論文9  ヘーゲル論理学におけるアンチノミーと無限判断



        
 ヘーゲル論理学の核心は、弁証法というその方法にある。弁証法の核心は、アンチノミーの呈示と解決にあるといえるだろう。我々はこの解決が無限判断によって行われると考え、テーゼ1「無限判断は、アンチノミーを前提とする推論の結論である」を証明し、次に形式論理学からの批判を受け入れて、テーゼ2「アンチノミーはダブルバインドである」を示唆したい。
(1)全ての概念がアンチノミーに陥る。
 ヘーゲルによれば、アンチノミーに陥るのはカントの場合のように特殊な概念ではなくて、全ての概念である。「理性のアンチノミー的な本性、あるいはより真実には弁証法的な本性へのより深い洞察は、全ての概念を対立した契機の統一としてしめす。これらの契機にアンチノミーをなす二つの主張という形式を与えることが出来るのである。」(1-183)全ての概念が対立した契機の統一であるから、各々の契機について述べる命題は矛盾し合うことになり、アンチノミーが成立するのである。
(2)アンチノミーないし矛盾からの帰結としての「規定された否定」
 彼は、アンチノミーないし矛盾の帰結は、無ではなくて規定された否定であるという。「学問的な前進を獲得するための唯一のことは、<否定的なものがまた肯定的でもある>或は<自己矛盾するものが、空無(Null)、抽象的無の中へ解消するのではなくて、むしろ本質的にその特殊な内容の否定の中へのみ解消する>或は<かかる否定は、全否定ではなく規定された事柄の否定、従って規定された否定である><従って結果の中には、それがそこから結果するところのものが保持されている>という論理的な命題を認識することである。結果するものは、否定、規定された否定であるので、それはある内容を持つ。規定された否定は、新しい概念、しかし先行の概念より高く豊かな概念である。」(1,35f)
(3)アンチノミーの解決と無限判断
  「(アンチノミーの)真の解決は、同一の概念に必然的に帰属し、且つ対立する二つの規定をその一面性に於て各々それだけで妥当させるということではなくて、むしろ二つの規定がその真理をそれらが止揚されることにおいて、それらの概念の統一に於て持つということにある。」(1ー184)新しい概念であるこの「統一」を判断として表現するならば、それは「無限判断」となるだろう。なぜなら、そこでは悟性的には結合し得ない二つの規定が結合するからである。
(4)無限判断の定義
 ヘーゲルのいう無限判断とは、主語が述語の属する普遍的な領域に属さないことを主張する判断である。それは「sは非pである」と一般的に表現することができる(但しこの形式をとらないでもよい)。例えば、「ヘーゲルはドンファンではない」と言えば、これは主語「ヘーゲル」が述語「ドンファン」でないだけではなくて、それの属する普遍的な領域「女たらし」に属さないことを主張するものである(隠喩の否定文は無限判断である、注参照)。
(5)無限判断によるアンチノミーの押し遣り(解決ではなくて)
 いま仮に、ある概念「a」に含まれる対立する規定性を「b」「c」とすると、この概念のアンチノミーは「aはbである」と「aはcである」という二つの命題からなる。普通の判断では「aはbである」と言うとき、「aは、x性に関して、bである」ということであり、「x性」という「判断の観点」が存在する。アンチノミーを構成する「aはbである」「aはcである」は、同じ「判断の観点」を持つはずである。そうでなければ二つの判断はアンチノミーにならないからである。
 このようなアンチノミーは、「aは非bである」「aは非cである」という無限判断によって解消される。無限判断は、主語が述語の属する普遍的な領域に属していないことを主張するものであるから、この「aは非bである」は、aがbでもcでもなくてbとcの属する普遍的な領域xに属さないないことを主張している。「aはcである」についても同様である。これは、カントが数学的アンチノミーの解決に用いたやり方である(注参照)。
 しかし、これはアンチノミーが仮象であって、本当はアンチノミーにはならないと考えているのだから、ヘーゲルの言うようにアンチノミーを他へ押し遣るのであって解決ではない。このように押し遣るとき、たとえ無限判断が結論になるとしても、それはアンチノミーを前提とする推論の結論ではない。
(6)無限判断の区別
 『論理学』の「無限判断」の章で、彼は否定的無限判断と肯定的無限判断を区別している。否定的無限判断とは前述の主語が述語の属する普遍的な領域に属さないことを主張する判断であり、肯定的無限判断とは、否定的無限判断によって分離した主語(個別)と述語(普遍)の各々についての「個別は個別である」「普遍は普遍である」という判断である。
