識に基づき、Bのために自己の自由を制約する(Bを承認する)。
 三、も、かかるAの承認行為から同様に、Aが理性的存在者であるという蓋然的認識をもち、これに従ってAのために自己の自由を制約する(Aを承認する)。
 四、Aは、このBの応答によって、Bが理性的存在者であるという定言的認識を得て、Bを定言的に承認する。
 もL,AのBに対する承認(二)に対して、BのAに対する承認(三)が生じなければ、Aは、Bが理性的存在者であるという蓋然的認識(一)を撤回し、Bが理性的存在者とみえたのは「偶然的」であると考え、Bを「単なる感覚物」として扱うことになる。他者についての蓋然的認識を定言的にするのは、相互的な承認行為である。また逆に、他者認識が定言的になることによって、承認行為は根拠づげられることになろう。このようた意味で、フィヒテは他者の認識と承認が不可分であり、承認は相互承認としてのみ成立すると考えている。 もう一つ重要なことは、この一から四への進展が、「首尾一貫性」(Konsequenz)「自己自身との一致」(Einstimmigkeit mit sich selbst)という「思惟法則」(Denkgesetz)に基づいているという点である。
 ここでの承認論の重要な点をまとめておこう。
 一、承認は相互承認としてのみ成立する。「もし両者が相互に承認するのでたいならば、だれも他者を承認しえない」
 二、承認は、行為に現われねばならない。「行為のみが、共通に妥当する承認である。」
 三、承認と認識は不可分である。
 四、承認は、直接には、他者への積極的働きかけでなく、自己の自由の制約という消極的行為である。
 五、「首尾一貫性」という思惟法則に基づく。

    d 他者の認識と承認の検討
 ここで論じられている他者認識は、当事意識の行う個別的具体的な他者認識である。前述の「要求」の認識が、この中に含まれているかどうか、フィヒテは述べていない。含まれていれば、ここでの他者認識は、類推ではない。含まれていなげれば、類推でありうる。ここでの叙述だげをみれば、他者認識は、類推であるように思われる。はじめの蓋然的な他者認識は、先に「要求」する者の他者認識としてのべたものにあたるだろう。つまり、「類推」に基づく「転移」である。これは、『学者の使命』での「類推」と論理上は同じかもしれない。しかし、その他者論としての意味は異たる。ここでは、ひとがどのように他者を認識しているかという、経験の記述であるが、『学者の使命』では、実践的原理がどのように実現されるかの先験的な説明であった。また、一から四の過程全体をみるたらば、『学者の使命』での類推とは、論理上も異たる。ここでは、相手の一方的認識ではたく、対話・交渉に基づいて類推が行われている。しかし、どのような類推であれ、類推であるかぎり、他者認識は「定言的」にはならない。そうすると、相互承認もその根拠づけを失うであろう。もう一つの問題は「首尾 一貫性」である。これは、法論と道徳論の関係にかかわる。フィヒテは、「序論」で次のようにいう。「すべての自由な存在者が……他の自由な存在者を自己の外に想定することは必然的である。しかし、彼らが全て、自由な存在者として並んで存続することは、必然的ではない。従って、かかる共同体の思想とその実現は、何か恣意的なものである。」法概念は単に「技術的-実践的」(technisch-praktisch)である。「法論では、道徳的拘束性については語られない。各人は、他の人々と社会の中で生きるという恣意的な決断によってのみ拘束されている。」これは一見第三定理に矛盾するように見えるがそうではない。その定理は「首尾一貫性」にもとづいていたが、「首尾一貫性は意志の自由に依存している」。「理性的存在者が、理性性の性格によって、自分の外のすべての理性存在者の自由を欲するように、絶対的に拘束されているわけではない。この命題が、自然法と道徳の境界を分けるものである。……道徳の中で、このように欲する拘束性が示される。」フィヒテは、法論と道徳論を全く別のものと考える。その根拠になるのが、「首尾一貫性」の根拠づげをもつか否かである。そして、そのより 深い根拠は、道徳論なくして法論が成立したこと、つまり他者を理論的に演緯した点にみとめられる。次に我々は、このような他者論を『第二序論』『道徳論の体系』を使って解明したい。とくに知的直観との関係において。

    二知的直観と他者論
    A知的直観と他者認識----『知識学の第二序論』(一七九二年)
