論文5  フィヒテとヘーゲルの他者論


               

    はじめに
 ヘーゲルの他者承認論は、コジェーヴによって『精神現象学』の「主人-奴隷」関係論が刺激的に論じられて以来多くの研究が積まれ、それがフィヒテの影響を受けていることも、既に指摘されているところである。フィヒテの他者論については、しかしながらまだあまり論じられておらず、ヘーゲルがフィヒテからどれ程の影響を受けているのか、またどのように批判して独自の他者論をつくったのかは、十分に明らかになっているとはいえない。他者の存在をどのようにして認識しうるのか、という問いを真剣に受けとめ、主題として詳細に論じたのは、西洋思想史においてはフィヒテが最初であろうと思われる。フィヒテがこの問いに取り組むことになる理由の一つは、観念論という立場上さしあたり、他者についての経験を媒介にして他者の存在を類推するという仕方で、蓋然的にしか他者の存在を認識しえない、という困難につきあたったことにあるだろう。しかしそれならば、カント哲学においても他者認識がテーマになってもよいはずであるが、そうはたらたかった。他者認識の困難に行きあたるためには、まず他者認識を試みなければならない。フィヒテをこの試みに向わせたのは、フランス 革命を焦点とする当時の社会変化(つまり基本的な人問関係の変化)であり、それに応えようとするフィヒテの実践的な資質ではなかったろうか。彼が最初に他者の認識をテーマにとり上げるのは、『学者の使命』(一七九四年)である。学者の使命を問うに先だって、彼はそこで社会における人問の使命を問う。この時、「人問は如何にして、自己の外に自分と同じものである理性的存在者を想定し、承認するに到るのか----というのも、そのような存在者は、純粋自己意識の中に直接には与えられないから-----」という問いが提起される。この問いは、認識論的関心だけでなく、実践的関心に基づいて発せられているといえよう。彼はそこでは、類推による蓋然的な他者認識を考えるが、一七九五年の夏に、法概念の基礎づけを研究する過程で、知識学の原理に基づく他者存在の演緯を考え、『自然法の基礎』(一七九六年)と『道徳論の体系』(一七九八年)で発表する。この他者論の変化の理由もまた、法概念の基礎づけという実践的関心にあったといえよう。この後の『新しい方法による知識学』にも他者論はあるが、これはおそらくフィヒテが無神論論争にまき込まれたために出版されたかった。従って、ヘ ーゲルが影響を受けているのは、主に『自然法の基礎』と『道徳論の体系』の他者論であると考えられる。へーゲルの他者論も、フィヒテと同様に実践的関心に基づいている。彼は『人倫の体系』(一八〇二/〇三年)から、承認を鍵概念として用い始め、一八〇三/〇四年の「精神哲学」では、相互承認によって民族精神の成立を説き、一八〇五/〇六年の「精神哲学」では、承認によって法及び国家の成立を説くに到る。そして、このようた承認論の総仕上げともいうべきものが、『精神現象学』(一八〇七年)での承認論である。小論では、この『精神現象学』を中心に、ヘーゲルがどのようにフィヒテの他者論を継承し、批判しているかを明確にしたい。我々はまず両者の他者論を辿って、次に比較に入ることにする。

  一 フィヒテの他者論
 フィヒテは『自然法の基礎』の第一章で、「法の概念の演繹」を企て、次の三つの定理を呈示し証明してゆく。「第一定理、有限な理性的存在者は、自己に自由な能作性(freie Wirksamkeit)を帰属させることなしには、自己自身を措定できない。」
「第二定理、有限な理性存在者は、感性界における自由た能作性を、他の者達にも帰属させることなくしては、つまり自己の外に他の有限な理性存在者を想定することなくしては、感性界における自由な能作性を自己自身に帰属させられない。」
「第三定理、有限な理性存在者達は、法関係(Rechtsverhaeltnis)と呼ばれる一定の関係の中で、他の有限な理性存在者達と共に立っているものとして、自己を措定することなくしては、自己の外に他の有限な理性存在者達を想定することが出来ない。」
この第二定理はいわば他者演繹の定理であり、第三定理は他者承認の定理である。第二定理の証明は、次のような認識と行為の「循環」を提起し、その解決のために他者を演繹するのである。
a「理性的存在者は、不可分の綜合において同時に自己に能作性を帰属させることなくしては、いかなる客体も措定(知覚及び把握)できない。」つまり、客体の認識は行為を前提する。
b「しかし、理性的存在者は、その能作性が向うべき客体を措定」おえているのでなげれば、いかなる能作性も自己に帰属させ得ない。」つまり、行為は対象の認識を前提する。命題bについては説明不要であろうが、命題aは説明を要するだろう。フィヒテによると「自己自身の内へ還帰する活動性一般(自我性、主観性)が理性存在者の性格である」。ところが「有限な理性存在者」は制約された自己内へ還帰する活動性であって、その外に別の活動性、つまり「世界直観における活動性」(これは世界を客体とする活動性)を反措定する。従って「世界直観における活動性」(客体の措定)は、〈制約された自己内に還帰する活動性に制約されている。ところで<制約された自己内に還帰する活動性>は、「自由な活動性」であり、客体に拘束されているかぎり、客体の廃棄へ向う「客体への能作性」となる。ゆえに、「世界直観における活動性」つまり対象の認識は、客体への能作性つまり行為に制約されているというわけである。さて、命題のbを認めると事態は次のようになる。