日本ディルタイ協会2007年関西研究大会 関西大学において、 2007630

 

フィヒテ哲学の全体像を求めて -- 知識学の変転とその理由--

入江幸男


第1節 フィヒテ哲学の全体像への手がかり

 

1. フィヒテ哲学の伝統的な理解

 フィヒテ哲学は、カント以後の哲学研究の中から登場した観念論哲学の流れの創始者として位置づけられている。このなかで、フィヒテは主観的観念論と規定される。それは、自我を経験全体の根拠として考えるという意味である。

シェリングは、客観的観念論と規定される。彼の哲学においては、自然は自我から独立しており、独自に発展する。そしてその発展のなかで自我も発生する。その意味では、今日の唯物論者と同様である。異なるのは、自然から自我が発生することを説明するために、自然の中に予め精神的要素が内在していると考えることである。

 ヘーゲルは、絶対的観念論といわれる。ヘーゲルは、絶対精神の自己実現として自然の発展と人類の歴史を捉える。ヘーゲルの独自性が際立っているのは、「客観的精神」を想定し、しかもそれを主体として捉える点である。後で考察するように、普遍的な意識を考える点は、後期のフィヒテと同じなのだが、それを主体と考える点が、フィヒテと異なっている。

 

ところで、新ヘーゲル学派の仕事によって形成されたこのような単純な発展図式は、第二次大戦後の詳細な研究によって批判され、現在では「発展」としてではなく、一連の思想運動、ないし思想家群としてとらえられている。また、このような観念論哲学の運動が、フィヒテに始まったといえるかどうかについても、詳細な研究による検討が必要である。

(注、「ドイツ観念論」という名称の起源は定かではない。C.L. Michelet, "Geschichte der letzten Systeme der Philosophie in Deutschland von Kant bis Hegel" 1837-38.のなかに、この時期の哲学を指す言葉として登場するらしい(Vgl."Historisches Woerterbuch der Philosophie" Bd.4, S.35.)Wilhelm Dilthey, "Die Jugendgeschichte Hegels" 1906公刊、1905発表)『ヘーゲルの青年時代』以文社、p.71に「ドイツ観念論」という語がある。)

 

カントに出会う前のフィヒテは、当時議論されていた、自由と必然性に関する問題について、時代の影響のもと、必然性の側に傾いていた。しかし、それは、彼の性格と一致せず、内面の深いところでは、不満足で不安定なままであった。しかし、カント哲学との出会いによって、彼は厳密な学問的世界認識と道徳的な自由の確信を統一する可能性を手にすることが出来た。Vgl. Max Wundt, “Fichte”Frommann, 1976, S. 83.

 カントに出会うことによって、フィヒテが手に入れたのは、一言で言えば「観念論の可能性」ということである。本発表では、フィヒテの知識学の変化の理由を検討することによって、彼の観念論の特異性ないし徹底性を確認したい。フィヒテ観念論の特異性を確認することが、思想史の中での彼の位置づけを考えるときの出発点になるだろう。

 

2、カントに出会った後のフィヒテの出発点、二者択一の決断へ

 フィヒテは、1793年に「知識学」を発見し、それをまず『知識学の概念』(1794, 1798)『全知識学の基礎』(1794, 1802)として公表する。「自我は根源的に端的に自己自身の存在を措定する」(SWI, 98)という第一根本命題が表現する「事行(Tathandlung)」から出発して、すべての経験を説明するという観念論を主張する。フィヒテ自身はこのように観念論の立場を採用するのだが、観念論を他の諸思想との関係において、どのように捉えていたのだろうか。「知識学への第一序論」(1797)をもとにそれに答えたい。

そこにおいて、フィヒテは、我々が整合的に考えられる哲学体系は、観念論と独断論の二つだけであるという。これは経験を「自我」から説明する立場と、「物」から説明する立場である。では我々は、なぜ中間の立場つまり二元論をとれないのだろうか。フィヒテは、「二つの体系を折衷して一つにすることは必然的に不整合をきたす」(SW1, 431)という。なぜなら、そのような者は「物質から精神への、もしくは精神から物質への絶えざる移行、あるいは同じことだが、必然性から自由への絶えざる移行を前提とするような、こうした結合の可能性を証明しなければならない」(SW1,431)からである。しかし、「物質から精神への移行」、つまり物質の作用から意識内容が生まれることを説明することは出来ない、また「精神から物質への移行」、つまり意図したことを身体行為に移すことの説明も出来ない、とフィヒテは考える。

「たしかに自我の自立性という表象と物の自立性という表象は両立しうるが、自我の自立性そのものと物の自立性そのものは両立し得ない。」(SW1,432

 ちなみに、フィヒテは当時のカント解釈が、物自体を認めて、カントを二元論として解釈することを強く批判する。

「カンティアーナたちのカント主義は、、[・・・]物自体が我々の内に印象を引き起こすとする、最も粗雑な独断論と、あらゆる存在が知性の思考によってのみ生じ、それ以外の存在については何も知らないとする、最も決定的な観念論との、異様な合成を実際に含んでいるということは、私にはあまりもよくわかっている。」(『知識学への第二序論』SWII, 483)

 フィヒテによれば、ラインホルトもシュルツもカントをこのように解釈していた。(フィヒテは、Beckのカント解釈については、このような独断論的なカント解釈を批判するものとして高く評価している。Vgl. SWII, 444))

 

 ところで、フィヒテは、二元論は不整合で維持し難いというだけでなく、二元論を整合的に考えようとすると唯物論にいたるという(SW, 437)。その理由の一つは、次のように説明される。二元論者は「存在から表象への移行」を説明できず、この飛躍を隠そうとして、「心は決して物でもなければ、まったく何ものでもなく、物同士の相互作用の結果として生まれたものにすぎないであろう」(SWI, 437)という唯物論的な説明を行うようになる、とフィヒテは言う。