 『全知識学の基礎』(一七九四年)の中でフィヒテはすでに、自我の存立条件として他者を考えている。「汝がなければ、我はなく、我がなければ汝はない」(Kein Du, kein Ich; kein Ich, kein Du というよく引用される言葉は、それを示している。しかし残念ながら、ここでの他者論は、この言葉だけである。知識学の著作で次に他者論にふれているのは『第二序論』ではなあいだろうか。そこでフィヒテは次のようにいう。「自我性」(Ichkeit)=「主観-客観性」(Subjekt-Objektivitaet)は根源的に「それ」(Es)“「単なる客観性」に反措定されている。この二つの概念の措定は、絶対的で、他の措定によって制約されず、定立的(thetisch)である。この「それ」に「自我性」の概念が「転移」(Uebertragen)されると、「汝」(Du)の概念が生じる。「汝の概念」は「それ」と「自我性」の「総合」から生じる。この「汝」に対立する「個人」としての「自我」の概念は、「自我の自己自身との総合」である。これを『自然法の基礎』での記述に対応させてみる。「自我性」の措定(自我性も自我性の措定も、その本質からして同じであろう)は、「自己内に還帰する活動性」(これは『自然法の基礎』でも「自我性」とか「自分自身の措定」といわれていた)にあたろう。しかも、この「自我性」は「それ」に反措定されているのだから、制約された「自己内に還帰する活 動性」である。「それ」の措定は、「自己内に還帰しない活動性」にあたろう。すると、「それ」への「自我性」の「転移」の結果は、〈制約された自己内に還帰する活動性〉を措定する〈自己内に還帰したい活動性〉となろう。これは『自然法の基礎』で「総合」あるいは「要求」の理解として解釈したものだった。ここで我々には、『自然法の基礎』でははっきりしていたかった点、つまり「要求」の理解も「転移」の一種であることがはっきりする。では「転移」とは何か。『全知識学の基礎』では「非措定による措定」(ein Setzen durch ein Nicht-Setzen)と言い換えられている。そこで具体的に考えられているのは、「自我の中の受動によって非我の中の活動性が措定される。すなわち、一定の活動性が自我の中に措定されないで、あるいは自我から取り去られて、非我の中に措定される」ということである。(因に、これにもとづいて「非我の全実在性は、全く自我から転移されたものである」という「独断的観念論」が考えられる。これに対しては、「も」、非我の独立の実在性、つまり物自体が既に前提されているのでなければ、転移され得ないという「独断的実在論」からの反論が成り立つ。フィヒテは、「転移」と「非我の独立の活動性」が相互に規定し合うことを示して、二つの立場の「中間の道」(Mittelweg)をとる。)
 「転移」がかかる意味の「非措定による措定」だとすると、「それ」へ「自我性」を転移するとき、自我は自己から「自我性」を取り去って、「それ」の中に措定するのである。そうすると、自我はもはや自我ではなくなる。そうならないためには、自我性の一定量を「それ」へ転移し、一定量を自我の中に浅さねばならないのではなかろうか。但しこの解釈は、自我性が量的に規定されうることを前提とせねばならない。もし、このようにして転移が可能だとして、実際に転移が起こるには、「非我」での例のように、自我性における一定の「受動」がなければならない。かの「要求」をされることが、自我性におけるこの「受動」でなければならない。かの「要求」の理解は、この「受動」を認識し、これに基づいて、一定量の自我性を客体へ転移することである、と解釈できるのではないか。(フィヒテが実際にこう考えていたことを後に示そう。)
 ところで、「転移」をするには、「それ」の措定と「自我性」の措定が先行していなければならない。しかし「要求」の理解が、最初の意識である以上、この二つの措定は意識されてい扱いことになる。このことをまず「それ」について確認しておこう。『全知識学の基礎』で、非我の自我への能作性を演繹したとき、フィヒテは、そこではまだ時間は演繹されていない、つまり経験的意識はまだ成立していないと考えている。次に「自我性」について確認しておこう。自我性の「絶対的定立」(ein absolute Thesis)は「事行」(Thathandlung)であろう。『全知識学の基礎』でも、第一根本命題「我あり」は「事行」であり、「絶対的定立」といわれていた。『第二序論』では、この「事行」は更に「知的直観」(intellektuelle Anschauung)であるといわれている。フィヒテは、ここではじめて、「知的直観を「すべての哲学にとっての唯一の確固とした立場」として主張する。彼は「自我と自己内へ還帰する行為とは、全く同一の概念である」と考える。この「自己内へ還帰する行為」は「把握」(Begreifen)ではなく「単なる直観」であり、これを「知的直観」と名づける。この知的直観は「意識でも自己意識でもない」。意識されるにはさらに反省されねばならない。従って自我性の措定は意識されていないのである。(後論のためにつけ加えておくと、カントは知的直観を認めないが、これについてフィヒテは次のようにいう。カントの知的直観は、超感性的な存在へ向うものだが、自分の知的直観は行為へ向うのである。名前は同じだが別のものである。知識学は「よく理解されたカントの説」であって、カントの説と全く一致する。カント哲学の中で、フィヒテのいう知的直観にあたるものとしては、「純粋統覚」と「定言命法」の意識が挙げられている。)ところでフィヒテは、「知識学がそこからはじまる、知的直観としての自我」に対して、「知識学がそこで閉じる、理念としての自我」を区別して立てる。しかし両者は共 に「個人としての自我」ではない。前者は、まだ個人性へ規定されておらず、後者は、個人であることをやめている。我々の関心は、「知的直観としての自我」から「個人としての自我」への移行である。それは他者の認識によって起る。他方、「個人としての自我」から「理念としての自我」への移行は不可能である。「我々は、この理念へただ無限に近づくことが出来るだけである。」とにかく、他者認識は、フィヒテ哲学の中でこのような重要な位置を占めるのである。