 ところで、『精神現象学』で無限判断と呼ばれている判断「自我は物である」はこのような無限判断とは異なるものであるように思われる。無限判断とは、主語が述語の属する普遍的な領域に属していないことを主張する判断であるが、このとき、ふつうは、その普遍的な領域の更に普遍的な領域へと遡れば、主語と述語が共通に帰属する普遍的領域が存在するであろう。我々はこれを「相対的無限判断」と呼ぶことにしたい。しかし、もしどんなに抽象化しても、主語と述語が共通に帰属する普遍的領域が存在しないとき、これを「絶対的無限判断」と呼ぶことにしたい(注)。『精神現象学』での無限判断「自我は物である」は、このような「絶対的無限判断」である。主語と述語の間に、全く共通の普遍的な領域がないとき、我々はもはやこの二つの概念を比較することも区別することも出来なくなる(注、フィヒテの影響)。ヘーゲルの言葉で言えば、「絶対的区別」は「絶対的同一性」なのである。それ故に、主語と述語に共通の普遍的な領域が存在するかしないかという区別は、述語の属する普遍的な領域を否定する仕方の区別、その否定性の区別として見ることもできる。
 「論理学」の「判断」の章で、無限判断は「述語の範囲全体を否定し、述語と主語の間に如何なる肯定的な関係もない」ものと言われている。ここでの否定は単なる否定であるから、否定面と肯定面がはっきりと区別されており、否定的無限判断と肯定的無限判断に分けられる。このような無限判断は「相対的無限判断」であるといえる。これに対して、「絶対的無限判断」では、普遍的な領域の否定は単なる否定ではなくて、自己自身を否定する否定、「自己自身へ関係する否定」である。それゆえに、肯定面と否定面が、否定的無限判断と肯定的無限判断として区別されず、むしろ不可分に統一されることになる。
(7)推論の結論としての無限判断
 ヘーゲルは、判断の形式が思弁的なものを表現するには不十分であることを再三再四述べ、判断形式に替えて「命題の弁証法的な運動」(「精神現象学」53)を主張する。しかし、この運動はテーゼとアンチテーゼを繰り返して動揺することではない。それは悪無限であり、彼が批判することだからである。その命題の運動は推論であるので、結論によって閉じるものである。その結論は判断という形式を持つ。それ故に、彼は結論に於てやはり思弁的なものを表現する判断を必要とするはずである。そしてその判断こそが無限判断である。この無限判断はもちろん推論の結論として把握されることによってのみ概念把握されうるのである。逆に言うと、無限判断を概念把握することは、それを推論の結論として把握することなのである。
(8)テーゼ「定有の推論の第三格の結論は、相対的無限判断である」
 ヘーゲルのいう定有の推論の第三格の図式(古典的論理学では定言三段論法の第二格)は、E-A-B である。二つの前提に於て、Aが述語になること、A-Bの前提と結論E-Bは、否定判断になること、結論ではE、Bのどちらが主語になってもよいこと、それに応じてどちらが大前提であってもよいこと、が述べられているので、これを普通の推論の形に書き換えると次のようになる。
     BはAでない 或は EはAである
     EはAである    BはAでない
   故にEはBでない     故にBはEでない
 この結論は否定判断であるが、無限判断の一般的形式に書き換えると「Eは非Bである」或は「Bは非Eである」となる。この後者「Bは非Eである」は、ヘーゲルのいう無限判断である。なぜなら、この判断は、Bが単にEという属性をもたないことをだけではなく、Eが属する普遍的な領域Aにも属さないことが考えられているからである。
 前述の「aはbである」「aはcである」のアンチノミーを解消する相対的無限判断「aは非bである」は、次のような定有の推論の第三格の結論であるといえる。
        b(およびc)はxである。
        aはxでない。
     故に、aは非b(および非c)である。   
(8)絶対的無限判断と第三格の推論
 第三格の前提は普通はアンチノミーにはならないが、第三格の前提がアンチノミーになるとすれば、それは大概念と小概念が同一の場合である。この場合、推論は次のようになる。
E(B)はAである
  E(B)はAでない
故にE(B)はE(B)でない
推論は3つの概念を必要とするのでこの推論は間違っている、と考えるのは間違いである。これは推論としては妥当である。この結論の奇妙さは、前提の奇妙さに由来するもので、推論の間違いによるのではない。つまり、この結論はこの前提であるアンチノミーから必然的に導出されるのである。現代の数理論理学でも、矛盾した前提からは、どんな命題でも導出できる(これは「弱い否定消去」とか「矛盾規則」と呼ばれている)のである(注が必要)。しかし、ここでの結論は矛盾した前提とは無関係の任意の命題ではなく、前提の中に現れる概念ついての命題である。この結論が奇妙なのは、概念E(B)の同一性が否定されているからである。この否定は、絶対的な否定性であるだろうから、絶対的無限判断である。第三格の推論は、前提がアンチノミーをなす場合には、その結論は絶対的無限判断となり、アンチノミーをなさない場合には、その結論は相対的無限判断になる。
 ところで、右の推論で前提「E(B)はAである」と「E(B)はAでない」が共に正しいとすれば、E(B)とAは区別されておりかつ同一であるのだから、これらの前提自身が絶対的無限判断であることになる。「自我は物である」はこのような絶対的無限判断である。つまり、アンチノミーが仮象としてではなく、本当に成立しているとすれば、その二つの命題は各々が絶対的無限判断であることになる。