 (注、現代の多くの哲学者もまた、二元論を取らない。サールによると、心身問題に関して欧米の多くの人々は二元論を採用しているが、しかし心身問題の専門家で二元論を採るものは非常に少なく、ほとんどは一元論論者である。もっとも観念論者ではなく、唯物論者である。Vgl. Searle, “Mind”

 

彼によれば、観念論と唯物論の二つの体系だけが整合的な体系であるが、しかしこの二つは、全く共通点を持たないので、互いに論争することが不可能であり、理性によってこの論争に決着を付けることは不可能である(Vgl.SWI, 429f.)。そうすると、ここにもう一つの可能性が登場する。それは懐疑論である。観念論と唯物論の間で決着がつかないとき、フィヒテはなぜ懐疑論をとらなかったのだろうか。『第一序論』では、観念論か唯物論かの選択は、理論的に出来ないので「決断」よって行われるのだが、その決断は、「関心」に基づくとされる。この関心は、後に見るように道徳的な関心である。この「関心」が、ここでフィヒテが懐疑論をとらない理由であるように思われる。他方で、『全知識学の基礎』では、懐疑論は自己矛盾しており、「だれも本気で懐疑論者であったものはない」SW1-120と述べている。

理性的に考えて結論が出ないときには、結論を留保することが、確かに知的に誠実な態度であろう。しかし、結論が出ないということが、現在の研究段階における一時的な状態であり、将来改善される可能性があるというのならば、結論を留保することが知的に誠実な態度であるが、理性的な議論で結論を出すことが原理的に不可能であると思われるとき、そして他方で、懐疑論が論理的な矛盾を抱えているとするならば、その場合には、「関心」にもとづいて立場を選択するということも、知的に不誠実な態度だとは言えないだろう。

 

観念論、独断論(唯物論)、二元論、懐疑主義、などの立場がある中で、こうしてフィヒテは、我々に独断論か観念論かという選択をしなければならないことを説明し、観念論の採用の決断を正当化する。以上が、フィヒテが「知識学」を主張し始めたときの立場の選択に関する基本的な了解であった。その後、フィヒテは知識学を何度も講義し、何度も書き直すのだが、その過程で大きく変化しているように見える。

 

3、フィヒテ知識学のその後の変化とその理由

 フィヒテの知識学の変化を、どの程度本質的な変化と考えるかは別にして、少なくともその表面的な変化は、次のように言うことができる。そして、その変化の理由について、次のようなものを挙げることができる。

 

■知識学の変化

(1)初期知識学(イエナ期)

   自我を出発点にして経験を説明する。

自我ないし事行を出発点にして、それが成立するための条件、あるいはその成立を説明するための条件として、自然の認識や行為を演繹する。

(2)中期知識学

   知識学は、「知の知」と定義されるようになる。

絶対知を出発点にして、全経験を説明する。

ただし、絶対者の存在を最初から前提することはない。

(3)後期知識学(ベルリン大学期)

   知識学は、絶対者=存在=生から出発する。

   知は、絶対者の像ないし図式として捉えられる。

 

知識学の変化の理由

外的理由1:無神論論争

外的理由2:シェリングとの論争

内的理由1:決断と知的直観の矛盾。

内的理由2:他者論をきっかけに、「理性的存在者の体系」や「絶対知」の考察へ向かう。

内的理由3、道徳法則の究極目的として、理性的存在者の道徳的秩序(の根拠)=神=生=絶対者の想定へ

 

 

以下では、内的理由1としてあげた点を考えてみたい。

 

第2節 決断と知的直観

 

1、問題提起:決断の立場と知的直観の立場の矛盾

フィヒテは、上述のようにイエナ期においては、独断論と観念論の二つの体系は、どちらも整合的な哲学体系であり、互いに共約不可能であって理論的には決定できないと考えていた。そこで、彼はこの体系選択の決定を決断にゆだねる。例えば、『知識学への第一序論』(1797)において、フィヒテは、自我の自立性を出発点にする観念論と物の自立性を出発点にする独断論の二つの哲学体系だけが整合的な体系であるとし、その選択は、「選択意志の決断(der Entschluss der Willkuer)」によるという(SW1,433)。『新しい方法による知識学』(1797/98)でも、二つの体系をみとめ、「観念論者の体系は自己自身への信仰、あるいは自分の自立性への信仰に依拠する」(GW4-2,23)という。『道徳論の体系』でも同様の発言がある。

他方で、フィヒテは、事行を知的な直観によって知ることが出来ると考えているように思われる。しかし、もし事行が知的に直観できるのであれば、事行の主張を決断にゆだねる必要はないであろう。つまり、事行を知的に直観できるという主張と、事行を決断によって認めるしかないという主張は、矛盾する。

この矛盾は言い換えると、知の基礎付けに関する決断主義と、直観による基礎付け主義の矛盾だと言える。この矛盾を解消するために、我々はフィヒテがどのように考えていたと解釈するべきだろうか。

以下に提案するのは、「知的直観の立場」を弱めることによってこの矛盾を解決するということである。つまり、我々は、事行そのものを知的直観によっては不十分な仕方でしか捉えることができず、知的直観によって、事行の存在を証明できるわけでなない、と考えるならば、観念論の選択は、決断によらざるを得ないということになり、上の矛盾は解消するというものである。以下に、この解釈の論証を手短に行いたい。

 

2、解釈「事行を捉えるのに、知的直観では不十分である」の証明

ここでは、『知識学の第二序論』をもとにこの解釈を検討しよう。

「自我」は「自己へ還帰する働き」であり、この働きは、「直観」であるが、まだ「意識」でも「自己意識」でもない(SW1,459)といわれる。では、フィヒテはこのことをどのようにして知ったのだろうか。

 

「哲学者は上述した自我の働きを自己自身においてのみ直観することができる。そして、この働きを直観しうるためには、彼自身がこの働きを遂行しなければならない。」 (SW1,460)