(命題aによって)ある客体の認識固があるとき、同時に自由な能作性W1が自己に帰属しているとすると、(命題bによって)能作性WW1に は、それが向う客体の認識E2が先行する。同様に、この客体の認識E2があるとき、同時に自由な能作性W2が自己に帰属し、W2には、更にそれの向う客体の認識E3が先行する。以下これのくりかえしである。そうすると、認識は行為を前提し、その行為は更に先行する認識を前提するから、最初の意識は認識でも行為でもありえないという「矛盾」が生じる。この無限遡行を断つには、「主体の能作性がそれ自身、知覚され把握された客体であり、客体が主体のこの能作性に他ならず、両者が同じものである」という「綜合」を想定せざるを得ない。この「綜合」を分析して、フィヒテはこれを「能作性へ決断するように、という主体への要求」(eine Aufforderung an dasselbe (Subjekt), sich zu einer Wirksamkeit zu entschliessen)と考える。そして、この「要求」の原因として、他の理性的存在者を演繹するのである。従って、フィヒテによれば、意識がある以上、常にその意識に「要求」をした他の意識がなければならず、この他の理性的存在者は、有限な理性的存在者の存在論的条件として演繹されることにたる。この議論に対しては、我々は次のようだ疑問を持つだろう。自由な行為つまり目的を自覚している行為は、対象認識を前提するが、盲目的行為、衝動的行為についてはどうなるのかということである。フィヒテは『道徳論の体系』において、反省の成立以前のレベルでも認識と活動性の循環をみとめるが、これは「感情」において綜合されていると考える。このレベルでの「衝動と感情の体系」を彼は「自然」と呼ぶが、この自然の中に反省が生じるために、つまり自由の意識が生じるために、「自発性への要求(Aufforderung)」が必要であると述べている。これは、表現が少し異なるが『自然法の基礎』での「要求」と同じものである。ここでもまたフィヒテは、この「要求」の原因として他の理性的存在者を演繹する。『道徳論の 体系』でのこのような論述によって、『自然法の基礎』での循環の議論に「より深い根拠づけ」を与えたと彼は考えている。ところで、両書においてこのように他者の演繹を行っているのは、「哲学している我々」であって、「要求」によって成立する理性的存在者ではない。それゆえにまた、ここで演繹されるのは、どこの誰かは判らないが、とにかく他の理性的存在者がいたはずでかるということであって、個別的な特定の対象を理性的存在者であると演繹することではない。個別的な他の理性的存在者の認識については、『自然法の基礎』の第三定理の証明で論じられている。第三定理の証明は次の「三段論法」によって行われる。大前提「私自身が特定の理性的存在者をそのようなものとして扱うかぎりでのみ、私は特定の理性的存在者に、私を理性的存在老として承認するよう求めうる。」小前提「しかし私は、私の外の全ての理性的存在者に、私を理性的存在者として承認するように、全ての可能な場合に、求めなければならない。」
結論「私は、私の外の自由な存在者を全ての場合に、それとして承認しなければならない。つまり、私の自由を彼の自由の可能性の概念によって制約しなければならない。」
この大前提の証明は、具体的な特定の他の理性的存在者の認識のあり方に基づいている。フィヒテの考えを図式化すると次のようになる。ここにAとBの二人がいたとしよう。
一、Aは、Bの身体の形態や理性的行為から、Bが理性的存在者であるという蓋然的な認識をもつ。
二、Aは、この認識に基づき、Bのために自己の自由を制約する(Bを蓋然的に承認する)。
三、Bも、かかるAの承認行為から同様に、Aが理性的存在者であるという蓋然的認識をもち、これに基づいてAのために自己の自由を制約する(Aを蓋然的に承認する)。
四、Aは、Bのこの応答によって、Bが理性的存在者であるという定一言的認識をもち、Bを定言的に承認する。
この過程で、もしAのBに対する承認(二)に対して、BのAに対する承認(三)が生じなければ、AはBが理性的存在者であるという蓋然的認識(一)を撤回し、Bが理性的存在者とみえたのは「偶然的」であると考え、Bを「単(刎)次る感覚的存在物」として扱うことになる。
 ここで以上のフィヒテの他者論の特徴を箇条書きにしておきたい。
一、他者は、自己意識の存在論的条件として、哲学者の立場から演繹される。
二、承認は行為によって実現する。「行為のみが、共通に妥当する承認である。」
三、他者の認識と承認は相互依存関係に立つ。
四、承認は相互承認としてのみ成立する。「もし両者が相互に承認するのでないたらば、誰も他者を承認しえない。」

   ニ ヘーゲルの他者論