   B
   a もう一つの「演緯」論----『道徳論の体系』(一七九八年)
 『知識学の諸原理に従った道徳論の体系』でも、書名の示すように、フィヒテは知識学にもとづいて他者を演繹する。しかし、ここでの他者論を『自然法の基礎』のそれと区別して次のようにいう。「我々はすでに他のところで(私の自然法で)自我が個人としてのみ自己を措定できることを証明した。従って、個人性の意識は自我性の条件であろう。道徳論は、ある特殊な哲学的学問より(それゆえまた法論より)高いところにある。従ってここでは、証明はより高い原理から導かれねばならない。」ここにいう「より高い原理」とは何であろうか。フィヒテは『自然法の基礎』では、対象認識と行為との「循環」から、他者による「要求」を演繹した。ここでは、その「循環」を詳しく分析し、それが二つのレベルにおける二種の「循環」からなると考える。そして、その中の一方の「循環」を解くものとして、他者による「要求」を演繹している。
 「定立、理性存在者は、その活動性の制約による以外には、如何なる認識ももたない。」
 「反定立、しかし理性存在者には、認識による以外には、少なくとも理性存在者自身の中の或るものの認識による以外には、如何たる自発性も帰属」ない。」
 活動性と認識の「循環」はここではこのように定式化されている。ここでもやはり「循環」は両者の「総合」を考えることにより解決される。しかし、この総合を理解するために『自然法の基礎』でしたように直接に分析してゆく(90)方法は「最も難しい方法」である。というのは、この総合は「哲学全体の中に現われる最も抽象的なものの総合」だからである。こう考えて、フィヒテはここでは「よりやさしい方法をとる。それは「逆の道」である。つまり、それは、すべての意識がそこから出発する最初の点について「よく知られた徴標」をしらべ、その中に、求められている総合が含まれているかどうかを探る、という方法である。これをフィヒテは次のように行っている。
 自我の「本質は絶対的活動性であり、活動性以外のものではたい。しかし活動性は、客観的に捉えられると、衝動である」。しかし自我は、客観的である或るいは存在であるだけでなく、思惟或るいは知性でもある。この知性から、自由と自発性をすべてとりのぞいた単なる規定性は、「感情」と呼ばれる。「自我が根源的に、その客観的規定としての衝動と共に措定されているなら、自我は必然的にまたこの衝動の感情と共に措定されている。そして、このような仕方で、我々は、残りの意識の系列をそこに結びつけることのできる必然的で直接的な意識を獲得した。残りのすべての意識、つまり反省、直観、把握は、自由の適用を前提している……。しかし私は、ただ存在することによって感じている。衝動のこの感情はとくに、----憧けい、欲求の無規定な感覚と呼ばれている。」この「根源的感情」において、認識と活動性は総合されている。感情は感じること自体である。この感情が、求められていた総合であるとフィヒテはいう。他者をもち出さずに循環はとかれた。しかし、このことは『自然法の基礎』での他者論と矛盾しない。そこでの循環は、客体の認識と自由な能作性を自分に認めること の循環であった。ここでは、単に認識と活動性の循環である。従って循環を解決する総合も、『自然法の基礎』では、客体と自由な能作性の総合であったが、ここでは単に認識と活動性の総合である。ここには、自分の活動性の反省が欠けており、しかもその活動性は自由な活動性ではない。自由の成立以前、反省の介在以前のレベルで、認識と活動性の総合を考えることによって、『自然法の基礎』より、「より深い根拠づけ」が与えられるのである。ここでの根源的衝動と根源的感情は、分化して、諸々の規定された衝動と感情になる(フィヒテは、この分化については何も説明していない)。この「諸衝動と諸感情の体系」は「自然」と呼ばれる。自然全体は「有機的全体」であるが、私の自然はその中の「閉じた全体」であり、私が自然のどの部分をとり出して全体と考えるかは「思惟の自由」である。この私の自然は「私の身体」である。人間が理性存在者であるべきなら、人間は何らかのものとして自己を意識すべきであるが、「時間の中てば、人間は最初に自然衝動を意識する」。この反省は「絶対的自由」によって起るが、「社会が、彼にこの反省への誘因を与える」。この誘因は、必然的に反省を 惹き起こす原因ではないが、不可欠のものである。この証明が他者の演繹となる。フィヒテによると「根源的には、私は、私を自ら自由な観念的活動性によって規定することは出来ない。むしろ、私は私を、規定された客体として見い出さねばならない」。ところで「私が私を客体として見い出すことは、私が私を自然衝動として、つまり自然の所産、及び自然の部分として見い出すことを意味した」。これは自分の身体を見い出すことに他ならない。そのためには、私はこの自然衝動・身体を私に帰属させねばならない。この私は「実体的本来的自我」「自由に活動するもの」である。ゆえに、私は私を自由に活動するものとして見い出さねばならない。