 

つまり、哲学者は、自分で自己へ還帰する働きを産出し、同時にそれを直観する。そしてそれを抽象するのである。このとき、哲学者は、自分で産出した「自己へ還帰する働き」を「直観」するばかりでなく、「概念把握」(SW1,461)する。哲学者は、自己の働きを、「行為一般」として、さらには「自己へ還帰する行為」として概念把握する(Vgl.SW1,461

一般的にいって、ある対象について「これは壁だ」というように概念把握するためには、その対象が感性的直観に与えられる必要がある。それと同様に、自分の行為について概念把握するためには、その行為が直観されなければならないが、その直観を、フィヒテは「知的直観」(SW1,463)と名づける。

 この知的直観は、哲学者がおこなう知的直観として説明されたのだが、この知的直観が、行為の直観であるということから、フィヒテは、このような知的直観は、誰のどんな意識の瞬間にも現れるという。

 

「それぞれの行為において、私の自己自身の知的直観がなければ、私には歩くことも、手や足を動かすこともできない。この直観によってのみ、私は私がそれをしていることを知る。この直観よってのみ、私は私の行為を目の前にある行為の客観から区別し、この行為において私を客観から区別するのである。」(SW1, 463

 

行為の意識としての知的直観は、ここでは「誰のどんな意識の瞬間にも現れる」ものとして、述べられている。

 

 これまでの議論の道筋をまとめよう。まず、哲学者は、「自己へ還帰する働き」を知的に直観した。哲学者がおこなうこの知的直観は、哲学者が自らの行為を直観したものである。ところで、このような「行為の直観」は、哲学者に限らず、すべての意識のすべての瞬間に、その意識の一部分として存在する。そのことを哲学者は、ありふれた意識の事実から推論によって示すことができるという。フィヒテは、それを、ある行為を決意して、それを実現するときに、必要な活動的な原理として示した。

 

 自己自身へ還帰する働き=知的直観1=事行

           

      知的直観2+概念把握

     (行為の直観)

 

フィヒテは、ここで次のように述べている。

 

「哲学者が知的直観を意識の事実として見出すのは(それは哲学者にとっては事実であるが、根源的自我にとっては事行である)、直接的に彼の意識の孤立した事実としてではなく、通常の意識の中に一体化して現れるものを区別し、全体をその構成要素に分解することによってである。」465(下線は引用者)

 

哲学者は、行為する普通の意識の中に、「活動の直観」としての「知的直観」を見出したが、それは通常の意識の中に感性的直観や概念と一体化して現れている。哲学者は、そこから抽象することによって、それを取り出したのである。それを抽象して取り出して意識している哲学者にとっては、これは意識の「事実」である。では、「根源的自我にとっては事行である」とはどういう意味だろうか。通常の意識は、行為するときに、その知的直観をもっていても、そのことには気づいていない。しかしその際にもそれは行為の条件として存在しているはずである。そのような意味で理解された知的直観は、普通の意識であれ、哲学者であれ、その根底につねに存在するはずである。これが「根源的自我にとっては事行である」という意味であろう。

 哲学者は知的直観をもちいて事行を捉えようとするのだが、しかし、事行を事行として捉えることはできない。そこで、フィヒテは、行為の直観としての「知的直観」は、「事実として前提されている」にすぎず、「虚偽や欺瞞ではないかという疑惑から、この知的直観を擁護すること」が必要であり、「知的直観の実在性への信仰を確証する」必要があるという。しかも、この「知的直観の実在性への信仰」は、「観念論の出発点になっている信仰」と同じものだと言うのである。

 

「ここで事実として前提される知的直観をその可能性に従って説明すること、そしてこのように全理性の体系から説明することによって、同じく理性に基づいている独断論的な考え方との衝突が招いた、虚偽や欺瞞ではないかという疑惑から、この知的直観を擁護すること。さらには、知的直観の実在性への信仰、われわれ自身の率直な告白によれば、もちろん超越論的観念論の出発点にもなっている信仰を、一層高次の何者かによって確証すること、そして、この信仰が基づいている関心そのものを理性において証明すること、これらはまったく別の課題である。これらの課題が果たされるのは、我々の内なる道徳律を示すことによってのみである。」(SW1,466) (下線は引用者)

 

3、知的直観の不十分さの解明

(1)『知識学の新叙述の試み』(1797)での「知的直観」

知的直観で事行を捉えることが、どうして不十分になるのか。『知識学の新叙述の試み』での「知的直観」に関する記述をもとに、これをもう少し詳しく考察しよう。

 この時期のフィヒテが、普通の意識の中に働く「事行」=「知的直観」として具体的に示すのは、上に述べた「行為の直観」に加えて、もう一つは「思考の意識」としての知的直観である。思考も行為の一種であるので、思考の意識は行為の直観の一種である、と言うことも出来る。しかし、フィヒテが思考に関して、行為の直観を語る場合には、ある行為をしようと意図して、次にその行為が生じるという心的因果の説明が念頭にあるのに対して、単に「思考の意識」という場合には、ある思考を意識するということの説明が念頭にある。

フィヒテは、ありふれた対象についてのありふれた意識、例えば壁や机の意識が、知的直観によって可能になることを次のように説明している。

 

「君は何らかの対象――例えば対面する壁――を意識することによって、君がたった今認めたように、本来的にこの壁についての君の思考を意識しているのであり、かつ君がこの壁の思考を意識する限りでしか、壁の意識は可能ではない。しかし君の思考を意識するためには、君は君自身を意識しなければならない。君は君のことを意識している、と君は言う。君はそれにより必然的に、君の思考する自我と、その思考において思考されている自我とを区別する。しかし君がこれを出来るためには、その思考において思考する者が、意識の客観となりうるために、ふたたびより高次の思考の客観でなければならない。すると、君は同時に新しい主観を獲得し、この主観は以前に自己意識であったものをふたたび意識している。」( SW1, 526f.)

