仕切り直しに向けて

 
別府の白池地獄です。初夏のような日差しでした。
 
考えあぐねているうちに、ご無沙汰してしまいました。
人格をめぐる議論は、多様でかつ膨大なのでどんな風にアプローチすべきが考えているうちに、いつのまにか白池地獄の中に落ち込んでしまったかのようです。
 
人格が実体として存在する、と考えるのは難しいという結論でした。
しかし他方で人格がやはり何らかの仕方で存在するのだとすると、とりあえず思いつくことは、人格は構成されている、と考えることでした。このときの問題は、何が人格を構成するのかです。とりあえず思いつくのは、以下のようなものです。
①人格は経験的なものであるので、それを構成するのは経験的でない超越論的な意識である。物的でも心的でもないセンスデータが存在するとして、それらから物的対象や人格を構成するのは、「超越論的な意識」である。しかし、この場合にはこの超越論的意識がもし個人的なものだとすると、実体としての人格を認めることになってしまいそうです。
 
②人格は、言語ないし理論によって構成される。ストローソンは、我々の言語を分析して、それが物体と人格の存在を想定していることを指摘しました。彼はこのような形而上学を、我々の言語が想定している存在論を記述しているという意味で、記述的形而上学と呼びました。これは、我々の言語使用が成り立つための超越論的な条件として物体と人格の存在を論証した「超越論的論証」でした。討議倫理学でも、討議が成立するための超越論的な条件として人格の存在を論証するのではないかと思われます。或る意味では、討議論理学も、人格は言語によって構成されると考えているといえるかもしれません。これらは「経験的な構成」と区別して「超越論的構成」と呼べるかもしれません。
 
③人格は、社会的に構成される。これは②の言語的なコミュニケーションにかぎらず、言語や行為や物を介するコミュニケーションないし社会的相互行為によって人格が構成されると考える立場になるでしょうか。
 
雇用契約を結ぶ人格について考えるときに、適切なのは①②③のどれでしょうか。それとも、これらとは別のものでしょうか。
 
 
 
 
 

誰が人格を構成するのか

 
残念ながら、カヌーに乗っているのは私ではありません。
来年の連休はカヌーに乗っていたいものです。
5月の自然湖でした。
 
 
さて、人格は実体として存在しているのではなくて、構成されているのだとしよう。
では、その構成はどのように行われるのだろうか。
 
 
エイヤーは『言語・真理・論理』(吉田夏彦訳、岩波書店)で「自己」を「感覚-経験からの論理的構成」(p. 160)されたものであると考える。その構成は次のようにして行なわれる。
 
「我々が自己の本質を尋ねる場合、我々が尋ねているのは《もろもろの感覚-経験が同一の自己に属するためには、どんな関係がそれらの感覚-経験の間に成立しなくてはならないか》ということなのである。この問に対する答えは、《二個の感覚-経験が同一の自己に属するための必要にして十分な条件は、それらが同一の身体の要素である有機的な感覚-内容を含む》ということである。」(p. 160)
 
では、この構成は誰が行なうのだろうか、それともそれは自然に生じるのだろうか。エイヤーにとって、物的な対象も他者も自己も「感覚-経験からの論理的構成」であるが、物的な対象と他者を構成するのは、私であるように思われる。
 
「私は、《私は物質的な事物の存在を信ずるのに十分な理由をもっているのと同じ程度に、また他の人々の存在を信ずるのに十分な理由をもっている》ことを知るのである。なぜなら、どちらの場合にも私の仮定は、私の感覚-史に適当な感覚-内容の系列があらわれるという事実によって検証されるからである。」(p.168
 

 
私が、物や他者を感覚-経験から構成するのだとすると、自己を構成するのも私であろう。しかし、自己を構成する私は、自己の構成以前に存在していなければならない。そのような私もまた構成されたものでしかないとすると、説明は循環してしまう。これをどう考えればよいのだろうか。