病気としての悪

紅葉の始まる山の中です。紅葉のはじまりは、山の中ではFallの始まりです。まるで雨のように、一日中、ハラハラ、ハラハラと松葉などの木ノ葉が落ち続けます。
 
もし「物理主義の世界」の中で、道徳や法が成り立つのだとすると、そのとき、それに対する侵犯である「悪」は、人間の自由な意志の所産ではありません。それにもかかわらず、それが排除されるべき行為として理解されているのだとすると、それは「病気」として理解されているのかもしれません。
 
これは「物理主義の世界」において、「悪」が成立する場合の、一つの有力な可能性です。というわけで、悪を病気として理解することが、果たして整合的であるかどうかは、検討に値するでしょう。
 
しかし、どうも、このところ、このテーマに気が乗らないのです。
私としては、できれば物理主義を批判して、自由の可能性を追求してみたいと考えているということも、気が乗らない理由の一つなのですが、もう一つは、自分が納得していない物理主義を前提して考えることに、少し飽きてきたということがあります。
 
そこで、「病気としての悪」を考える前に、人格について考えてみたいと思います。たとえ物理主義を採用するにしても、道徳や法が成立するのなら、そこでは人格も成立しているはずです。したがって、「病気としての悪」をかんがえるためにも、「人格とは何か」を考えておく必要があるでしょう。
 
この問題については、すでに書庫「人格とは何か」で少し論じました。しかし、そこでは、明確な人格論を提案できていません。そこで、もう一度それを試みたいとおもいます。
 
という訳で、新しい書庫「問答としての人格」を始めます。
 
そのあとで、また「病としての悪」に戻ることにします。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

さあ、仕切り直しです

 
                  海の中のような森の中
 
 
決定論を理解できないというストローソンの主張への批判は、とりあえず前回で終わりました。
 
最初の問題に戻りたいとおもいます。
つまり「物理主義の世界」で道徳や法は可能だろうか、という問題です。
 
仮に、ストローソンの主張、(道徳的な)怒りと物理主義は両立しないを受け入れたとしましょう。しかし、そのときそこから帰結するのは、<物理主義は理解できない>という選択肢だけではありませんでした。もう一つの選択肢は、<道徳的な怒りは理解できないという物理主義者の主張>です。
 
そうすると、問題は、「怒りがなくても、道徳や法律は成立するのか」と言うことになります。この物理主義者は、<我々は、不道徳な行為に怒りを感じるかもしれないが、その時には、その怒りを幻想的な「擬人化」によるものだと反省して、消去する>と主張することになるでしょう。
 
このとき、(すこし論理的な飛躍がありますが)次の可能性を考えてみたいと思います。それは、「悪は病気の一種である」と考えるという可能性です。
 
ここから、仕切り直しです。
 
 

私たちは人間を「擬人化」しているのか

窓からの眺めが水槽の水草の眺めに似ていることに、最近気がつきました。
地球の表面は、水の中も陸上も緑の世界だったのかもしれません。
 
 
 ストローソンの主張は、次のようなものでした(以下は私の勝手なまとめです)
<人間は、他者の振る舞いに対して怒ることがあるが、自然現象に対しては、怒らない。したがって、他者に対して怒ることと、他者を自然現象と考えることは両立しない。したがって、他者を自然現象として考えるということが、どういうことなのか、理解できない>
 
これに対する反論として、前々回に挙げたのが、以下の二点でした。
①動物や家具に対して怒るときがある。
②動物や家具に刑罰を与えることもある
 
①に対するストローソンからの批判としては、次の二つないし三つが予想できます。
(i)怒りの種類を分けるべきだ:動物や家具に対する怒りと人間に対する怒りはことなる。前者の怒りは自然現象に向けられるが、後者の怒りは自然現象には向けられない。したがって、人間を自然現象と見なすことは、理解できない。
(ii)動物や家具に対する怒りは擬人化にもとづく:動物や家具を自然現象と考えているときには、それに対して怒ることはありえない。
(iii)上記二つの批判は、両立可能であるので、場合によって両方を使い分けて用いることもできる:動物に対して、思わず生理的に(?)怒りを感じるときもあるが、そうでない怒りを感じるときもある。そうでない怒りの時には、動物を擬人化している。
 
さて、このようなストローソンに対して、どのように批判することができるでしょうか。
 
物理主義者ならば、つぎのように批判するかもしれません。
<ストローソンの主張:≪人間は、他者の振る舞いに対して怒ることがあるが、自然現象に対しては、怒らない。したがって、他者に対して怒ることと、他者を自然現象と考えることは両立しない。したがって、他者を自然現象として考えるということが、どういうことなのか、理解できない≫の最初の二つの文章を認めて、そこから次の文を導出することも可能である。<したがって、他者に対して怒るということがどういうことか理解できない>。
ストローソンも、動物に対して思わず怒ることがあるだろう。そのとき、彼は動物を擬人化していたと反省して、動物に対する怒りを不合理な振る舞いだったと考えて、撤回するのだろう。
私は、それと同じことを人間に対しても行う。私は人間に対して思わず怒ることがある。その時私は人間を「擬人化」していたのだと反省して、人間に対する怒りを不合理なふるまいだったと考えて、撤回する。
この場合の「擬人化」とは、人間に対するある種の幻想化である。それはよく考えようとしても理解できない幻想である。>
 
このような物理主義者は、他者への怒りを認めず、おそらく刑罰も、自由も認めないでしょう。
 
これで、ストローソンの検討をいったん、終わりたいと思います。なぜなら、このような物理主義者の批判を(同意でなく)理解できるとすれば、ストローソンの、そもそもの批判、物理主義を理解できない、という批判は、回避できるからです。つまり、「物理主義の世界」で道徳や法は可能になるのか、という問題設定は、理解できることになるからです。