 

このような説明は無限に反復することになる。この困難をフィヒテは、次のように解決した。このようになってしまう理由は、「どの意識においても主観と客観は相互に切り離され、各々が別個のものとみなされる」ということにある。したがって、この主張が間違っているとすればその反対が真である。つまり「主観的なものと客観的なものとがまったく分けられず、絶対に一であり、同一であるような意識が存在する。」(SW1, 527)

 この意識は「直接的意識」であり、フィヒテはこれを「知的直観」(SW1, 530)と呼ぶ。そして、この直観は、「定立するとして自己を定立すること(ein sich Setzen als setzend)」であり、単なる定立ではないと言う。もし単なる定立であれば、定立するものと定立されるものが別のものと見なされることになる(Vgl. SW1, 529)

 以上が、フィヒテの説明である。では、我々はこの「知的直観」をどのように理解すべきだろうか。

 

(2)「知的直観」についての解釈

a、「思考の意識」における知的直観の矛盾

反省の無限遡行を食い止めると考えられている「知的直観」には、次のような矛盾があるように思われる。つまり、それは、ある特定の思考の意識であると同時に、自己内に還帰する働きでもあるという矛盾である。それが単なる主観と客観の同一の意識であり、自己内に還帰する働きならば、自己内に閉じていて、ある思考を対象とする意識にはならない。しかし、ある思考についての意識である限りにおいて、その客観は主観と区別されている。

ある思考の意識は、「私は、ある思考pを意識している」と表現できるだろう。主観-客観は「私は私を意識している」と表現できる。この二つは別のものである。これを組み合わせて、「私は、私がある思考pを意識していると、意識している」と言い換えても、相変わらず客観と主観の区別が残っている。

 

b、焦点の区別によるその解決

ところで、思考するとき、我々は心の中で文を発話している。文を発話するとき、我々は文の一部に焦点を当てる。つまり同じ文であっても、焦点の違いによって、文の意味は異なる。例えば、「私はpと考えている」という文を発話するときに、焦点が<私は>にあるならば、「(他でもなく)私がpを考えている」という意味なり、焦点が<p>にあるならば、「私は(ほかでもなく)pを考えている」の意味になり、焦点が<考えている>にあるのならば、「私はpと(他でもなく)考えている」という意味になる(日本語では、「は」と「が」の区別が焦点の位置と関連するために、全く同じ文とならない場合がある)。発話の場合には、常にいずれかに焦点があり、同時に複数の焦点をもって発話を理解することは出来ない。それはゲシュタルト心理学において、同一の絵を同時に異なる二つのゲシュタルトで知覚することが出来ないのと同様である。思考には常に一定の焦点が伴っている。

さて、「私は<机を見ている>ことを意識する」と思考し、次に「<私が>机を見ていることを意識する」と思考するとしよう。これらは同じ命題内容をもつ思考であるが、焦点の異なる思考である。しかし、後者の思考は、前者の思考についてのメタレベルの思考ではない。  

もし、私が、この二つの思考を同時に行うことが出来れば、前者によってある客観の意識が行われ、後者によって、主観-客観の意識が行われることになる。もし、上述の知的直観が、この二つの思考を同時に行うようなものであるとすれば、「思考の意識」の説明になるだろう。そのためには、知的直観は、「私は、机を見ていることとして私を意識する」というようなals構造を持ち、しかも思考とは違って焦点の区別をもたないものでなければならない。フィヒテ自身は、知的直観が「措定することとして、自己を措定する」というals構造をもつと述べていた。

フィヒテが言うように「思考の意識」を説明するに「知的直観」が必要だとすると、それはこのようなものになるだろう。このような知的直観は、本当にあるのだろうか。それを、我々はどうやって知ることが出来るのだろうか。

もし、知的直観について知ることが出来るためには、それについて語ることが出来なければならないとすれば、それは次のような理由で不可能である。

 

(3)知的直観と言語

a、「私」

「私」や「事行」について語ることができないということは、『道徳論の体系』での次の発言からも明らかである。『道徳論の体系』(1798)において、フィヒテは次のように述べている。

 

「私に向かって「私」と言い得るためには、私は(私において存在と知とを)分離するよう強要されている。しかし、私がこれを言うことによって、また私がこれを言うときに限って、その分離が生ずるのである。分離される一なるもの、したがって一切の意識の根底にあって、それにのっとって主観的なものと客観的なものとが、意識内で一として措定されるところのものは、絶対的に=Xであり、単純なものとしては如何ようにも意識に登ることはできない。」(SWIV, 5)

 

私が「私」と語ることによって、知と存在の分離が生じるというのは、次のような意味である。「私は私自身を措定する」と語るとき、私はこれを思考している。つまり、私についての

命題知が生まれている。この知は、私の存在とは別のものである。私の存在についての思想である。「第一根本命題」について語るときにも、フィヒテは常に慎重に「事行」の「表現(Ausdruck)」とか「叙述する(darstellen)」と述べていた。「第一根本命題」においても、すでに存在と知の分離が生じているはずである。

 

b、「私」と語ることによる存在と知の分離

フィヒテにとって、語ることは、思考することであり、思考することは概念把握することであり、概念把握は、あるものを他のものと区別することである。「私」と語ることは、私を私以外のものから区別することである。この区別は、一般的には、知と存在の区別と言われる。

 私の概念把握に限らず、すべての概念把握において知と存在は、分離している。しかし他方でフィヒテが、「私」と「語ることによって」分離が生じる、と言うのみならず、「私」と「語るときにのみ」分離が生じるのだとすれば、すべての概念把握において常に同時に「私」が語られていることになる。もちろん、それは心の中で語られ、考えられているということであろう。その内容は、「私が、・・・と考える(表象する、意識する)」ということである。