 そうすると、「全ての絶対的無限判断は推論の結論である」という私の最初のテーゼは間違いなのだろうか。そうではない。もしこの二つの前提が絶対的無限判断として概念把握されているならば、それらは同じ事柄を主張している判断であるので、アンチノミーとしては捉えられていないはずである。アンチノミーとして捉えられているということは、それらが矛盾する命題として捉えられているということである。
 ここに非常に微妙な問題がある。カントのようにアンチノミーを仮象と見なせば、たしかに矛盾は解消しアンチノミーも解消する。しかし、もしアンチノミーを本当に成立しているとみなせば、その時にはその二つの命題は絶対的無限判断であることになる。このとき、この二つの絶対的無限判断の関係は矛盾であるということもできるし矛盾でないともいえる二義的なものである。この二義性は各絶対的無限判断の主語と述語の同一性と区別の二義性と同じものである。このとき、この関係はもはや悟性的な意味でのアンチノミーではない。このときには、アンチノミーは解消されたのではない。アンチノミーをなす二つの命題はそのまま成立しながら、もはやアンチノミーではなくなったのである。しかし、この二つの命題の理解が変化し、アンチノミーでなくなるためには、一度アンチノミーとして捉えられて、そこから絶対的無限判断が結論として導出される必要がある。アンチノミーがアンチノミーでなくなるのはやはりそれがつぎのような推論の結論として把握されるときであろう。
E(B)はAである 或は E(B)はAでない
  E(B)はE(B)でない   E(B)はE(B)でない
故に、E(B)はAでない 故に、E(B)はAである
ここでの結論は大前提から導出されているのであるから、大前提と結論は矛盾するものとしては捉えられていないはずである。ところで、この推論は、次の推論
の中概念と小概念を同一概念と見なしたものである。
BはAである 或は BはAでない
  EはBでない    EはBでない
故に、EはAでない 故に、EはAである
実は、この推論は妥当でないので、上の推論も形式論理学的には妥当ではない。しかし、上の推論は妥当すると思弁(或は強弁)することが可能である。その際の論拠は、上の推論の小前提である「E(B)はE(B)でない」が絶対的無限判断であるということである。例を挙げて説明しよう。
人間は二本足である。 xは二本足である。
鳥は人間ではない。 xはxではない。
故に、鳥は二本足でない。 故に、xは二本足でない。
上の左の推論は妥当ではない。しかし、右の推論はもし小前提を絶対的無限判断と理解すれば、小前提の主語xと述語xには何の共通領域も存在しないのであるから、主語xは述語xが属する普遍的な領域「二本足であるもの」に属さないことになる。故に、右の推論は(形式論理学的な意味ではないが)妥当である。しかし絶対的無限判断の主語xと述語xは、同一であるという側面もあるので、結論「xは二本足でない」においても主語と述語の関係は悟性的にではなくて絶対的区別=絶対的同一性の関係として把握され、結論は絶対的無限判断として把握されることになると言える。
(9)アンチノミーと論理階型の区別
 もしこのように絶対的無限判断を結論とする推論が妥当であるとすれば、ヘーゲル弁証法を吟味しようとする際に問題は前提の吟味に移ることになる。前提となるアンチノミーは正しく生じているのであろうか。そもそも何故アンチノミーが生じるのであろうか。それは、判断されている概念が矛盾した契機を含んでいるからである。しかし、我々が、ヘーゲルのいうように全ての概念の中に矛盾した契機を見つけようとしてもそれはむづかしい。ヘーゲルはどの様にして矛盾した契機を見つけ出すのであろうか。言い換えると、当の概念についての一つの判断から、どの様にしてそれと矛盾するもう一つの判断を導出するのであろうか。我々は従来の批判と同様に、ヘーゲルが概念の自己矛盾として示すものが実は、形式論理学的には観点を区別べきものであり、自己矛盾ではないと考える。(この種の形式論理学のからの批判に対して、説得的な反批判はまだなされていないと思われる。)但し、我々は、その際の観点の違いを論理階型の違いとして捉え、ヘーゲルの指摘する矛盾は論理階型の混同から生じていると主張したい。このことを、個々に渉って論証することは充分可能であろう(その用意は多 少あるが紙数の都合で割愛する)。しかし、より重要な問題は、どうして論理階型の異なる矛盾した言及が必然的に出てくるのか、またどうして論理階型の区別が混同されるのか、である。
(10)自己反省と論理階型の区別
 このような論理階型の混同には、ある種の情状酌量の余地がある。ヘーゲルが論理学でしようとしたことは、彼の存在論のテーゼ「真理は全体である」「実体=主体」を論理的に論証することであった。ヘーゲル論理学の中に、我々は存在論でのいわゆる「関係の第一次性」の論理的な証明を求めることが出来るが、それは「真理は全体である」というテーゼの証明とも重なるであろう。しかし、ヘーゲルの存在論は「関係の第一次性」の主張にとどまらず、その関係が主体性であることを主張する。「実体=主体」テーゼの証明は、論理学では、実体というカテゴリー(実体に関わる諸カテゴリー)の真理が主体というカテゴリー(主体に関わる諸カテゴリー)である、ということの証明(狭い意味ではこの証明は本質論の実体性の章から概念論へ移行するまでの叙述である)になる。