 ヘーゲルの『精神現象学』は「意識自身の学への教養の詳細な物語(歴史)」であって、まず意識は感覚的対象(このもの、物、力)の意識として登場する。この意識は、弁証法的運動によって、「物についての意識は自己意識にとってのみ可能である」ことを知る。そこで意識は自己意識という形態へ移行する。哲学者である「我々」の立場からみると、「これ(自己意識)がかの(感覚的対象へ向う意識の)諾形態の真理である」(括弧内引用者)から、自己意識は、「他なるものの空無性」を無意識に確信している。自己意識はまず「欲望」という形態をとるが、それは「我々」からみるなら、他なるものを否定して「自分自身の確信」を実現すること、つまり「対象的なあり方」にしようとすることである。このようた欲望=自己意識にとってのみ、物についての意識が可能であるとは、『人倫の体系』での表現を借りでいえば、「他なるものが、感情の規定性に従って規定されている(食べられるもの、飲めるもの)」ということであろう。欲望はこれらの対象を否定(食べたり飲んだり)しようとする。しかし、欲望は一旦満足しても、また新しい対象を必要として限りがなく、逆に「かかる満足において、それ(欲 望=自己意識)はその対象の自立性を経験する」(括弧内引用者)ことにたる。それで欲望が満足するためには、対象が自ら「自分自身の否定」を行い、かつ自立していなければならない。このような対象は、自己意識である。ゆえに「自己意識は他の自己意識においてのみ満足を得る。」「自己意識は、それが他の(自己意識)に対して即且対自的であることによって、またその時に即且対自的である。つまりそれ(自己意識)は、承認されたものとしてのみ存在する。」この場合、「各人は他方にとって、各人が自己を自己自身と媒介し推論結合する中辞であり……彼ら(両者)は、相互に承認し合う者として互いを承認する。」
 しかし以上のことは、「我々」哲学者にとってのみ知られている「承認の純粋概念」であって、当の自己意識はまだ他の自己意識の存在を知らない。自己意識にとって互いに他の自己意識は、単に一個の生物として現われているにすぎない。そこで、先の欲望と同じく互いに相手を否定しようとし、ここに有名な「生と死を賭けた戦い」が生まれ、人殺しが起きる。ところが生き残った者は、相手が死んでしまえば確信を実現したことにならない。二人共死んでしまえばなおさらである。そこで多くの解釈は、死が「抽象的否定」であって「意識の否定」ではないということを強調する。しかし、この人殺しの過程は不可欠のものである。人殺しという「この経験において、自己意識には、生命が純粋自己意識と同様に本質的であるということが生じる。」最初に人殺しがあって始めて、<主人-奴隷>関係が成立する。というのも、人殺しによって、生命を本質とみなす意識、別言すれば死を恐れる意識が生じ、この意識は死を恐れるがゆえに、純粋自己意識を本質とし死を恐れない自己意識によって、支配されることになるからである。ここに生じる〈主人-奴隷〉関係は「一面的で不等な承認」と呼ばれて いる。その意味は、「一方のみが承認されるもので、他方のみが承認するものである」ということには尽きない。主人は奴隷を自己意識としては承認していないが、「人」(Person)(これは単たる生命としての人間、人間という仮面を被った生命のことであろう)としては承認している。また、主人はなるほど承認されてはいるが、単なる生命としての「人」に承認されているにすぎない。主人が完全に承認されるには、相互承認にならねばならないだろう。
 ところで、このように承認が「一面的で不等な承認」になってしまうのは何故だろうか。「承認の純粋な概念」が実現したいのは何故なのか。この理由は、生命と純粋自己意識の各々を本質とする二種の自己意識が生じ、生命と純粋自己意識の統一を本質とする自己意識が成立していないからではないか。この原因は、生命と純粋自己意識の区別にある。相互に承認し合う自己意識が成立するには、生命と純粋自己意識の区別が止揚されねばならないであろう。これは言い換えれば、対象意識と自己意識の統一ということである。従って、『精神現象学』において「相互承認」が成立するのは意識と自己意識の統一が成立する「道徳性」の章の終わりにたる。

   三 両者の比較

 このように両者の他者論を瞥見すると、先にフィヒテの他者論の特徴として挙げたことが、へーゲルにも妥当することが判る。つまり、両者には次のような共通点があるといえよう。
一、他者は、自己意識の存在論的条件として、哲学者の立場から述べられる。
二、承認は行為によって実現する。
三、他者の認識と承認は相互依存関係に立つ。
四、承認は相互承認としてのみ成立する。
これらの共通点は全て議論の枠組を決定するような重要な事柄であって、両者の他者論の共通点を無視することは出来ない。一、他者を自己意識の存立条件と考える両者の試みは、デカルト以来自己意識を基盤としている近代哲学において、最もラディカルに他者を考えようとすれば必然的に出てくる形態の他者論であるといえよう。二、承認が行為によって実現するという考えは、両者が共に人間の存在を行為としてとらえることに拠る。そして、このことは社会のあり方が近代になって、「である」論理の社会から「する」論理の社会に変ったことを背景にしているだろう。三、他者の認識と承認が相互依存関係に立つと考えるのは、他者の承認が他者の認識に基づくという常識的な見方に加えて、逆に他者の認識が他者の承認に基づくということが気づかれたからである。この背景にはカントにはじまる実践の優位という思想がある。四、承認を相互承認として考えることについては、フランス革命の人権宣言第一条「人間は、生れたがらにして自由かっ平等な権利をもっている」に表現されているような近代の平等思想を時代背景として考えることが出来るだろう。両者のこれらの共通点を共通点として どのようにとらえるかは、両者を近代思想史の中でどう位置づけるかという問題になる。これに答えることは論者の能力を超えており、また本論の意図を超えている。両者の共通性と差異を明確にすることが本論の課題であるが、注意して見ると両者の共通点の中に我々は差異を見い出すことが出来る。しかもその差異は、共通点が重要であるだけ重要である。我々はまず両者の最も重要な共通点の吟味から始めよう。