 全ての私の思考には「私が、・・・と考える」ということが伴っている。そのことは、全ての思考が、事行を前提していることを示していると共に、全ての思考が、事行において統一している知と存在の分離であることも示している、ということになる。

 

事行がフィヒテ哲学の原理であるが、それを概念把握するためには、それを知的直観によって捉えるとともに、知的直観によって捉えられた事行を、言語によって表現する必要がある。しかしまた、それは原理的に拒まれているように思われる。

 

ところで、「私は存在する」と語ることによって、語る私と語られている私の分離が生じるのだが、しかし他方で、語る私は、語る前から存在するのではなくて、「私は存在する」と語ることによって始めて存在することになる。フィヒテは、『知識学の新叙述の試み』において同様のことを「君」について述べている。君が「君」と呼ばれて、それを理解するとき、君に「事行」が生まれるのである。

 

「君を思考せよ、と私が君に言い、そして君が「君を」というその語を理解したとおりに、理解する作用そのものにおいて、君は自己内に還帰する働きを遂行したのであるが、この働きによって自我の思考内容は、君がそれに殊更注意を払うことがなかったためにそれと知られなかったとはいえ、成立しているのである。」(SW1, 533

 

事行の統一は、「私」と語るときに失われるのだが、しかし個人的自己意識は、「私」と語ることによって、また「君」という呼びかけを理解することによって成立する。ここにおいて、「事行」と個人的自己意識の区別が、明らかになる。このことは、フィヒテが、個人を超えた知の分析へ向かう理由の一つになるだろう。(他の理由は、他者論と道徳論にあるだろう。)

 

 

第3節 決断主義の放棄、知の理論としての知識学

 

『新しい方法による知識学』でも、知識学は、自我の考察から出発する。これが変化するのは、『知識学の叙述』1801からである。ここでは、知識学は、学問の理論ではなく、むしろ「知の知」とか「知の理論」と説明される。そして、「絶対知」の考察から出発する。彼は、『知識学の叙述』29節において観念論と実在論の対立に触れるが、そこではもはや信仰によって知識学を基礎づけようとはしていない。彼は『人間の使命』(1800)では「信仰」(=知を妥当させる決断)による立場の選択を考えていたのだが、『知識学の叙述』1801年以後は決断による観念論の選択を主張しなくなる。なぜこのように変化したのだろうか。

 その理由は二つ考えられる。一つの理由は、決断を行うとされる個人が、ここでは本来的な知の担い手ではなくなっているということである。上に述べたように、事行と個人の自己意識との区別がはっきりすることによって、知識学は、個人の自我からでなく、個人を越えた知としての「絶対知」から出発することになる。そして、個人的自我は、「理性的存在者の体系」の中で存立することが明言されるようになり、個人の自由もまた「普遍的自由」の内部でのみ成立するのである(SW2,143)。したがって、個人の決断もまた「理性的存在者の体系」の中で可能になるのである。個人の決断がこのようなものであるとき、絶対知を捉えるために重要なのは、個人の決断より、むしろ決断の放棄ないし個人の自立性の放棄になるだろう(もっともフィヒテはこのように明言してはいない)。

もう一つの理由は、『知識学の叙述』32節で述べているように、フィヒテは、スピノザとおなじく、絶対的実体を認めるようになるということである。つまり、『知識学の第一序論』では、観念論と実在論には共通するところが、「一点もなく」、それゆえに互いに議論することが不可能であった。しかし今やフィヒテは、スピノザとの間に、絶対的実体を認めるという共通点を持つ。両者の間には、共通点がある。もちろん、共通点が少しでもあれば、それを出発点にして、論争が可能であり、それによって、どちらの体系が正しいかを必ず理論的に決定できるとは限らない。しかし、理性的な討論による決着の可能性は生まれたといえる。

 以上の二つの理由で、フィヒテは、決断主義を取らなくなるのだと思われる。

ところで、上述のように『知識学の叙述』から、知識学は、自我の探求ではなく、個人を越えた絶対知の探求へ向かうことになる。そこでは、絶対知の考察と、我々がどのようにしてその絶対知を知りうるのか、と言うことが、最重要の課題になる。このような絶対知から説明される「普遍的な知」や「普遍的な知覚」や「普遍的な思考」についての議論は、現代の「共有知」をめぐる議論との関係において、非常に興味深いものである。そこで、後期になって、明確に描かれるようになる「諸自我」および「普遍的思考」の議論を紹介しておきたい。

 

第4節 「意識の事実」(1810) における諸自我と普遍的思考

 

1、「意識の事実」とは何か

「意識の事実」1810 (日本語全集、19巻、藤沢訳)SW版 Bd.2S.535-691とは、「知識学」の準備として行われた講義の草稿であり、そこでは知識学を前提せずに、議論が行われている。(ただし、「意識の事実」(1813)は、「論理学の超越論的論理学あるいは哲学に対する関係について」 を前提しており、それによって獲得された「観念論的な基礎(idealistische Grundlage)」 を前提に議論が行われている。)

「意識の事実」(1810)は、「第一部、理論的能力への関係における意識の諸事実」「第二部、実践的能力への関係における意識の諸事実」「第三部、高次の能力について」の三段階からなっている。「意識の事実」は、このような三段階における「生の発展の自然史(eine Naturegeschichte der Entwicklung deises Lebens)」 (SW2-684)である。

 

2、「意識の事実」(1810)における諸自我

まず彼は、感覚について次のように語る。

「私がこの花を赤いものとして知覚するのは、私の見ることが、とくに、私の色を見ることが、この規定された色を見ることへと制約されていることである。」

つまり、「外的知覚は、外官の規定された制約の自己直観である」といわれる。そこでは、まだ外的な対象は成立していない。直接的な直観においては、まだ直観されるものと直観する者の区別は意識されていない。これに思考が加わり、思考が直観されるものを客観化し、主観との対立において措定する。フィヒテは、これを「直観からの脱出(Herausgehen)」(SWII, 545)と呼んでいる。「思考とは、措定することであり、しかも反対のものに対して措定することである。」それゆえに、ここに客観と自我の対立が措定される。