 主体性を導出するためには、その基本的な規定として自己反省ないし自己規定を導出しなければならない。自己反省では、反省される自己は自己として反省されているのであるから、反省する自己と同じものであるのだが、しかし、反省されているのであるから、反省する自己とは区別されるものである。従って、真実の自己反省はいかにして可能か、或は本当に可能であるかどうか、が問題となる。
 反省する自己と反省される自己が同一であるとされるときと、区別されるときは、もちろんその観点が異なるのであるが、その観点の違いは論理階型の違いになっているのではないだろうか。二つの自己が同一の自己であるというときには、内容の同一性ないし連続性が見られており、区別されるときには反省されるものと反省するものという形式が見られているといえるのではないか。(論理階型の区別は内容ではなく、形式上の区別であるといえるが、ここでの、二つの自己の区別は論理階型の区別とみなすことができる。反省される自己は、それ自身一つの反省(作用)であろうから、ここには反省についての反省が生じていると言える。反省を言及として捉えれば、言及についての言及が生じているのだから、二つの言及の論理階型を区別しなければならないだろう。)或は、逆に二つの自己は内容上区別され、反省作用の実的な連続性という形式において同一であると見なされているのであろか。いずれにしてもこの場合の形式と内容という観点の区別は論理階型の区別と考えることが出来る。なぜなら、形式は、一般に内容の与えられ方である見ることが出来るであろうし、また内容がメッセージ である場合には、その与えられ方はメタメッセージであるから、この場合の内容と形式は論理階型が異なるといえるからである。
 右で、二つの自己の同一性と区別について論理階型を区別して述べているのは、他者であるか、第三の反省する自己である。我々が次に問題にしたいのは、当の反省主体がどう判断しているかである。反省する自己と反省される自己の生きた関係、未だ反省されざる関係においては、反省する自己は未だ反省されていないが、反省する自己は、「私は私を反省している」と思っているはずである。それ故に、反省されているものと自己が同一であると思っているはずである。しかし、そのすぐ後には反省されている自己と反省している自己の区別に気づくであろう。しかしまたすぐにそのように自己を反省している自分に気づくであろう。彼は自己反省の努力に於て、おそらく反省されているものと自己の同一性と区別の間の動揺を繰り返すことになすであろう。ここで重要なのは、自己反省しようとする自己はその際にその二つの判断の論理階型を区別することが出来ないということである。なぜなら、そのためには論理階型を反省しなければならず、それは自己を反省しようとする態度の中断を要求するからである。生きた自己反省において、この論理階型の混同は不可避であるといえる。
 このように、自己に付いての二つの判断が対立し、且つその論理階型の混同が不可避であるならば、その二つの判断はアンチノミーを形成し、それからの帰結は絶対的無限判断となる。
        反省する自己は反省される自己ではない。
        反省する自己は反省される自己である。
     故に、反省する自己は反省する自己ではない。
つまり、反省する自己の同一性は絶対的同一性=絶対的区別となる。もちろんこの結論を踏まえて、二つの前提も絶対的無限判断として把握されなければならない。  
(11)外的反省の止揚と自己反省
 「外的な反省」は、アンチノミーを解決することが出来ない。「外的な反省」がアンチノミーを捉えている限り、「形式的で非体系的な弁証法」にとどまる(2-157)。対象自身が措定し反省しなければならない。意識と対象の区別が廃棄されるときに、はじめてアンチノミーの解決が可能になるのである。従って、無限判断は、単なる認識ではなくて、対象自体の変化であると言える。つまり、弁証法は認識の論理にとどまらず、存在の論理でもある。彼がカントがアンチノミーの原因を理性に帰したことを批判するのは、カントがアンチノミーを「外的な反省」に帰したことを批判しているのである。存在自身がアンチノミーをもつのである。
 絶対的無限判断が生じるには、反省と対象の区別が廃棄されなければならない。その時、反省は自己反省となるであろう。絶対的無限判断は自己反省によって可能になる。そして、先にみたように自己反省は論理階型を混同するのであり、そこから論理階型の異なる二つの命題をアンチノミーをとして受け取ることになり、それを前提とするから、必然的に結論は絶対的無限判断になるのである。
(12)アンチノミーとダブルバインド
 以上の解明では、厳密な論理体系として、ヘーゲル論理学を形式論理学より優れたものであると考えることはできない。しかし、ヘーゲルのこのような論理は、実践哲学の領域では研究プログラムとしての有効性を持つように思われる。アンチノミーをなす命題が命令文であるときには、そのアンチノミーはダブルバインドと呼ばれるものである。ダブルバインドの場合にも、それを構成する二つの命令は本当は論理階型が異なるのだが、その論理階型の区別が混同されるとき、ひとはダブルバインド状況に陥るのである。このようなダブルバインドは、対人関係、社会関係の中のいたるところで作用しているということにとどまらず、それは、自己意識の成立や他者承認や契約の成立の際に重要な働きをしていると思われるのである。