 ここにアポリアが生じる。「私は、自発性による本来的実在的自己規定を、所与と」て見い出すことはできない。この場合、私は自由ではなく、強制されていることにたろう。「むしろ私は私に、それを自ら与えねばならない。これは完全な矛盾だろう。」なぜならあこの場合には、私は自己規定を持つ前に、自己規定することになるから。この自己規定とその認識との循環は、次のように解かれる。「私は、……私が手を加えることなく現前しているものを模像すること(Nachbildung)によってのみ、一定の自己規定を見い出しうるだろう。私の自己規定が、私の手を加えることなく現前しているとは、それが概念として現前していることだげを意味しうる。あるいは短くいうと、私は自己規定へ要求されているのである。」(傍点部はイタリック)
 フィヒテば、こうして例の「自発性への要求」をもち出すのである。そして「要求」の原因として、他の理性的存在者を次のように演繹する。「私は自発性へのこの要求を、私の外の現実の存在者に帰属させずには、それを把握できたい。その存在者は、要求されている行為の概念を私に伝達しようとした。従って概念の概念の能力がある。ところで、そのようなものは、理性的なもの、自己自身を自我として措定するもの、それゆえ自我である。……自己の他に現実的理性的存在者を想定することは、自己意識の、自我性の条件である。」ここでの他者論について、今まで述べた検討、解釈と関係する若干の点にふれておきたい。
 一、他者の類推の条件二(自分の身体、行動、ないしその所産の認識)は、客体の認識の一種であり、他者の想定、、を前提していることは、『自然法の基礎』で論じられた。ここでは、身体の認識は、私の身体として認識されねばならない点で、(客体の認識一般とは違った理由で)他者の想定を前提することが示される。これは、類推論に対する最後の一撃となろう。
 二、『自然法の基礎』では、「要求」の理解の後で行為するための「可能な諸行為」の認識が、どうして生じるか問題であった。ここでは、「要求」の認識によって、自由に活動するものとしての自己認識が成立すると、自分の身体の認識もまた成立する。ところで身体は、単なる物体でなく、「諸衝動と諸感情の体系」であり、活動性の「包括的領域」に他ならないから、私の身体の認識によって、「可能な諸行為」の認識が与えられるのである。
 三、フィヒテは、ここでは、「要求」の原因として「アプリオリ」に演繹された他の理性存在が、意識の「ただ一度」「最初の状態」における「一人の個人」でしかないことを明言している。「複数の個人」がいること、しかも、意識の「最初の状態」の時だけでなく、いつもいることは、アプリオリに証明することはできないが、それが可能で
あることを証明しなければならないという。この証明として、彼は、(一)復数の個人のための自由の制約によっても私の自由は損なわれないこと、(二)私が彼らを現実的なものとして知覚しうること、を述べる。問題はこの(二)である。この現実的な他者知覚として、(a)前述の「要求」の認識と、(b)「人工物」(Kunstprodukt)の認識を媒介にしたその「創作者」(Urheber)の推理、の二種をフィヒテは挙げている。後者は、「私の外の現実的理性的存在者の概念」を前提している。つまり(一)の認識を前提しているとフィヒテはいう。ここではっきりと、人工物を介した「類推」による他者認識は、他の理性的存在者の概念を前提とし、従ってかの「要求」の認識を前提とした、第二次的な他者認識であることが指摘されている。
 (ここでは「身体の形態と運動」を介した「類推」は、分類の中に入っていない。もし、このようた類推があるとして、これもやはり、「他の理実的理性的存在者の概念」を前提とするのだろうか。もし前提するとすれば、他者の類推の第四の条件となる。そして類推による他者認識が二次的なものであることの、もう一つの論拠が生じる。)
 この分類からすると、「要求」の認識は、意識の最初に生じるだけでなく、いつでも繰り返し生じることになる。
 四、要求の理解については、もう一つ重要な発言がある。「我々は我々の行為が押し戻されるのを内面的に感じる。それは、行為への我々の衝動の制約である。それゆえ、我々は我々の外の自由へ推論する。(これをシェリング氏は適切に表現している。〔Phil. Journ. Bd.IV S.281§13〕私の道徳的力が抵抗を見い出すところは、自然ではありえない。私は畏れながら立ち尽くす。ここに、人間(Menschheit)あり! とそれは私に向かって叫ぶ。私はそれ以上進んではならない。)」これによって「要求」の理解が、行為の衝動における「受動」に基づく推論であることがわかる。この行為への衝動は、フィヒテが引用しているシェリングの記述からすると、道徳的な行為への衝動であって、身体的な衝動ではない。