 

■「普遍的思考」による自我と客体の産出

この思考について「私が、思考する」とは言えない。なぜなら、自我は、この思考を反省することによって、初めて生じるからである。なぜなら、この思考への反省によって初めて、自我が現れるからである。むしろ、「思考は自立的な生として、自ら自らによって思考する。思考は、この客観化する思考である。」といわねばならない548。「私がこの思考を考える」と言うことは出来ず、「思考自身、普遍的で自立的な思考が、客観を思考する」といわなければならない。

 

「ここで現れる思考によって、自我が考えられる。これによって初めて、自我の存在が思考に与えられる。自我は、その存在の前に思考することはない。」

「自我は、外的な客観と同様に、普遍的な思考の産物である。自我はこの思考によって与えられ、外的客観が与えられるのと同様である。」(SWII, 562)

 

■普遍的思考が、他の諸自我と自我を思考する

普遍的思考は、私の自我を措定したのと同様にして、他の複数の自我を措定する。これは、唯一の生の視点から見れば、生が分裂するということである。

 

「あの唯一なる生が、本質的に互いに同等であるとされるいくつかの生へと公然と分裂する。したがって、いくつかの生が確証されるなら、あの一なる生はいくつかの形式のうちで反復され、何回も措定されることになるわけである。」(SWII, 601)

 

ところで、このような諸自我についても、外的な対象の場合と同様に、「私が、他の諸自我を考える(考えることによって、生み出す)」ということはできず、むしろ「普遍的で絶対的な思考が、他の諸自我と私自身を思考する(思考することによって、生み出す)」(SWII, 603)

と語るべきである、といわれる。

 

■諸自我の関係

これらの個人は分離している。なぜなら、個人は、他の個人の内部を見ることが出来ないからである。

「というのも、それぞれの直観は、相手からは直観されるのではなく、思考されるだけだからである。」(SWII, 604)

逆に言うと、

「このように諸個体を分離するさいの規定根拠は、直接的な内的直観の領域が別個になっている、ということである。」(SWII, 610

「もろもろの個体として個体は、何らの連関もなしに端的に切り離された、それだけで存立している個別的な諸世界である」(SWII, 606)

 

では、彼らはどのようにして関係しうるのだろうか。

 

「内的直観こそが、一を廃棄する際の媒体なのだから、一の回復は、この媒体からの脱出によって、この媒体とは反対のもの、つまり思考によって、行われねばならない。この思考は、根源的な絶対的一の表現であるから、根源的思考であろう。」(SWII, 606)

 

一つの生は、内的直観において分離しているのだが、そのことはまだ反省されていない。それを思考が客観化することによって、諸自我が生まれる。根源的思考は、外的な客体とともに、自我を措定したのであった(SWII, 462)が、これと同時に、他の自我も措定する。個人が、他者を措定するのではなくて、根源的思惟の中で、私と他者が措定されるのである。

 

ここで、イエナ期の他者論との違いを確認しておきたい。イエナ期には、自己意識の成立を説明するために、最初の自己意識の成立には、他者からの促しが必要であることが演繹された。この議論でも、自我と他者は、同時に措定されることになる。しかし、その措定を行うのは、個人としての自我である。そこに根源的思惟が働いているというような発想はなかった。

 

■「絶対的思考」608ないし「普遍的思考」609は、「諸個人の共同体」を必然的に思考する608

 

「個人である私が、他の諸個人を考えるように、これらの諸個人が再び私を考える。私が考えるのと同じだけの多くの個人が、また私を考える。従って、すべての個人が、同じ共同体、諸自我の同じ体系を考える。・・・各人は、自己自身のみならず、すべての他者を、絶対的に根源的な思考によって考える。」(SWII, 608)

 

 

普遍的な思考は、共同体を可能にするその基底的な条件であって、共同体を「必然的に思考する」とされる。しかし、フィヒテは、<普遍的思考は、共同体を考える>とはいうが、<共同体が考える>とは言わない。なぜだろうか。共同体は、経験的に常に限定されたものとして与えられているということがある。それに対して、この普遍的思考はアプリオリで無限に開かれたものだからであろう。共同体を主体として考えない点が、ヘーゲルと異なる点である。

 

3、唯物論と観念論的個人主義への批判

 フィヒテは、このような普遍的な思考を考えなければ、私の表象と他者の表象が一致することを説明できないと指摘して、唯物論と観念論的個人主義では、これを説明できないと批判する。

 

(1)唯物論への批判

唯物論者は、「我々の表象の根拠」として、物が存在すると考える(SWII, 624)。 フィヒテは、唯物論ならば、外的対象についての私の表象と他者の表象が一致することを、「物自体と、物自体がその存在に応じて作り出す印象とにもとづいて説明することができる」(SWII, 625)という利点を認める。

しかし、この唯物論に対して、フィヒテは、物がどうやって表象を生み出すのかを説明していないと批判する。

 

「物が、物とは本質的に異なる像に対して、物から切り離された物とは本質的に異なっている力に、どうやってなる事が出来るというのだろうか。この点について君達は、理解できる言葉を申し述べたことは一度もなかったし、そうした言葉をいつか申し述べることができるようになるわけでもない」(SWII, 624)

 

また、唯物論は、私が他の理性的存在者の表象をどのようにして持つことができるのかを説明できないという点も、批判する。

 

「唯物論者は、自分の外なる他の理性的存在者についての表象を説明することは決して出来ない。というのも、徹頭徹尾超感性的なものである一個の自我、という像を生じさせるのは、いったい感性的客観のどのような印象だというのであろうか。」(SWII, 625、訳129)

 