注 本文での引用は全て Hegel,Wissenschaft der Logik,hrsg.von G.Lasson,1967,Hamburg からのものであり、1-183 は Bd.1,S.183 を意味する。
(1)ヘーゲルの自身の無限判断論の変化とカント、フィヒテ、シェリングの無限判断論との比較に付いては、拙論「ヘーゲル『精神現象学』における無限判断とエレメント」(『大阪工業大学紀要』人文科学編、第二十六巻、二号、一九八二年発行)の参照を請う。
(2)
(3)ヘーゲルは、カントのアンチノミー論に関して、アンチノミーのテーゼとアンチテーゼの証明がカントが言うような間接帰謬法になっておらず、直接的な断言の対立でしかないと批判する。この批判は、規定性自身が自分の反対になるという弁証的な運動をカントが把握していないという批判になるのである。これを言い換えると、カントはアンチノミーを主観に帰属させ事柄自体に帰属させなかったということに対する批判になる。
 カントの解決は、アンチノミーをなしているようにみえる二つの命題の関係を反対対当や小反対対当として把握し直すことによって、アンチノミーを解消するという仕方によるものであった。例えば、「空間は無限分割可能である」「空間は無限分割不可能である」という二つの前提から彼はどちらでもないという結論を出した。彼が「空間は無限分割可能でないものである」というとき、それは「空間」が「無限分割可能」や「無限分割不可能」という述語が属する普遍的な領域に属さないということを意味しているのである。カントはアンチノミーを相対的無限判断で解決したということが出来るだろう。「超越論的トピーク場所論」は相対的無限判断によって表現されうる。)
(4)ヘーゲルが伝統的な推論の2格と3格の順番を入れ換えたのは、これを肯定判断、否定判断、無限判断に対応させるためであったろうと推測する。
 反省の推論3つは反省の判断3つに対応しており、必然性の推論3つも必然性の判断3つに対応していることはあきらかである。故に、定有の推論も定有の判断に対応付けることが出来るのではないかという予想を立てることが出来る。私は第一格が肯定判断に、第二格が否定判断に、第三格が無限判断に対応していると考える。なぜなら、第一格の結論は肯定判断であり、第二格の結論は否定判断であり、第三格の結論は無限判断であるといえるからである。(第二格の「結論は特称判断でのみありうる。しかし前述のように、特称判断は肯定でも否定でもある。この場合に、第四格を付け加えたのはなぜか。)
(5)山口祐弘氏は『近代知の返照』で既に、「ヘーゲルの推論第三格はカントの無限判断と密接な関係にあると言うことができる。それは無限判断の根底にあり、これを帰結する推論であると言えよう。」(150)と卓見を示している。山口氏はここで、推論と無限判断を関係付けようとされており、しかもその際に無限判断を推論の結論として位置づけようと志向している。しかしまだ、ヘーゲルの無限判断を推論の結論としてはっきりと位置づけていない。
 山口氏が推論の第三格を次のように述べているのは、何かの間違いであろう。
     BはAである
     EはAでない
   故にEはBでない)
(注、ここでの前提と結論は全て全称判断である。上の左側の形式で可能なのは次の二つである。
     全てのBはAでない 或は    全てのBはAでない
     全てのEはAである     あるEはAである
   故に全てのEはBでない      故にあるEはBでない
この場合、結論の主語と述語を入れ換えられるのは左側だけである。右側の結論の主語と述語を入れ換えると「BはあるEではない」となるが、これは伝統的な論理学が扱っていない命題の形であり、こうした形の推論も扱っていない。故に、ここでヘーゲルが考えているのは、左側の形だけであろう。)
(5)自己組織的な機械は形式論理的に不可能であり、敢えてななそうとすると、自己を拡大して、自己であって自己でないというものを考えなければならないとという矛盾に陥る、というアシュビーの主張は興味深い。この拡大された「自己」を表現する判断「自己は自己でない」はヘーゲルのいう絶対的無限判断になるであろう。
(6)ダブルバインドについてはGregory Bateson,Steps to an Ecology of Mind,Ballantine Books,New York,1972(『精神の生態学』上、下巻、佐伯泰樹、佐藤良明、高橋和久訳、思索社、一九八六年)、遊佐安一郎『家族療法入門』星和書店、一九八四年、第五章を参照。