  b 知的直観と他者承認『道徳論の体系』つづき
 『道徳論の体系』では、他者承認は次のように推論される。
 大前提「私の自我性と自立性は、他のものの自由によって制約されている。従って自発性への私の衝動は、…他のものの自由の否定へ向うことは出来ない。」
 小前提「ところで、私は自立性への衝動のためにのみ行為すべきである。」
 結論「ゆえに、衝動のかかる制約の中に、他のものの自由を妨げることの絶対的禁止と、他のものを自立的とみなし、私の目的の手段に絶対に使用するたという命令がある。」 この推論で第一に問題になるのは、大前提である。確かに自我性と自立性は、他のものの自由によって制約されている。しかしこれが証明されたのは、意識の最初の瞬間においてだけである。従って結論が妥当するのも意識の最初の瞬間においてだけとなる。しかも、かの「要求」の成立以前には意識が成立していないから、命令は無意味であり、「要求」によって意識が成立したなら、もはや大前提は妥当せず、結論も妥当しない。従って、このようた推論によって、他者の承認を根拠づけることは出来ない。第二の問題点は、小前提である。これは、『自然法の基礎』に欠けていた「首尾一貫性」への要求である。これが、ここでの他者論を『自然法の基礎』より高いものにする「より高い原理」である。これは、「道徳性の原理」である。この原理の演繹は「第一部」で次の様に論じられている。「道徳性の原理」は----「知性はその自由を自立性の概念に従って、端的に例外なく規定すべきである」という----「知性の必然 的思想」である、と言われる。これは、
「自発性への衝動」が、「知的直観」によって捉えられて思想にたったものである。この思想は、衝動にもとづくから「要請」という性格を持つことになる。ここで次に問題となるのは、「自発性への衝動」の根拠づげであろう。これは「絶対的自発性への傾向(Tendenz)」の「外化」(Aeusserung)である。「絶対的傾向」は「絶対的意欲(Wollen)の根拠」である。しかし、このような絶対性は「要請」(Postulat)であり「信仰」(ein Glaube)にもとづくとされる。フィヒテ哲学は「信仰」にもとづき「無基底」(bodenlos)である。結局我々からみると『道徳論の体系』は他者の承認を「知的直観」と「信仰」によって根拠づげているのである。この点を明らかにするために「知的直観」と「信仰」の関係を考察しよう。『第二序論』では、事行としての知的直観が語られたが「知的直観というこのようた能力が存在することは、概念によっては証明されえない」なぜなら知的直観が、むしろ概念の成立の条件だからである。そこで、フィヒテは次のように考える。「……知的直観の実在性への信仰----先験的観念論は、我々自身のきっぱりとした告白によれば、ここからのみ出発するを何かまだより高いものによって保証すること、この信仰が基づいている関心そのものを理性の中で示すこと……。こうしたことは、ただ我々の中で道徳法則を提示することによってのみ起る。…・・・このの法則の意識の中で、……自発性と自由の直観が基礎づけられる。……道徳法則というこの媒介によってのみ私は私を見る。」ここでは、事行としての知的直観の実在性への信仰、及びその信仰が基づいている関心は、道徳法則の意識によって保証されている 。
 この道徳法則の意識が、『道徳論の体系』では知的直観であると言われる。従って、これは別の知的直観でなければならない。
 フィヒテは『道徳論の体系』「第一章」の冒頭で、「人間の認識はその道徳的本性へ、二つの仕方で関係しうる」という。一方は道徳的本性を事実として認め、それで満足する「普通の意識の立場」であり、他方は「人間の道徳的本性の演繹」をしようとする「より高い」立場、「道徳性の学」の立場である。従って、ここで「道徳の原理」を知的に直観するものは、哲学者である。『第二序論』でも、哲学者による知的直観が考えられている。「かれ(哲学者)は自我の前述の行為(知的直観)自己自身の中でのみ直観しうる。」(括弧内引用者)「かれ(哲学者)に自我を生じさせる行為(知的直観)の逐行において、哲学者に想定された自分自身のこの直観を、私は知的直観と名づける。」(括弧内引用者)以上により、事行としての知的直観を、哲学者が更に知的に直観することによって、道徳法則の意識が生じるといえる。二つの知的直観のこの解釈は、『第二序論』で、カント哲学においてフィヒテの知的直観に当るものとして述べられた、「純粋統覚」と「定言命法」の意識、に対応しているのである。ここに問題が生じる。もし事行としての知的直観を哲学者が知的に直観できるのならば、自我、自己を自 由なものとして知的に直観できることにならないか。そうすると、自己を自由なものとして意識するために、他者の「要求」は不要になる。ところが、そうはならない。その理由は、事行としての知的直観を、哲学者は事行として知的に直観することはできず、事実として知的に直観する点にある。『第二序論』でいえば、「哲学者はこの知的直観を、意識の事実(霊片言昌)として見い出す。(彼にとって、それは事実(Thatsache)であり、根源的自我にとって、事行(Thathandlung)である。)」『道徳論の体系』でいえば、知的に直観されるのは「自発性」ではなく、「自発性への衝動」である。「全的自我」----これは「自我性」「知性」「理性」「自我における主観と客観の絶対的同一性」「純粋活動性」「主観-客観」であり、事行としての知的直観と考えてよいだろう----ではなく、「全的自我への傾向」である。