(2)観念論的個人主義への批判

 フィヒテは、唯物論を批判して観念論をとるのだが、しかしその観念論は、「観念論的個人主義」ではないという。

 「観念論的個人主義」とは、次のような立場である。観念論ならば、「空間は私の直観の形式であり、空間の中にあるものは、私の直観として簡単に導き出せるだろう」((SWII, 625)と言うだろう。このときの「私」を個人である「私」と考えるのが、「観念論的個人主義である。

この観念論的個人主義をフィヒテは次のように批判する。このような観念論的個人主義者が、「空間が直観の形式であることを、君はどのようにして知るのか」と問われたならば、彼は「直接的な内的自己直観によって」と答えるだろう。そして、この内的自己直観がまたしもて、個人的意識であるとすると、それは彼にしか妥当しない。つまり、どこまでいっても彼個人の意識であって、「空間が他の諸個人の直観の形式でもある」ことを示すことは出来ない。つまり、観念論的個人主義に立つ限り、空間形式を他者と共有していることは、彼が直観できることではなくて、彼が想像していることに過ぎない。

 

(3)知識学の立場

  フィヒテは、これまで哲学が説明しようとしてきた意識はつねに、「個人的主観の意識」(SWII, 624)であった。そして「だれもが、知識学もまた個人主義であると見なした」(SWII, 624)と言う。しかし、知識学は、「あらゆる個体性を自己自身のうちに含み止揚している生の意識」(SWII, 624)を説明するのだと言う。

 この発言によるならば、第一根本命題における主語の位置にある「自我」は、普遍的思考であり、個人としての自我ではない、ということになる。

 

「個人ではなく、唯一なる直接的な精神的生それ自身こそが、一切の現象の創造者であり、したがってまた、現象する個人の創造者なのである。だから知識学は、この点をきわめて厳密に解して、この唯一なる生を、なんらの基体もなしに純粋に思考するよう要求する。理性、普遍的思考、知そのものは、個人よりも高次で大なるものである。いかなる理性といえども、個体がその偶有性として所有しているような理性として自己を思考することはできない。」(SWII, 607、訳109

 

「知識学の以前の諸命題がさらされてきた多くの誤解に抗議する意味で述べておくが――いかなる個体も、自分と同類の存在者を、自分自身のうちで、その自己直観のうちで直観するわけではなくて、唯一なる生の直接的直観のうちで直観するのである。」(SWII, 668、訳179)

 

 

       第5節 結びに代えて

 

「知識学」(1813)においてフィヒテは、次のように述べている。

 

「このような知識学とこのような意識が可能であるということの外的な証明は存在しない。なぜなら、このような証明は無論、知識学の上に知識学の映像を定立するようなものだろうから。むしろ、証明は、事実そのものを通じてのみ導かれうるのである。かくして知識学は、自己の存在の証明を、知識学に帰依する人によってのみなしうるのである」(SWX,6)

 

フィヒテは、決断による観念論の選択を語ることはなくなったが、しかし、それは知識学を証明できるようになったということではない。事行や絶対知や知的直観は、主観と客観の統一という性格上、最後までそれを証明することができないはもちろん、それを命題として把握することもできないものであった。それゆえにこそ、またフィヒテは「知識学」を何度も書き直して、より適切に表現しようとしつづけることになったのだといえる。


付録1:フィヒテの学問体系構想

(a)『知識学の概念』での学問区分構想

1、論理学   

2 知識学:A知識学への批判:「知識学の概念」

B知識学:a理論的

     b実践的

3、特殊的学問

A幾何学、

B自然科学

 

(b)『新しい方法による知識学』(1797)での学問区分構想

1、哲学:A知識学:a普遍的学問

          b特殊的学問:①認識の知識学

                  ②倫理学

                  ③要請の哲学:法学

                        宗教学

     B実用的部分:a教育学

            b美学

2、哲学でないもの:論理学

 

(c)後期における構想

1、知識学への準備

1810年段階:「意識の事実」

1813年段階:「論理学の哲学ないし超越論的論理学に対する関係」

        +「意識の事実」

2、知識学

3、知識学の応用としての特殊な哲学的諸学問、

(数学の哲学、自然哲学、法論、道徳論、宗教論、)

4、媒介的な学問(政治学、禁欲論)

4、通俗的な著作(政治的著作、学者の使命、人間の使命、浄福なる生への示教、現代の根本特徴、)

 


付録2:フィヒテの教育論

■教育に関するフィヒテのテクスト

1、「オット家の子供達の教育に関する日誌」1789、邦訳全集、22巻

2、“Aphorisimen ueber aus dem Jahre 1804”「教育に関する箴言 1804年」邦訳全集、22巻、FW8

3、「ベルリンに設立予定の高等教育施設の演繹的プラン」18071817年出版)邦訳全集22巻、FW8

4、『ドイツ国民に告ぐ』1808

5、「学者の使命」

 

■「教育に関する箴言」(1804)の内容

 これは息子の教育についての意見をまとめたもの。

1、教育の定義

「一人の人間を教育するということは、彼が自己の全能力の完全な主人、完全な支配者となる機会をかれに与えるということを意味する。全能力の、と私がいうのは、人間の能力は唯一であり、相互連関的な一全体だからである。」訳67

2、成熟前の子供に教えるべきもの

  古典語、数学(ユークリッド幾何学、算数)、図法、音楽、体育(歴史、近代語)

3、成熟前の子供に教えるべきでないもの

哲学、道徳、宗教

 

■フィヒテの大学教育論

「ベルリンに設立予定の高等教育施設の演繹的プラン」18071817年出版)邦訳全集22巻、FW8

 

①学校の区分

「下級学問学校」=「単なる理解力あるいは記憶力としての学問的悟性使用の技法学校」

「上級学問学校」=「価値判断能力としての悟性使用の技法学校」(103、邦訳215)

 