(注、彼は、従来の弁証法が矛盾ないしアンチノミーを発見したことを評価しながらも、その欠点を、規定された否定ではなくて無を結果とする点に見ている。
「・・・・間違って消してしまった(入江)・・・・
によって解消させようという意図を持っているが、しかし一般に無を結果とする。」(37) カントもまたアンチノミーから無を帰結させると、ヘーゲルは言う。)
(注、形式論理学が、矛盾を認めないのは、それを認めるとどんな命題も導出出来る(「矛盾規則」とか「弱い否定消去」と呼ばれているもの)ので、導出出来る命題と出来ない命題の区別が実質的になくなり、導出にもはや何の意味もなくなるからである。しかし、ヘーゲル論理学では、矛盾を求めてもそういう自体にはならないのである。それはなぜだろうか。このことが、矛盾から帰結するのは無ではなく規定された否定であるということであろう。ヘーゲルが、従来の哲学者が矛盾からは「無」が帰結すると考えていると言うとき、それは如何なる意味であるのか、を問わねばならない。これを明らかにしなければ、「規定された無」の意味は明らかにはならない。)
(注 ところで、統一される二つの規定ははじめの概念の中で統一されていた。最初の統一は直接的な統一であり、帰結としての統一は媒介された統一であるといえるが、この二つはどう違うのだろうか。「直接的な統一」であったのが、いまや「措定された統一」「反省された統一」になっているのである。この措定ないし反省は、主観的なもの、つまり「外的な反省」ではない。