 ところで、道徳法則の意識あるいは知的直観とは、かの「自発性への要求」を内的に感じることではないだろうか。すると、この知的直観の対象こそまさに前に述べた能作性としての<客体=能作性>に他ならないのではないだろうか。他者認識(「要求」の理解)と他者承認の義務の認識(知的直観)は、<客体=能作性>を外的に捉えることと、内的に捉えることではないだろうか。『第二序論』での「知的直観としての自我」から「個人としての自我」への移行は、他者の認識の問題であった。「個人としての自我」から「理念としての自我」への接近は他者承認の問題であることが、ここでわかる。最後に『学者の使命』での承認論を振り返っておきたい。そこでフィヒテは、「人間は、社会の中で生きるように規定されている。彼は、社会の中で生きるべきである。孤立して生きる時、彼は完全な人間ではなく、自己自身に矛盾している」という。これは、社会の中で生きるかどうかは、各人の自由であるとする『自然法の基礎』に対立している。ここではフィヒテはまだ、法論を道徳論で基礎つげ、道徳論の一部と考えている。ここでの他者論は、実践的原理にもとづいていた。それに対し、『自然法 の基礎』以来、他者の演緯によって、法論は道徳論から独立する。『道徳論の体系』でもこの立場に立っている。しかし、ここでの承認論は、道徳性の原理に基づいており、義務という性格をもつから、『学者の使命』での社会論と似たものとなる。ここでは「教会」「倫理的共同体」「教会共同体」ないし「理性国家」を形成することが義務となる。また『学者の使命』で「社会」と「国家」が区別され、「国家」は「社会」の基礎づけの手段とみなされるように、ここでは、「理性国家」に対して「必要国家」(Nothstaat)が区別され、これは「理性国家を実現するための手段」とみなされる。
 ところで、この「理性国家」では「各人が神になる」。このような考えは、「あの生き生きした作用的な道徳的秩序が神そのものである」という『神的な世界統治への我々の信仰の根拠について』での有名な発言に通じている。また『新しい方法による知識学』での「理性的存在者の国」という考えに通じており、ラウトによれば、これは後期の絶対者の現象論へ通じているのである。他者承認の問題は、信仰の問題、宗教論へ移ってゆく。
 
     結び

 フィヒテの他者論を論じるなら、本来はその言語論や身体論に重言及しなければならないだろう。しかし以上によって、フィヒテ哲学における他者論の重要性は明らかになったと思う。ここで、初期フィヒテの他者論の独創性を挙げてみよう。まず、他者の類推の条件である自己認識と対象認識と身体の認識が、それ自体、他者の認識を条件としていることを示したこと。他者の存在を自己意識の存立条件として、いわば存在論的に演緯したこと。他者認識と他者承認の不可分性を様々な面で明らかにしたこと。そして最後に何よりも、冒頭の問いに真剣にとりくんだことであろう。我々がもし理論と実践の関係を根本的に考えなければならないとすると、それは、フィヒテにおいてそうであるように、他者の認識と承認の問題になるであろう。
 
 注
(1)J.G.Fichte, J.G.Fichtes Werke, hrsg. von I.H.Fichte, Gruyter, 1845-1846, Bd.VI, S.302.(以下SW VI,302 というように略す。)
(2)H.Heimsoeth, Fichte, Ernst Reinhard, 1923, S.141. A.Schurr, Die Funktion des Zweckbegriffs in Fichtes Theorie der Interpersonalitaet, in: Erneuerung der Transzendentalphilosopie im Anschluss an Kant und Fichte, Reinhard Llauth zum 60. Geburtstag, Hrsg. K. Hammacher und A. Mues, Frommann, 1979, S.360,367. C.K.Hunter, Der Interpersonalitaetsbeweis in Fichtes frueher angewaander praktischer Philosophie, Anton Hain, 1973, S.181. 以上では、フィヒテが最初であると.いわれている。猶、フンターのこの本には教えられるところが多かった。
(3)SW VI,302.