[一]両者は共に、哲学者の立場から他者を自己意識の存立条件と考えるが、しかし両者では自己意識ないし自我の把え方が異なり、それゆえに他者が自己意識の存立条件となるなり方も異なってくる。フィヒテの場合、有限な理性存在者は、<制約された自己内に還帰する活動性>と<世界直観における活動性>という二つの活動性からなっている。この二つは、ヘーゲルでいえば、自己意識と意識(これは対象意識であり、世界直観における活動性にあたる)といえよう。フィヒテではこの二つは互いに不可欠、相互依存的であるが、同一ではない。しかしヘーゲルにとっては、「物の意識が自己意識に対してのみ可能であるというのみならず、むしろ自己意識が、かの詩形態(対象意識の諸形態)の真理である」。要するに、意識と自己意識は相互依存的なだけではなく、同一なのである。
 フィヒテにおいて、有限な理性存在者が先の二つの活動性からなるということは、『全知識学の基礎』では「自我は自我の中で、可分的自我に可分的非我を反措定する」という第三根本命題に基づいている。この第三根本命題は、第一根本命題「自我は、根源的に端的に自分自身の存在を措定する」と、第二根本命題「非我が、自我に端的に反措定される」の矛盾を解決する「根本綜合」(Grundsynthesis)である。第三根本命題の「可分的自我」と「可分的非我」は、相互規定(Wchselbestimmung)の関係をもつ。ここに,、自我が非我を規定する行為の面と、非我が自我を規定する認識の面が成立する。フィヒテの綜合は、あるものがAであり、かつ非Aであるという矛盾を、あるものは部分的(zum Teil)にはAであり、部分的には非Aであるという仕方で解決しようとするが、このやり方では、フィヒテ自ら認めるように「絶対的統一」を実現することはできず、「無限の接近」のみが可能である。ヘーゲルは『フィヒテとシェリングの哲学の体系の差異』(一八〇一年)で、このような綜合によって生じるのは「部分的同一性」であり、相互関係(Wechselverhaeltnis)、は、相互作用に立つものの絶対的対立を前提していると批判する。これに対して、彼自身は「絶対的同一性」=「同一性と非同一性の同一性」=「真の無限性」を主張するのである。そして『精神現象学』では、「自己意識の本質」を「無限であること、つまり直接に、それが規定されている規定性の反対)であること」と把える。自己意識が無限性=絶対的否定性であれば、それの実現は、絶対的否定性の実現でなげればならない。ところが、物や生物を対象とする否定は、「抽象的な否定」「自然的否定」でしかなく、絶対的否定性が実現されるには、相手もまた絶対的否定性つまり自己意識でなければならないだろう。そこで、自己意識が自己意識として存続している限り、他者に承認されることを必要とすることになる。ところがフィ ヒテの場合、他者は自己意識の成立の時点で必要とされるだけであって、一旦成立すれば特に必要ではない。確かにフィヒテは、他者が自己意識の成立条件であるところから、他者を承認すべきであると推論する。しかし、自己意識がいったん成立してしまえば、他者は自己意識の存続の条件としては不要であって、他者の承認も自己意識の存在論的条件ではなく、道徳的命令となる。自己意識がいったん成立した後は、他者との関係が存在論的には不要になる原因は、認識と行為の二つの活動性が相互依存的ではあっても、同一である必要がないからである。両者が同一であるのは、意識が成立する最初の瞬間だけであるといえる。これに対してヘーゲルでは、両者は即自的には常に同一であるから、常に他者に承認されることが必要になる。

 [2]このような自我の捉え方の違い、またそこからする、他者が自己意識の存立条件となるなり方の違いによって、前述の他の共通点にも差異が生じる。自己意識の捉え方が異なると、自由の意味もまた異なる。フィヒテにとって、自由であるとは「行為の(予め)把握された概念を遂行できること」(括弧内引用者)、つまりある目的を立てそれを実現できることである。『フィヒテとシェリングの哲学の体系の差異』でのヘーゲルのフィヒテに対する批判の基本的立場は、自我=自我という思弁の原理を立てたことを高く評価するが、それを体系の中で構成しなかったと批難するということであるが、原理が体系の中で構成されなかった原因を、ヘーゲルはフィヒテの「自由」概念にみている。へーゲルによるとフィヒテの自由は「対立したものどもに対する対立であり、この対立において否定的自由として固定されている」。これに対してヘーゲルが主張する自由は、「対立したものの止揚」である。『自然法の学的取り扱い方について』(一八〇二年)では、フィヒテの自由を対立した規定性の問の「選択」=「経験的自由」とし、これに対して、自分の「規定性を捨象する可能性」を「否定的に絶対的な 無限性」(negative absolute Unendlichkeit)=「純粋自由」と名づけ、この立場をとる。この自由は「死」として現象する。「死の能力によって、主体は自己を自由なものとして証明する」という考えがここに生まれる。
 このように「自由」の意味が異なると、他者の自由を承認したり、他者に承認を求める行為もあり方を異にする。フィヒテでは、他者の承認を求める行為も他者を承認する行為も共に、「他者の自由の概念によって自分の自由を制約する」ことである。言い換えれば、他者の自由に選択できる行為の「領域」を保証するために、自分の自由に選択できる行為の「領域」を制限することである。これに対し、ヘーゲルでは、他者に承認を求める行為は、他者の否定・死をめざすことになる。これは結果として自分の死をかけた戦いとなり、この戦いによって両者は自分にも他者にも自分の自由を証明しようとする。