②大学の教科

学問全体の哲学的エンチクロペディーと個別のエンチクロペディーに従うべきである。

 哲学、語学(文献学)、数学、歴史学、自然科学

上級三学部:神学、法学、医学

 


付録3:フィヒテの主要著作リスト    

 

知識学 / その応用

 

     『あらゆる啓示の批判の試み』1792

     『フランス革命に対する公衆の判断を是正するための寄与』1793

     『思想の自由の返還要求』1793

 

『知識学の概念について』初版1794,第二版1798

『全知識学の基礎』初版1794、第二版1802

           「学者の使命に関する講義」1794

『知識学に固有なものの要綱』初版1795、第二版1802

「知識学の第一序論」1797『哲学雑誌』

「知識学の第二序論」1797『哲学雑誌』

「知識学の新しい叙述の試み」1797『哲学雑誌』

     『自然法の基礎』前編1796.後編97

     『道徳論の体系』1798

     「神的世界支配についての我々の信仰の根拠について」1798

「あたらしい方法による知識学」1798

フィヒテは3回(1796/97WSと1797/98WSと1798/99WS)「新方法」の講義を行った。「ハレ手稿」(アカデミー版)は、どの年のものか判らない。「クラウゼ手稿」は、1978/99WSのものである。

 

 <<無神論論争>>

          『封鎖商業国家論』1800

     『人間の使命』1800

「知識学の叙述」1801

「知識学」第一講義1804

「知識学」第二講義1804

「知識学」第三講義1804

          「現代の諸特徴」1804

「知識学」1805

     「学者の本質について」1805

     『浄福な生への指教』1806

     『ドイツ国民に告ぐ』(講演1807、出版1808

 

「意識の事実」1810

「知識学概略」1810

     「学者の使命に関する講義」1811

「知識学」1811(邦訳全集、第23巻、隈元訳)

「知識学」1812(邦訳全集19巻、藤沢訳)

 

「哲学あるいは超越論的論理学に対する論理学の関係について」1812

     「法論の体系」1812       

     「道徳論の体系」1812     

「知識学への入門講義」1813

     「意識の事実」1813

「知識学」1813

「意識の事実」1813

     「国家論」1813

     「真実の戦争の概念について」1813

「知識学」1814

 

 


付録4:ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte)の年賦

 

1762519日 in Dorf Rammenau in der sächsischen Lausitz geboren.

フィヒテが9歳のとき、Freiherr von Miltitz が知人を訪ねるために村にやってきて、牧師の話を聞き逃したことを残念がると、フィヒテ少年が牧師の説教を覚えているということで、フィヒテの才能を見出すことになる。彼は、フィヒテをつれて帰り、Niederauの牧師のもとに住まわせる。12歳からフィヒテは、MeissenStatdschuleに通う。

1774年(12) Schulpforta(ギムナジウム)に入学

1780年(18) イエナ大学神学部に入学

1781年(19) ライプチヒ大学に転学

1788年(26) スイス、チューリッヒのオット家の家庭教師

1790年(28) ライプチヒでカント哲学を個人教授

1791年(29) ラメナウによった後、6月始めにワルシャワに入る。

         7月1日にケーヒヒスベルクに入る。

         カントを訪問し、カントの講義を聞く。

         7月半ばから8月半ばまで、『あらゆる啓示の批判の試み』を執筆する。

カントに送り、後日訪問する。

         

1793年の春まで、1年半、Obersten Grafen in Krocow の家ですごす。

 

1792年(30) Ostermesse に『あらゆる啓示の批判の試み』出版。

         Reinhold も、Jenaer Literatur Zeitungも著者をカントだとみなした。

         そこで、Kantは7月末に、著者がフィヒテであると公表する。

1793年(31) 3月はじめに、Zurichへの旅を始める。

途中、Berlin, LeibzigStuttgart, Tubingen. による。

         6月半ばにZurichに到着。

      『フランス革命に対する公衆の判断を是正するための寄与』(Krockowから)

      『これまで抑圧してきたヨーロッパの諸君主からの思想の自由の返還要求』(Zurichからを匿名出版

            ヨアンナ=ラーン(詩人クロプシュトックの義弟の娘)と結婚

1794年(32) イエナ大学に助教授として赴任。

            『学者の使命に関する講義』と『全知識学の基礎』を出版

1796年(34) 『自然法の基礎』出版

フィヒテは3回(1796/97WSと1797/98WSと1798/99WS)「新方法」の講義を行った。

「ハレ手稿」(アカデミー版)は、どの年のものか変わらない。「クラウゼ手稿」は、1978/99WSのものである。

1797年(35) 雑誌論文「知識学への第一序論」「知識学への第二序論」

1798年(36) 『道徳論の体系』

            論文「神的世界支配に対する我々の信仰の根拠について」

1799年(37) 「無神論論争」によりイエナ大学を辞職。7月ベルリンに赴く。

1800年(38) 『人間の使命』『封鎖商業国家』出版

1801年(39) 『知識学の叙述』(生前未公刊)

1802年(40) シェリングからの手紙で断絶

1804年(42) 私的講義『現代の諸特徴』(1806出版)

1805年(43) エアランゲン大学教授に就任。

      公開講義『学者の本質について』(1806出版)

1806年(44) 『浄福な生への指教』出版

      ベルリンがナポレオン軍に占領され、1018日ケーニヒスベルクへ避難

1807年(45) ケーニヒスベルク大学教授となるも講義せず。

      ケーヒスベルクも仏軍に占領され、8月ベルリンに帰る。

ベルリン大学開設に関して建白書提出。

      12月より翌年3月まで、『ドイツ国民につぐ』を講演(1808年出版)

1810年(48) 『知識学、その一般的な輪郭の叙述』出版

      ベルリン大学教授に就任。哲学部長に任命。

1811年(49) 学長に選出される。       

1814年1月27日(51歳) チフスの兵士の看護で感染した夫人の看護で感染して死亡。