(4)現象学の他者論がそうであり、インド哲学では、七世紀・ヨーガ??行派の、法称(ダルマキールティ)に他者論があり、「その内容は、唯識論、即ち仏教観念論の立場に於て如何にして他我の存在を証明し得るかということに関する」(北川秀則「仏教に於ける他我存在の一証明」『文化』東北大学文学会、一九五四年、第十八巻)ものである。
(5)これ以前の著作における他者への言及については、Hunter, ibid., S.12, Anm.3 を参照。
(6)Sw VI, 301.
(7)SW VI, 302. ここで身体に関する問いが他者に関する問いと並置されていることは、後の『自然法の基礎』や『道徳論の体系』や『新しい方法による知識学』において他者認識が身体を媒介にして考えられていたことにつながっている。小論では身体論にはあまり深く触れられたかった。
(8)SW VI,303.
(9)SW VI,305.
(10)Ibid.
(11)SW VI,305f.
(12)SW VI, 304.
(13)W.Janke, Historische Dialektik, Gruyter, 1977, S.155.
(14)フィヒテは、他者を大抵は「他の理性的存在者」と呼び、その本質を自由と考える。つまり人間の本質を理性や自由と考えるのである。このこと自体、思想史の中で把え直しておかなければたらないことである。ここでは、そこまで立り入れなかった。小論の検討はフィヒテ哲学の内部で、その内在的な理解のために行われるにすぎない。
(15)SW VI, 294.
(16)SW VI, 302.
(17)J. G. Fichte. Briefwechsel, hrsg. von H. Schulz, Olms, 1967, Bd. I. S. 496.
(18)lbid.. S. 496f.
(19)lbid.. S. 497.
(20)lbid.. S. 498.
(21)lbid.
(22)J. G. Fichte. Grundlage des Naturrechts. Felix Meiner, 1960. S. 17. (以下 NR, 17.のように略す。 )
(23)NR, 24.
(24)NR, 30.
(25)NR, 40.
(26)NR, 30.
(27)lbid.
(28)NR, 32.
(29)NR, 33. Aufforderung を南原繁は、「要請」と訳しているが、 Postulat (要請) と区別するため小論では、あまり適訳ではないかもしれないが、「要求」と訳した。
(31)NR, 35.
(32)lbid.
(33)NR, 36.
(34)NR, 39.
(35)NR, 18.
(36)NR, 39. フィヒテは、『新しい方法による知識学』でもつぎのようにいう。「個人は自分で自己を発達させることはできない。ひとは他のものによってのみ発達させられる。そして最初の個人の発達は、より高い絶対的理性の家庭によってのみ説明されうる」 (J. G. Fichte. Gesamtausgabe, hrsg. von R. Laut und H. Gliwitzky, Frommann, 1978, Bd. IV, 2. S. 178. 以下 GA IV, 2, 178. のように略す。)
(37)NR, 18. 原語は Weltanschauung であり、ふつうは「世界観」と訳されるが、ふつうにいう世界観とは意味が違うので、世界直観と訳した。
(38)NR, 16-19.
(39)NR, 36. fassen (NR.34), begreifen (NR,36) という表現も用いられている。
(40)NR, 34.
(41)NR, 77.
(42)lbid.
(43)NR,37. SW IV, 112 ではあ「転移する」といわれている。
(44)NR, 80.
(45)Kant, Kritik der Urteilskrakt, Fellx Memer 1924 S 238
(46)NR, 74.
(47)NR, 52.
(48)NR, 44.
(49)lbid.
(50)lb id .
(51)NR, 45.
(52)NR, 52.
(53)NR, 48 f.
(54)NR, 48.
(55)NR, 50.
(56)NR, 44.
(57)NR,46. vgl.44f,48. ここでの承認論の一から三の性格は、ヘーゲルの他者承認論で継承されている。
(58)NR, 9.
(59)lbid.
(60)NR, 10 f.
(61)NR, 86.
(62)NR, 88.
(63)J. G. Fichte, Grundlage der gesamten Wissenschaftslehre, Felix Meiner, 1979, S. 109. (以下、 Grundlage, 109 のように略す。)私の知る限りでは、Du という言葉が使われているのは、もう一カ所(S.243)だけであり、そこは他者論とは直接関係がない。
(64)SW I, 502.