 [三]二人は共に他者の認識と承認の不可分性を主張する。しかし、フィヒテの場合、他者についての蓋然的認識に基づいて他者を蓋然的に承認するとき、他者の承認の応答があると認識は定言的となり、それに基づく承認も定言的になると考えられている。このように他者の認識と承認は互いに依存関係にあるが、全く同一のものではない。これは前述のように一般に、行為と認識が<制約された自己内に還帰する活動性>と<世界直観における活動性>として互いに不可分ではあるが、同一のものではないことに拠る。
 これに対し、ヘーゲルは対象意識の真理が自己意識であると考える。従って、他者認識も真実には自己意識であるといえよう。対象意識とは、「意識にとって真なるものが自己自身以外のものである」ような意識だといえる。自己意識は、これに対して「確信自身が確信の対象であり、意識自身が真なるものである」という意識である。このような自己意識が、行為によって確信を実現する(対象的なあり方にする)と、それは対象の中に確信つまり自己意識自身を意識することになる。そこで自己意識は「他在における自分自身の意識」といわれる。ところが、これは反面で対象が自己意識を持っているということの認識、つまり他者の認識である。自己意識と他者の認識は、一つの意識の「二重の意味」(Doppelsinn)である。これをヘーゲルは「二重化における精神的統一」と呼ぶが、この統一は静的なものではなく、「承認の運動」になる。従って、他者の認識と承認は相互依存的というよりむしろ同一の過程である。他者の認識と承認の関係は、両者が「相互に承認し合う者として互いを承認する」という表現にも示されている。ヘーゲルの場合さしあたっての他者認識は、他者が理性的であるかとか、 自己意識をもつか、といったことの認識ではなく、他者が自己否定によって私を承認しているかどうかの認識である。他者が他の対象と異たるのは、私を自己否定によって承認しうるという点にあるからだ。理性的な他者を認識して後に、他者との相互承認を求めるのではなく、他者に承認を求めることを通して、他者を他者として認識するのである。「相互に承認し合う者として互いを承認する」とは、考え方によっては非常に複雑な過程である。AとBの二人がいるとき、<AがBを承認していること>をBは知ってAを承認している。すると、<<AがBを承認していること>をBが知ってAを承認していること>をAは知ってBを承認している。すると更に、<<<AがBを承認していること>をBが知ってAを承認していること>をAが知ってBを承認していること>をBは知ってAを承認している。以下同様に、知と承認の重畳関係は無限に続きうる。しかし、我々は実際にはこんなに複雑なことを考えないだろう。これは承認関係にある一方の側の個人主義的な意識を出発とする考え方である。この場合実際には、相互に承認し合っていることを知っているが、相互に承認し合っていることを知っているものとしてのBを 承認しており、Bもまた同様にAを承認しているのであろう。つまり、両者がもつ知は同一であって、前述のような、個人を視点としたパースペクティブによる差異をもたないのである。同一のパースペクティブによる共同行為が成立している。つまり、これが「我々なる我、我なる我々」の成立である。このような「我々」としての認識が、相互承認を相互承認として成立させ、逆に相互承認の行為(68)において、かかる認識が「我々」の認識として成立するといえよう。

 [四] 二人は共に承認が相互承認としてしか成立しないと考える。しかし、フィヒテはそれを二項関係として、へ一ゲルは媒介を入れ三項関係で考える。確かにフィヒテも他者認識が身体と言葉と言葉を伝える光や空気などの物質を媒介にしているという。しかし、承認し合っている者は、それら媒介物自身には注意を向けていない。哲学者にとっては三項関係であっても、当事者にとっては二項関係である。またフィヒテは、こうした直接的な他者認識以外に、「人為の制作品」を媒介とした他者認識も認めるが、しかしこれはフィヒテによって、他者の概念を前提して成り立つ派生的な他者認識の形態であるとみなされ、相互承認の過程で「人為の制作品」が媒介になることはない。ところがヘーゲルの場合は、哲学者にとってのみならず、当事者にとっても三項関係となる。三項関係になる理由は、対立したものの統一(ここでは相互承認=「我々」=精神)が、第三者として、対立し合ったもの(個別的自己意識)に対立するようになるからである。ヘーゲル弁証法の核心は、単に対立し合うもの、矛盾し合うものの統一の主張にあるのではなく、むしろその統一が再びもとの対立し合うものに対立する という点にあるのではなかろうか。では、何故統一は対立した両項に対立するようになるのだろうか。それは、統一が「単に即自的ないし直接的」であることによって、統一が「存在という形式」をもつことになるからである。へ-ゲルのいう「存在」は「対自存在」に対立している。対自存在が自己否定性をもつに対して、存在はそれをもたず、いわば「否定性を欠いた自立性」=「自然的肯定」である。ゆえに、自己意識はこの存在という形式における統一=精神の中に自己を見い出せず、ここに疎外が生じる。ところで、この統一が存在の形式をとるとはどういうことか、即自的ないし直接的に存在するとはどういうことであろうか。即自的とは、この場合潜在的ということだろう。自己否定性が隠れているのである。直接的とは、無媒介ということであろう。統一は、媒介されて成立しているが、この媒介、つまり統一の成立過程を捨象して統一を捉えるとき、統一は主体的な働きかけなしに存立しているものとして、いわば疎遠な「物性」として捉えられるのである。具体的には、法、国家権力、財富、言語などとして現われる。このように統一が第三項として現われるという論理は、既に『人倫の体系 』にみられるが、そこでは、統一が第三項として現われることは、統一が「相対的同一性」ではなく「絶対的同一性」であることに由来することが示唆されている。ここでも、我々は両者の他者論の差異の根底に両者の自我論の差異ないしは綜合・同一性の差異を見ることができるのである。