社会学で最近主題となる社会システムの自己反省は、論理学でいう自己言及とは異なるのではないか。社会システムの自己反省は、「私は太っている」という文が自己言及であるというのと同じ意味で考えられているのではなかろうか。しかし論理学ではこの文は自己言及文ではない。論理学で自己言及文と言うときの自己とは(言及の主体ではなく)当の文自身のことである。社会学での自己組織化の説明のために必要なのは、「私は太っている」という類の自己言及ではないか。そうするとこれは形式論理学で記述可能であろう。
この区別は、経験的自己意識と超越論的自己意識の区別に対応している。ヘーゲルは、この二つの自己意識を区別しているのであろうか。むしろ積極的に区別を廃棄しているのではないか。その根拠は何か。そこから何が帰結するか。



(注<全体と契機>
「区別自体は自己を自己へ関係付ける区別である。その区別は自分自身の否定性、他からの区別ではなく自己自身からの自分の区別である。しかし、区別されたものから区別されたものは同一性である。それゆえに、区別は区別自身と同一性である。両者併せて区別を作り上げる。区別は全体であり且つその契機である。・・・・同一性がその全体でありかつその契機であるように、区別は全体であり、かつ自分の契機である。このことは、反省の本質的本性として、また全ての活動性の自己運動の規定された根源として考察されるべきである。同一性と同様に区別は、自己を契機ないし措定された存在にする。なぜなら、それらは反省として、自己自身への否定的関係であるから。」(33))
 全体であり且つ契機である理由として、それが、「自己自身への否定的な関係」であることが語られている。このことは、「反省の本質的本性」であるといわれている。このような構造は無限論にはなかったか。「自己自身への否定的な関係」と反省は、どうちがうのか。「反省は無から無への運動である」((2ー14)。

この論文のセールスポイント
・無限判断をアンチノミーを前提とする推論の結論とする
・無限判断を二つに分け、それに応じてアンチノミーと推論を二つに分ける
・アンチノミーをダブルバインドとして解釈する。
・無限判断と自己言及の関係で何か。
 ダブルバインドを前提とする推論の結論であるから自己内に二つの論理階梯を含み自己言及文になると言えないか。
・決断、自己意識の成立の問題と無限判断の関係づけで何か。
 フィヒテでは、「私は自由である」という無限判断は決断に基づくことになる。なぜなら、無限判断は無根拠な判断であるからである。しかし、ヘーゲルによると無限判断は無根拠な判断でなくアンチノミーを前提としているからである。
・問題学との関係で何か
問題は、二つの命題の矛盾から生じる。答えはこの矛盾を解消するものである。
・レトリック論との関係で何か一つ。無限判断は隠喩の否定文である。
・ヘーゲル論理学は上向でもあり下向でもある。


(9)アンチノミーはどうして生じるのか。
 絶対的無限判断を結論とする推論が妥当であるとすれば、結論の吟味のためには前提を吟味しなければならない。何故、アンチノミーが生じるのであろうか。その理由はこうである。ヘーゲルの論理学は円環をなしており、結論である絶対的理念から始源である存在が帰結することが言われている。それ故に、始源である存在自体が帰結である絶対的無限判断が含む矛盾を含んでいるので、その矛盾がアンチノミーとして措定され、そしてその統一が絶対的無限判断として措定されるということを繰り返して絶対理念にまで展開するのである。つまり、推論の出発点になる始源(純粋存在)自身が、即自的には絶対的無限判断で表現されるべきもの(絶対理念)であるから、アンチノミーが生じるのである。
 循環していること自体は、論理体系として何の不都合でもない。ウィトゲンシュタインが言うように論理学はタウトロギーであるのだから、循環していることは当然のことである。しかし、逆にヘーゲルのように始源を結論から導出したことによって始源を根拠づけたと考えることもまた正しくない。現代の公理主義では導出の出発点となる公理と変形規則の真理性は問題にならないが、しかしヘーゲルにとってはこの論理体系は同時に形而上学でもあり、彼の存在論を論理的に論証するものであるから、始源の真理性(体系の真理性)を証明することは第一の課題である。始源の真理性が『論理学』の内部で基礎付けられないとすれば、『精神現象学』の帰結である絶対知によって基礎付けることもできない。なぜなら、精神現象学と論理学は同じ方法をとっており、同じ事情で『精神現象学』も根拠付けを欠くことになるからである。

(10)論理学の円環性
論理学は二つの意味で円環をなす。一つは、その始源である存在が最後の絶対理念から帰結すると言うことである。もう一つは、論理学の方法が論理学の最後に措定されるということである。つまり、論理学は自分自身の方法を結論として導出したということである。


(9)『論理学』での絶対的無限判断
 このような絶対的無限判断は『論理学』にも登場している。
「直接的なものは、他の物へ移行している、しかしこの他のものは、弁証法の普通の結果として受け取られる本質的に空虚な否定的なもの、無ではなく、むしろ最初のものの他のもの、直接的なものの否定的なもの、それゆえに、それは媒介されたものとして規定されており、一般に最初のものの規定を自己内に含んでいる。・・・この統一は命題として表現されることが出来る。その命題の中では、直接的なものが主語として、媒介されたものが述語として立てられている。例えば、「有限なものは無限である」「一は多である」「個別は普遍である」。しかし、このような命題や判断の不適当な形式が自ずから目にはいる。判断のもとでは、その形式は一般に、またことに肯定判断の直接的な形式は、思弁的なものと真理とをその中で捉えることが出来ない、ということが示されている。肯定判断のさし当っての補足である否定判断が少なくとも付け加えられなければならない。判断の中では主語としての最初のものが自立的な存立という仮象をもつ。何故仮象かといえば、最初のものは他のものとしての述語の中で止揚されているからである。この否定は、先の諸命題の内容の中で保持されているが、しか しそれらの肯定的な形式はその内容に矛盾する。従って、その命題の中に含まれていることが措定されていないのである。しかし、その措定こそが命題を用いる際の意図であったのだ。」(2-495)ここでは、肯定判断と否定判断がアンチノミーをなし、それを統一するのが無限判断である、と予想される。