(65)Grundlage, S. 83, 92.
(66)Grundlage, S. 83.
(67)Grundlage, S. 93.
(68)Grundlage, S. 57.
(69)SW I, 503.
(70)SW I, 465.
(71)Grundlage, 14.
(72)lbid.
(73)Grundlage, 36.
(74)SW I, 465.
(75)SW 1,466. 知的直観という言葉は、『エネジデムスの書評』で二回使われている。「絶対的主観、自我は、経験的直観によっては与えられず、知的直観によって措定される。」(SW I,10)「我々はそれ(心性 Gemueth=知性=先験的理念)を知的直観によって、我ありによって、しかも私は端的に、つまり私がいるからいるによって実現する。」(SW I,16 傍点部は原文でイタリック、括弧内は、引用者の付記)ここでは、活動性の直観として明言されていず、また哲学の原理にまでなっていない。
(76)SWI,462.
(77)SWI,459.
(78)SWI,463ff.
(79)SWI,459.
(80)SWI,472.GAIV,2,31 でもおなじことが述べられている。
(81)SWI,469.
(82)SWI,472.
(83)SWI,515.
(84)SWI,516.
(85)SWIV,218.
(86)SWIV,102.
(87)SWIV,103.
(88)Ibid.
(89)SWIV,104.
(90)SWIV,105.
(91)Ibid.
(92)Ibid.
(93)Ibid.
(94)SWIV,106.
(95)SWIV,104.
(96)SWIV,109.
(97)SWIV,116.
(98)SWIV,220.つまり、どこまでが私の身体であるかは、思惟の自由なのである。また、人間は、指先が特に敏感であるが、それは人間がそう欲したからであり、足指で書いたり、腹で食べることもできる(NR,82)という。
(99)SW IV,179. この誘因は「最も広い意味での教育」であるといわれている(SW IV,184)。
(100)以上の他者論は SW IV,219-221.
(101)NR, 62.
(102)SW IV,221.
(103)SW IV,225.
(104)SW IV,222.
(105)SW IV,221.
(106)SW IV,223f.
(107)SW IV,225.
(108)シェリングの「自然法の新しい演繹」(一七九六)にかえって、この箇所の意味を明らかにしよう。フィヒテの引用した十三節は、十二節と対になっている。十二節でシェリングはこういう。「私の身体の力が抵抗を見い出すところは、自然である。私は私の身体の力に対する自然の優勢を認識する。私は感覚存在としての自然に屈服し、それ以上進むことが出来ない。」「物理的力が抵抗を見い出す」というのは容易に解るが、「道徳的力が抵抗を見い出す」とはどういう意味だろうか。シェリングはこうのべている。「私が他者の意志へ向い、かつこの者が断言的な自我をもって、同意せず、私の要求をしりぞけるとき、そのときにのみ私は、その顔の後に人問が宿り、その胸の内に自由が宿ることを認識する。」(十五節の注)これそのままでは、フィヒテのいう「要求」の認識の説明にはなりえない。なぜなら自分の要求がしりぞけられるのを見い出しうるには、要求を意識していなければならないが、かの「要求」の認識以前には、それはありえないからである。 シェリング自身は『先験的観念論の体系』(一八○○)でフィヒテの他者の演繹をとり入れることになる。
(109)SW IV,221. カントの命法、「汝の人格の中にも他のすべての人の人格の中にもある人間性を、汝がいつも同時に、かつ目的として用い、決して単に手段としてのみ用いない、というようなふうに行為せよ」(傍点は引用者)は、他者を手段とせざるを得たいこともみとめている点で、フィヒテと異なる。
(110)SW IV,59.
(111)SWIV,47,59.
(112)SWIV,49.
(113)SWIV,26.
(114)SWI,463.
(115)SWI,466.
(116)SWIV,14.
(117)SWI,460.
(118)SWI,463. この二つの知的直観については、高橋昭二著『若きヘーゲルにおける媒介の思想』(晃洋書房、一九八四年)九十五頁の注(108)を参照。
(119)SW IV,41ff.
(120)SWIV,43.
(121)SWIV,306.
(122)SWIV,236.
(123)Ibid.
(124)Ibid.
(125)SWIV,239.
(126)SWIV,238.
(127)SWIV,244.
(128)他者の演繹と社会理論の関係については、南原繁著『フィヒテの政治哲学』(岩波書店、一九五九年)特にその第一部第二章参照。
(129)SWIV,256.
(130)SWV,186.
(131)R.Lauth, Le probl@me de l'interpersonalit@ chez J.G. Fichte, in: Archives de Philosopie, Gabriel Beauchesne, 1962, vol.25, p.339.
(132) C.K.Hunter, ibid. S.176.