   結び

 以上、我々はフィヒテとヘーゲルの他者論の基本的な共通点の中に、どのような根本的差異があるかを見てきた。無論これは、両者の他者論の重要な共通点と差異を全て尽してはいない。更に、他者承認と法論・徳論との関係、他者認識.承認と知的直観の関係、もう一つの他者である神の存在証明との対応関係等を両者について比較する必要がある。しかし、狭い意味での他者認識・承認については、両者は以上のような関係にあるといってよいだろう。ヘーゲルは『フィヒテとシェリングの哲学の体系の差異』で、前述のようにフィヒテが思弁の原理を立てたことを高く評価するが、それを体系の中で構成しなかったと批判する。フィヒテの他者論に対しても同様であって、その本質を「最高の共同が最高の自由である」という言葉で表わし、これを評価するが、法論の中でこれが生かされていないと批判する。ヘーゲルは以上述べたような他老論の修正によって、これを流そうとしたといえるのではないか。二人は共に相互承認の実現を人類の目標と考えたが、フィヒテにとってそれは実現不可能な目標であり、それへの無限の接近のみが可能であった。他方ヘーゲルはこれを実現可能と考える。但し逆 に、フィヒテが、身近な範囲では承認をつねに可能なものと考えているのに対して、ヘーゲルはむしろ、全体として相互承認が成立しなければ、狭い身近な範囲においても真の相互承認は成立しないと考えているといえよう。このこともまた、ヘーゲルにおいて「承認」が実践哲学全体の方法概念になっていることを示しているのである。`さて、このように両者を比較すると、どちらが優れているのか、という問いが生じる。これに答えるのは容易ではない。ヘーゲルの他者論には、フィヒテに較べよりリアルな他者経験が表現されており、魅力的である。しかし、ヘーゲルの議論はつねに論理的に暖昧な部分を残しているのに対して、フィヒテの議論は判明でヘーゲルに較べて説得力があるように思われる。我々はむしろ、人間を自己意識と考える彼らとはおそらく異なった地平で他者論を考えなければたならないだろう。但しその際にも二人の他者論の形態は、地平が異なっても、そこで繰り返して現われるような他者論の二つの形態として検討することが出来るかもしれない。


     FW : Fichtes Werke, hrsg. von I. H. Fichte, Walter de Gruyter, 1971
     GL : Fichte, Grundlage der gesamten Wissenschaftslehre, Felix Meiner, 1970
     NR : Fichte, Grundlage des Naturrechts, Felix Meiner, 1960 HW : Hegel, Werke in        zwanzig Baenden, Suhrkamp, 1970
     SS : Hegel, System der Sittlichkeit, hrsg. von G. Lasson, Felix Meiner, 1967
     RPI : Hegel, Jenenser Realphilosophie I, hrsg. von J. Hoffmeister, Felix Meiner, 1932
     RPII : Hegel, Jenaer Realphilosophie, hrsg. von J. Hoffmeister, Felix Meiner, 1969
     PG : Hegel, Phaenomenologie des Geistes, hrsg. von Hoffmeister, Felix Meiner, 1952
(1) H. Heimsoeth, Fichte, Ernst Reinhard, 1923, S. 141. A. Schurr, Die Funktion des Zeitbegriffs in Fichtes Theorie der Interpersonalitaet, in :Erneuerung der Transzendentalphilosophie im Anschluss an Kant und Fichte, Reinhard Lauth zum 60. Geburtstag, Hrsg. K. Hammacher und A. Mues, Frommann, 1979, S. 360, 367. C. K. Hunter, Der Interpersonalitaetsbeweis in Fichtes frueher angewandter praktischer Philosophie, Anton Hain, 1973, S. 181. 以上ではフィヒテが最初であるといわれている。
(2) FW, Bd. VI, S. 302.
