01 推論は、問いに答えるプロセスである(20200331)

 通常の論理学では、推論は、問いは前提にも結論にも含まれません。しかし、現実に推論が行われるのは、問いの答えを求めるためです。

 推論は、ある命題から別の命題を導出することです。三段論法の有名な例は次です。

   ソクラテスは人間である。

   人間は死すべきものである。

   ∴ソクラテスは死すべきものである。

この推論が妥当であるとは、前提が真であるならば、結論が常に真となる、ということです。

 ところで、この二つの前提が真であるとき、常に真となる命題は「ソクラテスは死すべきものである」には限りません。他にも次のようなものがこの二つの前提から論理的に帰結します。

   不死なるものは、ソクラテスではない

   ある不死なるものは、ソクラテスではない

   人間でないものは、ソクラテスではない

   不死なるものは、人間ではない

最後の二つは、前提の内の一つしか使っていないのですが、しかしこれらも、この二つの前提から導出されることには違いありません。

 また次のような結論も考えられます。

 ソクラテスは人間であり、かつ、人間は死すべきものである。 

 ソクラテスは人間であり、かつ、ソクラテスは死すべきものである。

これらの結論は冗長であり、新しい情報をもたらさないという反論があるかもしれませんが、しかし二つの前提から導出されることには違いありません。

 どのような推論でも、前提が真であるときに、そこから論理的に帰結する結論は多数あります。しかし、私たちが現実に推論するときには、前提から一つの結論を導出しています。つまり、結論となりうる可能な命題から一つを選択しているのです。この選択はどのように行われているのでしょうか。

 私たちが推論するのはどのような場合でしょうか。それは問題を解決しようとする場合ではないでしょうか。問題を解決するために推論するのだとすると、推論は問いの答えもとめるプロセスです。推論の結論は、問いの答えでなければなりません。推論の可能な結論の中から、問いの答えとなりうる命題が、結論として選択されるのです。

 上の例では、「ソクラテスは不死ですか?」あるいは「ソクラテスは死すべきものですか?」という問いの答えとして、推論が行われるので、結論として「ソクラテスは死すべきものです」が選ばれるのです。

 ところで、対象が推論構造を持つ、あるいは対象が推論によって構成されている、と考える立場を「推論主義」と呼んでよいでしょう。ヘーゲルは、全てのものが、とりわけ社会が推論構造を持つと考えました。言い換えると、ヘーゲルにとっては、存在するということは、推論構造をもつということだったのです。このような立場を「存在論的推論主義」と呼んでもよいでしょう。デューイは、ヘーゲルの影響を受けて、全ての認識が推論構造を持つと主張しましたが、これを「認識論的推論主義」と呼んでもよいでしょう。ブランダムは、発話の意味を理解するとは、その発話の推論関係を理解することであると主張しました。これを、ブランダム自身は「推論的意味論」と呼んでいますが、「意味論的推論主義」と呼んでもよいでしょう。

 これらの様々な領域での推論主義を、問答推論主義へと転換することが、このカテゴリーでの目標です。