つまり、自己は自己であって且つ自己ではないものとなる。

 形式についての判断と、内容に付いての判断が矛盾することによって、ヘーゲル論理学が展開するとき、この論理階型の区別が混同されていることになる。この混同に基づいた展開が終わるとすれば、その時は、形式に付いての判断と内容に付いての判断が一致するときである。この一致が成立するのは、形式が内容になっている場合である。言及するもの自身に付いての言及が行われるとき、内容(言及されている言及)についての判断と、形式(言及に付いての言及)に付いての判断が同じになる。しかも、このときには、対象とそれに付いての学問的判断(言及)が同一になり、学問が学問自身を対象にすることになる。つまり、論理学の終結部は、論理学に付いての理論になる。そこでは、論理学の形式(方法)と内容が語られ、かつそれらが同じものであると主張される。

 全体であり且つ契機である理由として、それが、「自己自身への否定的な関係」であることが語られている。このことは、「反省の本質的本性」であるといわれている。「自己自身への否定的な関係」と反省は、どうちがうのか。「反省は無から無への運動である」((2ー14)。




8、無限判断の必要性
 (しかし、ひょっとして、命題の運動が円環をなすとすれば、閉じなくてもよいのではないか。閉じなくてもよいとすれば、推論でなくてよいのではないか。
この円環は多くの推論からなる円環であるだろう。この円環の中で、推論の結論は何も最終的に思弁的なものを表現する判断でなくてもよいのではないか。これに答えるには、学問の円環性に付いて詳しくみなければならない。)
 <無限判断が判断形式の廃棄であること>
  絶対的無限判断は「精神現象学」の例では、「自我は物である」「物は自我である」という判断である。これらの主語と述語にはなんら共通の領域がない。そうすると我々はそれらを区別することすら出来ないことになる。なぜなら、区別するには、比較しなければならず、比較するには共通の領域におかなければならないからである。絶対的無限判断がこういう意味であるならば、この内容は判断という形式には不適合である。このことが、無限判断が判断形式の廃棄であると言われるゆえんである。「判断ないし命題一般の本性は、主語と述語の区別を自己内に含んでいるが、これは思弁命題によって破壊される。」(HW3ー59)
 この解釈が正しいならば、無限判断が判断形式の廃棄であるということは、絶対的無限判断についてのみ言われているはずであるが、実際にはどうか? 実際には「論理学」の無限判断の箇所で相対的無限判断についても、それが判断形式の廃棄であるといわれている。

10、ダブルバインドとアンチノミー
  ヘーゲルの方法に於て、展開の原動力になるアンチノミーをダブルバインドとして、つまり論理階梯の異なる二つの矛盾する命題として解釈することはできないだろうか。ヘーゲルが内容と形式との矛盾を指摘するところでは、この矛盾をダブルバインドとして解釈することが可能である。では、ヘーゲルの方法における全ての展開を内容と形式の矛盾として解釈することが出来るだろうか。「精神現象学」での展開は現象と本質との矛盾によるものと述べられているから、「精神現象学」の展開をダブルバインドによるものとして捉えることは可能である。ところで「論理学」と「精神現象学」の方法は同じものであるといわれているから、「論理学」の方法もダブルバインドで解釈することが可能なはずである。
論理学でも、ある論理的な規定性の措定されている規定と即自的な規定との矛盾から、展開して行くといえるだろう。そのときの措定された規定と即自的な規定は、内容と形式に対応し、それはメッセージとメタメッセージの関係に対応する。
  直接的なものと第一の否定がおそらくアンチノミーを形成する。この第一の否定は、直接的なものに対してメタレベルに立つといえるだろうか。もしそうならば、ここにダブルバインドが成立する。ダブルバインドを前提とする推論の結論は、一つの文のなかに矛盾と二つのレベルの区別を含むことになるから、自己言及の矛盾する命題となる。自己言及性は、おそらくこの第二の否定の中に出てくる。第二の否定は自己否定であるが、それは第一の否定の根拠自体を付き崩すから、第一の否定の否定にもなるのである。

ヘーゲルは、「論理学」の最後で、つぎのような四段階を述べる。
直接的なもの
第一の否定
第二の否定
直接的なもの