(3)『学者の使命』から『道徳論の体系』に到る他者論の展開については、拙論「初期フィヒテの他者論」(「哲学論叢」第十四号大阪大学文学部哲学哲学史第二講座発行一九八四年所収)を参照下されば幸甚です。フィヒテは他者認識の問題を『学者の使命』では理論的領域からは除外し、実践的問題と考えるが、『自然法の基礎』から知識学の応用の問題と考え始め、『新しい方法による知識学』では知識学の内部で知識学の問題として論じることになる。この時期、フィヒテにとって他者の問題は次第に重要なものになっていることがわかる。
(4)Erich Fuchs, Einteitung, in: Fichte, Wisseuschaftslehre nova methodo, hrsg. von E. Fuchs, Felix Meiner, 1982, S. VII.
(5)イエナ期ヘーゲルの承認論の展開については、 Bonsiepen, Der Begriff der Negativitaet in den Jenaer Schriften Hegels, Hegelstudien Beiheft 16. Bouvier, 1979. L. Siep, Anerkennung als Prinzip der praktischen Philosophie, Alber, 1979, A. Wild, Atonomie und Anerkennung, Klett-Cotta, 1982 などの研究がある。特に後の二著はフィヒテとの比較も行っている。Siep のみるフィヒテとヘーゲルの他者承認論の基本的関係は、フィヒテが承認を純粋な原理として規定しただけであるのに対して、へーゲルは承認概念を共通の意識の諸形式、諸制度の本質として展開したということである。Vgl. Siep, ibid., S. 23,36. 私も同意見であるが、しかしこれが可能となるために、承認概念自体がどのように変化しなければならなかったかを、Siep は述べていない。私は本論でそれを調べることにもなるだろう。Wild は、イエナ期のヘーゲルが、他者論のみならず、実践哲学全体に関して、フィヒテからどのような影響を受けているかを、年代順に詳しく論じているが、他者論自体の比較はほとんどなされていない。
(6) NR, S.30.
(7) NR, S.17.
(8) NR, S.18.
(9) NR, S.32.
(10) NR, S.33.
(11) FW, Bd.IV, S. 106.
(12) Ibid., S. 109.
(13) Ibid., S. 220.
(14) Ibid., S. 104.
(15) NR, S. 18, vgl. FW. Bd. IV. S. 14f.
(16) NR, S.44.
(17) NR, S.45.
(18) NR,S.52.
(19)相手の応答によって他者認識が定言的にたると考えることは、問題があるだろう。これを含めて、フィヒテの他者論の様々の問題点については、非常に不十分ながら、前掲の拙論「初期フィヒテの他老論」で検討した。
(20) NR, S. 49.
(21) Ibid.
(22) NR, S. 46.
(23) NR, S. 44.
(24) NR, S. 67.
(25) PG, S. 128.
(26) Ibid.
(27) PG, S. 139.
(28) SS, S. 11.
(29) PG, S. 139.
(30) Ibid.
(31) PG, S. 141.
(32) PG. S. 143.
(33) PG, S. 145.
(34) PG, S. 147.
(35) PG. S. 143.
(36) PG, S. 144.
(37)Person としての承認が、生命としての承認であるという考えは、『人倫の体系』に現われている(SS, S.32f)。『人倫の体系』にはこのレベルの承認しか現われていない。ここでは承認は法関係を成立させるものとしてのみ考えられており、この点でフィヒテ的な承認概念にとどまっている。『精神現象学』でも、Personとしての承認が同時に法的人格としての承認の意味をもつことは、この主奴論が「法関係」という章に対応していることから指摘できる。
(38)PG, S. 471.
(39)「個人は彼が行ったところのものでしかない。」(PG, S. 227f)「人間の真の存在は彼の行為(Tat)である。」(PG, S. 236)「自我は、それが行為するところのものであり、それが行為しないなら、それは無である。」(NR, S.23)両者の間には、現在完了形と現在形という微妙な差異がある。
(40)丸山真男著『日本の思想』(岩波新書)の「『である』ことと『する』こと」参照。
(41)PG, S.128.
(42)GL, S. 30.
(43)GL, S.18.
(44)GL, S.24.
(45)GL, S.44.
(46)GL, S.35. この理由については vg. GL, S.64。
(47)HW, Bd.2, S.52,60.
(48)Ibid., S.29f,37,39,41,45,48,usw.
(49Ibid., S.92.
(50)Ibid., S.11,84.
(51)PG, S.141. ヘーゲルは『自然法の学的取り扱い方について』で、無限性をはじめて「自分自身の無媒介な反対的であること」(HW, Bd.2, S.454)「絶対的否定性」(ibid., S.437)「絶対的概念」(ibid., S.454)と規定する。「精神哲学」(一八〇三/〇四年)では「真実の無限性」(RPI, S.195)「自分自身の反対」(ibid., S.196)という概念を、「意識」の定義に用いる。更に「精神哲学」(一八〇五/〇六年)では、「意識」にかえて「自己意識」という概念を用いはじめる。このような経緯によって、『精神現象学』での自己意識の概念が成立している。
(52)PG, S.145.
(53)『自然法の基礎』では「各人は、他の人共と共に生きるという恣意的な決断によってのみ拘束されている」(NR, S.11)。従って他者を承認する必要性も「仮言的な妥当性」(NR, S.89)しかもたない。これに対して『道徳論の体系』では他者の承認が道徳的命令の内容として演繹される。
(54)NR, S.51. 「自由」については他でも同様に、「概念による力の調整のみが、理性と自由のまぎれもない唯一の標徴である」(NR, S.45)と云われている。『全知識学の基礎』では「自由な活動性は、一定の行為へ自己自身を規定する(自己触発Selbstaffection)」(GL, S.158) つまり自由は自己触発と同一視されている。この二種の自由の規定は異なるが、矛盾するものではない。
(55) HW, Bd. 2, S.12,60f.
(56) Ibid., S. 66.
(57) Ibid., S. 69.
(58) Ibid.
(59) Ibid., S. 476f.
(60) Ibid., S. 479.
(61) Ibid.
(62) Ibid., S. 44.
(63) Ibid.. S. 4lf.
(64) PG, S. 128.
(65) PG, S. 141.
(66) Ibid.
(67) Ibid.
(68)『精神現象学』の「緒論」で述べられているように、ヘーゲルにとって認識は、単に受動的に模写する「受動的媒体」(PG, S.63)でも、単に能動的に構成する「我々の活動性の道具」(ibid.)でもなく、能動的な働きがけの挫折によって、予期しなかった新しい対象に出会うという「弁証法的運動」=「経験」(PG, S.73)である。このような認識論と承認論の関係については、拙論「方法論と」ての承認論」(「哲学論叢」第八号、一九八一年所収)で論じた。
(69)NR, S.75f. 他者論と言語の関係については、論文「言語能力と言語の起源について」(一七九五年)を参照。単なる類推ではたく、他者との「交互作用」による他者認識は、この論文に現われる。Vgl. FW, Bd. VIII, S. 307.
(70)FW, Bd. IV, S.223f.
(71)PG, S.258f.
(72)PG, S.145.
(73)PG, S.257. 「精神哲学」(一八〇三/〇四年)では、相互承認によって「民族の精神」が成立するが、これは「対立し合ったものの中辞」、対立し合ったものがそこで一つであり、またそこで対立しているような中辞であらねばならないと述べている。Vgl. RPI, S.232. 「精神哲学」(一八〇五/〇六年)では、「直接的に承認されていること」(RPII, S.213)としての「充たされた愛は、最初には対象的になり、この第三者(充たされた愛)は両項(男と女)とは他なるものとなり、或いは愛は他在、直接的な物性となり」(RPII, S.203 傍点部は原文でゲツユペルト、括孤内は引用者付記)、この他在は「愛の手段及び中辞」になると言われている。これらの箇所は論理的には異たったレベルの議論であるが、ヘーゲルは承認をつねに三項関係として、しかも「精神哲学」(一八〇五/〇六)からは「推論」として考えようとしている。
(74)SS, S.19.
(75)カントは神の存在証明の三つの形態(自然神学的証明、宇宙論的証明、存在論的証明)を挙げ、これだけしかないというが、我々は他者の存在証明もまたこの三つの形態に整理できると予想しうるのではなかろうか。類推による他者の存在証明は、自然神学証明に対応し、フィヒテが行なった自己意識の存在論的条件としての他者演繹は、宇宙論的証明に対応しているといえる。ただヘーゲルの他者論についてはもう少し考えたい。
(76)HW, Bd.2, S.82.
(文学部助手)